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2020年4月21日火曜日

自分で目標を決め、方策を考え決定を下し実現してゆくという積極的自由のもう一つの歪曲は、内なる砦への退却である。欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

内なる砦への退却

【自分で目標を決め、方策を考え決定を下し実現してゆくという積極的自由のもう一つの歪曲は、内なる砦への退却である。欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(2.4)追加。

(2)積極的自由
 「あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、またはだれであるか」という問いに対する答えのなかに含まれている。
 干渉や妨害からの自由である消極的自由とは区別される、積極的自由の概念がある。自分で目標を決め、実現するための方策を考え、決定を下し、自分の目標を実現していけるという自由である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
 (2.1)自分自身が、主人公でありたいという個人の願望
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
 (2.2)積極的自由の歪曲1:欲望・情念・衝動
  欲望、情念、衝動は低次で、制御できず、非合理的なので、自律的で自由とは言えないとする説。
  自分で目標を決め、方策を考え決定を下し、実現してゆくという積極的自由は、歪曲されてきた。(a)欲望、情念は「低次」で、自律的ではないとする説、(b)「高次」の良い目標のためには、目標が強制できるとする説である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)欲望、快楽の追求は「低次」なのか?
   (ii)情念は「制御できない」のか?
   (iii)社会的な諸価値の体系は「高次」「真実」「理想的」なのか?
   (iv)理性による判断
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
   (i)衝動は「非合理的」なのか?
   (ii)理性による判断
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
   (i)衝動は「非合理的」なのか?
   (ii)理性による判断
 (2.3)積極的自由の歪曲2:良い目標のための消極的自由の制限
  正義なり、公共の健康など良い目標のためであれば、人々に強制を加えることは可能であり、時として正当化され得るとする説。
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)個人が自分で目標を決めるのではなく、「良い目標」を強制される。
   (ii)強制される人は、「啓発されたならば」自らその「良い目標」を進んで追求するとされる。
   (iii)すなわち、本人よりも、強制を加えようとする人の方が、「真の」必要を知っていると考えてられている。
   (iv)欲望や情念より、社会的な諸価値の方が「高次」で「真実」の目標なのだという教説とともに、民族や教会や国家の諸価値が導入され、これが「真の自由」であるとされる。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。

 (2.4)積極的自由の歪曲3:内なる砦への退却
  欲望、情念、衝動は低次で、制御できず、非合理的なので、自律的で自由とは言えない。また、社会的な諸価値の体系に従うことも、外部的な要因に依存しており自由とは言えないとする説。
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)欲望や情念に従うことは、外部的要因に依存することである。
   (ii)社会的な諸価値の体系に従うことも、外部的な要因に依存することである。
   (iii)外部的な要因は、自分では支配できない世界である。
   (iv)理性による判断は、自律的であり、このかぎりにおいて私は自由である。この法則は、自分自身が命ずる法則であって、この法則に服従することは、自由である。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
   (i)理性による判断
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
   (i)理性による判断

 「この学説が個人に適用された場合、そこからカントのようなひとびとの考え方、つまり自由を欲望の除去とまではいわないにしても、欲望への抵抗および欲望の支配と同一視するという考え方までは、それほど大きな距離があるわけではない。みずからをこの支配者と同一視し、支配されるものの隷従状態から脱却する。わたくしは自律的であるがゆえに、また自律的である限りにおいて、自由である。わたくしは法則に従う。けれどもわたくしは自分の強制されざる自我のうえにこの法則を課したのであり、いいかえればその自我のうちにこの法則を見出したのである。自由は服従である。しかし、これは「われわれがわれわれ自身に命ずる法則に対する服従」であって、なんぴとも自分自身を奴隷とするというわけにはゆかない。他律とは外部的要因への依存であり、自分では完全に支配しえないところの、また《それだけ》protanto わたくしを支配し「隷従させる」ところの外的世界のなぐさみものとなることを免れることである。自分ではどうすることもできない力の下にある、いかなるものによってもわたくしが「束縛」されていない程度においてのみ、わたくしは自由である。わたくしは自然の法則を支配することはできない。したがって、《その仮定からして》ex hypothesi わたくしの自由な活動は経験的な因果の世界の上に超越させられなければならぬことになる。いまここでは、この古来有名な学説の真偽を議論しているわけにはゆかない。ただ、実現不可能な欲望への抵抗(ないしそれからの逃避)としての自由、因果性の領域からの独立としての自由というこの観念は、倫理学におけると同様、政治学においても中心的な役割を演じてきたものなのだということだけは注意しておきたいと思う。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),3 内なる砦への退却,pp.33-34,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:内なる砦への退却,積極的自由,欲望,情念,社会的な諸価値)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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2019年4月9日火曜日

多数派による政治的権力の行使は、概して正しい。ただし、様々な少数派の意見を反映し得る制度が必要だ。思想の自由、個性的な性格、たとえ多数派に嫌悪を抱かせる道徳的・社会的要素も、保護されるべきである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

多数派による政治的権力と、少数派の存在

【多数派による政治的権力の行使は、概して正しい。ただし、様々な少数派の意見を反映し得る制度が必要だ。思想の自由、個性的な性格、たとえ多数派に嫌悪を抱かせる道徳的・社会的要素も、保護されるべきである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)多数派が、政治的権力の担い手であることは、概して正しい。
 (1.1)ただし、このこと自体が正しいわけではない。
 (1.2)少数派による支配や、他のどのような状態よりも、不正の程度が低い。
(2)多数派に、絶対的権力を与えることの弊害
 (2.1)どのような社会においても数の上での多数派は同じような社会的境遇のもとにあり、同じような偏見や情念や先入見を持っているだろう。
 (2.2)仮に、多数派に絶対的権力を与えるならば、多数派の偏見、情念、先入見の欠点を是正することができなくなる。その結果、人間の知的・道徳的性質をさらに改善することができなくなり、社会は不可避的に停滞、衰退、あるいは崩壊していくだろう。
(3)社会の中に、様々な少数派の人びとが存在することの必要性
 (3.1)少数派の存在が、多数派の偏見、情念、先入見を是正する契機にし得るような制度が必要である。
 (3.2)それは、思想の自由と個性的な性格の避難場所になり得ること。
 (3.3)仮に、支配的権力が嫌悪の目で見るような道徳的・社会的要素であったとしても、それが消滅させられないよう、守られる必要がある。
 (3.4)かつて存在していた偉大な人のほとんどすべては、このような少数派であった。

 「現代ヨーロッパにおける貴族制的な政府、すなわち(慎慮や時には人間らしい感情が妨げた場合を別にすれば)少数者の私的利益と安楽のために共同体全体を完全に犠牲にすることによって成り立っている政府に対する反動の時代にあっては、このような理論がもっとも高潔な精神の持ち主によって容認されるということは十分にありうることである。ヨーロッパの改革論者は、数の上での多数派があらゆるところで不当に抑圧され、あらゆるところで蹂躙され、せいぜいよくても無視されているのをつねに見てきたし、あらゆるところで多数派がもっとも明白な不満の原因を是正させたり、精神的涵養のための措置を求めたりするために十分な力をもっておらず、支配階級の金銭的な利益のために公然と税負担を求められることを阻止するために十分な力さえもっていないことも見てきた。これらのことに目を向け、(とりわけ)多数派により多くの政治的権力を与えることによってこれらに終止符を打とうとすることが急進主義の特質である。現代においてきわめて多くの人がこのような願望を抱き、これを実現することは人々が自らの身をささげる価値のある目的であると考えられていたことが、ベンサム流の統治論が支持された理由である。しかし、ある悪い形態の統治から別の悪い形態へと移行することは人類のありふれた運命であるとしても、哲学者は重要な真理の一部を別のもののために犠牲にすることによって、このような運命に加担してはならない。
 どのような社会においても数の上での多数派は同じような社会的境遇のもとにあり、主に同じ職業についている人々、すなわち未熟練単純労働者から成り立っているに違いない。私たちは彼らをみくびってはいない。彼らに不利なことを述べているときにはそれが何であっても、商人や郷士の多数者についても当てはまることを述べているのである。同じような境遇や職業にある場合には、同じような偏見や情念や先入見をもっているだろう。いずれか一組の偏見や情念や先入見に対して、別の種類の偏見や情念や先入見によって均衡を図ることなしに絶対的権力を与えることは、その欠点を是正することを絶望的にし、狭隘で貧相な類いの人間本性を普遍的で永続的なものとし、人間の知的・道徳的性質をさらに改善するようなあらゆる勢力を粉砕してしまう。私たちは社会には傑出した権力が存在していなければならないことは理解しているし、多数派がその権力であることは概して正しいことであるが、それはそのこと自体が正しいからではなく、この問題を扱うのに他のどのような状態よりも不正の程度が低いからである。しかし、社会の制度は何らかの形で、不公平な見解を是正するものとしての、そして多数派の意志に対する永続的で常駐的な反対勢力である思想の自由と個性的な性格の避難場所としての備えを整えておくことが必要である。長い間進歩的であり続けた、あるいは長い間偉大であったあらゆる国がそうあれたのは、支配的な力がどのような種類であったとしても、その力に対する組織的な反対勢力が存在していたからである。すなわち、[古代ローマの]貴族階級に対する平民階級、国王に対する聖職者、聖職者に対する自由思想家、貴族に対する国王、国王と貴族に対する庶民のような反対勢力である。かつて存在していた偉大な人のほとんどすべてはこのような反対勢力を形成していたのである。そのような争いがおこなわれてこなかったようなところではどこでも、あるいはそのような争いが相争う原理のうちの一方による完全な勝利によって終結し、古い争いに代わる新しい争いが起きなかったところではどこでも、社会は中国的停滞にとどまるか、あるいは崩壊してきたのである。多数派の意見が主権を掌握しているところにおいても、支配的権力が聖職階級だったり貴族階級であったりするところにおいても、支配的権力が嫌悪の目で見るようなあらゆる道徳的・社会的要素がその周りに集まっているような、そしてそのような権力によって捕らえられて消滅させられようとすることからその防壁に隠れて避けることができるような抵抗の中心が必要である。そのような拠点が存在していないところでは、人類は不可避的に衰退していくだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.147-149,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:多数派,少数派,思想の自由,個性的な性格,偏見,情念,先入見)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年3月27日水曜日

義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

義務や正・不正を基礎づけるもの

【義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)利害関心がもたらす偏見や、情念が存在する。
(2)「義務」とは何か、何が「正しく」何が「不正」なのかに関する、私たちの考えが存在する。
(3)(1)偏見や情念と、(2)義務は一致しているとは限らない。
(4)義務の起源や性質に関する、以下の二つの考え方があるが、(a)は誤っており(b)が真実である。
 (a)私たちには、「道徳感情」と言いうるような感覚が存在し、この感覚によって何が正しく、何が不正なのかを判定することができる。
  (a.1)その感覚を私心なく抱いている人にとっては、それが感覚である限りにおいて真実であり、(1)の偏見や情念と区別できるものは何もない。
  (a.2)その感覚が自分の都合に合っている人は、その感覚を「普遍的な本性の法則」であると主張することができる。
 (b)何が正しく、何が不正なのかの問題は、議論に開かれている問題であり、他のあらゆる理論と同じように、証拠なしに受け入れられたり不注意に選別されたりするようなものではない。
  (b.1)ある見解が受け入れられるかどうかは、理性による判断である。
(5)以上から、どのように考えどのように感じる「べき」なのかという問題が生じ、人類の見解や感情を、教育や統治を通じて陶冶していくということが、意義を持つ。
 (5.1)道徳論は、不変なものではなく、人類の経験がより信頼に値するものとなり増大していくことで、知性とともに進歩していくものである。
 (5.2)倫理問題に取り組む唯一の方法は、既存の格率を是正したり、現に抱かれている感情の歪みを正したりすることを目的とした、教育や統治である。
 「道徳感情の教育を任されている人々にとって、道徳感情の起源や性質に関する正しい見解が重要性をもっていることは言うまでもない。道徳論が不変的な理論体系なのか進歩的な理論体系なのかは、道徳感覚の理論の真偽にかかっていると言えるだろう。もし何が正しく何が不正であるのかを判定する感覚が人間に与えられているということが真実だとしたら、人間の道徳判断や道徳感情には改善の余地がなくなり、とどまるべきところにとどまっていることになる。人類一般は自分たちの義務という主題についてどのように考えどのように感じる《べき》なのかという問題は、偏見をもたらす利害関心や情念がないとしたら、人間が今どのように考えどのように感じるかを観察することによって決定されなければならない。それゆえ、教育や統治を通じて主に自分たちで人類の見解や感情を形成することを今まで行なってきた人々にとって、これは注目すべき理論である。この理論体系に基づけば、一般的な偏見はそれに私心なく囚われている人々によって、あるいはそれが自分の都合に合っている人々によって、どのような時にも私たちの普遍的な本性の法則にまで高められることになるだろう。
 それに対して、功利性の理論によれば、私たちの義務とは何かという問題は、他のあらゆる問題と同じく議論に開かれている問題である。道徳理論は他のあらゆる理論と同じように、証拠なしに受け入れられたり不注意に選別されたりするようなものではない。他のあらゆる問題と同じように、ある見解がどれほど受け入れられていても、その見解にではなく涵養された理性による判断に訴えるのである。人間の知性の弱さや私たちの本性におけるその他の欠点は、他のあらゆる関心事の場合と同じように、私たちが道徳について正しく判断を下そうとする場合に障害になると考えられている。他のあらゆる問題に関するのと同じように、この問題に関する私たちの見解では、経験がより信頼に値するものとなり増大していくことで知性が進歩し、人類の状態が変化していくことで行為の規則を変更することが必要となるにつれて、大きく変わっていくことが予想される。
 それゆえ、この問題はきわめて重要なものである。そして、既存の格率を是正したり現に抱かれている感情の歪みを正したりすることを《目的とした》、倫理問題に取り組む唯一の方法が抗議の声によってかき消されないようにすることは、人類のもっとも重要な利益に深く関係している。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『セジウィックの論説』,集録本:『功利主義論集』,pp.72-73,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:義務,正・不正,情念,感情,道徳論)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2018年5月10日木曜日

ある感情を、他の感情によってどう制御し変化させるかについての研究は、道徳と政治に関することがらに特別に役だつ。想像力により感情が静められ、あるいは燃え立たされ、行動が抑制され、あるいは発動する。(フランシス・ベーコン(1561-1626))

想像力と感情

【ある感情を、他の感情によってどう制御し変化させるかについての研究は、道徳と政治に関することがらに特別に役だつ。想像力により感情が静められ、あるいは燃え立たされ、行動が抑制され、あるいは発動する。(フランシス・ベーコン(1561-1626))】
想像力と感情、感情どおしの相互作用の研究は、道徳と政治に関することがらに特別役だつものである。
(a) 想像力により、どのように感情が燃え立たされ、かき立てられるか。抑えられていた感情が、どのようにして外に出るか、それがどう活動するか。
(b) 想像力により、感情がどのように静められ、抑えられるか。感情が行動に発展するのをどう抑制されるか。
(c) それらの感情がどのように重なりあうか、どのようにたがいに戦い対立し合うか。ある感情が、他の感情によってどのように制されるか。どう変化するか。
 「詩人と歴史の著述家がこの認識の最上の教師であって、われわれは、そこにつぎのようなことがいきいきと描かれているのを見る。すなわち、どのように感情がもえたたされ、かきたてられるか、それがどのようにしずめられ、抑えられるか、そしてまた、それが行動に発展するのをどう抑制されるか、抑えられたものがどのようにして外に出るか、それがどう活動するか、どう変化するか、それがどうつのってはげしくなるか、それらの感情がどのように重なりあうか、それらがどのようにたがいに戦い角つきあうかなどといったことが一つ一つ描かれている。それらのうち、最後にあげたことが、道徳と政治に関することがらには特別に役だつものである。くりかえしていえば、それは、どのようにして感情をたがいに対立させあい、他方によって一方を制するかということである。」 (フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、二二・六、pp.293-294、[服部英次郎、多田英次・1974]) (索引:感情、情念、道徳、政治、想像力)

学問の進歩 (岩波文庫 青 617-1)


(出典:wikipedia
フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑のほうが、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかである。というのは、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千五百年、あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と都市がたちくされ、とりこわされたのに。」(中略)「ところが、人びとの知力と知識の似姿は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新されることができるのである。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というのは、それはつねに子をうみ、他人の精神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動をひきおこし意見をうむからである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、きわめて遠く隔たった地域をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明がりっぱなものであると考えられたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられねばならぬことだろう。学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎと、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、[服部英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の船)


フランシス・ベーコン(1561-1626)
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2018年5月9日水曜日

意志において理性の力を助ける方法:(1)巧妙な詭弁を、論理学の力で見破る。(2)激烈な感情に十分に対抗できるような想像、印象を、弁論術の力で理性の判断から仕立てる。(フランシス・ベーコン(1561-1626))

意志において理性の力を助ける方法

【意志において理性の力を助ける方法:(1)巧妙な詭弁を、論理学の力で見破る。(2)激烈な感情に十分に対抗できるような想像、印象を、弁論術の力で理性の判断から仕立てる。(フランシス・ベーコン(1561-1626))】
 意志は理性による支配から、3つのものに妨害されている。
(a1) 巧妙な詭弁:論理学に関係のある罠で、まちがった推論によって理性は罠をかけられる。
(b1) 激烈な情念と感情:道徳哲学に関係し、我を忘れさせられる。
(c1) しつこい想像、印象:弁論術に関係のある罠で、印象あるいは所見にまといつかれる。
 意志を、理性の命ずる方向に動かすにあたっては、どうすれば良いか。すなわち理性の命令を、想像力に受け入れさせるには、どうすれば良いか。
(a2) 論理学の力をかりて巧妙な詭弁を見破り、理性を確実にする。
 理性は未来と時間の全体とを見るという点で、情念とは異なる。
(b2) 感情そのものにも、つねに、善への欲求がある。
(c2) ところが、感情は現在だけを見るので、未来と時間の全体とを見る理性よりも、いっそう多く想像力をかきたて、理性はふつう負かされてしまう。
 そこで、
(c3) 弁論術の力をかりて雄弁と説得とで、理性が命ずるもの、例えば未来の遠いものを現在のように見えさせてしまえば、そのときは想像力が、現在だけを見ている感情から、理性のほうへ寝がえり、理性が勝つ。
 「弁論術の任務と役目は、意志を理性の命ずる方向にいっそうよく動かすために、理性の命令を想像力にうけいれさせることである。現に、理性はその支配を三つのものによって妨害されているからである。三つのものとは、論理学に関係のあるわなあるいは詭弁と、弁論術に関係のある想像あるいは印象と、道徳哲学に関係のある情念と感情とである。そして他人との折衝の場合、人間は巧妙な手としつこい要求と激烈さとによって左右されるように、内心における折衝の場合も、人間は、まちがった推論によって根底をくずされ、印象あるいは所見にしつこくまといつかれ、情念のために我を忘れさせられる。といっても、人間の本性はそれほどできそこなってはいないので、あの三つの能力と技術は、理性をかき乱して、それを確立し高めないような力をもっているわけではない。というのは、論理学の目的は、立論の形式を教えて理性を確実にすることであって、理性をわなにかけることではなく、道徳哲学の目的も、感情を理性に従わせることであって、理性の領域を侵させることではなく、弁論術の目的も、想像力をみたして理性を補佐することであるからである。」(中略)「なおまた、もしも感情それ自身が御しやすくて、理性に従順なものであったら、意志に対する説得と巧言などを用いる必要はたいしてなく、ただの命題と証明だけで十分であろうが、しかし、感情がたえずむほんをおこし扇動する、
 「よいほうの道はわかっており、そのほうがよいと思う。
  しかし、わたしはわるいほうの道をたどる」〔オウィディウス『変身譚』七の二〇〕
のをみると、もし説得の雄弁がうまくやって、想像力を感情の側からこちらの味方に引き入れ、理性と想像力との同盟を結んで、感情と対抗しなければ、理性は捕虜と奴隷になるであろう。というのは、感情そのものにも、理性と同じように、つねに、善への欲求があるが、感情は現在だけを見、理性は未来と時間の全体とを見るという点で異なり、そしてそれゆえ、現在のほうがいっそう多く想像力をみたすので、理性はふつう負かされてしまうからである。しかし、雄弁と説得との力が未来の遠いものを、現在のように見えさせてしまえば、そのときは、想像力の寝がえりで、理性が勝つのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、一八・二、一八・四、pp.249-252、[服部英次郎、多田英次・1974])
(索引:論理学、道徳哲学、弁論術、詭弁、情念、感情、想像、印象)

学問の進歩 (岩波文庫 青 617-1)


(出典:wikipedia
フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑のほうが、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかである。というのは、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千五百年、あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と都市がたちくされ、とりこわされたのに。」(中略)「ところが、人びとの知力と知識の似姿は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新されることができるのである。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というのは、それはつねに子をうみ、他人の精神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動をひきおこし意見をうむからである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、きわめて遠く隔たった地域をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明がりっぱなものであると考えられたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられねばならぬことだろう。学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎと、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、[服部英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の船)


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2018年2月27日火曜日

情念は、わたしたちを害したり益したりしうる対象の多様なしかたを反映している。(ルネ・デカルト(1596-1650))

情念と利害

【情念は、わたしたちを害したり益したりしうる対象の多様なしかたを反映している。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 情念を引き起こすのは、対象のうちにあるいろいろな性質すべてによるのではない。ただ、対象がわたしたちを害したり益したりしうる多様なしかた、あるいは、一般にそれら対象がわたしたちに重要となる多様なしかたによる。
 「感覚を動かす対象がわたしたちのうちにいろいろな情念を引き起こすのは、対象のうちにあるいろいろな性質すべてによるのではない。ただ、対象がわたしたちを害したり益したりしうる多様なしかた、あるいは、一般にそれら対象がわたしたちに重要となる多様なしかたによる。そして、あらゆる情念の効用は、自然がわたしたちに有用だと定めているものを、精神が意志しその意志を持ちつづけるようしむけること、ただこのことのみにある。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 五一、p.52、[谷川多佳子・2008])
(索引:)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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情念はその本性上すべて善い、その悪用法や過剰を避けるだけでよい。(ルネ・デカルト(1596-1650))

情念は善い

【情念はその本性上すべて善い、その悪用法や過剰を避けるだけでよい。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「わたしたちはいま、情念はその本性上すべて善い、その悪用法や過剰を避けるだけでよい、と知っているからだ。そして、悪用法や過剰を防ぐには、わたしが説明した治療法を、各人が注意深く実行すれば、それで十分だろうからだ。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 二一一、p.178、[谷川多佳子・2008])

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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わたしたちは、情念を巧みに操縦し、その引き起こす悪を十分耐えやすいものにし、情念のすべてから喜びを引き出すような知恵を持つことができる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

情念から喜びを引き出す

【わたしたちは、情念を巧みに操縦し、その引き起こす悪を十分耐えやすいものにし、情念のすべてから喜びを引き出すような知恵を持つことができる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 精神は精神独自の快楽を持ちうる。だが、精神が身体と共有する快楽については、まったく情念に依存する。わたしたちは、情念を巧みに操縦し、その引き起こす悪を十分耐えやすいものにし、情念のすべてから喜びを引き出すような知恵を持つことができる。このようにして、情念に最も動かされる人間は、人生において最もよく心地よさを味わうことができるようになる。
 「精神は精神独自の快楽を持ちうる。だが、精神が身体と共有する快楽については、まったく情念に依存するものであり、したがって、情念に最も動かされる人間は、人生において最もよく心地よさを味わうことができる。たしかに、かれらは、情念をよく用いることを心得ておらず、偶然的運にも恵まれない場合には、人生においてまた最大の辛さを見出すかもしれない。けれども、知恵の主要な有用性は、次のことにある。すなわち、みずからを情念の主人となして、情念を巧みに操縦することを教え、かくして、情念の引き起こす悪を十分耐えやすいものにし、さらには、それらすべてから喜びを引き出すようにするのである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 二一二、pp.180-181、[谷川多佳子・2008])
(索引:情念)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2018年1月15日月曜日

情念は、精神のなかに思考を強化し持続させる作用が効用をもたらし、また時に、それは害を及ぼす。(ルネ・デカルト(1596-1650))

情念の持続性

【情念は、精神のなかに思考を強化し持続させる作用が効用をもたらし、また時に、それは害を及ぼす。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「あらゆる情念の効用は、精神のなかに思考を強化し持続させることのみにある。それは、精神が保持すべき思考であり、情念がなければかんたんに精神から消えてしまう思考である。同じように、情念がもたらしうる害のすべては、それらの思考を情念が、必要以上に強化し保持すること、とどめるべきでない別の思考を強化し保持することにある。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第一部 七四、p.65、[谷川多佳子・2008])

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(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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ある身体行動とある思考が結びつくと、両者のいずれかが現われれば必ずもう一方も現われるようになる。この結びつきは、各人によって異なり、各人ごとに異なる情念の原因である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

身体と思考

【ある身体行動とある思考が結びつくと、両者のいずれかが現われれば必ずもう一方も現われるようになる。この結びつきは、各人によって異なり、各人ごとに異なる情念の原因である。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「なお、情念のさまざまな効果やさまざまな原因に関して付け加えられうるすべてをここで手短に補うため、それらについてこれまで述べてきたすべてのことの基礎になっている原理を繰り返すだけにしておきたい。つまり、心身の結びつきの特性は、ひとたびある身体行動とある思考を結びつけると、そのあとは、両者のいずれかがわたしたちに現われれば必ずもう一方も現われるということ、そしてまた、必ずしも同じ行動が同じ思考にいつも結びついているわけではないことだ。事実、ここでは説明しなかったこの問題に関して、各人が自己や他人のなかに認めうる特殊なものすべてを説明するには、この原理だけで十分である。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一三六、pp.113-114、[谷川多佳子・2008])

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ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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情念はほぼすべて、心臓や血液全体など身体のなんらかの興奮の生起をともなっており、その興奮がやむまで情念はわたしたちの思考に現前しつづける。これは感覚対象が感覚を現前させつづけるのと同じである。(ルネ・デカルト(1596-1650))

情念と身体

【情念はほぼすべて、心臓や血液全体など身体のなんらかの興奮の生起をともなっており、その興奮がやむまで情念はわたしたちの思考に現前しつづける。これは感覚対象が感覚を現前させつづけるのと同じである。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「しかも、精神がその情念を速やかに変えたり止めたりできない特殊な理由がある。そのゆえにわたしは上述の情念の定義において、情念が精気のある特殊な運動によって、生じるだけでなく、維持され強められる、としたのだ。その理由はこうである。情念はほぼすべて、心臓のうちに、したがってまた血液全体と精気のうちに、なんらかの興奮の生起をともなっており、そのために、その興奮がやむまで情念はわたしたちの思考に現前しつづける。感覚対象がわたしたちの感覚器官に働きかけている間は、その対象がわたしたちの思考に現前しているのと同じである。そして、精神は、何か他のことに大きく注意を向けることで、小さな音を聞かなかったり、小さな痛みを感じなかったりはできるが、同じやり方で雷の音を聞かなかったり、手を焼く火を感じなかったりはできない。これと同様に、精神はほんの小さな情念はたやすく抑えるが、きわめて激しい強大な情念は、血液と精気の興奮が鎮まるまで、抑えることができない。この興奮が活性しているあいだ意志のなしうるのはせいぜい、この興奮の及ぼす結果に同意しないで、興奮が身体に促す運動のいくつかを制止することである。たとえば、怒りが、殴る手を振りあげさせるとき、意志はふつうこの手を制止することができる。また恐怖の情念が、脚を逃げるようにさせるとき、意志は脚をとどめることができる、など。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第一部 四六、pp.43-44、[谷川多佳子・2008])
(索引:情念)

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(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
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