情動誘発刺激の学習
【特定の社会的状況と個人的経験が、情動誘発刺激となるために蓄積される知識:(a)特定の問題、(b)問題解決のための選択肢、(c)選択した結果、(d)結果に伴う情動と感情(直接的結果、および将来的帰結)(アントニオ・ダマシオ(1944-))】社会的状況と、それに対する個人的経験に関する、以下のような知識が蓄積されていくことで、特定の情動誘発刺激が学習されていく。
(a)ある問題が提示されたという事実
(b)その問題を解決するために、特定の選択肢を選んだということ
(c)その解決策に対する実際の結果
(d)その解決策の結果もたらされた情動と感情
(d.1)行動の直接的結果は、何をもたらしたか。罰がもたらされたか、報酬がもたらされたか。利益か、災いか。苦か快か、悲しみか喜びか、羞恥かプライドか。
(d.2)直接的行動がどれほどポジティブであれ、あるいはどれほどネガティブであれ、行動の将来的帰結は、何をもたらしたのか。結局事態はどうなったのか。罰がもたらされたか、報酬がもたらされたか。利益か、災いか。苦か快か、悲しみか喜びか、羞恥かプライドか。
(再掲)
《情動の誘発原因》
狭義の情動が引き起こされるとき、その情動の原因となった対象や事象を、〈情動を誘発しうる刺激〉(ECS Emotionally Competent Stimulus)という。進化の過程で獲得したものも、個人の生活の中で学習したものも存在する。
・ 情動の根拠には(a)生得的なもの、(b)学習されたものがある。また、情動の誘発は、(a)無意識的なもの、(b)意識的評価を経由するものがあるが、いずれも反応は自動的なものであり、誘発対象の評価が織り込まれている。(アントニオ・ダマシオ(1944-))
「では、情動と感情は意志決定においてどのような役割を演じているのか。
わかりにくかったりそれほどではなかったり、効果的だったりそれほどではなかったり、といろいろな場合があるというのがその答えだが、いずれの場合も情動と感情は推論のプロセスにおける役者であるだけでなく、不可欠な役者でもある。
たとえば個人的経験が蓄積されていくと、社会的状況についてのさまざまな分類が形成される。そのような生活経験に関してわれわれが蓄える知識には以下のようなものがある。
1 その問題が提示されたという事実
2 その問題を解決するために特定の選択肢を選んだということ
3 その解決策に対する実際の結果
そして重要なのは、
4 情動と感情に関するその解決策の結果
1 その問題が提示されたという事実
2 その問題を解決するために特定の選択肢を選んだということ
3 その解決策に対する実際の結果
そして重要なのは、
4 情動と感情に関するその解決策の結果
たとえば、選択した行動の直接的結果は罰をもたらしたのか、それとも報酬をもたらしたのか。言い換えると、その行動は、苦の、あるいは快の、悲しみの、あるいは喜びの、羞恥心の、あるいはプライドの情動と感情を伴ったのか。
同じように重要なのは、直接的行動がどれほどポジティブであれ、あるいはどれほどネガティブであれ、行動の〈将来的帰結〉は報酬をもたらすものだったのか、それとも罰をもたらすものだったのか。
結局事態はどうなったのか。特定の行動に由来するネガティブな、あるいはポジティブな将来的帰結があったのか。典型的な例は、特定の関係を壊したことで、あるいは開始したことで、利益が、それとも災いがもたらされたのか。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、pp.192-193、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))
(索引:情動誘発刺激の学習)
(出典:wikipedia)
「もし社会的情動とその後の感情が存在しなかったら、たとえ他の知的能力は影響されないという非現実的な仮定を立てても、倫理的行動、宗教的信条、法、正義、政治組織といった文化的構築物は出現していなかったか、まったく別の種類の知的構築物になっていたかのいずれかだろう。が、少し付言しておきたい。私は情動と感情だけがそうした文化的構築物を出現させているなどと言おうとしているのではない。第一に、そうした文化的構築物の出現を可能にしていると思われる神経生物学的傾性には、情動と感情だけでなく、人間が複雑な自伝を構築するのを可能にしている大容量の個人的記憶、そして、感情と自己と外的事象の密接な相互関係を可能にしている延長意識のプロセスがある。第二に、倫理、宗教、法律、正義の誕生に対する単純な神経生物学的解釈にはほとんど望みがもてない。あえて言うなら、将来の解釈においては神経生物学が重要な役割を果たすだろう。しかし、こうした文化的現象を十分に理解するには、人間学、社会学、精神分析学、進化心理学などからの概念と、倫理、法律、宗教という分野における研究で得られた知見を考慮に入れる必要がある。実際、興味深い解釈を生み出す可能性がもっとも高いのは、これらすべての学問分野と神経生物学の〈双方〉から得られた統合的知識にもとづいて仮説を検証しようとする新しい種類の研究だ。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、pp.209-210、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))
アントニオ・ダマシオ(1944-)
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(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、pp.192-193、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))
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(出典:wikipedia)
「もし社会的情動とその後の感情が存在しなかったら、たとえ他の知的能力は影響されないという非現実的な仮定を立てても、倫理的行動、宗教的信条、法、正義、政治組織といった文化的構築物は出現していなかったか、まったく別の種類の知的構築物になっていたかのいずれかだろう。が、少し付言しておきたい。私は情動と感情だけがそうした文化的構築物を出現させているなどと言おうとしているのではない。第一に、そうした文化的構築物の出現を可能にしていると思われる神経生物学的傾性には、情動と感情だけでなく、人間が複雑な自伝を構築するのを可能にしている大容量の個人的記憶、そして、感情と自己と外的事象の密接な相互関係を可能にしている延長意識のプロセスがある。第二に、倫理、宗教、法律、正義の誕生に対する単純な神経生物学的解釈にはほとんど望みがもてない。あえて言うなら、将来の解釈においては神経生物学が重要な役割を果たすだろう。しかし、こうした文化的現象を十分に理解するには、人間学、社会学、精神分析学、進化心理学などからの概念と、倫理、法律、宗教という分野における研究で得られた知見を考慮に入れる必要がある。実際、興味深い解釈を生み出す可能性がもっとも高いのは、これらすべての学問分野と神経生物学の〈双方〉から得られた統合的知識にもとづいて仮説を検証しようとする新しい種類の研究だ。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、pp.209-210、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))
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