約束することのできる動物を育成するというあの課題(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
約束することのできる動物を育成するというあの課題は、われわれがすでに理解したごとく、その条件や準備として、まずもって人間を或る程度まで必然的な、一様な、同等者たちのあいだで同等な、規則的な、したがってまた算定可能なものと《する》というより差し迫った課題を含んでいる。
私が〈習俗の倫理〉と呼んだもののあの巨大な作業(『曙光』九節、一四節、一六節参照)―――人類のもっとも長きにわたった期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、人間のあの《前史的な》作業の全体は、たとえその内にどんなに多くの冷酷、暴虐、遅鈍、痴愚が宿っているにしても、右の課題に関する点でその意義をもち、立派に申し開きが立つものとなる。
それというのも、人間は習俗の倫理と社会的拘束の緊衣とのおかげで本当に算定しうるものと《された》からである。
しかるに、もしわれわれがこの巨大な過程の終点に立ってみるならば、すなわち樹木がついにその実を結び、社会とその習俗の倫理がそれの手段にすぎなかった当の《目的》がついに実現される地点に立ってみるならば、そのときわれわれは、その樹のもっとも熟した果実として《主権者的な個体》を見いだすであろう。
これこそは自己自身にのみ等しい個体、習俗の倫理からふたたび解き放たれた個体、自律的にして超倫理的な個体(というのも〈自律的〉と〈倫理的〉とは相容れないから)、要するに自己固有の、独立的な、長い意志をもつ《約束のすることのできる》人間である。
―――そして彼の内には、ついに達成されて彼自身それの化身となった《そのもの》についての、全筋肉を震わせるほどの誇らかな意識が、真の権力と自由との意識が、人間そのものとしての完成感情が見られる。
真実に約束することの《できる》この自由となった人間、この《自由なる》意志の支配者、この主権者、―――この者が、かかる存在たることによって自分が、約束もできず自己自身を保証することもできないすべての者に比して、いかに優越しているかを、いかに多大の信頼・多大の恐怖・多大の畏敬を自分が呼びおこすか―――彼はこれら三つのものすべての対象となるに〈値する〉―――を、知らないでいるはずがあろうか?
同時にこの自己に対する支配とともに、いかにまた環境に対する支配も、自然および一切の意志短小にして信頼しがたい被造物どもにたいする支配も、必然的にわが手にゆだねられているかを、知らないでいるはずがあろうか?
〈自由なる〉人間、長大な毀たれない意志の所有者は、この所有物のうちにまた自己の《価値尺度》をもっている。
彼は自己を基点にして他者を眺めやりながら、尊敬したり軽蔑したりする。彼は必然的に、自己と同等な者らを、強者や信頼できる者ら(約束することの《できる》者たち)を尊敬する、
―――要するに主権者のごとくに重々しく、稀に、ゆったりとして約束する者、容易には他を信頼せず、ひとたび信頼したとなれば《これを賞揚する》者、おのれの一言を災厄に抗してすら・〈運命に抗して〉すらも守りぬくほど十分に自分が強いことを知るがゆえに、頼むに足るだけの言質を他に与える者、こうしたすべての者を尊敬するのである―――。
同様にまた必然的に彼は、できもしないのに約束する法螺吹きの痩犬どもを足蹴にすべく身構えるだろうし、舌の根の乾かぬうちにはやくもその約束を破る虚言者どもに懲戒の笞を振るうべく身構えるであろう。
《責任》という格外の特権についての誇らかな自覚、この稀有な自由の意識、自己と命運とを支配するこの権力の意識は、彼の心の至深の奥底まで降り沈んでしまって、本能とまで、支配的な本能とまでなっているのだ。