2018年8月11日土曜日

2.人間の科学と技術の営みを考えると、次の命題が正しいことを確信させる:世界3の対象は、世界2を経由して間接的に、物理的な世界1に働きかける。ゆえに、世界1を実在的と呼ぶならば、それに作用する世界3も実在的な対象である。(カール・ポパー(1902-1994))

世界3の実在性

【人間の科学と技術の営みを考えると、次の命題が正しいことを確信させる:世界3の対象は、世界2を経由して間接的に、物理的な世界1に働きかける。ゆえに、世界1を実在的と呼ぶならば、それに作用する世界3も実在的な対象である。(カール・ポパー(1902-1994))】

 科学理論の構築は、科学者による既存の理論の理解、新しい問題の発見、解決法の提案、批判的な議論など長い知的な仕事によるものだが、ここには個々の科学者の世界2の寄せ集めを超える世界が存在する。これが、世界3である。そして、これら科学理論の応用である人工物が、世界1に実現されて、地球表面を覆っていることを考えてみよ。これらが世界1の中だけで実現されていると考えられ得るか。世界2の寄せ集めだけで実現されていると考えられ得るか。このように考えると、世界3の実在性は確かなものに思える。

(再掲)
世界3
(a)世界3とは、物語、説明的神話、道具、真であろうとなかろうと科学理論、科学上の問題、社会制度、芸術作品(彫刻、絵画など)のような人間の心の所産の世界である。
(b)対象の多くは物体の形で存在し、世界1に属している。例として、書物そのものは、世界1に属している。
(c)しかし、人間の心の所産である対象が、人間とともに存在しているとき、そこに世界1、世界2とは異なる世界が生まれる。例えば書物には「内容」が存在する。この内容は世界1ではないし、読者の個人的な世界2でもない。これは、世界3に属している。内容は、本ごとや版ごとで変わりはしない。
(d)世界3の対象は、世界2を経由して間接的に、物理的な世界1に働きかける。ゆえに、世界1を実在的と呼ぶならば、それに作用する世界3も実在的な対象である。
(e)世界3の対象は、世界2と世界1を経由して、世界3の他の対象を作り出す。
(f)世界3の諸対象は、我々自身の手になるものであるが、それらは必ずしも常に個々人によって計画的に生産された結果ではない。

 「世界3の対象が実在的であるという見解に反対する者は、この分析への返答として、そこに含まれているすべては世界1の対象であると主張するかもしれない。

つまり、ある人がそのような対象を形作り、したがってそのことから他の人々が彼をまねるようになるのだから、そこにはそれ以上のものは含まれていない、と。

 私は別の、おそらくより納得のゆく例を出すことでこれに答えよう。

それは科学理論の構築と、その批判的な議論、その試験的な受容、そして地球表面を、したがって世界1を変化させるかもしれないそれの応用である。
 生産的な科学者は原則として《問題》から出発する。彼は問題を理解しようとするだろう。通常これは長い知的な仕事である――世界2が世界3の対象を把握しようと試みるのである。明らかに、そうする時には彼は書物(あるいはその他の世界1の物象化された形での科学的な道具)を用いるだろう。

 だが、彼の《問題》はそれら書物には述べられていないかもしれない。むしろ彼はそこに述べられている《諸理論》の中に理解しがたいことを見出すことで、それを問題として発見することだろう。これは創造的な努力、つまり抽象的な問題状況を把握するための努力を含んでいる。もし可能なら、以前になされたものよりさらによく把握しよう、という努力である。そして彼は彼の解決、彼の新しい理論を作り出すことになる。

 これは言葉によって多くの仕方で定式化できる。彼はそれらの一つを選ぶ。そして自らの理論を批判的に議論するだろう。その結果として理論を大幅に修正するかもしれない。そしてそれは出版され、論理的基盤に基づいて、そしてそれをテストするために行われる新しい実験をできる限り踏まえて、その他の人々によって論議される。そしてテストに失敗すれば、その理論は破棄されることになろう。このような真剣な知的努力をすべて行なった後ではじめて、だれか別の人が適用可能な進んだ技術的応用を発見し、これが世界1に働きかける。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P2章 世界1・2・3、11――世界3の実在性(上)pp.67-68、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:世界3)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年8月10日金曜日

5.遅延刺激によるマスキング効果:最大で100ms遅れた刺激は、先行する刺激の意識化を抑制する。遅延刺激が皮質への直接的な刺激の場合には、200~500ms遅れた刺激でも、先行刺激の意識化を抑制する。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

遅延刺激によるマスキング効果

【遅延刺激によるマスキング効果:最大で100ms遅れた刺激は、先行する刺激の意識化を抑制する。遅延刺激が皮質への直接的な刺激の場合には、200~500ms遅れた刺激でも、先行刺激の意識化を抑制する。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】

(a)1番目の刺激による意識的な感覚が生じるのに十分な脳の活性化が完了する前に、2番目の刺激を与えると、2番目の刺激に妨げられて、1番目の刺激が意識されなくなる。

       1番目の刺激は
       意識されない
          ↑
          │
感覚皮質の活性化─妨げられる
 ↑       ↑
1番目の刺激    │
 小さな微弱な  │
 光の点     │
 │    2番目の刺激
 │    1番目の刺激を囲む、
 │    より強く大きな閃光
 │       │
  最大100ms遅れ

(b)両腕の皮膚刺激による実験
 1番目の刺激
  一方の前腕の皮膚に、閾値の強さのテスト刺激(電気刺激)を与える。
 2番目の刺激
  もう一方の前腕に、条件刺激を与える。
 結果:テスト刺激の閾値が上がる。
  最大100ms遅れても効果がある。500ms遅れると効果はない。
(c)条件刺激を、皮質への刺激に変えた実験
 1番目の刺激
  皮膚へ微弱な単発のパルスを与える。
 2番目の刺激
  電極を使って、皮質へ連発したパルスを与える。
 結果
  200~500ms遅れた皮質刺激でも、意識をブロックできる。
  皮質刺激が、100ms以下の連発刺激や単発のパルスでは、意識をブロックできない。

 「二番目の証拠というのは、最初にテストしたものに続いて遅れた二番目の刺激の、逆行性の遡及効果に基づくものです。

二つの末梢の感覚刺激の間に、逆行性、または遡行するマスキング効果があることが、よく知られています。最初の小さな微弱な光の点を囲む二番目のより強く大きな閃光は、最初の光に対する被験者のアウェアネスを遮断することができます。

最初の微弱な閃光の後、最大限100ミリ秒間の遅れがあったとしても、二番目の閃光にはこうした効果があります(例としてクロウフォード(1947年)参照)。

 遡及性のマスキングはまた、皮膚への電気刺激においても報告されてきました(ホーリデイとミンゲイ(1961年))。

一方の前腕に閾値の強さのテスト刺激を与え、閾値より上の条件刺激をもう一方の前腕に与えると、テスト刺激の閾値が上がります〔訳注=閾値が上がるとはすなわち、刺激強度を上げないと検出しにくくなるということ。〕

テスト刺激の100ミリ秒後でも、この条件刺激は効果がありますが、500ミリ秒後では効果がありません。この、100ミリ秒の感覚での逆行性マスキングは、中枢神経系によって媒介されているに違いありません。なぜなら、テスト刺激と条件刺激は、それぞれ異なる感覚経路(つまり逆側の腕)を経由して伝達されるからです。

 この逆行性マスキングは、感覚的なアウェアネスについて私たちが仮定した遅れとどのような関係にあるのでしょうか? 

もし、アウェアネスを生み出すために、適切な神経活動が脳内で最大0.5秒間継続しなければならないのならば、その必要条件である時間感覚の間に二番目の刺激が伝達されると、この神経活動の正常な完了を妨げることになるでしょう。そして、これは感覚的なアウェアネスをブロックすることになるでしょう。

末梢の感覚組織ではなく、脳レベルで(刺激に)反応する組織において、このようなマスキングが生じることを私たちは立証したいと考えました。

またさらに、遡及性の効果を生み出す二つの刺激の間の時間的間隔が、私たちが主張する0.5秒間という必要条件に何とか近い値まで上げることができるかを検討したいと思いました。

 こうした目的を達成するために、私たちは体性感覚皮質に直接、遅延した条件刺激を与えました。

最初の(テスト)刺激は、皮膚への微弱な単発のパルスでした。続いて、1センチ以上の大きなディスク電極を使って、皮質への遅延刺激を与えました。この刺激は比較的強く、皮膚へのパルスから生じる感覚の領域とオーバーラップする、(ほぼ同じ)皮膚領域で感覚が生じました。

被験者は、この二つの感覚を、質感と強さ、また関与する皮膚の領域によって難なく区別できました。

 実際、皮膚パルスの後、200~500ミリ秒までの間に皮質刺激が始まったとしても、この遅延皮質刺激が皮膚のアウェアネスをマスクまたはブロックし得ることを、私たちは発見しました。

ついでに言えば、遅延皮質刺激は、連発したパルスから成ります。100ミリ秒以下の皮質への連発刺激、または単発のパルスには、この遡及性のある抑制効果が《ありません》。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第2章 意識を伴う感覚的なアウェアネスに生じる遅延,岩波書店(2005),pp.58-60,下條信輔(訳))
(索引:遅延刺激によるマスキング効果)

マインド・タイム 脳と意識の時間


(出典:wikipedia
ベンジャミン・リベット(1916-2007)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
 私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)

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1. 人間の心の所産である対象も、物理的な世界1には属するが、それが人間と相互作用するとき、個々の主観的経験の世界2を超えた、世界3を生み出す。世界3は、世界2を経由して世界1に作用し、新たな世界3を作る。(カール・ポパー(1902-1994))】

世界3

【人間の心の所産である対象も、物理的な世界1には属するが、それが人間と相互作用するとき、個々の主観的経験の世界2を超えた、世界3を生み出す。世界3は、世界2を経由して世界1に作用し、新たな世界3を作る。(カール・ポパー(1902-1994))】
世界3
(a)世界3とは、物語、説明的神話、道具、真であろうとなかろうと科学理論、科学上の問題、社会制度、芸術作品(彫刻、絵画など)のような人間の心の所産の世界である。
(b)対象の多くは物体の形で存在し、世界1に属している。例として、書物そのものは、世界1に属している。
(c)しかし、人間の心の所産である対象が、人間とともに存在しているとき、そこに世界1、世界2とは異なる世界が生まれる。例えば書物には「内容」が存在する。この内容は世界1ではないし、読者の個人的な世界2でもない。これは、世界3に属している。内容は、本ごとや版ごとで変わりはしない。
(d)世界3の対象は、世界2を経由して間接的に、物理的な世界1に働きかける。ゆえに、世界1を実在的と呼ぶならば、それに作用する世界3も実在的な対象である。
(e)世界3の対象は、世界2と世界1を経由して、世界3の他の対象を作り出す。
(f)世界3の諸対象は、我々自身の手になるものであるが、それらは必ずしも常に個々人によって計画的に生産された結果ではない。

 「私は世界3の役割を研究することで理解がいくらか増すと考えている。

 世界3によって私が意味しているのは、物語、説明的神話、道具、(真であろうとなかろうと)科学理論、科学上の問題、社会制度、そして芸術作品のような人間の心の所産の世界である。

世界3の諸対象はわれわれ自身の手になるものであるが、それらは必ずしも常に個々人によって計画的に生産された結果ではない。

 世界3の対象の多くは物体の形で存在し、ある意味で世界1と世界3の両方に属している。彫刻、絵画、そして科学的主題・文学を問わずに書かれた書物、それらがこの例である。書物は物理的対象であり、したがって世界1に属している。だが、それが人間の心の重要な所産であるのは、その《内容》のためである。内容は本ごとや版ごとで変わりはしない。そしてその内容は世界3に属している。

 私の主要なテーゼの一つは、世界3の対象は4節の意味で、つまり世界1の中での物象化ないし具現化においてのみでなく、それらの世界3の中ででの諸相においても実在的であり得るということである。

世界3の対象として、それらは、人間に他の世界3の対象を作り出させるかもしれない、したがって世界1に働きかけるかもしれない。私は世界1とのこの相互作用――間接的な相互作用であっても――を、対象を実在的と呼ぶ決定的な論証と考える。

 したがって、一人の彫刻家の新しい作品製作に鼓舞されて、他の彫刻家たちはそれを模写し、類似の彫刻を刻むかもしれない。彼の作品は――その物質的側面よりはむしろ彼が創作した新しい形を通して――他の彫刻家たちの世界2の経験として、そして間接的には、新しい世界1の対象を通して、彼らに影響を与えることができる。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P2章 世界1・2・3、11――世界3の実在性(上)pp.66-67、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:世界3)
宇宙進化の諸段階
世界3
(人間の心の所産)
(6)(技術を含む)芸術と科学の諸成果
(7) 人間言語、自我と死についての諸理論
世界2
(主観的経験の世界)
(4) 自我と死についての意識
(3) 感覚意識(動物意識)
世界1
(物理的対象の世界)
(2) 生命有機体
(1) 重元素:液体と結晶
(0) 水素とヘリウム
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P1章 唯物論は自らを超越する、7――この世界に新しいものは何もない。還元主義と《下向きの相互作用》(上)p.31、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年8月9日木曜日

01.錯視を用いて意識的知覚を研究する利点:(a)コンシャスアクセスに焦点を絞る、(b)種々のトリックを用いた意識の自由な操作、(c)主観的な報告を、純粋な科学データとして扱うこと。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

錯視を用いた意識的知覚の研究

【錯視を用いて意識的知覚を研究する利点:(a)コンシャスアクセスに焦点を絞る、(b)種々のトリックを用いた意識の自由な操作、(c)主観的な報告を、純粋な科学データとして扱うこと。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))】

 錯視を用いて意識的知覚を研究する利点。
(a)コンシャスアクセスに焦点を絞ること。
(b)種々のトリックを用いた意識の自由な操作。
(c)主観的な報告を、純粋な科学データとして扱うこと。
 錯視は非常に主観的なもので、見ている本人しか経験できない。それにもかかわらず、結果は何度でも再現でき、誰にも同種の経験が得られる。

 「実のところ、クリックとコッホは新たな問題を提起したのだ。彼らに続いて、何十もの研究室が、先の例のような基本的な錯視を用いて意識を研究し始めた。これらの研究プログラムでは、次の三つの利点によって意識的知覚の実験が可能になった。第一に、錯視の説明は、意識に関する複雑な概念を必要としない。見ているのか見ていないのかという、私がコンシャスアクセスと呼ぶ経験に焦点を絞ればよい。第二に、よく知られた種々の錯視を研究に利用できる。これから見ていくように、認知科学者は、単語、画像、音、そしてゴリラすら思いのままに消滅させる何十ものテクニックを開発してきた。三点目は次のとおり。これらの錯視は非常に主観的なもので、たとえば先の例では、見ている本人しか、いつどの円が消えたかを言えない。それにもかかわらず、結果は何度でも再現でき、誰にも同種の経験が得られる。このように、私たちの気づきのなかで、現実に何か特異で魅力的な現象が生じることは否定しがたい。私たちにこの点を真剣に考慮すべきだ。
 「コンシャスアクセスに焦点を絞ること」「種々のトリックを用いた意識の自由な操作」「主観的な報告を純粋な科学データとして扱うこと」。これら三つの重要なアプローチによって、意識を科学の対象として扱えるようになった。」
(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第1章 意識の実験,紀伊國屋書店(2015),pp.34-34,高橋洋(訳))
(索引:錯視,コンシャスアクセス)

意識と脳――思考はいかにコード化されるか


(出典:wikipedia
スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「160億年の進化を経て発達した皮質ニューロンのネットワークが提供する情報処理の豊かさは、現在の私たちの想像の範囲を超える。ニューロンの状態は、部分的に自律的な様態で絶えず変動しており、その人独自の内的世界を作り上げている。ニューロンは、同一の感覚入力が与えられても、その時の気分、目標、記憶などによって異なったあり方で反応する。また、意識の神経コードも脳ごとに異なる。私たちは皆、色、形状、動きなどに関して、神経コードの包括的な一覧を共有するが、それを実現する組織の詳細は、人によって異なる様態で脳を彫琢する、長い発達の過程を通じて築かれる。そしてその過程では、個々シナプスが選択されたり除去されたりしながら、その人独自のパーソナリティーが形成されていく。
 遺伝的な規則、過去の記憶、偶然のできごとが交錯することで形作られる神経コードは、人によって、さらにはそれぞれの瞬間ごとに独自の様相を呈する。その状態の無限とも言える多様性は、環境に結びついていながら、それに支配はされていない内的表象の豊かな世界を生む。痛み、美、欲望、後悔などの主観的な感情は、この動的な光景のもとで、神経活動を通して得られた、一連の安定した状態のパターン(アトラクター)なのである。それは本質的に主観的だ。というのも、脳の動力学は、現在の入力を過去の記憶、未来の目標から成る布地へと織り込み、それを通して生の感覚入力に個人の経験の層を付与するからである。
 それによって出現するのは、「想起された現在」、すなわち残存する記憶と未来の予測によって厚みを増し、常時一人称的な観点を外界に投影する、今ここについてのその人独自の暗号体系(サイファー)だ。これこそが、意識的な心の世界なのである。
 この絶妙な生物機械は、あなたの脳の内部でたった今も作動している。本書を閉じて自己の存在を改めて見つめ直そうとしているこの瞬間にも、点火したニューロンの集合の活動が、文字通りあなたの心を作り上げるのだ。」
(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第7章 意識の未来,紀伊國屋書店(2015),pp.367-368,高橋洋(訳))
(索引:)

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人生の約3分の1を占める睡眠は、きわめて能動的な状態である:(a)意識的、無意識的な出来事が、見直され、関連づけられ、保管され、破棄される。(b)グリアに関連する数百の遺伝子が合成されている。(R・ダグラス・フィールズ(19xx-))

睡眠

【人生の約3分の1を占める睡眠は、きわめて能動的な状態である:(a)意識的、無意識的な出来事が、見直され、関連づけられ、保管され、破棄される。(b)グリアに関連する数百の遺伝子が合成されている。(R・ダグラス・フィールズ(19xx-))】

 人生の約3分の1を占める睡眠は、単なる休止状態ではなく、きわめて能動的な精神作用である。
(1)睡眠中は、身体を動かなくさせて、自由奔放な脳内の活動によって、身体が危険な運動を起こさないようにしている。
(2)意識的、無意識的な出来事が、情報の種類や、別の出来事との関連性、内面的な心情によって判断した重要さの度合いなどの要因に従って、見直され、仕分けされ、関連づけられ、再考され、脳内の一つの部位から大脳皮質のさまざまな場所に移されて保管され、さらには破棄される。
(3)睡眠中の脳内では、数百の遺伝子が合成されている。これら遺伝子の多くが、グリアにしか見つからない。例として、レム睡眠中の脳内で最も活発に合成される遺伝子のいくつかは、ミエリンを形成するオリゴデンドロサイトに存在する遺伝子だ。

 「私たちの無意識と意識の中間には、睡眠という変容した精神状態がある。もしあなたが75歳まで生きるとしたら、そのうちの25年ぐらいは、おそらく眠って過ごすことになるだろう。人生の大きな割合を占めるその期間に、脳内で何が起こっているのかは、知ることも理解することもほとんどできない。睡眠は私たち自身の不可解な、それでいて神秘的な部分だ。睡眠がたんなる夜間の休止状態、つまり、暗闇のなかで体内システムの活動を停止しているにすぎないのだとしたら、日中に元気よく身体活動ができるように、エネルギーを節約するための合理的な戦略として納得できる。睡眠は、長い時間操作がないと、節電のためにラップトップコンピューターが一時的な休止状態になるようなものかもしれない。ところが、睡眠中にヒトの(さらに言えば、動物の)脳内で起こっていることは、休止状態とはかけ離れている。睡眠中、脳は忙しく働いているのだ。それは変容した精神状態だが、けっして不活発ではない。睡眠は能動的な精神作用であり、その過程で一部の脳回路が身体を動かなくさせて、私たちの精神が夜間の自由奔放な空想のなかで躍動できるようにしている。このように体が動かせないおかげで、私たちはベッドから飛び出して、夢の中の追手から走って逃げたり、夢見心地で体験しているどんな空想も追いかけていったりせずにすむのだ。
 膨大な量の活動がさまざまな脳回路を往来するために、夜間の無意識な生活における脳内活動には、周期とパターンが作り出されている。そのなかで、その日にあった出来事(意識的および無意識的の両方)が見直され、仕分けされ、関連づけられ、再考され、保管され、さらには破棄される。それらの記憶は、そこに含まれる情報の種類や、別の出来事との関連性、内面的な心情によって判断した重要さの度合いなどの要因に従って、脳内の一つの部位(訳注;海馬)から大脳皮質のさまざまな場所に移されて保管される。この変容した意識状態は、おそらくあなたの存在の三分の一ほどを占めるだろうが、科学にとって今なお謎であり、研究するのは難しい。私たちが眠っているとき、グリアには何が起こっているのだろうか? さらに興味深いのは、私たちが睡眠と呼んでいるこの精神状態の制御に、グリアは関与しているのかという疑問だ。
 遺伝子チップ(何千もの遺伝子の活動を同時にモニターすることを可能にした新しい研究手法)を用いて、睡眠の異なる位相でオンオフする脳組織内の遺伝子の変化を検出した研究から、ある洞察が浮び上がってきた。この研究によれば、レム睡眠とノンレム睡眠の各位相で、脳内では数百の遺伝子が合成されているという(レム睡眠とは、「急速眼球運動睡眠」とも称され、夢を見ている睡眠の位相である)。最近判明した驚くべき事実は、睡眠中に合成される遺伝子の多くが、グリアにしか見つからないことだった。実際に、レム睡眠中の脳内で最も活発に合成される遺伝子のいくつかは、ミエリンを形成するオリゴデンドロサイトに存在する遺伝子だ。その理由は、誰にもわからない。しかしこれは、私たちが眠っている間も、グリアはけっして眠っていないことを示す有力な証拠である。グリアは、私たちがまだ理解していない何らかの仕事に精を出しているのだ。」
(R・ダグラス・フィールズ(19xx-),『もうひとつの脳』,第3部 思考と記憶におけるグリア,第13章 「もうひとつの脳」の心――グリアは意識と無意識を制御する,講談社(2018),pp.442-445,小松佳代子(訳),小西史朗(監訳))
(索引:睡眠,グリア,ミエリン,オリゴデンドロサイト)

もうひとつの脳 ニューロンを支配する陰の主役「グリア細胞」 (ブルーバックス)


(出典:R. Douglas Fields Home Page
R・ダグラス・フィールズ(19xx-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「アストロサイトは、脳の広大な領域を受け持っている。一個のオリゴデンドロサイトは、多数の軸索を被覆している。ミクログリアは、脳内の広い範囲を自由に動き回る。アストロサイトは一個で、10万個ものシナプスを包み込むことができる。」(中略)「グリアが利用する細胞間コミュニケーションの化学的シグナルは、広く拡散し、配線で接続されたニューロン結合を超えて働いている。こうした特徴は、点と点をつなぐニューロンのシナプス結合とは根本的に異なる、もっと大きなスケールで脳内の情報処理を制御する能力を、グリアに授けている。このような高いレベルの監督能力はおそらく、情報処理や認知にとって大きな意義を持っているのだろう。」(中略)「アストロサイトは、ニューロンのすべての活動を傍受する能力を備えている。そこには、イオン流動から、ニューロンの使用するあらゆる神経伝達物質、さらには神経修飾物質(モジュレーター)、ペプチド、ホルモンまで、神経系の機能を調節するさまざまな物質が網羅されている。グリア間の交信には、神経伝達物質だけでなく、ギャップ結合やグリア伝達物質、そして特筆すべきATPなど、いくつもの通信回線が使われている。」(中略)「アストロサイトは神経活動を感知して、ほかのアストロサイトと交信する。その一方で、オリゴデンドロサイトやミクログリア、さらには血管細胞や免疫細胞とも交信している。グリアは包括的なコミュニケーション・ネットワークの役割を担っており、それによって脳内のあらゆる種類(グリア、ホルモン、免疫、欠陥、そしてニューロン)の情報を、文字どおり連係させている。」
(R・ダグラス・フィールズ(19xx-),『もうひとつの脳』,第3部 思考と記憶におけるグリア,第16章 未来へ向けて――新たな脳,講談社(2018),pp.519-520,小松佳代子(訳),小西史朗(監訳))
(索引:)

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他人が物理的な痛みを受けているところを見ると、その視覚情報が、痛みを与える対象(例えば針)から退避しようとする筋肉運動または潜在的な運動を引き起こし、これが他人の痛みを身体的に了解させる。(マルコ・イアコボーニ(1960-))

痛みの共感

【他人が物理的な痛みを受けているところを見ると、その視覚情報が、痛みを与える対象(例えば針)から退避しようとする筋肉運動または潜在的な運動を引き起こし、これが他人の痛みを身体的に了解させる。(マルコ・イアコボーニ(1960-))】

 「ミラーニューロンが他人の行動を見ただけで活性化されるという基本観察にもとづいて、アーリオッティらは銅コイルを使い、針が他人の手と足を突き刺すところを被験者がビデオテープで見ているときの運動皮質の興奮性を測定した。比較対照のために、被験者は無害な綿棒が手と足を軽くこするところ、および、針が手でも足でもなく、トマトを突き刺すところも見せられた。この間ずっと、手を針のほうに向って動かすのを助ける手の筋肉の興奮性が測定された。あわせて、その筋肉の隣にある、手を針に向って動かすことにも針から遠ざかるように動かすことにも関係しない手の筋肉の興奮性も測定された。
 予測はこうだ――被験者側の共感的な痛みの反応が、手を針に《向って》動かす筋肉の興奮性を減少させるだろう。そして結果は、予想どおりだった。手を針に向って動かす筋肉を制御する運動皮質は、針が手を突き刺すところを被験者が見ているときには、針が足やトマトを突き刺すところ、あるいは綿棒がこすりつけられるところを見ているときに比べ、興奮性が低くなっていたのである。痛みを観察しているときに興奮性が弱まるのは、針に突き刺される筋肉だけに限られていた。その隣の手の筋肉は、興奮性にまったく変化がなかった。さらに被験者は実験後、ビデオで見た人間が感じたと思われる痛みの強度を評価するように求められた。その答えをアーリオッティらが分析してみると、実験中の筋肉の運動興奮性が低かった被験者ほど、痛みを強く評価していることがわかった。要するに、観察した痛みに対する共感が強ければ強いほど、その人の脳は針からの「撤退」行動を強くシミュレートするのである。
 この実験により、私たちの脳は観察された他人の苦痛経験の《完全なシミュレーション》を――運動の部分まで含めて――成り立たせることが実証された。痛みは基本的に個人の経験だと思うのが普通の認識だが、じつのところ、私たちの脳はそれを他人と共有される経験として扱っている。このような神経メカニズムは社会的絆を築くのに不可欠なものだ。また、他人の苦痛経験に対するこのようなかたちの共鳴は、進化と発達の観点から見ると、おそらく共感メカニズムの比較的初期のものであろう。もっと抽象的なかたちの共感は、身体的なミラーリングよりも、むしろ感情的なミラーリングにもとづいて成り立つのかもしれない。言い換えれば、もっと抽象的な状況の場合、私たちは痛みの感情的な側面をミラーリングすることによって共感を覚えられるのかもしれない。たとえば相手の表情や身体の姿勢、身ぶりなどが見えていない状況にあったら、私たちはどうやって他人に共感するのだろうか。」
(マルコ・イアコボーニ(1960-),『ミラーニューロンの発見』,第4章 私を見て、私を感じて,早川書房(2009),pp.155-157,塩原通緒(訳))
(索引:痛みの共感)

ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 (ハヤカワ新書juice)


(出典:UCLA Brain Research Institute
マルコ・イアコボーニ(1960-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ミラーリングネットワークの好ましい効果であるべきものを抑制してしまう第三の要因は、さまざまな人間の文化を形成するにあたってのミラーリングと模倣の強力な効果が、きわめて《局地的》であることに関係している。そうしてできあがった文化は互いに連結しないため、昨今、世界中のあちこちで見られるように、最終的に衝突にいたってしまう。もともと実存主義的現象学の流派では、地域伝統の模倣が個人の強力な形成要因として強く強調されている。人は集団の伝統を引き継ぐ者になる。当然だろう? しかしながら、この地域伝統の同化を可能にしているミラーリングの強力な神経生物学的メカニズムは、別の文化の存在を明かすこともできる。ただし、そうした出会いが本当に可能であるならばの話だ。私たちをつなぎあわせる根本的な神経生物学的機構を絶えず否定する巨大な信念体系――宗教的なものであれ政治的なものであれ――の影響があるかぎり、真の異文化間の出会いは決して望めない。
 私たちは現在、神経科学からの発見が、私たちの住む社会や私たち自身についての理解にとてつもなく深い影響と変化を及ぼせる地点に来ていると思う。いまこそこの選択肢を真剣に考慮すべきである。人間の社会性の根本にある強力な神経生物学的メカニズムを理解することは、どうやって暴力行為を減らし、共感を育て、自らの文化を保持したまま別の文化に寛容となるかを決定するのに、とても貴重な助けとなる。人間は別の人間と深くつながりあうように進化してきた。この事実に気づけば、私たちはさらに密接になれるし、また、そうしなくてはならないのである。」
(マルコ・イアコボーニ(1960-),『ミラーニューロンの発見』,第11章 実存主義神経科学と社会,早川書房(2009),pp.331-332,塩原通緒(訳))
(索引:)

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側頭葉のV4野は、色の処理に特化しており、損なわれると、世界全体から色が消えてしまう。視覚野のうち、MT野とV4野以外の大部分の領域は、その機能があまり明瞭にあらわれてこない。(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-))

色覚中枢のV4野

【側頭葉のV4野は、色の処理に特化しており、損なわれると、世界全体から色が消えてしまう。視覚野のうち、MT野とV4野以外の大部分の領域は、その機能があまり明瞭にあらわれてこない。(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-))】
(再掲) 視覚は、多数の視覚野で実現されており、各視覚野はそれぞれ視覚の異なる諸面に特化しているらしい。一例として、側頭葉のMT野は、運動視に関与しており、MT野が損なわれると運動盲が発生する。  他の例として、側頭葉のV4野は、色の処理に特化しており、損なわれると、世界全体から色が消えてしまう。
 ほかの大部分の視覚野は、損傷を受けた場合にも、画像や電気刺激などを用いた研究でも、その機能があまり明瞭にあらわれてこない。理由としては、
(a)それらの領野が、それほど狭く特化していないためかもしれない。
(b)その機能が、ほかの領域で容易に補われるためかもしれない。
(c)一つの機能を構成する要素について、まだ私たちの定義が未だ曖昧だからなのかもしれない。

 「同様に、側頭葉にあるV4と呼ばれる領野は、色の処理に特化していると思われる。この領野が両側とも損傷されると、世界全体から色が消えて白黒映画のようになってしまうが、そのほかの視覚機能はまったくそこなわれないらしく、動きの知覚、顔の認知、文字を読むことなどには、なんの問題もみられない。そしてMT野の場合と同じように、単一ニューロンの研究や脳機能画像や直接的な電極刺激など、多方面から、V4野が「色覚中枢」であることを示す所見が得られる。
 残念ながらMT野やV4野とはちがって、霊長類のほかの大部分の視覚野は、損傷を受けた場合にも、画像や電気刺激などを用いた研究でも、その機能があまり明瞭にあらわれてこない。これは、それらの領野がそれほど狭く特化していないためかもしれないし、その機能が(障害物を回避して流れる水のように)ほかの領域で容易におぎなわれるためかもしれない。あるいは、一つの機能を構成する要素についての私たちの定義があいまいだからなのかもしれない(コンピュータ科学者の言う「不良設定」問題なのかもしれない)。」
(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-),『物語を語る脳』,第2章 見ることと知ること,(日本語名『脳のなかの天使』),角川書店(2013),p.96,山下篤子(訳))
(索引:色覚中枢,V4野)

脳のなかの天使



(出典:wikipedia
ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「バナナに手をのばすことならどんな類人猿にもできるが、星に手をのばすことができるのは人間だけだ。類人猿は森のなかで生き、競いあい、繁殖し、死ぬ――それで終わりだ。人間は文字を書き、研究し、創造し、探究する。遺伝子を接合し、原子を分裂させ、ロケットを打ち上げる。空を仰いでビッグバンの中心を見つめ、円周率の数字を深く掘り下げる。なかでも並はずれているのは、おそらく、その目を内側に向けて、ほかに類のない驚異的なみずからの脳のパズルをつなぎあわせ、その謎を解明しようとすることだ。まったく頭がくらくらする。いったいどうして、手のひらにのるくらいの大きさしかない、重さ3ポンドのゼリーのような物体が、天使を想像し、無限の意味を熟考し、宇宙におけるみずからの位置を問うことまでできるのだろうか? とりわけ畏怖の念を誘うのは、その脳がどれもみな(あなたの脳もふくめて)、何十億年も前にはるか遠くにあった無数の星の中心部でつくりだされた原子からできているという事実だ。何光年という距離を何十億年も漂ったそれらの粒子が、重力と偶然によっていまここに集まり、複雑な集合体――あなたの脳――を形成している。その脳は、それを誕生させた星々について思いを巡らせることができるだけでなく、みずからが考える能力について考え、不思議さに驚嘆する自らの能力に驚嘆することもできる。人間の登場とともに、宇宙はにわかに、それ自身を意識するようになったと言われている。これはまさに最大の謎である。」
(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-),『物語を語る脳』,はじめに――ただの類人猿ではない,(日本語名『脳のなかの天使』),角川書店(2013),pp.23-23,山下篤子(訳))

ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-)
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23.社会的情動のいくつかは集団と関係し、集団内と集団外に対して異なる機能を持つ。人間の文化の歴史は、これら情動を、個的な集団の制約を超え、最終的には人類全体の包含を目指した努力の歴史である。(アントニオ・ダマシオ(1944-))

社会的情動と集団

【社会的情動のいくつかは集団と関係し、集団内と集団外に対して異なる機能を持つ。人間の文化の歴史は、これら情動を、個的な集団の制約を超え、最終的には人類全体の包含を目指した努力の歴史である。(アントニオ・ダマシオ(1944-))】

(a)親切な情動、賞賛に値する適応的利他主義は、集団と関係がある。家族、部族、市、国などである。
(b)集団外のものに対する反応は、少しも親切ではない。適切なはずの情動が、集団外に向けられると、いとも簡単に悪意に満ちた、残忍なものになる。その結果が、怒り、恨み、暴力である。それらすべては、部族間の憎しみや人種差別や戦争の潜在的な芽として容易に認識できる。
(c)われわれ人間の文化の歴史は、ある程度まで、最善の「道徳的感情」を、個的な集団の制約を超え、最終的には人類全体を包含するように、より広い世界へ広めていこうとする努力の歴史である。
(d)その仕事は、まったく、未だ完成していない。

参照: 社会的情動:共感、当惑、恥、罪悪感、プライド、嫉妬、羨望、感謝、賞賛、憤り、軽蔑など
 「進化とその手荷物である遺伝子はこのような適切な行動をわれわれにもたらすことで事態をよくしてきた、などと考えないように一つ指摘をしておこう。 

親切な情動、賞賛に値する適応的利他主義は、〈集団〉と関係がある。動物の世界では、こうした集団には、たとえばオオカミの群れやサルの群れがある。人間界には、家族、部族、市、国などがある。

しかし反応の進化史が示していることは、集団外のものに対する反応は少しも親切ではないということ。 

適切なはずの情動が、集団外に向けられると、いとも簡単に悪意に満ちた、残忍なものになる。その結果が、怒り、恨み、暴力である。

それらすべては、部族間の憎しみや人種差別や戦争の潜在的な芽として容易に認識できる。

最善の人間の行動はかならずしもゲノムの制御下で用意されてはいないという事実を忘れてはならない。

われわれ人間の文化の歴史は、ある程度まで、最善の「道徳的感情」を、個的な集団の制約を超え最終的には人類全体を包含するように、より広い世界へ広めていこうとする努力の歴史である。その仕事がまったく終わっていないことは、新聞の見出しを読めば簡単にわかる。」

(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、p.214、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))
(索引:社会的情動,集団)

感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ


(出典:wikipedia
アントニオ・ダマシオ(1944-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「もし社会的情動とその後の感情が存在しなかったら、たとえ他の知的能力は影響されないという非現実的な仮定を立てても、倫理的行動、宗教的信条、法、正義、政治組織といった文化的構築物は出現していなかったか、まったく別の種類の知的構築物になっていたかのいずれかだろう。が、少し付言しておきたい。私は情動と感情だけがそうした文化的構築物を出現させているなどと言おうとしているのではない。第一に、そうした文化的構築物の出現を可能にしていると思われる神経生物学的傾性には、情動と感情だけでなく、人間が複雑な自伝を構築するのを可能にしている大容量の個人的記憶、そして、感情と自己と外的事象の密接な相互関係を可能にしている延長意識のプロセスがある。第二に、倫理、宗教、法律、正義の誕生に対する単純な神経生物学的解釈にはほとんど望みがもてない。あえて言うなら、将来の解釈においては神経生物学が重要な役割を果たすだろう。しかし、こうした文化的現象を十分に理解するには、人間学、社会学、精神分析学、進化心理学などからの概念と、倫理、法律、宗教という分野における研究で得られた知見を考慮に入れる必要がある。実際、興味深い解釈を生み出す可能性がもっとも高いのは、これらすべての学問分野と神経生物学の〈双方〉から得られた統合的知識にもとづいて仮説を検証しようとする新しい種類の研究だ。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、pp.209-210、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))

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2人以上の行為者が、相手の行為の意図を互いに、自己の潜在的運動行為として自動的に了解し合っているとき、この相互関係の状況を「行為の共有空間」と呼ぶ。これは、ミラーニューロンが実現している。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))

行為の共有空間

【2人以上の行為者が、相手の行為の意図を互いに、自己の潜在的運動行為として自動的に了解し合っているとき、この相互関係の状況を「行為の共有空間」と呼ぶ。これは、ミラーニューロンが実現している。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))】

行為の共有空間
(a)観察者A=行為者A
 (a1) 他者が対象物へ働きかける運動行為を見るとき、その対象物をつかむ、持つといった運動特性に呼応した、観察者が知っている運動感覚の表象が自動的に現れる。この表象が行為の「意味」であり、他者の「意図」である。
 (a2)すなわち、行為者Bの行為が、単独の行為であっても行為の連鎖であっても、観察された状況に最もふさわしい型の観察者Aの潜在行為として表象され、行為者Bが好むと好まざるとにかかわらず、観察者Aに対して意味を持つ。ここでは、意図的な「認知作業」はいっさい必要ない。
(b)行為者B=観察者B
 同時にBは、Aの行為を見るとき、その行為はただちにBに対して意味を持つ。
(c)このように、2人以上の行為者が、相手の行為の意図を互いに、自己の潜在的運動行為として自動的に了解し合っているとき、この相互関係の状況を「行為の共有空間」と呼ぶ。これは、ミラーニューロンが実現している。

 「「見る側の行為」は潜在的な運動行為であり、ミラーニューロンの活性化によって引き起こされる。ミラーニューロンは運動の言語で感覚情報をコードし、私たちが他者のすることを見てただちにそれを理解する能力の根底にある、行為と意図の「相互関係」を可能にする。他者の意図の理解とは、この場合、心理化、すなわちメタ表象活動に基づくのではなく、観察された状況に最もふさわしい行為の連鎖の選択にかかっている。誰かが何かをするのを見たとたん、それが単独の行為であっても行為の連鎖であっても、相手が好むと好まざるとにかかわらず、その動きはただちに私たちにとって意味を持つ。当然、その逆も成り立つ。私たちの行為はそれを見ている人にとってただちに意味を持つ。ミラーニューロン系と、それを作り上げているニューロンの反応の選択性が「行為の共有空間」を生み出し、その中で、個々の行為や行為の連鎖が、それが自分たちのものであろうと他者のものであろうと、ただちに記録され理解される。明確な、あるいは意図的な「認知作業」はいっさい必要ない。」
(ジャコモ・リゾラッティ(1938-),コラド・シニガリア(1966-),『ミラーニューロン』,第5章 ヒトのミラーニューロン,紀伊國屋書店(2009),pp.148-149,柴田裕之(訳),茂木健一郎(監修))
(索引:行為の共有空間)

ミラーニューロン


(出典:wikipedia
ジャコモ・リゾラッティ(1938-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「みなさんは、行為の理解はまさにその性質のゆえに、潜在的に共有される行為空間を生み出すことを覚えているだろう。それは、模倣や意図的なコミュニケーションといった、しだいに複雑化していく相互作用のかたちの基礎となり、その相互作用はますます統合が進んで複雑化するミラーニューロン系を拠り所としている。これと同様に、他者の表情や動作を知覚したものをそっくり真似て、ただちにそれを内臓運動の言語でコードする脳の力は、方法やレベルは異なっていても、私たちの行為や対人関係を具体化し方向づける、情動共有のための神経基盤を提供してくれる。ここでも、ミラーニューロン系が、関係する情動行動の複雑さと洗練の度合いに応じて、より複雑な構成と構造を獲得すると考えてよさそうだ。
 いずれにしても、こうしたメカニズムには、行為の理解に介在するものに似た、共通の機能的基盤がある。どの皮質野が関与するのであれ、運動中枢と内臓運動中枢のどちらがかかわるのであれ、どのようなタイプの「ミラーリング」が誘発されるのであれ、ミラーニューロンのメカニズムは神経レベルで理解の様相を具現化しており、概念と言語のどんなかたちによる介在にも先んじて、私たちの他者経験に実体を与えてくれる。」
(ジャコモ・リゾラッティ(1938-),コラド・シニガリア(1966-),『ミラーニューロン』,第8章 情動の共有,紀伊國屋書店(2009),pp.208-209,柴田裕之(訳),茂木健一郎(監修))
(索引:)

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