2020年4月21日火曜日

9.災厄が迫っている時に、もう手遅れだと考えて、救済策を施すのを躊躇ってはならない。後になって振り返ると、あの時、怠ったばかりに重大な結果を招いたのだということが明確になる事例が多い。まだ間に合う。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))

まだ間に合う

【災厄が迫っている時に、もう手遅れだと考えて、救済策を施すのを躊躇ってはならない。後になって振り返ると、あの時、怠ったばかりに重大な結果を招いたのだということが明確になる事例が多い。まだ間に合う。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))】

『戦争においても、多くのほかの重要なことがらにおいても、もう手遅れだというので準備が投げやりにされているという事態を、これまでたびたび目にしてきた。

 ところが後になって、あのとき準備をしていたならまだ間にあったはずだったことがわかってきて、それを怠ったばかりに重大な損害をこうむることがはっきりしてくるものである。

 このようなことになるのも、一般にものごとの進歩や速度は予想されるよりもはるかにのろいからである。したがって、君が一ヶ月でやりおおせると判断していたことを三ヶ月も四ヶ月もたって完成できないでいるということが、しばしばおこるものである。この断章は重要である。君の心すべきことだ。』(C162)

『戦争のばあいにはなおさらのことだが、災厄が迫っているときに、もう手遅れだと考えて、救済策をほどこすのをはねつけたり、おろそかにすることがあってはならない。

 というのは、災厄の進行速度は、われわれが考えているよりはるかにのろいことが多いからだ。それは災厄そのものの本来の性格であるのと、さまざまな障害物につきあたるからである。

 したがって、もうおそすぎると判断したために君がとりあげなかった救済策も、間に合うことがよくあるものである。私は、たびたびこのことを経験したのである。』(B173)
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540),『リコルディ』,日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』,C162,B172,講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))
(索引:)

フィレンツェ名門貴族の処世術―リコルディ (講談社学術文庫)



(出典:wikipedia
フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)の命題集(Propositions of great philosophers)  「この書物の各断章を考えつくのはたやすいことではないけれども、それを実行に移すのはいっそうむずかしい。それというのも、人間は自分の知っていることにもとづいて行動をおこすことはきわめて少ないからである。したがって君がこの書物を利用しようと思えば、心にいいきかせてそれを良い習慣にそだてあげなければならない。こうすることによって、君はこの書物を利用できるようになるばかりでなく、理性が命ずることをなんの抵抗もなしに実行できるようになるだろう。」
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)B、100 本書の利用のし方、p.227、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))

フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)
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2020年4月20日月曜日

国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。なぜなら(a)協定や条約の不履行を何ら義務違反と考えないのは事実に反するし(b)自ら課した責務という観念は、既にあるルールの存在を前提にしているからである。(ハーバート・ハート(1907-1992))

国際法の意思主義,自己制限論

【国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。なぜなら(a)協定や条約の不履行を何ら義務違反と考えないのは事実に反するし(b)自ら課した責務という観念は、既にあるルールの存在を前提にしているからである。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)国際法の意思主義、自己制限論
 国家は絶対的な主権を持っており、すべての国際的責務は、自ら課した責務から生じる。
(2)国際法の意思主義、自己制限論への反論
 (2.1)なぜ、約束から国際的責務が生じるのかを、説明することができない。
 (2.2)論理的に首尾一貫していない。
  (a)絶対的な主権を持っているのに、なぜ制約を受けるのか。
  (b)国家の協定あるいは条約の取り決めは、国家がもくろんでいる将来の行動の単なる宣言であるとされ、その不履行は何ら義務の違反とは考えられないとすれば、論理的には一貫する。しかし、「不履行が何ら義務の違反とはならない」は、事実に反している。
  (c)自ら課した責務という観念は、ある言葉が一定の状況において約束、協定あるいは条約として機能し、その結果責務を生じ、請求可能な権利を相手方に与えるようなルールがはじめから存在していることを前提にしているが、いま前提したルールの存在は、自ら課したものではなく、矛盾している。

 「だから現在の異議に対するもっとも簡単な答は、それが考察すべき問題の順序を逆にしているということである。われわれは、国際法の諸形態がどのようなものであるか、そしてそれらは単なる空虚な形態なのかどうかを知ってはじめて、諸国家はどのような主権をもっているかを知りうるのである。この原則が無視されたため、多くの法的議論は混乱してきた。だから「意思主義」あるいは「自己制限」の理論として知られている国際法の理論を、この考えの下で考察することは有益である。これらの理論は、すべての国際的責務を約束から生じる義務のようにみずから課したものとして取り扱うことにより、国家の(絶対)主権を国際法の拘束力あるルールの存在と調和させようと試みた。実際このような理論は、政治学における社会契約論を国際法に当てはめたものである。政治学における社会契約論は、法に従う責務は拘束される人々がお互いになし、あるいは場合によっては彼らの支配者となした契約から生じる責務であるとすることによって、個人は「本来」自由で独立であるにもかかわらず、国内法に拘束されるという事実を説明しようとした。われわれはここにおいては、この理論が文字通り受けとられた場合になされる周知の異議を考察しないし、また単に理解に役立つ類比として受けとられる場合のこの理論の価値をも考察しない。その代わりにわれわれは、国際法の意思主義理論に反対する3つの議論をその歴史から引き出すことにしよう。
 まず第一に、これらの理論は、諸国家はみずから課した責務にのみ拘束され「うる」ということをどうして知るのか、あるいは国際法の実際の性質の検討に先だって、国家の主権に関するこの見解がなぜ受けいれられるべきなのかということを、まったく説明することができない。そのことがしばしば繰り返されてきたという事実のほかに、その見解を支持するものが何かまだあるだろうか。第二に、諸国家は主権をもつのでみずから課したルールにのみ従いまた拘束され《うる》ということを示そうとする議論には、何か一貫しないものがある。「自己制限」理論の非常に極端な形態においては、国家の協定あるいは条約の取り決めは、国家がもくろんでいる将来の行動の単なる宣言であるとされ、その不履行は何ら義務の違反とは考えられない。これは事実とはたいへん矛盾しているけれども、少なくとも一貫性という長所をもっている。すなわちこれは、国家の絶対主権はいかなる種類の責務とも両立しないのであり、だから国家はイギリス議会のように、自己を拘束できないという単純な理論である。しかしながら、国家は約束、協定あるいは条約によってみずから責務を課すことができるとするあまり極端でない説は、国家はみずから課したルールにのみ従うという理論とは矛盾する。なぜなら、話されたものであれ、書かれたものであれ、ある言葉が一定の状況において約束、協定あるいは条約として機能し、その結果責務を生じ、請求可能な権利を相手方に与えるためには、ルールがはじめから存在し、それは国家がしかるべき言葉によって行なうと約束したことを行うよう国家は拘束されると規定していなければならないからである。みずから課した責務という観念そのもののなかに前提されているそのようなルールは、《その》義務的な性質をそのルールに従うというみずから課した責務から引き出せないことは明らかである。
 ある国家が行なうように拘束されているすべての個々の《行動》は、理論的には、たしかに約束からその義務的な性質を引き出すだろう。それにもかかわらず、そう言えるのは、約束その他が責務を生じるという《ルール》が何らかの約束とは別に、国家に適用されている場合にのみである。個人あるいは国家からなる社会において、約束、協定あるいは条約の言葉が責務を生じるために何が必要かつ十分であるかを言えればそれは、そのことを規定し、それらの自己拘束作用のための手続を明記したルールが、普遍的である必要はないが一般的に認識されていることである。それらが認識されているところでは、それらの手続を意識的に用いる個人あるいは国家は、欲しようと欲しまいと、そのことによって拘束されるのである。このように社会的責務のもっとも自発的な形態でさえ、それらに拘束される当事者の選択とは関係なしに、拘束力をもつルールを含んでいる。だからこのことは、国家の場合においては、国家主権はすべてのそのようなルールからの自由を要求するという仮定とは一致しない。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第10章 国際法,第3節 責務と国家の主権,pp.242-243,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),黒沢満(訳))
(索引:国際法の意思主義,国際法の自己制限論,国際法)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2020年4月19日日曜日

闘う勇気を支える真理を探究し、誤謬から解放されるためには、自身の理念を闘う理念と同様に、批判的に考察できることが必要だ。これは、自他の多くの誤りが寛容される開かれた社会においてのみ可能である。(カール・ポパー(1902-1994))

知による自己解放

【闘う勇気を支える真理を探究し、誤謬から解放されるためには、自身の理念を闘う理念と同様に、批判的に考察できることが必要だ。これは、自他の多くの誤りが寛容される開かれた社会においてのみ可能である。(カール・ポパー(1902-1994))】
 「啓蒙主義もロマン派も、世界史のうちに、とりわけ、闘いあう理念の歴史、信仰闘争の歴史を見ています。この点ではわれわれは一致しています。しかし、啓蒙主義をロマン派から分かつものは、これらの理念に対する態度です。ロマン派が尊重するのは、信仰の真理内容がたとえどのようなものであろうとも信仰そのものであり、信仰の強さと深さです。ここにロマン派が、啓蒙主義を軽蔑するもっとも深い根拠があると言ってよいでしょう。なぜなら、啓蒙主義は信仰そのものには――倫理における場合を除いて――不信をもって対立するからです。啓蒙主義は、信仰を単に容認するだけでなく、高く評価もしますが、啓蒙主義が評価するものは、何と言っても、信仰そのものではなく真理です。絶対的真理のようなものが存在すること、われわれはこの真理に近づくことができるということ、これが、ロマン派の歴史的相対主義とは対立する啓蒙哲学の根本的確信です。
 しかし、真理に近づくことは容易ではありません。ただひとつの道、つまり、われわれの誤りを通っていく道があるのみです。われわれの犯した誤りからのみわれわれは学ぶことができるのです。そして他人の誤りを真理への歩みと評価する用意のある者、自分自身の誤りを《さがして》、それから解放されようとする者だけが学ぶのであると言えましょう。
 知による自己解放の理念は、たとえば自然支配の理念と同じものではありません。それはむしろ、誤りからの、誤った信仰からの《精神的》自己解放の理念です。それは、自分自身の理念を批判することによる精神的自己解放の理念です。
 啓蒙主義が狂信とファナティックな信仰を断罪したのは、単に有用性の根拠からでもなく、また、政治や実際生活においてはもっと冷静な醒めた態度による方がより前進できると期待したからでもありません。狂信的信仰に対する断罪は、むしろ、われわれの誤りを批判することによる真理探究という理念から帰結してくることがらなのです。そして、そのような自己批判および自己解放は、多元主義的雰囲気のなかでのみ、つまり、われわれの誤りと他の多くの誤りが寛容される開かれた社会においてのみ可能なのです。
 ですから、啓蒙主義の主張した知による自己解放の理念は、われわれをわれわれの理念と同一視する代わりに、われわれはわれわれ自身の理念から身を引き離すことを学ばねばならないという理念をはじめから含んでいます。理念のもつ精神的威力が認識されるならば、誤った理念のもつ精神上の圧倒的影響力から自己を解放するという課題が生じてきます。真理を探究し誤謬から解放されるために、われわれは、われわれ自身の理念を、われわれが闘う理念と同様に、批判的に考察できるよう自らを教育しなければなりません。
 これは決して相対主義への譲歩ではありません。なぜなら、誤謬の観念は真理の観念を前提するからです。他の人が正しく、そしておそらくはわれわれが間違ったのだと認めることは、肝要なのは立場のみであるとか、相対主義者の言うように、誰もが自分の立場からすれば正しく、他の立場からは正しくないのだということを意味するものではありません。西欧の民主主義において多くの人は、自らがしばしば誤っており、相手の方が正しいことを学んできました。しかし、この重要な教訓を吸収した人々のうち、余りにも多くの人々が相対主義に落ち込んでしまいました。自由で多元主義的な社会を創ろう――知による自己解放のための枠組みとして――というわれわれの大きな歴史的課題において、こんにちわれわれにもっとも必要なのは、相対主義者あるいは懐疑論者にならずに、またわれわれの確信のために闘う勇気と決心を失わずに、自分たちの理念に批判的に向かいあうことを可能にするような態度に向けて、われわれ自身を教育することです。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第10章 知による自己解放,pp.233-235,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:知による自己解放,開かれた社会,寛容,誤謬からの解放)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。倫理的目標は、公共的な悪と闘って、多くの成果を上げてきた。ただし、自らの政治目標を狂信せず、多様な異論を尊重することの重要性を学んでいる場合だけである。(カール・ポパー(1902-1994))

倫理的目標の有効性とその条件

【歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。倫理的目標は、公共的な悪と闘って、多くの成果を上げてきた。ただし、自らの政治目標を狂信せず、多様な異論を尊重することの重要性を学んでいる場合だけである。(カール・ポパー(1902-1994))】

参考:歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。例えば、永遠平和の理念は国際政治上の目標として承認されている。たとえ未だ厳しい現実と課題解決の困難さが存在しても、目標設定の価値を過小評価してはならない。(カール・ポパー(1902-1994))

参考:歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。しかし、倫理的に異論のない善き意志と善き信仰、また啓蒙や合理主義の理念も、それが狂信的な信仰になるならば、常に禍であり、多元的な社会秩序とは相容れない。(カール・ポパー(1902-1994))

 「狂信とその行き過ぎを避けることはそもそも可能なのでしょうか。歴史は、あらゆる倫理的な目標設定が無益であることを教えてはいないでしょうか。というのも、まさに、そうした目標が歴史的役割を演ずることができるとしたら、狂信的な信仰によって担われる場合のみであるからではないでしょうか。またあらゆる革命の歴史は、倫理的な理念への熱狂的な信仰が、その理念を絶えず反対のものに転倒させることを教えてはいないでしょうか。〔あらゆる革命の歴史は〕狂信的信仰が、自由の名において牢獄の扉を解き放つのは、またすぐに新しい犠牲者の背後で扉を閉ざすためであるということを教えてはいないでしょうか。〔あらゆる革命の歴史は〕狂信的信仰がすべての人の平等を布告したにもかかわらず、それは、ただちに、かつての特権階級の子孫を三代四代以上にわたって追求するためであったということを教えてはいないでしょうか。〔あらゆる革命の歴史は〕狂信的信仰は、人間の友愛を布告し、同時にいつでも兄弟の牧者として登場するにもかかわらず、それが犯した殺人行為は兄弟殺しであったことが明らかになるということを教えてはいないでしょうか。歴史は、すべての倫理的理念が有害であり、そして最上の理念はしばしばもっとも有害であることを教えてはいないでしょうか。そして、世界を改善しようという啓蒙主義の理念は、フランス革命およびロシア革命によって、犯罪的ナンセンスであったことを十分に明らかにしたのではないでしょうか。
 こうした問いに対するわたくしの答えは、わたくしの第三の主張に含まれています。その主張の趣旨は、西ヨーロッパおよびアメリカの歴史から、われわれは、歴史に倫理的な意味を与えること、あるいは目標を設定することは決して無益なわけではないことを学びうるということです。もちろん、そうであるからといって、われわれの倫理的目標が完全に実現されたとか、実現されうると主張されるべきではありません。わたくしの主張ははるかにつつましいものです。わたくしはただ、倫理的な規制原理によって鼓舞された社会批判は、多くの場所で成功を収めたこと、それは公共の生活における最大の悪と闘って成果をあげえたことを主張しているにすぎません。
 これがわたくしの第三の主張です。これは、あらゆる悲観的な歴史観の反駁であるという意味で楽観的なものです。なぜなら、われわれ自身が歴史にひとつの倫理的目標をたてるとか、倫理的意味を与えることができるとすれば、すべての循環理論および没落理論は明らかに反駁されるからです。
 しかし、この可能性は、まったくのところ特定の諸条件と結びついているように見えます。社会批判が成功によって飾られたのは、異なった意見を尊重し、自らの政治目標については控え目で醒めていることを学んでいたところ、すなわち、地上に天国を実現しようという試みはあまりにも容易に地上を人間にとっての地獄に変えてしまうことを学んでいたところにおいてだけでした。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第10章 知による自己解放,pp.230-231,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:倫理的目標,狂信的な信仰)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。しかし、倫理的に異論のない善き意志と善き信仰、また啓蒙や合理主義の理念も、それが狂信的な信仰になるならば、常に禍であり、多元的な社会秩序とは相容れない。(カール・ポパー(1902-1994))

狂信的な信仰の害悪

【歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。しかし、倫理的に異論のない善き意志と善き信仰、また啓蒙や合理主義の理念も、それが狂信的な信仰になるならば、常に禍であり、多元的な社会秩序とは相容れない。(カール・ポパー(1902-1994))】
参考:歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。例えば、永遠平和の理念は国際政治上の目標として承認されている。たとえ未だ厳しい現実と課題解決の困難さが存在しても、目標設定の価値を過小評価してはならない。(カール・ポパー(1902-1994))
 「さて、〔歴史に〕意味を与えるという理念の第二のより重要な意味の検討に移りたいと思います。〔歴史に〕意味を与えるとは、われわれが、自らの個人的な生にばかりではなく、われわれの政治的生に、つまり、政治的に考える人間としてのわれわれの生にひとつの課題を与えることです。とりわけ、歴史の無意味な悲劇を耐え難いものと感じ、またそこに未来の歴史をより有意味なものにするために最善をつくせという要求を見る人間としてのわれわれの生にひとつの課題を与えることです。しかし、この課題は難しいものです。というのも、善き意志と善き信仰が悲劇的にわれわれを惑わすことがあるだけに、ことに難しいのです。そして、わたくしはこの講演のなかで、啓蒙の理念を弁護しているので、まず啓蒙や合理主義の理念もまた実に怖るべき結果を導いたことを指摘しておく義務があると感じています。
 カントはフランス革命を歓迎しましたが、そのカントに、自由、平等、友愛の名のもとで、もっとも嫌悪すべき残虐行為がおこなわれうることを、つまり、かつて十字軍の時代、魔女焚殺の時代、三十年戦争の時代に、キリスト教の名のもとで行なわれたのと同様の嫌悪すべき残虐行為がおこなわれうることを教えたのは、ロベスピエールの恐怖政治でした。しかし、カントはフランス革命の恐怖の歴史からひとつの教訓を引き出しました。その教訓は何度繰り返されても十分ということはないものです。つまり、狂信的な信仰は常に禍であり、多元論的な社会秩序の目標とは一致しがたいものであるということ、われわれの義務は、どのようなかたちの狂信にも――その目標が倫理的に異論のないものであっても、ことにまたその目標がわれわれの目標であっても――抵抗することであるという教訓です。
 狂信のもつ危険、そして狂信に対しては常に対抗すべきであるという義務は、おそらくわれわれが歴史から引き出すことのできるもっとも重要な教訓のひとつでしょう。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第10章 知による自己解放,pp.228-229,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:狂信的な信仰,意志,信仰,啓蒙,合理主義,多元的な社会秩序)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2020年4月18日土曜日

社会の、人々を訓練し管理する機能と、個人の自由を守る機能とのバランスが問題である。各個人が、自らの欲求に基づき、自らの計画を選択し、多様な能力を磨き上げ、開花できることが目的だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

幸福の要素としての個性

【社会の、人々を訓練し管理する機能と、個人の自由を守る機能とのバランスが問題である。各個人が、自らの欲求に基づき、自らの計画を選択し、多様な能力を磨き上げ、開花できることが目的だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

個人の個性と社会の3つの類型
(a)人々を訓練し管理する社会の能力が不足している状態
 社会的な地位や個人的な資質によって強い力をもつ人が、情熱にまかせて法律や慣習につねに反抗し、その影響を受ける人たちが安全に生活できないような社会。社会の初期の段階は、このような社会であった。
(b)人々を訓練し管理する社会の能力が過剰な状態
 人々は、自分の好みは何なのかとは考えない。考えるのは、自分の地位にふさわしいのは何なのか、自分と同じ地位、同じ収入の人は普通、どうしているのかとしか考えない。大勢に順応し、慣習になっているもの以外には、自分の好みを何も思いつけない。
(c)好ましい状態
 自分の性格と気質に合っているのは何なのか、どうすれば自分のうちで最高で最善の部分を活かし、それが成長し開花するようにできるのだろうかと考える。
 参考:各個人が自分の計画を選択し、観察力、推理力、判断力、行動力、意志の強さ、自制心など多様な能力を磨き上げ、多様に開花すること、これが最も重要である。また各人独自の、強い欲求、衝動、感情も不可欠だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 「社会のもっと初期の段階には、こうした活気が強すぎて、人びとを訓練し管理する社会の能力を超えていた可能性があるし、ある部分ではたしかに超えていた。自発性と個性が強すぎて、社会の原理によってそれを抑えるのに苦労した時代があった。その当時に困難だったのは、体力や知力が強い人を誘導して、その衝動を管理するのに必要な規則にしたがわせることであった。この困難を克服するために、皇帝と争っていたローマ法王が教会についてそう主張していたように、法律と規律には全人格に対する支配権があると主張され、性格を管理するには生活のすべての面を管理する必要があると主張された。それ以外には、社会が人びとの衝動を抑える十分な手段をみつけだせなかったのである。しかしいまでは、社会は個性をほぼ抑えつけられるようになっている。そして、人間性を脅かしているのは、個人の衝動と好みの過剰ではなく、不足になった。状況が様変わりしているのだ。以前には、社会的な地位や個人的な資質によって強い力をもつ人が情熱にまかせて法律や慣習につねに反抗し、その影響を受ける人たちがわずかでも安全に生活できるようにするには、こうした人の情熱を厳しく管理する必要があった。いまでは、社会の最上層から最下層まで、すべての人が敵意をもった恐ろしい監視のもとに暮らしている。他人に関係する点だけでなく、自分自身にしか関係しない点でも、個人や家族は、自分の好みは何なのかとは考えない。自分の性格と気質に合っているのは何なのか、どうすれば自分のうちで最高で最善の部分を活かし、それが成長し開花するようにできるのだろうかとも考えない。考えるのは、自分の地位にふさわしいのは何なのか、自分と同じ地位、同じ収入の人はふつう、どうしているのか、そしてもっと悪い見方だが、自分より地位が高く、収入も多い人はふつう、どうしているのかである。各人が自分の好みに合うものより、世の中の慣習になっているものを選ぶといいたいわけではない。そうではなくて、慣習になっているもの以外には、自分の好みを何も思いつけなくなっているのである。精神まで、抑圧の軛に屈服している。娯楽のときですら、真っ先に考えるのは世の中に合わせることである。いつも大勢に順応していたいのだ。何かを選ぶときでも、ふつうに行われていることのなかからしか選ばない。人とは違う趣味や、変わった行動は犯罪と変わらないほど避けようとし、いつも自分の本性にしたがわないようにしているので、やがて、したがうべき本性をもたなくなる。人間としての能力は委縮し、衰えていく。強い望みや自然な喜びはもてなくなり、たいていは自前の意見や感情、まさに自分のものだという意見や感情をもたなくなる。これが人間性の望ましい状態なのだろうか。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第3章 幸福の要素としての個性,pp.133-135,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:幸福の要素としての個性)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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各個人が自分の計画を選択し、観察力、推理力、判断力、行動力、意志の強さ、自制心など多様な能力を磨き上げ、多様に開花すること、これが最も重要である。また各人独自の、強い欲求、衝動、感情も不可欠だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

幸福の要素としての個性

【各個人が自分の計画を選択し、観察力、推理力、判断力、行動力、意志の強さ、自制心など多様な能力を磨き上げ、多様に開花すること、これが最も重要である。また各人独自の、強い欲求、衝動、感情も不可欠だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
 「自分の計画を自分で選ぶ人は、能力のすべてを使う。現実をみるために観察力を使い、将来を予想するために推理力と判断力を使い、決断をくだすのに必要な材料を集めるために行動力を使い、決定をくだすために識別能力を使う必要があるし、決定をくだした後にも、考え抜いた決定を守るために意志の強さと自制心を発揮する必要がある。自分がとる行動のうち、みずからの判断と感情にしたがって決定する部分の比率が高いほど、これらの能力が必要になり、使われることになる。これらの能力を使わなくても、正しい道を歩めるように、誤った道に陥らないように、導かれることもありうる。だがその場合、その人は人間としての価値が高いといえるのだろうか。ほんとうに重要なのは、人がどのような行動をとるかだけではない。その行動をとる人がどのような人間なのかも重要である。人が一生を使って完成し磨き上げていくのが適切なもののなかで、何よりも重要だといえるのは明らかに自分自身である。機械を使えば、それも人間の形をした自動機械を使えば、家を建て、穀物を栽培し、戦争を行い、訴訟を裁き、さらには教会を建てて神に祈ることすらできると仮定しても、人間をそうした自動機械に置き換えるのは大きな損失であろう。現在の先進的な地域に住んでいる人であっても、自然が生み出しうるし、やがて生み出すとみられる人間と比較すればまったく貧弱だといえるにすぎないのだから。人間は機械と違って、ある設計図にしたがって作られているわけではなく、決められた仕事を正確に行うように作られているわけでもない。樹木に似ており、生命のあるものに特有の内部の力にしたがって、あらゆる方向に成長し発展していくべきものなのである。
 人びとがみずからの理解力を使うのが望ましいこと、理性的な判断に基づいて慣習を取り入れ、ときには理性的な判断に基づいて慣習から逸脱する方が、何も考え得ずに慣習に機械的にしたがうより良いことは、おそらく誰でも認めるだろう。各人の理解力が各人のものでなければならないことは、誰でもある程度まで認めている。だが、各人の欲求と衝動もやはり各人のものでなければならず、自分自身の衝動をもっているとき、その衝動がいかに強いものであっても、危険や落とし穴ではまったくないことは、簡単に認めようとはしない。しかし、欲求と衝動も信念や自制心と同様に、完全な人間に欠くことができないものである。そして、強い衝動が危険なのは、適切な均衡が失われているときだけである。つまり、ある意図と好みとが強くなる一方で、それと併存して均衡をとるべき要素が弱く、不活発なときである。人が間違った行動をとるのは、欲求が強いからではない。良心が弱いからである。衝動が強いことと、良心が弱いこととの間には自然な因果関係はない。自然な因果関係はその逆である。ある人の欲求と感情が他人より強く多様だというのは、その人が人間性の素材を豊富にもっているということなのであり、おそらく悪事をはたらく力が強いのだろうが、良いことを行う力もたしかに強いのである。衝動が強いとは、活力があるということの言い換えにすぎない。活力は悪いことに使われるかもしれないが、無気力で無感動な人より活力のある人の方がつねに、良いことを大量に行えるだろう。自然な感情が強い人は、洗練された感情もとくに強くなりうる。個人の衝動が活発で強力なのは感受性が強いからだが、その感受性の強さが源泉となって、美徳を強く求める感情と厳格に自己を律する自制心とが生まれうる。社会が義務を果たし、その利益を守っているのは、こうした感受性を育むことによってであって、英雄を育てる方法が分からないという理由で英雄の素材を排除することによってではない。欲求と衝動が独自のものである人、つまり、鍛錬を積み重ねて育成し修正してきた自分の本性の現れである人は、独自の性格をもった人物だといわれる。欲求と衝動が独自のものではない人は独自の性格をもっておらず、蒸気機関が独自の性格をもたないのと同様である。衝動が独自のものであるうえに、強い衝動を強い意志で制御している人は、活力のある性格をもっている。欲求と衝動の面で個性を伸ばすのを奨励してはならないと考える人は、社会には強い性格をもつ人は不要であり、強い性格をもつ人が多いのは社会にとって不利な条件であって、人びとの活力が平均して高いのは望ましくないと主張していることになる。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第3章 幸福の要素としての個性,pp.130-133,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:幸福の要素としての個性,欲求,衝動,感情,個性)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2020年4月17日金曜日

道徳的基準は、法に対する抵抗の拠り所でもある。法の実証主義者が、現に存在する法と「在るべき法」を区別するのは、存在する法の理論的道徳的問題を明確にし、批判と抵抗の根拠を明らかにするためである。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法的妥当性と法に対する抵抗

【道徳的基準は、法に対する抵抗の拠り所でもある。法の実証主義者が、現に存在する法と「在るべき法」を区別するのは、存在する法の理論的道徳的問題を明確にし、批判と抵抗の根拠を明らかにするためである。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

参考:道徳的基準は、法批判の源泉である。ただし、受容されている社会的道徳か道徳的理想かによらず、たとえある基準が絶対的なものに思えても、存在する法体系とは区別する必要があり、選択には意見の相違が存在する。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 「(vi)法的妥当性と法に対する抵抗 実証主義者に分類される法理論家達が、たとえその一般的な見解を述べるのに不注意であったにせよ、彼らのうちで、いま挙げた5つの見出しの下で論じた法と道徳の関連形態を否定した者は、ほとんどないのである。それでは次のような法実証主義者のさかんな鬨の声は何を目指したのだろうか。「法が存在することと、法の長所あるいは短所とはまったく別問題である。」「国家の法は理想ではなく現に存在する何ものかである、………それはあるべきものではなくあるところのものである。」「法規範はいかなる種類の内容をももちうる。」
 これらの思想家が推し進めようとしたことは、主に、特定の法が道徳的には邪悪であるが、適当な形で制定され、意味も明白で、体系の妥当性に関する承認されたあらゆる標準を満たしながら存在しているため、そこから生じる理論的道徳的問題を明確にまた正直に系統立ててのべることであった。彼らの見解によれば、そのような法を考えるさいに、理論家や、その法を適用したりそれに従ったりするように求められた不幸な公機関や市民は、その法に対して「法」あるいは「有効な」という資格を拒否せよと言われれば、混乱するほかはないのである。彼らはこう考えた。これらの問題に取り組むためには、より単純でもっと率直な手段の方が役に立ち、またその方が、関連するあらゆる知的、道徳的な考慮に、はるかによく焦点をあわせることになろう。すなわちわれわれとしては、「これは法である。しかしそれはあまりにも邪悪であるので適用あるいは服従できない。」と言いたいところである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第3節 法的妥当性と道徳的価値,pp.225-226,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:法的妥当性,法に対する抵抗,道徳的基準)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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司法的決定を導く道徳的基準は、それに法体系が一致することで、法体系の善し悪しが区別できるというようなものではなく、不偏性、公正な手続的基準、一定の存在条件を満たした「ルール」の適用に関連している。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法としての適正と正義の原則

【司法的決定を導く道徳的基準は、それに法体系が一致することで、法体系の善し悪しが区別できるというようなものではなく、不偏性、公正な手続的基準、一定の存在条件を満たした「ルール」の適用に関連している。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(f)追加。

 (1.3)基準は、どのようなものか
  (a)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。従って、実質的な内容を伴うと思われる。
  (b)目標や、社会的な政策や目的が含まれるかもしれないが、これは恐らく違うだろう。
  (c)基準は、道徳とは異なると考えたこともあるが、「道徳的」と呼んで差し支えないようなものである。理由は、以下の通りである。
   半影的問題における司法的決定を導く法以外の「べき」観点の一つは、道徳的原則と考えられる。なぜなら、法解釈がそれらの原則と矛盾しないと前提され、また制定法か否かにかかわらず同じ原則が存在するからである。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   (i)開かれた構造を持つ法を解釈する際、ルールの目的は合理的なものであり、そのルールが不正な働きをしたり、確定した道徳的原則に反するはずがないという前提に基づいて行なわれる。
   (ii)法に従わないときも、法に従うときとほとんど同様、同じ原理が尊重されてきた。
  (d)高度に憲法的な意味をもつ事項に関する司法的決定は、しばしば道徳的価値の間の選択を伴うのであり、単に一つの卓越した道徳的原則を適用しているわけではない。
  (e)立法的と呼ぶのに躊躇を感じるような司法的活動は、次のような特徴を持つ。
   (i)選択肢を考慮するさいの不偏性と中立性
   (ii)影響されるであろうすべての者の利益の考慮
   (iii)決定の合理的な基礎として何らかの受けいれうる一般的な原則を展開しようとする関心
  (f)司法的決定を導く道徳的基準は、それに法体系が一致することで、法体系の善し悪しが区別できるというようなものではなく、不偏性、公正な手続的基準、一定の存在条件を満たした「ルール」の適用に関連している。

 「(v)法としての適正と正義の原則 周知され裁判で適用される一般的なルールによって人の行為がコントロールされるときにはいつでも、最小限の正義はかならず実現されているという根拠から、道徳と正義にある点において一致するよい法体系と、そうでない法体系とを区別することは誤っていると言えるであろう。すでに正義の観念を分析するさいにまさに指摘したように、そのもっとも単純な形態(法の適用における正義)は、偏見や利害や気まぐれによって左右されない同じ一般的なルールが、多くの異なる人々に適用されなければならないという考えを、まじめに採用することにほかならない。この不偏性こそイギリスやアメリカの法律家達の間で「自然的正義」の原則として知られている手続的基準が確保しようとしているものなのである。こうして、もっとも不愉快な法が正しく適用されることになるかもしれないが、その場合でもわれわれは、一般的な法のルールの適用というただそれだけの観念のなかに、正義の少なくとも萌芽を見るのである。
 「自然的」と呼んでもよいような、この最小限の正義の形態の側面を明らかにしようとするならば、それは、法のルールのみならずゲームのルールのような何らかの社会統制の方法に事実上含まれているものを研究すればよい。社会統制の方法は別段の公機関の指令がなくてもルールを理解しルールに一致するはずの部類の人々に伝えられた、一般的な行為の基準から主として成りたっている。この種の社会統制が機能するためには、そのルールは一定の条件を満たさなければならない。すなわちそれらは理解できるものであり、たいていの人が服従できる範囲内のものでなければならない。また例外もあるが、それらは一般的には遡及してはならない。つまり、たまたまルール違反のために罰せられる人々も、たいていは服従する能力と機会をもつのだろうということになる。ルールによる統制のさいのこれらの特徴は明らかに、法律家が法としての適正の原則と呼ぶ正義の要請と密接に関連している。実証主義に対するある批判者は、まさにルールによる統制のこれらの側面のなかに、法と道徳の必然的な結びつきを示す何ものかを見て、その側面を「法に内在する道徳」と呼ぶよう提案したのである。またもしこれが、法と道徳には必然的な結びつきがあるということの意味であるならば、われわれはそれを受けいれてもいいだろうが、不幸にもそれは極度の邪悪と両立しうるのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第3節 法的妥当性と道徳的価値,pp.224-225,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:法としての適正,正義の原則,道徳的基準,不偏性,公正な手続的基準)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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38.寛容な人が、寛容ではない人に寛容である義務はない。とは言え、開かれた社会は、可能な限り狂気的な周辺部に対しても寛容であるべきだろう。しかし、それは無制限ではない。寛容を守る何らかの制度が必要だろう。(カール・ポパー(1902-1994))

開かれた社会を守る

【寛容な人が、寛容ではない人に寛容である義務はない。とは言え、開かれた社会は、可能な限り狂気的な周辺部に対しても寛容であるべきだろう。しかし、それは無制限ではない。寛容を守る何らかの制度が必要だろう。(カール・ポパー(1902-1994))】
 「開かれた社会における自由と寛容は、無制限なものと考えられるべきではない。われわれは、それに報いる用意のあるすべての人々に意見の自由を保障すべきだろうが、不寛容や暴力を真剣に喧伝する人々を、この保障に含めてはならない。ここで再び、われわれは過去の誤りから学ぶことができる。寛容という考えにあまりにも深く傾倒しすぎているため、非寛容と、暴力を使用することに対する、《あらゆる》種類のプロパガンダに寛容でなければならないと感じてしまう人々は、自らと寛容という考えを破壊するのに手を貸すかもしれないのである。
 インドのジャングルに住んでいて、トラの生命の神聖さを含めた生命の神聖さの信仰のために消滅したあるコミュニティの、心の痛む話を、私はかつて読んだことがある。不幸にもトラはそのコミュニティに報いることはなかったのである。
 同じように、1933年以前のドイツ共和国――いわゆるワイマール共和国――は、ヒトラーに寛容だった。しかし、ヒトラーはそれに報いることはなかった。
 これは、われわれが今学ばなければならない誤りの一つだ。確かに、寛容な人が、寛容ではない人――恩に報いることのない人――に寛容である義務などありえない。しかし、そのような義務はないとは言え、開かれた社会は、平和と強さの時代の中でなら、可能な限り狂気的な周辺部に対して、つまり、非寛容を、そして暴力さえを説いて回る人々に対して寛容であるべきだろう。そしてそのような狂気の周辺部には、同時に、不寛容の形態の《あらゆる》攻撃的形態に寛容であるつもりがないならば、寛容は偽善だと非難する人々もいる。社会生活は、やりとりの応酬の生活である。自由な社会は、暴力を用いるごろつきが暴力を用いて隣人をいじめるのを抑えるであろうし、また、自由な社会は、その国家の中に、あらゆる人々の権利を保証する制度を見て取るだろう。それは人々が、たまたま権力をもった人々によってであれ、専制政治を確立するために権力をつかもうとする人々によってであれ、いじめられたり、強制服従させられることのないよう守られるように取り計らうための制度である。」
(カール・ポパー(1902-1994),『社会と政治』,第4部 冷戦とその後,第8章 開かれた社会と民主国家――1963年,pp.198-199,ミネルヴァ書房(2014),戸田剛文(訳),神野慧一郎(監訳),中才敏郎(監訳),戸田剛文(監訳))
(索引:開かれた社会を守る,寛容,非寛容,暴力,開かれた社会)

カール・ポパー 社会と政治: 「開かれた社会」以後


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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主流派の意見と少数派の意見のうち、一方が正しく他方が誤っているという場合は少ない。実際には、双方が真理の一部分を掴んでおり、論争がそれを見え難くしている。これが、意見の多様性が必要な理由である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

意見の多様性が必要な理由

【主流派の意見と少数派の意見のうち、一方が正しく他方が誤っているという場合は少ない。実際には、双方が真理の一部分を掴んでおり、論争がそれを見え難くしている。これが、意見の多様性が必要な理由である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

 参照:人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、真理の一部をその全体と誤解することである。論争的な問題においては、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 参考:
 異論を排除することの害悪
 仮に、主流の意見が正しく異論が間違っている場合であっても、異論を排除することは誤りである。なぜか。議論されることなく、根拠薄弱となった意見は、独断的な教条、単なる信念、迷信と区別できなくなる。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 「もうひとつ、意見の多様性が有益だといえる主要な理由を論じておかなければならない。この理由に基づくなら、いまの時点でははるかな未来にしか達成できないと思えるほど知識が進歩した段階に入るまでは、意見の多様性が有益な状況が続くといえるのである。ここまでは二つの可能性だけを考えてきた。主流の意見が誤りであり、したがって主流ではない意見が正しい場合と、主流の意見が正しく、間違った反対意見と戦うことが真理をはっきりと理解し、深く感じ取るために不可欠な場合である。しかし、この二つのどちらよりも普通に見られる場合がある。対立する意見のうち一方が正しくて他方が間違っているのではなく、どちらも真理の一部をつかんでいて、主流の意見が真理の一部を明らかにしているにすぎないために、残りの部分を示すものとして少数派の意見が必要な場合である。すぐに理解できるわけではない問題では、主流の意見は正しい場合も多いが、真理の全体をつかんでいることはまずない。そんなことはまったくないとすらいえるほどである。真理の一部にすぎないのであり、真理全体のうち大きな部分であることも小さな部分であることもあるが、いずれにせよ誇張され歪められていて、その部分を制約する条件を示すために付けくわえておくべき別の真理から切り離されている。これに対して異端の意見を主張する人は一般に、真理のうち、抑えられ無視されてきた部分を抑圧の鉄鎖を断ち切って表明しているのであり、主流の意見に含まれる真理との折り合いを付けようとするか、そうでなければ、主流の意見を敵だと考え、やはり頑なな姿勢をとって、これこそ真理の全体なのだと主張しようとする。これまでの例ではこの二つのうち、頑なな姿勢をとる場合の方が多い。人間の知性は一面的であるのが通常であって、多面的であるのは例外だからである。このため、意見の革命が起こるときですら、真理のうちひとつの部分がすたれて、他の部分がはやるのが通常である。意見が進化していくときですら、本来なら新たな部分がくわわっていくはずだが、実際にはほとんどの場合、部分的で不完全な真理がやはり部分的で不完全な別の真理に置き換わるだけになる。それでも進歩といえるのは主に、真理のうち新たに採用された部分がその時点で、置き換えられた部分よりも必要とされていて、時代の要請に適合しているからである。このように主流の意見は正しい基礎のうえにたっている場合ですら、部分的なものという性格をもっているので、真理のうち主流の意見が無視していた部分をある程度まで主張している意見はすべて、一面の真理とともに誤りや混乱がどれほど主張されていても、貴重だと考えるべきである。人間というものを冷静に判断していれば、自分たちが見逃していたはずの真理に関心を向けるよう強いてくる人が、自分たちの気づいている真理を見逃しているとしても、憤慨する必要があるとは感じないだろう。それどころか、多数派の主張する真理が一面的なのであれば、少数派が一面の真理を主張している方が望ましいとすらいえる。その方が通常、とくに熱心だし、真理のうちそれが全体であるかのように主張している部分に、人びとの注意をしぶしぶとであっても向けさせる可能性がとくに高いからである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第2章 思想と言論の自由,pp.100-102,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:意見の多様性が必要な理由)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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反論の余地のない段階に達した真理の数と質によって人類の幸福度が測られる。ただし各人は、現実の問題と経験に適用し、その意味を理解する必要がある。また、疑問や論争を大切にする教育の工夫も必要だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

決着がついた問題は深い眠りにつく

【反論の余地のない段階に達した真理の数と質によって人類の幸福度が測られる。ただし各人は、現実の問題と経験に適用し、その意味を理解する必要がある。また、疑問や論争を大切にする教育の工夫も必要だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

参考:
異論を排除することの害悪
 仮に、主流の意見が正しく異論が間違っている場合であっても、異論を排除することは誤りである。なぜか。議論されることなく、根拠薄弱となった意見は、独断的な教条、単なる信念、迷信と区別できなくなる。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 「一般論として、道徳や宗教でもそうだが、人生の知恵や知識でも、定説になった教えのすべてで同じことがいえる。どの言語で書かれた書物にも、人生とは何か、人生でどのように行動すべきかの両面で、人生についての教訓が大量に書かれている。ところが誰でも知っている教訓、誰でも他人に言い聞かせ、他人にいわれれば自明のこととして受け入れている教訓であっても、たいていの人は現実の問題にぶつかって、それも一般には苦しい思いをしてはじめて、その意味を学ぶ。予想もしなかった不幸や失敗に苦しんでいるとき、よく知っていた格言や常識を思い出し、その意味を前から実感していれば、その問題をうまく避けられただろうにと思うことがいかに多いことか。そうなる理由は、賛成派と反対派の間の議論が欠けている点以外にもある。真理のなかには、個人的に体験して実感しないかぎり、意味を完全には理解できないものがたくさんあるのだ。しかし、そのような真理でも、意味を理解している人たちが賛成と反対の意見をだして議論しているのをよく聞いていれば、意味をもっと理解していただろうし、理解した点がもっと強く印象づけられていただろう。人は疑わしくなくなった点については考えなくなるものだが、これは人間の誤りのうち半分の原因になるほど致命的な欠陥である。「決着がついた問題は深い眠りにつく」と現代のある論者が語っており、まさに至言である。
 何という暴論だと言われて、こう反論されるかもしれない。全員が賛成する状況になっていないことが、正しい知識に不可欠な条件だというのか。真理を認識できるようにするには、誤りに固執する人がいることが必要だというのか。世間に受け入れられるようになった信仰は生命力を失うというのか。何の疑問も残らなくなった意見は、十分に理解され実感されることがなくなるというのか。真理はすべての人が受け入れるようになるとすぐに腐りはじめるというのか。ほんとうに重要な真理を人類が一致して認めるようになることこそが、知性を高めていくときの最高の目的であり、最善の結果であると考えられてきたわけだが、この目的を達成するまでの間しか、知性は存続できないというのか。完全な勝利を収めたときには、その結果として勝利の果実が腐るとでもいうのか。
 わたしはそのような主張はしていない。人類が進歩するとともに、論争や疑問の対象にならなくなった教えや理論の数は増えつづけていくだろう。人類の幸福度は、反論の余地のない段階に達した真理の数と質によってはかられるといっても、それほど的外れではないほどである。さまざまな意見がつぎつぎに真剣な論争の対象から外れていくことは、意見の一致にかならず伴う現象である。意見が一致していくのは、間違った意見の場合には危険で有害だが、正しい意見の場合には有益である。このようにして意見のばらつきの範囲が徐々に狭まっていくことは、必然という言葉の両方の意味で必然であって、不可避であると同時に不可欠でもあるのだが、だからといってその結果がすべて好ましいものであるはずだと結論づけなければならないわけではない。ある真理をそれに反対する人に説明したり、反論を受けて弁護したりする必要があれば、その真理を知的に活き活きと理解する点で重要な一助となるのだが、このような機会を失うことによる損失は、その真理が広く認められるようになった利点より大きいとはいえないまでも、それほど小さくはないのである。この利点がなくなった場合には、人びとを教育する立場にある人がそれに代わるものを提供するよう努力してほしいと考えている。つまり、反対論の唱道者が考えを改めるように熱心にはたらきかけるかのように、真理への反対意見を学習者に強く印象づける仕組みを作ってほしいと願っている。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第2章 思想と言論の自由,pp.94-97,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:決着がついた問題は深い眠りにつく)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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自説の根拠を説明し、論敵の根拠が論破できなければ、単に権威によってか、世間にあわせて、単に好みで自分の意見を選択しているのである。まず、論敵の主張は、真にそれを擁護し信じている人から学ぶこと。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

論敵の主張を学ぶこと

【自説の根拠を説明し、論敵の根拠が論破できなければ、単に権威によってか、世間にあわせて、単に好みで自分の意見を選択しているのである。まず、論敵の主張は、真にそれを擁護し信じている人から学ぶこと。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

参考:
異論を排除することの害悪
 仮に、主流の意見が正しく異論が間違っている場合であっても、異論を排除することは誤りである。なぜか。議論されることなく、根拠薄弱となった意見は、独断的な教条、単なる信念、迷信と区別できなくなる。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 「自説の根拠しか知らない人は、その問題についてほとんど何も知ってはいない。もちろん、自説の根拠としてあげる点は適切な場合もあるだろうし、誰にも論破されていない場合もあるだろう。しかし、その人も論敵の根拠を論破できないのであれば、あるいは論敵が何を根拠にしているのかすら知らないのであれば、どちらか一方の意見を選ぶ理由はもっていないのである。理に適った立場をとるのであれば、どちらの意見についても判断を留保すべきであり、それでは満足できない場合には、権威にしたがっているのか、世間の人たちがそうしているように、自分の好みにいちばんあうと感じる意見を選んでいるのである。また、自分の教師から論敵の主張について説明を受け、同時に、それを論破する方法を教えられるだけでは不十分である。これでは論敵の主張を公平に扱うことにならないし、ほんとうの意味で論敵の主張に触れることにもならない。その意見を実際に信じている人から、つまり、その意見を真剣に擁護し、そのために最大限に努力する人から、主張を聞くことができなければならない。もっとも納得しやすい形、説得力がある形で知らなければならない。正しい意見を主張するときにぶつかり、対応することになる反論が実際にどれほど強力なのかを感じなければならない。そうでなければ、正しい意見のうち、手ごわい反論に対処し、それを克服するのに必要な部分を、ほんとうに自分のものにすることはできない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第2章 思想と言論の自由,pp.82-83,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:論敵の主張を学ぶ)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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