適切な公共投資の必要性
【低い税率と低い賃金で資本を呼び込もうとする政策は、悪循環する。適切な公共投資によって、熟練した良質の労働者と整った社会資本を持つ国は、比較的良質の仕事を提供する資本を引き寄せる。(ロバート・ライシュ(1946-))】参考:資本の移動性が高まったことによって,ローカルな政府は,資本を呼び込むために規制緩和し,資本の選好,慣例,期待に応える。低い税金,柔軟な労働市場,そして組織的抵抗を行わない従順な国民。(ジグムント・バウマン(1925-2017))
「《公共》部門が行う投資額およびその種類と、国が世界から資本を集められる能力との関連は強まっている。ここに、新たな経済ナショナリズムの論理が生まれる。すなわち労働者の技能と社会資本の質こそが、世界経済におけるその国独自の特質であり、他の国とは違った魅力を形成する。世界的な生産における、こうした比較的変動のない要素への投資が、国と国との主要な差なのである。それと対照的に、マネーは世界中を容易に移動する。
知識を持ち、複雑な作業に熟練し、仕事の成果を容易に地球経済に移転できる労働力こそ、グローバル・マネーを自分のほうに引き寄せる力を持つ。この誘因はある一つの有益な関係に発展する可能性がある。熟練労働者と整った社会資本は、投資を行い、労働者に比較的良質の仕事を提供するグローバル・ウェブを持つ企業を惹きつける。こうした仕事は、当然、実地訓練や経験をさらに増やすことになり、他のグローバル企業にとっても強い魅力を生みだすことになる。技能が向上し、経験を積むにつれ、その国の市民は世界経済にますます大きな価値をもたらし、当然の権利としてかつてない高い報酬を獲得し、生活水準を向上させる。
しかし適切な技能や社会資本の整備がなければ、この関係はまったく逆――すなわち、外国からの投資は国際比較でみて低い賃金と低い税率に引き寄せられる、という悪循環――になる可能性が高い。こういうもので投資を呼び寄せても、将来のための教育や社会資本への投資はもっと困難になる。結果として提供される仕事は、将来より複雑な作業につながるような実地訓練や経験をほとんど、あるいはまったくもたらさない。あとは推して知るべしだ。」
(ロバート・ライシュ(1946-)『ザ・ワーク・オブ・ネーションズ』第4部 国家の新しい意味、22 古臭い思想の効用、pp.363-364、ダイヤモンド社 (1991)、中谷巌(訳))
(索引:公共投資)
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「国家や政府は人間が作ったものであり、法律も企業もそして野球だって人間が作ったものだ。同じように市場も人間の産物である。他のシステムと同じく市場の構築の仕方にもさまざまな方法があるが、それがどう作られようと、人々のやる気や市場のルールによって生まれてくる。理想的には、ルールによって人々が働いたり協力しあう気になり、生産的で創造的でありたいと動機づけされるのが望ましい。つまり、ルールが人々が望む暮らしの実現を手助けするのである。ルールはまた、人々の倫理観や、何が良くて立派で、何が公平かについての判断基準をも映し出す。そしてルールは不変ではなく、時間の経過とともに変わっていく。願わくば、ルールにかかわる人のほとんどが、より良くより公平だと思う方向へ――。だが、常にそうなるとは限らない。ある特定の人々が自分たちを利するようにルールを変える力を得たことによっても、ルールは変わりうるからだ。これがこの数十年の間に、米国や他の多くの国々で起こったことである。私的所有、独占への制限、契約、不履行に対処するための破産などの手段、ルールの執行といった事柄は、いかなる市場にも必須の構成要素だ。資本主義と自由企業体制にはこれらが必要なのだ。だがこの要素の一つひとつを、多くの人ではなく、ひと握りの人々を利するように捻じ曲げることも可能である。」(中略)「経済的支配力が、政治的権力を増大させ、政治的権力がさらに経済的支配力を拡大させる。大企業と富裕層が市場を構築する政治の仕組みに影響を与え、彼らがその政治的決定によって最も恩恵を受けるという状況は加速するばかりだ。こうして彼らの富は増強され、その富によってますます、将来発生する決断事項への影響力を得ていくのである。」(中略)「拡大する不平等は「自由市場」の構成要素そのものにしっかりと焼き込まれている。グローバル化と技術革新がなくても減税や補助金がなくても、国民総所得のうち、企業と、企業収益に自分の所得が連動する重役たちや投資家に振り分けられる割合は、労働者層に向う割合よりも、相対的に増加している。こうして悪循環が勝手に成立していくのである。」
(ロバート・ライシュ(1946-)『資本主義を救う』(日本語名『最後の資本主義』)第1部 自由市場、第9章 まとめ――市場メカニズム全般、pp.108-111、東洋経済新報社 (2016)、雨宮寛・今井章子(訳))
ロバート・ライシュ(1946-)
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「批判的思考の課題は「過去を保存することではなく、過去の希望を救済することである」というアドルノの教えは、その今日的な問題性をいささかなりとも失ってはいない。しかしまさしくその教えが今日的な問題性を持つのが急激に変化した状況においてであるがゆえに、批判的思考は、その課題を遂行するために、絶え間ない再考を必要とするものとなる。その再考の検討課題として、二つの主題が最高位に置かれなければならない。
「実のところ、正面切っていう社会学者はいないが、しかしすべての社会学の理論が、人間は生来的に(すなわち生物学的という意味で)《社会的》であるとする暗黙の前提に基づいている。事実、草創期の社会学者を大いに悩ませた難問――疎外、利己主義、共同体の喪失のような病理状態をめぐる問題――は、人間が集団構造への組み込みを強く求める欲求によって動かされている、高度に社会的な被造物であるとする仮定に準拠してきた。パーソンズ後の時代における社会学者たちの、不平等、権力、強制などへの関心にもかかわらず、現代の理論も強い社会性の前提を頑なに保持している。もちろんこの社会性については、さまざまに概念化される。たとえば存在論的安全と信頼(Giddens,1984)、出会いにおける肯定的な感情エネルギー(Collins,1984,1988)、アイデンティティを維持すること(Stryker,1980)、役割への自己係留(R. Turner,1978)、コミュニケーション的行為(Habermas,1984)、たとえ幻想であれ、存在感を保持すること(Garfinkel,1967)、モノでないものの交換に付随しているもの(Homans,1961;Blau,1964)、社会結合を維持すること(Scheff,1990)、等々に対する欲求だとされている。」(中略)「しかしわれわれの分析から帰結する一つの結論は、巨大化した脳をもつヒト上科の一員であるわれわれは、われわれの遠いイトコである猿と比べた場合にとくに、生まれつき少々個体主義的であり、自由に空間移動をし、また階統制と厳格な集団構造に抵抗しがちであるということだ。集団の組織化に向けた選択圧は、ヒト科――アウストラロピテクス、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトゥス、そしてホモ・サビエンス――が広く開けた生態系に適応したとき明らかに強まったが、しかしこのとき、これらのヒト科は類人猿の生物学的特徴を携えていた。」
