科学的方法
(1)知識の究極的根源は存在しない、(2)事実との一致、(3)観察結果との一致、内部無矛盾性、(4)知識の源泉としての伝統、(5)批判的検討、(6)知識の進歩、(7)誤謬や虚偽は知ることができる、(8) 観察も理性も権威ではない、(9)明瞭さと精密さは異なる、(10) 世界の謎(カール・ポパー(1902-1994))
(1)知識の究極的根源は存在しない
知識の究極的根源など存在しない。事実かどうかが問題なのであって、情報の根源(出所)が問題なのではない。
(2)事実との一致
言明が事実と一致しているかどうか、直接テストしたり、その諸帰結をテストする。
(3)観察結果との一致、内部無矛盾性
典型的な手続きは、観察結果との一致を確認したり、内部に相互の矛盾がないかの確認したりする。
(4)知識の源泉としての伝統
知識の重要な源泉は、伝統である。知識の内容だけでなく、知識の習得方法や態度なども、伝統を通じて獲得される。
(5)批判的検討
伝統が無ければ知識の習得があり得ないにもかかわらず、全ての知識は批判的検討に対して開かれており、その結果、放棄されることもあり得る。
(6)知識の進歩
知識の進歩は、主として、それ以前の知識の修正によって成り立つ。観察から始まるのではない。白紙から始まるのでもない。
(7)誤謬や虚偽は知ることができる
真理の基準は、われわれの手の内にはない。しかし、誤謬や虚偽を認知させてくれるような規準がある。不明瞭や混乱、不整合や矛盾である。
(8) 観察も理性も権威ではない
観察も理性も権威ではない。知的直感や想像力も非常に重要であるが、真理の決め手ではない。真理の基準は、われわれの手の内にはない。
(9)明瞭さと精密さは異なる
明瞭さはそれ自体価値のあるものであるが、精密さや正確さはそうではない。すなわち、われわれの問題が要求する以上に正確であろうとしても意味がない。
言語上の正 確さというのは妄想であり、ことばの意味や定義に関わる問題は重要でない。ことばが有意義なのは理論構成の道具としてだ けである。
(10) 世界の謎は汲み尽くされることはない
「さて、以上の議論の認識論的帰結を整理しておくべき段階に達しているように思う。以下 それらを10のテーゼの形で述べてみよう。 1、知識の究極的根源など存在しない。どのような根拠、どのような提案も提示されてよい が、どのような根拠、どのような提案も、批判的検討を受けなくてはならない。歴史の場合を 除いて、われわれは通常、事実そのものを検討するのであって、その情報の根源(出所)を検 討するのではない。 2、関わるべき認識論の問題は、根源に関するものではない。むしろ、われわれは、なされ た言明が真であるか否か――すなわち、その言明が事実と一致しているか否か――を問う。(事実 に対応しているという意味での客観的真理という概念を、矛盾に陥ることなく操作しうること は、アルフレッド・タルスキーの労作によって示されている。)そして、われわれは、言明そ のものを検討したりテストしたりすることによって、すなわち、直接にか、あるいはその諸帰 結かを検討し、テストすることによって、できるかぎり、この一致ないし対応を見出そうとす るのである。 3、こうした検討に関しては、あらゆる種類の議論が関係してくるであろう。その典型的な 手続は、われわれの論理が観察結果と矛盾していないかどうかを調べることである。しかし、 また、たとえばわれわれの歴史資料(根源)が相互に内的に無矛盾であるかどうかを調べるこ ともできる。 4、量的かつ質的に、われわれの知識のはるかに重要な源泉と言えば、それは――生得の知識 を別にすれば――伝統である。われわれの知っている事柄の大部分は、範例を示されたり、こと ばで教えられたり、あるいは、批判のしかたや、その批判の受けとりかたや、真理に対する敬 意の払いかたを学んだりすることによって習得したものである。 5、われわれの知識の根源のほとんどが伝統に由来するという事実は、反伝統主義を無益の わざと見なす。しかし、この事実が伝統主義的な態度を支持するものと考えられてはならな い。われわれの伝統的な知識の一つ一つ(さらにはわれわれの生得的知識さえも)が、批判的 検討に対して開かれており、その結果、放棄されることもありうるのである。にもかかわら ず、伝統がなければ、知識は不可能となろう。 6、知識は無から――白紙の状態から――出発するものでもなければ、観察から出発するのでも ない。知識の進歩というものは、主として、それ以前の知識の修正によって成り立つ。時に は、たとえば考古学においては、偶然の観察によって知識が進展することがあるけれども、その発見の意義は、通常、それによってそれ以前の理論を修正できるかどうかによって決まるの である。 7、悲観的な認識論も、楽天的な認識論も、ともに同じくらい間違っている。プラトンの悲 観的な洞窟の比喩は真理であるが、その楽天的な想起説はそうでない(たとえすべての人間 が、他のすべての動物とか、場合によってはすべての植物と同様に、生得的な知識を所有して いるということを認めるとしても)。なるほど見かけの世界は、洞窟の壁に映った単なる影の 世界なのであろうが、しかし、われわれは、すべて不断にその世界を超え出ようと努めてい る。デモクリストが言ったように、真理は奥深く隠されているものであるが、われわれはその 深みへさぐりを入れることができる。真理の基準は、われわれの手の内にはない。そして、そ の事実がペシミズムを支えている。しかし、われわれには、《運さえよければ》、誤謬や虚偽 を認知させてくれるような規準がある。明瞭性や判然性は真理の基準ではないが、不明瞭や混 乱のような事柄は誤りのしるしで《ありえよう》。同様にして、整合性があるからといって真 理が確定するわけではないけれども、不整合や矛盾があれば虚偽が確定する。そして、それら が認識されたときには、われわれ自身の間違いがおぼろげながらも赤信号となり、われわれが 洞窟の闇から手さぐりで抜け出す手助けになってくれるのである。 8、観察も理性も権威ではない。知的直感や想像力は非常に重要であるが、それらも頼りに ならない。それらは事物を極めて明白に示してくれるだろうが、われわれを過たせもする。そ れらはわれわれの理論の主たる根源として不可欠ではあるが、われわれの理論の大部分は、と もかくも真理であるとは言えない。観察と理性能力、さらには直感と想像力の、最も重要な機 能は、われわれが未知の事柄をさぐる際の手段となるような、思い切った推測を批判的に検討 するのに役立つということである。 9、明瞭さはそれ自体価値のあるものであるが、精密さや正確さはそうではない。すなわ ち、われわれの問題が要求する以上に正確であろうとしても意味がないのである。言語上の正 確さというのは妄想であり、ことばの意味や定義に関わる問題は重要でない。だから既述の観 念表(33ページ)は、その対称性にもかかわらず、重要な半分と重要でない半分に分たれ る。」
(33ページ、再掲)
観念(IDEAS)
指示記号 陳述
ないし名辞 ないし判断
ないし概念 ないし命題
が表現されるのは
語 断定文
によってであり、これらは
有意味 真
であり得、その
意味 真理
は、
定義 導出
という手段を介して、
未定義概念 原始命題
の意味ないし真理へ還元し得る。
こうした方法によって、
意味 真理 を還元しようとせず、むしろこれらを確定しようとする試みは、無限後退に陥る。
「すなわち、左側(ことばとその意味)が重要でないのに対して、右側(理論とその真偽に 関わる諸問題)のほうは全部重要なのである。ことばが有意義なのは理論構成の道具としてだ けであって、ことばの問題は万難を排して回避すべきである。 10、一つの問題を解決しても、必ず未解決の問題が生じてくる。そうであればあるほど、元 の問題は深みを増し、その解決は一層大胆になる。われわれが世界について学べば学ぶほど、 われわれの学問が深くなればなるほど、自分の知らないことに関するわれわれの知識、すなわ ち自己の無知に関する知が、もっと意識され、明細になり、はっきりしてくるであろう。なぜ なら、このこと――すなわち、われわれの知識は有限でしかありえないのに、われわれの無知は 必然的に果てしがないという事実――こそ、われわれの無知の主たる根源なのだからである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,序章 知識と無知の源泉について,16,pp.48-50,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))
| カール・ポパー (1902-1994) |
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