倫理的決定
規範を事実の上に基礎づけることは不可能である。我々の倫理的決定の責任は全く我々にあり、神や自然や社会や歴史等に転嫁することはできない。それにもかかわらず、一元論へ向う一般的傾向と責任への恐れから、我々は権威を求めるが、その権威を受け入れるか否かは、我々の選択なのである。(カール・ポパー(1902-1994))
「(3)心理学的ないし精神的自然主義はある意味で前の二つの見解の結合であり、これらの 見解の一面性に対する反論の形で説明するのが最も適当である。倫理的実定主義者がすべての 規範は規約的であること、すなわち人間と人間社会の所産であることを強調する限り正しい、 とこの議論は始まる。だが彼は、規範がそれゆえに人間の心理学的ないし精神的本性の表現で あるという事実、人間社会の本性の表現であるという事実を見過ごしている。生物学的自然主 義者は一定の自然の目標ないし目的があって、そこから自然規範を導き出すことができると仮 定する点において正しい。だが彼は、われわれの自然の目標が必ずしも健康、快楽、食物、保 護や繁殖のようなものとは限らないという事実を見過ごしている。人間、少なくともある人々 はパンのみにて生きることを欲せず、より高次の目標、精神的な目標を求める、というのが人 間本性である。こうしてわれわれは人間の真の自然目標を、精神的で社会的である人間の真の 本性から導き出せるのである。更にまた、われわれは生活の自然な規範を人間の自然な目的か ら導き出すことができるのである。」(中略)「精神的自然主義がどんな「実定的な」すなわ ち現存の規範を擁護するためにも利用できるということは明らかである。というのは、これら の規範が人間本性の何らかの特性を表現するのでないならばそれらは実施されることはないで あろうというふうに、常に論じることができるからである。このようにして精神的自然主義 は、実践的諸問題においては、伝統的な対立があるにもかかわらず実定主義と合一することが できるのである。実際にこの形態の自然主義は非常に包括的でかつ漠然としているので、どん なものを擁護するためにも利用できるほどである。およそ人間の心に浮んだことのある事柄で 「自然的」であると主張できないようなものは存在しない。というのはもしそれが本性の中に あるのでないとすれば、いかにしてそれが人間の心に浮びえたであろうか。 以上の簡単な調査を振り返って、われわれはおそらく、批判的二元論を採用する過程に立ち ふさがる二つの主要な傾向を識別できよう。第一のものは一元論へ向う一般的傾向、すなわち 規範を事実に還元しようとする傾向である。第二のものはより根が深く、おそらくは第一のものの背景をなすものであろう。それはわれわれの倫理的決定の責任は全くわれわれにあり、誰 か他のもの、神や自然や社会や歴史等に転嫁することはできないということを自ら確認するこ とへの恐れに基づくのである。以上の倫理理論はすべて、われわれから重荷を取り去ってくれ る誰かある人、あるいは何らかの論拠を発見しようとしているのである。しかしわれわれはこ の責任を回避することはできない。われわれがどのような権威を受け入れようと、それを受け 入れるのはわれわれなのである。われわれがこの単純な論点を悟らないならば、われわれは幻 想を抱いているにすぎないのである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第5章 自 然と規約,第5節,pp.84-85,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠(訳))
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