2022年2月8日火曜日

新しい知識は我々の合理性、真理を把握する力を強め、理解力を深め、我々の力と内的な調和、智慧と効力を大きくするが、必ずしも自由を大きくするわけではない。 選択の自由があるならば、増大した知識によってこの自由の限界が何であるか、何がその自由を拡大し縮小させるかを知ることができるであろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

知識と自由

新しい知識は我々の合理性、真理を把握する力を強め、理解力を深め、我々の力と内的な調和、智慧と効力を大きくするが、必ずしも自由を大きくするわけではない。 選択の自由があるならば、増大した知識によってこの自由の限界が何であるか、何がその自由を拡大し縮小させるかを知ることができるであろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



「知識によってわれわれが一層自由になるのは、現実に選択の自由がある場合である。知識 にもとづいて、その選択の自由がない場合とは別の行動ができる場合である。できるであっ て、しなければならないとか現実にするというのではない。つまり新しい知識を得たことに よって別の行動ができ、そして別の行動をする場合であって、必ずしも別の行動をする必要は ない。まず初めに自由がなければ、そして自由の可能性がなければ、自由を大きくすることは できない。新しい知識はわれわれの合理性、真理を把握する力を強め、理解力を深め、われわ れの力と内的な調和、智慧と効力を大きくするが、必ずしも自由を大きくするわけではない。 選択の自由があるならば、増大した知識によってこの自由の限界が何であるか、何がその自由 を拡大し縮小させるかを知ることができるであろう。しかし私には変えることができない事実 と法則があることを知るだけでは、私が何かを変えることができるようにはならない。そもそ も自由がなければ、知識があっても自由が大きくなるわけではない。すべてが自然法則によっ て支配されているとすれば、知識によってその法則をよりよく「利用」できるといっても無意 味であろう。意味があるとすれば、その「できる」が選択「できる」ことを意味している場合 だけである。つまりさまざまな道の中から私が選ぶことができるといえるような状況、何か一 つの道を選ぶように厳格に決定されていないような状況にだけ適用されるような「できる」の 場合だけである。いいかえれば、もし古典的決定論が正しい見方であるとしても(それが現代 の慣行と合致していないという事実は、それにたいする反論とはなりえない)、それについて 知っても自由は大きくならないであろう――自由が存在していなければ、それが存在していない ということを発見しても自由が作り出されてくることにならない。これは、徹底的に展開され た機械論的-行動論的な決定論についてと同様に、自己決定論にも当てはまることである。」 

 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.274-275,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

バーリン選集2 時代と回想 岩波オンデマンドブックス 三省堂書店オンデマンド


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




真にそして恒久的に私の支配の外にある要因によって決定された境界線を越えてまで、私の自由の範囲を拡大できない。逃れ難いものとしての自然法則、言語、諸命題で認識できる諸法則、これらで認識できる外的世界、物質、他者、私自身に関する諸事実である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自由意志と逃れ難いもの

真にそして恒久的に私の支配の外にある要因によって決定された境界線を越えてまで、私の自由の範囲を拡大できない。逃れ難いものとしての自然法則、言語、諸命題で認識できる諸法則、これらで認識できる外的世界、物質、他者、私自身に関する諸事実である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(1)私の支配の外にある要因
 真にそして恒久的に私の支配の外にある要因によって決定された境界線を越えてまで、私 の自由の範囲を拡大できはしない。これらの要因は、説明したからといって無くなるわけでは ない。知識の増大は、私の合理性を増大させ、私の自由を増大させるかもしれない。しかしそ れは、無制限ではない。

(2)逃れ難いもの、自然法則、言語、諸命題で認識できる諸事実、諸法則
 私が合理的で正気であれば、一般的命題を信じないわけにはいか ない。あるいは、正気であれば、一般的な言葉を使わないわけにはいかない。肉体を有しなが ら、重力に引かれないわけにはいかない。

(3)物質、他者、私自身に関する諸事実、諸法則
 私自身の本性や他の物や人の本性、さらには私とそれ らの物や人を支配する法則について私が知っていることは、私が精力を浪費し誤用しないよう に助けてくれる

(4)真の選択、偽りの選択、逃れ難いもの
 真の選択と偽りの選択とを区別する過程で、それがいかにして区別されるのか、私がその幻想をいかにして見抜くかにかかわりなく、私は自分には逃れ難い本性があるのに気づく。


「いわずもがなのことであるが、次のようなことは言っておく必要があると思う。未来につ いて、未来の事実がしっかりと固まってすで形成されたものと見るのは、物の見方として虚偽 である。われわれ自身の行動と他の人々の行動を、全体としてあまりに強くて抵抗しえないよ うな力によって説明しようとするのは、もともと事実によって説明してよいことの範囲を超え ているから、経験的に誤りである。この理論は、極端な形態にまで押しつめれば、決定なるも のを一撃で粉砕してしまう。つまり、私は私自身の選択によって決定されるということになる であろう。そうでないと信じること――例えば決定論、宿命論、偶然論などに立って――は、それ 自体で一つの選択であり、むしろそれ故に一層卑怯な選択である。けれども、このような傾向 はまさしくそれ自身で人間の特性の一つの現れであると論じることも、たしかに可能である。 未来を――過去との対称的な対比で――変更不可能なものと見なすこのような傾向、あるいは言い 訳を求め、逃避主義的な夢想に走り、責任から逃亡しようとするのは、それ自体が心理的な事 実である。自己欺瞞とは、もともと私が意識的に選べないものである。私がこのような結果に なるとは知りつつも、しかしその結果を避けないように行動することもあるであろう。しか し、選択と強制された行動との間には差異がある。強制そのものが、過去の強制されざる選択 の結果であったとしても、両者は別である、私の抱いている幻想が、私の選択の分野を決定す る。己を知ること――幻想を破ることがこの分野を変える。つまり、現実に(いわば)何ものか が私を選択しているにもかかわらず、私は自分がそれを選択したのだと考えるのではなく、私 が真に選ぶことを《より》可能にするのである。しかし、真の選択と偽りの選択とを区別する 過程で(それがいかにして区別されるのか、私がその幻想をいかにして見抜くかにかかわりな く)、私は自分にはのがれがたい本性があるのに気づく。私にはできないものが、いくつかあ る。私が(論理的にいって)合理的ないし正気であれば、一般的命題を信じないわけにはいか ない。あるいは、正気であれば、一般的な言葉を使わないわけにはいかない。肉体を有しなが ら、重力に引かれないわけにはいかない。おそらくある意味では、その両者をそれぞれ同時に 試みることはできるであろうが、それでも、合理的であるということは、私がそれに失敗する ということを意味しているはずである。私自身の本性や他の物や人の本性、さらには私とそれ らの物や人を支配する法則について私が知っていることは、私が精力を浪費し誤用しないよう にたすけてくれる。それは、偽りの主張と言い訳をあばき出す。責任をあるべきところに固定 し、偽りの無実の申し立てと真に無実の人々にたいする偽りの非難をしりぞける。しかしそれ は、真にそして恒久的に私の支配の外にある要因によって決定された境界線を越えてまで、私 の自由の範囲を拡大できはしない。これらの要因は、説明したからといって無くなるわけでは ない。知識の増大は、私の合理性を増大させるであろう。そして無限の知識は、私を無限に合 理的にしていくことであろう。それは私の力、私の自由を増大させるかもしれない。しかしそ れは、私を無限に自由にすることはできない。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.263-265,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年2月7日月曜日

選択が真の自己決定であるかどうかの解明は困難であっても、選択肢を制限する障害は因果的に理解可能である。自由であるとは、選択には互いに競合するいくつかの可能性、開かれた道が存在することを前提としており、障害を理解したり障害から解放されるには、合理性や知識が関わってくる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自由への障害から自由意志を考える

選択が真の自己決定であるかどうかの解明は困難であっても、選択肢を制限する障害は因果的に理解可能である。自由であるとは、選択には互いに競合するいくつかの可能性、開かれた道が存在することを前提としており、障害を理解したり障害から解放されるには、合理性や知識が関わってくる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)選択における障害、自由の程度
 私の見るところ通常の思想と言語では、自由とは人間を人間以外の一切のものから区別する基本的な特徴であり、自由には選択行為にたいする障害がないことによって定められる程度があるということが、中心的な想定になっている。
《概念図》
 因果的変化(決定論的)
  状態1→状態2
 因果的変化(非決定論的)
  状態x→状態n (n=1,2,3,...)
  ・可能な状態nのうちの一つに変化
 選択
  状態x→状態n (n=1,2,3,...)
  ・可能な状態nのうちの一つを選択
  ・可能でない状態は障害がある状態
  ・障害は因果的法則の結果である

(2)自由な選択は先行する諸条件によって完全には決定されていない
 選択は、それ自体が先行する諸条件によって決定されていない、少なくとも全面的には決定されていないと見なされてい る。自由であるとは、強制されざる選択ができるということである。そして選択は、互いに競合 するいくつかの可能性、開かれた道を前提としている。


(3)選択肢を制限する障害は、因果的に理解可能
 非決定論的な因果的変化のどの特定部分が人間の自由意志に相当するのかを指し示すことや、またその変化が、なぜ自らの能動、自己決定と考えられるのかの解明が困難であっても、選択肢を制限する障害は、因果的に理解することができ、これは、合理性と知識に緊密に関わる。

(4)障害の例
 障害は多様であり、充分には認識できない。物理的なもの、精神的なもの、社会的要因、個人的要因。地理的条件、牢獄の壁、武装した人々、食住その他生活に必要なものが欠如するという脅威。心理的であ る場合は、恐怖感、コンプレックス、無知、錯誤、偏見、幻想、夢想、強迫観念、神経症、精神病など。

(5)障害からの解放手段
 道徳的自由、合理的な自己統制、すなわち何が問 題であるか、何が自分の行動の動機であるかを知っていること、他人や自分自身の過去の影 響、あるいは自分の集団や文化の影響から生じるまだ認識されていない力からの独立、内省し合理的に検討すれば根拠がないことが判るような希望、恐怖、願望、愛情、憎悪、理想などを 破壊すること、確かにこれら全ては障害からの解放をもたらすであろう。



「私の見るところ通常の思想と言語では、自由とは人間を人間以外の一切のものから区別す る基本的な特徴であり、自由には程度――選択行為にたいする障害がないことによって定められ る程度があるということが、中心的な想定になっている。ここでの選択は、それ自体が先行す る諸条件によって決定されていない、少なくとも全面的には決定されていないと見なされてい る。他の問題におけると同様、ここでも通常の感覚の方が間違っているのかもしれない。しか しそれに反駁する責任は、それに賛成しない人の側にある。通常感覚が自由の障害がどれだけ 多様であるかを充分に意識していないということもある。障害は物理的でも精神的でもある。 「内的」でもあり、「外的」でもある。あるいは両者の要素の複雑な混合でもある。社会的要 因や個人的要因、あるいはその両者のために解明が困難であり、おそらく解明は概念的に不可 能かもしれない。通常の意見は、この問題を過度に単純化しているのかもしれない。しかし私 の思うに、それは本質については――、自由とは行動にたいする障害がないということにかか わっているという点については正しい。これらの障害は、われわれの意図の実現を妨げる物理 的な力――自然のものか人間によるものかは問わず――から成る場合もある。地理的条件、牢獄の 壁、武装した人々、食住その他生活に必要なものが欠如するという脅威(意図的に武器として 用いられるか、意図せざるものかにかかわりなく)などがそうである。また障害が心理的であ る場合もある。恐怖感、「コムプレックス」、無知、錯誤、偏見、幻想、夢想、強迫観念、神 経症、精神病など、多種多様な非合理的要因である。道徳的自由、合理的な自己統制――何が問 題であるか、何が自分の行動の動機であるかを知っていること、他人や自分自身の過去の影 響、あるいは自分の集団や文化の影響から生じるまだ認識されていない力からの独立、内省し 合理的に検討すれば根拠がないことが判るような希望、恐怖、願望、愛情、憎悪、理想などを 破壊すること――たしかにこれらすべては障害からの解放をもたらすであろう。その障害の一部 には、人類の進路におかれたものの中でもっとも恐るべき、かつ陰険なものも含まれているで あろう。プラトンからマルクスとショーペンハウエルにかけての道徳論者は、この障害につい て鋭い、しかし散発的な洞察を行ってきた。しかしその力が全体として充分に理解されるよう になったのは、ようやく精神分析学の登場とその哲学的含意が知覚されるようになった今世紀 のことであった。この意味での自由概念の有効性を否定し、それが合理性と知識にたいして緊 密な論理的依存関係にあることを否定するのは、愚かなことであろう。自由がすべてそうであ るように、この自由も障害の除去から成り、あるいはそれに依存している。この場合の障害と は、人間の力の全面的な行使――人がいかなる目的を選ぼうと――にたいする心理的な障害物のこ とである。しかしこの障害は、それがいかに重要で、これまでいかに不充分にしか分析されて こなかったにせよ、障害の一部分でしかない。他の部類の障害、他のよりよく認識されている 形態の自由を無視して、このような障害だけを強調すれば、問題が歪曲されていくことになる であろう。そして私の思うに、ストア派からスピノザ、ブラッドレー、スチュアート・ハムプ シャーにかけて、自由を自己決定にだけ限定してきた人々は、まさにこの歪曲を行ってきたの である。  自由であるとは、強制されざる選択ができるということである。そして選択は、互いに競合 するいくつかの可能性――少なくとも二つの邪魔のない「開かれた」道を前提としている。それ はまた、いくつかの道を開いておくような外的な状況にかかっているであろう。人や社会が享 受している自由の幅について語る時にわれわれの念頭にあるのは、思いにその人と社会の前に 開かれている道の広さないし幅、いわば開かれている扉の数と、その扉がどれだけ広く開かれ ているかということである。しかしこの譬喩は不完全である。実際には「数」と「幅」だけで は不充分だからである。いくつかの扉が他の扉よりもはるかに重要であることもある。個人と 社会の生活にとって、その扉の奥にある利益の方が、はるかに中心的な関心事であることもあ ろう。ある扉は他の開かれた扉に続き、ある扉は閉ざされた扉へと続いている。現実の自由が あり、また可能性としての自由もある。それは、現存ないし潜在的な力――物理的ないし精神的 な力のもと、いくつかの閉ざされた扉をどれだけ容易に開くことができるかにかかっている。 それにしても、いかにして一つの状況を他の状況に照らして測定できるのであろうか。例えば、物質的な必要と安楽さが充分に保障されているという意味で、他人によっても状況によっ ても妨害されていないが、しかし言論と結社の自由は許されていない人がいるとしよう。他方 でより大きな教育の機会、他の人々との自由な交流と結社の機会を有しているが、例えば政府 の経済政策のためにぎりぎりの生活必要物資しか入手できない人がいるとしよう。この二人の どちらがより大きく自由かをどのようにして決定できるであろうか。この種の問題は常に生じ てくるであろう。それは功利主義の著作で、むしろあらゆる形態での非全体主義的な政治の実 践で充分にお馴染みのことである。しかし、たとえ硬くしっかりした基準を提出できないとし ても、人ないし社会の自由の尺度はもっぱら選択可能な可能性の幅によって決定されていると いうことは、依然として事実である。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.285-288,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年2月6日日曜日

公衆の感情、集団や人の価値観に屈服したとすれば、その責任は私にあるのであって、外的な力の責任ではない。そのような影響力は抵抗しがたいと考え、自らの行動を選択できないものだと考えるのは、他者からの非難や自己非難を回避しようしているだけではないのか。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自らの選択、評価、判断

公衆の感情、集団や人の価値観に屈服したとすれば、その責任は私にあるのであって、外的な力の責任ではない。そのような影響力は抵抗しがたいと考え、自らの行動を選択できないものだと考えるのは、他者からの非難や自己非難を回避しようしているだけではないのか。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)理解すべき自己は存在するのか
 人が自らを理解すれば、たとえそれが自由の充分条件ではないとしても、その時はじめて自由であるということは、われわれには理解すべき自己があるということを前提としている。

(2)理解するのでなく自ら選択するのではないのか
 (a)選択が自己を創造する
  理解すべき自己があるということ自体が、特にいく人かの実存主義哲学者 によって疑問に付された。通常、安直に考えられているよりははるかに多くのことが、人間の 選択によって決定されているというのが、彼らの主張である。
 (b)選択回避は責任回避
  選択は責任を意味しており、い く人かの人間はほとんどいつも、また大抵の人間は時々、この重い負担を回避したいと思うか ら、言い訳とアリバイを探し求めるという傾向がある。
 (c)社会的圧力は絶対的ではない
  自由に対する障害である社会的圧力などの存在と効力は、人間の意志や活動から独立のものでなく、あるいは 孤立した個々人に、利用できない手段ではない。
 (d)影響があるにしても自らの選択である
  他人の圧力、同調行動への教師や友人や両親の圧力、聖職者や同僚や批評家や社会集団ないし階級の言動による影響も、もし私がそのような影響を受けたとすれば、それは私が 影響を受けることを選んだからだ。

(3)選択しないことも一つの選択
 選択しないということもそれ自体が、行動的な 主体として自らを主張するのではなく、ことを成り行きにまかせるという一種の選択を表して いる。

(4)私の選択、評価、判断である
「事実」は決して自ら語りはしない。私、選択し評価し判断する私だけが語ることができる。私自身の甘美な意志 によって、私が自由に見て検討し、承認ないし拒否することができる原理、規則、理想、偏見、感情にしたがって、私は語る。




「しかしこの見解については、もっと根本的な批判があり、それを考察しておかねばならな い。人が自らを理解すれば(たとえそれが自由の充分条件ではないとしても)、その時はじめ て自由であるということは、われわれには理解すべき自己があるということ――人間の本性と呼 ぶに相応しい構造があり、それはあるがままの事実として存在し、法則に従い、自然的研究の 対象であるということを、前提としている。このこと自体が、特にいく人かの実存主義哲学者 によって疑問に付された。通常、安直に考えられているよりははるかに多くのことが、人間の 選択によって決定されているというのが、彼らの主張である。選択は責任を意味しており、い く人かの人間はほとんどいつも、また大抵の人間は時々、この重い負担を回避したいと思うか ら、言い訳とアリバイを探し求めるという傾向がある。そのため人は、自然や社会の避けがた い法則の作用――例えば、無意識の精神の働き、不変の心理的反射作用、社会進化の法則の働き など――にあまりにも多くのことを帰着させがちである。この流派に属する批判者たち(彼らは ヘーゲルとマルクス、キェルケゴールの双方に多くを負っている)は、自由にたいするいくつ かの悪名高い障害――例えばJ・S・ミルが大いに論じた社会的圧力など――は、客観的な勢力で はないという。つまりその存在と効力は、人間の意志や活動から独立のものでなく、あるいは 孤立した個々人には利用できない手段――個人の欲するがままに起こすことができない革命や急進的改革によってのみ変革できるといった性質のものではないと、いうのである。ここで論じ られているのは、それと正反対のことである。私は他人の圧力を受けているわけではない、ま た同調行動をとるよう学校の教師や友人や両親の圧力を受けているわけでもない、さらには私 には如何ともしようのないやり方で、聖職者や同僚や批評家や社会集団ないし階級の言動に よって影響されているわけでもない。もし私がそのような影響を受けたとすれば、それは私が 影響を受けることを選んだからだと、いうのである。私が《せむし》、ユダヤ人、ニグロなど として嘲笑され、侮辱されたとしよう。あるいは裏切り者という疑いをかけられていると感じ て、気落ちしているとしよう。しかしそれは、私を支配している他人の見解や態度、つまりそ のような人々の《せむし》、人種、叛逆についての意見と評価を、私が承認することを選んだ からにすぎないのである。私は常にそれを無視し、あるいはそれに抵抗することができる。そ のような意見、基準、見方をせせら笑うことができる。そしてその時、私は自由である。まさ しくこれが、異なった前提の上に建てられているとはいえ、ストアの賢人ゼノンの肖像を描い た人々が抱いていた理論である。私が公衆の感情、あるいはあれこれの集団や人の価値に屈服 したとすれば、その責任は私にあるのであって、外的な力――人的であれ非人格的なものであれ 外的な力の責任ではない。私としては、そのような影響力は抵抗しがたいと考え、私の行動を しきりにそのせいにしたがるであろうが、しかしそれは非難あるいは自己非難を避けようとし ているからにすぎない。このような批判者によれば、私の行動、私の性質、私の人格は神秘的 な実体、何らかの仮説的な一般的(因果的)諸命題の型の中の一要素ではなく、選択ないし選 択しないという型のおける一つの主体である。選択しないということもそれ自体が、行動的な 主体として自らを主張するのではなく、ことを成り行きにまかせるという一種の選択を表して いる。私が自己に批判的で事実を直視するならば、自分が責任を他に転嫁しているのだという ことを発見するであろう。このことは、理論の領域にも実務の領域にもともに当てはまる。例 えば私が歴史家であるとすれば、歴史上重要な要因についての私の見解はさまざまな個人や階 級の評判を高めたり低めたりしたいという私の願望に深く影響されているかもしれない。それ は私の側の自由な評価の行為であると、論じられるであろう。私がいったんこのことを意識す るようになると、私は私の意志にしたがって選び判断できるようになる。「事実」は決して自 ら語りはしない。私、選択し評価し判断する私だけが語ることができる。私自身の甘美な意志 によって、私が自由に見て検討し、承認ないし拒否することができる原理、規則、理想、偏 見、感情にしたがって、私は語る。」

 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.260-262,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




自分に病的盗癖があることを知った病的盗癖者は、放置か抵抗かの選択肢を獲得する。選択は成功するとは限らないが、知らなければ抵抗できず、知識はいくらか能力を高める。しかし、ある自己知識は、他の能力と自由を減少させるかも知れず、必ずしも自由の総額を増やすわけではない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自己知識と自由意志

自分に病的盗癖があることを知った病的盗癖者は、放置か抵抗かの選択肢を獲得する。選択は成功するとは限らないが、知らなければ抵抗できず、知識はいくらか能力を高める。しかし、ある自己知識は、他の能力と自由を減少させるかも知れず、必ずしも自由の総額を増やすわけではない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a) 動機、意図、選択、理由、規則
 合理的行動とは、その行為者ないし観察者によって動機、意図、選択、理由、規則などの観点から説明でき、自然の法 則すなわち因果的、統計的、有機的な法則だけでは説明できない行動で ある。

(b)因果の連鎖でもなくランダムでもない
 合理的思想とは、その内容、少なくともそ の結論が何らかの規則と原理に従っており、因果の連鎖ないし出鱈目の連鎖の中の単なる要 素とはなっていないような思想である。

(c)泥棒と病的な盗癖を持つ者
 ある人を泥棒と呼ぶことは、その限りで彼に合理性を認めることである。彼に病的な盗癖があるとい うのは、合理性を認めないことである。

(d) 自分に病的盗癖があることを知っている病的盗癖者
 人間がどこまで自由であるかが、自分の行動の根源に ついて彼がどこまで知っているかに直接にかかっているとすれば、自分に病的盗癖があることを知っている病的盗癖者は、その限りで自由である。
 (i)放置するのか抵抗するのか
  彼は盗みをやめることができず、またや めようとはしないかもしれない。しかし彼がこの事実を知っているかぎり、彼はいまやその 衝動に抵抗するか、それともそれを野放しにするかの 選択ができる立場にある。
 (ii)つねに変更できるのか
  気質や因果関係を私が自分で自覚している ということは、それを操作ないし変更させる能力があるということと同じであろうか。その自 覚が、必ずや私にそのような能力を与えるということになるであろうか。
 (iii)いくらか能力が高まる
  ある傾向があることを自分で知っている場合、私はそれに応じて生活を演ずることができる。それに対して、自分で知らない場合には、そうはできない。 つまり私はいくらか能力を高め、その限りで自由を得ている。

(e) 自己知識と自由の総額
 自己知識は、私の自由の総額を増大させもすれば、減少させもするように思われる。問題は経験的な問題であり、それに対する答えは個々の状況にかかっている。
 (i)知っていることが、 他のある点では私の能力を低めることになるかもしれない。
 (ii)ある分野での能力と自由の増大にたいする代価として、他の分野での能力と自由を失うかもしれない。
 (iii)認識したとしても、そ のような感情を必ずしも統制できなくなっているかもしれない。


「問題をこのように提出することは、合理性と自由とは何であるかを問うことである。少な くともそれに向かって、長い道を歩むことである。合理的思想とは、その内容、少なくともそ の結論が何らかの規則と原理に従っており、因果の連鎖ないし出鱈目の連鎖の中のたんなる要 素とはなっていないような思想である。合理的行動とは、(少なくとも原則としては)その行 為者ないし観察者によって動機、意図、選択、理由、規則などの観点から説明でき、自然の法 則――因果的、統計的、「有機的」、その他同じ論理的型の法則――だけでは説明できない行動で ある(動機、理由などによる説明と、原因、蓋然性などによる説明とが「範疇的」に別のもの であるのか、したがって原則として対立しないし、むしろ互いに無関係であるのかという問題 は、もちろんきわめて重要な問題であるが、ここではそれを提起するつもりはない)。ある人 を泥棒と呼ぶことは、その限りで彼に合理性を認めることである。彼に病的な盗癖があるとい うのは、合理性を認めないことである。人間がどこまで自由であるかが、自分の行動の根源に ついて彼がどこまで知っているかに直接にかかっているとすれば、自分に病的盗癖があること を知っている病的盗癖者は、その限りで自由である。彼は盗みをやめることができず、またや めようとはしないかもしれない。しかしかれがこの事実を知っているかぎり、彼はいまやその 衝動に抵抗するか(たとえ失敗せざるをえないとしても)、それともそれを野放しにするかの 選択ができる立場にある――と主張されるのであるが――から、彼は一層合理的になるだけでなく (この点には論駁の余地はなさそうである)、一層自由になることになるであろう。果たし て、常にそうであるということになるであろうか。気質や因果関係を私が自分で自覚している ということは、それを操作ないし変更させる能力があるということと同じであろうか。その自 覚が、必ずや私にそのような能力を与えるということになるであろうか。知識はすべて自由を 増大させるという言葉には、もちろん明白な意味がある。けれどもその意味はきわめて陳腐で ある。私に癇癪の発作を起こしたり、階級意識を感じたり、ある種の音楽にたいして陶酔する 傾向があることを自分で知っている場合、私はそれに応じて生活を演ずることができる――「で きる」という言葉のある意味で。それにたいして自分で知らない場合には、そうはできない。 つまり私はいくらか能力を高め、その限りで自由を得ている。しかしこの知っていることが、 他のある点では私の能力を低めることになるかもしれない。私が癇癪の発作や何か苦痛の(あ るいは逆に快適な)感情の起こってくるのを予感した場合、私は何か他の形で私の能力を自由 に行使するのを躊躇して、何か他の経験を得られなくなるかもしれない。詩を書き続けたり、 いま読んでいるギリシャ語のテキストを理解したり、哲学を考えたり、あるいは椅子から立ち 上がったり――そういったことができなくなるかもしれない。言い換えれば、ある分野での能力 と自由の増大にたいする代価として、他の分野での能力と自由を失うかもしれないのである (この点については、やや異なった文脈で後で立ち返ることにする)。また私は、癇癪の発 作、階級意識、インドの音楽にたいする耽溺などが起こってきたことを認識したとしても、そ のような感情を必ずしも統制できなくなっているかもしれない。古典的著作家たちの意味する 知識とは、「何をなすべきか」についての知識ではなくて事実についての知識であり、それは、ある目的や価値に加担したことをあたかも事実についての発言であるかのように偽装し、 あるやり方で行動するという決意を表明しないでそれを記述したものかもしれない。それはと もかく、私が他の人々について知っているのと同じように私自身についても知っていると主張 するとすれば、たしかにその知識の根源は私自身であり、私の確信は一層強いとしても、この ような自己知識は私の自由の総額を増大させもすれば、減少させもするように思われる。問題 は経験的な問題であり、それにたいする答えは個々の状況にかかっている。すでに述べた理由 によって、知識を得ればそれだけある点で私は自由になるという事実から、それが必ずや私の 享受する自由の総額を増大させるという結論にはならないのである。それは片手で与えたもの をもう一方の片手でより多く取り返し、自由を減少させるかもしれないのである。」

 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.257-260,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




外的世界、他者、自己に関する事実の知識は、私の方針に対する無知と妄想に由来する障害を除去する。しかし、目的とは何なのか。それは、客観的なのか主観的なのか、いかに知られるのか。どこまでが、私の自由意志と言えるのかという問題がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自由意志に関する諸問題

外的世界、他者、自己に関する事実の知識は、私の方針に対する無知と妄想に由来する障害を除去する。しかし、目的とは何なのか。それは、客観的なのか主観的なのか、いかに知られるのか。どこまでが、私の自由意志と言えるのかという問題がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(1)外的世界、他者、自己に関する事実
 重要な事実についての知識、外的世界と他人と私自身の本性についての知識は、私 の方針に対する無知と妄想に由来する障害を除去する。
 (a)基本的な想定
   (i)物と人は本性――それが知られているかどうかにかかわりなく、明確な構造を有してい る、 (ii)これら本性ないし構造は、普遍的かつ不変の法則によって支配されている、  (iii)これら構造と法則は、少なくとも原則としては、すべて知ることができる。


(2)外的世界
 人間の本性とその目的について、この本性と目的を多少とも 達成するには、外的世界をいかにまたどの程度支配することが必要か。
 (a)外的世界が必要との主張
  例えばアリストテレスは、外的条件があまりにも不利ならば、自己達成、自らの本性の適切な実現は不可能にな るであろうと考えた。
 (b)内なる砦への退避
  ストア派とエピクロス派は、人間社会と外的世界からあ る程度の距離をおきさえすれば、外的状況が何であれ、完全な合理的自己統制は人間に達成可 能であると主張した。

(3)どこまでが私の意志なのか
 事物と非合理的な生物から成る 外的世界と、主体的な行動主体とを区別する境界線はどこにあるのか。

(4)目的とは何なのか
 一般的な本 性ないしは客観的な目的がそもそも存在しているのか。
 (a)客観的な目的があるとの主張
  ある者は、人間の目的は客観的に存在しており、特殊な調査方法によって発見可能であ ると主張した。
 (b)目的は主観的であるとの主張
  目的は主観的であり、あるいはき わめて多様な物理的、心理的、社会的要因によって決定されている。
 (c)目的はいかに知られるのか
  この方法が何であるか、経験的であるか先験的であるか、直感的であるか推論的であるか、科学的である純粋内省的であるか、公的であるか私的であるか、特に才能のあるもの、あるいは幸運なものに限られているのか、それとも原則として万人に開かれているの か。




「つまり重要な事実についての知識、外的世界と他人と私自身の本性についての知識は、私 の方針に対する無知と妄想に由来する障害を除去するという結論である。哲学者(そして神学 者、劇作家、詩人)は、それぞれ人間の本性とその目的について、この本性と目的を多少とも 達成するには、外的世界をいかにまたどの程度支配することが必要か、そのような一般的な本 性ないしは客観的な目的がそもそも存在しているのか、そして事物と非合理的な生物から成る 外的世界と主体的な行動主体とを区別する境界線はどこにあるのかについて、大きく意見を異 にしている。ある思想家は、本性の達成はこの地上において可能である(あるいはかつて可能 であったか、いつの日にかは可能であろう)と考え、また他の思想家は可能ではないと考え た。あるものは、人間の目的は客観的に存在しており、特殊な調査方法によって発見可能であ ると主張したが、この方法が何であるか、経験的であるか先験的であるか、直感的であるか推 論的であるか、科学的である純粋内省的であるか、公的であるか私的であるか、特に才能のあ るもの、あるいは幸運なものに限られているのか、それとも原則として万人に開かれているの かについては、意見が異なっていた。また他のものは、その目的は主観的であり、あるいはき わめて多様な物理的、心理的、社会的要因によって決定されていると信じていた。さらにいえ ば、例えばアリストテレスは、外的条件があまりにも不利ならば――人がいわばトロイ最後の王 プリアモスの不運に苦しめられるならば――、自己達成、自らの本性の適切な実現は不可能にな るであろうと考えた。それにたいしてストア派とエピクロス派は、人間社会と外的世界からあ る程度の距離をおきさえすれば、外的状況が何であれ、完全な合理的自己統制は人間に達成可 能であると主張した。彼らはさらにこれに加えて、意識的に独立と自立を求める人々、つまり 自分には支配できない外的な力の《おもちゃ》になることからの逃避を求める人々には、誰で も原則としてこの自己達成に必要な距離をおくことができるという、客観的な信念を抱いてい た。これらすべての見解に共通する想定として、次の点を挙げることができよう。  (i)物と人は本性――それが知られているかどうかにかかわりなく、明確な構造を有してい る、 (ii)これら本性ないし構造は、普遍的かつ不変の法則によって支配されている、  (iii)これら構造と法則は、少なくとも原則としては、すべて知ることができる。そしてそ の知識は自動的に、暗闇でつまずかないように、そして所与の事実――事物と人の本性、それを 支配する法則――からして失敗を運命づけられている方針に努力を浪費しないですむようにして くれる。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.255-257,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と動機にあるのかが問題である。麻薬、催眠術、根拠のない恐怖、幻想、夢想、無意識の記憶の影響はどうだろう。合理化とかイデオロギーの影響はどうだろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

真の自由とは何か

真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と動機にあるのかが問題である。麻薬、催眠術、根拠のない恐怖、幻想、夢想、無意識の記憶の影響はどうだろう。合理化とかイデオロギーの影響はどうだろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)麻薬、催眠術
 自由でない人とは、いわば麻薬を呑まされたり催眠術にかけられている状態にあ る人である。行動主体がどのような説明や正当化を試 みるかにはかかわりなく、何か隠された心理的、生理的条件によって自分には統制できない力の手中に握られていれば、自由ではない。

(2)根拠のない恐怖、幻想、夢想、無意識の記憶
 人間の行動が方向を誤った感情、例えば、存在していないものに対する恐怖、事態の真の状態の合理的知覚によらず、幻想や夢想、無意識の記憶と忘れ去られた 傷による憎悪などを原因にしている時には、人は自己指導的でなく、したがって自由ではな い。
(3)合理化、イデオロギー
 合理化やイデオロギーといったものは、行動の真の根源を知らない、あるいは真の根源を無視ないし誤解している偽りの行動の説明である。この偽りの 説明は、さらに幻想と夢想を生み、非合理的で衝動的な行動様式を生むであろう。

(4)意識的な意図と動機、目的
 真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と 動機にあるのかが問題である。ある合理的人間が自由なのは、彼の行動が機械的でなく、自らの動機から発し、彼が意識して いる、また欲すれば意識しうる目的の達成を意図している場合である。



「この理論によると、人間の行動が方向を誤った感情――例えば、存在していないものにたい する恐怖、事態の真の状態の合理的知覚によらず、幻想や夢想、無意識の記憶と忘れ去られた 傷による憎悪など――を原因にしている時には、人は自己指導的でなく、したがって自由ではな い。この見解では、合理化やイデオロギーといったものは、行動の真の根源を知らない、ある いはそれを無視ないし誤解している偽りの行動の説明ということになるであろう。この偽りの 説明は、さらに幻想と夢想を生み、非合理的で衝動的な行動様式を生むであろう。したがって 真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と 動機にあるか、逆にいえば、同じ効果、つまり(行動主体がどのような説明ないし正当化を試 みるかにかかわりなく)選択の結果であるかのように装って同じ行動を生み出すとしても、ど の程度まで何か隠された心理的、生理的条件によっていないかによって、人間は自由である。 ある合理的人間が自由なのは、彼の行動が機械的でなく、自らの動機から発し、彼が意識して いる、また欲すれば意識しうる目的の達成を意図している場合である。つまり、このような意 図と目的を持っていることが、彼の行動の充分条件ではないが、必要条件であるといってよい 場合である。自由でない人とは、いわば麻薬を呑まされたり催眠術にかけられている状態にあ る人である――彼が自分の行動をどう説明しようと、彼の表面の明白な動機と方針がいかに変化 しようとも、その事実には変わりはない。彼がどのような理由を挙げるにせよ、彼の行動が明 白に同じと予言できる時には、彼は自分には統制できない力の手中に握られており、したがっ て自由でないと、われわれは考える。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.256-257,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年2月2日水曜日

無限の彼方にある目標は、目標ではないのです。目標はもっと近いものでなければなりません、少なくとも労働者の労働の報酬とか、なされた仕事の中の喜びであるべきです。それぞれの時代、それぞれの世代、それ ぞれの生活がそれ自身の充足を持っていたのだし、現に持っているのです。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))

現実の真の目標

無限の彼方にある目標は、目標ではないのです。目標はもっと近いものでなければなりません、少なくとも労働者の労働の報酬とか、なされた仕事の中の喜びであるべきです。それぞれの時代、それぞれの世代、それ ぞれの生活がそれ自身の充足を持っていたのだし、現に持っているのです。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))















「さらに、「進歩」を語ったり、現在を未来への犠牲にしたり、遠い未来の子孫たちが幸福 であり得るために今日の人々を苦しめる用意をしている人々がいる。そして、彼らは野蛮な犯 罪や人間の堕落をそれがある保障された未来の幸福に向けての不可避的方途であるからといっ て許している。反動的ヘーゲル派や革命的共産主義者たち、純理的功利主義者たちと教皇至上 主義の熱狂的信者たち、および高貴だが遠い将来の目的の名において嫌悪すべき方法を正当化 するすべての人々のまさに等しくわかちもつこのような態度をゲルツェンはもっとも激しく軽 蔑し、嘲笑した。彼は一八四八年のうちくだかれた幻想への挽歌として書いた彼の政治的信条 告白(profession de foi)――『向こう岸から』の最も多くのページをこの問題 に捧げている。  『もし進歩がその目標ならば、われわれは一体誰のために働いているのでしょうか? 勤勉 な労働者たちが近づいてきた時に、彼らに褒美を与えるかわりにあとずさりして、「われら死 せんとする者君に礼す(morituri te salutant)」と叫びながら疲れ果てて死ぬ 運命にある群衆への慰めとして、お前たちの死んだあとの地上はすべてが素晴らしくなるのだ と嘲笑的に答えることしかせぬこのモロク神は、いったい誰なのでしょうか? はたしてあな たは現在生きている人びとに、いつかその上で他人が踊りを踊る床を支えている女神像柱とい う悲しい役割......あるいは膝まで泥につかりながら、「未来の進歩」というあわれな言葉をその 旗に書いた《はしけ》を曳く不幸な船漕ぎ奴隷たちの悲しい役割を与えることを、ほんとうに 望んでいるのでしょうか? ......無限の彼方にある目標は、目標ではないのです、単なる......まや かしにすぎません。目標はもっと近いものでなければなりません――少なくとも労働者の労働の 報酬とか、なされた仕事の中の喜びであるべきです。それぞれの時代、それぞれの世代、それ ぞれの生活がそれ自身の充足を持っていたのだし、現に持っているのです。そして、その途中 で新しい要求や、新しい経験や、新しい方法が発達するのです。......  それぞれの世代の目的は、それ自身です。自然は決してある世代をある未来の目標を達成す るための手段として作るのでもなければ、未来について配慮しているわけでもありませ ん。』」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ゲルツェンとバクーニン』,収録書籍名『思想と思 想家 バーリン選集1』,pp.220-222,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),今井義夫 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)





社会の真の現実の構成分子である個人は、真の利益の代わりに、すべ てが想像上の利益や空想によって、何か一般概念、ある種の集合名詞、ある種の旗印によって犠牲とされてきた。すべては狂った知性の 結果である。歴史、進歩、国民の安全、社会的平等、社会、国民、人間性など。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))

狂った知性による想像上の利益

社会の真の現実の構成分子である個人は、真の利益の代わりに、すべ てが想像上の利益や空想によって、何か一般概念、ある種の集合名詞、ある種の旗印によって犠牲とされてきた。すべては狂った知性の 結果である。歴史、進歩、国民の安全、社会的平等、社会、国民、人間性など。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))















「これらの公式は、狂信的な空論家たちの手中にあっては恐るべき武器になってゆくのであ る。彼らはなにか絶対的な理想のために、もし必要ならば狂暴な生体解剖も辞せずにこれらの 公式を人間に押しつけようとしている。その絶対的理想の証明は批判もなされず、また批判も できない――形而上的で、宗教的で、美学的で、いずれにせよ現実の人間の現実的な必要に無関 係なある種の世界観に依拠している。その世界観の名において、革命的指導者たちは良心に苦 痛を感ぜずに人を殺し、拷問する。なぜなら、彼らはこの絶対的理想が、またはこの絶対的理 想のみが、社会的、政治的、個人的なあらゆる病の解決をもたらすか、またはもたらすに違い ないと考えていたからである。そして、ゲルツェンはこのテーゼを、大衆は才人を嫌い、すべ ての人間が彼らと同じように考えることを望み、また、思想や行動の独立にひどく懐疑的であ ると指摘して、トックヴィルやその他の民主主義の批判者たちによってわれわれが知っている 線にそって批判を発展させている。  『社会、国民、人間性、思想への個人の従属は、人身供養の継続です。......無実の者を有罪者 の代わりにはりつけ刑にすることです。......社会の真の現実の構成分子である個人は、常になに か一般概念、ある種の集合名詞、ある種の旗印、その他の犠牲とされてきました。何の目的で の......犠牲なのか、決して問われることはなかったのです。』  これらの抽象語――歴史、進歩、国民の安全、社会的平等――は注目に値する。なぜならそれら はすべて無実の人々が仮借なく犠牲に供されてきた非情な祭壇だからである。ゲルツェンはそ れらを順次検討する。  もし、歴史がゆるぎない方向性と合理的構造とひとつの目的(多分、有益な目的)を持って いるならば、われわれはそれらに合わせるか、あるいは逆らって滅びなければならない。しか し、この合理的目的とは何か。ゲルツェンはそれを認識できない。彼は歴史のなかに意味を見 ず、ただ「代々の慢性的狂気の」物語を見るだけである。  『事例を引用することは必要ないように思われます。数百万の例があるからです。あなたの お好きな歴史書をひもといてみなさい。すると驚くべきことには......真の利益の代わりに、すべ てが想像上の利益や空想によって占められています。血が流されたり、人々がひどい苦難を負 わされた理由を見つめなさい。何が称賛され、何が罰せられるかを見つめなさい。そうすれば あなたは、最初は悲しく見え、思い直せば慰めに充ちている真理――すべてこれは狂った知性の 結果であるという確信をもつでしょう。古代世界を見る時、あなたはいたるところで、現代に おけるのとほとんど同じように狂気がくりひろげられているのを見出すでしょう。』」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ゲルツェンとバクーニン』,収録書籍名『思想と思 想家 バーリン選集1』,pp.216-217,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),今井義夫 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




自然は計画に従わない。また、個人あるいは社会の問題を解決できる公式もない。一般的な解決は解決ではない。普遍的な目標は決して真の目標ではない。特定の時間と場所での現実の個人の自由は絶対的な価値であり、一般的な目標のための抑圧は誤りである。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))

一般的、普遍的なものは現実ではない

自然は計画に従わない。また、個人あるいは社会の問題を解決できる公式もない。一般的な解決は解決ではない。普遍的な目標は決して真の目標ではない。特定の時間と場所での現実の個人の自由は絶対的な価値であり、一般的な目標のための抑圧は誤りである。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))

















(a)自然は計画に従わない。
 自然は計画に従わない。原則として個人あるいは社会の問題を解決できる鍵はひとつもないし、公式もない。
(b)一般的な解決は解決ではない。
 単純化や一般化は経験の代用品ではない。
(c)普遍的な目標は決して真の目標ではない。
 すべての時代がそれ自身の性格と自己の課題をもってい る。
(d) 絶対的価値としての個人の自由
 特定の時間と場所での現実の個人の自由は絶対的な価値である。自由な行為のための最小限度の余地をもつことは、すべての人々にとっての道徳的必要であり、それらは永遠の救済とか歴史とか人間性とか進歩とか、ましてや、国家とか 教会とかプロレタリアートなどといった抽象語もしくは一般的な原理の名において抑圧されるべきでない。


「この偉大な専制的ヴィジョン――時代の知的栄光――はドイツの形而上学的天才によって顕さ れ、礼賛され、無数の比喩や言葉のあやで美化され、フランス、イタリア、ロシアの深遠で、 もっとも尊敬された思想家たちによって喝采された。しかし、ゲルツェンはこれに対して激し く反逆した。彼はその基本的諸理念を拒否し、その結論を否定した。その理由は、それが彼に とって(彼の友人のベリンスキーにとってもそうであったように)道徳的に我慢ならないとい うだけでなく、それが知的な見かけだおしであり、審美的にけばけばしく、また自然をドイツ の俗物たちや学者ぶる連中の貧弱きわまりない空想の拘束用上着に無理におしこむ試みと思わ れたからであった。「フランスおよびイタリアからの手紙」『向こう岸から』「古い同志への 手紙」のなかで、ミシュレ、W・リントン、マッツィーニへの公開書簡のなかで、もちろん 『過去と思索』を通じて、彼は彼自身の倫理的および哲学的信念を宣伝した。それらのなかで もっとも重要なことは次のことである。自然は計画に従わない。原則として個人あるいは社会 の問題を解決できる鍵はひとつもないし、公式もない。一般的な解決は解決ではない。普遍的 な目標は決して真の目標ではない。すべての時代がそれ自身の性格と自己の課題をもってい る。単純化や一般化は経験の代用品ではない。特定の時間と場所での現実の個人の自由は絶対 的な価値である。自由な行為のための最小限度の余地をもつことはすべての人々にとっての道 徳的必要であり、それらは永遠の救済とか歴史とか人間性とか進歩とか、ましてや、国家とか 教会とかプロレタリアートなどといった抽象語もしくは一般的な原理の名において抑圧される べきでない。現代あるいは他のあらゆる時代において偉大な思想家たちによってかくも自由に 言いふらされたこれらの偉大な名目は、憎むべき残酷さや専制主義の諸行為を正当化するため にもち出されたものであり人間の感情や良心の声を窒息させるようにもくろまれた魔術的なき まり文句なのである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ゲルツェンとバクーニン』,収録書籍名『思想と思 想家 バーリン選集1』,pp.211-212,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),今井義夫 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




どんな知識でも、社会問題について最終的で普遍的な解決を自動的にもたらし得るものではない。フランス啓蒙主義の指導者たちの科学への素朴な楽観主義に対して、モンテスキューの用心深い経験主義、法律を普遍的に適用することへの不信、 人間の能力の限界にたいする鋭い感覚は、今日非常に有益である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

モンテスキューの思想の意義

どんな知識でも、社会問題について最終的で普遍的な解決を自動的にもたらし得るものではない。フランス啓蒙主義の指導者たちの科学への素朴な楽観主義に対して、モンテスキューの用心深い経験主義、法律を普遍的に適用することへの不信、 人間の能力の限界にたいする鋭い感覚は、今日非常に有益である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)無知、蒙昧、野蛮、愚昧、真実の隠蔽、冷笑、人権の無視に対する闘い
 フランス啓蒙主義の指導者たち、科学を広めた偉大な人たちは、あらゆる種類の無知と蒙昧、とくに、野蛮、愚昧、 真実の隠蔽、冷笑、人権の無視にたいして公然の戦いをいどみ、人類に大きな貢献をしてき た。

(2)科学への素朴な楽観主義とその誤り
 どんな知識でも、技能でも、論理力で も、社会問題について最終的で普遍的な解決を自動的にもたらしうるものではないという事実 を、モンテスキューが非常にはっきりとみてとっていた。
 人間と社会に対する不十分な理論の典型的な考え方は、次のようなものだ。
 (a)人間についての科学
  事物の運動にかんする科学があるように、人間の行動にかんする 科学もありうるはずだ。
 (b)科学的方法への楽観主義
  科学の諸原理をつ かんだ者は誰でも、それを適用することにより、彼らが一致して目指していた全ての目標を 実現することができる。
 (c)統一的、一元主義的な世界観
  真理、正義、幸福、自由、知識、徳性、繁栄、 肉体的力と精神的力は、コンドルセが言ったように、互いに「ひとつの分かちがたい鎖 に」つながっている。少なくとも、互いに矛盾するものではない、そして社会生活 について新たに発見された科学的真理の絶対確実な諸原理に一致するよう社会を変えたなら、 これらすべての目標を実現することができる。
 (d)フランス革命の失敗の原因
  (i)理解不足か?
   新しい原理が正確に理解されていなかったか、その適用 が不十分であったかのいずれかだったからだ。
  (ii) 社会的、経済的原因か?
   別の原理が問 題解決の真の鍵である。例えば、ジャコバン派の純粋に政治的な解決は、問題を過度に単純化 しすぎている点が致命的であり、社会的経済的原因がもっと考慮されるべきであった。
  (iii)他の原理か?
   科学的解決を信じる人々は、何か他のもの、例えば階級闘争とか、コント的進化の原理とか、他のある種の本質的要素が無視されたのが理由であると考えた。

(3)モンテスキューの思想
 (a)用心深い経験主義
 「物事の結果のほとんどは、あまりにも不思議な方法で生じたり、知覚できない、遠い原因によっていたりするので、それをあらか じめ見通すことは、ほとんど無理である」。
 (b)法律を普遍的に適用することへの不信
  人々の「性向や性 癖」に最もよく適した政体が最良である。
 (c)人間の能力の限界に対する鋭い感覚
  我々にできることはただ、その目的が 何であれ、人間をできるだけ失望させないよう努力することである。
 (d)「恐るべき単純化をする人々」は知的に明晰であり道徳的に心が純潔であるからこそ、この誤りに陥ったように思われる。


「今日、明らかとなり、とくに有益と思えるのは、どんな知識でも、技能でも、論理力で も、社会問題について最終的で普遍的な解決を自動的にもたらしうるものではないという事実 を、モンテスキューが非常にはっきりとみてとっていたことである。フランス啓蒙主義の指導 者たち、科学を広めた偉大なひとたちは、あらゆる種類の無知と蒙昧、とくに、野蛮、愚昧、 真実の隠蔽、冷笑、人権の無視にたいして公然の戦いをいどみ、人類に大きな貢献をしてき た。彼らの自由と正義のための戦いは、彼らが自分たちの教義を完全には理解していない時でさえも、非常に多くのひとびとが、今日そのおかげで生きてゆけ、自由でいられるひとつの伝 統をつくりあげた。これら指導者たちの大多数(彼らの告発の論拠はそれほど反駁の余地のな いものであったが)はまた、事物の運動にかんする科学があるように、人間の行動にかんする 科学もありうるはずだ、と信じていた。そして、この人間の行動についての科学の諸原理をつ かんだ者は誰でも、それを適用することにより、彼らが一致して目指していたすべての目標を 実現することができる、これらすべての目標――真理、正義、幸福、自由、知識、徳性、繁栄、 肉体的力と精神的力――は、コンドルセが言ったように、たがいに「ひとつの分かちがたい鎖 に」つながっている、あるいはすくなくとも、互いに矛盾するものではない、そして社会生活 について新たに発見された科学的真理の絶対確実な諸原理に一致するよう社会を変えたなら、 これらすべての目標を実現することができる、と信じていた。  フランス大革命が、一夜にしてひとびとを幸福にそして有徳にすることができなかった時、 革命を支持した者の中には、それは、新しい原理が正確に理解されていなかったか、その適用 が不十分であったかのいずれだったからだと主張したり、これらの原理ではなく別の原理が問 題解決の真の鍵である、例えば、ジャコバン派の純粋に政治的な解決は、問題を過度に単純化 しすぎている点が致命的であり、社会的経済的原因がもっと考慮されるべきであった、と主張 したりする者もいた。一八四八年から四九年にかけて、これらの要素が十分考慮され、それで もやはり、結果は満足すべきでなかった時、科学的解決を信じるひとびとは、何か他のもの―― 例えば階級闘争とか、コント的進化の原理とか、他のある種の本質的要素――が無視されたから だと断言した。モンテスキューの用心深い経験主義、法律を普遍的に適用することへの不信、 人間の能力の限界にたいする鋭い感覚といったものが、敢然と立ち向かっていくのは、まさに この種の「恐るべき単純化をするひとびと」にたいしてであって、彼らが知的に明晰であり、 道徳的に心が純潔であるからこそ、人間の行動にかんして彼らが想定した科学によって祭壇に 供えられた巨大な抽象の名において、彼らはますます容易に人類を幾度となく犠牲に供したよ うに思われたのである。もし、急進的な改革や反乱や革命が主張されるとすれば、それは、社 会体制のもたらす不正があまりにもたえがたきものとなり、それにたいして「自然が反対の叫 びをあげる」時である。しかしこうしたなりゆきは、つねに危険を伴うし、社会的結果を計算 にいれた絶対確実な方法により、物質的にも精神的にも安全を保証してもらうわけには決して いかない。人類の歴史は、とりわけフランスにおいて幾多の高邁な思想家たちを深く魅了した ような単純な法則によって影響されうるものではない。「物事の結果のほとんどは、あまりに も不思議な方法で生じたり、知覚できない、遠い原因によっていたりするので、それをあらか じめ見通すことはほとんど無理である」。だから、われわれにできることはただ、その目的が 何であれ、人間をできるだけ失望させないよう努力することである。ひとびとの「性向や性 癖」に最もよく適した政体が最良である。立法に際しては、なによりも、何がどういう結果を もたらすかについての判断が必要であり、この判断力は、経験もしくは歴史によってのみみが くことができる。なぜなら、法律と、人間性および人間の意識と相互作用をもつ人間の諸制度 との関係は、きわめて複雑であって、単純で小ぎれいな体系でははかり切れないからである。 時代を無視した規則をきびしく押しつければ、結果はつねに流血に終わるものである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『モンテスキュー』,収録書籍名『思想と思想家  バーリン選集1』,pp.195-198,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),三辺博之(訳)) 

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年1月31日月曜日

価値の一元主義的信念は誤りであるだけでなく、熱狂主義、強制、迫害を正当化しやすい。価値多元主義が現実の真実である。マキアヴェッリの所説の意義は、この真実を示したことにある。価値多元主義は、経験主義、寛容、妥協へ の道の拓く。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

マキアヴェッリの所説の意義

価値の一元主義的信念は誤りであるだけでなく、熱狂主義、強制、迫害を正当化しやすい。価値多元主義が現実の真実である。マキアヴェッリの所説の意義は、この真実を示したことにある。価値多元主義は、経験主義、寛容、妥協へ の道の拓く。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)一元主義的信念は熱狂主義、強制、迫害を正当化する
 一つの理想が真の目的 である限り、常にいかなる手段も困難すぎることはなく、いかなる犠牲も高すぎることはない ように思われ、人間は究極的目的の実現のために必要なあらゆることをすると考えられる。
(b)以下のような一元主義的信念は誤り
 (i)われわれの病弊に対する最終的回答があり、それに至る道があるはずだ。
 (ii)われわれの信念や習慣の形作る断片 ははめ絵の一片であり、従ってそれは原則的に解決可能である。
 (iii)全ての利益の調和が実現する回答を発見するのに成功していないのは、技 術が乏しいか、愚かであるか、不運であるためである。
(c)価値多元主義が現実の真実である
 (i)全ての価値が互い一致することなく、それぞれの価値のあるがままの姿に基づいて選択しなければならない。
 (ii)ある生活を 信ずるが故にそうした生活様式を選び、またそれを当然と考えるが故に、あるいは吟味の結果、われわれは他の形の生き方をする道徳的心構えができていないことがわかったが故にこうした生き方を選ぶとしよう。 
(d)経験主義、寛容、妥協へ の道
 同じような独断的信仰が和解できないこと、一方の他 方に対する完全な勝利が実際上あり得ない。


「マキアヴェッリ以後、全ての一元主義的思想建築物は疑いの目をのがれることはできなく なった。どこかに隠れた宝――われわれの病弊に対する最終的回答――があり、それに至る道があ るはずだ(それというのも、こうした答は原則として発見可能であるはずであるから)といっ た確実性の意識、それと違ったイメージを用いていえば、われわれの信念や習慣の形作る断片 ははめ絵の一片であり、従ってそれは原則的に解決可能であり(そのことはア・プリオリに保 証されているので)、全ての利益の調和が実現する回答を発見するのに成功していないのは技 術が乏しいか、愚かであるか、不運であるためであるという信念、こうした西欧政治思想の基 本的な信念は激しく動揺するに至った。確実性を求める時代にあって、『君主論』と『論考』 を説明しよう、あるいは釈明しようとする無限の試み――それはかつてよりも今日の方が多い―― が確かに見られるが、その理由はこれで十分説明されるであろう。  これはマキアヴェッリの所説に含まれる消極的な帰結である。しかし実は積極的帰結、マキ アヴェッリを驚かせ、恐らく不愉快にする積極的帰結も存在している。一つの理想が真の目的 である限り、常にいかなる手段も困難すぎることはなく、いかなる犠牲も高すぎることはない ように思われ、人間は究極的目的の実現のために必要なあらゆることをすると考えられる。こ うした確実性の意識こそ、熱狂主義、強制、迫害を正当化するのに与かって力のあるものの一 つである。しかももし全ての価値が互い一致することなく、それぞれの価値のあるがままの姿に基づいて選択しなければならず、ある価値を選ぶのはそれがある単一の基準との関連でより 高次のものとされるからではなく、そのあるがままの姿の故であるとしよう。またある生活を 信ずるが故にそうした生活様式を選び、またそれを当然と考えるが故に、あるいは吟味の結 果、われわれは他の形の生き方をする道徳的心構えができていないことがわかった(他の人々 は違った選択をするとしても)が故にこうした生き方を選ぶとしよう。合理性や計算が適用さ れうるのは手段や従属的目的についてであって、決して究極目的についてではない、としよ う。ここの現れてくるのは、人間にとって唯一の善があるという古い原理の下に構築された世 界とは全く違った世界である。  もしパズルの答えが一つだけしかないならば、そこで問題になるのは、第一にそれをどのよ うにして見い出し、次にどのような形で実現し、最後に説得や力によっていかに他の人々がそ の答えを信奉するようにするか、だけである。しかしもしパズルの答えが一つでないならば (マキアヴェッリは二つの生き方を対比したが、しかし狂信的一元主義者を除けば、二つ以上 の生き方があり得るし、かつあることは明らかである)、経験主義、多元主義、寛容、妥協へ の道が開かれる。寛容は歴史的に見て、同じような独断的信仰が和解できないこと、一方の他 方に対する完全な勝利が実際上あり得ないことが意識された結果として生じた。生き延びよう と欲する人々は誤りを寛容しなければならないことを知った。彼らは徐々に多様性に価値を認 めるようになり、人間の世界の事柄について確定的な解決があるという立場に対して懐疑的と なった。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『マキアヴェッリの独創性』,収録書籍名『思想と思 想家 バーリン選集1』,pp.81-83,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),佐々木毅 (訳))

バーリン選集1 思想と思想家 岩波オンデマンドブックス 三省堂書店オンデマンド


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




生産手段の所有者は、持たざる者への搾取を正当化するために、イデオロギーとしての観念、価値、法律、慣習、制度を作り出す。持たざる者は、生活様式も観念と理想も、支配者の目的に適合させられ、自らの人間性の欲するところに従って自由に生き、その成果を享受することを妨げられている。(カール・マルクス(1818-1883))

真に自由な行為とその成果の享受を妨げられている社会

生産手段の所有者は、持たざる者への搾取を正当化するために、イデオロギーとしての観念、価値、法律、慣習、制度を作り出す。持たざる者は、生活様式も観念と理想も、支配者の目的に適合させられ、自らの人間性の欲するところに従って自由に生き、その成果を享受することを妨げられている。(カール・マルクス(1818-1883))














(1)生産手段の所有者による搾取
 その掌中にある生産手段を蓄積しており、したがってまたその生産の 果実を資本の形態で蓄積している人々は、大部分の生産者、つまり労働者から彼らの創りだし たものを強制的に奪い取ってしまい、社会を搾取者と被搾取者に分裂させることになる。

(2)制度と技術は階級闘争に規定されている
 階級闘争がその社会のあら ゆる制度を規定するのである。この闘争の過程で、技術技能はさらに発展し、階級に分裂した 社会の文化は一層複雑になり、生産物はますます増大する。

(3)労働の疎外
 (a)共通の目的が失われる
  人間は本来社会的存在であり、生活と生産の 両面において結び合い共同していなければならないのに、かつての共通の目的を目指して協力 し合う状態にとって代わって今や闘争状態が基本になってしまった。
 (b)望まみもしない労働の強制
  生産手段の独占によって、特定の集団は、他の集団に自己の意志を押しつけ、他の集団に望 みもしないし好みもしない仕事を強いることができることとなる。

(4)真に自由な行為とその成果の享受を妨げられている社会
 生活様式も観念と理想も、支配者の目的に適合させられ、自身の現実の苦境に照応しないものとなる。この苦境こそは、人間性の欲するところに従って生きること、換言すれば、連帯の社会を構成する一員として自らの行為の理由を理解し自らの調和のある自由 で合理的な活動の成果を享受しうること、そういうことを人為的に妨げられている人間の状態 である。

(5)イデオロギーとしての観念、価値、法律、慣習、制度
 (a)雇用主の 側では、意識的であれ無意識的であれ、自己の寄生的存在を、自然的であり望ましいものとし て正当化したいと思わずにはおれない。
 (b)正当化の過程において、諸々の観念、価値、法律、慣習、制度が生みだされてくる。
 (c)集団的自己欺瞞
  このようなイデオロギー、民族的な宗教的な経済的な等々のイデオロギーは、集団によ る自己欺瞞の形態である。
 (d)教育、一般見解
  この集団的自己欺瞞は、正常な教育の一部として、また社会の一般見解として吸収される。その結果、これを客観的なもの公正なもの必然的なものと見なして、受け入れられることになる。
 (e)人間でない何らかの究極的権威
  疎外の徴候は、究極的権威を、人間自らのなかに求めるのではなく、何らかの非人格的な力に求めるか、想像上の人格ないし勢力に求めることにある。
 (f)イデオロギーとしての経済学
  マルクスの意見では、最も 抑圧性の強い魔性を発揮するのは、ブルジョア経済学である。それは、商品や貨幣の運動を、 とりもなおさず生産、消費、分配の過程を、自然の過程と同じ非人格的な過程として、客観的 諸力の不変の運動形式として描く。


「マルクスによれば、その掌中にある生産手段を蓄積しており、したがってまたその生産の 果実を資本の形態で蓄積している人々は、大部分の生産者、つまり労働者から彼らの創りだし たものを強制的に奪い取ってしまい、社会を搾取者と被搾取者に分裂させることになる。これ らの階級の利害は対立することになる。それぞれの階級の利益は、その階級が敵階級を打ち続 く階級闘争のなかで負かすことができるか否かに懸っている。この階級闘争がその社会のあら ゆる制度を規定するのである。この闘争の過程で、技術技能はさらに発展し、階級に分裂した 社会の文化は一層複雑になり、生産物はますます増大する。そしてその社会の物質的進歩に よってはぐくまれた要求は、一段と多様の度を加え、一段と人工的となる。すなわち、一層 「不自然な」ものとなる。この不自然さは、戦い合う両階級が「疎外」された結果である。そ の「疎外」は、この理論の説くところによれば、人間は本来社会的存在であり、生活と生産の 両面において結び合い共同していなければならないのに、かつての共通の目的を目指して協力 し合う状態にとって代わって今や闘争状態が基本になってしまったために、生じたものであ る。  生産手段の独占によって、特定の集団は、他の集団に自己の意志を押しつけ、他の集団に望 みもしないし好みもしない仕事を強いることができることとなる。これによって、社会のまと まりは破壊され、両階級の生活はともに歪んだものとなるのである。無産のプロレタリアであ る大多数のものは、今や他人の利益のために他人の考えに従って、労働することになる。彼ら の労働の成果も彼らの労働手段も彼らから切り離されている。彼らの生活様式も彼らの観念と 理想も、彼らの支配者の目的に適合させられ、彼ら自身の現実の苦境に照応しないものとなる ――この苦境こそは、人間性の欲するところに従って生きること、換言すれば、対立分裂の社会 でなく統一連帯の社会を構成する一員として自らの行為の理由を理解し自らの調和のある自由 で合理的な活動の成果を享受しうること、そういうことを人為的に妨げられている人間の状態 である。かくして、労働者の生活は、虚偽をその土台としていることになる。逆に、雇用主の 側では、意識的であれ無意識的であれ、自己の寄生的存在を、自然的であり望ましいものとし て正当化したいと思わずにはおれないことになる。  この正当化の過程において、諸々の観念、価値、法律、慣習、制度が生みだされてくる。そ れらの集合体を、マルクスは時として「イデオロギー」と呼ぶ。このイデオロギーの全目的 は、雇用主たちの特権的で不自然でそれゆえ不正な身分と特権とを支え弁明し擁護することに ある。このようなイデオロギー、民族的な宗教的な経済的な等々のイデオロギーは、集団によ る自己欺瞞の形態である。支配階級の犠牲者つまりプロレタリアートと農民は、この集団的自 己欺瞞を正常な教育の一部としてまた人為的社会の一般見解として吸収する。その結果、これ を客観的なもの公正なもの必然的なものと見なして、受け入れることになる。これは自然的秩 序の一部を成すものだと説明せんがために、諸々の擬似科学が創り出される。ルソーが説いた ように、これら擬似科学がまた、人類の誤謬と紛争と不満とを一層深める作用をするのであ る。  疎外の徴候は、究極的権威を、人間自らのなかに求めるのではなく、何らかの非人格的な力 に求めるか、想像上の人格ないし勢力に求めることにある。たとえば、前者のばあい、資本主 義の合理性を演繹可能なものとして示している需要と供給の法則のようなものである。後者の ばあいは、神とか教会というようなもの、あるいは国王とか聖職者のような神秘性のある人物 であったり、他の抑圧的な神話の姿を変えたものであったりする。「自然な」生活様式――そこにおいてのみ真理を認識し調和ある生活を行うことが全社会的に可能である――から切り離され た人間は、究極的権威を人間界以外に求めたうえで、彼らの不自然な状態はこの究極的権威の せいだとして自己自身に納得させようとする。もし人間が自己を永遠に解放しようとするなら ば、このような神話の正体を見抜くことを学ばなければならない。マルクスの意見では、最も 抑圧性の強い魔性を発揮するのは、ブルジョア経済学である。それは、商品や貨幣の運動を、 とりもなおさず生産、消費、分配の過程を、自然の過程と同じ非人格的な過程として、客観的 諸力の不変の運動形式として、描くのである。したがって、そこでは人間はただ頭をさげて 唯々諾々と服従するしかなく、反抗を試みるなどというのは正気の沙汰でしかな、ということ になる。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『カール・マルクス――その生涯と環境』,日本語書籍 名『人間マルクス』,第6章 唯物史観の諸相,pp.156-158,サイエンス社(1984),福留久大 (訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





人々の思想や信条に影響を及ぼす最大の要因は、人々が置かれている経済的環境であり、支配階級の被搾取階級に対する諸関係である。無意識的にか、制度的にか、道徳基準や宗教による組織的幻想が、外的世界の一部分と化して、諸個人の動機、感情、信条、知性に影響を及ぼす。(カール・マルクス(1818-1883))

思想、信条への経済的関係の影響

人々の思想や信条に影響を及ぼす最大の要因は、人々が置かれている経済的環境であり、支配階級の被搾取階級に対する諸関係である。無意識的にか、制度的にか、道徳基準や宗教による組織的幻想が、外的世界の一部分と化して、諸個人の動機、感情、信条、知性に影響を及ぼす。(カール・マルクス(1818-1883))














(1)所属階級の利害による動機
 人間の生活において行動力の根源をなしているものは、経済面の争いを巡る階級的配置のなかでの彼ら相互間の関係である。
 (a)支配階級に属してい るか否か。
 (b)自らの利害が支配階級の成功あるいは失敗によって左右されるか否か。
 (c)現存秩序の 維持が重要な意義を有するような位置にある否か。

(2)諸個人の動機、感情、信条、性格、知性、その他の自然的傾向、人間性
 人間の特殊な一身上の動機や感情、すなわち彼が利己主義者であるか利他主義 者であるかということ、寛大であるか貪欲であるかということ、賢明であるか間抜けであるかということ、野心的であるか控え目であるかということは、大して検討する価値のない問題と なる。

(3)組織的幻想が行動に及ぼす影響
 組織的幻想が、外的世界の一部分と化して、客観的社会状況の一 部分となり、諸個人の行動様式に変化を及ぼす。 
 (a)そもそも人間 は、その行動の理由や正当化について考えることなく、行動することがある。
 (b)この社会の過半 の人々の場合、彼ら自身ではさまざまの主観的動機に基いてさまざまに行動しているように 思っている。
 (c)理性、道徳、宗教
  自分自身に彼らの行為は理性、道徳、ある いは宗教的信念によって導かれたものだと思い込ませようとして、彼らの行動について入念な 説明付けを図る。
 (d)道徳基準、宗教組織
  道徳基準とか宗教組織とかの 一大制度へと成長転化して、社会的圧力自体が消え去った後でも長く残存しつづけることがしば しばみられる。
 (e)気候・土壌・身体組織のような変わり難い要因が、社会制度との相互作用のなかで機能するのと同じような方式 で、作用するのである。


 「生産諸関係・対・普遍の人間性、客観と主観 
  ある人々を別の人々から区別し、一群の制度や信条を別の一群の制度や信条と対立させる単 一の発動要因は、それが置かれている経済的環境であり、所有者たる支配階級の被搾取階級に たいする諸関係、両者の間に存続する特殊な性質の緊張から生ずる諸関係である、――マルクス は、そういう信念を持つに至った。人間の生活において行動力の根源をなしているもの(しか も本人によって認識されていないだけに一層強力に作用しているとマルクスが考えたもの) は、経済面の争いを巡る階級的配置のなかでの彼ら相互間の関係である。それを知ることに よって誰であれ人間の行動の基本方向を予測することができるような要因を成しているのは、 人間の実際に立っている立場である。それを、より詳しくいえば、彼らが支配階級に属してい るか否か、彼らの利害が支配階級の成功あるいは失敗によって左右されるか否か、現存秩序の 維持が重要な意義を有するような位置にある否か、ということである。このことがひとたび理 解されるとき、人間の特殊な一身上の動機や感情、すなわち彼が利己主義者であるが利他主義 者であるかということ、寛大であるか貪欲であるかということ、賢明であるか間抜けであるか ということ、野心的であるか控え目であるかということは、大して検討する価値のない問題と なる。彼らの自然的傾向がたとえいかなるものであろうとも、もって生まれた性質は彼らを取 り囲む環境によって枠付けされて一定の方向への動きを示すようになるのである。  実際のところ、「自然的傾向」とか、あるいは不変の「人間性」を強調することは、誤解を 招くもとなのである。人間性の諸傾向は、彼らが抱く主観的感情に即して分類することもでき ないわけではないが、それは、科学的予測の観点から言えば、重要性に乏しい。また人間の諸 性向は、社会的に規定された彼らの実際的目的に即して分類することもできるのである。人間 は、その行動の理由や正当化について考えることなく、行動することがある。この社会の過半 の人々の場合、彼ら自身ではさまざまの主観的動機に基いてさまざまに行動しているように 思っているかも知れないが、客観的には同じような方式で行動しているということがよくあ る。このような事情が明らかにならなかったのは、自分自身に彼らの行為は理性、道徳、ある いは宗教的信念によって導かれたものだと思い込ませようとして、彼らの行動について入念な 説明付けを図ってきたためである。これらの説明付けの試みが、行動にたいして何ら影響をお よぼすことができないというわけではない。なぜなら、それらは道徳基準とか宗教組織とかの 一大制度へと成長転化して、社会的圧力――それをなんとか言いつくろうためにこそ右のような 説明付けの試みが生まれたのである――自体が消え去った後でも長く残存しつづけることがしば しばみられるからである。こういう次第で、これらの一大組織的幻想が、客観的社会状況の一 部分、諸個人の行動様式に変化をおよぼすような外的世界の一部分と化して、気候・土壌・身 体組織のような変わり難い要因が社会制度との相互作用のなかで機能するのと同じような方式 で、運動するのである。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『カール・マルクス――その生涯と環境』,日本語書籍 名『人間マルクス』,第6章 唯物史観の諸相,pp.151-152,サイエンス社(1984),福留久大 (訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





分業は富の蓄積、余暇、文化の可能性を拓いたが、同時に、他者を強制して自らのために働かせることも可能とし、階級社会が生まれた。歴史は意図的な行為と、予期せぬ諸結果との相互作用で織りなされていくが、何が歴史の推進力だろうか。それは、ヘーゲルの言う諸制度と絶対精神ではなく、人間的目的を追求する人間自身である。(カール・マルクス(1818-1883))

人間的目的を追求する人間

分業は富の蓄積、余暇、文化の可能性を拓いたが、同時に、他者を強制して自らのために働かせることも可能とし、階級社会が生まれた。歴史は意図的な行為と、予期せぬ諸結果との相互作用で織りなされていくが、何が歴史の推進力だろうか。それは、ヘーゲルの言う諸制度と絶対精神ではなく、人間的目的を追求する人間自身である。(カール・マルクス(1818-1883))



















(1)分業の正当なる結果、余暇と文化 
 意識的であれ無意識的であれ人間の創造物の一つに、分業がある。それは原始社会において 始まり、その後、生産性に顕著な増大をもたらし、人間の直接的必要を超えた剰余の富を作りだ している。この富の蓄積が次には余暇の可能性と文化の可能性とを作りだす。  

(2)分業の転倒した結果、階級の分裂  
 同時に、この蓄積された生活物資を、他人に福利を得させない手段として使用する可能性、他人を脅し強制して富の蓄積のために働かせる手段として使用する可能 性、他人を押しつけ搾取し人間を支配者階級と被支配者階級に分割する手段として使用する可 能性、に道を拓くことにもなる。


(3)意図的な行為と、予期せぬ諸結果との相互作用
 (a)歴史とは、自主管 理の確立を目指して奮闘する行為者と、彼らの行為の諸結果との間に生まれる相互作用 である。
 (b)行為の諸結果
  (i)意図通り、想定外
   意図されたものであるばあいもあれば、意図されざるものである ばあいもある。
  (ii)予測可能、予測不能
   人間およびその環境に及ぼす影響についても、予測される ものもあれば、そうでないものもありうる。
  (iii)物質、無意識、感情、思想
   物質的領域に生じることもあ れば、思想および感情の領域に発現することもあり、人間の生活の無意識的次元において起こ ることもある。
  (iv)個人、大衆、社会、制度
   個々人にのみ作用するばあいがあるかと思えば、他面、社会 制度ないし社会運動の形態をとって出現するばあいもある。

(4)歴史の進行方 向を規定する中核的運動要因は何だろうか
 (a)諸制度と絶対精神(ヘーゲル)
  中核的運動要因 は、種々の意識次元で自らが創造した抽象的あるいは具体的諸制度のうち に、自己自身を理解する鍵を探し求めている絶対精神のなかにある。
 (b)目的を追求する人間存在(マルクス)
  (i)事 実においては人間の労働の産物であるものに、人間から独立した外在的な物ないし力であるか の如き外観を与えようとするのは、誤りである。
  (ii)理解可能な人間的目的を追求する人間存在こそが、中核的 要因である。この人間的目的とは、快楽とか知識とか安全とか来世の救済とかの個別 的目標ではなく、全人間能力を、理性の原理と合致した方向に調和的に実現することである。
  (iii)人間的目的の追求は、部分的には自己を 実現できながらも、他面不可避的に部分的には不満を残さざるをえないところから、次の時代 の人々に関わる諸範疇や諸価値やらを変えることになる。
  (iv)文化は、歴史的範疇であって、永遠不変のものではないのである。人間の歴史において唯一永続的な要因は、人間自体、闘いとの関連で理解される人間自体であった。自然を支配し自己の生産力を組織だてようとする闘い、し かも対内的にも対外的にも調和を保ちつつ合理的形態においてそれを実行しようとする闘いで ある。
  (v)闘いとは、人間が自覚的に選び とったものではなく、既に人間存在の一部を成しているものである。この点は、マルクスの 形而上学的側面の表われである。


 「分業の正当なる結果――余暇と文化  
 意識的であれ無意識的であれ人間の創造物の一つに、分業がある。それは原始社会において 始まり、その後生産性に顕著な増大をもたらし、人間の直接的必要を超えた剰余の富を作りだ している。この富の蓄積が次には余暇の可能性と文化の可能性とを作りだす。  
分業の転倒した結果――階級の分裂 
  だがそれと同時に、この蓄積――蓄積された生活物資――を、他人に福利を得させない手段とし て使用する可能性、他人を脅し強制して富の蓄積のために働かせる手段として使用する可能 性、他人を押しつけ搾取し人間を支配者階級と被支配者階級に分割する手段として使用する可 能性、に道を拓くことにもなる。この階級分裂は、創意工夫と技術進歩とそれによって生みだ された財貨の蓄積との意図せざる諸結果のなかでも最も深刻なものである。歴史とは、自主管 理の確立を目指して奮闘する行為者の生活と、彼らの行為の諸結果との間に生まれる相互作用 である。これらの諸結果は、意図されたものであるばあいもあれば、意図されざるものである ばあいもある。これらの諸結果はが人間およびその環境に及ぼす影響についても、予測される ものもあれば、そうでないものもありうる。これらの諸結果は、物質的領域に生じることもあ れば、思想および感情の領域に発現することもあり、人間の生活の無意識的次元において起こ ることもある。これらの諸結果は、個々人にのみ作用するばあいがあるかと思えば、他面社会 制度ないし社会運動の形態をとって出現するばあいもある。この複雑な編成物は、その進行方 向を規定する中核的運動要因が把握されたときにのみ、理解可能となり制御可能となるのであ る。  初めて事物を優れて明晰に根源的に省察した人、ヘーゲルにあっては、この中核的運動要因 は、絶対精神のなかに、種々の意識次元で自らが創造した抽象的あるいは具体的諸制度のうち に自己自身を理解する鍵を探し求めている絶対精神のなかに、見出されていた。マルクスは、 「この宇宙論的図式を受け容れたのであるが、他方で、ヘーゲルとその弟子たちを、運動する究極の力について神話的説明を施したとの理由で非難した。神話は、人間の最も人間らしい面 の表われであり成果であるものを、人間以外のものによって作りだされたものと見なして外在 化する過程で、意図せざる結果として生まれてくるのである。このばあいについて言えば、事 実においては人間の労働の産物であるものに、人間から独立した外在的な物ないし力であるか の如き外観を与えようとするのである。ヘーゲルは、客観的な絶対精神の前進運動について 語った。それに対して、マルクスは、理解可能な人間的目的を追求する人間存在こそが中核的 要因であると考えた。この人間的目的とは、快楽とか知識とか安全とか来世の救済とかの個別 的目標ではなく、全人間能力を理性の原理と合致した方向に調和的に実現することである。こ の追求は、ある集団なりある世代なりある文明なりの行動を規定するとともに、その行動を理 解しようとする他の人々にその行動を説明する鍵ともなるものであるが、――部分的には自己を 実現できながらも、他面不可避的に部分的には不満を残さざるをえないところから、次の時代 の人々に関わる諸範疇や諸価値やらを変えることになる。あらゆる活動や創造の中心をなすこ の絶えざる自己変革は、固定した時間を超越した原理とか、変化に無縁の普遍的目標とか、永 遠不滅の人間的範疇とかなどという観念そのものを無意味なものにしてしまう。  マルクスが取り扱おうとする時代の特色は、マルクス自身の見解によると、階級闘争の現象 によって規定されているのである。個々人のあるいは諸社会の行動や見地もまたこの要因に よって決定されることは、疑問の余地がない。右のことは、文化についてもまたあてはまる基 本的な歴史的真理である。文化は、自らの力の実現を図るため、しばしば無益なあるいは自滅 的方策に訴えることを辞さない人々によって実行される富の蓄積およびこの蓄積の支配を目指 す闘争によって、影響を受けるのである。文化は、まさしく歴史的範疇であって、永遠不変の ものではないのである。それは、過去において現状とは異なっていたし、現状のまま永遠に続 くというものでもない。実際のところ、近づきつつあるその破滅の徴候は、見るべき眼をもっ た人々には、疑問の余地なく明白であった。人間の歴史において唯一永続的な要因は、人間自 体、闘いとの関連で理解される人間自体であった。ここでいう闘いとは、人間が自覚的に選び とったものではなく、既に人間存在の一部を成しているものである。(この点は、マルクスの 形而上学的側面の表われである。)自然を支配し自己の生産力を組織だてようとする闘い、し かも対内的にも対外的にも調和を保ちつつ合理的形態においてそれを実行しようとする闘いで ある。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『カール・マルクス――その生涯と環境』,日本語書籍 名『人間マルクス』,第6章 唯物史観の諸相,pp.144-146,サイエンス社(1984),福留久大 (訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





2022年1月30日日曜日

歴史の推進力は精神的なものではなく、物質的条件の総和であり、これこそが所与の時代に生きる人間をして、現に彼らがやっているように思考し行動 するよう決定しているのだ。人々はその物質的困苦 のゆえに、非物質的理想世界を発明し、その中に慰めを求 め、それのみを現実的なるものと呼び、崇拝 の対象へと転換する。(ルートヴィヒ・フォイエルバッハ(1804-1872))

物質的条件の総和が歴史の推進力

歴史の推進力は精神的なものではなく、物質的条件の総和であり、これこそが所与の時代に生きる人間をして、現に彼らがやっているように思考し行動 するよう決定しているのだ。人々はその物質的困苦 のゆえに、非物質的理想世界を発明し、その中に慰めを求 め、それのみを現実的なるものと呼び、崇拝 の対象へと転換する。(ルートヴィヒ・フォイエルバッハ(1804-1872))













(a)物質的条件の総和が歴史な推進力
 歴史の推進力は精神的なものではなく、物質的条件の総和であり、これこそが所与の時代に生きる人間をして、現に彼らがやっているように思考し行動 するよう決定しているのだ。
(b) 非物質的理想世界を発明し崇拝する
 人々はその物質的困苦 のゆえに、自分たちが発明した非物質的理想世界の中に慰めを求 め、正義、調和、秩序、善性、統一、永遠を超越的世界の超越的属性に変え、それのみを現実的なるものと呼び、崇拝 の対象へと転換する。


「フォイエルバッハの次の一歩は、歴史の推進力は精神的なものではなく、物質的条件の総 和であり、これこそが所与の時代に生きる人間をして現に彼らがやっているように思考し行動 するよう決定しているのだ、と言明することにあった。しかしながら、人々はその物質的困苦 のゆえに、無意識のうちにではあるが、自分たちが発明した非物質的理想世界の中に慰めを求 めようとする。そしてこのなかで、地上の生活における不幸の代償として、来世の永遠の祝福 を享受しようとするのである。彼らがこの世で持たないすべてのもの――正義、調和、秩序、善 性、統一、永遠――を超越的世界の超越的属性に変え、それのみを現実的なるものと呼び、崇拝 の対象へと転換するのである。この幻想を暴露するためには、心理的に幻想を生みだすもとに なる物質的適応不全の観点からこの幻想を分析することが必要となる。」

 

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『カール・マルクス――その生涯と環境』,日本語書籍 名『人間マルクス』,第4章 青年ヘーゲル派,pp.84-85,サイエンス社(1984),福留久大 (訳))


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




時代の精神あるいは文化 の精神とは何か。それは時代ないし文化を構成する現象の総体を指す要約的名辞にすぎないの ではないか。従って、精神が人々に作用すると述べることは、空虚な同義反復ではないか。(ルートヴィヒ・フォイエルバッハ(1804-1872))

「時代の精神」への疑問

時代の精神あるいは文化 の精神とは何か。それは時代ないし文化を構成する現象の総体を指す要約的名辞にすぎないの ではないか。従って、精神が人々に作用すると述べることは、空虚な同義反復ではないか。(ルートヴィヒ・フォイエルバッハ(1804-1872))












(a)変化を惹き起こすものは、諸個人の決意と行動なのではないのか。
(b)無数の個人の生活と行為 の相互交渉を通じて、全体的帰結がいかにして出現してくるのか。

(c)人々に作用する時代の精神(ヘーゲル)
 同一時期のある文化に属する人々の思想や行動は、その時期の全現象の中に具現する同一 精神がそれらの人々のなかに作用することによって決定されている。

 (d)時代の精神は要約的名辞にすぎない(フォイエルバッハ)
「時代の精神あるいは文化 の精神とは何か。それは時代ないし文化を構成する現象の総体を指す要約的名辞にすぎないの ではないか。」それゆえ、現象の総体によって決定されていると主張することと同じことにな る。これは一個の空虚な同義反復にすぎぬ。

「同一時期のある文化に属する人々の思想や行動は、その時期の全現象の中に具現する同一 精神がそれらの人々のなかに作用することによって決定されている、とヘーゲルは主張した。 フォイエルバッハはこれを激しく拒否して次のような問を発した。「時代の精神あるいは文化 の精神とは何か。それは時代ないし文化を構成する現象の総体を指す要約的名辞にすぎないの ではないか。」それゆえ、現象の総体によって決定されていると主張することと同じことにな る。これは一個の空虚な同義反復にすぎぬ、と。  彼はさらに次のように指摘する。この現象の総体を範型という概念に代置してみたところ で、一歩の前進もみられない。なぜなら範型は事象を生みだす原因になりえないからである。 範型は事象の形式であり、事象の属性であって、事象それ自体は他の事象によってしか生み出 されえないのである。ギリシャ的天才、ローマ的美徳、ルネサンスの精神、フランス革命の精神といったものは、一個の抽象概念にすぎぬ。それは、所与のものの特質全体や歴史的事象の 全体を要約的に記述する標号符牒であり、便宜的に発明された普遍名辞であって、いかなる意 味においてもこの世界の客観的実在物ではないから、人間的事象にあれこれの変化をもたらし うるものではない。古い考え方――変化を惹き起こすものは諸個人の決意と行動であるという昔 ながらの考え方の方が、基本的に不条理の度合いが低い。なぜなら、個人は少なくとも存在し 行為しているが、普遍的概念や共通名辞は存在せず行為しないからである、と。ヘーゲルはま さしくこういう古い考え方の不十分さを強調した。なぜならそれは、無数の個人の生活と行為 の相互交渉を通じて全体的帰結がいかにして出現してくるかということを、説明することがで きないからである。そこで、ヘーゲルは、これら諸個人の意志に一定の方向を与えるある共通 の力、すなわち、歴史を社会全体の進歩の体系的説明たらしめるある普遍的法則を探究するこ とになったのであり、その面で彼はその天才ぶりを発揮したのである。だが彼は最後まで合理 性を貫徹できず、最後には茫漠たる神秘主義に陥った。なぜなら、ヘーゲルの理念という概念 は、説明されるべきものの同義反復的再構成にすぎないというのは言いすぎであるとしても、 キリスト教的人格神の姿を変えたものにほかならず、それゆえ、理性的討論の圏外にまで引き 上げられてしまっているからである、と。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『カール・マルクス――その生涯と環境』,日本語書籍 名『人間マルクス』,第4章 青年ヘーゲル派,pp.83-84,サイエンス社(1984),福留久大 (訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





ヘーゲルの真の重要性は、大集合准人格としての人為的諸制度の歴史的、批判的研究を創設したことである。諸個人の行動を、特定の時代や地域、民族に特定の諸特徴に結びつけることは、通俗的な影響であり、国家、民族、時代、歴史の非合理的な神話化は誤った適用である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

大集合准人格

ヘーゲルの真の重要性は、大集合准人格としての人為的諸制度の歴史的、批判的研究を創設したことである。諸個人の行動を、特定の時代や地域、民族に特定の諸特徴に結びつけることは、通俗的な影響であり、国家、民族、時代、歴史の非合理的な神話化は誤った適用である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a) 大集合准人格としての人為的諸制度の歴史的、批判的研究
 ヘーゲルの真の重要性は、社会的歴史的な研究分野の創設に及ぼした影響力にある。創設された新しい部門とは、構成員たる 諸個人の次元からだけでは描きえない、大集合准人格 great collective quasi- personalities と見なされるべき、独自の生命と性格を有する人為的諸制度の歴史、および その制度にたいする批判である。

(b)ヘーゲル的歴史観の通俗的な影響 
 諸個人あるいは彼らの行動を、特定の時代や地域、民族に特定の諸特徴を結びつけて記述する習慣がある。また、広く見られる社会的態度についてさえ、そのような理解の仕方をする場合がある。

(c)国家、民族、時代、歴史の非合理的な神話化
 この思想上の革命は、例えば国家、人種、歴史、時代といっ たものを超人格的な影響力の行使者として扱う、非合理的で危険な神話を培うに至った。

(d)諸個人の意図の軽視
 諸事件をあれやこれやの国王ないしは政治家の性格や意図の結果として、あるいは個人的な成功や失敗の結果として説明するすべての著述家 は、幼稚で非科学的であると見られるに至った。


「ヘーゲル的歴史観の影響  このような教説――かつては一世代全体の思想の変化の前兆であると同時にその変化の原因を 成したし、今や広く親しまれるものとなったこの教説が及ぼす影響は、測り知れないほどに大 きい。われわれには、特定の時代や地域に特定の諸特徴を結びつけたり、諸個人あるいは彼ら の行動を諸民族ないし諸時代を代表するものと見立てる習慣がある。さらにまた、一定の時代 や民族についてだけでなく、広く見られる社会的態度についてさえ、それら自身の、積極的起 動的な性質をもつ人間の人格に比すべきものを賦与して、それによって叙述する習慣がある。 例えば、諸行為をルネッサンス精神の現れだとか、フランス革命の精神の現れ、ドイツロマン 主義の精神の表現、ヴィクトリア朝時代の精神の表現だとか言うのである。こういった習慣 は、この新しい歴史主義的な物の見方から生じてきたものである。  ヘーゲルの独特な論理学の学説や自然科学の方法についての見解やは、不毛なものあり、概 して言えばその結果は有害であった。彼の真の重要性は、社会的歴史的な研究分野に及ぼした 影響力、新しい部門の創設に及ぼした影響力にある。創設された新しい部門とは、構成員たる 諸個人の次元からだけでは描きえない、大集合准人格 great collective quasi- personalities と見なされるべき、独自の生命と性格を有する人為的諸制度の歴史、および その制度にたいする批判である。この思想上の革命は、例えば国家、人種、歴史、時代といっ たものを超人格的な影響力の行使者として扱う、非合理的で危険な神話を培うに至った。しか し、この革命が人文諸科学に与えた影響は、非常に稔り豊かなものであった。ドイツには新し い歴史学派が生まれ、彼らの活動によって、諸事件をあれやこれやの国王ないしは政治家の性 格や意図の結果として、あるいは個人的な成功や失敗の結果として説明するすべての著述家 は、幼稚で非科学的であると見られるに至ったが、こういう風潮は右の思想革命の影響に負う ところ大なるものがあったのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『カール・マルクス――その生涯と環境』,日本語書籍 名『人間マルクス』,第3章 絶対精神の哲学,II,pp.57-58,サイエンス社(1984),福留久大 (訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





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