2019年7月19日金曜日

18.義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断である。情念や感情には、慣習、教育、世論の制約があり、一般原理と論理による判断はその限界を超越し得る。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

道徳の基準の強制力の源泉

【義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断である。情念や感情には、慣習、教育、世論の制約があり、一般原理と論理による判断はその限界を超越し得る。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)道徳の基準の強制力は何であるのか。義務の源泉は、何なのか。
 (1.1)それ自体が、義務的なものであるという感情を心に呼びおこす基準がある。例えば、泥棒、殺人、裏切り、詐欺をしてはいけないという基準を考えてみよう。
 (1.2)では、感情が義務の源泉なのか。感情が呼び起こされなければ、それは義務ではないのか。義務である。すなわち、感情が義務の源泉なのではない。
 参照:義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.3)そこで例えば、泥棒、殺人、裏切り、詐欺を、「全体の幸福を増進しなければならない」という一般原理によって基礎づけてみよう。これは、強制力を持ちうるだろうか。なぜ、全体の幸福を増進しなければいけないのだろうか。自分自身の幸福が他の何かにあるときに、どうしてそちらを選び取ってはいけないのだろうか。

(2)道徳の基準に関して、実際に生じている事実。
 (2.1)人間の情念や感情は、個別の道徳の基準を直接に把握することができる。しかし、それは正しいこともあれば、誤っていることもある。なぜなら、情念や感情は慣習、教育、世論により形作られるからである。
 (2.2)何が正しく、何が誤っているのか。それは、道徳の基準が何らかの一般原理から、首尾一貫した論理により基礎づけられるかどうかにかかっている。
 (2.3)一般原理そのものが、強い情念や感情を呼び起こさない場合もあるかもしれない。しかしこれも、慣習、教育、世論による制約を受けているという事実を、知らなければならない。もし、その一般原理が真実を捉えているのならば、いつしか、教育が進歩し慣習と世論が変わっていくことによって、情念と感情が直接に原理を把握できるようになるに違いない。

 「何らかの道徳の基準とみなされているものについては、次のような質問がしばしばなされるし、それは適切なことである。

その強制力は何であるか。それにしたがう動機は何か。よりはっきりと言えば、その義務の源泉は何か。どこからその拘束力をひきだすのか。

この問題にたいする答えを提示することは道徳哲学の必須の一部である。

これは、他の道徳論よりも功利主義道徳論にとりわけ当てはまるかのように、功利主義道徳論に対する反対論という形をしばしばとっているが、実際にはあらゆる基準について生じる問題である。

つまり、この問題は、人がある基準を《採用する》必要に迫られたり、習慣的に頼っていなかった何らかの根拠によって道徳論を論じるときにはいつでも生じている。

というのは、慣習的道徳論、つまり教育と世論が神聖なものとした道徳論のみが、《それ自体として》義務的なものであるという感情を心に呼びおこす唯一の道徳論だからである。

人がこの道徳論が慣習の後光のない何らかの一般原理からその義務力を《引き出している》ことを信じるように言われたとしても、このような主張は彼にとっては逆説的である。

もとの定理よりも、その系とされるものの方がより強い拘束力を持っているように思われ、土台とされるものがあるときよりもないときの方が上部構造がしっかりとしているように思われるのである。

人は次のように自問する。私は泥棒、殺人、裏切り、詐欺をしてはいけないと考えているが、どうして全体の幸福を増進しなければいけないのだろうか。自分自身の幸福が他の何かにあるときに、どうしてそちらを選び取ってはいけないのだろうか。

 功利主義哲学が道徳感覚の性質について採用している見解が正しいとすれば、道徳的性格を作り上げてきた力が原理からの帰結を把握したのと同じように原理[自体]を把握するまで、つまり、教育の進歩によって、普通によく育てられた若者にとって悪事を恐れる気持ちがそうであるように、同胞との一体感が完全に本性の一部となるくらいまで私たちの性格に深く根を下ろし、そのように意識されるまで(キリストがそうすることを意図していたことは否定できない)、この難問はつねにおこってくるだろう。

しかし、そうするまでの間、この難問は功利性の理論にのみ特有のものではなく、道徳を分析しそれを原理に還元しようとするあらゆる試みに内在するものである。

原理がそれが応用されたものと同じくらいの神聖さをもって人の心に抱かれていないかぎり、この難問はつねに原理の神聖さをいくらかは損なうように思われる。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第3章 功利性の原理の究極的強制力について,集録本:『功利主義論集』,pp.291-292,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:道徳の基準の強制力の源泉)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年5月3日金曜日

たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。その体系のルールの中核は、難解な事案における司法的決定が合理的であるかどうかの基準を提供できる程度に、十分確定している。(ハーバート・ハート(1907-1992))

半影的問題における何らかの「べき」観点の必要性

【たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。その体系のルールの中核は、難解な事案における司法的決定が合理的であるかどうかの基準を提供できる程度に、十分確定している。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1.2)追記。

(1)何らかの「べき」観点の必要性
 半影的問題における司法的決定が合理的であるためには、何らかの観点による「在るべきもの」が、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられるかもしれない。
 (1.1)在る法と、様々な観点からの「在るべき」ものとの間に、区別がなければならない。
 (1.2)「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映している。
  (a)この基準は、司法的決定がそれを逸脱すれば、もはや合理的とは言えなくなるような限界があることを示している。
  (b)大部分の裁判官が任務を果たす際の基準として、どのようなルールを受け入れているのかは、事実問題である。
  (c)すなわち裁判官は、たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。そして、その体系のルールの中核は、合理的な判決の基準を提供できる程度に、十分確定しているのである。
 (1.3)基準は、どのようなものだろうか。
  (a)このケースでの「べき」は、道徳とは関係のないものであろう。
  (b)目標や、社会的な政策や目的が含まれるかもしれないが、これも恐らく違うだろう。
  (c)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。
 「この権威的な決定という例から学ぶべき第二の教訓は、一層基本的な事柄にかかわっている。得点のルールには他のルールと同様に、スコアラーが選択を行なわなければならない開かれた構造の領域があるにもかかわらず、確定された意味をもった核があるという理由で、普通のゲームと「スコアラーの裁量」のゲームとを区別することができる。スコアラーが離れることができないのはこの核であり、そしてそのかぎりで、競技者が得点に関する公式の陳述をなす場合にも、またスコアラーが公式の裁決をなす場合も、ともに得点の記録が正しいかどうかの基準となっている。スコアラーの裁決は、最終的ではあっても誤ることがないのではないという主張が、正しいと考えられるのはこのことによるのである。同じことが法についても当てはまる。
 スコアラーのなしたいくらかの裁決が明らかに間違っていても、ある点まではゲームの継続の妨げにはならない。それは明らかに正しい裁決と同じであるとみなされる。しかし間違った決定の容認が、ゲームの継続と両立できる範囲には限りがあって、このことは法においても非常に類似している。単発的なあるいは例外的な公式な間違いが容認されるという事実は、クリケットや野球がまだ行なわれているということを意味している。他方、これらの間違いがしばしばなされるか、あるいはスコアラーが得点のルールを拒否するならば、競技者はもはやスコアラーの間違った裁決を受けいれないような段階、または受けいれてもそのゲームは変わったものになってしまうような段階がくるにちがいない。それはもはや、クリケットや野球ではなくて、「スコアラーの裁量」である。というのは、これらのゲームの決定的な特徴は、一般に、ルールの開かれた構造がスコアラーにどれだけ自由な幅を残すにせよ、ルールの明白な意味が要求する方法でゲームの結果が評価されるべきだという点にあるからである。考えられるある状況では、行なわれているゲームがまったく「スコアラーの裁量」であると言うべきであるが、しかしすべてのゲームにおいてスコアラーの裁決が最終的であるという事実は、すべてのゲームが「スコアラーの裁量」であるということを意味しない。
 裁判所の判決のユニークさは特定のケースで何が法であるかを最終的、権威的にのべるところにあるとするルール懐疑主義の形態をわれわれが評価するとき、上記の差異は心に留めておかれなくてはならない。法の開かれた構造は、スコアラーに対してよりもはるかに広く、重要な法創造の権能を裁判所にゆだねているのであって、スコアラーの裁定は法を創造する先例として使われないのである。すべての人々に対して明白だと思われるようなルールの範囲にある事柄と、論争の余地がある境界線上の事柄のいずれに関しても、裁判所が決定したことはすべて立法により変更されるまでは存続する。立法の解釈についてもまた、裁判所は同一の最終的、権威的発言権をもつだろう。しかし、裁判所の体系を定め、最高裁判所が適切だと考えるものはすべて法であると規定する憲法と、合衆国の現行の憲法またはこの点に関するいかなる現代の国家の憲法との間には、やはり差異が存在する。「憲法(または法)とは、どのようなものであれ、裁判官がそれだと言うものである」ということは、もしこの区別を否定するものと解釈されるなら、それは誤りである。いかなる時点でも、裁判官はたとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしており、その体系のルールの中心部は正しい判決の基準を提供できる程度に十分確定しているのである。裁判所は、その体系内では争うことのできない判決を下す権限を行使するさいに、これらを無視することができないものとみている。任務につくいかなる裁判官も、スコアラーの場合と同様に、議会における女王が制定するものは法であるというルールのようなルールが、伝統として確立され、任務を果たすさいの基準として受けいれられていることを見い出す。これは職務につく者の創造的活動を許容すると同時に、制限している。たしかにこのような基準は、ときの裁判官の大部分がこれを守るのでなければ、存続することができない。というのは、いかなる場合にも基準が存在するということは、それが正しい裁判の基準として受けいれられ、使用されることだけから成りたっているからである。しかしこのことによって、これらの基準を使用する裁判官がその創設者とされたり、ホードリーの言葉によれば、好むところにしたがって決定することのできる「立法者」とされたりするのではない。基準を維持するには、裁判官がそれを守ることが必要であるが、しかし裁判官はそれをつくるものではないのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第3節 司法的決定の最終性と無謬性,pp.157-159,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
(索引:半影的問題,べき観点,難解な事案)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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17.複数の道徳規則が対立し合うような特異な状況で、議論をさらに深めるために必要なのが、より上位の第一原理である。それでもなお、人間事象の複雑さは、行為者の道徳的責任における意思決定の裁量を残す。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

究極的目的、第一原理の役割

【複数の道徳規則が対立し合うような特異な状況で、議論をさらに深めるために必要なのが、より上位の第一原理である。それでもなお、人間事象の複雑さは、行為者の道徳的責任における意思決定の裁量を残す。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(b.4)(b.5)追加。

(1)利害関心がもたらす偏見や、情念が存在する。
(2)「義務」とは何か、何が「正しく」何が「不正」なのかに関する、私たちの考えが存在する。
(3)(1)偏見や情念と、(2)義務は一致しているとは限らない。
(4)義務や正・不正の起源と性質
  義務の起源や性質に関する、以下の二つの考え方があるが、(a)は誤っており(b)が真実である。
 (a)義務や正・不正の感覚・感情論
  私たちには、「道徳感情」と言いうるような感覚が存在し、この感覚によって何が正しく、何が不正なのかを判定することができる。
  (a.1)その感覚を私心なく抱いている人にとっては、それが感覚である限りにおいて真実であり、(1)の偏見や情念と区別できるものは何もない。
  (a.2)その感覚が自分の都合に合っている人は、その感覚を「普遍的な本性の法則」であると主張することができる。

 (b)義務や正・不正の理性論
  道徳、すなわち何が正しく、何が不正なのかの問題は、理性による判断である。
   義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   理性による判断である義務や正・不正は、何らかの目的の連鎖と、行為が生み出す帰結によって評価される。究極的目的より導出されるはずの諸々の二次的目的・中間原理が、実践的には、より重要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

  (b.1)道徳は単なる感情の問題ではなく、理性と計算の問題である。
  (b.2)道徳問題は、議論や討議に対して開かれている。すなわち、他のあらゆる理論と同じように、証拠なしに受け入れられたり、不注意に選別されたりするようなものではない。
  (b.3)道徳は、何らかの目的の連鎖として体系化される。
   (i)行為の道徳性は、その行為が生み出す帰結によって決まる。
   (ii)究極的目的、人間の幸福とは何かという問題は、体系的統一性、一貫性、純粋に科学的見地から重要なものである。しかし、これは複雑で難解な問題であり、様々な意見が存在している。
   (iii)究極的目的から導出され、逆にそれを基礎づけることになる二次的目的、あるいは中間原理、媒介原理が、道徳の問題において重要な進歩を期待できるような、実践的な諸目的である。
   (iv)このような二次的目的は、究極的目的については意見を異にしている人々の間でも、合意することがあり得る。なぜなら、人類は自分たちの「本性」について一つの見解を持つことが困難でも、事実として、現にある一つの本性を持っているだろうからである。

 究極的目的、人間の幸福
  ↓↑
 二次的目的、中間原理、媒介原理
  ↓↑
 行為が生み出す帰結:行為の価値


選択される。
  (b.4)究極的目的(第一原理)の役割
   (i)個々の二次的目的については、人々が合意することができても、特異な状況においては異なる複数の二次的目的どうしが、互いに対立する事例が生じる。これが、真の困難であり複雑な点である。
   (ii)二次的目的が対立し合うような状況で、もし、より上位の第一原理が存在しなければ、複数の道徳規則がすべて独自の権威を主張し合うことになり、これ以上は議論が進まないことになる。このような場合に、第一原理に訴える必要がある。
   (iii)ベンサムは、自明のものとして受け入れることができ、他のあらゆる理論を論理的帰結としてそこに帰結させることができるような第一原理として、「功利性の原理」、あるいは彼の後の呼び方では「最大幸福原理」を置いた。

  (b.5)人間事象の複雑性と、意思決定の困難さ。
   (i)行為の規則を、例外を必要としないような形で作ることができない。
   (ii)ある行為を為すべきか、非難されるべきか、決定することが困難な場合もある。
   (iii)特異な状況における意思決定には、ある程度の裁量の余地が残り、行為者の道徳的責任において選択される。

(5)以上から、どのように考えどのように感じる「べき」なのかという問題が生じ、人類の見解や感情を、教育や統治を通じて陶冶していくということが、意義を持つ。
 (5.1)道徳論は、不変なものではなく、人類の経験がより信頼に値するものとなり増大していくことで、知性とともに進歩していくものである。
 (5.2)倫理問題に取り組む唯一の方法は、既存の格率を是正したり、現に抱かれている感情の歪みを正したりすることを目的とした、教育や統治である。

 「お決まりの功利主義批判のうち残りの大部分は、人間本性のありふれた弱さや、誠実な人が人生において進むべき進路を決めるときに突き当たる一般的な困難を非難しているものである。

功利主義者は、自分の具体的事例を道徳規則の例外としがちであり、誘惑にかられたときには規則を守ることよりも破ることの方がより功利性があるとみなしがちであると言われる。

しかし、功利性は悪い行為をするときに口実を与えたり自らの良心をごまかす手段となったりする唯一の教義であろうか。

そのようなことは、道徳には相反する考慮が存在することを事実として認めているあらゆる理論のなかに多く見られるし、良識ある人々によって信奉されてきているあらゆる理論はこのようなものである。

行為の規則を例外を必要としないような形で作ることができないことや、ある行為をするべきものなのか非難されるべきものなのかをつねに問題なく決定することがほとんどできないことは、何らかの理論がもっている欠点ではなく、人間事象の複雑な性質からくる欠点である。

あらゆる倫理理論は、行為者の道徳的責任のもとで、特異な状況に対応するためにある程度の裁量の余地を与えることによって、その規則の厳格さを和らげている。

それゆえ、あらゆる理論において、このようにして作られた隙間から自己欺瞞やいい加減な決疑論が入り込む。あらゆる道徳体系において、義務が対立する明確な事例が生じる。これらの事例が、倫理理論にとっても個人の行為における良心の指針にとっても真の困難であり複雑な点である。

これらは実際には各個人の知性や徳次第で克服されうる。しかし、権利や義務が衝突するときに委ねることができる究極的な基準をもつことで、これらの困難な事例に取り組むのに適任でなくなると言うことはできない。

功利性が道徳的義務の究極的源泉であるとすれば、功利性はいくつかの義務が求めるものが両立しないときにどちらか一方に決めるために用いられるだろう。その基準を適用することは難しいことかもしれないが、何もないよりかはましである。

他の体系では、複数の道徳規則がすべて独自の権威を主張しており、それらに介入する資格をもつ共通の裁定者が存在していない。

したがって、ある規則が他の規則よりも優先されるという主張はこじつけとほとんど変わらないものに基づいているし、一般的にそうされているように功利性を考慮することの影響を暗黙的に受けることによって判断されないかぎり、個人的な欲求やえこひいきによる行為の余地がある。

第一原理に訴えるための要件を満たしているのは、このように二次原理の間で対立が生じている場合のみであることを忘れてはならない。何らかの二次原理を伴っていない道徳的義務の事例はない。[二次原理が]一つでもあれば、それはどれなのかについて[一次]原理自体を認識している人の心のなかで実際に疑問がもたれることはほとんどない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.289-290,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:究極的目的,二次的目的,第一原理,功利性の原理,最大幸福原理)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年5月2日木曜日

001 これ以上遡れない諸科学の基礎としての自我心理学


001 これ以上遡れない諸科学の基礎としての自我心理学

《概要》
 今さらデカルトから始める必要があるのかと疑問に思う人は、恐らく、(a)何かしら「最新」の哲学が、デカルトを超えて存在しており、そんな古い考えは必要ないと考えているか、(b)デカルトも様々な哲学の「学派」の一つに過ぎないと考えているか、(c)あるいはまた、様々な科学があれば、私たちは哲学なしにでもやっていけると考えているのだと思う。
 私の主張は、これらのいずれもが誤っているというものである。
 (a)デカルトは、確かに、これ以上は遡れない基礎としての、ひとつの真理をつかんでいる。最新の哲学といえども、この真理を度外視することはできない。
 (b)そもそも今までの哲学が、様々な学派があるかのように展開してきたのには、理由がある。それは、この宇宙の構造が、あたかも私一人のみが特別に全宇宙に向き合っているかのような、非対称的な構造をしていることに由来する。今、この序文を読んでいる「あなた」にとっても、あなた一人のみが特別に全宇宙に向き合っているかのように、この宇宙は存在している。このことは、最も驚嘆すべきとも言い得る、この宇宙の基本的な構造である。概念をよく区別し、それが属しているものにのみ帰属させること。ある困難な問題を、それに属していない概念によって説明しようとするとき、われわれは必ず間違う。(ルネ・デカルト(1596-1650))ここから、あらゆる誤った学説と、真理の一面のみを捉え他の側面を無視した様々な「学派」が生まれた。しかし、私たちが求めているのは、ただ一つの真理である。
 (c)哲学は、私たちが到達し得るような知識の全体的な見通しと、その限界への洞察を与えてくれる。また、個別科学の基礎的な概念の分析と基礎づけ、有効な方法論の確立のための洞察を与えてくれる。方法が確立されているように見える自然科学の分野においてさえ、科学の基礎を問うような限界的で難しい問題の考察には、デカルトまで遡るような確固とした足場が必要となるのである。

《改訂履歴》
2019/05/02 第1版

《目次》
1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
2.私は存在する
3.私でないものが、存在する
4.精神と身体
5.私(精神)のなかに見出されるもの
 5.1 意志のすべてが精神の能動である。
  5.1.1 精神そのもののうちに終結する精神の能動
  5.1.2 身体において終結する精神の能動(運動、行動)
 5.2 あらゆる種類の知覚ないし認識が、一般に精神の受動である
  5.2.1 身体を原因とする知覚
  5.2.2 精神を原因とする知覚
  5.2.3 身体を原因とする知覚や、精神を原因とする知覚を原因とする、精神だけに関係づけられる知覚(情念)

1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
1.1 もし何か真なるものを認識することが私の力に及ばないにしても、断乎として偽なるものに同意しないように用心することは、私の力のうちにある。(ルネ・デカルト(1596-1650))

(出典:wikipedia

1.2 私があるものであると、私が考えるであろう間は、確かに私は何ものかとして存在する。(ルネ・デカルト(1596-1650))

1.3 哲学者たちは、最も単純で自明的なことを、論理学的な定義によって、説明しようと試みた点で誤りを犯している。(ルネ・デカルト(1596-1650))

1.4 概念をよく区別し、それが属しているものにのみ帰属させること。ある困難な問題を、それに属していない概念によって説明しようとするとき、われわれは必ず間違う。(ルネ・デカルト(1596-1650))

1.5 私は、私の推論の基礎として、何ものもそれ以上に識られているものはありえない程に、私に識られているところの私自身の存在を、使用することを選んだ。(ルネ・デカルト(1596-1650))

1.5.1 真理探究の方法を見出すためには、この方法を探究するための他の方法の探究が必要だというように、限りなく遡る探究はあり得ない。こうした方法では、およそどんな認識にも到達しないであろう。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))

(出典:wikipedia


2.私は存在する
2.1 疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なおまた想像し、感覚するものが、確かに存在する。(ルネ・デカルト(1596-1650))

2.2 【無意識について】
精神のうちには、精神が意識してはいない多くのものがありうるのではないか。(アントワーヌ・アルノー(1612-1694))

2.3 およそ意識のうちに現われるすべてのものは、潜勢的に存在している精神の能力が、作用として発現することで、意識されるものである。したがって、決して意識することができないなら、それは潜勢的にも存在しない。(ルネ・デカルト(1596-1650))

 一見して異なるレベルの概念で説明しているようにも思われるかもしれないが、アルノーの指摘に対して、あえて理解しやすいように解答したものである。上記命題の正確な意味は、精神と身体、受動と能動の概念の理解において、明確となる。また、この命題は「無意識」を使用する哲学的(もしくは科学的)記述に対するひとつの注意である。その議論が、真に科学的なものなのか、曖昧で概略的なおしゃべりなのかを判断するときの、ひとつの拠り所となる命題である。

2.4 この蜜蝋は、いったい何か。これは確かに、ただ単に精神の洞観と言えるようなものとして、明晰かつ判明に現われている。対象として特定し、言葉で捉えられたものには、すでに不完全で不分明なものが混入している。(ルネ・デカルト(1596-1650))

2.5 いま眼の前にあるこの蜜蝋だけでなく、およそすべてのことに対して、それがいっそう判明に認識されれば、それは同時に、「私自身」が何であるかの認識でもある。(ルネ・デカルト(1596-1650))

3.私でないものが、存在する
3.1 私のみが独り世界にあるのではなく、ある他のものがまた存在することの証明。(ルネ・デカルト(1596-1650))

3.2 補足説明
〈このすべて〉Aが、〈わたし〉Aである。
〈わたし〉Aは、存在する。
〈わたし〉Aは、〈精神〉Aである。
〈この蜜蝋〉は〈わたし〉のなかにある〈観念〉であり、〈わたし〉のなかに存在する。〈この蜜蝋〉が〈観念〉としてではなく、〈本当に存在するもの〉であるためには、〈この蜜蝋〉を存在せしめている〈原因〉があり、この〈原因〉から〈この蜜蝋〉が〈本当に存在するもの〉であることが、理解できるようになっているはずだ。このとき、この〈原因〉も〈この蜜蝋〉も、〈わたし〉のなかに〈観念〉の連鎖として存在すれば十分だと考えることはできないのであって、何か〈本当に存在するもの〉としての〈原因〉から理解できるようになっているはずだ。このような理解に達してはじめて、〈わたし〉のなかにある〈この蜜蝋〉は、〈本当に存在するもの〉ではあるが、〈存在するとおりのもの〉ではなく、ある映像のようなものであることが知られるのである。
 さきに私が、すべてを疑い、それでも〈わたし〉が確かに存在することを知ったのと同じように、〈本当に存在するもの〉が〈現象するとおりのもの〉として〈わたし〉のうちにあるのならば、私自身がその〈観念〉の〈原因〉である。しかし、〈この蜜蝋〉は、〈現象するとおりのもの〉としては〈わたし〉のうちに存在せず、何か私とは別の〈本当に存在するもの〉を〈原因〉としてしか、〈本当に存在するもの〉であることが理解できないとすれば、私自身が〈この蜜蝋〉の〈原因〉ではなく、この〈原因〉であるところの、私とは別の〈本当に存在するもの〉が、確かに存在するということが帰結するのである。

[説明図]

〈わたし〉としての〈このすべて〉は、〈現象するとおりのもの〉で〈本当に存在するもの〉。
この場合は、私自身が〈原因〉である。

〈原因〉……〈観念〉なら、私自身が〈原因〉である。
 ↓
〈観念〉
 ↓
〈現象するとおりのもの〉でない〈観念〉……〈本当に存在するもの〉かどうか不明
 例:〈この蜜蝋〉

〈原因〉……私には〈現象するとおりのもの〉として知られない。
 ↓    私以外のものが〈現象するとおりのもの〉として知る。
〈観念〉  〈本当に存在するもの〉の、私以外の〈原因〉がある。
 ↓
〈現象するとおりのもの〉でない〈観念〉……〈本当に存在するもの〉
 例:〈この蜜蝋〉


3.3 私の精神が、いかに完全な物体の観念を知性の虚構によりつくり上げたとしても、私の精神と物体が存在する原因として、存在そのものがその本質に属するようなあるものの存在を、想定せざるを得ない。(ルネ・デカルト(1596-1650))


4.精神と身体
4.1 心身問題:この存在するすべてが精神である。そして、身体すなわち延長、形、運動という別のものも存在するならば、身体が精神として現れているという意味で、すべてはまた感覚であるとも言える。(ルネ・デカルト(1596-1650))

4.2 心身問題:我々は身体を感覚し、その他の何ものをも感覚しない。これが、精神と身体との合一の意味である。しかし、感覚を結果とし、その原因を身体と結論したのだが、その原因については実は何ごとも理解してはいないのである。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))

4.3 新たに生起することすべては、それが生じる主体に関しては「受動」とよばれ、それを生じさせる主体に関しては「能動」とよばれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

4.4 精神において「受動」であるものは、一般に身体において「能動」である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

4.5 意志のすべてが精神の能動、あらゆる種類の知覚ないし認識が、一般に精神の受動とよべる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

4.6 補足説明
 〈このすべて〉Xが、〈わたし〉Xである。
 〈わたし〉Xは、存在する。
 〈わたし〉Xは、〈精神〉Xである。

 〈このすべて〉Xのある部分は、〈精神の受動〉Pと呼ばれる。
 〈精神の受動〉Pは、すべて身体における能動である。
 〈精神の受動〉P以外の〈精神〉Xの部分は、精神自らの動き〈精神の能動〉Aである。
  〈精神の受動〉P ⊆ X
  〈精神の能動〉A ⊆ X
  〈精神の受動〉P ∪ 〈精神の能動〉A = X
  〈精神の受動〉P ∩ 〈精神の能動〉A = φ

 いまここでの身体という概念は、わたしが〈精神の受動〉Pとして知ることの原因として考えられるもので、それの働きが原因となって、〈わたし〉Xにおいて感覚を結果させているものである。そして、〈精神の受動〉Pのすべてが、何らかの身体の能動を原因としているという仮説は、精神と身体が合一しているという仮説の別の表現であり、また精神自らの動き〈精神の能動〉A以外の、およそ精神が受け取るものは、すべて身体を通じてであり、その他の方法を通ずることはないという仮説の、別の表現でもある。
 ところで、意志のすべてが〈精神の能動〉Aであるが、意志についての知覚、意志に依存するいっさいの想像や他の思考についての知覚も存在し、これも知覚であるということから、〈精神の受動〉Pの部分である。そこで、これを〈精神の受動(意志)〉と〈精神の受動(意志以外)〉に分けて表現すれば、

 〈このすべて〉Xのある部分は、〈精神の受動(意志以外)〉Pと呼ばれる。
 〈精神の受動(意志以外)〉Pは、すべて身体における能動である。
 〈精神の受動(意志以外)〉P以外の〈精神〉Xの部分は、精神自らの動き〈精神の能動〉Aである。
  ところで実は、〈精神の能動〉A = 〈精神の受動(意志)〉Aであるから、
  〈精神の受動(意志以外)〉P ⊆ X
  〈精神の受動(意志)〉A ⊆ X
  〈精神の受動(意志以外)〉P ∪ 〈精神の受動(意志)〉A = X
  〈精神の受動(意志以外)〉P ∩ 〈精神の受動(意志)〉A = φ

 〈このすべて〉Xが、〈精神の受動〉Xである。
 〈このすべて〉Xは、すべて身体における能動である。
 このように、〈精神〉と身体のもともとの概念は、すべてが〈精神の受動〉であることを含んでいるが、このすべての受動のなかに、確かに〈意志〉の現象が事実として存在している。この事実に基づき、この〈意志〉という現象を概念で表現したものが、〈精神の受動(意志)〉、〈精神の能動〉Aなのである。


5.私(精神)のなかに見出されるもの
5.1 意志のすべてが精神の能動である。
5.1.1 精神そのもののうちに終結する精神の能動

 ・ 意志のひとつとして、精神そのもののうちに終結する精神の能動がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 認識力は、想像力と共同して外部感覚や共通感覚に働きかけるときは認知と呼ばれ、記憶をもとにした想像力だけに働きかけるときは想起と呼ばれ、新たな形をつくるために想像力に働きかけるときは想像と呼ばれ、独りで働くときは理解(純粋悟性)と呼ばれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

5.1.1.1 「見る」とか「触れる」等の認知とは
 認識力が、想像力と共同して外部感覚や共通感覚に働きかけること。
5.1.1.2 記憶の「想起」とは
 認識力が、記憶をもとにした想像力だけに働きかけること。
5.1.1.3 「想像する」とか「表象する」こととは
 認識力が、新たな形をつくるために想像力に働きかけること。
 (例)存在しない何かを想像する。
 ・ 存在しない何かを想像しようと努める場合、また、可知的なだけで想像不可能なものを考えようと努める場合、こうしたものについての精神の知覚も主として、それらを精神に知覚させる意志による。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 (例)詩人は、精神的なものを形象化するために、想像力を用いる。
 ・ 悟性は精神的なものを形象化するために、風や光などのようなある種の感覚的物体も、用いることができる。これは詩人たちの手法だ。(ルネ・デカルト(1596-1650))

5.1.1.4 「理解する」こと(純粋悟性)とは
 認識力が、独りで働くこと。
 (例)可知的なだけで想像不可能なものを考える。
 ・ 悟性はいかにして、想像力、感覚、記憶から助けられ、あるいは妨げられるか。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 悟性は、感覚でとらえ得ないものを理解するときは、かえって想像力に妨げられる。逆に、感覚的なものの場合は、観念を表現する物自体(モデル)を作り、本質的な属性を抽象し、物のある省略された形(記号)を利用する。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 問題となっている対象を表わす抽象化された記号を、紙の上の諸項として表現する。次に紙の上で、記号をもって解決を見出すことで、当初の問題の解を得る。(ルネ・デカルト(1596-1650))

5.1.2 身体において終結する精神の能動(運動、行動)
 ・ 意志のひとつとして、身体において終結する能動がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 想像が、多数のさまざまな運動の原因となる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 (例)捨象、抽象
 (例)観念を表現する物自体(モデル)
 (例)物のある省略された形(記号)
 (例)問題となっている対象を表わす抽象化された記号を、紙の上の諸項として表現する。

5.2 あらゆる種類の知覚ないし認識が、一般に精神の受動である。
5.2.1 身体を原因とする知覚
5.2.1.1 外部感覚
 ・ 対象に注意を向けるのは能動であるにしても、外部感覚は精神の受動である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・〈特殊感覚〉視覚、聴覚、嗅覚、味覚、平衡覚

5.2.1.2 共通感覚
 ・ ある特定の外部感覚は、その原因となる身体の能動が、より広い範囲の身体に影響を与え、これら身体の能動を精神において受動する共通感覚を生じる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
5.2.1.3 想像力、記憶
 ・ 外部感覚だけでなく、それがより広い範囲の身体に影響を与えて生じた共通感覚もまた、記憶され、想像力の対象となる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
5.2.1.4 自分の肢体のなかにあるように感じる痛み、熱さ、その他の変様
 ・ 精神の受動のひとつ、身体ないしその一部に関係づける知覚として、飢え、渇き、その他の自然的欲求、自分の肢体のなかにあるように感じる痛み、熱さ、その他の変様がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・〈表在性感覚〉皮膚の触覚、圧覚、痛覚、温覚
 ・〈深部感覚〉筋、腱、骨膜、関節の感覚

5.2.1.5 身体ないしその一部に関係づける知覚としての、飢え、渇き、その他の自然的欲求
 ・〈内臓感覚〉空腹感、満腹感、口渇感、悪心、尿意、便意、内臓痛など

5.2.1.6 精神の能動によらない想像、夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想(広い意味では、情念の一種)
 ・ 精神の受動のひとつ、身体によって起こる知覚として、意志によらない想像がある。夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想も、これである。これらは、飢え、渇き、痛みとは異なり、精神に関連づけられており、これらが情念である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
5.2.2 精神を原因とする知覚
 ・ 意志についての知覚、意志に依存するいっさいの想像や他の思考についての知覚は、知覚ということからは精神の受動であるが、精神から見れば能動である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
5.2.2.1 意志についての知覚
5.2.2.2 意志に依存するいっさいの想像や他の思考についての知覚
5.2.3 身体を原因とする知覚や、精神を原因とする知覚を原因とする、精神だけに関係づけられる知覚(情念)
 ・ 精神の受動のひとつ、精神だけに関係づけられる知覚として、喜び、怒り、その他同種の感覚がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 意志の作用によって直接、情念を制御することはできない。持とうと意志する情念に習慣的に結びついているものを表象したり、斥けようと意志する情念と相容れないものを表象することで、間接的に制御することができる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 情念はほぼすべて、心臓や血液全体など身体のなんらかの興奮の生起をともなっており、その興奮がやむまで情念はわたしたちの思考に現前しつづける。これは感覚対象が感覚を現前させつづけるのと同じである。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ ある身体行動とある思考が結びつくと、両者のいずれかが現われれば必ずもう一方も現われるようになる。この結びつきは、各人によって異なり、各人ごとに異なる情念の原因である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 情念は、精神のなかに思考を強化し持続させる作用が効用をもたらし、また時に、それは害を及ぼす。(ルネ・デカルト(1596-1650))




(出典:wikipedia
ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2019年5月1日水曜日

16.私たちは、行為者の資質や性格によって賞賛や侮蔑、好き嫌いの感情を抱く。しかし、行為の正・不正についての道徳的判断は、資質・性格の評価とは別問題である。とはいえ、資質・性格は行為に影響力を持つ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

行為と行為者の性格、資質との関係

【私たちは、行為者の資質や性格によって賞賛や侮蔑、好き嫌いの感情を抱く。しかし、行為の正・不正についての道徳的判断は、資質・性格の評価とは別問題である。とはいえ、資質・性格は行為に影響力を持つ。(く)】

(3.1.5)追記。

(3)ミルの考え
 (3.1)人間の行為は、3つの側面から評価される。行為の道徳的側面は最も重要であるが、他の側面と混同したり、他の側面を無視することは誤っている。
   行為は、3つの側面から評価される。予見可能な帰結の望ましさに関する理性による判断である道徳的側面、想像される動機や性格の望ましさによる審美的側面、動機や性格が引き起こす共感による共感的側面である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (3.1.1)行為の道徳的側面
  《観点》ある行為の予見可能な帰結が、私たちにとって望ましいかどうかの「理性」による判断。
  《引き起こされる感情》是認したり、否認したりする。
  《行為に付与される属性》行為の正・不正。
  (3.1.2)行為の審美的側面
  《観点》ある行為が、望ましい動機や性格の徴候を示しているという「想像力」による判断。
  《引き起こされる感情》賞賛したり、侮蔑したする。
  《行為に付与される属性》行為の美しさ・醜さ。
   (a)有徳、勇気、慈悲深さ、気立ての良さなど。
   (b)ストア派は、徳のみを望ましい資質であり、価値があると考えた。
  (3.1.3)行為の共感的側面
  《観点》ある行為が、共感できる動機や性格の徴候を示しているという「同胞感情」による判断。
  《引き起こされる感情》愛したり、憐れんだり、嫌悪したりする。
  《行為に付与される属性》行為の愛らしさ・行為への憎しみ。

  (3.1.4)引き起こされる感情と、行為者の性格、資質との関係
    ベンサムによる異論は次のとおりである。
   (a)ある行為によって、賞賛や侮蔑、好き嫌いの感情が引き起こされたとしても、その行為がその人の望ましい動機や性格、あるいは悪い動機や性格の徴候であると推測することはできない。
   (b)従って、利益や危害をもたらさない行為によって、その人を賞賛したり好んだり、あるいは軽蔑したり嫌悪したりすることは、不正義であり偏見である。
   (c)「良い趣味」や「悪い趣味」という言いかたで趣味について賞賛したり非難したりすることは、一個人による無礼な独断論である。人の趣味は、その人が賢いのか愚かなのか、教養があるのか無知なのか、上品なのか粗野なのか、洗練されているのか粗雑なのか、繊細なのか無神経なのか、寛大なのか卑しいのか、慈愛的なのか利己的なのか、誠実なのか下劣なのかを示すものではない。

  (3.1.5)行為と行為者の性格、資質との関係
   (a)行為の正・不正についての判断は、行為者の資質や性格についての評価とは別問題である。
   (b)正しい行為が、必ずしも有徳な性格を意味してはいない。
   (c)しかし、長い目で見れば、善い性格を最もよく証明するものは、善い行為である。
   (d)非難されるべき行為が、賞賛に値する資質からしばしばなされる。
   (e)しかし、悪い行為を生み出す傾向が強い道徳的性向は、悪い資質である。

 「このように考えることで、道徳の基準の目的や正・不正という言葉の意味そのものについてさらにひどい誤解をしていることに起因する、功利性の理論に対するもうひとつの別の非難にも対処することができる。

功利主義者は人間を冷酷で非情にするとか、他者に対する道徳感情をくじくとか、行為を生じさせた資質を道徳的に評価することなく行為の帰結だけを無味乾燥に評価させるということがしばしば主張される。

この主張が、行為の正・不正についての判断が行為者の資質についての見解によって左右されてはならないということを意味しているならば、これは功利主義に対するものではなく、なんらかの道徳の基準をもつこと自体に対する申し立てである。

というのは、既知の倫理に関する基準のうち、善人がしたか悪人がしたかによって行為の善悪を決めているようなものはたしかにないし、まして気立てのいい人や勇気のある人や慈悲深いい人、あるいはこれらと反対の人がしたかによって行為の善悪を決めているようなものはないからである。

これらを考慮することは、行為ではなく人物を評価するときに意味のあることである。

そして、功利主義理論は、人間には行為の正・不正の他にも私たちが関心をもつものがあるという事実と不整合なものではない。

たしかにストア派は論法の一環として言葉を逆説的に乱用し、そうすることによって徳以外のことから超然としていようと努めていたが、徳をもつものはすべてをもっており、そのような人が、そしてそのような人だけが富める人であり、美しい人であり、王であるということを好んで語っていた。

しかし、功利主義理論は有徳な人についてこのように描き出すことはしない。

功利主義者は徳以外にも望ましいものや資質があるということや、それらすべてに完全に価値があるということをはっきりと認識している。

正しい行為が必ずしも有徳な性格を意味してはいないということや、非難されるべき行為が賞賛に値する資質からしばしばなされるということも認識している。個別の事例においてこのことが明白なときには、功利主義者の行為に対する評価が変わることはなくても、行為者に対する評価は変わるだろう。

とはいうものの、功利主義者は長い目で見れば善い性格をもっともよく証明するものは善い行為であるという見解をもっており、悪い行為を生み出す傾向が強いどのような道徳的性向も善いものとみなすことは断固として拒否するということを私は認めている。

このことのために功利主義者は多くの人に評判がよくないけれど、このような不評は、正・不正の区別を真剣に考えているすべての人が分ちあわなければならないものであり、誠実な功利主義者がいま反駁すべく心を悩ます必要はない。

 多くの功利主義者は功利主義的基準によって判定される行為の道徳性のみに過度に関心を向け、人間を愛すべき尊敬すべき存在にするようなその他の性格上の美点をあまり重視していないということ以上のことをこの反対論が意味していないならば、このことは認める余地があるだろう。
  
道徳感情は涵養してきたけれども、共感能力や芸術を理解する力を涵養してこなかった功利主義者はこの誤りに陥っているし、同じ状態にあるその他あらゆる道徳論者も同じことをしている。

他の道徳論者のためになされる弁明は功利主義者にとっても同じように有効である。つまり、誤りが避けられないなら、そのような方がましだという弁明である。

実際のところ、他の体系の擁護者の場合と同じように、功利主義者の間でも、基準を適用するときに厳格な人から緩やかな人まで考えられうるかぎり大きな幅がある。ピューリタンのように厳格な人もいれば、罪人や感傷的な人に望まれるくらい緩やかな人もいる。

しかし、全体的には、道徳律に背くような行為を抑止するという人類の利益に強い関心を向けている理論は他のどの理論にもまして、そのような侵害行為に世論による制裁を加えるだろう。

道徳律に背くとはどういうことなのかという問題は、道徳の基準について異なった見解をもっている人が折に触れて意見を異にする問題である。

しかし、道徳問題についての意見の相違は功利主義によって初めてこの世界にもちこまれたものではないし、いずれにしろこの理論は、必ずしも容易ではないとしても、そのような相違を解消するための具体的でわかりやすい方法を提示している。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.282-284,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:資質と性格,賞賛と侮蔑,好き嫌い,感情,道徳的判断)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年4月30日火曜日

最高裁判所は、何が法であるかの最終決定権を持っているとはいえ、その決定が在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化からの逸脱と思われる場合がある。決定の最終性は、無謬性とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

司法的決定の最終性と無謬性

【最高裁判所は、何が法であるかの最終決定権を持っているとはいえ、その決定が在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化からの逸脱と思われる場合がある。決定の最終性は、無謬性とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(3.2)追記。

(3)半影的問題の決定も、在る法の自然な精密化、明確化であると思える場合がある。
 ルールの適用のはっきりしているケースと、半影的決定との間には本質的な連続性が存在する。すなわち、裁判官は、見付けられるべくそこに存在しており、正しく理解しさえすればその中に「隠れている」のがわかるルールを「引き出している」。
  難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))
(出典:alchetron
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)
検索(ロン・フラー)

 (3.1)難解な事案における裁判官の決定が、新たな法を創造していると見なすことが、妥当とは思えない場合がある。
  (a)ルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すなわち、ある意味ではルール自体に帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。それは、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化するようなものである。
  (b)このような場合について、在るルールと在るべきルールを区別し、裁判官の決定を、在るルールを超えた意識的な選択や「命令」「法創造」「司法立法」と見なすことは、少なくとも「べき」の持つある意味においては、誤解を招くであろう。
 (3.2)最高裁判所は、何が法であるかを言明する最終決定権を持っているとはいえ、その決定が在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化から逸脱していると思われる場合がある。すなわち、決定の最終性は無謬性とは異なる。
 (3.3)日常言語においても、次のような事実がある。
  (a)私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言うのかということについても、人間に共通の目的を仮定的に考慮して、解釈している。
  (b)例としてしばしば、聞き手の解釈を聞いて、話し手が「そうだ、それが私の言いたかったことだ。」というようなケースがある。
  (c)議論や相談によって、より明確に認識された内容も、そこで勝手に決めたのだと表現するならば、この体験を歪めることになろう。これを誠実に記述しようとするならば、何を「本当に」望んでいるのか、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであろう。

 「最高裁判所は、何が法であるかを言明する最終決定権をもっており、それが言明されたときは、裁判所が「間違っている」と言ったところで、その体系のなかではいかなる効果ももたない。つまりそれにより誰の権利も義務も変更されることはないのである。その判決はもちろん立法により法的効果を奪われることがあるが、この方法をとらなければならないというその事実からして、法に関するかぎり、裁判所の判決が間違っていると言っても空しいものであることが明らかになる。これらの事実を考えると、最高裁判所の判決については、その最終性と無謬性とを区別することはいかにもペダンティックであるように思われる。このことは、裁判所が判決するさいには常にルールにより拘束されていないということを別の形で主張することになる。すなわち、「法(または憲法)とは、裁判所がそれだと言うものである」。
 この形の理論のもっとも興味深く、そして教訓的な特徴は、「法(または憲法)とは、裁判所がそれだと言うものである」という陳述のような曖昧さを利用していることと、法に関して公機関以外の陳述と、裁判所が行なう陳述との関係について、この理論が首尾一貫するためにはしなければならない説明の仕方とである。この曖昧さを理解するために、ゲームの場合との類似性に目を向けてみよう。多くの競技は、公式のスコアラーなしに行なわれている。競技者の関心が互いに競い合っているにもかかわらず、彼らはかなりうまく個々のケースに得点のルールを適用している。彼らの判断は普通一致するのであって、解決されないような対立はほとんどない。公式スコアラーの制度ができる以前は、競技者による得点の陳述は、彼が正直であれば、そのゲームで容認されている個々の得点のルールを参照することによりゲームの進行を評価しようとする努力をあらわしている。このような特定の陳述は、得点のルールを適用する内的陳述であって、これは一般に競技者がルールを守るだろうこと、もし違反すれば異議を唱えるだろうことを前提としているけれども、これらの諸事実に関する陳述ないし予測ではない。
 慣習の体制から成熟した法の体系への変化と同様に、最終的な裁判権をもつスコアラーの制度を定める第2次的ルールをそのゲームに付加することは、その体系に新しい種類の内的陳述をもちこむのである。というのは、得点に関する競技者の陳述とは異なって、スコアラーの決定は、これを争うことができないような地位を第2次的ルールによって与えられるからである。《この》意味でたしかにゲームの目的にとって、「得点とはスコアラーがそれだと言うものである。」しかしここで注意しなければならないことは、得点の《ルール》が以前のままであることであって、これを自己の最善をつくして適用することがスコアラーの義務なのである。「得点とはスコアラーがそれだと言うものである」ということが、スコアラーが自己の裁量で適用しようとするもの以外には、得点に関するルールは何もないということを意味するなら、それは誤りであろう。このようなルールをもったゲームが実際にあるかもしれないし、もしスコアラーの裁量がいくらかの規則性をもって行使されるなら、そのゲームをしてもある程度は楽しいかもしれない。だが、それは別のゲームになってしまう。われわれは、このようなゲームを「スコアラーの裁量」のゲームと呼ぶことができるだろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第3節 司法的決定の最終性と無謬性,pp.154-155,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
(索引:司法的決定の最終性と無謬性,最高裁判所)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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15.私たちは、行為が及ぼす影響範囲を評価し、明らかに他者の権利を侵害したり、仮に皆が行えば社会に害が発生するような行為の場合には、道徳基準に従うことによって、あとは動機に任せて行為し得る。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

行為の動機と道徳基準

【私たちは、行為が及ぼす影響範囲を評価し、明らかに他者の権利を侵害したり、仮に皆が行えば社会に害が発生するような行為の場合には、道徳基準に従うことによって、あとは動機に任せて行為し得る。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3)追加。

(2)道徳基準:人間の行為の規則や準則
 (2.1)究極的目的が、最大限可能な限り、人類全てにもたらされること。
 (2.2)人類だけでなく、事物の本性が許す限り、感覚を持った生物全てが考慮されること。
 (2.3)自分自身の善と、他の人の善は区別されないこと。
   人間にとって望ましい目的が、全ての人に実現されるためには、(a)個人の利害と全体の利害が一致するような法や社会制度、(b)個人と社会の真の関係を理解をさせ得る教育と世論の力が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (a)基本的な考え方。
   (i)あたかも、自分自身が利害関係にない善意ある観察者のように判断すること。
   (ii)人にしてもらいたいと思うことを人にしなさい。
   (iii)自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。
  (b)次のような法や社会制度を設計すること。
   (i)あらゆる個人の幸福や利害と、全体の幸福や利害が最大限一致している。
  (c)人間の性格に対して大きな力を持っている教育や世論の力を、次のような目的に用いる。
   (i)自らの幸福と全体の幸福の間には、密接な結びつきがあることを、正しく理解すること。
   (ii)従って、全体の幸福のための行為を消極的にでも積極的にでも実行することが、自らの幸福のために必要であることを、正しく理解すること。
   (iii)全体の幸福に反するような行為は、自らの幸福のためも好ましくないことを、正しく理解すること。
 (2.4)苦痛と快楽の質を判断する基準や、質と量を比較するための規則を含むこと。

(3)行為の動機と道徳基準
 (3.1)行為の動機
  (a)私たちは、ほとんどの場合、道徳基準に従って意識的に行為しているわけではない。
  (b)動機は、行為の道徳性とは無関係である。例えば、溺れている同胞を助ける人は、その動機が義務からであろうと、苦労に対する報酬への期待であろうと、状況に応ずる衝動からであろうと、道徳的には正しいことをしているのである。
  (c)私たちは、行為者の動機によって、行為者を賞賛したり侮蔑したりする。
   参照:行為は、3つの側面から評価される。予見可能な帰結の望ましさに関する理性による判断である道徳的側面、想像される動機や性格の望ましさによる審美的側面、動機や性格が引き起こす共感による共感的側面である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.2)道徳基準の実践的な適用方法
  道徳基準は、一貫性のある論理体系として追究される人間行為の規則であり、行為の動機など人間の現実的な心理過程は、また別事象である。道徳基準の実践的な適用方法は、以下の通りである。
  (a)行為が及ぼす影響範囲を考えよ。
   (a.1)普通は、関係する特定の人々の利害を考えればよい。
   (a.2)しかし、ある行為が社会一般に影響するような能力を持っているような人は、より広い範囲の人々の幸せを考慮する必要がある。
  (b)明らかに有害であることは自制すること。
   (b.1)関係者以外の人々の合法的で正当な期待を侵害することにならないかを、確認すること。
   (b.2)帰結が有益と思われても、もしその行為が一般に行われれば、広く害を及ぼすような種類のものであるとき、その行為は差し控えること。

 「反功利主義者はいつも誹謗するような仕方で功利主義を描き出していることで非難されるわけではない。

それどころか、功利主義が公平性をもっているという正しい考えを受け入れている人のなかには、功利主義の基準は人類にとって高すぎるとして批判する人もいる。

彼らは、つねに社会全体の利益を促進することを動機として行動するように人々に求めることは厳しすぎると述べている。

しかし、これは道徳の基準の正しい意味を誤解し、行為の規則と行為の動機を混同しているのである。

倫理学の役割は私たちの義務は何であるかやどのような試金石によってそれらを知ることができるかを示すことであるが、あらゆる行為の唯一の動機は義務の感情でなければならないとするような倫理学の体系はない。

それどころか、私たちの百のうち九十九の行為が他の動機からなされており、義務の規則がそれをとがめないならば、それは正しくなされていることになる。

功利主義道徳論者は、動機は行為者の価値には大いに関係するけれども行為の道徳性には無関係であるということを他のほとんどすべての道徳論者よりも強く主張していたのだから、このような誤解が反功利主義の根拠になっているというのは功利主義にとっていっそう不当なことである。

溺れている同胞を助ける人は、その動機が義務であろうと苦労に対する報酬への期待であろうと、道徳的には正しいことをしているのである。信頼してくれている友人を裏切る人は、その目的がより大きい恩義を受けている他の人のためであったとしても、罪を犯しているのである。

 しかし、義務という動機からなされた行為にかぎって、そして原理に直接的に従っているかぎりで言うならば、世界や社会全体にわたるくらいに広範囲に気をかけることを人々に求めていると考えるのは功利主義的思考法に対する誤解である。

善い行為の大部分は世界の利益になることを意図したものではなく、世界の善を構成している個々人の利益になることを意図されたものである。

このような場合には、大部分の有徳な人は、関係者の利益を図るときに他の誰かの権利――つまり、合法的で正当な期待――を自らが侵害していないことを確かめる必要があるときを例外とすれば、関係する特定の人々以外のことを考える必要はない。

功利主義的倫理にしたがえば、幸福を増大させることが徳の目的である。しかし、(千人のうち一人くらいを別にすれば)誰かが広範にわたって幸福を増大させる能力をもっている、言い換えれば、公共の役に立つ人であるという場合は滅多にない。

このような場合にだけ公共の功利を考慮することが求められ、他のあらゆる場合には個人の功利、つまりごく少数の人の利益や幸福だけに関心を向けていればよい。

自らの行為が社会一般に影響するような人だけがこういう広い対象に習慣的に関心を向ける必要がある。

ある特定の場合には帰結が有益かもしれなくても道徳的配慮から人々が差し控えるようなことを実際に自制するという事例について言えば、その行為が一般に行われれば広く害を及ぼすような種類のものであるということや、このことがこの行為を控える義務の根拠となっているということを意識的に考えることがないというのでは、知性ある人に値しないだろう。

ここで公共の利益に対する配慮の程度はあらゆる道徳体系が求めているものと変わらない。

というのは、それらはいずれも社会にとって明らかに有害なものは何であっても控えるように求めているからである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.280-282,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:動機,道徳基準,行為の道徳性,行為が及ぼす影響範囲)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年4月29日月曜日

社会的ルールの存在は、外的視点、内的視点における事実問題であるが、記述と表明が可能なルールだけでなく、状況に応じた行為者の無意識、直感的な行為自体が示すルールもあり得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))

記述可能なルールと、行為が示すルール

【社会的ルールの存在は、外的視点、内的視点における事実問題であるが、記述と表明が可能なルールだけでなく、状況に応じた行為者の無意識、直感的な行為自体が示すルールもあり得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(2.1)追加。
(2.3)追加記載。
(2.4)追加。

(2)社会的ルール
 ある習慣が存在しても、社会的ルールが存在しているとは限らない。
 人が、あるルールを拘束力のあるものとして、また彼や他の人々によっても勝手に変更されえないものとしてこれを受けいれているとは、どのようなことか。
 (2.1)ルールの存在は事実の問題
  ルールが存在するかどうかは、ある状況における行為の仕方、心理的な思考過程に関する、ある事実が存在するかどうかの問題であり、証拠によって裏付けられるようなものである。
 (2.2)外的視点
  (a)観察可能な行動の規則性:ある集団の大部分の人々において、ある一定の状況においては、特定の行動が繰り返される。
  (b)ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が観察される。
  (c)ただし、少数の常習的違反者は、つねに存在する。
 (2.3)内的視点
   「外的視点」によって観察可能な行動の規則性、ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が記録、理論化されても、「内的視点」を解明しない限り「法」の現象は真に理解できない。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)行動様式に関する共通の基準が存在する。
  (b)行為の正当な理由:なぜ、その行為が正しいのかと理由が求められたとき、そのルールが参照される。また、行動が非難されたなら、そのルールを参照して正当化される。
  (c)批判的態度:基準からの逸脱は、一般的に「過ち」や「失敗」と考えられ、批判の十分な理由として受け容れられている。
  (d)反省的態度:批判や要求をされる者も、これを正当なものとみなしている。
  (e)一致への要求
   逸脱が生じそうな場合、基準への一致の要求が、正当なこととして受け容れられている。
  (f)ルールからの逸脱に対する社会的圧力が存在する。
   (e.1)圧力が存在しない、単なる習慣も存在するだろう。
   (e.2)分散している敵対的、批判的な社会的反作用に、任されている場合もあるだろう。
   (e.3)個人の、恥、自責の念、罪の意識という感情の働きに、任されている場合もあるだろう。
   (e.4)ルール違反に対して、中央に組織された刑罰の体系が組織されている場合もあるだろう。
  (g)社会的ルールの存在を示す規範的な表現が存在する。
   批判、要求、是認を表現するために、広範囲の「規範的な」言語が使用される。例えば、「すべきである」、「しなければならない」、「するのが当然だ」、「正しい」、「誤っている」。

 (2.4)記述・表明可能なルールと、行為自体が示すルール
  (a)ルールについて、行為者が意識的に考慮すること、またルールの容認を表明することとは、必ずしもルールの存在の要件ではない。
  (b)状況に応じた無意識的、直感的な行為が、あるルールの存在を示している場合もあり得るだろう。
  (c)別のルールに動かされている人が、見せかけやごまかしで、あるルールの容認を表明する場合もあり得るだろう。
  (d)事実として存在し、また同時に明確な基準として意識されているルールに、一致しようとする真の努力によって、行為が導かれている場合もあり得るだろう。
  (e)一般的でしかも仮定的な用語で記述され得るルールも存在するし、記述するのが難しいルールも存在し得るだろう。

 (2.5)感情
  (a)個人は、社会の批判と一致への圧力によって、束縛または強制の感覚、感情を経験する。
  (b)社会的ルールと感情との関係
   感情は、「拘束力ある」ルールの存在にとって、必要でも十分でもない。すなわち、ルールの存在の根拠が特定の感情そのものというわけではない。また、人々があるルールを受け容れていながら、強いられているという感情を経験しないこともある。


 「ときには、裁判所を拘束するルールの存在が否定されることがあるが、それは、一定の仕方で行動する人が、その行動により、彼にそうせよと要求するルールの容認を表明したのかどうかの問題が、当人が事前にか、または行為中にたどった思考過程に関する心理上の問題と混同されているためである。人がルールを拘束力のあるものとして、また彼や他の人々によっても勝手に変更されえないものとしてこれを受けいれるとき、彼はルールが一定の状況において要求することをまったく直感的に理解し、そのルールとルールの要求をまず考えることなしに、そうすることはよく見られることである。われわれが、ルールに従ってチェスの駒を動かしたり、赤信号で停止するとき、われわれの行動はルールに一致するとはいっても、しばしばその状況に対する直接の反応であって、ルールの観点からの考慮を経ていない。このような行動が、当該ルールの真の適用 genuine applications of the rule であるという証拠は、それらがある状況の下にあるということに見い出される。そのうちのいくつかは、個々の行為より先になされて、他がこれに追随しており、それらのいくつかのものは、一般的でしかも仮定的な用語でのみのべられるものである。行為するさいに、われわれがあるルールを適用したということを示すこれらの要素のうち、もっとも重要なものは、《もし》われわれの行動が非難されたなら、そのルールを参照して正当化しようとすることである。われわれが真にこのルールを受けいれていることは、過去から引き続いてこれを一般的に承認し、またこれに一致しているということによってだけでなく、われわれが自分達や他人の逸脱を批判することによっても、表明されているのである。このような証拠やこれに類似する証拠にもとづいて、われわれはたしかに次のように結論できるだろう。すなわち、われわれがルールのことを「考えることなく」これに一致して行動する前に、どうすることが正しいのか、その理由は何であるかを答えるよう求められていたとしたら、正直であるかぎり、そのルールをもち出して答えたであろうということである。あるルールを真に順守する行動と、たまたまルールと一致したにすぎない行動とを区別するのに必要なものは、そのような状況のもとにわれわれの行為があるということなのであって、そのルールについてはっきりと考えて行動するということではない。大人のチェス・プレーヤーが受けいれられたルールへの一致という形でチェスの駒を動かすことと、赤子がチェスの駒を押して正しい場所へ移動させたにすぎない行為とを区別するのは、こんなふうにしてである。
 こう言ったとしても、みせかけや「ごまかし」がありえないとか、それが成功しないこともあると言っているのではない。ある人が、《後になってから》自分はルールにもとづいて行動したのだというふりをしているかどうかのテストは、すべての経験的テストと同様に、本来誤りやすいものではあるが、しかし常にそうであるわけではない。ある社会では、裁判官がいつもまず直感的にまたは「勘により」決定に到達し、その後で法的ルールの目録から一つを選びだし、これこそ当該事件に似ているのだというふりをするにすぎないこともある。その場合、裁判官はその言動からすれば、選んだ法的ルールが彼らを拘束するものと考えているようなそぶりを何も示さないとしても、このルールこそは彼らの決定を命じているものだと彼らは考えていると主張することもあろう。いくらかの判決はこのようであるかもしれないが、大部分の判決の場合には次のようなことが確かに明らかなのである。すなわちそれらの判決は、大部分はチェス・プレーヤーの指し手と同様に、それぞれ判決を導く基準として意識的に採用したルールに一致しようとする真の努力によって得られるか、またはもし直感的に引き出されたとしても、その裁判官が以前から守ろうとしているルール、しかも当該事件にとっても重要であることが一般に認められているようなルールによって正当化されているのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第2節 ルール懐疑主義の多様性,pp.152-154,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
(索引:社会的ルール,ルールの外的視点,ルールの内的視点,記述可能なルール,行為が示すルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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14.人間にとって望ましい目的が、全ての人に実現されるためには、(a)個人の利害と全体の利害が一致するような法や社会制度、(b)個人と社会の真の関係を理解をさせ得る教育と世論の力が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

法や社会制度、教育と世論の重要性

【人間にとって望ましい目的が、全ての人に実現されるためには、(a)個人の利害と全体の利害が一致するような法や社会制度、(b)個人と社会の真の関係を理解をさせ得る教育と世論の力が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2.3) 追記。

《目次》
(1)人間の行為の究極的目的
 (1.1)苦痛と快楽
 (1.2)苦痛と快楽の量と質
 (1.3)幸福とは何か
 (1.4)平穏と興奮
 (1.5)人類全体への愛情
 (1.6)精神的涵養
 (1.7)きわめて不完全な状態の社会における幸福の実現
(2)道徳の基準:人間の行為の規則や準則


(1)人間の行為の究極的目的
 (a)行為の人間の行為の究極的目的である幸福とは何か。その諸要因:(a)苦痛と快楽の量と質,(b)受動的な快楽、能動的な快楽,(c)平穏と興奮,(d)自分の死後も存続する対象、とりわけ人類全体への愛情,(e)精神的涵養(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.1)苦痛と快楽
  できる限り苦痛を免れ、できる限り快楽を豊かに享受する。
 (1.2)苦痛と快楽の量と質
  苦痛と快楽は、量と質の両方が考慮される。
 (1.3)幸福とは何か
  幸福とは何か。それは、到達できない目的なのではないか。
  (a)幸福が強い快楽による興奮状態の継続であるとすれば、それは達成不可能である。
  (b)仮にそうだとしても、不幸を避けたり軽減したりすることができる。
  (c)幸福とは、苦痛があっても一時的なものであり、快楽が多く様々にあり、受動的な快楽よりも能動的な快楽のほうが圧倒的に多く、現に生きられている人生以上のものを、もはや期待しないような状態である。

 (1.4)平穏と興奮
  平穏と興奮は、より控えめな幸福の要素の一つである。
  (a)平穏に恵まれていれば、大半の人はごくわずかの快楽で満足できる。
  (b)多くの興奮があれば、大半の人はかなりの量の苦痛を耐えることができる。
  (c)そして、一方が長く続けば、他方への準備が整い、他方への願望が刺激される。
  (d)怠惰が高じて悪習となっている人、また逆に、病的に興奮を求めるようになってしまっている人も、存在はするだろう。

 (1.5)人類全体への愛情
  自分の死後も存続する対象、とりわけ人類全体への愛情は、幸福の重要な要因である。
   この世界にある不幸との戦いへの参画は、気高い楽しみを与えるだろう。人類全体の幸福への献身は、自らの幸福を超越し得る。しかし、極めて不完全な社会では、徳自体が与えてくれるストア的な幸福もあり得よう。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

  (a)愛情を欠いており、自分のことしか気にしない人たちは、それなりに幸運な境遇に恵まれていても、十分な快楽を見出さない。なぜなら、死が彼のすべてを失わせるからである。
  (b)一方で、個人的愛情を注ぐ対象となるものを死後に残すような人、とりわけ人類全体に対する関心を持ちながら、人類全体の幸福を喜び不幸を悲しむことができる人は、死の間際でも、人生に対して生き生きとした関心を抱き続ける。
   (b.1)この世界には、さらに是正し改善すべきものが多くある。
    (b.1.1)貧困、病気など、避け難く、未然に防ぐこともできず、緩和することもできないと思われるような、様々な肉体的・精神的苦悩の源泉が存在する。
   (b.2)運命の変転や自分の境遇について失望してしまう原因。
    (b.2.1)甚だしく慎慮が欠けていること。
    (b.2.2)欲が大き過ぎること。
    (b.2.3)悪い、不完全な社会制度のために、自由が認められていないこと。
   (b.3)改善への希望。
    (b.3.1)これら苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろう。
    (b.3.2)貧困は、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって、完全に絶つことができるだろう。
    (b.3.3)病気は、科学の進歩と優れた肉体的・道徳的教育によって、有害な影響を限りなく縮小できるだろう。
   (b.4)自己犠牲とは何か。
    (b.4.1)なぜ、自らの幸福を犠牲にし得るのか。それは、他者の幸福や、世界の幸福の総量を増大、あるいは幸福の何らかの手段への献身だと信じるからである。
    (b.4.2)「目的は、幸福ではなく徳である」は、正しいだろうか。しかし、自らの犠牲によって、他の人々も同じような犠牲を免れ得ると信じていなかったとしたら、その犠牲は払われたであろうか。
    (b.4.3)誰かが、自らの幸福を完全に犠牲にすることによってしか、他の人々の幸福に貢献できないというのは、世界の仕組みがきわめて不完全な状態にあるときだけである。

 (1.6)精神的涵養
  精神的涵養は、幸福の重要な要因である。
  自然の事物、芸術作品、詩的創作、歴史上の事件、人類の過去から現在に至るまでの足跡や、未来の展望など、周囲のあらゆるものに尽きることのない興味の源泉を見出すことだろう。
 (1.7)きわめて不完全な状態の社会における幸福の実現
  (a)意識的に、幸福なしにやっていくことが、到達可能な幸福を実現することについての、最良の見通しを与えてくれる場合がある。「目的は、幸福ではなく徳である」。
  (b)それは、宿命や運命が最悪であっても、それが人を屈服させる力を持っていないと感じさせてくれる。
  (c)その結果、人は人生における災難について、過剰に不安を抱くことがなくなる。
  (d)また、手の届くところにある満足の源泉を、平穏のうちに涵養することができるようになる。
  (e)それは、死をも超越する。

(2)道徳の基準:人間の行為の規則や準則
 (2.1)究極的目的が、最大限可能な限り、人類全てにもたらされること。
 (2.2)人類だけでなく、事物の本性が許す限り、感覚を持った生物全てが考慮されること。
 (2.3)自分自身の善と、他の人の善は区別されないこと。
  (a)基本的な考え方。
   (i)あたかも、自分自身が利害関係にない善意ある観察者のように判断すること。
   (ii)人にしてもらいたいと思うことを人にしなさい。
   (iii)自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。
  (b)次のような法や社会制度を設計すること。
   (i)あらゆる個人の幸福や利害と、全体の幸福や利害が最大限一致している。
  (c)人間の性格に対して大きな力を持っている教育や世論の力を、次のような目的に用いる。
   (i)自らの幸福と全体の幸福の間には、密接な結びつきがあることを、正しく理解すること。
   (ii)従って、全体の幸福のための行為を消極的にでも積極的にでも実行することが、自らの幸福のために必要であることを、正しく理解すること。
   (iii)全体の幸福に反するような行為は、自らの幸福のためも好ましくないことを、正しく理解すること。
 (2.4)苦痛と快楽の質を判断する基準や、質と量を比較するための規則を含むこと。


 「功利主義を攻撃する人がめったに正しく認めようとしてくれないことを私は再び繰り返して言っておくが、何が正しい行為なのかを決める功利主義的基準を構成している幸福とは、行為者自身の幸福ではなく関係者すべての幸福である。

自分自身の幸福か他の人々の幸福かを選ぶときには、功利主義は利害関係にない善意ある観察者のように厳密に公平であることを当事者に要求している。

ナザレのイエスの黄金律に、私たちは功利性の倫理の完全な精神を読み取る。人にしてもらいたいと思うことを人にしなさいというのと、自分自身を愛するように隣人を愛しなさいというのは、功利主義道徳の理想的極致である。

その理想にもっとも早く近づく手段として功利性は次のことを求めるだろう。

第一に、法や社会制度があらゆる個人の幸福や(あるいは実際的に言えば)利害をできるかぎり全体の利害と一致させるようなものであること、

第二に、人間の性格にたいして大きな力をもっている教育や世論が、自らの幸福と全体の善の間には、とりわけ全体の幸福が求めるような行為を消極的にでも積極的にでも実行することと自らの幸福の間には切ることのできない結びつきがあるということを各人の心に抱かせるためにその力をもちいることである。

そうすれば、全体の善に反するような行為を押し通して自らの幸福を得ようと考えることはできなくなるだけでなく、全体の善を増進するという直接的な衝動があらゆる個人にとって行為の習慣的な動機のひとつとなり、それに伴う感情が各人の感情のなかで大きく重要な位置を占めるようになるだろう。

功利主義道徳論を非難する人がこのような正しい特徴によってそれを心に思い描くならば、彼らが支持するであろう他の道徳論がもっている長所のうち功利主義道徳論に欠けているものが何なのか、他の倫理体系が促すと考えられている、より美しくより賞賛すべき形での人間本性の発展というのはどのようなものなのか、そして、その体系は功利主義者が利用できないどのような行為の動機にもとづいて指令を実行させるのか、私には分からない。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.279-280,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:法,社会制度,教育,世論)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年4月28日日曜日

13.この世界にある不幸との戦いへの参画は、気高い楽しみを与えるだろう。人類全体の幸福への献身は、自らの幸福を超越し得る。しかし、極めて不完全な社会では、徳自体が与えてくれるストア的な幸福もあり得よう。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

人類全体への愛

【この世界にある不幸との戦いへの参画は、気高い楽しみを与えるだろう。人類全体の幸福への献身は、自らの幸福を超越し得る。しかし、極めて不完全な社会では、徳自体が与えてくれるストア的な幸福もあり得よう。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(b.1)~(b.4)追記。
(1.8)追記。

 (1.6)自分の死後も存続する対象、とりわけ人類全体への愛情は、幸福の重要な要因である。
  (a)愛情を欠いており、自分のことしか気にしない人たちは、それなりに幸運な境遇に恵まれていても、十分な快楽を見出さない。なぜなら、死が彼のすべてを失わせるからである。
  (b)一方で、個人的愛情を注ぐ対象となるものを死後に残すような人、とりわけ人類全体に対する関心を持ちながら、人類全体の幸福を喜び不幸を悲しむことができる人は、死の間際でも、人生に対して生き生きとした関心を抱き続ける。
   (b.1)この世界には、さらに是正し改善すべきものが多くある。
    (b.1.1)貧困、病気など、避け難く、未然に防ぐこともできず、緩和することもできないと思われるような、様々な肉体的・精神的苦悩の源泉が存在する。
   (b.2)運命の変転や自分の境遇について失望してしまう原因。
    (b.2.1)甚だしく慎慮が欠けていること。
    (b.2.2)欲が大き過ぎること。
    (b.2.3)悪い、不完全な社会制度のために、自由が認められていないこと。
   (b.3)改善への希望。
    (b.3.1)これら苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろう。
    (b.3.2)貧困は、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって、完全に絶つことができるだろう。
    (b.3.3)病気は、科学の進歩と優れた肉体的・道徳的教育によって、有害な影響を限りなく縮小できるだろう。
   (b.4)自己犠牲とは何か。
    (b.4.1)なぜ、自らの幸福を犠牲にし得るのか。それは、他者の幸福や、世界の幸福の総量を増大、あるいは幸福の何らかの手段への献身だと信じるからである。
    (b.4.2)「目的は、幸福ではなく徳である」は、正しいだろうか。しかし、自らの犠牲によって、他の人々も同じような犠牲を免れ得ると信じていなかったとしたら、その犠牲は払われたであろうか。
    (b.4.3)誰かが、自らの幸福を完全に犠牲にすることによってしか、他の人々の幸福に貢献できないというのは、世界の仕組みがきわめて不完全な状態にあるときだけである。

 (1.7)精神的涵養は、幸福の重要な要因である。
  自然の事物、芸術作品、詩的創作、歴史上の事件、人類の過去から現在に至るまでの足跡や、未来の展望など、周囲のあらゆるものに尽きることのない興味の源泉を見出すことだろう。
 (1.8)きわめて不完全な状態の社会における幸福の実現
  (a)意識的に、幸福なしにやっていくことが、到達可能な幸福を実現することについての、最良の見通しを与えてくれる場合がある。「目的は、幸福ではなく徳である」。
  (b)それは、宿命や運命が最悪であっても、それが人を屈服させる力を持っていないと感じさせてくれる。
  (c)その結果、人は人生における災難について、過剰に不安を抱くことがなくなる。
  (d)また、手の届くところにある満足の源泉を、平穏のうちに涵養することができるようになる。
  (e)それは、死をも超越する。

 「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。

同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。

これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。

純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。

関心をひくものが多くあり、楽しむべきものが多くあり、さらに是正し改善すべきものが多くあるような世界では、このような適度な道徳的・知的資質をそなえた人なら誰でも、羨望の的となるようなあり方でいることができる。

悪法のためか他人の意志に従属しているために手の届くところにある幸福の源泉を使う自由を認められていない人でなければ、貧困、病気、愛する人の不親切、不徳、早世といった多大な肉体的・精神的苦悩の源泉のような人生における明白な害悪を逃れれば、この羨むようなあり方を必ず見いだすだろう。

それゆえ、この問題に関して重要な点はこれらの苦難と戦うことにあり、これらの苦難をまったく逃れることは稀有な幸運であり、現状では未然に防ぐこともできないし、多くの場合に目に見える形で緩和することもできない。

多少でも聞くに値する意見をもつ人ならば誰も世界の大きな明白な害悪の大部分はそれ自体除去できるものであり、人間に関わるものごとが改善され続けていくならば、最終的には狭い範囲までとどめることができるだろうということを疑わないだろう。

貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。

人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。

そのような方向へ発展することによって、私たちは自分たちの寿命を縮めるような危険を取り除くことができるだけでなく、より重要なことに、私たちの幸福が託されている人々を奪い去ってしまう危険も取り除くことができるのである。

運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。

すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。

これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。

とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。

 これまでの議論によって、幸福なしにやっていくことを身に着けることの可能性と義務について反対論者が言っていることについて正しく評価することができるようになる。

たしかに、幸福なしにやっていくことは可能である。20人のうち19人が意識せずにそうしているし、現在の世界でもっとも野蛮の程度の低いところにいる人々でさえそうである。英雄や殉教者は自らの幸福よりも大切にするもののためにしばしば自発的にそうしている。

しかし、この大切なものが他者の幸福や幸福の何らかの要件でないとしたら、それは何なのだろうか。自分の幸福やそれを得る機会をまったく放棄することができるというのは気高いことであるが、この自己犠牲は結局のところ何らかの目的のためのものであるに違いない。

それはそれ自身が目的ではないし、もしその目的は幸福ではなく徳であり、それは幸福よりも良いものであるといわれたとしたら、英雄や殉教者が他の人々が同じような犠牲を免れうると信じていなかったら、その犠牲は払われただろうかと私は問うだろう。

自らの幸福を放棄することが同胞に何の恩恵をもたらさず、同胞の運命を自らのものと同じものにし、彼らをも幸福を放棄した人と同じ状態に置くことになると考えていたら、その犠牲は払われただろうか。

人生における個人的な楽しみを放棄することによって世界の幸福の総量を増大させることができるときに、楽しみを自ら放棄することのできる人々は本当に賞賛されるべき人々である。

しかし、何らかの他の目的のためにそうしていたり、他の目的のためにそうしていると公言したりしている人は、自分が念頭においているような禁欲主義者と同じ程度にしか賞賛に値しない。その人は人間が何が《できるか》についてのすばらしい証拠となるかもしれないが、人間が何を《すべきか》ということの実例には間違いなくならない。

 誰かが自らの幸福を完全に犠牲にすることによって他の人々の幸福にもっとも貢献できるというのは世界の仕組みがきわめて不完全な状態にあるときだけであるが、世界が不完全な状態にあるかぎり、そのような犠牲をすすんで払う気持ちをもっていることは人間にとって最高の徳であるということを私は十分に認めている。

私はさらに、このような状態の世界では、逆説的な主張かもしれないが、意識的に幸福なしにやっていくことができるということが、到達可能な幸福を実現することについての最良の見通しを与えてくれると認めている。

というのは、このような意識以外には、宿命や運命が最悪であっても人を屈服させる力はもっていないと感じさせることで、人生のめぐりあわせから人を超然とさせるようなものはないからである。

ひとたびこのように感じれば、人は人生における災難について過剰に不安を抱くことがなくなり、ローマ帝国の最悪の時期に居合わせた多くのストア主義者のように、手の届くところにある満足の源泉を平穏のうちに涵養することができるようになり、それが不可避的に終焉をむかえるということだけでなく、いつまで続くかという不確実さについても気をもむことがなくなる。

 ところで、功利主義者は献身という道徳が自分たちのものでもあるということを、ストア派や先験論者と同じくらい正当な権利をもって主張しつづけねばならない。

功利主義道徳論は他の人々の善のために自らの最大善を犠牲にする力が人間にはあるということを認めている。それはその犠牲それ自体が善であることを認めることを拒んでいるだけである。幸福の総量を増やさないか増やす傾向をもたない犠牲を無駄だとみなす。

それが称える唯一の自己放棄は、他の人々の幸福や幸福の何らかの手段への献身であり、ここでいう他の人々とは人類全体であったり人類の全体的利害によって限定される範囲内にいる個々人であったりする。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-279,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:人類全体への愛,貧困,病気,改善への希望,自己犠牲)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年4月26日金曜日

12.人間の行為の究極的目的である幸福とは何か。その諸要因:(a)苦痛と快楽の量と質,(b)受動的な快楽、能動的な快楽,(c)平穏と興奮,(d)自分の死後も存続する対象、とりわけ人類全体への愛情,(e)精神的涵養(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

幸福とは何か

【人間の行為の究極的目的である幸福とは何か。その諸要因:(a)苦痛と快楽の量と質,(b)受動的な快楽、能動的な快楽,(c)平穏と興奮,(d)自分の死後も存続する対象、とりわけ人類全体への愛情,(e)精神的涵養(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)人間の行為の究極的目的
 (1.1)できる限り苦痛を免れ、できる限り快楽を豊かに享受する。
 (1.2)苦痛と快楽は、量と質の両方が考慮される。
 (1.3)幸福とは何か。それは、到達できない目的なのではないか。
  (a)幸福が強い快楽による興奮状態の継続であるとすれば、それは達成不可能である。
  (b)仮にそうだとしても、不幸を避けたり軽減したりすることができる。
 (1.4)幸福とは、苦痛があっても一時的なものであり、快楽が多く様々にあり、受動的な快楽よりも能動的な快楽のほうが圧倒的に多く、現に生きられている人生以上のものを、もはや期待しないような状態である。
 (1.5)平穏と興奮は、より控えめな幸福の要素の一つである。
  (a)平穏に恵まれていれば、大半の人はごくわずかの快楽で満足できる。
  (b)多くの興奮があれば、大半の人はかなりの量の苦痛を耐えることができる。
  (c)そして、一方が長く続けば、他方への準備が整い、他方への願望が刺激される。
  (d)怠惰が高じて悪習となっている人、また逆に、病的に興奮を求めるようになってしまっている人も、存在はするだろう。
 (1.6)自分の死後も存続する対象、とりわけ人類全体への愛情は、幸福の重要な要因である。
  (a)愛情を欠いており、自分のことしか気にしない人たちは、それなりに幸運な境遇に恵まれていても、十分な快楽を見出さない。なぜなら、死が彼のすべてを失わせるからである。
  (b)一方で、個人的愛情を注ぐ対象となるものを死後に残すような人、とりわけ人類全体に対する関心を持ちながら、人類全体の幸福を喜び不幸を悲しむことができる人は、死の間際でも、人生に対して生き生きとした関心を抱き続ける。
 (1.7)精神的涵養は、幸福の重要な要因である。
  自然の事物、芸術作品、詩的創作、歴史上の事件、人類の過去から現在に至るまでの足跡や、未来の展望など、周囲のあらゆるものに尽きることのない興味の源泉を見出すことだろう。
(2)道徳の基準:人間の行為の規則や準則
 (2.1)究極的目的が、最大限可能な限り、人類全てにもたらされること。
 (2.2)人類だけでなく、事物の本性が許す限り、感覚を持った生物全てが考慮されること。
 (2.3)自分自身の善と、他の人の善は区別されないこと。
 (2.4)苦痛と快楽の質を判断する基準や、質と量を比較するための規則を含むこと。

 「最大幸福原理にしたがえば、上述のように、究極的目的は、(考慮しているのが自分自身の善であろうと他の人の善であろうと)その他のあらゆる望ましいものに準拠したりそれらを目的としたりしながら、量と質の両方に関してできるかぎり苦痛を免れできるかぎり快楽を豊かに享受するというあり方である。

もし自分を意識したり自分を振り返ったりする習慣があり、両方を経験する機会をもっていた人々によって選ばれているとしたら、質を判断する基準や質と量を比較するための規則は彼らが比較検討する方法にもっともよく示されていることになる。

功利主義的な見解にしたがえば、これが人間の行為の目的であるならば、必然的に道徳の基準でもあるということになる。

それゆえ、道徳の基準は、遵守することによって、最大限可能なかぎり人類すべてに、さらに人類だけでなく事物の本性が許すかぎり感覚をもった生物すべてに、これまで述べてきたようなあり方を保証することができるようになるような、人間の行為の規則や準則と定義することができるだろう。

 しかし、このような理論に対しては別の種類の反対論者がおり、彼らが言うには、幸福はそもそも達成不可能なのだから、どのような形であっても人間の生や行為の合理的な目的となることはできない。

そして、彼らはさげすむような仕方で「そなたに幸福になる権利があるのか」と問いかける。

カーライル氏は、「ほんの少し前まで、そなたは今こうしている権利さえもっていたのか」と付け加えることによってこの問いかけに輪をかける。

さらに、反対論者は、人間は幸福がなくてもやっていけるし、高貴な人間はこのように感じており、[ドイツ語の]エントザーゲン(Entsagen)つまり自制という教訓を学んだからこそ高貴になれたのであると述べる。

そして、この教訓を完全に学んで受け入れることがあらゆる徳の始まりであり必要条件であると断言する。

 反対論のうち第一のものは、十分な論拠があるものならば、問題の本質をついているだろう。というのは、もし人間が幸福というものをまったくもてないとするならば、それを達成することは道徳や何らかの合理的な行為の目的とはなりえないからである。

とはいえ、その場合でも功利主義理論を擁護する余地はまだある。なぜなら、功利性には幸福を追求することだけではなく、不幸を避けたり軽減したりすることも含まれているからである。

幸福を追求することが空想的なものだとしても、人類が生きる方がよいと考え、彼らがノヴァーリスが勧めたようなある特定の状況下でも一斉自殺行為に逃避したりしないかぎりは、不幸を避けたり軽減することがいっそう広い範囲で絶対的に必要になる。

しかし、人生が幸福であることは不可能であると強く主張されると、この主張は言いがかりとはいわないまでも、少なくとも言いすぎである。

幸福が強い快楽による興奮状態が継続していることを意味しているならば、幸福であることが不可能なのは明らかである。高揚した快い状態はほんのわずかしか続かないか、ある場合には断続的に数時間か数日続くだけであるし、この状態は時折現れるきらめく閃光のような快楽であって、永遠不変の炎ではない。

幸福が人生の目的であると教えていた哲学者たちは、彼らをあざ笑っていた人々と同じように、このことをよく承知していた。

彼らのいう幸福は歓喜に満ちた人生ではなかった。それは、苦痛がわずかで一時的なものであり、快楽が多くさまざまにあり、受動的な快楽よりも能動的な快楽のほうが圧倒的に多く、全体的な原則として人生がもたらしうる以上のものを期待しないようなあり方であった。

幸運にもそのような人生を手にすることのできた人にとって、それはいつでも幸福の名に値するものであったように思われる。

このようなあり方は今や数多く存在し、彼らの人生のうちのかなりの部分をしめている。ほとんどすべての人にとって、現在のひどい教育やひどい社会制度こそがこのようなあり方に到達するのを妨げている真の障害である。

 反対論者は、幸福を人生の目的と考えるように教えられたとしても、人間がそのような控えめな幸福を分ちあうことに満足するか疑問に思うかもしれない。

しかし、人類の大多数はより控えめなものに満足してきた。満ち足りた人生を構成するのは主に二つのことであり、いずれもそれだけで満ち足りた人生という目的にとっては十分である。

つまり、平穏と興奮である。平穏に恵まれていれば大半の人はごくわずかの快楽で満足できる。多くの興奮があれば、大半の人はかなりの量の苦痛を耐えることができる。

人類の大部分にとってこの二つを結びつけることは本質的に不可能であるということはありえない。というのは、この二つは両立しないどころか自然に結びついているものであり、一方が長く続けば、他方への準備が整い、他方への願望が刺激されるからである。

平穏が続いた後に興奮を望まないのは怠惰が高じて悪習となっている人だけであり、興奮の後にくる平穏をそれに先立った興奮に直接的に比例して得られていた快楽と違って退屈で味気のないもののように感じるのは、病的に興奮を求めるようになってしまっている人だけである。

それなりに幸運な境遇に恵まれている人が人生を価値あるものにするほど十分な快楽を見出していないとすれば、それは一般には彼らが自分のことしか気にしていないからである。

公私にわたって愛情を欠いている人にとって、人生の興奮はきわめて抑制され、どのような場合でも、死によってあらゆる利己的な関心が終止符を打たれることになる時が近づくにつれて興奮することの価値は減っていく。

一方で、死後に個人的愛情を注ぐ対象となるものを残すような人、とりわけ人類全体に対する関心をもちながら同胞の感情も陶冶してきた人は、死の間際でも、若さと健康にあふれて活力あったときと同じように、人生に対して生き生きとした関心を抱き続けている。

利己心に次いで、人生を満足のいかないものにする重要な要因は、精神的涵養が不足していることである。

涵養された精神は――私は哲学者の精神のことを言っているのではなく、知識の泉が開かれていて、ある程度まではその能力を行使することを学んでいるようなあらゆる精神について言っている――自然の事物、芸術作品、詩的創作、歴史上の事件、人類の過去から現在に至るまでの足跡や未来の展望など、周囲のあらゆるものに尽きることのない興味の源泉を見出す。

たしかに、これらのすべてに無関心になること、しかもそのうちの千分の一も知ることなく無関心になることもありうるだろう。しかし、そのようなことは、人が最初からこれらの事物に対してまったく道徳的あるいは人間的関心をもっておらず、好奇心を満たすためだけにしかそれらを求めていなかったときだけである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.272-275,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:幸福,苦痛と快楽,平穏と興奮,自分の死後も存続する対象への愛情,人類全体への愛情,精神的涵養)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年4月25日木曜日

02.互いの行動を理解可能なものとする他者の思考、感情、意志決定に関する信念は、他者の行動や発言に基づく推論だけからは得られない。より原初的で反応的な共感や感情移入と、社会的な相互作用が必要である。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

他者の思考、感情、意志決定に関する信念

【互いの行動を理解可能なものとする他者の思考、感情、意志決定に関する信念は、他者の行動や発言に基づく推論だけからは得られない。より原初的で反応的な共感や感情移入と、社会的な相互作用が必要である。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(1)いかにして、他者の思考、感情、意志決定が知られるか。
 (1.1)他者の思考や感情に関する、原初的でより基礎的な解釈的知識が存在する。
  (i)これは、推論ではなく、反応的な共感や感情移入である。
 (1.2)社会的な相互作用のなかで、他者の思考、感情、意志決定に関する信念が生じる。
  (i)他者たちへの私たちの反応が、私たちがどんな思考や感情に対して反応しているのかを、彼らにもたらす。
  (ii)私たちの反応に対する彼らの反応が、彼らがどのような思考や感情に対して反応しているのかを、私たちにもたらす。
 (1.3)時には、目に見える彼らのふるまいや発言から推論する必要がある。
  (i)しかし、推論が正しいか間違っているかは、反応的な共感や感情移入により確かめられる。
  (ii)従って、反応的な共感や感情移入から切り離された単独の推論は、疑いから抜け出せない。
(2)他者の思考、感情、意志決定が知られることで、互いの行動が理解可能なものとなる。

 「デカルトの誤解は、たんにヒトではない動物たちに関する誤解であったばかりでなく、同時にヒトに対する誤解でもあった。デカルトを誤った方向へ導いたのは、他者の思考や感情や意志決定に関する私たちの信念は、目に見える彼らのふるまいや発言からの推論に全面的に依存している、という彼の見解だった。もちろん、ときに私たちは、他の誰かが考えていることや感じていることを、推論によって「おしはかる」必要がある。しかし、そうした特殊のケースにおいてさえ、それでもなお私たちは、他者の思考や感情に関する原初的でより基礎的な解釈的知識に頼っている。そして、そうした知識は推論によって正当化されているわけではないし、その必要もない。このような知識はいったいどんな種類の知識だろうか。それは実践知の一形態であり、解釈の仕方を知ることにほかならない。そうした知は、他者たちとの次のような複雑な社会的相互作用から生じる。すなわち、他者たちへの私たちの反応と、私たちの反応に対する彼らの反応が、自分はどんな思考や感情に対して反応しているのかに関する認知を彼らに、そして、私たちにもたらすような、そうした複雑な社会的相互作用である。もちろん、彼らも私たちもしばしばまちがいを犯すし、私たちのうちのある者は他の者よりも頻繁にまちがいを犯す。しかし、そのようなまちがいがまちがいだとわかる能力それ自体が、他者が何を考え、何を感じているかに気づく能力を前提としている。他者に関する解釈的な知識は、他者とのかかわりから得られるものであり、そこから切り離すことができない。それゆえ、他者の思考や感情についてのデカルト的な疑いは、他者とのそうしたかかわりを奪われた人々にのみ生じうる。そして、そうした人々はある重篤な心理的障害によってか、もしくは、デカルトの場合のようにある哲学的な理論の力によって、他者とのそうしたかかわりを奪われているのである。
 つまり、他者を知るということは、作用や相互作用を通じて反応的な共感や感情移入が〔他者に対して〕引き起こされるということであり、そうした共感や感情移入なしには、私たちは、他者たちのとった行動の理由を、私たちがしばしばそうするように、彼らに帰することができないだろう。そうした理由によって、彼らの行動は私たちに理解可能なものとなり、それによって、彼らもまたそれを理解できるようなしかたで私たちが他者たちに対して反応することが可能になるのである。(もちろん、ときとして私たちは、ある〔他者の〕行動について、それがなされた理由があるとして、そうした理由にまったく気づくことがなくとも、その行動に反応するし、反応するのに何の困難を感じない。しかし、ふつうは、ある行動があの理由ではなくこの理由でなされたからこそ、それに対して私たちは現にしているようなしかたで反応するのであり、私たちはその理由を特定できていればこそ、どう反応すべきか知っているのである。)」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第2章 動物という類に対比されるものとしてのヒト、その類に含まれるものとしてのヒト,pp.16-18,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:共感,感情移入,他者の思考,他者の感情,他者の意志決定)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

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