一般教養教育の内容
【一般教養教育においては、広範囲にわたる様々な主題について、その主要な真理を正確に知ること。そして、各自の専門知識を一般的知識と結合させ、真の知識とは何かと、確実な知識の境界線を知ること。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
(4)一般教養教育の内容
(4.1)広範囲にわたる様々な主題について、知ること。
(a)一つの主題については、その主要な真理のみを知ること。全てを知ることはできない。
(b)その主要な真理については、正確に徹底的に知ること。曖昧に知ることではない。
(c)一つの主題についての、主要な真理以外については、そのことについて熟知している人が誰であるかを評価できる程度の知識を得ること。
(4.2)自分自身の専門領域の知識を、一般教養教育で得た一般的知識と結合させること。
(a)各々自分自身の領域で獲得した知識から、真の知識がいかなるものであるかを学ぶこと。
(b)正しい思考原理と法則によって、理解力を訓練し、鍛え上げること。
(c)われわれが確実に知っていることと、そうでないこととの境界線を明らかにすること。
(5)一般教養教育の社会的効果
(5.1)実生活の重大関心事に関して、活発な世論を育て、質を向上させることができる。
(5.2)政治と市民社会に関して、人々が思慮をもって適切に対処することができる。
「人間が獲得しうる最高の知性は、単に一つの事柄を知るということではなくて、一つの事柄あるいは数種の事柄についての詳細な知識を多種の事柄についての一般的知識と結合させることであります。私の申し上げる一般的知識とは、漠然とした印象のことではありません。この大学の教科過程のなかで使用されている教科書〔『論理学概論』〕の著者である優秀な学者、ホエートリ大主教は、いみじくも一般的知識と表面的知識とを区別しました。一つの主題について一般的知識をもつということは、主要な真理のみを知ることであり、そしてその主題の肝心な点を真に認識するために、表面的ではなく、徹底的にその種の真理を知ることであります。小さな事柄は、その種のことを自分の専門的研究のために必要とする人々に任せれば宜しいのです。広範囲にわたる様々な主題についてその程度まで知ることと、何か一つの主題をそのことを主として研究している人々に要求される完全さをもって知ることは、決して両立しえないことではありません。この両立によってこそ、啓発された人々、教養ある知識人が生まれるのであります。そしてそのような人々は、各々自分自身の領域で獲得した知識から、真の知識がいかなるものであるかを学び、一方、他の領域の主題については、そのことについて熟知している人は誰であるかを知りうるに足る知識をもつでありましょう。但し、信頼しうる人物が誰であるかを判断するために必要となる知識の量を、われわれは軽く見積もってはなりません。重要な学問の諸原理が広く一般の人々の間にも浸透すれば、自らの学問領域で頂点に達した人々は、自分達の優秀性を正当に評価しうる能力をもち、しかも自分達の指導に喜んで従ってくれる一般民衆の存在に気がつくことになるでしょう。このようにしてまた、実生活の重大関心事に関して、世論を指導し、向上させる能力をもつ精神も形成できます。人間精神が扱うことのできる主題のなかで最も複雑なものは、政治と市民社会であります。それ故、一政党に盲目的に追従する人としてではなく、思慮ある人としてその双方に適切に対処しうる人になるためには、精神的、物質的生活両面の重要な事柄についての一般的な知識が要求されるだけではなく、正しい思考原理と法則によって、単なる生活体験、一科学または知識の一分野では提供しえない段階まで、訓練され、鍛え上げられた理解力が必要となるでありましょう。そこで、われわれの学問の目的は、単に将来自らの仕事に役立つような知識を少しでも多く身につけるということにあるのではないということ、むしろ、人間の利害に深く関わるありとあらゆる問題について、何らかの知識を、しかも正確に把握するよう気を配り、われわれが確実に知っていることとそうでないこととの境界線を明らかにすることにこそあるのだということを、確認しようではありませんか。そして、われわれの目的は、自然と人生について対極的に観る正しい見方を学ぶことであり、われわれの実際の努力に値しないような些細なことに時間を浪費することは、怠惰であることを心に銘記しておきましょう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,3 文学教育,(1)古典言語と現代言語,pp.14-16,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:一般教養教育の内容)
(出典:
wikipedia)
「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。
純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「
貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである
病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく
慎慮が欠けていることか、
欲がゆきすぎていることか、
悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、
この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション<京都大学学術出版会