開かれている可能性の程度
【干渉や妨害から自由でも,開かれている可能性の程度は様々である.(a)可能性の種類,多様性,(b)可能性が意志と行為で変えられるか否か,(c)各個人にとっての実現の難易度,(d)価値・重要性,(e)社会にとっての価値・重要性。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】(1.3)追記。
(1)消極的自由
消極的自由とは、他人から故意の干渉や妨害を受けず、また制度的な制約もなく、放任されていることである。可能でないことの諸原因、開かれている可能性の程度については、別に考察を要する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
(1.1)他人から故意の干渉や妨害を受けず、放任されていること。
(a)個人あるいは個人の集団が、自分のしたいことをしても、放任されている。
(b)個人あるいは個人の集団が、自分のありたいものであることを、放任されている。
(c)他人から、故意の干渉や妨害を受けない。
(d)他人から、行動の範囲を限定されていれば、自由ではなく強制されていると言える。
(1.2)可能でないことの諸原因と消極的自由
(a)他人の妨害ではない物理的制約、身体的制約、病気や障害
可能でないことの全てが、消極的自由の制限ではない。
(b)他人の妨害ではない個人の能力の不足や貧困
(i)一般には、消極的自由の制限とは考えられない。
(ii)可能でないことが、特定の社会・経済理論によって、個人の能力の不足や貧困の原因が、個人以外の原因に帰属させられるとき、「自由が奪われている」と認識される。
(c)他人の故意の干渉や妨害:消極的自由の制限
(d)法律により制度的な制限:消極的自由の制限
(1.3)開かれている可能性の程度
(a)可能性の種類、多様性
どれほど多くの可能性が自分に開かれているか(この可能性を数える方法は印象主義的な方法以上のものではありえないが。行動の可能性は、あますことなく枚挙することのできるリンゴのような個々の実在ではない。)
(b)可能性が意志と行為で変えられるか否か
人間の行為によってこれらの可能性がどれほど閉じられたり、開かれたりするか。
(c)各個人にとっての実現の難易度
これらの可能性のそれぞれを現実化することがどれほど容易であるか、困難であるか。
(d)各個人にとっての価値・重要度
性格や環境を所与のものとするわたくしの人生設計において、これらの可能性が、相互に比較されたとき、どれほど重要な意義をもつか。
(e)社会にとっての価値・重要度
行為者だけでなく、かれの生活している社会の一般感情が、そのさまざまな可能性にどのような価値をおくか。
(1.4)いかに自由でも、最低限放棄しなければならない自由
(a)いかに不自由でも、最低限守らなければならない自由は、すべての個人が持つ権利である。
(b)従って、その自由を奪いとることは、他のすべての個人に禁じられなければならない。
(1.5)いかに不自由でも、最低限守らなければならない自由
(a)個人の自発性、独創性、道徳的勇気が人類の進歩の源泉であり、(b)個人が自ら目標を選択するのが、人間の最も本質的なことだ、という理由によって、干渉や妨害からの自由、消極的自由が基礎づけられてきた。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
(a)これを放棄すれば人間本性の本質に背くことになる自由は、放棄することができない。
(b)では、人間本性の本質とは何か。自由の範囲を定める規準は、何か。
自然法の原理、自然権の原理、功利の原理、定言命法、社会契約、その他の概念
(c)個人の自由は、文明の進歩のために必要である。
(i)文明の進歩の源泉は個人であり、個人の自発性、独創性、道徳的勇気が、真理や変化に富んだ豊かなものを生み出す。
(ii)これに対して、集団的凡庸、慣習の重圧、画一性への不断の傾向が存在する。あるいはまた、公的権威による侵害、組織的な宣伝による大量催眠など。
(d)自分で善しと考えた目標を選択し生きるのが、人間にとって一番大切で本質的なことである。
仮に、本人以外の他の人が、いかに親切な動機から、いかに立派な目標であると思えても、その目標以外の全ての扉を本人に対して閉ざしてしまうことは、本人に対して罪を犯すことになる。
「わたくしの自由の程度は次のような諸点によって定められると考えられる。
(a)どれほど多くの可能性が自分に開かれているか(この可能性を数える方法は印象主義的な方法以上のものではありえないが。行動の可能性は、あますことなく枚挙することのできるリンゴのような個々の実在ではない。)、
(b)これらの可能性のそれぞれを現実化することがどれほど容易であるか、困難であるか、
(c)性格や環境を所与のものとするわたくしの人生設計において、これらの可能性が、相互に比較されたとき、どれほど重要な意義をもつか、
(d)人間の行為によってこれらの可能性がどれほど閉じられたり、開かれたりするか、
(e)行為者だけでなく、かれの生活している社会の一般感情が、そのさまざまな可能性にどのような価値をおくか。
以上すべての諸点が「統合」されなければならぬ。したがって、その統合の過程から引き出されてくる結論は必然的に正確なもの、異論のないものではありえない。
おそらく数えきれないほどに多数の自由の段階があり、いかに頭をひねってもこれをひとつの尺度で測ることはできないであろう。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),1 「消極的」自由の概念,p.24,註**,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),1 「消極的」自由の概念,p.24,註**,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:可能性の程度,可能性の種類・多様性,可能性の意志依存性,実現の難易度,可能性の価値・重要性)
(出典:wikipedia)
「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))
アイザイア・バーリン(1909-1997)
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