2020年4月8日水曜日

32.生命は、単に、激烈な闘争と自然淘汰の結果として存在しているのではなく、環境世界への適応や様々な生命諸形態の案出において、何らかの能動的な問題解決、推測と誤謬の除去ともいえる方法で作用しているのではないか。(カール・ポパー(1902-1994))

生命とは問題解決

【生命は、単に、激烈な闘争と自然淘汰の結果として存在しているのではなく、環境世界への適応や様々な生命諸形態の案出において、何らかの能動的な問題解決、推測と誤謬の除去ともいえる方法で作用しているのではないか。(カール・ポパー(1902-1994))】
 「悲観的イデオロギーに属するひとつの非常に重要なテーゼはこうです。生命の環境世界への適応や、すべての〔生命諸形態の〕案出(わたくしはこれを偉大なものと思っていますが)は、生命が何十億年ものあいだになし遂げたものであり、そしてこんにちでもわれわれが実験室で追構成できないものであるが、それらは案出ではなく、純粋な偶然の結果である。つまり、こういうことです。生命はそもそも案出しなかった。そこにあるすべては、純粋に偶然的な変異と自然淘汰のメカニズムである。生命の内部からの圧力は、自己増殖以外のなにものでもない。それ以外の一切は、われわれの相互的闘争、自然との闘争、しかも《盲目的》闘争から生じてくる。そして、(わたくしの考えでは偉大な出来事なのですが)太陽光線を栄養として用いるといったことは、偶然の結果である。
 〔これに対する〕わたくしの主張はこうです。これもまた、イデオロギーにすぎない、しかも古いイデオロギーの一部であって、ここには利己的遺伝子の神話さえもが属するし(遺伝子は共同によってのみ作用し生き延びうるというのに)、くわえて、今や真新しく素朴決定論的に「社会生物学」と称して息を吹き返した社会ダーウィニズムも属する。
 二つのイデオロギーの主要点をまとめておきたいと思います。
(1)旧、外部からの選択圧は殺害を通じて作用する。つまり、それは〔生物のあるものを〕除去する。したがって、環境は生命に対して敵対的である。
 新、内部からの能動的な選択圧は、よりよい環境、よりよい生態学的ニッチ、よりよい世界の探究である。それは、生命に対して最高度に友好的である。生命は生命のために環境世界を改善し、環境世界を生命に対して友好的なもの(そして人間にとって友好的なもの)にする。
(2)旧、有機体は〔環境世界に対して〕完全に受動的であって、〔環境世界によって〕能動的に選択される。
 新、有機体は能動的である。有機体は持続的に問題解決に従事する。生命とは問題解決である。解決はときとして新しい生態学的ニッチの選択あるいは構築である。有機体は能動的であるばかりでなく、その能動性は持続的に増大する。(われわれ人間に能動性を認めようとしないのは――決定論者はそうしているが――パラドックスである、とりわけ、われわれの批判的な精神的仕事を考慮に入れると。)
 海のなかで動物的生命が発生したとき――これは推測であるが――その環境世界は多くの領域でかなりの程度まで一様であった。にもかかわらず(昆虫はまったく無視するとしても)動物は、陸にあがる前に脊椎動物にまで発展していた。環境世界は、生命に対して一様に友好的であり、またそれに応じて無差別的であったが、生命の方は、見通せないほどさまざまな形態に差別化をとげた。
(3)旧、変異は純粋な偶然事である。
 新、有機体は、いつでも、生命を改善するような素晴らしい案出をしている。自然と進化と有機体、これらはすべて案出の才に富む。それらは、案出〔発明〕家として、われわれと同じように、推測と誤謬の除去という方法で働いている。
(4)旧、われわれは、残忍な除去を通して進化によって変革される敵対的な環境世界に生きている。
 新、最初の細胞は、何十億年後にあっても依然として、しかも今では数限りなく多い複写体のうちに生きている。どこに目を向けようとも、最初の細胞が存在する。それは、大地に園をつくり出し、緑の植物をつうじて、大気を作り変えた。またそれは、われわれの目を作り出し、青い空と星とに目を開かせた。うまくいっている。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第1部 知識について,第1章 知識と実在の形成――よりよき世界を求めて,IV,pp.37-39,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:生命,自然淘汰,適応,問題解決,推測と誤謬の除去)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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000_このサイトの利用方法(命題集)

このサイトの利用方法

《改訂履歴》
2020/04/08 第1版
2020/04/20 第2版
 「著作の日本語訳のオリジナル文章を添付しているのは、なぜですか?」を追加。

《目次》
1.著作名から調べる
2.人名から調べる
3.「命題集」というファイルは、何ですか?
4.なぜ、このような記述方法、形式を採用しているのですか?
5.著作の日本語訳のオリジナル文章を添付しているのは、なぜですか?
6.このサイトの基本的な考え方は、何ですか?

1.著作名から調べる

索引(人名、著作名、関連語句、翻訳者名)から、探します。
例えば、
フレーゲ『フレーゲ=ヒルベルト往復書簡』
フレーゲ『フレーゲ=フッサール往復書簡』
フレーゲ『意味と意義について』
フレーゲ『概念記法の科学的正当性について』
フレーゲ『幾何学の基礎について(1906)』
フレーゲ『算術の基礎』
フレーゲ『算術の基本法則』
フレーゲ『算術の形式理論について』
フレーゲ『思想--論理探究(1)』
フレーゲ『数学と数学的自然科学の認識源泉』
フレーゲ『数学における論理』
フレーゲ『論理学1』
フレーゲ『論理学2』

2.人名から調べる

索引(人名、著作名、関連語句、翻訳者名)から、探します。
例えば、
1806-1873_ジョン・スチュアート・ミル
1828-1877_西郷隆盛
1844-1900_フリードリヒ・ニーチェ
1848-1925_ゴットロープ・フレーゲ
1848-1925_ゴットロープ・フレーゲ_命題集
1854-1912_アンリ・ポアンカレ
1862-1943_ダフィット・ヒルベルト
1878-1949_グスタフ・ラートブルフ
1878-1965_マルティン・ブーバー
1879-1955_アルベルト・アインシュタイン
1889-1951_ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

3.「命題集」というファイルは、何ですか?

1848-1925_ゴットロープ・フレーゲ
1848-1925_ゴットロープ・フレーゲ_命題集 ←このファイルは何ですか?

(1)個々の命題を、本当に正確に理解するには、その哲学者の全体の考えを理解する必要があります。このファイルは、少なくとも、掲載している命題について、全体的なつながりを明らかにすることを目的に作られています。
(2) 過去の哲学は、各々ある特定の真理を、他の哲学よりも明確に見ていたかもしれず、集録と評価が必要である。その際、各哲学に調和と統一を与えている根本的な思想や方法を壊さないようにすること。(フランシス・ベーコン(1561-1626))
フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia

4.なぜ、このような記述方法、形式を採用しているのですか?

個々の事柄に関して厳密さを欠くことなく、かつ全体が俯瞰できるような総括を与える得る、知識の記述方法がある。それが命題集である。(ムランのロベルトゥス(1100頃-1167))

 「かなり多くの人々に、著述を行うにあたって、その総括を論じることを約束しながら個々の事柄に深く立ち入るという習慣がある。そのため彼らは、個々の事柄に関して必要とされる厳密さを欠くようになり、またその総括も十分にまとまったものではないということになる。また、他のある人々は、著述を行う際に別な方法に従い、個々の事柄にまったく言及しないような仕方で総括を行おうとする。そのため実際には総括は、それが言及せずに放置した事柄については、ほとんど、あるいはまったく何も教えないということになるのである。」(中略)「したがって、個々の事柄を放置する人は総括を教えはしないし、個々の事柄の知識を軽んじる人は総括を教えることにはならない。というのも、この教え方の内にあるのは簡潔さではなく、簡潔さの偽りの類似だからである。」(中略)「それは魂を勉学への愛から完全に切り離し、また後には、いかなる努力によっても、より明瞭な教えを喜び楽しむために回復することがほとんどできないほどの曖昧な暗闇によって包んでしまうからである。つまりこの教え方は、精神を狭い所へ閉じ込め、どこかへ自由に出ていくことができないように、役に立たない簡潔さによってすべての考察の道を妨げるのである。」(中略)「不明瞭な簡潔さに対する嫌悪が冗長さを許す理由にはならないのと同様に、冗長さを避けることが不明瞭な簡潔さを許されるべきものとすることはないのである。」
(ムランのロベルトゥス(1100頃-1167)『命題集』中世思想原典集成 七 前期スコラ学 pp.750-751、中村秀樹)
(索引:)

前期スコラ学 (中世思想原典集成)


ムランのロベルトゥス(1100頃-1167)
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5.著作の日本語訳のオリジナル文章を添付しているのは、なぜですか?

 オリジナル文を読んで、教科書的な「解説」とあまりに違っていることに驚いたことはありませんか。この不満を解消するために、オリジナル文を添付しました。このサイトの情報も、もちろん、私の理解と解釈というフィルターを通っています。ぜひ、オリジナル文を熟読してください。新たな発見があるかもしれません。

6.このサイトの基本的な考え方は、何ですか?

(出典:wikipedia
ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Propositions of great philosophers)  「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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2020年4月5日日曜日

無意識の精神機能におけるニューロン活動の持続時間は100ms以下である。このことは、意識されない問題解決のプロセスが極めて迅速に、効果的に進行できることを示唆している。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

意識を伴わない精神機能

【無意識の精神機能におけるニューロン活動の持続時間は100ms以下である。このことは、意識されない問題解決のプロセスが極めて迅速に、効果的に進行できることを示唆している。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】

(d)追記。

意識現象の発現の仕方
 意識作用には、意識を伴わない「精神機能」、ニューロン活動が先行する。感覚だけではなく、意識を伴う思考や感情、情動、自発的な行為を促す意図、創造的なアイデア、問題の解決なども、同様であろう。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))
(a)体性感覚
 (i)意識を伴わない感覚信号の検出、ニューロン活動が先行する。
 (ii)適切なニューロン活動の持続時間が、ある程度増加することによって、感覚の意識が現れる。
 (iii) 意識を伴わない感覚信号の検出、精神機能、ニューロン活動が存在し、活動の持続時間が500ms以上になると意識的な機能となる。持続時間の延長には、「注意」による選択が関与しているらしい(仮説)。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))
(b)他の感覚モダリティ(視覚、聴覚、嗅覚、味覚)でも、同様である。
(c)意識を伴う思考や感情、情動、自発的な行為を促す意図でも、同様である。
 (i)話し始める過程、話の内容が、話が始まる前に既に無意識に起動され、準備されている。仮に、ある人が話す単語の一つ一つについてまず自覚してからでなければ話せないならば、一連の言葉を速やかに話すことが不可能になるだろう。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))
 (ii)ピアノやバイオリンなどの楽器の演奏も、無意識のパフォーマンスの働きによるものに違いない。実際、個々の指を動かす意図を自覚していない、と演奏者たちは報告している。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))
(d)創造的なアイデア、問題の解決なども、同様であろう。
 (i)無意識の精神機能におけるニューロン活動の持続時間は100ms以下である。このことは、意識されない問題解決のプロセスが極めて迅速に、効果的に進行できることを示唆している。

 「(5) 無意識の精神機能がより持続時間の短いニューロン活動によって生み出されている場合、その精神機能はより速いスピードで進行することができます。信号へのアウェアネスがなくても信号の検出と選択反応を強制する私たちの実験から判断すると、無意識機能での神経活動の有効なタイム-オン(持続時間)は、約100ミリ秒以下というように、実に極めて短い可能性があります。このことから、問題解決に影響を与える一連の無意識プロセスが、個々の短いプロセスを次々とスピーディーに進行できることが示唆されます。このような敏捷さは、当然、無意識の思考を非常に効果的にします。それは、短時間継続する無意識の考えの要素が、込み入った問題の中にある一連の困難なステップを次々と達成していくことで成り立っています。逆に、一連の思考の中の各ステップで、アウェアネスが現れるまで人は先に進まないとしたら、プロセス全体の動きが5倍ほども鈍くなり、意識を伴った考えやその結果生じる行為への決断がのろのろとした作業となることでしょう。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第3章 無意識的/意識的な精神機能,岩波書店(2005),p.130,下條信輔(訳))
(索引:意識を伴わない精神機能)

マインド・タイム 脳と意識の時間


(出典:wikipedia
ベンジャミン・リベット(1916-2007)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
 私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)

ベンジャミン・リベット(1916-2007)
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ピアノやバイオリンなどの楽器の演奏も、無意識のパフォーマンスの働きによるものに違いない。実際、個々の指を動かす意図を自覚していない、と演奏者たちは報告している。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

意識を伴わない精神機能

【ピアノやバイオリンなどの楽器の演奏も、無意識のパフォーマンスの働きによるものに違いない。実際、個々の指を動かす意図を自覚していない、と演奏者たちは報告している。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】

(c)追記。

意識現象の発現の仕方
 意識作用には、意識を伴わない「精神機能」、ニューロン活動が先行する。感覚だけではなく、意識を伴う思考や感情、情動、自発的な行為を促す意図、創造的なアイデア、問題の解決なども、同様であろう。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))
(a)体性感覚
 (i)意識を伴わない感覚信号の検出、ニューロン活動が先行する。
 (ii)適切なニューロン活動の持続時間が、ある程度増加することによって、感覚の意識が現れる。
 (iii) 意識を伴わない感覚信号の検出、精神機能、ニューロン活動が存在し、活動の持続時間が500ms以上になると意識的な機能となる。持続時間の延長には、「注意」による選択が関与しているらしい(仮説)。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))
(b)他の感覚モダリティ(視覚、聴覚、嗅覚、味覚)でも、同様である。
(c)意識を伴う思考や感情、情動、自発的な行為を促す意図でも、同様である。
 (i)話し始める過程、話の内容が、話が始まる前に既に無意識に起動され、準備されている。仮に、ある人が話す単語の一つ一つについてまず自覚してからでなければ話せないならば、一連の言葉を速やかに話すことが不可能になるだろう。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))
 (ii)ピアノやバイオリンなどの楽器の演奏も、無意識のパフォーマンスの働きによるものに違いない。実際、個々の指を動かす意図を自覚していない、と演奏者たちは報告している。
(d)創造的なアイデア、問題の解決なども、同様であろう。



 「(3) ピアノやバイオリンなどの楽器の演奏または歌唱も、同様の、行為の《無意識の》パフォーマンスの働きによるものに違いありません。ピアニストがテンポの速い楽曲を演奏するときにはしばしば、目でもなかなか追えないほどの速さで両手の指がキーを連打しています。それでもなお、各々の(メロディーやキーの)進行の中で、それぞれの指が正しくピアノのキーを叩いていなければならないのです。すべての指の動きのアウェアネスの前にいちいち一定の遅延があるのならば、ピアニストがそれぞれの指の動きを《意識的に気づく》ことは不可能であるはずです。実際のところ、個々の指を動かす意図を自覚していない、と演奏者たちは報告しています。それよりも、音楽への感情移入を表現することに、彼らは集中していることが多いのです。そして、アウェアネスが生じるための私たちのタイム-オンの原則に基づくならば、こうした感情ですら、アウェアネスが少しでも発生する前に《無意識に》生じているのです。音楽を演奏していることを「考える」と、自分の表現力が不自然でぎこちないものになることを、演奏家や歌手は知っています。」(後略)
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第3章 無意識的/意識的な精神機能,岩波書店(2005),pp.126-127,下條信輔(訳))
(索引:意識を伴わない精神機能)

マインド・タイム 脳と意識の時間


(出典:wikipedia
ベンジャミン・リベット(1916-2007)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
 私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)

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31.観察が「知識の源泉」であると主張する知識論は、誤りである。また、論理的思考、知的直観、知的想像力なども、重要なものではあるが、理論が真であることを約束してくれるわけではない。(カール・ポパー(1902-1994))

理論は実証できない

【観察が「知識の源泉」であると主張する知識論は、誤りである。また、論理的思考、知的直観、知的想像力なども、重要なものではあるが、理論が真であることを約束してくれるわけではない。(カール・ポパー(1902-1994))】

(3.2)~(3.3)追記。

(3)理論は実証できない
 真理が実際に見出されたということを示す実証的理由は、決して与えることはできない。
 参照: ある理論が真理であることを示す実証的理由は、決して与え得ない。合理的な批判と、妥当な批判的理由を示すことで先行の理論が真でないことを示し、新しい理論がより真理に近づいていることを信じることができるだけである。(カール・ポパー(1902-1994))
 (3.1)帰納の非妥当性の原理
  (a)どんな帰納推理も、妥当ではあり得ない。すなわち、単称の観察可能な事例、および、それらの反復的生起から、規則性とか普遍的な自然法則へ至る妥当な推論はあり得ない。
  (b)理論を信じる実証的理由は、決して得られない。
 (3.2)観察は知識の源泉ではないのか?
  観察が「知識の源泉」であると主張する知識論は、誤りである。また、論理的思考、知的直観、知的想像力なども、重要なものではあるが、理論が真であることを約束してくれるわけではない。
  (a)知識は、無《タブラ・ラサ》から始めることはできない。観察から始めることもできない。
  (b)ある観察や偶然の発見によって知識が進歩することは、時として可能ではある。
  (c)一般的には、ある観察や発見の影響範囲は、それによって既存の理論を修正できるかどうかにかかっている。
 (3.3)確実な知識の源泉はあるのか?
  (a)知識が事実であることを約束するような「知識の源泉」は、ない。
  (b)観察、論理的思考、知的直観、知的想像力は、未知の領域に踏み込むために必要な大胆な理論を創造する際の助けになり、重要なものである。しかし、真理であることを約束してくれるわけではない。それどころか、誤りへと導いてしまうかもしれない。実際、私たちの理論のほとんど大部分は、誤りである。
 (3.4)理論は人間精神の一つの自由な創造物である
  概念の世界は「先験的必然」でもなければ、論理的方法によって経験から導出し得るものでもなく、人間精神の一つの自由な創造物である。しかし、概念体系の妥当性の唯一の理由は、事実と経験による検証である。(アルベルト・アインシュタイン(1879-1955))
 (3.5)理論は人間の歴史の所産であり、多くの偶然に依存している


 「さて、ここでこれまで論じてきたことを、8つのテーゼのかたちにまとめてみましょう。

1. 知識の源泉などありません。どんな源泉でも、どんな提案でもよいのです。けれども、いかなる源泉、提案も批判的検討の対象になります。歴史的な問いを扱っているのでないかぎり、われわれの情報の源泉をたどるよりも、むしろ主張された事実そのものを検討すべきです。

2. 科学論の問いは、本来、起源とはなんの関係もありません。われわれが問うのは、むしろ、ある主張が真であるかどうか――すなわち、それが事実と一致しているかどうかということです。

 そのような批判的な真理の探究の途中では、可能なかぎりのあらゆる議論が利用されます。もっとも重要な方法のひとつは、われわれ自身の理論に批判的に対峙し、とくに理論と観察のあいだの矛盾を探すことです。

3. 伝統は――生まれつきの知識は別にして――はるかに重要な知識の源泉です。

4. われわれの知識のかなりの部分が伝統に基づいているという事実は、伝統に反対すること、つまり反伝統主義の立場にはなんら意味がないことを示しています。

しかし、だからといって、これを伝統主義を支持する根拠と見なしてはなりません。なぜなら、われわれに伝えられてきた知識(そして生まれつきの知識)のどんなに小さな部分も不死身ではなく、批判的に探究され、場合によっては、くつがえされるかもしれないからです。

しかしそれにもかかわらず、伝統なしには知識は不可能でしょう。

5. 知識は無――《タブラ・ラサ》――から始めることはできませんが、かといって観察から出発できるわけでもありません。

われわれの知識は既存の知識を修正し、訂正することによって進歩します。たしかに、ある観察や偶然の発見によって進歩することは、時として可能ですが、一般的には、ある観察や発見の影響範囲は、それによって《既存の》理論を修正できるかどうかにかかっています。

6. 観察も理性も、なんら権威ではありません。ほかの――知的直感や知的想像力などのような――源泉も重要ではありますが、同じく信頼に足るものではありません。それらはものごとをかなり明らかにしてくれるかもしれませんが、しかしわれわれを誤りへと導いてしまうかもしれないのです。

それでも、これらはわれわれの理論の主たる源泉であり、そのようなものとしてかけがえのないものです。しかも、われわれの理論のほとんど大部分は、誤りなのです。

観察と論理的思考、そして知的直感と想像力の重要な機能は、未知の領域に踏み込むために必要な大胆な理論を批判的に検討する際の助けとなるという点にあります。

7. 明晰さには、それ自体知的な価値があります。厳密さや精密さは、そうではありません。絶対的精密性など到達不可能です。問題状況が要求している以上の厳密さを目指すのは、意味のないことです。」(中略)

8. ある問題の解決は、新たな未解決の問題を生み出します。この新たな問題は、もとの問題が難しければ難しいほど、また解決の試みが大胆であればあるほど、それだけいっそう興味深いものになります。

世界のいろいろなものごとについて経験すればするほど、そしてわれわれの知識が深まれば深まるほど、《自分たちがなにを知らないのか》ということについての、つまり自分たちの無知についての知識がよりいっそう明確になり、はっきりと描き出されるのです。

われわれの無知の主たる源泉は、無知が必然的に際限のないものであるのに対して、われわれの知識には限界があるというところにあります。」

(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第1部 知識について,第3章 いわゆる知の源泉について,pp.91-93,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:理論は実証できない,知識論,論理的思考,知的直観,想像力)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2020年4月4日土曜日

話し始める過程、話の内容が、話が始まる前に既に無意識に起動され、準備されている。仮に、ある人が話す単語の一つ一つについてまず自覚してからでなければ話せないならば、一連の言葉を速やかに話すことが不可能になるだろう。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

意識を伴わない精神機能

【話し始める過程、話の内容が、話が始まる前に既に無意識に起動され、準備されている。仮に、ある人が話す単語の一つ一つについてまず自覚してからでなければ話せないならば、一連の言葉を速やかに話すことが不可能になるだろう。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】

(c)の事例の追加。

意識現象の発現の仕方
 意識作用には、意識を伴わない「精神機能」、ニューロン活動が先行する。感覚だけではなく、意識を伴う思考や感情、情動、自発的な行為を促す意図、創造的なアイデア、問題の解決なども、同様であろう。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))
(a)体性感覚
 (i)意識を伴わない感覚信号の検出、ニューロン活動が先行する。
 (ii)適切なニューロン活動の持続時間が、ある程度増加することによって、感覚の意識が現れる。
 (iii) 意識を伴わない感覚信号の検出、精神機能、ニューロン活動が存在し、活動の持続時間が500ms以上になると意識的な機能となる。持続時間の延長には、「注意」による選択が関与しているらしい(仮説)。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))
(b)他の感覚モダリティ(視覚、聴覚、嗅覚、味覚)でも、同様である。
(c)意識を伴う思考や感情、情動、自発的な行為を促す意図でも、同様である。
(d)創造的なアイデア、問題の解決なども、同様であろう。


 「(2) 発声すること、話をすること、そして文章を書くことは、同じカテゴリに属します。つまりこれらのことはすべて、無意識に起動されるらしいということです。単純な自発的行為に先行して無意識に始まる脳の電位変化(いわゆる準備電位(RP)は、また、話したり書いたりといった類の他の自発的行為にも、先行するという、実験的な証拠がすでにあります(R・ユング(1982年)参照)。意識経験の性質について考える上でこの発見がもたらすインパクトについて、私は第4章で述べるつもりです。話す能力の場合を例にとると、話し始めるプロセスばかりか、これから話される内容でさえ、話が始まる前にすでに無意識に起動され、準備されていることを意味します。もし、ある人が話す単語のひとつひとつについてまず自覚して気づいてからでなければ話せない、ということであるとすると、アウェアネスについてのタイム-オンの必要条件がここで有効であるならば、いつも通り一連の言葉を速やかに話すことは明らかに不可能になります。話された言葉が、話し手が意識的に言おうとしていたこととどこか異なる場合、通常話し手は自分が話したことを聞いた《後》に訂正します。実際に、もしあなたが話をする前に一つ一つの単語を意識しようとすると、あなたの話す言葉の流れは遅くなり、ためらいがちになります。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第3章 無意識的/意識的な精神機能,岩波書店(2005),p.125,下條信輔(訳))
(索引:意識を伴わない精神機能)

マインド・タイム 脳と意識の時間


(出典:wikipedia
ベンジャミン・リベット(1916-2007)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
 私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)

ベンジャミン・リベット(1916-2007)
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30.理論は、普遍的に成立する真理を探究し、真理は想像を超える未知の出来事を予測できる豊かさを持ち、経験の理解を助ける。予測は有用なだけでなく、偽なる理論を排除するために必要なものと考えられている。(カール・ポパー(1902-1994))

道具主義的な計算規則と理論との違い

【理論は、普遍的に成立する真理を探究し、真理は想像を超える未知の出来事を予測できる豊かさを持ち、経験の理解を助ける。予測は有用なだけでなく、偽なる理論を排除するために必要なものと考えられている。(カール・ポパー(1902-1994))】

 (a)論理的構造が異なる
  限定された目的のための計算規則なのか(道具主義)、普遍的に成り立つことを推測として主張しているか(理論)の違いがある。2つ以上の理論体系の間には、演繹体系内における論理関係があるが、2つ以上の計算規則の間には、この関係があるとは限らない。理論に基づいて、限定された目的の計算規則を導出することはあり得るが、逆はあり得ない。
 (b)有用なのか、真理なのか
  有用なので選ばれているのか(道具主義)、真理なので選ばれているのか(理論)の違いがある。
 (c)応用可能性の限界なのか、反証なのか
  応用可能性の限界があっても使われるのか(道具主義)、反証されると破棄されるのか(理論)の違いがある。
 (d)適用可能領域の変更なのか、反証なのか
  適用可能領域の変更があっても破棄されないのか(道具主義)、適用の失敗が反証事例と考えられるのか(理論)の違いがある。
 (e)特殊化する傾向があるか、一般化する傾向があるか
  ますます特殊化する傾向があるか(道具主義)、ますます一般化する傾向があるか(理論)の違いがある。実用的な観点からは、道具は手もとの特殊な目的にとってもっとも便利なものであることが望まれる。
 (f)論理的に異なる理論への態度が異なる
  実際的な応用が予測できるかぎりでは、いまのところ、両者の区別がつかないといったケースの場合、2つの理論がその適用領域で同じ結果をもたらすなら、それらは等しいと考えるのか(道具主義)、2つの理論が論理的に異なっていれば、異なった結果が生じるような適用領域を見つけ出そうとするか(理論)の違いがある。
 (g)未知の出来事の予測の有無
  既知の出来事をうまく予測しようとするだけなのか(道具主義)、決して誰も考えもしなかったような出来事が予測されることがあり得ると考えるのか(理論)の違いがある。理論では、もしこれが「真理」であるならば、このようなことが生じるはずだという予測がある。
 (h)道具以上の何らかの情報内容
  すなわち、理論には、道具としての能力を超えて、何らかの情報内容がある。
 (i)「真なる」理論は、経験の理解へ導く
  計算規則は経験を再現しようとするが、理論は経験を「解釈する」助けになる。
 (j)予測は「偽なる」理論を排除する
  予測は実用的な価値のみならず(道具主義)、「偽なる」なる理論を除去する。



 「さて、これからぬを述べてみよう。

 (1) 理論の論理構造は、計算規則の論理構造とは異なる。また、二つ以上の理論体系間の論理関係は、二つ以上の計算規則の体系間の論理関係とは異なる。そして、一方の理論と、他方の計算規則のあいだの関係は対称的ではない。

 この点を十分に論じなくても、理論は演繹体系であって、どこでもいつでも成り立つことを推測として主張している、と言っておくことはできる。

計算規則は表のかたちで表わせるが、限定されたじっさいの目的を念頭において組み立てられている。だから、低速の船舶にとって役に立つ航海上の規則は、高速の航空機にとっては役に立たないかもしれない。

(たとえば、航海の)計算規則は、(たとえば、ニュートンの)理論にもとづいているかもしれないが、逆にどんな理論も計算規則にはもとづいてはいないのである。

 しかしながら、この議論ではまだ決定的ではない。理論はそれ自体は栄誉ある計算規則のようなものであり、それは上位の規則として使われて、より特殊な計算規則を引き出すのだと、依然として言われるかもしれない。

 (2) 計算規則は、ただその有用性のためにだけ選ばれている。理論は偽であるかもしれないが、それでも計算という目的にとっては役に立つかもしれない。

たとえば、ニュートンの理論とか、ニュートンの理論と電磁波にかんするマクスウェルの(ヘルツの)理論との連言は、反証されていると考えることができる。それでも、航海に使われている計算規則(航海のレーダーも含めて)はこれら二つの理論を基礎にしつづけるべきではない、と考える理由などどこにもない。

 (3) 理論をテストするときは、それらを反証しようと試みなければならないが、道具を試すときには、その応用可能性の限界を知るだけでよい。

理論が反証されれば、いつでもよりよい理論が探し求められる。しかし道具は、その応用可能性に限界があるからといって、拒否されたりはしない。そうした限界が見つかることは予想されていることである。

機体の「破壊テスト」がおこなわれた場合、破壊に成功したからといって、その型の機体がテストのあとで放棄されたりはしない。もし放棄されるとすれば、それは、その応用可能性の限界がほかの方の機体よりも狭かったからであって、たんにそうした限界があるからではない(普遍理論であったら、こうした理由からだけでも放棄されるのだが)。

 (4) 理論の応用はテストと見なせるが、期待した結果をうみ出すのに失敗すれば、やがて理論の却下へといたるかもしれない。だがこのことは、ほとんどの場合、計算規則やそのほかの道具にはあてはまらない。

なんらかの失敗(たとえば、航空上の伝統的な航空規則の失敗)は、そうした規則がある一定の領域に適用可能だろうという理論的推測の却下につながるかもしれないが、それらの規則はほかの諸領域で使われつづけるだろう。(一輪の手押し車は、トラクターと並んで生き残るだろう。)

 (5) 一方で理論はますます一般化し、他方で(コンピュータも含めて)道具はますます特殊化するとうはっきりとした傾向がある。

この後者の傾向は、道具主義によってあきらかにすることができる。実用的な観点からは、道具は手もとの特殊な目的にとってもっとも便利なものであることが望まれる。だから、理論家の関心と目的は、コンピュータ・エンジニアの関心と目的とは異なるだろう。

 (6) 興味深いのは、目のまえに二つの理論があって、実際的な応用が予測できるかぎりでは、いまのところ、両者の区別がつかないといったケースだろう。

道具と計算規則は、ある与えられた適用領域のために設計されているからである。だから、「適用の容易さ」といったほかのことは等しいとして、二つの理論がその適用領域で同じ結果をもたらすなら、道具主義者は、それらは等しく役に立つと言わざるをえないことになる。

だが、理論家は別なふうに考える。もし、二つの理論が論理的に異なっていれば、理論家は異なった結果が生じるような適用領域を《見つけ出そう》とするだろう――たとえ、だれひとりとして以前にその領域に興味を示さなかったとしても。

理論家がそうしようとするのは、それによって二つのうちの一方を反証する決定的実験が得られるかもしれないからである。そのようにして、経験の新しい領域――以前にはだれも考えもしなかった領域――が理論によって開かれるかもしれない。 

もっとも、理論のこの(知的な)探検機構は、理論とは(探検船や顕微鏡のように)探究の道具だと言いつくろわれるかもしれない。

《だがそうであるなら、探究すべき実在があることを認めなければなるまい。そしてもしそうなら、それは真か偽として記述できる》――これは、まさにバークリー流の道具主義が否定したかったことである。」(中略)

 (7) このことによって、二つのタイプの予測(あるいは「予測」という語の二つの意味)のあいだの重要な区別が導かれるが、道具主義者にこの違いを認めることができないのはあきらかである。

ひとつのタイプは、たとえばつぎの日食――それが見える時刻や位置など――の予測とか、あるいはメンデルの栽培実験におけるさまざまな色のえんどう豆の数などの予測である。一般的に言うと、既知の種類に属する出来事の予測である。

もうひとつのタイプは、新しい理論が形成されるまでは、決してまともに考えられもしなかったような種類の出来事の予測である。それは、生じうることがいわば理論から教えられるような出来事である。」(中略)

「この種の予測は、ある新しい理論からたびたび生じるが、それは理論の発明者にとっても思いがけないことなのである。発明者は、たんに既存の理論にあったいくつかの困難を取り除こうとしただけだからである。

新しい理論は、新たな予期しなかった事実の世界を開いてくれる――あるいはおそらく、古い世界の新しい側面を開いてくれる。だが、道具主義の枠組みで、むりなくこの状況に対処することは難しいだろう。


 (8) 決定的な問題は、言うまでもなく、理論には、道具としての能力を超えて、なんらかの情報内容があるかどうかということである。先の論点に照らしてみると、これはほとんど否定できない。

というのも、もし理論から未知の種類の出来事についてなにか学べるならば、理論には(じっさいそうであるように)そうした出来事を《記述》できる能力がなければならないからである。」(中略)


 (9) 理論は、計算規則とは反対に、経験を《解釈する》助けになる。」(中略)

「われわれは、たえず理論によって経験を解釈している。ひどい味と臭いは腐った卵のせいだと解釈するし、横すべり――これは完全に理論的な用語である――は、自動車の異常で危険な動きを、地面とタイヤのあいだの摩擦が足りないからだとして《説明し》、解釈する。」(中略)

 (10) バークリー以来、道具主義者は予測を、科学におけるもっとも実用的な課題のひとつと考えてきた。予測の実用的な価値ははっきりしており、道具主義がそれを正当化する必要はない。

しかしながら理論家なら、科学にとっての予測の重要性を、予測が外から科学に課された課題と見なすことなく、自分自身のことばで説明することができる。理論家にとって予測が重要なのは、もっぱら、理論に対する予測の関係のためである。

つまり、理論家は《真なる》理論を探すことに関心を払っているからであるし、《予測はテストとして役に立ち、《偽なる》理論を除去するための機会を与えてくれるからである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『実在論と科学の目的』,第1部 批判的アプローチ,第1章 帰納,12 道具主義批判、道具主義と帰納の問題,(上),pp.161-166,岩波書店(2002),小河原誠,蔭山泰之,篠崎研二,(訳))

(索引:道具主義,計算規則,理論)

実在論と科学の目的 上


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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29.形而上学的信念、宗教的信念、道徳的信念、科学的知識が「私の経験」から構築されると考える理論は誤っている。「私の」知識、信念は、それらが属する世界3との相互作用、能動的な学習と探究の成果の所産である。(カール・ポパー(1902-1994))

世界3の所産としての自我

【形而上学的信念、宗教的信念、道徳的信念、科学的知識が「私の経験」から構築されると考える理論は誤っている。「私の」知識、信念は、それらが属する世界3との相互作用、能動的な学習と探究の成果の所産である。(カール・ポパー(1902-1994))】

(6)自我、人格とは、世界3の所産である。
 (a)世界3の能動的な学習と、探究の成果の所産である。
  (i)例えば、科学的知識は「私の」知識ではない。
  (ii)宗教的信念、道徳的信念、形而上学的信念も、ある伝統を吸収した結果である。
  (iii)伝統のいくつかを自ら批判することは、「自分の知識」であると信じているものを形成するのに重要な役割を演じるであろう。
  (iv)そうした批判はほとんどいつでも、伝統の内部や、様々な伝統のあいだに不整合を発見することから引き起こされてくる。
  (v)自らの観察経験が伝統的理論を本当に反証する機会などめったにない。
  (vi)もちろん、「私自身の経験」による「個人的知識」は存在する。しかし、その経験を表現する言語の由来まで考えれば、完全に「私自身の経験」の結果だと言えるものなどほとんどない。
 (b)物質的環境との相互作用の所産である。
 (c)他者との相互作用の所産である。

 「こうしたことに対して、科学的知識は、まちがいなく《わたくしの》知識ではないと主張したい。

なぜなら、わたくしは、自分がいかになにも知らないかを知っているからである――「科学には知られている」が、自分の知らないことが(知りたいとは思うが)、じつになん千もあることを知っているからである。わたくしにとって(そしてほかのだれにとっても、と予想するが)、この事実は、それだけで科学的知識の主観主義的理論を拒否するのに十分である。

 しかし、たまたまわたくしが所有しているそうした科学的知識や常識的知識の断片でさえ、主観主義的な知識論においてあらかじめ考えられている図式にはあてはまらない。

そのような断片のなかには、完全に《わたくし自身の》経験の結果だと言えるものなどほとんどない。むしろ、それらの大部分は、一部には意識的に、一部には無意識のうちに、(たとえば、ある本を読むなどして)なんらかの伝統を自分で吸収した結果である。

そしてそれらの知識は、(たとえば宗教的信念とか、道徳的信念といった)形而上学的信念と同様、自分自身の観察結果と密接に結びついているわけではない。そうした形而上学的信念にしても、ある伝統を吸収した結果である。

どちらの場合でも、そうした伝統のいくつかをみずから批判することは、自分の知識であると信じているものを形成するのに重要な役割を演じるであろう。

しかし、そうした批判はほとんどいつでも、伝統の内部や、さまざまな伝統のあいだに不整合を発見することから引き起こされてくる。

(伝統と自分自身の観察経験のあいだに不整合を発見したから批判が呼び覚まされるなどということはほとんどない。というのは、みずからの観察経験が伝統的理論を本当に反証する機会などめったにないからである。)

 このように、科学的知識は《わたくしの》知識と同じものではない。そして、《わたくしの》知識であるもの――《わたくしの》常識的知識とか科学的知識――は、大部分、伝統や(望むらくは)なんらかの批判的思考を吸収した結果である。

 もちろん、「わたくしのもの」と呼べるかもしれない第三の種類の知識がある。インク瓶をどこに探せばよいか、自室のドアがどこにあるかをわたくしは知っている。鉄道の駅までの道も知っている。遅刻したときには靴紐が切れそうになることも知っている。

この種の(「個人的知識」とでも呼べるかもしれない)知識は、《わたくし自身の経験》からの結果なので、ほとんど伝統によるものではない。したがって、それは主観主義的理論によって思い描かれていた種類の知識にもっとも近い。

しかし、この「個人的知識」でさえ、その主観主義的理論には適合しない。なぜなら、それは――インク瓶、靴紐、鉄道の駅などといった、伝統を吸収することで学ばなければならない――伝統的なものごとについての常識的知識にぎっしり取り囲まれているからである。

もちろん、自分の観察、つまり目や耳は、この吸収の過程で大いに役に立つ。だが、主観主義的理論は、《自分の》知識から、さらには自分の観察経験から出発することを要求しているのだから、伝統の吸収過程は、主観主義的理論が思い描くものとは根本的に異なる過程となる。」

(カール・ポパー(1902-1994),『実在論と科学の目的』,第1部 批判的アプローチ,第1章 帰納,9 なぜ主観主義的な知識論は失敗するのか,(上),pp.132-133,岩波書店(2002),小河原誠,蔭山泰之,篠崎研二,(訳))
(索引:世界3の所産としての自我)

実在論と科学の目的 上


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2020年4月3日金曜日

意識作用には、意識を伴わない「精神機能」、ニューロン活動が先行する。感覚だけではなく、意識を伴う思考や感情、情動、自発的な行為を促す意図、創造的なアイデア、問題の解決なども、同様であろう。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

意識を伴わない精神機能

【意識作用には、意識を伴わない「精神機能」、ニューロン活動が先行する。感覚だけではなく、意識を伴う思考や感情、情動、自発的な行為を促す意図、創造的なアイデア、問題の解決なども、同様であろう。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】

意識現象の発現の仕方
(a)体性感覚
 (i)意識を伴わない感覚信号の検出、ニューロン活動が先行する。
 (ii)適切なニューロン活動の持続時間が、ある程度増加することによって、感覚の意識が現れる。
 (iii) 意識を伴わない感覚信号の検出、精神機能、ニューロン活動が存在し、活動の持続時間が500ms以上になると意識的な機能となる。持続時間の延長には、「注意」による選択が関与しているらしい(仮説)。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))
(b)他の感覚モダリティ(視覚、聴覚、嗅覚、味覚)でも、同様である。
(c)意識を伴う思考や感情、情動、自発的な行為を促す意図でも、同様である。
(d)創造的なアイデア、問題の解決なども、同様であろう。


 「タイム-オン理論によれば、適切なニューロン活動の持続時間(タイム-オン)のある程度の増加によって、その増加分がなければ無意識だったはずの心理的機能にアウェアネスが加わる特性があることを思い出してください。この理論はこうして、以下のような見解を提案、または導き出します。
 (1) おそらく、いかなる種類のアウェアネスも現れないうちに、すべての意識を伴う精神事象が実際には《無意識に始まっている》のです。体性感覚のアウェアネスの場合でも、また、内面で生じる自発的な行為を促す意図のアウェアネスにおいても、こうした状況が発生するということについて、私たちにはすでに実験的な証拠があります(第4章参照)。すなわち、このようなアウェアネスをいくらかでも引き出すには、持続時間が十分に長い脳の活動が必要であるということです。つまり、無意識な、短い時間継続する脳の活動は、遅延する意識事象に先行するということを意味しています。二つの異なる種類の意識経験について私たちが発見したこのような根本的な必要条件は、他の種類のアウェアネス、言い換えると他の感覚モダリティ(視覚、聴覚、嗅覚、味覚)、意識を伴う思考や感情、情動などにもあてはまるようです。
 内面で生み出された思考と感情にこの原則を適用すると、非常に興味深い帰結を生みます。さまざまな思考、想像、態度、創造的なアイデア、問題の解決などは、初めは無意識に発達します。このような無意識の思考は、適切な脳の活動が十分な長さの時間継続したときだけ意識的なアウェアネスに到達するのです。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第3章 無意識的/意識的な精神機能,岩波書店(2005),pp.124-125,下條信輔(訳))
(索引:意識を伴わない精神機能)

マインド・タイム 脳と意識の時間


(出典:wikipedia
ベンジャミン・リベット(1916-2007)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
 私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)

ベンジャミン・リベット(1916-2007)
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28.言語が、記述機能と論証機能を獲得し、世界3が創造されたことによって、自然選択によらない非遺伝的成長が可能となり、理性や人間の自由が創発された。(カール・ポパー(1902-1994))

心身問題における言語の役割

【言語が、記述機能と論証機能を獲得し、世界3が創造されたことによって、自然選択によらない非遺伝的成長が可能となり、理性や人間の自由が創発された。(カール・ポパー(1902-1994))】

(4)追加記載

心身問題における言語の役割

言語は、世界1の基盤に支えられ、意識的、能動的な世界3の学習と探究を通じて、世界1との関係、他者との関係、自我の形成に強い作用を及ぼす。自我は、世界1、他者、世界3との能動的な相互作用の所産である。(カール・ポパー(1902-1994))

(1)言語の習得は、世界1の基盤によって支えられている。
 世界1:自然淘汰によって進化した遺伝的な基盤をもつ自然的過程
  言語を学習する強い必要性と、無意識的で生得的な動機
  言語を学習する能力
(2)言語の習得は、意識的、能動的な世界3の学習と探究の過程である。
 世界2:個々の言語を実際に学習する過程
(3)人間の理性と人間の自由の創発
  思考は、言語で表現され外部の対象となることで、間主観的な批判に支えられた客観的な基準の世界3に属するようになる。(カール・ポパー(1902-1994))
 (a)思考はひとたび言語に定着させられると、われわれの外部の対象となる。
 (b)外部の対象となることで、間主観的に批判できるものとなる。
 (c)間主観的に批判できることで、客観的な基準の世界、すなわち世界3が出現してくる。
 (d)世界3に属することで、等値、導出可能性、矛盾といった論理的関係が意味を持つようになる。
 (e)客観的な基準の世界に対して、世界2は主観的な思考過程という位置づけが成立する。

(4)言語の機能
 言語が、記述機能と論証機能を獲得し、世界3が創造されたことによって、自然選択によらない非遺伝的成長が可能となり、理性や人間の自由が創発された。
 (4.1)表出機能
 (4.2)通信機能
 (4.3)記述機能:記述内容には、真・偽の区別がある。
 (4.4)論証機能:論証には、妥当かどうかの区別がある。
  (a)世界3の創造
   記述機能、論証機能によって世界3が創造された。
  (b)非遺伝的成長
   自然選択から、合理的批判にもとづく選択に依存して成長できるようになった。
  (c)人間の理性と人間の自由の創発

(5)言語は、以下に対して強いフィードバック効果を持っている。
 (a)自らの物質的環境への精通
 (b)他者との関係
 (c)自我、人格の形成
(6)すなわち、自我、人格とは、
 (a)能動的な学習と探究の成果の所産である。
 (b)世界3の所産である。
 (c)物質的環境との相互作用の所産である。
 (d)他者との相互作用の所産である。

 「人間は、《記述》機能と真理値をともない、また、《論証》機能と論証の妥当値をともなう人間の言語を創造したのであり、それによって、たんに表出機能と通信機能しかもっていない動物を超え出たのである。それとともに人間は、客観的な世界3を創造した。

世界3は、動物界にはかなりかすかな類事物しか見られない。そして、世界3とともに人間は、文明、学習、非遺伝的成長――つまり、遺伝子コードによって伝達されるのではない成長――からなる新世界を作り出した。

つまり、自然選択というよりも合理的批判にもとづく選択に依存して成長する新世界を作り出したのである。

 したがって、この第三の大きな奇蹟、つまり、人間の脳と人間の精神の創発、人間の理性と人間の自由の創発を説明しようとするならば、人間の言語と世界3の役割にこそ目が向けられるべきなのである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた宇宙―非決定論の擁護』,付録1,人間の状況と自然界,p.159,岩波書店(1999),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:心身問題における言語の役割,言語,言語の記述機能,言語の論証機能)

開かれた宇宙―非決定論の擁護


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2020年4月2日木曜日

27.未だ世界1の形態あるいは世界2の形態をとってはいないが、私たちの思考過程と相互作用する自律的な世界3の対象が存在する。それは、自身の内的法則、制約、規則性を持ち、私たちの思考過程に決定的な影響を与える。(カール・ポパー(1902-1994))

世界3の自律性

【未だ世界1の形態あるいは世界2の形態をとってはいないが、私たちの思考過程と相互作用する自律的な世界3の対象が存在する。それは、自身の内的法則、制約、規則性を持ち、私たちの思考過程に決定的な影響を与える。(カール・ポパー(1902-1994))】

(7)への補足

世界3とは何か

(1)世界3は、世界1のなかに符号化されている
(2)世界3の存在
(3)世界2が真に接触し、鑑賞し、賞賛し、理解するのは、世界3である
(4)世界3は、世界2としては全く具現化されていなくても、存在する
(5)人間は、未だ世界1の中に具現化されていない世界3の対象を、把握したり理解したりすることができる
(6)世界3は、世界1や世界2と同じ意味で、実在的な存在である
(7)世界3の自律性
 未だ世界1の形態あるいは世界2の形態をとってはいないが、私たちの思考過程と相互作用する自律的な世界3の対象が存在する。それは、自身の内的法則、制約、規則性を持ち、私たちの思考過程に決定的な影響を与える。

 「ほとんどの人は二元論者である。世界1と世界2の存在を信じることは、常識の重要な一部である。しかし、ほとんどの人にとって世界3の存在を受け容れることは容易ではない。

もちろん、そうした人でも、印刷された本とか、音声の言語的音響からなる世界1のまさに特殊な部分が存在することを認めるであろうし、また大脳過程や主観的な思考過程を認めるであろう。

しかし、彼らは、本を樹木のような他の物体から区別させるもの、あるいは、人間の言語を狼の遠吠えといった別種の音響から区別させるものがあるとすれば、それはつぎのような事実《でしかない》と主張するであろう。

すなわち、われわれはそれらを手がかりとして、ある種の特殊な世界2の経験、すなわち、まさにそうした本とかそうした言語的音響に相関する特殊な(おそらく大脳過程に平行する)思考過程をもつのだという事実である。

 この見解はまったく不十分であると思う。

わたくしは、世界3の自律的な部分の存在が認められるべきことを示したいと思う。それは、主観的あるいは個人的な《思考過程》からは《独立》しているとともに、明確に区別されるものでありながら、思考過程によって把握されるとともに、その把握に因果的に影響しうるような客観的な《思想内容》からなる部分のことである。

したがって、わたくしの主張はこうなる。まだ世界1の形態あるいは世界2の形態をとってはいないが、にもかかわらず、われわれの思考過程と相互作用する自律的な世界3の対象が存在する。じっさい、それらはわれわれの思考過程に決定的に影響する。

 初等算術から例を挙げてみよう。自然数の無限系列、0、1、2、3、4、5、6、……は人間の考え出したものであり、人間精神の産物である。そのようなものとして、それは自律的《ではなく》、世界2の思考過程に依存していると言われるかもしれない。

ところで、偶数あるいは素数をとりあげてみよう。それらは、われわれによって考案されたものではなく、《発見》された、あるいは見出されたものである。われわれは、自然数列が偶数と奇数からなり、そしてそれについてなにを考えようが、思考過程は世界3のこの事実を変更できないということを《発見》する。

自然数列は、われわれが数えあげることを学んだ結果である――つまり、人間の言語の内部において考案されたものなのである。

しかしそこには、変更不可能な内的法則あるいは制約もしくは規則性が存在する。しかもそれらは、人間が作った自然数列からの《意図されなかった帰結》、つまり、人間精神のすばらしい産物からの意図されなかった帰結なのである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた宇宙―非決定論の擁護』,付録1,世界3の実在と部分的自律性,pp.153-155,岩波書店(1999),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:世界3の自律性)

開かれた宇宙―非決定論の擁護


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2020年4月1日水曜日

26.最広義の「記憶」には、生得的なもの(遺伝子、神経系、免疫系、その他の諸能力)も含まれるし、試行錯誤、問題解決、行為と選択による能動的な学習によって獲得された広大な領域も含まれる。(カール・ポパー(1902-1994))

記憶の種類

【最広義の「記憶」には、生得的なもの(遺伝子、神経系、免疫系、その他の諸能力)も含まれるし、試行錯誤、問題解決、行為と選択による能動的な学習によって獲得された広大な領域も含まれる。(カール・ポパー(1902-1994))】
(1)保持時間に基づく記憶の分類
 (出典:記憶の分類脳科学辞典
 (1.1)心理学
  感覚記憶、短期記憶(保持期間が数十秒程度)、長期記憶
 (1.2)臨床神経学
  即時記憶(情報の記銘後すぐに想起させるもの)
  近時記憶(情報の記銘と想起の間に干渉が介在される)
  遠隔記憶(臨床場面では個人の生活史(冠婚葬祭や旅行など)を尋ねることが多い)
(2)内容に基づく記憶の分類
 (出典:記憶の分類脳科学辞典
 (2.1)陳述記憶(宣言的記憶)
  イメージや言語として意識上に内容を想起でき、その内容を陳述できる。
  (2.1.1)エピソード記憶
    個人が経験した出来事に関する記憶で、例えば、昨日の夕食をどこで誰と何を食べたか、というような記憶に相当する。
   (a)関連:「連続性形成記憶」。アンリ・ベルクソンの《純粋記憶》に関連しているように思われる。すなわち、われわれの経験すべての正しい時間的順序による記録である。(カール・ポパー(1902-1994))

  (2.1.2)意味記憶
    知識に相当し、言語とその意味(概念)、知覚対象の意味や対象間の関係、社会的約束など、世の中に関する組織化された記憶である。
  (例) 試行錯誤、問題解決、あるいは行為と選択による能動的学習(カール・ポパー(1902-1994))
   生得的な、そして獲得した《いかに行動するかの知識》と、背景にある《何であるかの知識》とによって導かれる能動的探究
   (a)新しい推測、新しい理論の作成
   (b)その新しい推測や理論の批判とテスト
   (c)その推測の拒絶と、それがうまくいかないという事実の記録
   (d)もとの推測の修正や新しい推測を用いての(c)から(a)への過程の反復
   (e)新しい推測がうまくいくようだという発見
   (f)補足的なテストを含む、その新しい推測の適用
   (g)その新しい推測の実際的で標準化された、反復的な使用

 (2.2)非陳述記憶(非宣言的記憶)
  意識上に内容を想起できない記憶で、言語などを介してその内容を陳述できない記憶である。
  (2.2.1)手続き記憶
   手続き記憶(運動技能、知覚技能、認知技能など・習慣)は、自転車に乗る方法やパズルの解き方などのように、同じ経験を反復することにより形成される。一般的に記憶が一旦形成されると自動的に機能し、長期間保たれるという特徴を持つ。
  (2.2.2)プライミング
   プライミングとは、以前の経験により、後に経験する対象の同定を促進(あるいは抑制)される現象を指し、直接プライミングと間接プライミングがある。
  (2.2.3)古典的条件付け
   古典的条件付けとは、梅干しを見ると唾液が出るなどのように、経験の繰り返しや訓練により本来は結びついていなかった刺激に対して、新しい反応(行動)が形成される現象をいう。
  (2.2.4)非連合学習
   非連合学習とは、一種類の刺激に関する学習であり、同じ刺激の反復によって反応が減弱したり(慣れ)、増強したり(感作)する現象である。

(3)獲得方法に基づく記憶の分類(カール・ポパー(1902-1994))
 (3.1)生得的な記憶
  (a)遺伝子に暗号化された蛋白質(酵素)合成のプログラム
  (b)生得的神経路の構造
  (c)機能的性格をもった付加的な生得的記憶がある。これは歩いたり話したりすることを学ぶためのさまざまな機能を十分に発達して生得的能力を含むようである。免疫学的記憶もまたここに挙げることができる。
  (d)泳ぎ方、描き方、教え方を学ぶような、成熟とは密接に結びついていない学習のためのその他の生得的能力。
 (3.2)何らかの学習過程を通して獲得される記憶
  (a)無意識的で受動的な学習過程によって獲得される記憶
  (b)意識的で能動的な学習過程によって獲得される記憶
(4)想起の様相に基づく記憶の分類(カール・ポパー(1902-1994))
 (4.1)能動的に随意に想起できる記憶
 (4.2)随意に想起できず、求められなくとも想起されてしまう記憶

 「関連した問題の一般的な展望を得るために、最も広い意味での《記憶》という語に含まれる現象を枚挙するのが有益であると思われる。

 磁化の《経験》に関しての鉄棒、または成長する結晶が示すような《断層》に関しての前有機的《記憶》から始めることもできよう。だが、このような前有機的効果の目録は長いわりに啓発的でない。

(1) 生物の最初の記憶に似た効果は、十中八九、遺伝子(DNAまたはたぶんRNA)に暗号化された蛋白質(酵素)合成のプログラムの維持であることはほとんど間違いない。それは、とりわけ、記憶の誤りの出現(突然変異)と、そのような誤りが持続する傾向を示している。

(2) 生得的神経路は本能、行動の仕方、そして技能からなる一種の記憶を構成するようである。

(3) この構造的または解剖的エングラム(2)に加えて、機能的性格をもった付加的な生得的記憶がある。これは(歩いたり話したりすることを学ぶための)さまざまな機能を十分に発達して生得的能力を含むようである。免疫学的記憶もまたここに挙げることができる。

(4) 泳ぎ方、描き方、教え方を学ぶような、成熟とは密接に結びついていない学習のためのその他の生得的能力。

(5) 何らかの学習過程を通して獲得される記憶
(5.1) 能動的に獲得される (a)意識的に (b)無意識的に
(5.2) 受動的に獲得される (a)意識的に (b)無意識的に

(6) 前述のものと部分的に結びつく、それ以上の区別
(6.1) 随意に思い起こせる
(6.2) 随意に思い起こせない(が、いわば、《期待波》(expectancy waves)として求められなくても起こる)
(6.3) 手の技能とその他の身体的技能(水泳、スキー)
(6.4) 言語で表現された理論
(6.5) 会話、語彙、詩の学習」(中略)


(7) 連続性形成記憶。これと関連して、いくつかの興味深い理論がある。それは、アンリ・ベルクソン〔1896〕、〔1911〕が(《習慣》と対立させて)《純粋記憶》と呼んだものと関連しているように思われる。すなわち、われわれの経験すべての正しい時間的順序による記録だが、この記録は、ベルクソンによれば、大脳中に、つまりどのような物質中にも記憶されていない。それは純粋に精神的な実体として存在する。(大脳の機能は純粋記憶に対してフィルターとして働き、それがわれわれの注意に侵入しないようにする。)」(中略)

(8) 試行錯誤、問題解決、あるいは行為と選択による能動的学習の過程については、われわれは少なくとも次のような異なる段階を区別すべきであると思われる。
(8.1) 生得的な、そして獲得した《いかに行動するかの知識》(knowledge how)と、(背景にある)《何であるかの知識》(knowledge that)とによって導かれる能動的探究
(8.2) 新しい推測、新しい理論の作成
(8.3) その新しい推測や理論の批判とテスト
(8.4) その推測の拒絶と、それがうまくいかない(《そうではない》)という事実の記録
(8.5) もとの推測の修正や新しい推測を用いての(8.4)から(8.2)への過程の反復
(8.6) 新しい推測がうまくいくようだという発見
(8.7) 補足的なテストを含む、その新しい推測の適用
(8.8) その新しい推測の実際的で標準化された使用(その採用)
 これらの段階の中で、(8.8)の過程のみが反復という性格をもつ、と私は思っている。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P4章 自我についてのいくつかの論評、41――記憶の種類(上)pp.213-216、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:記憶の種類)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2020年3月28日土曜日

「波束の収縮」に伴う問題は、状態を客観的な実在物と思うことから生じた擬似問題にすぎない。例えば、波束の収縮はいつ起こるのか、それは不連続な変化なのか、あるいは量子力学の中で記述可能なのか。(谷村省吾(1967-))

波束の収縮仮説について

【「波束の収縮」に伴う問題は、状態を客観的な実在物と思うことから生じた擬似問題にすぎない。例えば、波束の収縮はいつ起こるのか、それは不連続な変化なのか、あるいは量子力学の中で記述可能なのか。(谷村省吾(1967-))】
 「波束の収縮仮説は,「長さを測定して5 cm という値が出たのなら,少なくともその直後は,本当に対象系は5 cm になっているのだろう」という常識的信念をそのまま表しているが,いろいろなパラドクスの温床でもある。
 波束の収縮はいつ起こるのか?
 誰が観測したときに測定値が確定するのか?
 意識を持った人間が観測しないと波束の収縮は起きないのか?
 観測した途端に不連続な状態変化が起こるのか?
 この状態変化はシュレーディンガー方程式では表せないプロセスなのか?
といった,物理学の範疇に収まるかどうかもわからないような問いを波束の収縮仮説は呼び込む。私自身は,これらの奇妙な問いは,状態ベクトルというものを客観的な実在物と思うことから生じた擬似問題にすぎないと考えている[117](本当は問題ではないことを,言葉の意味の取り違えや思い込みのせいで問題視することを「擬似問題」(pseudo problem) という)。」
「多様化する不確定性関係 」谷村省吾 名古屋大学
(索引:波束の収縮仮説)

(出典:名古屋大学
谷村省吾(1967-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「最近(2020年)、時間の哲学と心の哲学の問題に関わることが多くなり、「意識とは何か、物理系に意識を実装できるか」という問題を本格的に考えたいと思うようになった。裏プロジェクトとして意識の科学化を考えている。
 「科学で扱えるものと扱えないとされるもののギャップ」は、心得ておくべきではあるが、ギャップにこそ重要な問題が隠されており、ギャップを埋める・ギャップを乗り越えることによって科学は進歩してきたとも言える。」(中略)
 「物理学におけるギャップの難問として次のようなものがある。マクロ系によるミクロ系の観測に伴う波束の収縮、量子系から古典系の創発、相対論的系から非相対論的系の出現、可逆力学系から不可逆系の出現、意識なきものから意識あるものの出現「いまある感」の起源、などがそのような例であるが、これらは地続きの問題であり、いずれも機が熟すれば科学的に究明されるべき課題だと私は考えている。」(後略)
(研究の裏で私が意識していること 谷村省吾 名古屋大学谷村省吾(1967-)

谷村省吾(1967-)
TANIMURA Shogo@tani6s
谷村省吾(名古屋大学)
谷村省吾(researchmap)
検索(谷村省吾)

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