2021年11月17日水曜日

不確実な世界では情報の価値は高く、好奇心は生と死を分けることもある。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

好奇心

不確実な世界では情報の価値は高く、好奇心は生と死を分けることもある。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

 「好奇心は生物の根本的な衝動であり、飢えや渇きや安全確保や生殖の欲求と同じように、私たちを行 動に向かわせる推進力だ。それは生存にとってどんな役割を演じているだろう。 環境の状況をもっとよ く知るために探り回るのは、ほとんどの動物種(哺乳類だけでなく、鳥類や魚類の多くも)の関心事だ。巣、 隠れ処、地下道、巣穴、穴ぐら、住処、いずれにしても周囲を確かめずに設けるのは危ない。捕食者が 住む不安定な世界では、好奇心は生と死を分けることもある 。だからたいていの動物は恒常的に縄張 りを見回り、変わったことがないか確かめ合おう、新奇な音や光景等々を調べるのだ。好奇心があればこそ、 動物は知識を得るために安全地帯から出ようとする。不確実な世界では情報の価値は高く、結局はあの ダーウィン的進化の通貨、すなわち生存を対価としなければならない。

 したがって好奇心は私たちに探索を促す力だと言える。この見方からすると、好奇心は餌や配偶者を 求める衝動に似ているが、情報の獲得という触知できない価値を動機にしているところが違う。実際、 神経生物学的研究によれば、私たちの脳では、それまで知られていなかった情報を発見することがドー パミン回路を起動し、当の発見自体が報酬となっている。この回路は餌や薬物やセックスに応じて発火 する回路であることを思い出そう。霊長類では、またおそらくすべての動物で、この回路はただ物質的 な報酬だけでなく、新しい情報に反応する。ドーパミン作動性ニューロンは、将来の情報獲得を知らせ る。まるで新奇な情報を得られると予想するだけで喜びが得られるかのように。この仕組みのおかげで、ラットを餌や薬物だけでなく、目新しさによって条件づけることができる。何も変わったことが起 きない退屈な場所よりも、新しい物がある場所の方をすぐに好むようになり、それによって好奇心を満 たす。私たちが目に映る景色を変えるために都会へ移るときも、最新のゴシップを求めてフェイスブッ クやツイッターをせっせと見て回るときも、まったく同じことをしている。」

(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『脳はこうして学ぶ』,3 学習の四本柱,8章 能動的関与,pp.247-248,森北出版,2021,松浦利輔,中村仁洋)

脳はこうして学ぶ [ スタニスラス・ドゥアンヌ ]





2021年11月16日火曜日

人類の社会的コミュニケーションと教育への依存は、恵みである反面、呪いでもある。宗教的神話やフェイクニュースが人間社会にあっさり広まるのも、教育のせいなのだ。太古の時代から、私たちの脳は、語られる話を、それが嘘でも本当でも、忠実に吸収する。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

社会的コミュニケーション

人類の社会的コミュニケーションと教育への依存は、恵みである反面、呪いでもある。宗教的神話やフェイクニュースが人間社会にあっさり広まるのも、教育のせいなのだ。太古の時代から、私たちの脳は、語られる話を、それが嘘でも本当でも、忠実に吸収する。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

 「教育を通じて、私たちは他者に、これまでの何万代もの人類の最善の考えを伝える。私たちが学習するすべての 言葉、すべての概念の一つ一つは、私たちの祖先が私たちに伝えるささやかな成果だ。言語がなけれ ば、文化の伝達がなければ、共同体の教育がなければ、私たちは誰も、独力では、現に今私たちの物理 的精神的能力を拡張しているあらゆる道具を発見できなかっただろう。教育と文化は私たち一人一人 を、人類の叡智の広大な連鎖を引き継ぐ者にする。

 しかし、ホモ・サピエンスの社会的コミュニケーションと教育への依存は、恵みである反面、呪いで もある。裏を返せば、宗教的神話やフェイクニュースが人間社会にあっさり広まるのも、教育のせいな のだ。太古の時代から、私たちの脳は、語られる話を、それが嘘でも本当でも、忠実に吸収する。社会 的な状況では、私たちの脳はガードを緩める。新進の科学者のようにふるまうのをやめ、何も考えずに 仲間についていくと伝えられるレミング [タビネズミ] のようになる。これは良いことでもありうる 。理科の先生の知識を信じれば、 ガリレオの当時以来のすべての実験を反復したりしなくてすむ。しかし それは不利益にもなりうる。先祖から受け継いだあてにならない 「知恵」でも、集団として広めてしま うからだ。医者がかつて何世紀もの間、愚かにも瀉血法や吸角法という治療法を、本当の作用を確かめ ることなく実践してきたのもそういうことだ(念のために言っておくと、どちらも実は、ほとんどの病気について有害) 

 有名な実験が、どれほど社会的学習が聡明な子どもを何も考えない丸写し人間に変えてしまいかねな いかを明らかにする。 赤ちゃんは生後一歳二か月にはすでに、人の動作をまねする。その動作を理解 していなくても あるいはもしかすると、理解していないからこそ。

(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『脳はこうして学ぶ』,3 学習の四本柱,7章 注意,pp.230-231,森北出版,2021,松浦利輔,中村仁洋)



脳はこうして学ぶ [ スタニスラス・ドゥアンヌ ]






乳幼児はごく早い時期から顔を見つめ、とくに人の目に注意を向ける。相手が注意しているから注意し、相手が教えてくれるから学習する。人間は、社会的な合図によって、注意を共有する。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

共同注意

乳幼児はごく早い時期から顔を見つめ、とくに人の目に注意を向ける。相手が注意しているから注意し、相手が教えてくれるから学習する。人間は、社会的な合図によって、注意を共有する。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

 「哺乳類はすべて ———もちろん霊長類も含めて———注意システムを持っている。しかし人間の注意は学 習をさらに加速するユニークな特徴を示す。社会的な注意の共有だ。ホモ・サピエンスは、他のどの霊 長類と比べても、注意と学習が社会的な合図に依存している。私はあなたがどこに注意しているかに注 意し、私はあなたが教えてくれることから学習する。

 乳幼児はごく早い時期から顔を見つめ、とくに人の目に注意を向ける。 話しかけられたときに乳幼児 が最初にとる反射的行動は、状況を探ることではなく、自分とやりとりする人物の視線を捉えること だ。赤ちゃんはアイコンタクトができて初めて、その大人が見ている対象の方を向く。この社会的な注 意を共有する顕著な能力は、「共同注意」とも呼ばれ、子どもが何を学習するかを決める。

 赤ちゃんが「wog」のような新語の意味を教えられる実験についてはすでに述べた。 乳幼児が、話し手が wogと言うときに向かう視線をたどることができれば、ほんの何回かの試行でこの単語の意味を難なく学習する ———一方 wogが同じ物体と連動していても、スピーカーから何度も再生されるだけで は学習は生じない。」

(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『脳はこうして学ぶ』,3 学習の四本柱,7章 注意,p.224,森北出版,2021,松浦利輔,中村仁洋)

脳はこうして学ぶ [ スタニスラス・ドゥアンヌ ]






実行的注意の動作は、低速で逐次的(中枢ボトルネック)である。アルゴリズムに従って、グローバル・ニューラル・ワークスペースの入力・出力を制御する。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

実行的注意

実行的注意の動作は、低速で逐次的(中枢ボトルネック)である。アルゴリズムに従って、グローバル・ニューラル・ワークスペースの入力・出力を制御する。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-)) 

「実行制御と、認知科学者が作業記憶と呼ぶものとには、密接なつながりがある。頭の中のアルゴリズ ムをたどってその実行を制御するためには、進行中のプログラムの要素、つまり中間の状態や実行済 みの段階やこれから行われる演算やのすべてをつねに頭にとどめておかなければならない。こうし て実行注意は、私が「全域的神経作業空間 (global neural workspace) と呼んだものの入力と出力を制御す る。この作業空間は、脳のルータ、つまり情報を脳にあるいろいろな処理装置に、どうやって、どの順 で送るかを判定する信号係のはたらきをする。このレベルでは、頭の中での動作は低速で逐次的だ。こ の系は、一度に一つの情報しか処理せず、したがって二つの動作を同時には行えない。 心理学者はそれ「中枢ボトルネック」と呼ぶ。」

(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『脳はこうして学ぶ』,3 学習の四本柱,7章 注意,p.214,森北出版,2021,松浦利輔,中村仁洋)

脳はこうして学ぶ [ スタニスラス・ドゥアンヌ ]






注目されなかった対象は、ささやかな刺激しかもたらさず、学習をほとんど、あるいはまったく 誘発しない。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))はたら

 注意

注目されなかった対象は、ささやかな刺激しかもたらさず、学習をほとんど、あるいはまったく 誘発しない。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

「注意は必須だが、問題が生じることもある。 注意の方向が間違っていれば、学習は立ち往生すること になりうる。フリスビーに注目しなかったら、画像のこの部分は消去され、フリスビーなどなかったか のように処理は進む。それについての情報は早くに捨てられ、その情報は感覚野のごく初期段階にと どまる。注目されなかった物体はささやかな刺激しかもたらさず、学習をほとんど、あるいはまったく 誘発しない。対象に注意を向けて意識するようになるときは正反対で、必ず、脳に並外れた増幅が生じ る。意識的な注意によって、対象をコード化する感覚ニューロンや概念ニューロンの発火が大きく増幅 され、長引いて、そのメッセージが前頭前野に伝わり、そこでニューロン群全体が発火し、もともとの 画像の持続時間をゆうに超えるほど長く発火しつづける。シナプスがその強度を変えるためには、その ような強い神経発火の波が必要だ これを神経科学者は「長期増強」と呼ぶ。生徒が、たとえば教師 が紹介したばかりの外国語の単語に意識的注意を払うときは、その単語は自身の皮質回路奥深くまで進 み、はるばる前頭前野にまで伝播している。その結果、その単語は記憶される可能性がずっと高まる。 無意識のあるいは注意されない単語はほとんど脳の感覚回路にとどまり、さらに奥の、了解や意味の記憶を支える語彙表象や概念表象にまで達するチャンスが得られない。」

(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『脳はこうして学ぶ』,3 学習の四本柱,7章 注意,pp.201-202,森北出版,2021,松浦利輔,中村仁洋)

脳はこうして学ぶ [ スタニスラス・ドゥアンヌ ]






呼出と指向:膨大な感覚情報の飽和を解決するため、脳は情報を選択し、フィルタリングし、増幅し、指向した対象の処理を深くする。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

呼出と指向

膨大な感覚情報の飽和を解決するため、脳は情報を選択し、フィルタリングし、増幅し、指向した対象の処理を深くする。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

 「そんなとき、脳は警戒と待受(「注意の維持」とも言われる)、選択と放念、指向と信号のフィルタリング といった、注意の要となる状態の大半を、数分の間に通り抜ける。認知科学で言われる「注意」とは、 脳が情報を選択し、増幅し、流し、その処理を深くする仕組みすべてを指す。そうした仕組みは進化で は古くからある。犬が耳の向きを変えたり、鋭い音を耳にしたネズミがすくんだりするときは、私たち が持っているのとよく似た注意回路を使っている。

 注意機構がそれほど多くの動物種に進化したのはなぜかというと、注意が情報飽和と いうありふれた問題を解決するからだ。脳には絶えず刺激が降り注いでいる。視覚、聴覚、嗅覚、触覚といった感覚が毎秒何億ビットもの情報を送ってくる。当初は、こうした通信のすべてが別々のニューロンで並 行して処理される。 しかしそれを深いところまで整理できるほどの資源は脳にはない。 そのため、注 意機構のピラミッドは、巨大なフィルターのように組織され、しかるべき優先順位をつ ていく。脳は 各段階で、しかじかの入力にどれだけの重みを与えるかを決定し、必須と考える情報にのみ資源を割り 当てる。

 適切な情報を選ぶことは、学習の根本にかかわる。注意がなければ、データの山にパターンを発見するというのは、よく言われる干し草の山で針を探すようなことになる。それが従来のニューラルネットワークが遅いことの主な理由だ。ネットワークは、情報を整理して適切な情報にすることができず、提供されるデータがとりうるすべての組合せの分析ばかりに相当の時間を浪費してしまうのだ。」

(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『脳はこうして学ぶ』,3 学習の四本柱,7章 注意,pp.198-199,森北出版,2021,松浦利輔,中村仁洋)

脳はこうして学ぶ [ スタニスラス・ドゥアンヌ ]






3種類の注意機構が区別される。(a)呼出、(b)指向、(c)実行的注意(マイケル・ポズナー(1936-))

注意

3種類の注意機構が区別される。(a)呼出、(b)指向、(c)実行的注意(マイケル・ポズナー(1936-))

3種類の注意機構

①呼出 (alerting)。いつ注意を向ければよいかを合図し、警戒レベルを調節する。

②指向 (orienting)。何に注意を向ければよいかを合図し、関心の向いた対象を増幅する。

③実行的注意 (executive attention) 注目された情報をどう処理すればよいかを決め、与えられた課題に関連する処理を選び、実行を制御する。














「注意は適切な情報の選択に根本的な役割を演じているので、脳のあちこちの回路に存在する。アメリカの心理学者マイケル・ポズナーは、少なくとも三種類の大きな注意機構を区別する。


呼出 (alerting)。いつ注意を向ければよいかを合図し、警戒レベルを調節する。

②指向 (orienting)。何に注意を向ければよいかを合図し、関心の向いた対象を増幅する。

③実行的注意 (executive attention) 注目された情報をどう処理すればよいかを決め、与えられた課題に関連する処理を選び、実行を制御する。

 以上のシステムは、脳活動を大規模に調節し、そのため学習が進みやすくしうるが、学習を間違った方向に向けることもある。この三点について、一つ一つ検討してみよう。」

(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『脳はこうして学ぶ』,3 学習の四本柱,7章 注意,p.202,森北出版,2021,松浦利輔,中村仁洋)

脳はこうして学ぶ [ スタニスラス・ドゥアンヌ ]






ニューラルネットワークの中に暗号のようにコード化された暗黙の知識は、意識化され理解されて、最小限の語数の言葉で表現されることで、他者に対して伝達可能となり、他者と共有される。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

 社会的学習

ニューラルネットワークの中に暗号のようにコード化された暗黙の知識は、意識化され理解されて、最小限の語数の言葉で表現されることで、他者に対して伝達可能となり、他者と共有される。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))



「社会的学習 

 ヒトは自発的に情報を共有する唯一の種だ。私たちは周囲の人々から言語を通じて学習する。この能 力はまだ、今のニューラルネットワークの及ぶ範囲を超えている。ニューラルネットワークのモデルで は、知識は何億というシナプスの重みの値に希釈されて、暗号のようにコード化される。 この隠れた暗 黙の形では、知識を引き出して選択的に他者と共有することはできない。それに対して、人間の脳では、私たちの意識に達するような、どんなに高次の情報でも、他者に対して明示的に述べることができ る。意識的な知識は、言葉によって伝達可能であることと一体になっている。 何かを十分に明瞭な形で理解するときは必ず、頭の中で思っている何かが思考の言語の中で共鳴して、私たちはそれを言語の言 葉を使って伝えることができる。私たちが最小限の語数を用いて (「市場へ行くには、教会裏の小路で右に曲 がりなさい」というように)自分の知識を他者と共有できるという並外れた能力にかけては、動物界にもコンピュータの世界にも、並ぶものがない。」

(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『脳はこうして学ぶ』,1 学習とは何か,2章 今のマシンより脳の方がうまく学習する理由,pp.56-57,森北出版,2021,松浦利輔,中村仁洋)

脳はこうして学ぶ [ スタニスラス・ドゥアンヌ ]






予測不可能性や絶対的非決定性は、自由意志の本質ではない。それは、物理法則、遺伝子、過去の経験、神経回路に組み込まれた価値判断のメカニズムに従ってはいても"自律的"な決定というものがある。過去の経験、思考、価値観から選択肢を導出し、欲求や情動と熟慮のなかで選択する。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

自由意志の本質

予測不可能性や絶対的非決定性は、自由意志の本質ではない。それは、物理法則、遺伝子、過去の経験、神経回路に組み込まれた価値判断のメカニズムに従ってはいても"自律的"な決定というものがある。過去の経験、思考、価値観から選択肢を導出し、欲求や情動と熟慮のなかで選択する。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

「量子的な現象が何らかの働きに影響を及ぼしていたとしても、その本質的な予測不可能性 は自由意志という概念にそぐわない。哲学者のダニエル・デネットが詳しく論じているよう に、脳に純粋な形態のランダムさを帰属させても、「いかなる種類の価値ある自由」ももたら さない。私たちは、自分の身体が、トゥレット症候群患者の無作為のひきつりやチック症のよ うに〔どちらも、突発的で自己制御できない体の動きや発生が生じる〕、亜原子レベルで生じ る制御不可能な逸脱によってランダムに振り回されることを望んでいるのか? 自由の概念か らこれほどかけ離れた考えはないだろう。

 「自由意志」について議論するとき、私たちはもっと興味深い何かを意味する。自由意志に 対する私たちの信念は、正常な状況のもとでは、高次の思考、価値観、そして過去の経験に よって意思決定を導き、下位レベルの不必要な衝動をコントロールする能力が私たちに備わっ ているという考えを表現する。私たちは自律的な決断を下すとき、すべての選択肢を考慮し、 そのなかからもっとも気に入ったものを選び出すことで自由意志を行使する。確かに、自発的 な選択には偶然性が入り込む余地があるが、それは本質的なものではない。私たちの自発的な 行為のほとんどはランダムどころではなく、選択肢を慎重に検討し、もっとも気に入ったもの を意図的に選び出して実行されるのである。

 この自由意志の概念は、量子力学に訴えずとも、標準的なコンピューターシステムとして実 装し得る。人間のグローバル・ニューロナル・ワークスペースは、感覚入力および記憶からす べての必要な情報を集めて統合し、その結果を評価し、それについて好きなだけ時間をかけて 熟考したうえで、実際の行動を導く。これこそが、私たちが意思決定と呼ぶところの行為だ。 

  したがって自由意志について考察するにあたっては、私たちは意思決定に関して二つの直感 を明確に区別しなければならない。一つは根本的な非決定性という疑わしい考えで、もう一つ は自律性という尊重すべき考えだ。脳の状態は原因なしに引き起こされるのではなく、物理法 則から逃れられない。物理法則を免れられるものなど何一つない。しかし意思決定は、行動を 起こす前にその長所と短所を慎重に検討しつつ、いかなる妨害もなしに自律的になされれば、 純粋に自由なのである。この条件に当てはまれば、たとえそれが究極的には遺伝子、それまで の人生、そして神経回路に組み込まれた価値判断のメカニズムによって引き起こされたのだと しても、私たちはその行為を自発的な決定と呼べる。自然に生じる脳活動の変動のゆえに、自 分の決定は自分自身にさえ予測できない。だがこの予測不可能性は、自由意志を定義する特徴 ではないし、ましてや絶対的な非決定性と混同すべきではない。重要なのは自律的な意思決定なのだ。」

(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第7章 意識の未来,紀伊國屋書店 (2015),pp.365-366,高橋洋(訳))<b

意識と脳 思考はいかにコード化されるか [ スタニスラス・ドゥアンヌ ]









2021年11月15日月曜日

人間の作った数学が、何故この宇宙を有効に記述可能なのかという、数学の有効性の奇蹟という問題がある。宇宙の構成原理そのものが数字的なものだとは思えないが、数学を支える脳の組織化原理が、宇宙の構造に合致するよう選択されてきたのではないだろうか。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

数学の有効性の奇跡

人間の作った数学が、何故この宇宙を有効に記述可能なのかという、数学の有効性の奇蹟という問題がある。宇宙の構成原理そのものが数字的なものだとは思えないが、数学を支える脳の組織化原理が、宇宙の構造に合致するよう選択されてきたのではないだろうか。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

  「数学が進化してきたのは事実である。科学史家は、それがゆっくりした思考錯誤の過程を 経て、より有効性を増してきたことを記録してきた。だとすると、宇宙が数学の法則に合致す るように設計されたと考える必然性はないだろう。どちらかと言うと、私たちの数学の法則、 そして、それに先立つ私たちの脳の組織化の原理こそが、宇宙の構造にどれほどよく合致して いるかによって選択されてきたのではないだろうか? 数学の有効性という奇蹟は、ユージ ン・ウィグナーにとっては大事な考えだったが、眼が奇蹟的に視覚に適応しているのと同様、 自然淘汰による進化で説明がつくのだろう。今日の数学が有効であるとすれば、それは、昨日 のあまり有効でない数学が、情け容赦なく排除され、別のものに取って代わってきたからなの だ。  純粋数学は、私がここで擁護している進化的視点に対し、もっと深刻な問題を提起する。数 学者は、数学の問題の中には、単に美のために追求しているものがあり、それは何の応用も目 的とはしていないと主張する。それでも、何十年もあとになって、その結果が、そのときには 思いもよらなかった物理学の問題に、ぴったりと合致することがある。人間の精神が純粋に生 み出したものが物理的実体に対して、驚くべき適合性を持つことを、どうやって説明すればよ いのだろう? 進化的枠組みでは、純粋数学は、未加工のダイヤモンドにたとえられるのでは ないか。自然淘汰の試練をまだ受けていない、原石だ。数学者たちは、膨大な数の純粋数学を 作りだしてきた。そのうちほんの一部しか、物理学に有効ではない。」(中略)  「数学の理論が物理的世界の規則性に部分的に適応しているという仮説は、プラトン主義者 と直感主義者との違いを取り持つ素地を提供してくれるかもしれない。プラトン主義者は、物 理的実体は、人間の心よりも先にある構造に基づいて構成されていると強調するが、そこに は、誰も否定できない真実の要素がある。しかしながら、私は、この構成が本質的に数学的だ とは思わない。そうではなくて、それを数学に変換しているのは、人間の脳なのだ。」

 (スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『数覚とは何か?』,第3部 神経細胞と数について,第9 章 数とは何か?,数学の非合理的な有効さ,早川書房(2010),pp.434-436,長谷川眞理子,小 林哲生,(訳))





直感の生得的カテゴリーを基礎に、 数学者はどうやってさらに抽象的な記号の構築を洗練させていけるかが問題である。自由な構築と選択の試行錯誤が、その答えである。論理展開のやり方さえも、多くの世代を経て進化してきた。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

自由な構築と選択

直感の生得的カテゴリーを基礎に、 数学者はどうやってさらに抽象的な記号の構築を洗練させていけるかが問題である。自由な構築と選択の試行錯誤が、その答えである。論理展開のやり方さえも、多くの世代を経て進化してきた。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

 「この枠組みでは、説明すべきものとして残ったのは、直感の生得的カテゴリーを基礎に、 数学者はどうやってさらに抽象的な記号の構築を洗練させていけるか、ということである。フ ランスの神経心理学者のジャン=ピエール・シャンジュの考えと同様、私は、構築があって選 択が起こるという進化のプロセスが数学に起こっていると示唆したい。数学が進化しているの は、よく立証された歴史の事実だ。数学は、堅固な知識のかたまりなどではない。その対象 も、論理展開のやり方さえも、多くの世代を経て進化してきた。数学の城は、試行錯誤で建て られてきた。もっとも高い骨組は、ときには崩れる寸前となり、それを崩しては再構築すると いう終わりのない繰り返しの中にある。どんな数学的構築の基礎も、集合、数、空間、時間、 論理の概念といった、本質的直感に基づいている。これらはほとんど疑問視されることはな く、私たちの脳が作り出す、何ものにも還元できない表象に深く根ざしている。数学は、これ らの直感の形式論理化をだんだんに進めてきたと言ってよいだろう。その目的は、そうした直 感をより矛盾なく、互いに整合性があり、外界に関する私たちの経験により適応したものにす ることである。  数学の対象に何を選び、どれを次世代に伝えていくかは、複数の基準がかかわっているよう だ。純粋数学では、矛盾のないことが一番だが、エレガンスと簡潔さも、その数学的構築を保 存するのに重要な性質である。応用数学では、もう一つ重要な基準がつけ加わる。その数学的 構築が物理的世界で妥当であることだ。毎年毎年、自己矛盾があったり、エレガントでなかっ たり、無用であったりする数学的構築が、無慈悲に見つけ出され、除去されていく。もっとも 強いものだけが、時の証明に耐えるのである。」

 (スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『数覚とは何か?』,第3部 神経細胞と数について,第9 章 数とは何か?,数学の構築と選択,早川書房(2010),pp.427-428,長谷川眞理子,小林哲 生,(訳))






たとえ数学が形式的な記号操作を基礎としていても、またあたかも抽象的な世界の実在物に思えたとしても、それは、私たちが世界を捉える生得的な直感を基盤に持つ。乳児は物体を個別化し、小さな集合から数を抽象する。幼児は、数の推定、比較、数えること、単純な加減算を、明確な指示なく行う。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

数学の本質

たとえ数学が形式的な記号操作を基礎としていても、またあたかも抽象的な世界の実在物に思えたとしても、それは、私たちが世界を捉える生得的な直感を基盤に持つ。乳児は物体を個別化し、小さな集合から数を抽象する。幼児は、数の推定、比較、数えること、単純な加減算を、明確な指示なく行う。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

「20世紀の数学者たちは、数学の対象の性質という根源的な問題について、大きく意見が分 かれていた。伝統的に「プラトン主義者」と呼ばれている人々にとっては、数学的現実は抽象 的な空間の中に存在し、その対象は、日常生活の対象と同じような実在である。」(中略) 「プラトン主義者は、数学者には広く見られる信念で、それは彼らの内観を正しく表現してい るのだと思う。彼らは本当に、数や図形でできた抽象的な地形の中を歩き回っている感じを抱 いており、それらは、そこを探検しようとする彼らの試みとは独立に存在するのだ。」(中 略)

 「プラトン主義に背を向けた第二のカテゴリーの数学者たちは、「形式主義者」と呼ばれて おり、彼らは、数学的対象の存在に関する議論は意味のない空論だと考える。彼らにとって は、数学は単に、厳密な論理的規則にしたがって記号を操作するゲームに過ぎない。数などの 数学的対象は、現実とはなんの関係もないのである。それらは、ある種の公理を満足させる記 号の集合に過ぎないと定義される。」(中略)  「数学の大部分が純粋に論理のゲームであるという形式主義者の考えには、確かにいくらか の真実が含まれているだろう。実際、純粋数学の数多くの問題は、一見したところ、夢のよう なアイデアから出発している。この公理をその否定形と入れ替えたらどうなるか? この「プ ラス」記号を「マイナス」記号に換えたらどうなるか? 負の数の平方根というものがあるこ とになったらどうなるのか? すべての数よりも大きな整数があったらどうなるか?

 それでも私は、数学の全体が、純粋に勝手な選択から始まる結果に還元できるとは思ってい ない。形式主義の立場は、純粋数学の最近の発展を説明できるかもしれないが、数学のそもそ もの起源に対して適切な説明を与えるものではない。もしも数学が論理ゲーム以外の何もので もないのなら、なぜ数学は、数、集合、連続量など、人間の心が普遍的に持つ固有のカテゴ リーに焦点を当てるのだろうか? なぜ数学者は、算術の法則の方がチェスのルールよりも根源的だと判断するのだろうか? なぜペアノは、勝手にいろいろな定義を作っていくのではな く、ずいぶん苦労して、適切に選びとった公理を提出したのだろう? なぜヒルベルト自身、 ある限定された、数の論理づけの部分集合だけを数学の暫定的な基礎として選んだのだろう か? そして、何よりも、なぜ物理的世界のモデル化に数学がこれほどよく適用できるのだろ うか?

  ほとんどの数学者は、純粋に任意な規則に従って記号操作をしているのではないと、私は考 えている。それとは反対に、彼らは、ある種の物理的、数的、幾何学的、論理的直感を、定理 の中にとらえこもうとしているのだ。そこで、第三のカテゴリーの数学者は、「直感主義者」 または「構築論者」と呼ばれている。彼らは、数学的対象は人間の心が生みだすものにほかな らないと考えている。彼らの見方では、数学は外の世界に存在するのではなく、それを発明す る数学者の頭の中だけに存在するのだ。」(中略)

  「数学の性質に関するこれまでの理論の中で、直感主義が、算術と人間の脳の関係につい て、もっともよい説明を与えるように私は思う。算術に関する心理学のここ数年の発見は、直 感主義を支持する、カントもポアンカレも知らなかった新しい議論をもたらした。これらの実 証的結果は、だいたいにおいて、数は「思考の自然な対象」であり、それによって私たちが世 界をとらえる生得的なカテゴリーであるとしたポアンカレの主張を確証している。実際、これ までの章は、この自然の数覚について、どんなことを明らかにしただろうか?

 ・人間の赤ちゃんは生まれながらに、物体を個別化し、小さな集合に含まれる数を抽出する メカニズムを備えていること。

   ・この「数覚」は動物にもあり、それゆえに言語とは独立で、長い進化の歴史を持っている こと。  

 ・子どもでは、数の推定、比較、数えること、単純な足し算と引き算はすべて、明確な指示 なしに自然に現われてくること。

 ・脳の両半球の下頭頂野は、数量の心的操作を司る神経回路を持っていること。

 数に関する直感はこのように、私たちの脳の深くに根を下ろしている。数は、本質的な次元 の一つで、神経系はそれによって外界を切り分けている。私たちが物体の色(V4領域を含む後 頭葉の回路によって生まれる性質)や、その正確な空間上の位置(後頭=頭頂間の神経投影経 路で再構築される表象)を見ずにはいられないのと同様に、数量も、下頭頂野の特殊な神経回 路を通して、苦もなく感じてしまうものなのだ。私たちの脳の構造がカテゴリーを定義し、そ れによって私たちは世界を数学的にとらえるのである。」

 (スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『数覚とは何か?』,第3部 神経細胞と数について,第9 章 数とは何か?,プラトン主義者、形式主義者、直感主義者,早川書房(2010),pp.420- 425,長谷川眞理子,小林哲生,(訳))






2021年11月14日日曜日

遺伝的変化は、一つの種における個体のゲノムのなかでの変異(欠失、重複、逆転、点変異など)と、遺伝子水平伝播により他の種から取り込まれる場合がある。(a)細胞が自らの働きによって取りこむ場合、(b)ウィルスによって運びこまれる場合、(c)2つの細菌が遺伝物質を交換する場合。(イアン・スチュアート(1945-))

遺伝子水平伝播

遺伝的変化は、一つの種における個体のゲノムのなかでの変異(欠失、重複、逆転、点変異など)と、遺伝子水平伝播により他の種から取り込まれる場合がある。(a)細胞が自らの働きによって取りこむ場合、(b)ウィルスによって運びこまれる場合、(c)2つの細菌が遺伝物質を交換する場合。(イアン・スチュアート(1945-))


「遺伝学的な解釈でいうと、生命の木は、遺伝子が古代の種(の個体)からその子孫の種(の個体)へどのように伝わっているかを表わしている。しかし、個体のあいだで遺伝子が伝わる第二の方法がある。一九五九年に日本人のチームが、抗生物質への耐性が一つの種の細菌から別の種へ伝わることを発見した。この現象は遺伝子水平伝播といい、それに対して、以前から 知られていた子孫への遺伝子の伝達を垂直伝播という。これらの用語は、時間を垂直に、種の タイプを水平に取った通常の進化樹から来ており、他に特別な意味はない。  まもなく、遺伝子水平伝播は最近に広く見られる現象で、単細胞の真核生物でも珍しくはな いことが明らかとなった。この発見によって、ゲノムが変化する別の方法が見つかり、それら の生物の進化のパラダイムが変わった。遺伝的変化は、一つの種における個体のゲノムのなか で変異(欠失、重複、逆転、点変異など)が生じることによって起こるという従来の概念を拡 張し、まったく異なる種に由来するDNAの断片が挿入されるという場合も、そこに含めるよう にしなければならない。そのような伝播のメカニズムはおもに三つある。細胞が自らの働きに よって外来の遺伝物質を取りこむ場合、ウィルスによって外来のDNAが運びこまれる場合、そ して二つの細菌が遺伝物質を交換する場合(「細菌のセックス」)だ。  さらに、多細胞真核生物が進化史のどこかの段階で、遺伝子水平伝播の受け入れ側になった らしいという証拠もある。一部の菌類、とくに酵母のゲノムには、細菌由来のDNA配列が含ま れている。ある甲虫の種は、体内で共生しているヴォルバキアという細菌から遺伝物質を獲得 している。アブラムシは、菌類由来の、カロテノイドを生産する遺伝子を持っている。そして ヒトゲノムは、ウィルス由来の配列を含んでいる。  これらの現象は、進化の推進力の一つである遺伝的変化がどのように起こるかに関する、わ たしたちの見方を間違いなく変化させる。多くの生物の遺伝的系統には、明らかな進化上の祖 先よりもたくさんの生物種が関わっていることを、このことは意味している。多くの生物学者 が、そのため生命の木の比喩は放棄しなければならないと論じている。科学的には大きな障害 はなく、生命の木は神聖なものではないし、証拠によって間違っていることが示されれば放棄 すべきだ。そうなれば、進化に対するわたしたちの見方は――少なくとも標準的な比喩に関する 限りは――変わることになるが、科学は以前の考え方を修正することによって進歩する場合が多 い。」(中略)「簡単に言うと、遺伝子水平伝播は、種からなる生命の木には何の影響も及ぼ さない。そして個体からなる木には小さな影響を与え、DNAからなる木にはもっと大きな影響 を与える。この言葉にはおそらく一つの例外がある。種が細菌やウィルスの場合だ。その場 合、遺伝子水平伝播はきわめて一般的で、種の概念さえも疑わしくなる。  種分化を個体レベルでとらえると、もしかしたら枝がきわめて複雑に絡まっているかもしれ ない。種分化を単純な枝分かれとして表現するのは、ほぼ間違いなくそのプロセスを単純化し すぎており、おそらく適切でない疑問や区別をもたらす(「二つの種は正確にいつ別れたの か?」といった疑問)。トビー・エルムハーストが導入した、BirdSymという種分化の複雑系 モデルでは、種分化の最中に表現型がきわめて複雑な形で次々に変化する。その描像は、単純 な枝分かれというより、入り組んだ川に似ている。」 (イアン・スチュアート(1945)『数学で生命の謎を解く』第8章 分類学者よ、木は使う な、pp.170-172、SBクリエイティブ(2012)、水谷淳(訳))

数学で生命の謎を解く【電子書籍】[ イアン・スチュアート ]



古典力学系は、十分長い時間が経てば、初期状態にいくらでも近い状態に回帰する(ポアンカレの定理)。では何故、不可逆性が生じるのか。十分長い時間とは宇宙の年齢など比較にならないほど長い時間だからである。(イーヴァル・エクランド(1944-))

不可逆性の言説

古典力学系は、十分長い時間が経てば、初期状態にいくらでも近い状態に回帰する(ポアンカレの定理)。では何故、不可逆性が生じるのか。十分長い時間とは宇宙の年齢など比較にならないほど長い時間だからである。(イーヴァル・エクランド(1944-))

「奇妙なことに、ランダム性は素粒子よりずっと大きな尺度、たとえば人間の尺度でもあら われる。これは異なる種類のランダム性で、カオス理論と結びついている。そこであつかうの は、一個の電子がこの道でなくあの道を通るといった明確な原因なしに起こる出来事ではな い。そうではなく、さいころを振ったらあの目ではなくこの目が出たというようなごく小さな 原因から起こる出来事である。そう思ってみると、(停留作用を原理を含む)古典力学は、 (量子力学とファインマンの確率に支配された)素粒子の尺度と、(熱力学と増大しつつある エントロピーに支配された)人間尺度の間の、現実世界のごく薄い層でしか成り立っていない ように見える。」(中略)「このパラドックスを理解する鍵は、いうまでもなく、関与してい る時間の長さにある。イマジナムが箱に戻るのを見るには、パンドラは非常に長い時間、それ こそ宇宙の予測寿命が尽きてもなお待ち続けるつもりでいなければならない。それより短い時 間、わずか数十億年かそこらの間に、そのようなことが起こる可能性はこれっぽっちもない。 もちろん数学者ならそんなことは意に介さないが、人間、ことに近々釈明の必要に迫られるで あろうパンドラにとっては大問題だ。ポアンカレの定理がいっていることは真実だが、わたし たちの役には立たない。人間の尺度で時の矢があらわれる理由は、わたしたちのあつかう物体 が大きな集合体で、過去に戻る気配をちらとでも見せることができる前にはやばやと消滅して しまうからなのだ。

 というわけで、これが一つの不可逆性の源流である。」 (イーヴァル・エクランド(1944-)『可能な中で最善な世界』(日本語名『数学は最善世界 の夢を見るか?』)第6章 パンドラの箱、pp.187,190-191、みすず書房(2009)、南條郁 子(訳))






数学は最善世界の夢を見るか? 最小作用の原理から最適化理論へ [ イーヴァル・エクランド ]






古典力学の第2不確定性原理:n粒子系において情報は他粒子に移せない。他の粒子の不確定度を増やすことで、ある粒子の不確定度を減らすことには限界値がある。(限界値は、n粒子系の最初の不確定性領域に応じて決まる。)(ミハイル・グロモフ(1943-))

古典力学の第2不確定性原理

:n粒子系において情報は他粒子に移せない。他の粒子の不確定度を増やすことで、ある粒子の不確定度を減らすことには限界値がある。(限界値は、n粒子系の最初の不確定性領域に応じて決まる。)(ミハイル・グロモフ(1943-))

「ではもう一歩進んで、一個ではなく何個かの球が同じビリヤード台で動いているようすを 想像しよう。今、N個の球がにぎやかに動きまわっているとする。この場合は、もはやどの球 もクッション上で衝突してからつぎに衝突するまで直線にそって動くとはいえない。また、そ れぞれの球の速さが動きだしてからずっと一定であるともいえない。球は台の上で他の球と衝 突するかもしれず、衝突すれば、互いに異なる方向に異なる速さで遠ざかるだろう。衝突後の 速度(方向と速さ)は、クッションに当たって跳ね返るときと同じように完全に決まるので、 N個の球の軌道全体は最初の位置と速度によって完全に決定される。 これらの球の初期位置と初速度を完全に正確に知ることはできない。それぞれの球につい て、測定値のまわりにいくらかの不確定性領域があるからだ。この領域の面積を先のように最 初の「不確定度」と呼ぼう。k個目の球の最初の不確定度をukと書くと、各 ukは球が一個のときの同じように解釈される。つまりukの値が 小さいほど、最初の位置と速度は高い精度で測定されたことを意味する。 第一不確定性原理は一つ一つのukにではなく、それらの和 u1 +u2+......uNに適用される。この和をUと書き、「全不確定度」と 呼ぼう。詳しくいうと、これは初期時刻t=0(運動の開始時)のおける全不確定度のことだ が、第一原理によればこの量はその初期値に固定されているので、未来の任意の時刻tにおい て全不確定度はつねに最初の値Uに等しくなっている。 運動がこれだけ複雑になってもUの値が一定であり続けるとは、これまた凄いことである (たくさんの球が互いにぶつかり合いながら台の上を動きまわっているようすを思い浮かべて ほしい)。だがここでかすかな希望が頭をもたげる。なるほどUは一定でなければならない が、個々のukは違う。それらの値は変動しうる。いや、実際に変動している。 いいかえれば、それらは互いに補い合わなければならない。つまり一つが減れば他のどれかが 増えなければならない。そこで今、わたしたちの関心がすべての球のうちの一個だけ、たとえ ば一番目の黒い球だけに集中していて、残りの白い球はどうでもよいとしよう。このとき、黒 い球の不確定度u1を減らして他の白い球の不確定度を増やすようなビリヤード 台を作ることはできないだろうか。それができればu1が減っても u2、u3、......、uNが増えるから、全不確定度 u1+u2+......uNは初期値Uのままに固定される。白 い球に関してわかることははじめより少なくなるが、そんなことはどうでもいい、だってわた したちは(たとえばその球をポケットに入れなければならないという理由で)黒い球にしか関 心がないのだから。 これは第一原理を回避するためにやってみたくなる方法である。白い球の情報を黒い球に移 すのだ。しかし、残念ながらこれはできない。それがグロモフの発見した第二不確定性原理の 本質的内容である。 古典力学の第二不確定性原理――情報は移せない。N個の球について最初の不確定性領域があ たえられたとき、黒い球の不確定性領域を閉じこめるような円の半径はある長さrより小さく できない。 いくつかのコメントをしておこう。まず、この命題に出てくるrという数は、N個の球の最初 の不確定性領域に《応じて》決まるということだ。」 (イーヴァル・エクランド(1944-)『可能な中で最善な世界』(日本語名『数学は最善世界 の夢を見るか?』)第5章 ポアンカレとその向こう、pp.175-177、みすず書房(2009)、南 條郁子(訳))







数学は最善世界の夢を見るか? 最小作用の原理から最適化理論へ [ イーヴァル・エクランド ]





古典力学の第1不確定性原理:情報は創出されない。不確定度を減らすことができるのは測定だけであり、計算では減らせない。(1粒子の古典力学系で、初期条件の不確定度を位相空間内の体積で表すと、時間が経過しても不確定度は変わらない。)(ミハイル・グロモフ(1943-))

古典力学の第1不確定性原理

情報は創出されない。不確定度を減らすことができるのは測定だけであり、計算では減らせない。(1粒子の古典力学系で、初期条件の不確定度を位相空間内の体積で表すと、時間が経過しても不確定度は変わらない。)(ミハイル・グロモフ(1943-))


「ポアンカレの時代、これらの困難は乗り越えられなかった。それから約一世紀を経た今 日、必要な数学の道具が発達したおかげで、停留作用の原理は非常に一般的な系に適用できる ようになった。その一方で、思いがけない結果にも遭遇した。その中で最たるものは、一九八 〇年にミハイル・グロモフが発見した古典力学の不確定性原理である。量子物理におけるハイ ゼンベルクの不確定性原理はよく知られているが、それに類した原理が古典物理でも成り立っ ているなど誰が思ってみただろう。これが専門家の小さなサークルの外でも知られるように なったのはごく最近のことにすぎないが、ひとたび科学者の間に広まれば、かつての量子版不 確定性原理と同じくらい注意を引くことは間違いないとわたしは思っている。ともかくこれは 現代幾何学と停留作用の原理のサクセス・ストーリーなので、ぜひここで紹介しておきたい。  定理はビリヤードを用いて述べることにしよう。凸型のビリヤード台の縁にそってクッショ ンが張ってあり、それに当たって跳ね返る一個の球の運動を考える。このとき、どの軌道もx とyのペアで完全に特定できることは前に見たとおりだ。ここではxはクッション上の衝突点の 位置、yはそのときの入射角である。最初の衝突( x1,y1)に よって(x2,y2)が決まり、それによって (x3,y3) が決まり......とつぎつぎに衝突が決まっていくので、一 つの軌道を360×90の長方形内の無限点列としてあらわすことができる。これは第4章で、軌道 の二つ目の幾何学的表示と呼んだものである。

 しかしここでは新しい考え方を導入する。まず、最初のx1と y1をかぎりなく正確に測定するのは、現実にはできないそうだかであることを 認めよう。どんなに精密に測っても測定器具に起因する精度限界があり、それより詳しくは測 れないからだ。そこで、最初の衝突点の真の位置xと真の入射角度yは、わたしたちが測定した x1とy1そのものではなく、x1とy1 を含むある区間の中にあると考えられる。今、xとyのペア(x,y)を360×90の長方形の点で あらわせば、最初の衝突の真の値(x,y)は、(x1,y1)を中心 とする長さΔx1,幅Δy1の小さな長方形の中にある。この小さな長 方形を、測定値(x1,y1)のまわりの「不確定性領域」と呼ぼ う。不確定性領域が小さければ小さいほど、わたしたちの測定は正確だったということにな る。この正確さを測るために、不確定性領域の面積Δx1Δy1を もってくるのは自然な考えだ。この数を測定値(x1,y1)の「不 確定度」と呼ぶことにしよう。 最初の衝突を測ったら、あとはもう測定しない。その後の軌道は計算だけで求めていく。こ の計算はかぎりなく正確におこなわれると仮定しよう。前に見たように、これは実際には不可 能だ。コンピュータは無限桁の小数はあつかえないので、どこかで切って端数を処理しなけれ ばならない。けれどもここでは思考実験をおこない、たとえば神さまがご自分のコンピュータ をわたしたちのために貸してくれたと想像しよう。そのコンピュータを使えば、毎回かぎりな く正確な値が計算できるとする。その場合、誤差の原因は最初の測定にしかありえない。この 初期誤差をわたしたちはそれ以降のすべての計算に引きずっていかなければならないのであ る。」(中略)「(x2,y2)を含む不確定性領域の形は長方形で はなくなったが、その面積をやはりΔx2Δy2と書き、これを (x2,y2)の不確定度を呼ぶことにしよう(ただし x2やy2はそれ自体では何もあらわしていないことに注意してお く)。するとリウヴィルの発見は、Δx1Δy1= Δx2Δy2という簡単な等式であらわされる。この数式は、不確定 度が最初の衝突から二回目の衝突に《そのまま》持ち越されることを意味している。初期情報 より精度が高まることもなければ、精度が落ちることもない(わたしたちが神さまのコン ピュータを使っていることをお忘れなく。このため、小数点のあと無限に続く数をどこかで切 る必要はない)。この不確定度は三回目、四回目、さらにそれ以降の衝突にもそのまま持ち越 され、どのnに対しても関係式Δx1Δy1= ΔxnΔynが成り立つ。不確定度は球が運動している間ずっと変わ らない。変わるとすれば、それは当然よりよい機器を用いて新たに測定をおこない、 ΔxnΔynの値を減らしたときだけである。このことを、やや大ま かないい方になるが、つぎのように表現しよう。 古典力学の第一不確定性原理――情報は創出されない。不確定度を減らすことができるのは測 定だけであり、計算では減らせない。」 (イーヴァル・エクランド(1944-)『可能な中で最善な世界』(日本語名『数学は最善世界 の夢を見るか?』)第5章 ポアンカレとその向こう、pp.171-173、みすず書房(2009)、南 條郁子(訳))

数学は最善世界の夢を見るか? 最小作用の原理から最適化理論へ [ イーヴァル・エクランド ]






予測可能性と安定性は積分可能系だけが持っている性質である。古典力学において、一般に非可積分系では、どの出来事も他のすべての出来事の原因である。(イーヴァル・エクランド(1944-))

予測可能性

予測可能性と安定性は積分可能系だけが持っている性質である。古典力学において、一般に非可積分系では、どの出来事も他のすべての出来事の原因である。(イーヴァル・エクランド(1944-))

  「今述べた予測可能性と安定性は、のちに見るように、どちらも積分可能系だけがもってい る性質である。しかし古典力学があまりにも長い間可積分系ばかりあつかってきたせいで、わ たしたちの頭には因果関係についての誤った考えがこびりついてしまった。一般に、非可積分 系が教えてくれる数学的真実とは、どの出来事も他のすべての出来事の原因であるということ だ。すなわち、明日何が起こるかを予測するには、今日起こっていることを《すべて》勘定に 入れなければならない。「因果列」――各々の出来事が次の出来事の(唯一)の原因になってい るようなひと繋がりの出来事の鎖――は、きわめて特殊な場合にしか存在しない。可積分系はま さにそのような特殊な場合に当たり、明確な因果列が存在する。ところがこの可積分系ばかり を長いこと相手にしてきたために、わたしたちはこの世界を、互いにほとんど干渉しあわない ばらばらの因果列が束ねられているだけのものとして見るようになってしまった。たとえばわ たしが通りを歩いているとする。自分のことで頭がいっぱいで、屋根の上を風が吹いているこ となど気にもかけていない。どうしてそんなことを気にする必要があろう。風は別の因果列に 属しており、わたしの因果列とは関係なく、別のルールに従って変化していく。それに風のほ かにも同時進行しているものはたくさんある。それらをいちいち追いかける必要などありはし ない。その上わたしは世界が予測可能で安定していると思っている。わたしはきっと待ち合わ せの場所に着くだろう。今、五分遅れているから、到着も五分くらい送れるだろう。  だがこの見込みは不測の出来事によって打ち砕かれるかもしれないのだ。風で屋根瓦が一枚 吹き飛ばされ、わたしの頭に当たれば、未来の約束は帳消しになる。互いに無関係 (independent,数学では「互いに独立」と表現される)に見えた二つの因果列はじつは無関 係ではなかった。この悲しい出来事がその結末だ。もしかしたら原因は一つではなく、二つ あったといわれるかもしれない(わたしが待ち合わせの場所に急いでいたことと、突然の強 風)。十九世紀哲学の主流を占めていた古典的な分析によれば、これは予測可能性と安定性に 満ちた世界の中で唯一「偶然」に残された場所だった。二つの無関係な因果列は互いに交叉す ることがある。そして交叉点で起こった出来事はどちらか一方の因果列だけからでは予測でき ない。そこで偶然のせいにされるというわけだ。」 (イーヴァル・エクランド(1944-)『可能な中で最善な世界』(日本語名『数学は最善世界 の夢を見るか?』)第4章 計算から幾何へ、pp.135-136、みすず書房(2009)、南條郁子 (訳))




数学は最善世界の夢を見るか? 最小作用の原理から最適化理論へ [ イーヴァル・エクランド ]




痕跡とは何か。その一つは、何かが動くのをやめ、エネルギーが熱に劣化する不可逆的な過程に伴うものだ。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

痕跡とは何か

痕跡とは何か。その一つは、何かが動くのをやめ、エネルギーが熱に劣化する不可逆的な過程に伴うものだ。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

「過去にエントロピーが低かったという事実から、ある重大な事実が導かれる。過去と未来 の違いにとってきわめて重要で、至るところにある事実――それは、過去が現在のなかに痕跡を 残すということだ。  痕跡は、どこにでもある。月のクレーターは、過去の衝突を物語っている。化石は、はるか 昔に生きていた生物の形を教えてくれる。望遠鏡は、遠く離れた銀河がかつてどのようであっ たかを見せてくれる。書籍はわたしたちの過去の歴史を語り、わたしたちの脳には、記憶が ぎっしり詰まっている。  過去の痕跡があるのに未来の痕跡が存在しないのは、ひとえに過去のエントロピーが低かっ たからだ。ほかに理由はない。なぜなら過去と未来の差を生み出すものは、かつてエントロピーが低かったという事実以外にないからだ。  痕跡に残すには、何かが止まる、つまり動くのをやめる必要がある。ところがこれは非可逆 的な過程で、エネルギーが熱へと劣化するときに限って起きる。こうしてコンピュータは熱を 持ち、頭は熱を持ち、月に落ちた隕石は月を熱し、ベネディクト修道院の中世初期の羽根ペン までが、文字が書かれるページを少しだけ温める。熱が存在しない世界では、すべてがしなや かに弾み、なんの痕跡も残らない。  過去の痕跡が豊富だからこそ、「過去は定まっている」というお馴染みの感覚が生じる。未 来に関しては、そのような痕跡がいっさいないので、「未来は定まっていない」と感じる。痕 跡が存在するおかげで、わたしたちの脳は過去の出来事の広範な地図を作り出すことができ る。だが、未来の出来事の地図は作れない。この事実から、自分たちはこの世界で自由に動け る、たとえ過去には働きかけられなくても、さまざまな未来のどれかを選ぶことができる、と いう印象が生まれる。」

(カルロ・ロヴェッリ(1956-),『時間の順序』,日本語書籍名『時間は存在しない』,第3部 時間の源へ,第11章 対称性から生じるもの,pp.163-164,NHK出版(2019),冨永星(訳)) 








時間は存在しない [ カルロ・ロヴェッリ ]




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