2021年12月19日日曜日

生命の起源とは問題の起源である。問題の発現を、物理学的に説明できるだろうか。生命とは、問題を解決しつつある物理的構造体である。問題は、その存在が生物学的諸効果を生みだす原因となりうるという意味において実 在的であるが、それは何なのか。(カール・ポパー(1902-1994))

生命の起源、生命の進化

生命の起源とは問題の起源である。問題の発現を、物理学的に説明できるだろうか。生命とは、問題を解決しつつある物理的構造体である。問題は、その存在が生物学的諸効果を生みだす原因となりうるという意味において実 在的であるが、それは何なのか。(カール・ポパー(1902-1994))


 (a)物理的過程との相関、累進的な単称的分析
 物理学的過程と細微にわたって相関しているとみなせないような、あるいは物理化学的 見地から累進的に分析できないような生物学的過程は存在しない。
(b)問題(あるいは情報)は実在的なものである
 生物体のもろもろの問題は、物理学的なものではない。それらの問題は物的事物でもなけれ ば物理的法則でもなく、物理的事実でもない。それらの問題は特殊な生物学的実在である。こ れらの問題は、その存在が生物学的諸効果を生みだす原因となりうるという意味において「実 在的」である。
(c)生命の起源
 生命の起源とは、問題の起源である。問題の発現を、物理学的に説明できるだろうか、これが問題である。
(d)自己増殖、適応、変異
 増殖できると仮定してみよう。しかしそれでもなお、これら の物体は、もし適応ができないとすれば「生き」てはいないであろう。これを達成するためには、それらの物体は増殖に加えて正真正銘の変異性を必要と する。
(e)問題解決方法も、問題であった
 生命とは、問題を解決しつつある物理的構造体である。問題を解決するすべを、様々な種は自然淘汰によって、つまり増殖と変異の方法によって「学ん」だ。そしてこの方法そのものも、同じ方法によって学びとられたも のである。

「生命の起源と《問題》の起源とは一致していると私は推測する。これは、生物学を化学 に、さらには物理学に還元しうるようになると期待できるかどうかという問題と無縁でない。 われわれがいつの日か無生物から生物を作り出せるであろうことは、単にありうるばかりでな く確からしいと私は考える。無生物から生物を作り出すことは、いうまでもなく(還元主義者 の見地からのみならず)それ自体としてきわめて興味をそそるものだが、それは生物学が物理 学または化学に「還元」できるということを《確定》しはしないであろう。なぜならば、それ は――物理的手段によって化学的化合物を作り出すわれわれの能力が、化学的結合の物理学的理 論を確立したり、あるいはそのような理論が存在するということさえ立証しないのと同様に―― 問題の発現の物理学的説明を確立しないだろうからである。  したがって、私の立場は《還元不可能性と創発》の理論を支持する立場だといえよう。そし てこの立場は次のような仕方でおそらく最もよく要約できるであろう。  (1)物理学的過程と細微にわたって相関しているとみなせないような、あるいは物理化学的 見地から累進的に分析できないような生物学的過程は存在しない、と私は推測する。しかし、 いかなる物理化学的理論も新しい問題の発現を説明できないし、またいかなる物理化学的過程 もそれ自体では《問題》を解決できない。(最小作用の原理とかフェルマの原理といった物理 学における変分原理は、おそらくこれに類したものであろうが、しかしそれらは問題への解決 にならない。アインシュタインの有神論的方法は、同じような目的のために神を用いようとす る。)  (2)もしこの推測が支持できるとすれば、この推測は多くの区別に進んでいく。われわれは 次のものを互いに区別しなければならない。
 物理学的問題=物理学者の問題
 生物学的問題=生物学者の問題  
生物体の問題=どのようにして生き残るか、どのようにして子孫を殖やすか、どのように変 化するか、どのように適応するか、といった問題  
人間の作った問題=どのようにして浪費を抑制するか、といった問題  
これらの区別から次のテーゼがもたらされる。  
《生物体のもろもろの問題は物理学的なものではない。それらの問題は物的事物でもなけれ ば物理的法則でもなく、物理的事実でもない。それらの問題は特殊な生物学的実在である。こ れらの問題は、その存在が生物学的諸効果を生みだす原因となりうるという意味において「実 在的」である》。
  (3)ある物体が自己増殖の問題を「解決」したと、つまり、それらの物体がみずからをまっ たく同じようにか、さもなければ結晶のように化学的に(あるいは機能的にさえ)《非本質 的》なわずかの欠損しかなくて、増殖できると仮定してみよう。しかしそれでもなお、これら の物体は、もし適応ができないとすれば、(十分な意味においては)「生き」てはいないであろう。これを達成するためには、それらの物体は増殖《に加えて》正真正銘の変異性を必要と する。  (4)事柄の「本質」は《問題解決》であると私はいいたい。(しかしわれわれは「本質」に ついて云々すべきでない。この言葉は、ここでは本気で使われていない。)われわれが知って いるような生命は、問題を解決しつつある物理的「物体」(より正確にいうと構造)から成り 立っている。問題を解決するすべを、さまざまな種は自然淘汰によって、つまり増殖プラス変 異の方法によって「学ん」だ。そしてこの方法そのものは、同じ方法によって学びとられたも のである。この遡及は必ずしも無限後退ではない――実際、それはかなりはっきりしたある発現 時にたどりつける。」

(カール・ポパー(1902-1994),『果てしなき探求』,37 形而上学としてのダーウィン主義, (下),pp.147-149,岩波書店(1995),森博(訳))

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カール・ポパー(1902-1994)





2021年12月18日土曜日

生物の好みまたは目的構造、技能構造、解剖学的構造の相互的強化の階層的システムは、ほとんどの場合、好みまたは目的構造における制御がより低次の諸制御をば全階層をつうじて大幅に左右するように働くのではないか。(カール・ポパー(1902-1994))

好みまたは目的構造

生物の好みまたは目的構造、技能構造、解剖学的構造の相互的強化の階層的システムは、ほとんどの場合、好みまたは目的構造における制御がより低次の諸制御をば全階層をつうじて大幅に左右するように働くのではないか。(カール・ポパー(1902-1994))



「これらのことは相互的強化の一般的原理に導いていく。一方には、好みまたは目的構造の 技能構造に及ぼす、さらには解剖学的構造に及ぼす、第一次的な階層的制御がある。しかし他 方ではまた、これら諸構造のあいだに第二次的な相互作用またはフィードバックがある。この 相互強化の階層的システムは、ほとんどの場合、好みまたは目的構造における制御がより低次 の諸制御をば全階層をつうじて大幅に左右するように働く、と私はいいたい。  諸実例はこれらの考えのいずれをも例証するである。「好み構造」または「目的構造」と私 が呼ぶものに生じる遺伝的諸変化(突然変異)を、「技能構造」における諸変化および「解剖 学的構造」における諸変化と区別するならば、目的構造と解剖学的構造とのあいだの相互作用 に関しては次のような可能性があるであろう。  (a)目的構造の突然変異が解剖学的構造に及ぼす作用。キツツキの場合のように、好みに変 化が生じても、食物獲得に関連した解剖学的構造は変化しないままのことがありうる。このよ うな場合には、種は(変則的な特別の技能を用いないかぎり)自然淘汰によって排除される公 算が大きい。さもなければ、種は眼のような器官に類似した新しい解剖学的特殊化を発展させて適応するかもしれない。つまり、種における見ることへの強い関心(目的構造)が、眼の解 剖学的構造の改善に好都合な突然変異の選択に導きうるであろう。  (b)解剖学的構造の突然変異が目的構造に及ぼす作用。食物獲得に重要な関連のある身体組 織が変化するとき、食物に関する目的構造は自然淘汰によって固定化または硬化されていくお それがあり、これが立ち代わりさらなる解剖学的特殊化に導きうる。それは眼の場合に似てお り、身体組織の改善に好都合な突然変異は見ることへの関心の鋭敏さを増大させるであろう (これは逆効果に似ている)。」
(カール・ポパー(1902-1994),『果てしなき探求』,37 形而上学としてのダーウィン主義, (下),pp.143-144,岩波書店(1995),森博(訳))

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カール・ポパー(1902-1994)





生体構造だけでなく、好みや技能などの行動も、何らかの遺伝子によって制御されていると仮定すると、外的環境の変化に応じて、まず非遺伝的に新しい行動が獲得され、好みや技能を通じて特定の遺伝子を助長するという仕組みで、進化の一定の傾向が説明できるかもしれない。(カール・ポパー(1902-1994))

進化に傾向はあるのか

生体構造だけでなく、好みや技能などの行動も、何らかの遺伝子によって制御されていると仮定すると、外的環境の変化に応じて、まず非遺伝的に新しい行動が獲得され、好みや技能を通じて特定の遺伝子を助長するという仕組みで、進化の一定の傾向が説明できるかもしれない。(カール・ポパー(1902-1994))


「ここに重要な問いが生じる。ランダム歩行が進化の系譜において際立っているようにはみ えないのはどうしてなのか。この問いは、もしダーウィン主義が「定向進化的趨勢」(としば しば呼ばれるもの)、つまり同じ「方向」への進化的諸変化が相継いで生じること(非ランダ ム的歩行)を説明できれば、答えられるであろう。シュレーディンガーやウォディントン、特 にアリスター・ハーディ卿などのさまざまな思想家が定向進化的趨勢のダーウィン主義的説明 をしようと試みた。私もスペンサー公演でそのような試みをした。  定向進化を説明するかもしれぬダーウィン主義豊富化のための私の提言は、簡単にいうと次 のようなものである。  (A)私は外的または環境的淘汰圧を内的淘汰圧から区別する。内的淘汰圧は生物体そのもの からくるものであり、また――私の推測によれば――究極的には生物体の《好み》(または「目 的」)から生じる。もちろん、これらの好みや目的は外的諸変化に応じて変化しうるものであ るけれども。  (B)さまざまな部類の遺伝子があると私は想定する。主として《生体構造》制御するもの、 これを私はa遺伝子と呼ぶ。主として《行動》を制御するもの、これを私はb遺伝子と呼ぶ。 (混合的機能をもったものをも含めて)中間的な諸遺伝子は(存在すると思われるけれど も)、ここでは考慮外におく。b遺伝子は同様に(好みまたは「目的」を制御する)p遺伝子と (技能を制御する)s遺伝子とに細分できよう。  さらに、ある生物体は、外的淘汰圧を受けて、当の生物体にある程度の変異性を許す諸遺伝 子、特にb遺伝子を発達させた、と私は想定する。行動面での変異の《範囲》は、遺伝子bの構 造によってある程度まで制御されるであろう。しかし、外的事態はさまざまに変わるので、b 構造による行動の決定づけがあまり厳格でない方が、遺伝(つまり遺伝子変異性の範囲)の遺 伝子的決定づけがあまりにも厳格でない場合と同じように、うまくいくことがある。(先の (2)(d)を参照。)こうしてわれわれは、遺伝的に決定づけられた範囲またはレパートリー内 での非遺伝的な変化を意味する、行動の「純粋に行動的な」変化、または行動の変異について 語ることができ、これらのものを遺伝的に固定もしくは決定された行動的変化と対置できよ う。  こうして今やわれわれは、ある環境的な変化はさまざまな新しい問題とそれに続く(たとえ ばある種類の食物がなくなってしまったので)新しい好みまたは目的の採用とに導きうる、と いえる。新しい好みまたは目的は、最初は(b遺伝子によって可能にされた、しかし固定され ていない)新しい暫定的な行動というかたちをとってあらわれるかもしれない。このようにし て動物は遺伝的変化がなくても新しい状況に暫定的に適応しうる。しかし、この《純粋に行動 的》で暫定的な変化は、うまくいった場合には、新しい生態的地位の採用または発見に等しい であろう。したがってその変化は、好みの新しい行動パターンを多かれ少なかれ予知したり定 着させる《遺伝的》p構造(つまり本能的な好みまたは「目的」)をもった個体を助長するであろう。この前進は決定的であることがわかろう。それというのも、今では新しい好みに合致す るような技能構造(s構造)の変化――たとえば、好まれるようになった食物を獲得する技能―― が助長されるだろうからである。  こうして、《s構造が変化したあとではじめて構造におけるある種の変化――つまり新しい技 能に好都合な解剖学的構造における変化――が助長されるようになる》、と私は提言する。これ らの場合における内的淘汰圧は「方向づけ」られており、それゆえ一種の定向進化に導くであ ろう。  この内的淘汰機構についての私の提言は、次のように図式的に書きあらわすことができる。  p─→s─→a つまり、好みの構造とその変異が技能構造とその変異の選択を制御する。そして後者が立ち代 わり純粋に解剖学的な構造とその変異の選択を制御する。  しかしながら、この連続的系列は循環的でありうる。新しい身体構造が立ち代わり好みの変 化を促進させる、といったぐあいに進むことがありうる。」
(カール・ポパー(1902-1994),『果てしなき探求』,37 形而上学としてのダーウィン主義, (下),pp.138-141,岩波書店(1995),森博(訳))

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カール・ポパー(1902-1994)





2021年12月17日金曜日

政治的行為の究 極的目的を科学的に、あるいは純粋に合理的な方法によって決定することはできないので、理 想の状態とはどのようなものであるべきかに関する意見のさまざまな相違は、議論の方法によっては必ずしも常に取り除けない。(カール・ポパー(1902-1994))

ユートピア主義の批判

政治的行為の究 極的目的を科学的に、あるいは純粋に合理的な方法によって決定することはできないので、理 想の状態とはどのようなものであるべきかに関する意見のさまざまな相違は、議論の方法によっては必ずしも常に取り除けない。(カール・ポパー(1902-1994))



「社会のある理想状態をわれわれの一切の政治的行為が貢献すべき目的として選ぶユートピ ア的方法は暴力を生み出しやすい、ということは次のようにして論証できる。政治的行為の究 極的目的を科学的に、あるいは純粋に合理的な方法によって決定することはできないので、理 想の状態とはどのようなものであるべきかに関する意見のさまざまな相違は、議論の方法に よっては必ずしも常に取り除けない。理想状態についてのこのような意見の相違は、少なくも 部分的には、宗教的意見の相違の性格をもつであろう。そして、これらの相異なったユートピ ア的諸宗教のあいだには、いかなる寛容もありえないのだ。ユートピア的目的は合理的な政治 的行為と議論の基礎としての役を果たすものと目論まれており、したがってこの目的がはっき りと定まっている場合にのみ、はじめてそのような行為は可能となるであろう。それゆえユー トピア主義者は、自分と同じユートピア目的を共有せぬ、また自分と同じユートピア宗教を信 仰しない、競争相手の他のユートピア主義者たちを、説得して自分の側につけるか、さもなけ れば粉砕してしまうかのいずれかをしなければならなくなる。  しかし、ユートピア主義者はもっとそれ以上のことをせざるをえない。かれは競合するすべ ての異端的見解の排除と駆遂とをきわめて徹底的におこなわざるをえない。なぜなら、ユート ピア的目標への道は長く、したがってかれの政治的行為が合理的であるためには、これからさ き長期間にわたって目的を不変に保つ必要があり、これをなしとげうるのは、競合している ユートピア的諸宗教を粉砕するにとどまらず、そのような諸宗教の一切の記憶をできるかぎり 駆遂してしまう場合だけだからである。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第18章 ユートピアと暴力,pp.662-664,法 政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))






カール・ポパー(1902-1994)





我々は必ず間違えることがあり、また知識の大部分が他の人々に負っているという事実を忘れてはならない。たとえ穏やかな説得であっても、自分の知っている知識や信念や実例を、もし絶対的に確信しているならば、恐らく暴力を生み出すであろう。宗教戦争と魔女狩りの歴史を思い出せ。(カール・ポパー(1902-1994))

我々は必ず間違える

我々は必ず間違えることがあり、また知識の大部分が他の人々に負っているという事実を忘れてはならない。たとえ穏やかな説得であっても、自分の知っている知識や信念や実例を、もし絶対的に確信しているならば、恐らく暴力を生み出すであろう。宗教戦争と魔女狩りの歴史を思い出せ。(カール・ポパー(1902-1994))



「わたくしが合理的態度あるいは合理主義的態度と呼ぶものが、ある程度の知的謙譲を前提 にしていることがわかるであろう。自分は時として考え違いをするものだということに気づい ている人びと、自分の誤りをいつもきまって忘れてしまうということのない人たちだけが、お そらくこの態度をとることができよう。この態度は、われわれが全知でなく、われわれの知識の大部分が他の人びとのおかげをこうむっている、という自覚から生まれる。それは、あらゆ る訴訟手続の二つの規則――第一に、常に双方の言い分を聞くべきであるという規則、第二に、 訴訟の当事者には適正な判断が下せないという規則――を、意見を闘わせる分野全般にまで、で きるかぎり移して適用しようとする態度である。  社会生活において互いに相手と対処しあうとき、この合理的態度を実際に行動に移す場合に のみ、はじめて暴力を避けることができる、とわたくしは信じている。これ以外の態度はすべ て――たとえ穏やかな説得でもって他人に対処し、自分が所有を誇るすぐれた洞察力にもとづく 議論や実例によって、また自分がその真理性を絶対的に確信している議論や実例で相手を納得 させようとする一方的な試みでさえ――おそらく暴力を生み出すであろう。いかに多くの宗教戦 争が愛と優しさを説く宗教のために闘われたかを、われわれの誰もが覚えている。また、永劫 の地獄の業火から人びとの魂を救おうとする正真正銘の親切心から、いかに多くの人間が生き ながら火あぶりにされたかを、われわれはよく覚えている。意見の領域でわれわれが権威主義 的な態度を放棄する場合にのみ、そして、互酬の態度、つまり進んで他人から学ぼうとする態 度を確立する場合にのみ、はじめてわれわれは信心と義務感によって喚起されるもろもろの暴 力行為を抑制することが期待できる。  合理的態度の急速な普及を妨げている多くの障害がある。その主要な障害の一つは、討論を 合理的にするのは常に二人がかりでのことである、という点である。当事者のそれぞれが、相 手から学ぼうとする用意ができていなければならないのである。相手から説得されてしまうよ りは相手を射殺してしまった方がましだ、と考えるような人間とは合理的な討論をすることは できない。いいかえると、合理的態度には限界がある。それは寛容の場合と同じである。不寛 容な者でもすべて寛容するという原理を、無条件に受け入れてはならない。もし受け入れるな らば、わが身を滅ぼすことになるばかりか、寛容の態度そのものをも滅ぼすことになろう。 (すべてこれらのことは、合理的態度は《互酬互譲》の態度でなければならない、というわた くしの先の指摘に示されている。)  右に述べたことからもたらされる一つの重要な帰結は、攻撃と防御との区別があいまいにさ れるのを許してはならない、ということである。われわれはその区別を強調しなければなら ず、また攻撃的侵略と侵略への抵抗とを識別するのを職務とするさまざまの(国内的および国 際的)社会制度を支持し発展させなければならない。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第18章 ユートピアと暴力,pp.656-657,法 政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))



カール・ポパー(1902-1994)





思想の自由および自由な討論は、目的そのものともいえる根本的な自由主義的価値だが、我々が真理に到達するためにも必要なものだ。真理は顕現しない。しかも手に入れるのは容易ではない。真理の探求には (a)自由な想像力と(b)試行錯誤(c)批判的討論を経由した偏見の漸次的発見が必要だからである。(カール・ポパー(1902-1994))

思想の自由と真理

思想の自由および自由な討論は、目的そのものともいえる根本的な自由主義的価値だが、我々が真理に到達するためにも必要なものだ。真理は顕現しない。しかも手に入れるのは容易ではない。真理の探求には (a)自由な想像力と(b)試行錯誤(c)批判的討論を経由した偏見の漸次的発見が必要だからである。(カール・ポパー(1902-1994))




(a)討論の効果、目的
 批判的合理的方法の価値は、 討論に参加した人たちが、討論することによってある程度まで自分たちの意見を変え、討論を終えて別れるときには前よりも賢明になっている、という事実にある。
(b)共通フレームの神話
 討論は共通の言語をもち共通の基本的前提を受け入れている人びとのあいだでしか可能でな い、としばしばいわれる。このような主張は誤っている。
(c)批判的合理主義の価値観
 必要なのはただ、 討論している相手から、かれが言おうとしていることを理解しようと心底から望むことを含め て、学びとろうとする心構えである。
(d)多様な経歴、立場、価値観
 この心構えが本当にあれば、討論の相手たちの経歴や立 場などの背景が異なっていればいるほど、討論はいっそう実り多いであろう。だから、討論の 価値は、競合しあう見解の多様性に主としてかかっている。

「思想の自由および自由な討論は、さらにこれ以上のいかなる正当化も実際に要しない根本 的な自由主義的価値である。それにもかかわらず、これらのものは真理の探求において演じる 役割の見地から実用主義的にも正当化できる。真理は顕現しない。しかも、手に入れるのは容 易ではない。真理の探求には、少なくとも、次のことどもが必要である。
 (a)想像力
 (b)試行錯誤 
 (c)(a)と(b)および批判的討論を経由してのわれわれの偏見の漸次的発見。  ギリシャ人に由来する西欧合理主義の伝統は、批判的議論の――もろもろの命題や理論を反駁 すべく試みることによって検査し試験する――伝統である。この批判的合理的方法は、証明の方 法、つまり真理を究極的に確定する方法と取り違えられてはならない。またそれは、常に合意 が得られることを保証する方法でもない。そうではなくて、この批判的合理的方法の価値は、 討論に参加した人たちが、討論することによってある程度まで自分たちの意見を変え、討論を終えて別れるときには前よりも賢明になっている、という事実にある。  討論は共通の言語をもち共通の基本的前提を受け入れている人びとのあいだでしか可能でな い、としばしばいわれる。このような主張は誤っているとわたくしは思う。必要なのはただ、 討論している相手から、かれが言おうとしていることを理解しようと心底から望むことを含め て、学びとろうとする心構えである。この心構えが本当にあれば、討論の相手たちの経歴や立 場などの背景が異なっていればいるほど、討論はいっそう実り多いであろう。だから、討論の 価値は、競合しあう見解の多様性に主としてかかっている。バベルの塔〔共通の言語〕がない とあらば、われわれはそれを工夫して作り出すべきである。自由主義者は意見の完全な一致を 望みはしない。かれが望むことはただ、もろもろの意見が互いに豊かになり、その結果として もろもろの考えが成長していくことである。誰にでも満足のいくように問題が解決される場合 でさえ、その問題を解決することにおいて、意見の分かれざるをえない多くの新しい問題が生 み出されるのである。これは、遺憾とされるべきことではない。  自由で合理的な討論は〔私事ではなく〕公の事柄であるけれども、世論は(どのようなもの であれ)このような討論から生み出されるのではない。世論は科学によって影響されることが ありうるし、また科学に判定を下すことがありうるけれども、世論は科学的討論の産物ではな い。  しかし、合理的な討論の伝統は、政治の分野に、討論による統治の伝統、およびそれと共に 異なった見解に耳を傾ける習慣、正義感の増大、そして妥協への気構え、を生み出す。  こうして、批判的討論の影響を受けて、また新しい問題の挑戦に応じて、変化し発展するも ろもろの伝統が、通常「世論」と呼ばれるものの多くにとってかわり、世論の果たすべきもの とみなされている諸機能を引き継ぐことを、われわれは期待するものである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第17章 世論と自由主義的原理,第4節 自由 な討論についての自由主義的理論,pp.648-649,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣 壽郎(訳),森博(訳))




カール・ポパー(1902-1994)





2021年12月16日木曜日

弁証法論者が主張する、進歩にとっての矛盾の重要性は事実である。しかし、発展を推進するのは、 観念のうちにある神秘的な力などではなく、ひとえに、矛盾を許さないという我々の決意、我々の決断で あって、それが矛盾を避け得るかもしれぬ新しい視点の探索へと我々を向かわせるからである。(カール・ポパー(1902-1994))

弁証法論理学の誤り

弁証法論者が主張する、進歩にとっての矛盾の重要性は事実である。しかし、発展を推進するのは、 観念のうちにある神秘的な力などではなく、ひとえに、矛盾を許さないという我々の決意、我々の決断で あって、それが矛盾を避け得るかもしれぬ新しい視点の探索へと我々を向かわせるからである。(カール・ポパー(1902-1994))


「弁証法論者たちは、矛盾は進歩にとって実り豊かであり、多産的であり、生産的であると いう。われわれも、これがある意味では真実であると認めた。だが、それが真実であるのは、 われわれが矛盾を許さず、矛盾を含む理論はすべてこれを変更すると――いいかえれば、矛盾を 決して容認しないと――決意する限りにおいてのみである。批判、つまり矛盾の指摘がわれわれ に理論を変更させ、それによって進歩を生じさせるのは、もっぱらわれわれのこの〔矛盾を容 認しないという〕決意に発するのである。  もしわれわれがこの態度を変え、矛盾をがまんする決心をすれば、矛盾はただちに一切の実 り豊かさを失ってしまう、ということはいくら強調しても強調したりない。矛盾はもはや知的 進歩を生み出さなくなるだろう。それというのも、われわれが矛盾をがまんする気になってし まっていれば、いくらわれわれの理論の矛盾を指摘されても、もはやわれわれを理論の変更に 向かわせることはできないからである。いいかえると、(矛盾を指摘することにある)批判 は、ことごとくすべて、その力を失ってしまうであろう。批判〔矛盾の指摘〕に対しては、 「なぜそれで悪いんだ」とか、あるいは、ひょっとすると、熱狂的に「そうだ、そうだ」とさ え、つまり指摘された矛盾を歓迎しさえする、返答がなされることになろう。  しかし、これは、われわれが矛盾をがまんする気になっていれば、批判ならびにそれととも にすべての知的進歩は終りにならざるをえない、ということを意味している。  したがって、われわれは弁証法論者にこう告げなければならぬ。君は両てんびんをかけることはできないのだ。実り豊かであるということで矛盾を重視するのであれば、君は矛盾を容認 してはならない。そうでなくて、君が矛盾を容認する気なら、そのときには矛盾は不毛であ り、合理的批判、議論、知的進歩はありえないであろう、と。  それゆえ、弁証法的発展を推進する唯一の「力」は、テーゼとアンチテーゼのあいだの矛盾 を容認しない、あるいは黙許しな、というわれわれの決意なのである。発展を推進するのは、 これら二つの観念のうちにある神秘的な力でなく、それらのあいだの神秘的な緊張関係でない ――発展を促進するのは、ひとえに、矛盾を許さないというわれわれの決意、われわれの決断で あって、それが矛盾を避けうるかもしれぬ新しい視点の探索へとわれわれを向かわせるのであ る。そして、この決意は完全に正当化できる。なぜなら、もし矛盾を容認すれば、いかなる種 類の科学的活動も断念しなければならなくなる、つまり、それは科学の全面的な崩壊を意味す るであろう、ということが簡単に論証できるからである。この点は、《もし二つの矛盾する言 明が認められるとなると、どんな言明でもすべて認めなければならなくなる》、なぜなら、一 組の矛盾する言明からはいかなる言明でも妥当に推論できるからである、ということを証明す ることによって明らかにできる。」

(カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第15章 弁証法とは何か,第1節 弁証法の解 明,pp.585-586,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))


カール・ポパー(1902-1994)





批判は例外なく何らかの矛盾を指摘することである。さもなければ、おそらくは端的にその理論を否定することである。批判がなければ、理論を変えるいかなる合理的動機もないであろう。(a)理論内部の矛盾、(b)受け入れている別の 理論との矛盾(c)理論とある種の事実のあいだの矛盾。(カール・ポパー(1902-1994))

批判的合理主義

批判は例外なく何らかの矛盾を指摘することである。さもなければ、おそらくは端的にその理論を否定することである。批判がなければ、理論を変えるいかなる合理的動機もないであろう。(a)理論内部の矛盾、(b)受け入れている別の 理論との矛盾(c)理論とある種の事実のあいだの矛盾。(カール・ポパー(1902-1994))


「最も重要な誤解と混乱は、矛盾についての弁証法論者たちの不正確な語り方から生じる。  かれらは、矛盾が思考の歴史において最大の重要性を――まさに批判と同じくらいの重要性を ――もつことを、正しく、洞察している。それというのも、批判は例外なく何らかの矛盾、つま り、批判される理論内部の矛盾か、その理論とわれわれが受け入れる何らかの理由をもつ別の 理論とのあいだの矛盾か、あるいはその理論とある種の事実――もっと正確にいうと、その理論 と事実についてのある言明――とのあいだの矛盾、を指摘することにあるからである。批判はそ のようなある矛盾を指摘することか、さもなければおそらくは端的にその理論を否定すること (つまり、批判はただ単にアンチテーゼの言明であることがありうる)以外には決してなにも なしえない。だが、批判は、きわめて重要な意味において、あらゆる知的発展の主要原動力で ある。矛盾がなければ、批判がなければ、理論を変えるいかなる合理的動機もないであろう。 そこには、いかなる知的進歩もないであろう。  こうして、もろもろの矛盾――とりわけ、いうまでもなく、ジンテーゼというかたちでの進歩 を「生み出す」ところのテーゼとアンチテーゼとのあいだの矛盾――がきわめて実り豊かなもの であり、実に思考の一切の進歩の原動力であることを正しく洞察したあげく、弁証法論者たち は――これから見るように、誤って――これらの実り多い矛盾を回避する必要はまったくないと結 論をくだす。さらにかれらは、矛盾は世界のいたるところに生じるのであるから避けることは できない、と主張しさえする。  このような主張は、伝統的論理学のいわゆる「矛盾律」(あるいは、もっと詳しくいえば 「矛盾排除律」)――二つの矛盾する言明は同時に真とは決してなりえない、あるいは、二つの 矛盾する言明の連言から成る言明は純論理的理由から常に偽として拒否されなければならない、という法則――に対する攻撃となる。矛盾の実り豊かさということを口実にして、弁証法論 者たちは、伝統的論理学のこの法則は棄て去られなければならないと主張する。このように矛 盾律を放棄することにより、結局のところ、弁証法が新しい論理学――弁証法論理学――になる、 とかれらは主張する。これまで私が単なる歴史的理論――思考の歴史的発展についての理論――と して紹介してきた弁証法は、このようにして、まったく別の理論になろうとした。つまり、弁 証法は論理学の理論であると同時に(これから見るように)世界の一般理論であろうとしたの である。  これらはとてつもなく巨大な要求であるが、しかしいささかの根拠もないものである。事 実、それは、不正確で不鮮明な語り方以上のなにものにももとづいていない。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第15章 弁証法とは何か,第1節 弁証法の解 明,pp.584-585,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))






カール・ポパー(1902-1994)





原始より人間には、不規則性や変化を恐れ、斉一性を求める傾向があり、自らの行為と他者の行為を、予測可能なものにしようとしてきた。伝統を創造し守ろうとする傾向もまた同じである。批判的合理主義は、この伝統の重要性を理解し、かつ寛容の伝統を基礎に自由な批判によってより良い伝統の創造を主張する。(カール・ポパー(1902-1994))

伝統主義と批判的合理主義

原始より人間には、不規則性や変化を恐れ、斉一性を求める傾向があり、自らの行為と他者の行為を、予測可能なものにしようとしてきた。伝統を創造し守ろうとする傾向もまた同じである。批判的合理主義は、この伝統の重要性を理解し、かつ寛容の伝統を基礎に自由な批判によってより良い伝統の創造を主張する。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)不規則性や変化への恐れ
 人間は、不規則性や変化を恐れ、逆に、斉一的になるものにしがみつく傾向があ る。

(b)予測可能な行為
 みずからの行為が合理的 であること、つまり他人から見て予測のつくものであることを、他の人々に保証してやり、他 の人々にも同じように行動してほしいと望んでいる。
(c)伝統を創造し守ろうとする傾向
 人間には、伝統を 創造する傾向があるばかりでなく、注意深くそれに従い、他の人々にもそうするよう強く要求 することによって、その、手にした伝統を再確認するという傾向もある。
(d)合理主義と伝統主義
 合理主義者の望みは、伝統主義者の不寛容さとタブー化の態度のかわりに、寛容の 伝統をおき、現存の伝統を批判的に 考察し、利害得失を比較考量し、しかも、その伝統が確立された伝統であるという事実がもつ 利点をも忘れないようにする態度を置くことである。
(e)社会的伝統の批判にも他の伝統が必要
 すべての社会批判やすべての社会的改良というものは、社 会的伝統の枠組に頼らざるをえない。また、この社会的伝統の批判がまた他の伝統に頼ら ざるをえない。

「われわれは、社会生活における伝統の機能を、簡単に検討してきた。そこで見出した事柄 は、次に、伝統がどのようにして生じ、どのようにして伝えられ、どのようにして固定されて いくか――これらはすべて人間の行為の意図されざる結果なのだが――という問いに答えるのに、 役立つであろう。人々は、なぜ、自然的環境の法則を学ぼうと(し、それを他の人々に、しば しば神話の形で、教えようと)するのか。それだけでなく、なぜ、社会的環境の伝統をも、学 ぼうとするのか。その理由を、われわれは今や理解できる。人間(とくに未開人や子供)に は、なぜ、自分の生活において斉一的であるものや、斉一的になるものにしがみつく傾向があ るのか。その理由をも、われわれは今や理解できる。人間は神話にしがみつくし、みずからの 行為の斉一性にしがみつきがちである。その理由は、第一に、不規則性や変化を恐れ、した がって、不規則性や変化を起こすことを恐れるからである。第二に、みずからの行為が合理的 であること、つまり他人から見て予測のつくものであることを、他の人々に保証してやり、他 の人々にも同じように行動してほしいと望んでいるからである。このように人間には、伝統を 創造する傾向があるばかりでなく、注意深くそれに従い、他の人々にもそうするよう強く要求 することによって、その、手にした伝統を再確認するという傾向もある。これが、伝統的タ ブーが生じる有様であり、それが伝えられていく有様である。  これは、すべての伝統主義に特徴的な、極度に情緒的な不寛容さというものを、つまり、合 理主義者がつねに正当にも抵抗し続けてきた不寛容さを、部分的に、説明している。しかし、 この傾向の故に伝統そのものに攻撃を加えるようになった合理主義者は誤っていたということ が、今やわれわれにははっきり分かる。われわれは、次のように言ってもよいかもしれない。 合理主義者が本当に望んでいたことは、伝統主義者の不寛容さのかわりに新しい伝統――寛容の 伝統――を置くこと、より一般的に言えば、タブー化の態度のかわりに、現存の伝統を批判的に 考察し、利害得失を比較考量し、しかも、その伝統が確立された伝統であるという事実がもつ 利点をも忘れないようにする態度を置くこと、である。というのは、現存の伝統をよりよい伝統 で(あるいは、よりよい伝統であるとわれわれが信じるもので)置き換えるためには、結果と して現存の伝統を拒絶することになるにしても、われわれはつねに次の事実を意識していなけ ればならないからである。つまり、すべての社会批判やすべての社会的改良というものが、社 会的伝統の枠組に頼らざるをえないということ、この社会的伝統の批判がまた他の伝統に頼ら ざるをえないということである。これはちょうど、科学におけるすべての進歩が、科学理論の 枠組みの中で進行せざるをえず、この科学理論の批判は他の科学理論の光のもとで行なわれ る、というのと同じである。  伝統についてここで述べたことの多くは、制度についても述べることができる。なぜなら ば、伝統と制度は、大部分の点において驚くほど似ているからである。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第4章 合理的な伝統論に向けて,pp.214- 216,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))


カール・ポパー
(1902-1994)








2021年12月15日水曜日

理論は、我々が作った思考の道具であることは、間違いない。しかしそれは、実在の一端を捉え得るし、新しい世界を発見し得る。理論は、観察や経験を説明するために作られるが、感覚経験を超えて、新しい世界を発見するに至る。(カール・ポパー(1902-1994))

理論は感覚経験を超える

理論は、我々が作った思考の道具であることは、間違いない。しかしそれは、実在の一端を捉え得るし、新しい世界を発見し得る。理論は、観察や経験を説明するために作られるが、感覚経験を超えて、新しい世界を発見するに至る。(カール・ポパー(1902-1994))


「理論は、われわれ自身がつくり出したもの、われわれ自身の観念である。理論は、われわ れに強いられたものではなくて、われわれ自身がつくった思考の道具である。こういったこと は観念論者が明晰に見てとってきた。しかし、これらのわれわれの理論には実在との衝突をお こしうるものがある。そしてそのような衝突がおこるとき、われわれはある実在が存在してい ることを知るのである。つまり、われわれの観念が誤りうるという事実をわれわれに思い出さ れる何物かの存在を知るのである。そしてこれは実在論者が正しいということの理由なのであ る。  したがってわたくしは、《科学が実在に関する発見をなしうる》という本質主義の見解に賛 成であるし、さらに、新しい世界の発見ということに関しては、われわれの知性の方がわれわ れの感覚経験に対して勝利をおさめるという本質主義の見解にさえも賛成なのである。しかし わたくしはパルメニデスが犯した誤り――この世界において、色彩にあふれ、変化し、個別的 で、不確定で、記述しがたいもの一切に実在性を否定するという誤り――におちいってはいない。  わたくしは、科学が実在に関する発見をなしうると信じているので、ガリレイと同じく道具 主義には反対の立場をとる。われわれの発見が推測的であることをわたくしは認める。しかし このことは地理上の探検にさえもあてはまるのである。コロンブスが自分で発見したものに関 して行なった推測は事実誤りであった。しかし推測がもつこういった要素によって、かれらの 発見したものの実在性が希薄になったり意義が少なくなったりするのではない。  われわれは科学的予測に二種類のものを区別することができる。これは重要な区別である が、道具主義はこの区別をつけることができない。これは科学的発見と関連した区別である。 わたくしが念頭においている区別というのは、一方では日月食や雷雨のような、《すでに知ら れている種類の出来事》の予測と、他方では(物理学者が「新効果」と呼ぶ)《新しい種類の 出来事》の予測、たとえば、無線の電波や零点エネルギーを発見させたり、以前には自然界に は見出されなかった元素を人工的に作り出させたりしたような予測、との間の区別である。  道具主義が第一の種類の予測しか説明できないということは、わたくしには明らかなことに 思われる。つまり、理論が予測のための道具ならば、他の道具の場合と同じように理論の目的 もあらかじめ決定されたものでなければならないと仮定せざるをえない。第二の種類の予測 は、それを発見と見なさないかぎり十分に理解することはできないのである。  さきに述べた例や他の大部分の発見の場合でも、理論が「観察による」発見の結果であるよ りもむしろ、発見が理論に導かれたものである、というのがわたくしの信念である。というの は、観察自体が理論に導かれることが多いからである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第3章 知識に関する三つの見解,第6節 第3 の見解――推測、真理、実在,pp.187-189,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎 (訳),森博(訳))
カール・ポパー
(1902-1994)









2021年12月14日火曜日

確実に知り得ることは実在的であるけれど も、それだけが実在的だと考えるのは誤りである。我々は全知ではない。科学的な仮説は推論に過ぎないが、実在の一端を捉え得るし、推論が偽の場合には、実在的な事態との衝突があらわになる。(カール・ポパー(1902-1994))

実在とは何か

確実に知り得ることは実在的であるけれど も、それだけが実在的だと考えるのは誤りである。我々は全知ではない。科学的な仮説は推論に過ぎないが、実在の一端を捉え得るし、推論が偽の場合には、実在的な事態との衝突があらわになる。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)より高次のより推測的なレヴェルのほうが、より推測的であるという事実にもかかわらず、より実在的である。
(b)あるいは、偽であることが明らかに なるかもしれない推測が記述する事態ではなくて、むしろ、真なる言明が記述する事態のみ を「実在的」と呼ぶべきではないだろうかという反論がある。
(c)しかし、推測であっても真であるかもしれ ず、したがって、実在的な事態を記述しているかもしれない。
(d)また、もしその推測が偽であるならば、それは、それを否定した真なる言明が記述する何らかの実在的な事態との衝突を起こす。

「「実在的(real)」とう語の一つの意味においては、これらのさまざまなレヴェルはすべ て同じように実在的であるけれども、より高次のより推測的なレヴェルのほうが――より推測的 であるという事実にもかかわらず――《より実在的な》レヴェルであると言ってもいいような、 別のもう一つの意味がこれに密接に関連している。理論によるとそのようなレヴェルのほうが より実在的(より安定的たらんとし、より永続的)であるというときの意味は、テーブルや樹 木や星のほうがその諸側面よりも実在的であるというときの意味と同じである。  しかし、理論のまさにこの推測的ないし仮説的な性格のゆえに、理論が記述する世界に実在 性を帰属させてはいけないのではないだろうか。(たとえばバークリーの「存在することは知 覚されることである」は狭量にすぎることがわかっているにしても)偽であることが明らかに なるかもしれない推測が記述する事態ではなくて、むしろ、《真なる言明が記述する事態のみ を「実在的」と呼ぶ》べきではないだろうか。こういった問いを提出することによって、道具 主義的見解の検討へ向かうことにしよう。道具主義的見解は、理論はたんなる道具であると主 張し、実在世界というような何らかのものが理論によって記述されるという見解を否定してい るのである。  わたくしは、事態を記述する言明が真であるとき、かつそのときにかぎり、その事態を「実 在的」と呼ぶべきであるとする見解(真理の古典的理論ないし対応説に含まれている見解)を 受けいれる。しかしここから、理論の不確実性すなわち理論の仮説的ないし推測的性格によっ て、実在的なものの記述という理論の暗黙の《主張》がともかくも減殺されてしまうという結 論をくだせば、それは重大な誤りであろう。なぜならば、いかなる言明であれ言明Sは、Sが真 であると主張する言明に等しいし、また、Sが推測であるということに関して、われわれは次 のことを忘れてはならないからである。まず第一に、推測であっても真である《かもしれ ず》、したがって、実在的な事態を記述している《かもしれない》ということ、第二に、もし その推測が偽であるならば、それは(それを否定した真なる言明が記述する)なんらかの実在 的な事態との衝突をおこすということである。さらに、われわれが〔実際に〕推測をテストし その反証に成功するならば、われわれは、ある実在的なもの――その推測との衝突を可能にした 何物か――の存在していたことがきわめて明瞭にわかるのである。  したがって反証は、われわれがいわば実在に触れた地点を示しているのである。そしてわれ われのもっとも新しい最良の理論というのはつねに、その分野で見出されたすべての反証〔事 例〕を、もっとも単純な仕方で――つまり(わたくしが『科学的発見の論理』31-46節で示した ように)もっともテスト可能な仕方で、という意味であるが――説明することによって統合しよ うと試みるものなのである。  明らかに、もしわれわれが理論のテストの仕方を知らないならば、理論によって記述される種類(あるいはレヴェル)のものがそもそも存在するのかと疑うことにもなろう。また、その 理論はテストできないと明確に知るようになれば、われわれの疑いは増大するだろう。われわ れはその理論がたんなる神話やおとぎ話ではないかと疑うかもしれない。《しかし、理論がテ スト可能ならば、それは、ある種の出来事が起こりえないということを含意し、したがって実 在について何らかのことを主張しているのである》。(この理由からわれわれは、理論が推測 的であるほど理論のテスト可能性の程度も高くなければならないと要求するのである。)した がっていずれにしても、テスト可能な推測は実在に関する推測であり、その不確実なあるいは 推測的な性格から導かれることは、その記述する実在に関するわれわれの知識が不確実あるい は推測的だということにすぎない。また、確実に知りうることのみが確実に実在的であるけれど も、確実に実在的であると知っていることのみが実在的だと考えるのは誤りである。われわれ は全知ではないし、われわれの誰も知らない多くのものが実在しているということは疑いはな い。したがって実に、(「存在することは知られることである」という形での)古いバーク リー的な誤りがいまなお道具主義の根底に横たわっているのである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第3章 知識に関する三つの見解,第6節 第3 の見解――推測、真理、実在,pp.185-187,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎 (訳),森博(訳)
カール・ポパー
(1902-1994)









科学的説明とは、未知のものを既知のものへ還元することであると言われることがあるが、若干の注意が必要だ。確かに、応用科学ではそうかもしれない。しかし、純粋科学にあっては、説明とは常に諸仮説を、もっと普遍性のレベルの高い別の仮説へ論理的に還元しようとする。(カール・ポパー(1902-1994))

未知なものと既知のもの

科学的説明とは、未知のものを既知のものへ還元することであると言われることがあるが、若干の注意が必要だ。確かに、応用科学ではそうかもしれない。しかし、純粋科学にあっては、説明とは常に諸仮説を、もっと普遍性のレベルの高い別の仮説へ論理的に還元しようとする。(カール・ポパー(1902-1994))



「《説明》そのものの問題。科学的説明とは未知のものを既知のものへ還元することであ る、としばしば言われてきた。もし純粋科学の意味であるなら、これほど真理から遠いものは ない。逆説に陥ることなく、科学的説明とは反対に既知のものを未知のものへ還元することで ある、と言うことができるのである。純粋科学を「与えられたもの」あるいは「既知」と考え る応用科学に反し、純粋科学にあっては、説明とは常に諸仮説を、もっと普遍性のレベルの高 い別の仮説へ論理的に還元すること、「既知」の事実と「既知」の理論を、われわれのまだほ とんどよく知らない、これからテストされなくてはならない諸仮定へ論理的に還元すること、 なのである。説明能力の程度、まともな説明とまがいものの説明との関係、説明と予測との関 係などの分析は、このコンテクストにおけるきわめて興味ぶかい問題の一例である。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第1章 科学――推論と反駁,補遺 科学哲学に おけるいくつかの問題,(10),pp.83-84,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎 (訳),森博(訳))


カール・ポパー
(1902-1994)








普遍言明の受容れ条件は、テストの厳しさであり、理論の単純性そのものではない。また合意は、何らかの基準による普遍言明についての合意ではなく、単称言明である基礎言明についての合意である。それは、直接経験による言明の正当化ではなく、科学的方法の目的に沿った自由な決定としての合意である。(カール・ポパー(1902-1994))

理論の単純性、合意の内容

普遍言明の受容れ条件は、テストの厳しさであり、理論の単純性そのものではない。また合意は、何らかの基準による普遍言明についての合意ではなく、単称言明である基礎言明についての合意である。それは、直接経験による言明の正当化ではなく、科学的方法の目的に沿った自由な決定としての合意である。(カール・ポパー(1902-1994))


「約束主義者にとっては、普遍言明の受容れは単純性の原理によって支配される。 彼はもっとも単純な体系を選ぶ。反対に私は、考慮されるべき第一の事柄はテストの厳しさで なければならない、と要求する。(私が「単純性」とよぶものとテストの厳しさとのあいだに は密接な結びつきがある。しかし、私の単純性の考えは約束主義者のそれとは非常に異なって いる。第46節を見られたい)。そして私は、理論の運命を最終的に決定するのはテストの結 果、つまり基礎言明についての合意である、と主張する。私は約束主義者とともに、なんらか の特定の理論を選ぶということが行為であり、実践の問題であると主張する。しかし私の場合 には、その選択は理論の応用およびこの応用に結びついた基礎言明の受容れによって決定的に 影響されるものである。これに反して、約束主義者の場合には、審美的動機が決定的である。  こうして私は、合意よって決定される言明が普遍言明でなく単称言明であると主張 する点で、約束主義と異なっている。また私は、基礎言明がわれわれの直接経験によって正当 化されるものではなく、論理的観点からすると行為、自由な決定(心理学的観点からすると、 これはおそらく、目的的なよく適応した反応であろう)によって受容れられるものであると主 張する点で、実証主義者と異なる。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『科学的発見の論理』,第2部 経験の理論の若干の構成要素, 第5章 経験的基礎の問題,30 理論と実験,pp.136-137,恒星社厚生閣(1972),大内義一 (訳),森博(訳))

科学的発見の論理(上) [ カール・ライムント・ポパー ]



カール・ポパー
(1902-1994)








客観的科学の経験的基礎は、従って、科学についてなんら「絶対的」なものを持たない。科学理論の大胆な構築物は、いわば沼地の上に聳 え立っているのである。それは杭の上に直立している建物のようなものである。われわれはただ、少なくとも差し当っては、杭が構築物を支えるに 足るほど堅固だと満足するときに、ストップするだけなのである。(カール・ポパー(1902-1994))

客観的科学の経験的基礎

客観的科学の経験的基礎は、従って、科学についてなんら「絶対的」なものを持たない。科学理論の大胆な構築物は、いわば沼地の上に聳 え立っているのである。それは杭の上に直立している建物のようなものである。われわれはただ、少なくとも差し当っては、杭が構築物を支えるに 足るほど堅固だと満足するときに、ストップするだけなのである。(カール・ポパー(1902-1994))


「客観的科学の経験的基礎は、したがって、科学についてなんら「絶対的」なものをもたな い。科学は岩底に基礎をおくものではない。科学理論の大胆な構築物は、いわば沼地の上に聳 え立っているのである。それは杭の上に直立している建物のようなものである。杭は上から沼 地のなかに打ち込まれるが、いかなる自然的なまたは「既定の」基盤にも達しない。そしてわ れわれがより深い層に杭を打ち込もうとする企てをやめる時でも、それはわれわれが堅固な基 礎に達したからではない。われわれはただ、少なくとも差し当っては、杭が構築物を支えるに 足るほど堅固だと満足するときに、ストップするだけなのである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『科学的発見の論理』,第2部 経験の理論の若干の構成要素, 第5章 経験的基礎の問題,30 理論と実験,p.139,恒星社厚生閣(1972),大内義一(訳),森博 (訳))

科学的発見の論理(上) [ カール・ライムント・ポパー ]


カール・ポパー
(1902-1994)









科学においては、理論が確証されていない仮説にとどまるが、つねにテスト可能であるので単なる独断論ではない。また、理論の予測結果の確認が、知覚的経験に依存しているが、その情報は、言明の受け入れ可否の判断材料なので、経験内容によって事実を正当化しようとする単なる心理主義とは異なる。 (カール・ポパー(1902-1994))

科学と独断論、心理主義

科学においては、理論が確証されていない仮説にとどまるが、つねにテスト可能であるので単なる独断論ではない。また、理論の予測結果の確認が、知覚的経験に依存しているが、その情報は、言明の受け入れ可否の判断材料なので、経験内容によって事実を正当化しようとする単なる心理主義とは異なる。 (カール・ポパー(1902-1994))


(a)科学は独断論なのか
 理論が確証されていない仮説にとどまるという意味で独断論というなら、そうである。しかし科学における理論は全てこのようなものであり、また必要とあれば、これらの基礎言明は容易 にテストを続行できるようなものである。
(a)科学は心理主義なのか
 理論が予測する結果の確認が、我々の知覚的経験に依存しているという意味で、心理主義というなら、その通りである。しかし科学においては、その知覚的経験によってある言明が事実であることを正当化するのではない。その知覚的経験の情報によって、言明の受け入れまたは拒否の判断の材料として使われるだけである。


「それではフリースのトリレンマ――独断論・無限後退・心理主義からの――三者択一(第25 節を参照)に関し、われわれはいかなる立場にあるのか。われわれが、満足すべきものとし て、また十分にテストされたものとして、受容れることを決定し、そこでストップするところ の基礎言明は、それらをわれわれがさらなる論証によって(あるいはテストによって)、正当 化するのを止めてよいというかぎりにおいてだけであるが、確かにドグマの性格をも つ。しかしこの種の独断論は無害である。なぜなら、必要とあれば、これらの基礎言明は容易 にテストをさらに続行できるからである。これはまた、演繹の連鎖を原則上無限なものにさせ るものであることを、私は認める。しかしこの種の無限後退もまた、無害である。なぜなら、 われわれの理論にあっては、なんらかの言明を立証しようとすることなど全然問題でないから である。そして最後に、心理主義について:基礎言明を受容れそれで満足するという決定が、 われわれの経験――とりわけわれわれの知覚的経験と因果的に結びついていることを、 私はふたたび認める。しかしわれわれは、これらの経験によって基礎言明を正当化し ようとは企てない。経験は決定を動機づけることはでき、したがって言明の受容れま たは拒否を動機づけうる、しかし基礎言明は経験によって正当化されえない――テーブルをた たくことによって正当化できぬのと同様に。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『科学的発見の論理』,第2部 経験の理論の若干の構成要素, 第5章 経験的基礎の問題,29 基礎言明の相対性、フリースの三者択一の解決,pp.130-131, 恒星社厚生閣(1972),大内義一(訳),森博(訳))


科学的発見の論理(上) [ カール・ライムント・ポパー ]



カール・ポパー
(1902-1994)








2021年12月13日月曜日

科学には、相互主観的テスト可能ではない言明は存在しない。真なる言明にまで遡ることで科学を基礎付けようとする方法には、無限後退の困難があるが、演繹結果によるテストにはこの困難はない。各言明は、つねに無限のテスト可能性に向けて開かれている。(カール・ポパー(1902-1994))

相互主観的テスト可能性

科学には、相互主観的テスト可能ではない言明は存在しない。真なる言明にまで遡ることで科学を基礎付けようとする方法には、無限後退の困難があるが、演繹結果によるテストにはこの困難はない。各言明は、つねに無限のテスト可能性に向けて開かれている。(カール・ポパー(1902-1994))



(a)相互主観的テスト可能性
 科学的言明が客観的でなければならぬ、という要求を固 持するとすれば、科学の経験的基礎に属する諸言明もまた客観的、つまり相互主観的にテスト 可能でなければならない。
(b)科学にはテスト不能な言明は存在しない
 なぜなら、そのその言明が理論において意味があるのなら、演繹の連鎖の中で、その言明が前提条件として登場するような、別の言明があることになるが、その言明がテスト可能なら元の言明もテスト可能だからである。
(c)演繹結果によるテストには、無限後退の困難は存在しない
 ある言明が真であるかどうかを、明らかに真である言明にまで遡らせようとする方法論には、無限後退の困難がある。しかし、テストの演繹的方 法は、テストしようとしている言明を確立または正当化しえないし、またそうするつもりもな い。従って、無限後退の困難はない。
(d)無限のテスト可能性について
 しかし、明らかにテストは事実上、無限に遂行することはできない。これは問題ないのか。問題ない。なぜなら、無限のテスト可能性の要求は、受容れられるに先立って実際にテストされてしまっていなければ ならぬという条件とは異なるからである。


「経験的基礎の問題にたいするわれわれの最終的な答えがどんなものであるにせよ、次の一 事は明らかなはずである。すなわち、科学的言明は客観的でなければならぬ、という要求を固 持するとすれば、科学の経験的基礎に属する諸言明もまた客観的、つまり相互主観的にテスト 可能でなければならないということ、これである。相互主観的なテスト可能性とは、テストさ れるべき言明から他のテスト可能な言明が導きだせることを意味する。したがって、もし基礎 言明が立替って相互主観的にテスト可能にならなければならぬとすれば、科学においては 究極的な言明はありえない。すなわち、科学にはテストすることのできぬいかなる言明も ありえない。それゆえ、それらの言明から導出されうる諸結論のあるものを反証することに よって、原理上、論破することのできぬ言明はひとつもないのである。  こうして、われわれは次のような見解に達する。諸理論の諸体系は、それから普遍性のレベ ルのより低い言明を演繹することによってテストされる。それらの言明は、相互主観的にテス ト可能であるはずのものだから、翻ってまたそれ自体が同様の仕方でテスト可能でなければな らない。――これが無限に続いていく。  この見解は無限後退に導くものであり、それゆえ支持しがたいものだと考えられるかもしれ ない。第1節で帰納を批判したさい、私は帰納が無限後退をもたらすものだという反論を提起 した。ところが、それとまったく同じ批判が私の提唱する演繹的テストの手続にたいしてもあ てはまる、と読者は思うかもしれない。しかし、そうはならないのである。テストの演繹的方 法は、テストしようとしている言明を確立または正当化しえないし、またそうするつもりもな いのだ。だから、そこには無限後退の危険はない。しかし私が注意を喚起した状況――無限 のテスト可能性、およびテストの必要のない究極的言明は存在しないということ――が、 ある問題を生みだすことは認めなければならない。なぜなら、明らかにテストは事実上、無限に遂行することはできないからである。遅かれ早かれ、われわれは中止せざるをえな い。ここではこの問題を詳しく論じないで、次のことを指摘するだけにとどめたい。すなわ ち、テストをいつまでも続けていけないという事実は、すべての言明がテスト可能でなければ ならないという私の要求と矛盾するものではない、ということである。なぜなら、すべての科 学的言明は、それが受容れられるに先立って実際にテストされてしまっていなければ ならぬ、と私は要求しているのではないからである。私はただ、すべての科学的言明はテスト されうるものでなければならない、と要求しているだけなのである。いいかえれば、 テストすることが論理的理由から可能とは思われぬというただそれだけのことで、あきらめ て、真として受容れなければならない言明が科学には存在するのだという見解を、私は拒否す るのである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『科学的発見の論理』,第1部 科学の論理序説,第1章 若干の 基本的諸問題の検討,8 科学的客観性と主観的確信,pp.57-58,恒星社厚生閣(1972),大内義 一(訳),森博(訳))

科学的発見の論理(上) [ カール・ライムント・ポパー ]


カール・ポパー
(1902-1994)









いかに確実に思える経験でも科学的事実ではなく、相互主観的テストが必要な仮説に過ぎない。従って、科学における客観性を確実な経験によって基礎付けようとする理論は、誤りである。(カール・ポパー(1902-1994))

確実に思える経験と科学的事実

いかに確実に思える経験でも科学的事実ではなく、相互主観的テストが必要な仮説に過ぎない。従って、科学における客観性を確実な経験によって基礎付けようとする理論は、誤りである。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)いかに確実に思える経験でも科学的事実ではない
 確信の感情がいかに強烈であっても、それは言明をけっして正当化しえない。たとえば、私は、ある言明の真実性をまったく確信できる。私の知覚の明証は確かである。私の経験の強烈さは圧倒的だ。一切の疑 いは私には馬鹿らしく思える。しかし、このことは科学にたいして私の言明を受容れさせる理由にはならない。
(b)経験を表示する言明は心理学的な仮説
 経験を表示する言明(我々の知覚を叙述している言明、プロトコル文とも呼ばれるれる)は、科学においては心理学的言明であり、相互主観的テストが必要な仮説に過ぎない。
(c)経験への還元主義は誤りである
 従って、科学的言明の客観性を、経験を表示する言明に還元することによって基礎付けようとする理論は、誤りである。



「ここで、前節でとりあげられた問題点、つまり主観的経験または確信の感情は、けっして 科学的言明を正当化しえず、また科学の内部において経験的(心理学的)研究の対象として以 外のいかなる役割をも演じえないという私のテーゼ、に立ちもどろう。確信の感情がいかに強 烈であっても、それは言明をけっして正当化しえない。たとえば、私は、ある言明の真実性を まったく確信できる。私の知覚の明証は確かである。私の経験の強烈さは圧倒的だ。一切の疑 いは私には馬鹿らしく思える。しかし、このことは科学にたいして私の言明を受容れさせる理 由をいささかでも提供するであろうか。カール・ポパーが真なることを確信しているという事 実によって、なんらかの言明が正当化されうるであろうか。答は「否」である。これ以上のど んな答も、科学的客観性の観念と両立しえまい。私がこの確信感情を経験しているという事実 は、私にとってはきわめて堅固に確立されているにしても、客観的な科学の分野の内部では 心理学的仮説(もちろん相互主観的テストを要する)の形においてしかあらわれえな い。私がこの確信感情をもっているということから推測して心理学者は、心理学的その他の理 論の助けをかりて、私の行動について一定の予測を導きだせよう。そしてそれらの予測は実験 的テストの過程で裏付けられ、あるいは反駁されるかもしれぬ。しかし認識論の観点からすれ ば、私の確信感情が強いか弱いか、それが疑いをいれぬ確実性(あるいは「自己明証」)の強 いあるいは抗しがたい印象からきたのか、たんに疑わしい憶測からのものであるかということ は、まったくかかわりのないことである。いずれにしても、それらのことは科学的言明がいか にして正当化されうるかという問題には、いささかの意義ももたない。  このような考察は、もちろん、経験的基礎の問題に回答を提供するものではない。しかし、 少なくとも、問題の主な難所がどこにあるかを理解する助けになる。他の科学的言明にたいす るのと同じく、基礎言明にたいする客観性の要求において、われわれは科学的言明の真理性を われわれの経験に還元させようとするいかなる論理的手段をもみずから拒否する。さらにわれ われは、経験を表示する言明――われわれの知覚を叙述している言明(それらは時として「プロ トコル文」とよばれる)のごとき――に、いかなる特権的地位をも与えてはならない。これらの ものは、科学においては心理学的言明としてのみあらわれるのであって、このことは(心理学 の現状から考えて)相互主観的テストの基準が非常に高いとは明らかにいえない種類の仮説と してしか通用しないことを意味する。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『科学的発見の論理』,第1部 科学の論理序説,第1章 若干の 基本的諸問題の検討,8 科学的客観性と主観的確信,pp.56-57,恒星社厚生閣(1972),大内義 一(訳),森博(訳))

科学的発見の論理(上) [ カール・ライムント・ポパー ]


カール・ポパー
(1902-1994)








2021年12月12日日曜日

(1)知識の究極的根源は存在しない、(2)事実との一致、(3)観察結果との一致、内部無矛盾性、(4)知識の源泉としての伝統、(5)批判的検討、(6)知識の進歩、(7)誤謬や虚偽は知ることができる、(8) 観察も理性も権威ではない、(9)明瞭さと精密さは異なる、(10) 世界の謎(カール・ポパー(1902-1994))

科学的方法

(1)知識の究極的根源は存在しない、(2)事実との一致、(3)観察結果との一致、内部無矛盾性、(4)知識の源泉としての伝統、(5)批判的検討、(6)知識の進歩、(7)誤謬や虚偽は知ることができる、(8) 観察も理性も権威ではない、(9)明瞭さと精密さは異なる、(10) 世界の謎(カール・ポパー(1902-1994))


(1)知識の究極的根源は存在しない
 知識の究極的根源など存在しない。事実かどうかが問題なのであって、情報の根源(出所)が問題なのではない。
(2)事実との一致
 言明が事実と一致しているかどうか、直接テストしたり、その諸帰結をテストする。
(3)観察結果との一致、内部無矛盾性
 典型的な手続きは、観察結果との一致を確認したり、内部に相互の矛盾がないかの確認したりする。
(4)知識の源泉としての伝統
 知識の重要な源泉は、伝統である。知識の内容だけでなく、知識の習得方法や態度なども、伝統を通じて獲得される。
(5)批判的検討
 伝統が無ければ知識の習得があり得ないにもかかわらず、全ての知識は批判的検討に対して開かれており、その結果、放棄されることもあり得る。
(6)知識の進歩
 知識の進歩は、主として、それ以前の知識の修正によって成り立つ。観察から始まるのではない。白紙から始まるのでもない。
(7)誤謬や虚偽は知ることができる
 真理の基準は、われわれの手の内にはない。しかし、誤謬や虚偽を認知させてくれるような規準がある。不明瞭や混乱、不整合や矛盾である。
(8) 観察も理性も権威ではない
 観察も理性も権威ではない。知的直感や想像力も非常に重要であるが、真理の決め手ではない。真理の基準は、われわれの手の内にはない。
(9)明瞭さと精密さは異なる
 明瞭さはそれ自体価値のあるものであるが、精密さや正確さはそうではない。すなわち、われわれの問題が要求する以上に正確であろうとしても意味がない。
 言語上の正 確さというのは妄想であり、ことばの意味や定義に関わる問題は重要でない。ことばが有意義なのは理論構成の道具としてだ けである。
(10) 世界の謎は汲み尽くされることはない


「さて、以上の議論の認識論的帰結を整理しておくべき段階に達しているように思う。以下 それらを10のテーゼの形で述べてみよう。  1、知識の究極的根源など存在しない。どのような根拠、どのような提案も提示されてよい が、どのような根拠、どのような提案も、批判的検討を受けなくてはならない。歴史の場合を 除いて、われわれは通常、事実そのものを検討するのであって、その情報の根源(出所)を検 討するのではない。  2、関わるべき認識論の問題は、根源に関するものではない。むしろ、われわれは、なされ た言明が真であるか否か――すなわち、その言明が事実と一致しているか否か――を問う。(事実 に対応しているという意味での客観的真理という概念を、矛盾に陥ることなく操作しうること は、アルフレッド・タルスキーの労作によって示されている。)そして、われわれは、言明そ のものを検討したりテストしたりすることによって、すなわち、直接にか、あるいはその諸帰 結かを検討し、テストすることによって、できるかぎり、この一致ないし対応を見出そうとす るのである。  3、こうした検討に関しては、あらゆる種類の議論が関係してくるであろう。その典型的な 手続は、われわれの論理が観察結果と矛盾していないかどうかを調べることである。しかし、 また、たとえばわれわれの歴史資料(根源)が相互に内的に無矛盾であるかどうかを調べるこ ともできる。  4、量的かつ質的に、われわれの知識のはるかに重要な源泉と言えば、それは――生得の知識 を別にすれば――伝統である。われわれの知っている事柄の大部分は、範例を示されたり、こと ばで教えられたり、あるいは、批判のしかたや、その批判の受けとりかたや、真理に対する敬 意の払いかたを学んだりすることによって習得したものである。  5、われわれの知識の根源のほとんどが伝統に由来するという事実は、反伝統主義を無益の わざと見なす。しかし、この事実が伝統主義的な態度を支持するものと考えられてはならな い。われわれの伝統的な知識の一つ一つ(さらにはわれわれの生得的知識さえも)が、批判的 検討に対して開かれており、その結果、放棄されることもありうるのである。にもかかわら ず、伝統がなければ、知識は不可能となろう。  6、知識は無から――白紙の状態から――出発するものでもなければ、観察から出発するのでも ない。知識の進歩というものは、主として、それ以前の知識の修正によって成り立つ。時に は、たとえば考古学においては、偶然の観察によって知識が進展することがあるけれども、その発見の意義は、通常、それによってそれ以前の理論を修正できるかどうかによって決まるの である。  7、悲観的な認識論も、楽天的な認識論も、ともに同じくらい間違っている。プラトンの悲 観的な洞窟の比喩は真理であるが、その楽天的な想起説はそうでない(たとえすべての人間 が、他のすべての動物とか、場合によってはすべての植物と同様に、生得的な知識を所有して いるということを認めるとしても)。なるほど見かけの世界は、洞窟の壁に映った単なる影の 世界なのであろうが、しかし、われわれは、すべて不断にその世界を超え出ようと努めてい る。デモクリストが言ったように、真理は奥深く隠されているものであるが、われわれはその 深みへさぐりを入れることができる。真理の基準は、われわれの手の内にはない。そして、そ の事実がペシミズムを支えている。しかし、われわれには、《運さえよければ》、誤謬や虚偽 を認知させてくれるような規準がある。明瞭性や判然性は真理の基準ではないが、不明瞭や混 乱のような事柄は誤りのしるしで《ありえよう》。同様にして、整合性があるからといって真 理が確定するわけではないけれども、不整合や矛盾があれば虚偽が確定する。そして、それら が認識されたときには、われわれ自身の間違いがおぼろげながらも赤信号となり、われわれが 洞窟の闇から手さぐりで抜け出す手助けになってくれるのである。  8、観察も理性も権威ではない。知的直感や想像力は非常に重要であるが、それらも頼りに ならない。それらは事物を極めて明白に示してくれるだろうが、われわれを過たせもする。そ れらはわれわれの理論の主たる根源として不可欠ではあるが、われわれの理論の大部分は、と もかくも真理であるとは言えない。観察と理性能力、さらには直感と想像力の、最も重要な機 能は、われわれが未知の事柄をさぐる際の手段となるような、思い切った推測を批判的に検討 するのに役立つということである。  9、明瞭さはそれ自体価値のあるものであるが、精密さや正確さはそうではない。すなわ ち、われわれの問題が要求する以上に正確であろうとしても意味がないのである。言語上の正 確さというのは妄想であり、ことばの意味や定義に関わる問題は重要でない。だから既述の観 念表(33ページ)は、その対称性にもかかわらず、重要な半分と重要でない半分に分たれ る。」

(33ページ、再掲)
        観念(IDEAS)
指示記号          陳述
ないし名辞      ないし判断
ないし概念      ないし命題
     が表現されるのは
語                      断定文
     によってであり、これらは
有意味              真
     であり得、その
意味                  真理
     は、
定義                  導出
     という手段を介して、
未定義概念      原始命題
     の意味ないし真理へ還元し得る。
     こうした方法によって、
意味                 真理      を還元しようとせず、むしろこれらを確定しようとする試みは、無限後退に陥る。

 「すなわち、左側(ことばとその意味)が重要でないのに対して、右側(理論とその真偽に 関わる諸問題)のほうは全部重要なのである。ことばが有意義なのは理論構成の道具としてだ けであって、ことばの問題は万難を排して回避すべきである。  10、一つの問題を解決しても、必ず未解決の問題が生じてくる。そうであればあるほど、元 の問題は深みを増し、その解決は一層大胆になる。われわれが世界について学べば学ぶほど、 われわれの学問が深くなればなるほど、自分の知らないことに関するわれわれの知識、すなわ ち自己の無知に関する知が、もっと意識され、明細になり、はっきりしてくるであろう。なぜ なら、このこと――すなわち、われわれの知識は有限でしかありえないのに、われわれの無知は 必然的に果てしがないという事実――こそ、われわれの無知の主たる根源なのだからである。」 

(カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,序章 知識と無知の源泉について,16,pp.48-50,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))

カール・ポパー
(1902-1994)









社会の経済組織が社会的制度の歴史的発展にとって基礎的であるという主張は、真理の一面を捉えている。しかし同時に、ある種の思想、我々の知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。(カール・ポパー(1902-1994))

実在するものとしての思想

社会の経済組織が社会的制度の歴史的発展にとって基礎的であるという主張は、真理の一面を捉えている。しかし同時に、ある種の思想、我々の知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)社会の経済組織、すなわち自然との 物質交換の組織が、あらゆる社会的制度の歴史的発展にとって基礎的であるという主張は概ね正しいが注意すべき点がある。
(b)ある種の思想、我々の知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理 的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。
(c)思考実験:あらゆる機械やあらゆる社会的組織も含めて、我々の経済体制が、ある日壊滅させられたと想像せよ。だがしかし技術上の知識、科学上の知識が保存されたと想像してみよ。
(d)思考実験:一方で、これらの事柄についてのすべての知識が消滅し、物質的なものは保存され たと想像してみよ。


「第二は経済学主義(もしくは「唯物論」)であり、社会の経済組織、われわれと自然との 物質交換の組織が、あらゆる社会的制度、特に制度の歴史的発展にとって基礎的であるという 主張である。私の信じるところでは、この主張は、「基礎的」という用語が日常的な漠然とし た意味で受け取られ、過度に強調されることがない限り、完全に健全である。換言すれば、実 際上あらゆる社会研究は、制度的な研究であるにせよ歴史的な研究であるにせよ、社会の「経 済的諸条件」を顧慮に入れて遂行されるならば、有益なものになりうることには何の疑問も挟 みようがないのである。数学のような抽象的科学の歴史でさえ例外ではない。この意味で、マ ルクスの経済学主義は社会科学の方法に極めて価値のある前進を示していると言えるのであ る。  しかし、私が前に言ったように、われわれは「基礎的」という用語をあまり重大に受けとるべきではない。マルクス自身は疑いもなくそうしたのである。マルクスはヘーゲル主義の下で 育ったから、「実体」と「現象」との古代の区別、またそれに対応している「本質的」なもの と「偶然的」なものとの区別によって影響されていた。マルクスは、自分がヘーゲル(そして カント)に加えた改良は、「実体」を(人間の物質交代を含む)物質界と同一視したこと、そ して「現象」を思想や理念の世界と同一視したことにある、と見がちであった。それゆえ、す べての思想や観念は、基礎になっている本質的な実体、すなわち経済的諸条件に還元されて説 明されねばならないということになろう。こうした哲学的見解が他の何らかの形態の本質主義 より格段に優れているわけではないのは確かである。そしてそれが方法の領域に及ぼす効果 は、経済学主義の過度の強調とならざるをえないのである。なぜなら、《マルクスの経済学主 義の一般的重要性はいくら評価してもまず評価しきれるものではないが、個々の特殊的な事例 では、経済的諸条件の重要性が過大に評価されやすいからである》。経済的諸条件についての ある知識は、例えば数学の問題史にかなり寄与するであろうが、しかし数学の問題の知識その ものの方が、こうした目的にとってははるかに重要である。つまり、数学上の問題の「経済的 背景」にいっさい言及せずとも、十分に行き届いた数学の問題史を著述することさえ可能なの である(私見によれば、科学の「経済的諸条件」もしくは「社会的諸関係」というのは、すぐ 使いすぎになって陳腐に堕しやすいテーマである)。  しかし、これは、経済学主義を過度に強調する危険の矮小な例でしかない。経済学主義は、 しばしば十把一からげにされて、すべての社会的発展は経済的諸条件の発展とりわけ物理的生 産手段の発展に依存するのだ、という学説であると解釈されている。しかしこうした学説は明 白に誤りである。経済的諸条件と思想には相互作用が存在するのであって、単純に後者が前者 に一面的に依存するのではない。それどころか、われわれは、以下の考察から知ることができ るように、ある種の思想、われわれの知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理 的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。あらゆる機械やあらゆる社会的組織 も含めて、われわれの経済体制がある日壊滅させられたと、だがしかし技術上の知識は科学上 の知識は保存されたと想像してみよ。こうした場合でも、(多数の人々が餓死してしまった後 で小規模に)経済体制が再建されるまでに相当に長い期間が費やされることはおそらくないで あろう。だが、これらの事柄についての《すべての知識》が消滅し、物質的なものは保存され たと想像してみよ! このことは、未開民族が高度に産業化されてはいるが人々のいなくなっ た国を占領した場合に生じることに等しいであろう。それはすぐさま文明のあらゆる物質的残 存物の完璧な消滅につながるであろう。」
(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第2部 予言の大潮――ヘーゲル、 マルクスとその余波,第15章 経済学的歴史信仰,第3節,pp.102-104,未来社(1980),内田詔 夫(訳),小河原誠(訳))
カール・ポパー
(1902-1994)









規範を事実の上に基礎づけることは不可能である。「人間の本性にかなう、本性を害する」も、一つの選択であり規範概念である。前提となる価値を選択すれば、我々が何をなすべきかは合理的な議論の対象となる。それでもなお、私が何をなすべきかは、完全に私に任されている。(カール・ポパー(1902-1994))

道徳判断、倫理的決定

規範を事実の上に基礎づけることは不可能である。「人間の本性にかなう、本性を害する」も、一つの選択であり規範概念である。前提となる価値を選択すれば、我々が何をなすべきかは合理的な議論の対象となる。それでもなお、私が何をなすべきかは、完全に私に任されている。(カール・ポパー(1902-1994))


(1)人間の本性にかなう行為と、人間の本性を害する行為とは?
 (a)我々によって可能なすべての行為は人間本性に基づくものである。不可能な行為であれば、もとより考慮外でよい。従って、意味のある問い方は次のとおりである。
 (b)人間本性のうちで、どの要素に従って、それを発展させるべきであるのか。
 (c)人間本性のうちで、どの側面を抑圧ないし制御すべきであるのか。
 (d)すなわち、これは規範概念である。簡単な例で考えよう。美味しいものと、まずいもの。美味しいからといって身体に良いとは言えない。情動が、規範概念を直接定義するわけではない。そこで、健康に良い食べものとして再定義してみる。すると、経験と理性と他者との批判的な議論によって、真偽の区別ができる概念になる。しかし、この概念は我々が選択したものである。また、その食べ物が健康に良いものかどうかにかかわらず、我々はどの食べ物も食べることができるし、食べないこともできる。また、真偽の判断は区別はできても、判断の難しい対象もあるし、そもそも私は、健康に良いという基準では食べ物を選ばないかもしれない。
(2)我々は、いかに行為すべきか
 (a)法規範
 (b)慣習としての道徳規範
 (c)宗教的信念
 (d)医療的知識
 (e)一般にあらゆる工学的知識
 (f)科学も一定の規範に支えられている
 (g)美的規範
(3)私はいかに行為すべきか
 (a)道徳判断、倫理的決定という意味が、この意味だとすれば、仮に法規範に反することでも、私は自分の考えに従って、自分で行為を選択できる。
 (b)人の決定を「裁くな」というのは、人道主義倫理の根本法則の一つである。
 (c)たとえ善、悪という言葉を使ったとしても、善という言葉の意味が「私がなすべきこと」という意味を持たない限り、私のなすべきことは導出できない。


「(1)私の考えでは、われわれの責任を分け合うための何らかの論拠ないし理論を得たいと いう希望が、「科学的」倫理学の基本的動機の一つである。「科学的」倫理学は、その絶対的な不毛性の点で、社会現象の中でも最も驚くべきものの一つである。それは何を目指すのであ ろうか。われわれが何をなすべきかを教えること、すなわち科学的土台の上に規範法典を建設 し、われわれが困難な道徳的決定に直面した場合に法典の索引を見さえすればいいようにする ことを目指すのであろうか。これは明らかにばかげたことであろう。もしこんなことができる ものだとしても、それはすべての個人的責任、およびそれゆえにすべての倫理を破壊すること になる、という事実は全く別にしてもである。それともそれは道徳的判断、すなわち「善」と か「悪」という用語を含む判断の真偽の科学的認定規準を与えようとするのであろうか。だが 道徳的《判断》が絶対的に的はずれなものであることは明らかである。人々やその行為を裁く ことに興味をもつのは悪口屋だけである。「裁くな」というのは、われわれのうちのある者に とっては、人道主義倫理の根本法則の一つであるとともにまたあまりにも評価されることの少 ない法則であるように思われる(われわれは犯罪者が犯罪を繰り返すのを防ぐために、彼の武 器を奪い投獄しなければならないかもしれないが、あまりにも多くの道徳的判断をすること、 とくに道徳的義憤をすることは、常に偽善とパリサイ主義のしるしである)。こうして、道徳 的判断の倫理学は、的はずれであるばかりでなく、実際に不道徳なことである。道徳問題の最 も重要な点は、もちろん、われわれが知的予見をもって行為することができ、またわれわれが 自分の目標は何であるべきか、すなわちわれわれはいかに行為すべきかを自問することができ るという事実によるのである。  われわれがいかに行為すべきかという問題を扱ったほとんどすべての道徳哲学者たち (ひょっとするとカントは例外となるが)は、「人間本性」への言及(カントでさえ、人間理 性に言及するときにはやっていることだが)によってか、または「善」の本性への言及によっ て、それに答えようとしてきた。これらのうちで第一の道はどこへも通じない。なぜならば、 われわれによって可能なすべての行為は「人間本性」に基づくものであり、それゆえ倫理の問 題は、人間本性のうちでどの要素に私は従ってそれを発展させるべきであるのか、またどの側 面を抑圧ないし制御すべきであるのかと問うことでも設定できるだろうからである。だがこれ らのうちの第二の道もまた、どこへも通じない。というのは「善」の分析が「善とはこれこれ のものである」(ないし「これこれのものが善である」)のような文の形で与えられるとすれ ば、われわれは常に、それがどうしたのか、これが私に何の関わりがあるのか、と問わなけれ ばならないからである。「善」という言葉が倫理的な意味で、すなわち「私がなすべきもの」 を意味するために用いられるときにのみ、「Xは善である」という情報から、私はXをすべきだ という結論を導出することができよう。換言すれば、善という言葉がいやしくも何らかの倫理 的意義をもつべきであるとすれば、それは「私(ないしわれわれ)がなすべき(ないし促進す べき)もの」として定義されなければならない。だがもしそのように定義されるならば、その 意味のすべては定義句で尽くされ、あらゆる文脈においてこの句によって置き換えることがで きる、すなわち「善」という用語の導入は実質的にわれわれの問題に寄与しえないのであ る。」

(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第5章 自 然と規約,註(18),pp.248-250,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠(訳))


カール・ポパー
(1902-1994)









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