2018年3月5日月曜日

喜び、悲しみ(ルネ・デカルト(1596-1650))

喜びと悲しみ

【喜び、悲しみ(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「さらに、善や悪がわたしたちに属するものとして示されると、現在の善の考慮はわたしたちのうちに喜びを引き起こし、悪の考慮は悲しみを引き起こす。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 六一、p.57、[谷川多佳子・2008])
(索引:喜び、悲しみ)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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原基感情(ジョナサン・H・ターナー(1942-))

原基感情

【原基感情(ジョナサン・H・ターナー(1942-))】
マラテスタ/ハヴィランド(Malatesta/Haviland 1982) 喜び 恐れ 怒り 悲しみ おもしろい 痛み 気持ち悪い
心配
ケンパー(Kemper 1987) 満足 恐れ 怒り 抑圧
グレイ(Gray 1982) 希望 不安 怒り 悲しみ
フェアー/ラッセル(Fehr/Russell 1984) 幸せ
愛情
恐れ 怒り 悲しみ
スコット(Scott 1980) 快感
愛情
恐れ
不安
怒り 失意 好奇心
プルチック(Pluchik 1980) 喜び 恐れ 怒り 悲しみ 驚き むかつき 予感 受容
フロム/オブライエン(Fromme/O'Brien 1982) 喜び
意気揚々
満足
恐れ 怒り 悲嘆
諦観
動揺
アリエッティ(Arieti 1970) 満足 恐れ
緊張
憤怒 不快 欲望
エプシュタイン(Epstein 1984) 喜び
愛情
恐れ 怒り 悲しみ
エクマン(Ekman 1984) 幸せ 恐れ 怒り 悲しみ 驚き むかつき
イザード(Izard 1977,1992b) 楽しい 恐れ 怒り
侮蔑
驚き むかつき
はにかみ
苦悩 おもしろい
ダーウィン(Darwin 1872) 快感
喜び
愛情
恐怖 怒り 驚き 痛み
オズグッド(Osgood 1966) 喜び
静穏
快感
恐れ
不安
怒り 悲哀 驚嘆 むかつき おもしろい
期待
退屈
アーノルド(Arnold 1960) 戦い 自衛
攻撃
トレヴァーセン(Trevarthen 1984) 幸せ 恐れ 怒り 悲しみ 言い寄り 抵抗
ターナー(Turner 1996a) 幸せ 恐れ 怒り 悲しみ
スローフ(Sroufe 1979) 快感 恐れ 怒り
パンクセップ(Panksepp 1982) 恐れ
恐慌
激怒 悲哀
失意
悲嘆
期待
エムデ(Emde 1980) 喜び 恐れ 怒り 悲しみ 驚き むかつき
はにかみ
苦悩 おもしろい
ジョンソン-レィアード/オートレイ(Johnson-Laird/Oatley 1992) 幸せ 恐れ 怒り 悲しみ むかつき
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第3章 人間の感情レパートリー、pp.96-97、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
(索引:恐れ、怒り、悲しみ、喜び、快、快感、愛、愛情、驚き、むかつき、恥、苦悩、好奇心、欲望、心配)

感情の起源 ジョナサン・ターナー 感情の社会学


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美、広義の美と美への愛(快)、醜、広義の醜と醜への憎しみ(嫌悪)、善と善への愛、悪と悪への憎しみ。快と嫌悪の情念は、他の種類の愛や憎しみより、通例いっそう強烈であり、また欺くこともある。(ルネ・デカルト(1596-1650))

美と醜、善と悪

【美、広義の美と美への愛(快)、醜、広義の醜と醜への憎しみ(嫌悪)、善と善への愛、悪と悪への憎しみ。快と嫌悪の情念は、他の種類の愛や憎しみより、通例いっそう強烈であり、また欺くこともある。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
〈美〉と〈美への愛〉(快)
〈醜〉と〈醜への憎しみ〉(嫌悪)
 視覚で与えられた対象に「快」を感じるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それが〈美〉であり、この快の情動を、〈美への愛〉という。快を感じさせるすべてのものが〈美〉であるわけではない。「それらはふつう、真理性がより少ない。したがって、あらゆる情念のうちで、最も欺くもの、最も注意深く控えるべきものは、これらの情念である。」情動と〈美〉とのこの関係性は、以下、情動と〈醜〉、〈善〉、〈悪〉との関係においても同様である。快と嫌悪の情念は、他の種類の愛や憎しみより、通例いっそう強烈であることだ。なぜなら、感覚が表象して精神にやってくるものは、理性が表象するものよりも強く精神を刺激するからである。
 視覚で与えられた対象に「嫌悪」ないし「嫌忌」を感じるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それが〈醜〉であり、この嫌悪の情動を〈醜への憎しみ〉という。
〈広義の美〉と〈美への愛〉(快)
〈広義の醜〉と〈醜への憎しみ〉(嫌悪)
 視覚のほか、〈特殊感覚〉のうち聴覚、嗅覚、味覚についても、快と嫌悪の情動が区別できる。平衡覚については、どうであろうか。〈表在性感覚〉(皮膚の触覚、圧覚、痛覚、温覚)、〈深部感覚〉(筋、腱、骨膜、関節の感覚)、〈内臓感覚〉(空腹感、満腹感、口渇感、悪心、尿意、便意、内臓痛など)についても、快と嫌悪の情動が区別できる。
 「精神の能動によらない想像、夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想」についても、快と嫌悪の情動が区別できる。
 これらには、〈美〉と〈醜〉を帰属させる対象が、視覚における対象ように明確でないものもあるが、ここでは、後続の記述の便宜のため、すべて〈広義の美〉と〈広義の醜〉と定義しておく。
〈善〉と〈善への愛〉
〈悪〉と〈悪への憎しみ〉
 意志に依存するいっさいの想像、思考や理性がとらえた対象に「快」を感じるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それが〈善〉であり、この快の情動を、〈善への愛〉という。  意志に依存するいっさいの想像、思考や理性がとらえた対象に「嫌悪」ないし「嫌忌」を感じるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それが〈悪〉であり、この嫌悪の情動を〈悪への憎しみ〉という。
 「あるものがわたしたちにとって善い、つまりわたしたちに適したものとして表象されるとき、わたしたちはそれに愛を抱くことになる。それが悪ないし有害として表象されると、わたしたちは憎しみを引き起こす。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 五六、pp.54-55、[谷川多佳子・2008])
 「愛と憎しみに共通であるような、注目すべき区別が一つだけ見だされる。それは、愛においても憎しみにおいても、その対象が、外的感覚、あるいは内的感覚と精神固有の理性によって、精神に表象されうることにある。わたしたちはふつう、内的感覚や理性がわたしたちの本性〔=自然〕に適すると判断させるもの、またはそうでないと判断させるものを、「善」または「悪」とよぶ。他方、外的感覚、特にただ一つ他のすべての外的感覚よりも重視されている視覚によって、そう表象されるものを、「美」あるいは「醜」とよぶ。そこから二種類の愛が生まれる。善いものへの愛と、美しいものへの愛である。後者を「快」となづけることができる。前者の愛とも、よく愛の名を与えられる欲望とも、混同しないためだ。また同じようにそこから、二種類の憎しみが生まれる。一つは悪しきもの、もう一つは醜きものに関わる。この後者は、はっきり区別するために、「嫌悪」ないし「嫌忌」とよべる。しかし、ここでいっそう注目すべきは、この快と嫌悪の情念は、他の種類の愛や憎しみより、通例いっそう強烈であることだ。なぜなら、感覚が表象して精神にやってくるものは、理性が表象するものよりも強く精神を刺激するからである。だが、それらはふつう、真理性がより少ない。したがって、あらゆる情念のうちで、最も欺くもの、最も注意深く控えるべきものは、これらの情念である。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 八五、pp.74-75、[谷川多佳子・2008])
(索引:善、悪、美、醜、快、嫌悪、愛、憎しみ)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2018年2月27日火曜日

「驚き」に不意を打たれ、激しく揺り動かさるとき、そこには既知ではない、想定外の、初めて出会う新しい対象が存在する。驚きが、知らなかったことを学ばせ、記憶にとどめさせる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

驚き

【「驚き」に不意を打たれ、激しく揺り動かさるとき、そこには既知ではない、想定外の、初めて出会う新しい対象が存在する。驚きが、知らなかったことを学ばせ、記憶にとどめさせる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「何らかの対象と初めて出会うことで、わたしたちが不意を打たれ、それを新しいと判断するとき、つまり、それ以前に知っていたものや、あるべく想定していたものとはなはだ異なると判断するとき、わたしたちはその対象に驚き、激しく揺り動かされる。それは、対象がわたしたちに適したものかそうでないかまったくわからないうちに起こるので、驚きはあらゆる情念のうちで最初のものと思われる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 五三、p.53、[谷川多佳子・2008])
 「驚きが有益であるのは、それまで知らなかったことをわたしたちに学ばせ「記憶」にとどめさせることだ。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 七五、p.65)
(索引:驚き)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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情念は、わたしたちを害したり益したりしうる対象の多様なしかたを反映している。(ルネ・デカルト(1596-1650))

情念と利害

【情念は、わたしたちを害したり益したりしうる対象の多様なしかたを反映している。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 情念を引き起こすのは、対象のうちにあるいろいろな性質すべてによるのではない。ただ、対象がわたしたちを害したり益したりしうる多様なしかた、あるいは、一般にそれら対象がわたしたちに重要となる多様なしかたによる。
 「感覚を動かす対象がわたしたちのうちにいろいろな情念を引き起こすのは、対象のうちにあるいろいろな性質すべてによるのではない。ただ、対象がわたしたちを害したり益したりしうる多様なしかた、あるいは、一般にそれら対象がわたしたちに重要となる多様なしかたによる。そして、あらゆる情念の効用は、自然がわたしたちに有用だと定めているものを、精神が意志しその意志を持ちつづけるようしむけること、ただこのことのみにある。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 五一、p.52、[谷川多佳子・2008])
(索引:)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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情念はその本性上すべて善い、その悪用法や過剰を避けるだけでよい。(ルネ・デカルト(1596-1650))

情念は善い

【情念はその本性上すべて善い、その悪用法や過剰を避けるだけでよい。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「わたしたちはいま、情念はその本性上すべて善い、その悪用法や過剰を避けるだけでよい、と知っているからだ。そして、悪用法や過剰を防ぐには、わたしが説明した治療法を、各人が注意深く実行すれば、それで十分だろうからだ。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 二一一、p.178、[谷川多佳子・2008])

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
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 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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わたしたちは、情念を巧みに操縦し、その引き起こす悪を十分耐えやすいものにし、情念のすべてから喜びを引き出すような知恵を持つことができる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

情念から喜びを引き出す

【わたしたちは、情念を巧みに操縦し、その引き起こす悪を十分耐えやすいものにし、情念のすべてから喜びを引き出すような知恵を持つことができる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 精神は精神独自の快楽を持ちうる。だが、精神が身体と共有する快楽については、まったく情念に依存する。わたしたちは、情念を巧みに操縦し、その引き起こす悪を十分耐えやすいものにし、情念のすべてから喜びを引き出すような知恵を持つことができる。このようにして、情念に最も動かされる人間は、人生において最もよく心地よさを味わうことができるようになる。
 「精神は精神独自の快楽を持ちうる。だが、精神が身体と共有する快楽については、まったく情念に依存するものであり、したがって、情念に最も動かされる人間は、人生において最もよく心地よさを味わうことができる。たしかに、かれらは、情念をよく用いることを心得ておらず、偶然的運にも恵まれない場合には、人生においてまた最大の辛さを見出すかもしれない。けれども、知恵の主要な有用性は、次のことにある。すなわち、みずからを情念の主人となして、情念を巧みに操縦することを教え、かくして、情念の引き起こす悪を十分耐えやすいものにし、さらには、それらすべてから喜びを引き出すようにするのである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 二一二、pp.180-181、[谷川多佳子・2008])
(索引:情念)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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デカルトの第三格率:運命に、よりはむしろ自分にうち勝とう、世界の秩序を、よりはむしろ自分の欲望を変えよう、と努めること。(ルネ・デカルト(1596-1650))

デカルトの第三格率

【デカルトの第三格率:運命に、よりはむしろ自分にうち勝とう、世界の秩序を、よりはむしろ自分の欲望を変えよう、と努めること。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
運命に、よりはむしろ自分にうち勝とう、世界の秩序を、よりはむしろ自分の欲望を変えよう、と努めること。なぜなら、絶対的に私どもの手のおよばぬものも確かに存在するからである。この世界の秩序のなかで、私どもの権力の埒内にそっくり有るものは私どもの思想だけなのであり、自分にうち勝ち、最善を尽くしたことをもって、良しとすること。
 「私の第三の格率は、運命に、よりはむしろ自分にうち勝とう、世界の秩序を、よりはむしろ自分の欲望を変えよう、と努めることであった。一般的にいえば、私どもの権力の埒内にそっくり有るものは私どもの思想だけである。従って、私どもの外なるものについては最善を尽くしたのち、なお私どもの成功を妨げるものがあれば、私どもとの関係上、そのものはすべて絶対的に私どもの手のおよばぬものであると信ずるように自分を仕つけること。この格率はただこれだけで、自分には得らるまじきものを未来に得ようなどと、空しい欲望をおこさないために、つまり足ることを知れと戒めるために、十分であると私には思われた。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『方法序説』第三部、p.37、[落合太郎・1967])
(索引:デカルトの第三格率)

方法序説 (岩波文庫)



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 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
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(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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デカルトの第二格率:日常の生活行動において最も真実な意見が分からないときには、蓋然性の最も高い意見に従うこと。そして、薄弱な理由のゆえに自らのこの決定を変えてはならない。志を貫き行動することによって、真偽の見極めと軌道修正も可能となる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

デカルトの第二格率

【デカルトの第二格率:日常の生活行動において最も真実な意見が分からないときには、蓋然性の最も高い意見に従うこと。そして、薄弱な理由のゆえに自らのこの決定を変えてはならない。志を貫き行動することによって、真偽の見極めと軌道修正も可能となる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
日常の生活行動というものは、多くの場合すこしの猶予もゆるさぬから、どれが最も真実な意見であるかを識別する力が私どもに無いときには、蓋然性の最も高い意見に従わねばならぬ。そして、ひとたび自らそれを決定した以上は、どこまでも志を堅くして、薄弱な理由のゆえにこれを変えてはならない。なぜなら、森の中で迷ったならば、その場にたたずむよりも、またあちらこちら迷い歩くよりも、たとえ望む地点ではないにせよ、どこかにたどり着けるからだ。そうすれば、より正しい良い道を知り、また出直すことができる。
 「私の第二の格率は、私の平生の行動の上では私に可能であるかぎり、どこまでも志を堅くして、断じて迷わぬこと、そうしていかに疑わしい意見であるにせよ一たびそれとみずから決定した以上は、それがきわめて確実なものであったかのように、どこまでも忠実にそれに従うということであった。このことを私は旅人になぞらえたのであった。かれらが森の中で道に迷ったならば、もちろん一か所に立ちどまっていてはならないばかりでなく、あちらこちらとさまよい歩いてはならぬ、絶えず同じ方角へとできるだけ真直ぐに歩くべきである。たとえ最初にかれらをしてこの方角を択ぶに至らしめたものがおそらく偶然のみであったにもせよ、薄弱な理由のゆえにこれを変えてはならない。なぜなら、このようにするならば、かれらの望む地点にうまく出られぬにしても、ついには少なくともどこかにたどりつくであろうし、それはたしかに森の中にたたずむよりもよかろうから。さてこれとおなじで、日常の生活行動というものは多くの場合すこしの猶予もゆるさぬから、どれが最も真実な意見であるかを識別する力が私どもに無いときには、蓋然性の最も多い意見に従わねばならぬということがきわめて確かな筋道である。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『方法序説』第三部、p.36、[落合太郎・1967])
(索引:デカルトの第二格率、森の中の旅人の喩え)

方法序説 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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デカルトの第一格率:理性による判断が決意を鈍らせ不決断に陥らせるような場合には、私を育ててきた宗教、聡明な人たちの穏健な意見、国の法律、慣習に服従することで、日々の生活をできるだけ幸福に維持すること。(ルネ・デカルト(1596-1650))

デカルトの第一格率

【デカルトの第一格率:理性による判断が決意を鈍らせ不決断に陥らせるような場合には、私を育ててきた宗教、聡明な人たちの穏健な意見、国の法律、慣習に服従することで、日々の生活をできるだけ幸福に維持すること。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
私のさまざまの判断において、理性が決意を鈍らせているあいだにも、生活はできるだけ幸福につづけてゆき、自分の日々の行動にかぎっては不決断におちいらぬようにしなければならない。そのためには、私を幼時から育ててきた宗教をつねに守りながら、またその他のすべての事においては、最も聡明な人たちが実践上では一般に承認する最も穏健な意見に従って自分の舵を取りながら、国の法律および慣習に服従してゆくのがよい。
 「ところで、自分の住居を改築しはじめるより前に、これを取り払い、多くの材料と建築家を用意し、あるいはみずから建築術を習得し、なおまた綿密にその設計図を作成したりするだけでは十分でなく、その上さらに別の家を準備し、そこで仕事をするあいだも、気持ちよく暮らせることも必要であると同じように、私のさまざまの判断において理性が決意を鈍らせているあいだも、生活はできるだけ幸福につづけてゆき、自分の日々の行動にかぎっては不決断におちいらぬようにと、三、四の格率から成るにすぎないが、私は自分のために当座の準則を作ったのである。私はそれを諸君に伝えたい。
 第一の格率は、神の恵をもって私を幼時から育ててきた宗教をつねに守りながら、またその他のすべての事においては、私がともどもに生きてゆかねばならぬ人々のうちの、最も聡明な人たちが実践上では一般に承認する最も穏健な、極端からは最も遠い意見に従って自分の舵を取りながら、国の法律および慣習に服従してゆこうということであった。なぜというに、その当時から自分自身の意見などはこれをすっかり再検討したかったし、そういうものはいわば無視してかかったようなものであってみれば、最も聡明な人々の意見に従うに越したことはないと私は確信していたからである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『方法序説』第三部、p.34、[落合太郎・1967])
(索引:デカルトの第一格率、宗教、法律、慣習、意見)

方法序説 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2018年1月23日火曜日

哲学とは、真偽を識別し、この人生を導いてくれるようなものだ。自分の人生に大きな影響をもつ、この世間という大きな書物のうちで経験する様々な事物や事件のなかでこそ、私は、多くの真理に出会うことができよう。(ルネ・デカルト(1596-1650))

世間という大きな書物

【哲学とは、真偽を識別し、この人生を導いてくれるようなものだ。自分の人生に大きな影響をもつ、この世間という大きな書物のうちで経験する様々な事物や事件のなかでこそ、私は、多くの真理に出会うことができよう。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 哲学とは、真偽を識別し、自分の行く道をあきらかに見えるようにし、この人生を導いてくれるようなものだ。おのれに何の影響も与えぬような常識を遠ざかった空理を、真実らしいものに見せようと多くの才智や作為を労する学者たちが書斎であやつる推論よりも、一つ判断をあやまればすぐにも処罰されねばならぬ結果をきたすような、おのれにとって重大な事のために各人がこころみる推論においてこそ、はるかに多くの真理に出会うことができよう。そこで私は、(1)私自身のうちと、(2)世間という大きな書物のうちで探究を続けることにした。この中で、さまざまの経験を重ね、運命のさし出す偶然の事件でおのれを鍛錬し、眼の前に現れてくる物事については、そのものから何か利益を引き出せるような反省を加える。
 「この故に、先生たちの監督を離れてもいい年齢に達するやいなや、私は書物による学問を全くやめてしまった。そうして私自身のうちにか、あるいは世間という大きな書物のうちに見いだされうるであろう学問のほかは、どのような学問にしろもはや求めまいと決心し、旅行するために、宮廷と軍隊とを見るために、さまざまの気質や境遇を有する人々を尋ねるために、さまざまの経験を重ねるために、運命のさし出す偶然の事件でおのれを鍛錬するために、また到るところで眼の前に現れてくる物事については、そのものから何か利益を引き出せるような反省を加えるためにも、私は残りの青年時代を用いたのであった。いったい空理を真実らしいものに見せようと労すれば労するほど、いよいよますます多くの才智や作為を用いねばならなくなり、常識を遠ざかれば遠ざかるだけそれだけまた多くの空なるものをそこに見いだすであろうし、それ以外には何ひとつ実現するところなく、おのれに何の影響も与えぬ空理のために、学者たちが書斎であやつる推論においてよりは、一つ判断をあやまればすぐにも処罰されねばならぬ結果をきたすような、おのれにとって重大な事のために各人がこころみる推論においてこそ、はるかに多くの真理に出会うことができようと思われたからである。自分の行く道があきらかに見えるように、この人生において安全に歩けるように、真偽を識別することを学ぼうという、ぎりぎりの欲望を私はつねに持ちつづけた。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『方法序説』第一部、pp.19-20、[落合太郎・1967])
(索引:世間という大きな書物、書物による学問)

方法序説 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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