2019年3月29日金曜日

1.(a)不完全な競争、(b)情報の不完全性、非対称性、(c)外部性の働き、(d)リスク市場の非存在によって、市場の失敗が発生する。高い効率性と繁栄のためには、政府による適切な矯正作業が必要である。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

市場の失敗と政府の役割

【(a)不完全な競争、(b)情報の不完全性、非対称性、(c)外部性の働き、(d)リスク市場の非存在によって、市場の失敗が発生する。高い効率性と繁栄のためには、政府による適切な矯正作業が必要である。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))】

(1)効率的な市場
 市場において個々人が自己利益を最大化させることで、全体の社会的利益を最大化させることができる。
(2)市場の失敗
 市場は、独力で効率的な結果を生み出せない。すなわち、以下の諸原因により、個々人が社会にもたらす利益と個人的報酬が等しくなくなり、全体の社会的利益を最大化させることができなくなる。
 市場の失敗の原因
 (2.1)競争が不完全なとき。
 (2.2)情報の不完全性や情報の非対称性が存在するとき。
  市場取引に関する情報を、誰かが持っている一方で、他の誰かが持っていない状況。
 (2.3)外部性が働いているとき。
  ひとつの集団の行動によって、正もしくは負の影響が他に及ぶ可能性があるものの、集団が正の影響から利益を得ることも、負の影響の代償を支払うこともない状況。
 (2.4)リスク市場が存在しないとき
  たとえば、直面する重大なリスクの多くに対して、保険をかけることができない状況。
(3)政府の役割
 (3.1)政府は、税金と規制にかんする制度設計を通じて、個人のインセンティブと、社会的利益を同調させる必要がある。
 (3.2)重大な市場の失敗に対して、納得できる矯正作業を政府が行なわないかぎり、経済の繁栄は望めないだろう。
(4)2つの考え方
 (4.1)全体の社会的利益を最大化させようとするには、政府の適切な矯正作業が必要である。
 (4.2)社会に対する貢献以上の個人的報酬を獲得しようとするには、政府の規制は少ないほうが都合がいい。
(5)歴史
 世界大恐慌以降の40年間、すぐれた金融規制によって、アメリカと世界は大きな危機を回避してきた。1980年代に規制が緩和されると、その後の30年間は、危機が立て続けに起きるようになった。

 「アダム・スミス自身も、貢献と報酬に差が出る事態を認識していた。「歓楽が目的であれ気晴らしが目的であれ、同業者たちが一堂に会することはまれだが、このような席では最終的に、一般大衆に対する謀議がまとまったり、価格つり上げの仕組みが案出されたりする」とスミスは述べている。

 多くの場合、市場は独力で望ましい効果的な結果を出せないため、政府は市場の失敗を正す役目を果たさなければならない。

具体的に言えば、税金と規制にかんする制度設計を通じて、個人のインセンティブと社会的利益を同調させるのだ(もちろん、何が最善の方法なのかについては、意見の一致が見られるとは言いがたいが、今日では、金融市場の放任を主張する者も、企業に無制限の略奪をゆるすべきだと信じている者も、ほとんどいない)。

政府がきちんと役目を果たせば、労働者や投資家が得る報酬は、彼らが社会にもたらす利益とひとしくなる。これがひとしくならない状態を、わたしたちは”市場の失敗”と呼ぶ。要するに、市場が効率的な結果を生み出せない状態だ。

 個人的報酬と社会的利益がうまく合致しないのは、次のような場合である。

競争が不完全なとき。

”外部性”が働いているとき(ひとつの集団の行動によって、プラスもしくはマイナスの影響がほかに及ぶ可能性があるものの、集団がプラスの影響から利益を得ることも、マイナスの影響の代償を支払うこともない状況)。

情報の不完全性や情報の非対称性が存在するとき(市場取引にかんする情報を、誰かが持っている一方で、ほかの誰かが持っていない状況)。

リスク市場が存在しないとき(たとえば、直面する重大なリスクの多くに対して、保険をかけることができない状況)。

事実上、すべての市場はこれらの条件を一つや二つは満たしており、市場がおおむね効率的であるという推定はほぼ成り立たない。つまり、このような市場の失敗に対して、政府が矯正を行なう余地はきわめて大きいわけだ。

 市場の失敗を政府が完璧に正すことは不可能だが、他国に比べてこの作業をうまくこなしている国もある。重大な市場の失敗に対して、納得できる矯正作業を政府が行なわないかぎり、経済の繁栄は望めないだろう。

世界大恐慌以降の40年間、すぐれた金融規制によって、アメリカと世界は大きな危機を回避してきた。しかし、1980年代に規制が緩和されると、その後の30年間は、危機が立て続けに起きるようになった。2008年から2009年にかけての世界金融危機は、多数の中のひとつがたまたま最悪になっただけだ。

しかし、このような政府の不首尾は偶然の産物ではない。金融界は持てる政治力を使って、市場の失敗が矯正”されない”ように、業界内の個人的報酬が社会的貢献を大きく上回るように、手段を講じてきたのである。これは、金融界に流れ込む利益をふくらませ、最上層のあいだで高水準の不平等を生じさせる一因となった。」
(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第2章 レントシーキング経済と不平等な社会のつくり方,pp.78-79,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
(索引:市場の失敗,政府の役割,効率的な市場)

世界の99%を貧困にする経済


(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。
 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。」(中略)「多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。
 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。」(中略)「こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。
 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。
 つまり、労働法コーポレートガバナンス金融規制貿易協定体系化された差別金融政策課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

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2019年3月27日水曜日

1.義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

義務や正・不正を基礎づけるもの

【義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)利害関心がもたらす偏見や、情念が存在する。
(2)「義務」とは何か、何が「正しく」何が「不正」なのかに関する、私たちの考えが存在する。
(3)(1)偏見や情念と、(2)義務は一致しているとは限らない。
(4)義務の起源や性質に関する、以下の二つの考え方があるが、(a)は誤っており(b)が真実である。
 (a)私たちには、「道徳感情」と言いうるような感覚が存在し、この感覚によって何が正しく、何が不正なのかを判定することができる。
  (a.1)その感覚を私心なく抱いている人にとっては、それが感覚である限りにおいて真実であり、(1)の偏見や情念と区別できるものは何もない。
  (a.2)その感覚が自分の都合に合っている人は、その感覚を「普遍的な本性の法則」であると主張することができる。
 (b)何が正しく、何が不正なのかの問題は、議論に開かれている問題であり、他のあらゆる理論と同じように、証拠なしに受け入れられたり不注意に選別されたりするようなものではない。
  (b.1)ある見解が受け入れられるかどうかは、理性による判断である。
(5)以上から、どのように考えどのように感じる「べき」なのかという問題が生じ、人類の見解や感情を、教育や統治を通じて陶冶していくということが、意義を持つ。
 (5.1)道徳論は、不変なものではなく、人類の経験がより信頼に値するものとなり増大していくことで、知性とともに進歩していくものである。
 (5.2)倫理問題に取り組む唯一の方法は、既存の格率を是正したり、現に抱かれている感情の歪みを正したりすることを目的とした、教育や統治である。

 「道徳感情の教育を任されている人々にとって、道徳感情の起源や性質に関する正しい見解が重要性をもっていることは言うまでもない。道徳論が不変的な理論体系なのか進歩的な理論体系なのかは、道徳感覚の理論の真偽にかかっていると言えるだろう。

もし何が正しく何が不正であるのかを判定する感覚が人間に与えられているということが真実だとしたら、人間の道徳判断や道徳感情には改善の余地がなくなり、とどまるべきところにとどまっていることになる。

人類一般は自分たちの義務という主題についてどのように考えどのように感じる《べき》なのかという問題は、偏見をもたらす利害関心や情念がないとしたら、人間が今どのように考えどのように感じるかを観察することによって決定されなければならない。

それゆえ、教育や統治を通じて主に自分たちで人類の見解や感情を形成することを今まで行なってきた人々にとって、これは注目すべき理論である。この理論体系に基づけば、一般的な偏見はそれに私心なく囚われている人々によって、あるいはそれが自分の都合に合っている人々によって、どのような時にも私たちの普遍的な本性の法則にまで高められることになるだろう。

 それに対して、功利性の理論によれば、私たちの義務とは何かという問題は、他のあらゆる問題と同じく議論に開かれている問題である。道徳理論は他のあらゆる理論と同じように、証拠なしに受け入れられたり不注意に選別されたりするようなものではない。他のあらゆる問題と同じように、ある見解がどれほど受け入れられていても、その見解にではなく涵養された理性による判断に訴えるのである。

人間の知性の弱さや私たちの本性におけるその他の欠点は、他のあらゆる関心事の場合と同じように、私たちが道徳について正しく判断を下そうとする場合に障害になると考えられている。

他のあらゆる問題に関するのと同じように、この問題に関する私たちの見解では、経験がより信頼に値するものとなり増大していくことで知性が進歩し、人類の状態が変化していくことで行為の規則を変更することが必要となるにつれて、大きく変わっていくことが予想される。

 それゆえ、この問題はきわめて重要なものである。そして、既存の格率を是正したり現に抱かれている感情の歪みを正したりすることを《目的とした》、倫理問題に取り組む唯一の方法が抗議の声によってかき消されないようにすることは、人類のもっとも重要な利益に深く関係している。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『セジウィックの論説』,集録本:『功利主義論集』,pp.72-73,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))

(索引:義務,正・不正,情念,感情,道徳論)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年3月26日火曜日

25.世界1の中に符号化、具現化されているものだけが、世界3ではない。人間は、未だ世界1の中に具現化されていない世界3の対象を、把握したり理解したりすることができる。(カール・ポパー(1902-1994))

世界1に具現化されていない世界3の存在

【世界1の中に符号化、具現化されているものだけが、世界3ではない。人間は、未だ世界1の中に具現化されていない世界3の対象を、把握したり理解したりすることができる。(カール・ポパー(1902-1994))】
 「具現化されていない世界3の対象の存在が重要であると私が考える主要な理由はこうである。

もし具現化されていない世界3の対象が存在すれば、世界3の対象を把握したり、理解したりすることは常に、その対象の物質的に具現化されているものとの感覚的な結びつきに依存する、例えば書物の中の一つの理論の言明をわれわれが読むことに依存すると主張するのは正しい考えではない。

この考えに反対して、私は世界3の対象を把握する最も特徴的な仕方は、それらの具現化やわれわれの感覚の使用にほとんど依存しない方法によってであると主張する。

私のテーゼは、人間の心は、常に直接的にというのでなければ、間接的な方法(これは後に議論されることになる)によって世界3の対象を把握する、というものである。この間接的方法とは、対象の具現化とは独立した方法であり、そして(書物のような)世界1にも属する世界3の対象の場合には、それら対象の具現化された事実から抽象する方法である。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P2章 世界1・2・3、12――具現化されていない世界3の諸対象(上)p.72、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:世界3)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年12月10日月曜日

20.私たちのあらゆる諸行為、また不作為は、私たちを形成し改造し続けている。私たちの諸力、諸衝動の傾向、自分自身の評価をも。もし、自分を偽り、信ぜず、恐れ、軽蔑するなら、そのようなものとして形成されるだろう。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

行為が人間をつくる

【私たちのあらゆる諸行為、また不作為は、私たちを形成し改造し続けている。私たちの諸力、諸衝動の傾向、自分自身の評価をも。もし、自分を偽り、信ぜず、恐れ、軽蔑するなら、そのようなものとして形成されるだろう。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)私たちが最も多く実行する諸行為は、結局のところ、私たちの身のまわりの一つの堅い殻のようなものである。
(2)私たちのあらゆる諸行為は、私たちを築き続けることに従事している。
 (2.1)ある種の諸力は行使され、他の諸力は行使されない。
 (2.2)ある情動が、他の諸衝動の出費において、おのれを肯定する。
 (2.3)規則的な不作為も、人間を改造する。
 (2.4)私たち自身に関する、私たちの総体的な評価も、行為によって形成される。
  (a)私は弱いのか、強いのか。
  (b)私は称讃に値するのか、非難に値するのか。
  (c)私は他の人々の判断を恐れなくてはならないのか、それとも、私たちは私たち自身を信じ、自らをどんな光のうちで評価することも許されているのか。
(3)もし常に、おのれを偽り、おのれを信頼せず、おのれを恐れ、おのれを軽蔑するならば、そのような行為はそのような人を作り上げてしまうことであろう。

 「私たちの諸行為は私たちを《改造》する。

あらゆる行為において、或る種の諸力は行使され、他の諸力は行使され《ない》、つまり一時的に放置されるのだ。

或る情動が、つねに、その情動によって力を奪い去られる他の諸衝動の出費において、おのれを肯定するのだ。

私たちが《最も多く実行する》諸行為は、結局のところ、私たちの身のまわりの一つの《堅い殻》のようなものである。

そうした諸行為が無造作に力を要求するのであり、他の諸意図は貫徹されがたくなるだろう。

―――同様に、規則的な不作為も人間を改造する。結局のところ各人を見れば、各人がおのれを《毎日》二、三度《超克》したか、それともつねに放任したかが分かるであろう。

―――これが《あらゆる行為の第一の結果》である。《あらゆる行為は私たちを築き続けることに従事しているのだ》、

―――もちろん《身体的に》も。

 ところであらゆる行為には、これらの諸行為に関連して私たちが《私たちに関して》いだいている意見もまた属している。

《私たちに関する私たちの意見も同様にあらゆる行為の一つの結果である》、

―――あらゆる行為は、私たちが私たちについていだいているところの、弱いのか、強いのか、等々という、称讃に値するのか、非難に値するのかという、私たちは他の人々の判断を恐れなくてはならないのか、私たちは私たちをどんな光のうちでも示すことができるのかという、総体的な評価を築くことに従事しているのである。

おそらくひとは、おのれ自身にうそを言うことに慣れているであろう。

このことの《結果》、つまり、故意に誤った《査定》と目の挫折である見誤りとが、もちろん結局はまた諸行為において現われざるをえないのだ。

おのれに対する偽り、おのれに対する信頼の欠如、おのれに対する恐れ、おのれについての軽蔑―――《無力な本性の持ち主たちの一切のこうした諸衝動》は絶えず《身体》をも変化させる。

克己に欠けているという意識、《下品な》表情が身につく―――ただひとり島で暮らしているとしてすら、そうなのだ。」

(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅱ道徳哲学 七四一、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、pp.366-367、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:行為)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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15.ある一つの絵、ある記号が何を意味するのか。その絵の描き手、記号の使用者の「意図」が分かったとき、その絵、記号の「解釈」が我々に与えられ、絵と記号は実在として我々を取り囲み、我々はその内に住まうようになる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

記号の解釈と意図

【ある一つの絵、ある記号が何を意味するのか。その絵の描き手、記号の使用者の「意図」が分かったとき、その絵、記号の「解釈」が我々に与えられ、絵と記号は実在として我々を取り囲み、我々はその内に住まうようになる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】 

(a)
 a b
(b)
 L R
(c)
 ← →
(d)
 意図とは、思考における記号の用い手の意図である。意図とは、最終的な解釈を与えることである。
 L:左へ行け
 R:右へ行け
(e)
 意図:これは道標である
  ←   解釈:左へ行け
  →   解釈:右へ行け
 意図:これは道路標識である
  →   解釈:この道路は一方通行である
(f)
 何らかの意図
  ある文 →   ある解釈
 ここで我々は、解釈のこれ以上の可能性はないと考えるようになる。

(g)
 何らかの意図
  ある絵 →  ある解釈
 意図をもった絵だけが、物差しとして実在に届く。外側から眺めれば、それはいわば死んでおり、孤立している。
 意図をもつと、われわれは意図空間の内に住み、意図の諸々の像(諸々の影像)の下で、現実の諸々の対象とかかわる。






 「二二九 だが、ある《解釈》は記号によって与えられる。この解釈は別の(異なった意味を与える)解釈との対比において成立している。―――したがって、われわれが「どの文もさらに解釈の必要がある」と言おうとするとき、それは、どんな文も添書きなしでは理解されない、という意味なのである。

 二三〇 それは、
骰子遊びにおいて、ある振りがどれほどの値打ちをもっているかが別の振りによって決まる場合によく似ている。

 二三一 「意図」という言葉によって、わたくしはここで、思考における記号の用い手を意味する。意図するとは、解釈すること、最終的な解釈を与えることであるように思われる。

すなわち、さらにその上に次々と記号や像を与えないでそれ以上もう解釈できない別の何かを与えることであるように思われる。しかし、到達するのは心理的な終点であって、論理的な終点ではない。

 ある記号言語、すなわち〈抽象的な〉記号言語を考えて見よ。わたくしが言っているのは次のような言語、すなわちわれわれが聞きなれたものではなく、そこでわれわれは安住できないような、いわばそこで《ものを考えない》ような言語である。

そしてこの言語は、いわば曖昧なところのない像言語、すなわち遠近法にかなった仕方で描かれた様々な絵からできている言語に翻訳することによって解釈される、と考えてみよう。

書き言葉については様々の《解釈》を考える方が、普通の仕方で描かれた絵についてそれを考えるよりもはるかに容易であるということは明白である。ここでわれわれはまた、解釈のこれ以上の可能性はないと考えるようになる。

 二三二 ここで、われわれは記号言語の内には住まず、描かれた絵の内に住んだのだ、とも言えるかもしれない。

 二三三 「意図をもった絵だけが、物差しとして実在に届く。

外側から眺めれば、それはいわば死んでおり、孤立している。」―――これは、いわば次のようなことである。

われわれははじめ、ある絵を、われわれがその絵の内に住んでおり、その中の諸々の対象は現実の対象のようにわれわれを取り囲んでいるかのように眺める、ついで、そこから身を引き、絵の外に立ち、額縁を眺める、するとその絵は一つの描かれた平面になる。

このように、われわれが意図をもつと、その意図の像はわれわれを取り囲み、われわれはその内に住まう。しかし、その意図から抜け出ると、それは画布の上の単なる斑点になり、生命がなくなり、われわれの関心の対象でもなくなる。

意図をもつと、われわれは意図空間の内に住み、意図の諸々の像(諸々の影像)の下で、現実の諸々の対象とかかわる。

暗い映画館の中に座って、映画の内に浸っている、と想像してみよう。さて館内が点燈されたが、映画は銀幕上でまだ続けられている。しかし、われわれは突然その外に立ち、映画を銀幕上の光と影からなる諸々の斑点の動きとして見る。

 (夢の中で、はじめはある物語を読んでいて、その内に自分自身がその物語の登場人物になる、ということが時折生じる。また夢から醒めた後で、あたかもその夢から抜け出て、今その夢を自分の眼前にある一つの見知らぬ像として見る、といったことが時折生じる。)

したがって、「本の中で暮らす」ということもまたある意味をもっているのである。」

(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『断片』二二九~二三四、全集9、pp.248-250、菅豊彦)
(索引:記号の解釈,意図)

ウィトゲンシュタイン全集 9 確実性の問題/断片


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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2018年12月9日日曜日

003_命題集_ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)

《目次》
(1)存在論
 (1.1)表象の世界
 (1.2)外的世界
 (1.3)記号の意義(思想)の世界
(2)認識論
 (2.1)原始的要素と予備的解明
  (2.1.1)原始的要素
  (2.1.2)意味と習慣
  (2.1.3)予備的解明
 (2.3)記号論
  (2.3.1)聴覚に訴える記号の特徴
  (2.3.2)視覚に訴える記号の特徴
  (2.3.3)思考可能な領域、可算な領域
  (2.3.4)無限とは何か
 (2.4)概念記法
  (2.4.1)概念記法の必要性
  (2.4.2)概念記法の目的と方法
  (2.4.3)論理法則とは何か
 (2.5)公理と定義について
  (2.5.1)ヒルベルトの公理主義
  (2.5.2)ヒルベルトの公理主義への疑問
(3)記号の意義、意味、表象
 (3.1)記号の意義と意味
  (3.1.1)記号、意義、意味の関係
  (3.1.2)例による説明
  (3.1.3)記号、意義、意味の関係を支える意図
  (3.1.4)意味(対象)は存在するか
  (3.1.5)意味が存在しない場合
  (3.1.6)記号、意義、意味の関係 その2
 (3.2)概念語の意義と意味
 (3.3)命題の意義と意味
  (3.3.1)命題の意味が真理値であることの理由
 (3.4)記号に結合する表象
  (3.4.1)記号の意義、意味と、記号に結合する表象
  (3.4.2)記号に結合する表象の特徴
  (3.4.3)記号に結合する表象の違い、意義の違い、意味の違い
 (3.5)言語、文法、思考



(1)存在論
 (1.1)表象の世界
  (a)しかし、私の認識の対象であり得る必ずしも全てが、表象であるのではない。
  (b)私という存在
   諸表象の担い手としての「私自身」も、それ自身が一つの表象ではない。
 (1.2)外的世界
  私以外の人間もまた、諸表象の担い手として存在する。もし、これが確実ではないとしたら、歴史学、義務論、法律、宗教、自然科学なども、存在しないことになろう。
 (1.3)記号の意義(思想)の世界
 (参照:思想の世界は(1)感覚ではなく思考力により把握され、(2)表象とは異なり真理値を持ち、(3)外的世界と同じように我々と独立に存在する。それは、(4)無時間的に存在しており、(5)創造されるというより、むしろ発見される。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)))
  (a) 記号の意義(思想)の世界は、外的世界、表象の世界とは異なる、第三の領域の世界である。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))
  (b)意義は、感覚では捉えられない
   記号の意義は、外的世界のように感覚によって知覚されないという点では、表象と似ている。
  (c)意義は、思考力によって把握される
   我々は、記号の意義を「把握する」。「思想の把握ということに対しては、ある特別な精神的能力、思考力が対応する」。
  (d)意義は、独立して存在する
   記号の意義(思想)の世界は、私から独立のものとして存在する。
  (e)意義は、特定の人に依存しない
   記号の意義は、外的世界が感覚の担い手である特定の人に依存しないという点では、外的世界と似ている。すなわち、我々は記号の意義を恣意的に作り出すのではない。
  (f)意義は、真偽の区別をもつ
   我々と記号の意義との関係は、我々と表象との関係とは異なる。すなわち、記号の意義は単なる表象とは異なっている。表象に真偽の区別はないが、記号の意義(思想)には真偽の区別がある。
  (g)意義の真偽は、発見される
   真偽は、我々から独立している。「事実とは真なる思想である」。従ってまた、真なる思想は、創造されるのではなくして、発見されるものであり、その発見とともに初めて成立し得るというよりも、むしろ「無時間的」に存在していると言える。
  (h) 記号の「意義」は、世代から世代へと引き継いできた人類の共通の蓄積である。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

(2)認識論

 (2.1)原始的要素と予備的解明

  (2.1.1)原始的要素
   数学や論理学には、定義することの不可能な、諸々の論理的な原始的要素が存在する。
  (2.1.2)意味と習慣
   原始的要素は、同じ記号が同じことを表示しているという、研究者の間での習慣的な理解の一致によって、その意味が支えられている。すなわち、完全に形式的な体系であっても、このような人々の習慣に依存している側面が存在する。
  (2.1.3)予備的解明
   意識的に、このような共通理解を作り上げることを、「予備的解明」と呼ぼう。これには、以下の特徴が存在する。
   (a)提示者は、自分が何を意味しているのかを明確に知っていなければならない。また、首尾一貫している必要がある。その際、必要なら比喩的な表現を用いてもよい。
   (b)提示された者には、善意、互いに歩み寄って理解する態度、憶測的な推量といったものを多少とも当てにせざるをえない面がある。
   (c)提示された者が善意をもってしても依然として誤解の恐れが生ずる場合、提示者は予備的解明を補完したり改善する用意がなければならない。
  (参照: 完全に形式的な論理的体系においても、定義できない原始的要素が存在する。それは、人々の共通理解に基礎を持つが、首尾一貫した説明、善意と理解しようとする態度による予備的解明によっても意識的にも達成できる。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)))


 (2.3)記号論

  (2.3.1)聴覚に訴える記号の特徴
   (a)時間的な継起である。
   (b)創出する際に、外的状況にそれほど依存しない。その結果、内的過程と相当程度に親近性をもっている。
   (c)感情に対して緊密な関係にあり、繊細この上ない感情の機微や移ろいにも即応できる。

  (2.3.2)視覚に訴える記号の特徴
  (参照:記号が聴覚的なものから視覚的なものになることで、(a)明確性、持続性、不変性、(b)記号と記号の関係性の表現、(c)全体俯瞰性、(d)記号の操作性、が獲得される。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)))
   (a)われわれの実際の思考運動の絶え間ない流れとは似ていない。
   (b)記号は、鋭利に境界付けがなされ、はっきりと区分されている。この結果、大きな持続性と不変性があり、表記されるものをより明確に示せる。
   (c)二次元的に広がっている書記平面上の文字記号の位置関係は、多様な内的な諸関係を表現するのに用いることができる。
   (d)一瞬一瞬には僅かな部分しか注視できないとしても、多くのことを同時に現前させ、全般的な印象を形成できる可能性を提供してくれる。
   (e)全体から、注意を向けようと思っていることを見つけ出すのが容易になり、必要に応じて、自由に操作することができる。

  (2.3.3)思考可能な領域、可算な領域
    思考の対象となり得るほぼ全てのものは、数え上げることができる。この事実から、実在的なものであれ理念的なものであれ、思考可能な領域と、算術を基礎とした理論の可能な領域には、何らかの関係があると思われる。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

  (2.3.4)無限とは何か
    何によって「無限」が認識されるのか。それは、感覚や表象、一定の記号体系からは得られない。線分や円周には無数の点があり、ある点を通る直線が無数にあるなど、幾何学的な認識が、その源泉である。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))
   (2.3.4.1)無限の認識は、感覚、表象、記号からは得られない。
    (a)感覚知覚からも、無限なものは何も得られない。
    (b)無限は、表象できない。
    (c)数を、一定の記号体系そのものとみなすならば、やはり無限が理解できない。
   (2.3.4.2)それにもかかわらず、形式的算術の記号体系の内容、意義としての数や無限が存在するように思われる。我々の、この無限の理解は、何によってもたらされるのかが問題である。
   (2.3.4.3)例えば、線分や円周には無数の点があり、ある点を通る直線が無数にあるなど、幾何学的な認識が、無限の認識の源泉である。


 (2.4)概念記法

  (2.4.1)概念記法の必要性
  (参照:概念記法の必要性について。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))
   (a)数学における推論に混乱が見られる。
    (1)推論様式が、極めて多様に見える。
    (2)非常に複雑な推論様式が、複数の単純な推論と等価なことがある。
    (3)推論が「正しいと納得」できれば、それでよしとする。
    (4)その結果、論理的なものと直感的なものが混在する。
    (5)その結果、推論されたものを、「総合的な」真理であると勘違いする。
    (6)不明確なまま、「直感」から何かが流入することがある。
    (7)ときには、推論に飛躍がある。
   (b)(a)から、次のものを抽出すること。
    (1)純粋に論理的と承認された、少数の推論様式
    (2)直感に基づく総合的な公理
   (c)すべての数学的証明を、(b)のみから隙間のない推論連鎖により導くこと。
  (2.4.2)概念記法の目的と方法
  (参照:概念記法の目的と手法:隙間のない推論連鎖を、簡潔に見通しよく形式的に確保できるように、「計算のように少数の固定した形式のうちを動く」ような記法を考案すること。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)))
   (a)設定された規則に合致しない推論の移行が混入しないように、一歩ずつ前進してゆくのは非常に手間がかかり、しかも推論式が、途方もない長さになりかねない。この困難を軽減するのが目的である。
   (b)複雑で長い推論の表現を簡潔にして、見通しやすくなるようにする。
   (c)「計算のように少数の固定した形式のうちを動くことによって」、隙間のない推論連鎖をたどることが、自動的に確保されるようにする。

  (2.4.3)論理法則とは何か
   (2.4.3.1)「真であることの法則」と論理法則は、人がそれを「真とみなす」かどうかの心理法則ではなく、何か動かしがたい永遠の基礎に依存しているに違いない。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))
    (a)論理法則は、「真とみなす」ことに関する心理法則ではない。論理法則が真であることは、以下のすべての状況と矛盾するものではない。それは、「真であることの法則」である。
     (i)全ての人によって真とみなされる。
     (ii)多数の人によって真とみなされる。
     (iii)一人の人によって真とみなされる。
     (iv)全ての人によって偽とみなされる。
    (b)真であることは、誰かによって承認されるということに依存しない。従って、「真であることの法則」も、心理法則ではない。
    (c)我々の思考が、「真であることの法則」を逸脱することはあり得るとしても、その法則は何か「動かすことのできない永遠の基礎」を持っているに違いない。
  (2.4.3.2)論理法則は、基本的な諸法則に還元することが可能だが、それらは、何か「我々の本性及び外的事情」によって強制されているように思われる。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))
   (a)論理学は、いくつかの基本的な論理諸法則に還元することが可能である。
   (b)論理学は、(a)以外には、その真であることの基礎に対しては、解答を与えることはできない。
   (c)論理学の外に出るなら、「我々の本性及び外的事情によってこの判断を下すよう我々は強制される」と言える。すなわち、もし我々が思考を混乱させ判断を一切断念してしまうことを望まないならば、我々はその法則を承認しなければならないようなものなのである。

 (2.5)公理と定義について

  (2.5.1)ヒルベルトの公理主義
    (1)公理系が無矛盾なら、それは「真」であり、定義されたものは「存在」すると言い得る、(2)概念は、概念の諸関係によってのみ論理的に定義され得る。(3)公理系は、論理構造が同じ無数の体系に適用可能である。(ダフィット・ヒルベルト(1862-1943))

   (2.5.1.1)任意に措定された公理から、いかなる矛盾も帰結しないならば、公理は「真」である。
    (a)公理が「真」であることから、「矛盾しない」ということが証明されるわけではない。
    (b)このとき、公理によって定義されたものは「存在」すると言ってよい。
   (2.5.1.2)公理の構成全体が、完全な定義を与える。
    (a)概念は、他の概念に対するその関係によってのみ論理的に確定し得る。この関係を、定式化したものが公理である。このようにして、公理は概念を定義している。
    (b)従って、ある公理系に別の公理を追加すれば、追加前の公理を構成していた概念も変化することになる。
    (c)公理の構成要素の個別に、構成的に定義する必要はない。
   (2.5.1.3)公理系は、必然的な相互関係を伴った諸概念の骨組とか図式といったものであり、特定の「基本要素」を前提とするものではない。いかなる公理系も、無限に多くの体系に対して適用できる。

  (2.5.2)ヒルベルトの公理主義への疑問
   公理系の無矛盾性とは異なる、ある「対象」の「存在」の概念が有意味と思われ、その存在は、構成的な定義により示されると思われる。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))
   (2.5.2.1)公理系に矛盾がないことだけから、その公理系が適用可能な「対象」が「存在」するということが、納得できない。「そして恐らくまた、仮に真だとしても役に立たない」と思われる。
    (a) 公理系に矛盾がないことだけから、その公理系が適用可能な「対象」が「存在」するということが、納得できない。喩えではあるが、3つの未知数を持つ3つの連立方程式が、ただ一つの解をつねに持つわけではない。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))
   (2.5.2.2)公理の諸性質を全部満たすような「対象」を、実際に構成してみることが必要と思われる。そして、構成されたものは、確かに「存在」している。
   (2.5.2.2)(a)既に意義の明らかな構成要素から、複合的表現すなわち新たな意義を構成する「構成的定義」、(b)既に用いられている単純記号の意義を分析し、既に意義の明らかな構成要素から再構成する「分析的定義」(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))
    (a)構成的定義
     (a.1)既に意義の明らかな構成要素から、複合的表現すなわち新たな意義を構成する。
     (a.2)構成された複合的表現に、全く新しい単純記号を導入する。
    (b)分析的定義
     (b.1)既に用いられている単純記号Aの意義を、論理的に分析する。
     (b.2)分析された意義を、既に意義の明らかな構成要素から再構成し、これを単純記号Bとして定義する。
     (b.3)問題は、単純記号AとBの意義が同じかどうかである。



(3)記号の意義、意味、表象

(3.1)記号の意義と意味

 記号、意義、意味の間の関係(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))
 (3.1.1)記号、意義、意味の関係
  記号に対して一つの定まった意義が対応し、その意義に対してまた一つの定まった意味が対応する。

 記号 → 一つの意義 → 一つの意味
             =一つの対象

 (3.1.2)例による説明
 参照: 固有名の意義とは? 固有名の意味とは?(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

記号   → 記号の意義   → 記号の意味
 あるいは
固有名

記号結合
表現

記号 → 記号によって→ 記号によって
     表現された   表示された
     対象の様態   特定の対象
※「記号」は「意義」を「表現する」。
※「記号」は「意味」を「表示する」。

宵の明星→ 太陽が沈んだ後、→(金星)
      西の空にどの星
      よりも先に、一
      番明るく輝いて
      いる星。

明けの明星→太陽が昇る前に、→(金星)
      東の空にどの星
      よりも後まで、
      一番明るく輝い
      ている星。

金星 → 太陽系で、太陽 →(金星)
     に近い方から二
     番目の惑星。

 (3.1.3)記号、意義、意味の関係を支える意図
   ある表現が、意義のみを表現しているのか、意味の現存を前提としているのかは、表現の意図によって支えられている。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))
  (a)例えば「月は地球より小さい。」は、意義のみではなく、意味が前提されている。
  (b)例えば、月の表象について語ることが意図されているならば、「私がもつ月の表象」という表現を使わなければならない。
  (c)もちろん、前提された意図に対して、誤った表現がなされることもあり得るし、解釈者が意図を誤って解釈することもあり得よう。

 (3.1.4)意味(対象)は存在するか
  記号の意味、対象が存在するかどうかは、内的世界と同じ確実性は持たないし、誤謬も避けられない。しかし、我々は誤謬の危険を冒しても、外的世界に関する判断を、敢行しなければならない。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))
  (a)内的世界の確実性に比べて、外的世界については疑いが完全に晴れるということはない。
  (b)また、誤謬は実際に起こり、我々は虚構の中に落ち込むこともある。
  (c)しかし、我々は誤謬の危険を冒しても、外的世界の諸物に関する判断を、思い切って敢行しなければならないのである。
 (3.1.5)意味が存在しない場合
  日常言語においては、記号に対して一つの定まった意義が対応し、その意義に対してまた一つの定まった意味が対応するという要請を満たさないことが多く、文脈の指定が必要になることがあるが、それで満足しなければならない。また、意義は持つが、意味を持つかどうか疑わしいこともある。

 記号→一つの意義→(意味がない場合)

 (3.1.6)記号、意義、意味の関係 その2
  逆に、一つの意味(すなわち、一つの対象)に付与される記号は必ずしも一つではない。そして、ある意義は意味の一面を我々に認識させる。すべての側面から意味を認識するためには、あらゆる意義を知る必要があるが、そのようなことは到底我々にはできない。また、同じ一つの意義は、異なる言語によってだけではなく、同一の言語においても異なる表現を有している。

 一つの対象─┬→意義a → 表現a1、表現a2、表現a3、……
=一つの意味 ├→意義b → 表現b1、表現b2、表現b3、……
       └→意義c → 表現c1、表現c2、表現c3、……


(3.2)概念語の意義と意味
  命題の意義とは? 命題の意味とは?(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

固有名→ 固有名の意義→ 固有名の意味
             (対象)

概念語→ 概念語の意義→ 概念語の意味
             (概念)
              ↓
            当の概念に包摂
            される対象
(3.3)命題の意義と意味
命題→ 命題の意義→ 命題の意味
   (思想)    (真理値)

 (3.3.1)命題の意味が真理値であることの理由
  命題の意味が真理値であることの理由。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))
  (a)命題の意味とは、同じ意味を持つ語の置き換えでも変化しないようなものである。
  (b)命題を構成する語の一部を、意味を持たない固有名で置き換えると、命題から失われるものがある。真理値(真偽)である。
  (c)命題の意味を、真理値(真偽)と考えれば、(a)が成立し、また(b)は次のようになる。
   命題を構成する語の一部を、意味を持たない固有名で置き換えると、命題の意味が失われる。
   命題が意味を持つためには、命題を構成する全ての固有名が意味を持つ必要がある。

(3.4)記号に結合する表象
  記号の意義、意味とは別に、記号に結合する表象がある。それは、対象の感覚的印象や、しばしば感情が浸透している内的、外的な行為の内的な像であり、個人ごとに異なり、移ろいやすい。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))
 (3.4.1)記号の意義、意味と、記号に結合する表象
 記号─→一つの意義─→一つの意味
 │         (一つの対象)
 └記号に結合する表象
  ├記号の意味が感覚的
  │ に知覚可能な対象のときは
  │ 私が持っていたその対象の
  │ 感覚的印象
  └対象に関連して私が遂行
    した内的、外的な行為
    から生成する内的な像
 (3.4.2)記号に結合する表象の特徴
 ・像には、しばしば感情が浸透している。
 ・明瞭さは千差万別であり、移ろいやすい。
 ・同一の人物においてすら、同一の表象が同一の意義に結び付いているとは限らない。
 ・一人の人物が持つ表象は、他の人物の表象ではない。
 (3.4.3)記号に結合する表象の違い、意義の違い、意味の違い
   語、表現、文全体を相互に区別する三つの段階:(1)たかだか表象に関わる区分、(2)意義に関わる区分、(3)意味に関わる区分。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))
 さまざまな語、表現、文全体を相互に区別する三つの段階がある。
  (a)意味と意義は同じで、たかだか表象に関わる区分
  ・翻訳を原文と区別するものは、本来、この第一の段階を超えるものではありえない。
  ・また、作詩法や雄弁術が意義に対して付加する色合いと陰影は、この段階のものである。
  (b)意味は同じだが、意義に関わる区分
  (c)意味が異なり、意味に関わる区分

(3.5)言語、文法、思考
  思考を構成する言語と文法は、論理的なものと、表象や感情など心理的なものとの混合体である。これは、複数の異なる言語の比較から明確になる。またこの考察は、純粋に論理的な形式言語や概念記法の有益性も教える。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

 (3.5.1)我々は、ある特定の言語で考えている。
  (a)思考には、表象及び感情と混ざり合っている。
  (b)我々には、表象なしで思考するということは、明らかに不可能である。
 (3.5.2)文法とは、何か。
  (a)文法は、論理が判断に対するのと類比的な重要性を、言語に対して持っている。
  (b)文法は、論理的なものと心理学的なものとの混合体である。
 (3.5.3)論理学は、文法から論理的なものを純粋に取り出すことを課題とする。
  (a)我々は、同じ思想を様々な言語で表現することができるが、異なる言語には、異なる心理学的な装飾が、しばしば纏わりついている。
  (b)外国語を習うことは、言語の違いによる心理学的な装飾を理解させるとともに、純粋に論理的なものの把握にも役に立つ。
  (c)私が提案した数学における形式言語や、概念記法のような根本的に違った方法で、純粋に論理的な方法で思想を表現することができるなら、有益であろう。
 (3.5.4) 論理学者の仕事は、心理学的なものに対する、また一部は言語と文法に対する、絶え間なき闘争ある。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))




(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年12月7日金曜日

19.すべての行為には、多くの無意識的な意図性がある。ある行為が行なわれるための言表され得る意図、動機である意識的な意図は、偽であり得る一つの解釈、恣意的で単純化された一つの偽造である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

行為の無意識的な意図、言表された意図

【すべての行為には、多くの無意識的な意図性がある。ある行為が行なわれるための言表され得る意図、動機である意識的な意図は、偽であり得る一つの解釈、恣意的で単純化された一つの偽造である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(3.5.1)(3.5.2)追加記載。

(3)行為
 我々の行為は、根本において比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的であることに疑いの余地がない。
 (3.1)目的意識的な行為であっても、無数の個々の運動が、明確に意識されることなく遂行される。
  目的意識的な行為も、無数の諸運動が、未知のまま遂行されている。(a)先行する心像は不明確である、(b)意志が制御しているわけではない、(c)現実的な過程は未知のままである、(d)意識による理解は、仮構である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
 (3.2)それらは、私たちには、あらかじめ全く未知のものである。例えば、咀嚼に先行する咀嚼の心像を考えてみること。それは、まったく不明確である。
 (3.3)これらの諸運動は、意志によってひき起こされるのではない。
 (3.4)これらの諸運動は起こるのだが、私たちには明確には、知られないままである。
 (3.5)現実的な経過や本質とは別に、私たちの空想は、私たちが「本質」とみなすのを常とする何らかの仮構を対置する。
  (3.5.1)すべての行為には、多くの無意識的な意図性がある。
  (3.5.2)ある行為が行なわれるための言表され得る意図、動機である意識的な意図は、偽であり得る一つの解釈、恣意的で単純化された一つの偽造である。

 「或る行為の価値を、その行為が行なわれるための動機であった意図にしたがって測定する者は、《意識的な意図》をそのさい考えている。

だが、すべての行為には多くの無意識的な意図性があるのだ。

そして、「意志」や「目的」として前景のうちへと入り込んでくるものは、《多種多様に》解釈可能であって、それ自体一つの徴候にすぎない。

「言表された、また言表されうる意図というもの」は、一つの解釈、《偽》でありうる一つの解釈であり、かつまた、一つの恣意的な単純化や偽造等々なのだ。


 行為の一つの可能的な結果としての《「快」を打算すること》と、拘束され堰き止められた力の発現としての、なんらかの活動自身と結びついた快、これら二つの快を区別するだけでもう、なんという骨折りが必要とされたことか! これはお笑いぐさだ! 

これは、生の快適さと―――道徳的な陶酔や自己崇拝としての《浄福》とが取り違えられるのと同様だ。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅱ道徳哲学 六九三、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、p.338、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:行為、意図)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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「無限」という概念は、「可能」という概念についてのより詳細な規定である。可能性は、論理的可能性、即ち記述の可能性であり、事実的経験に関わる必要がない。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

無限

【「無限」という概念は、「可能」という概念についてのより詳細な規定である。可能性は、論理的可能性、即ち記述の可能性であり、事実的経験に関わる必要がない。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】

 「かくして「無限」という概念は、「可能」という概念についてのより詳細な規定なのである。

無限な可能性は、それ自身、《言語の無限な可能性》として現われるのである。それは、無限についての言明は意味を持っている、といった事の中に現われるのではない。何故なら、そのような言明は存在しないのであるから。

無限な可能性は無限なるものの可能性を意味してはいない。「無限」という語は、可能性を特徴づけるのであり、現実性を特徴づけるのではないのである。

 線分の無限分割可能性は、或る純粋に論理的なるものである。《この》可能性が経験から発生し得ないことは、全く明らかではないか。

 空間と時間の無限分割可能性、連続性―――これら全ては仮説ではない。それらは、記述の可能な形式についての洞察なのである。

 我々は経験から、空間と時間は或る不連続な構造を持っている、と教えられることはあり得ないのか。もし我々が棒を次々と分割して行き、物理的な理由で限界にぶつかるとすれば、このことは、ある命題によって記述せられる経験的事実である。

しかしこの場合、その命題の否定命題もまた意味を持たねばならない。そしてこの事は、更に進んだ分割についての可能的経験もまた我々は記述できねばならないのだ、という事を意味している。

事実、分子の仮説は、もしそれが意味を有するならば、この更に進んだ分割の可能性を前提しているのである。ここにおいて人は、空間の無限分割可能性は事実に関わることではないのだ、という事を知るのである。

我々がここで必要とする可能性は、《論理的》可能性、即ち記述の可能性なのであり、そしてそれは事実的経験に関わる必要がないのである。

 明らかに我々はここにおいては、仮説を問題にしているのではなく、仮説の設定を可能にするところのものを問題にしているのである。

 もちろん我々は、分割可能性に論理的限界を引くことは出来る。しかしそれは、我々は我々の表現の構文法を変えるのだ、という事を意味するのである。もちろんこの事は、我々は、或る経験を前もって排除するという事ではなく、その経験をその記号法によって表現することを断念するという事なのである。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』付録A 無限について、全集5、pp.331-332、黒崎宏)
(索引:無限)

ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団/倫理学講話


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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何によって「無限」が認識されるのか。それは、感覚や表象、一定の記号体系からは得られない。線分や円周には無数の点があり、ある点を通る直線が無数にあるなど、幾何学的な認識が、その源泉である。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

何によって無限が認識されるか

【何によって「無限」が認識されるのか。それは、感覚や表象、一定の記号体系からは得られない。線分や円周には無数の点があり、ある点を通る直線が無数にあるなど、幾何学的な認識が、その源泉である。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(1)無限の認識は、感覚、表象、記号からは得られない。
 (1.1)感覚知覚からも、無限なものは何も得られない。
 (1.2)無限は、表象できない。
 (1.3)数を、一定の記号体系そのものとみなすならば、やはり無限が理解できない。
(2)それにもかかわらず、形式的算術の記号体系の内容、意義としての数や無限が存在するように思われる。我々の、この無限の理解は、何によってもたらされるのかが問題である。
(3)例えば、線分や円周には無数の点があり、ある点を通る直線が無数にあるなど、幾何学的な認識が、無限の認識の源泉である。

 「幾何学的な認識の源泉から、言葉の本来のそして最も強い意味での無限が得られる。ここでわれわれは日常の言語使用から眼を転じるべきである。日常の言語使用においては、「無限に大きい」と「無限に多い」は「きわめて大きい」や「きわめて多い」以上のいかなることも語らないからである。どの(直)線分にも、どの円周にも無限に多くの点があり、どの点にもそれを通る無限に多くの直線がある。われわれがこれらを全体として個々独立に表象できないということはどうでもよい。ある人はより多くを表象でき、またある人はより少なくしか表象できないかもしれないが、われわれはここで心理学や表象や主観的なものの領域にいるわけではなく、むしろ客観的なものの領域、真なるものの領域に立っているのである。ここで、幾何学と哲学は最も近づいている。」(中略)「これらの学問は、双方にとって損害をもたらすほど互いに疎遠であり続けてきた。そうであるから、結局のところ形式的算術、数は数記号にほかならないという見解、が支配的になってきたのである。おそらくその時代はいまだ過ぎ去ってはいないであろう。そのような見解に人々はどうやって到ったのか。数を学問的に取り扱おうとするならば、数として何を理解するかを言う義務を誰でも感じる。この概念的な課題に向かうと誰もが自分の無力さを認識し、即座に数のかわりに数記号を説明する。なぜなら、これらのものは、石や植物、星が見えるように、もちろんあなたの目に見えるからである。あなたはたしかに、石が存在することを疑わない。同じようにあなたは、数が存在することを疑うことはできない。あなたは、数が何ものかを意味する、あるいは数がある内容をもつ、という考えを拒みさえすればよい。そうしないと、われわれは実際その内容を示さなければならず、それは信じられないような困難に導くからである。これらの困難を避けるということがまさしく、形式的算術の強みにほかならない。数が一定の記号の内容や意義ではないということをいくら明確に強調しても強調しすぎということはないのは、そのためである。むしろ、これらの数記号それ自体がまさしく数であり、いかなる内容も意義もまったくもたないのである。哲学的理解のいかなる痕跡も見いだせない者だけがそのように語れる。そのとき、数命題は何も語ることはできないし、数はまったく何の役にも立たず、無価値なものとなる。
 感覚知覚からはいかなる無限なものも得られない、ということは明らかである。また、われわれの目録にどれほど多くの星を取り込むことができるにせよ、それは決して無限に多くではありえないし、大洋の浜辺にある砂粒についても同様である。それゆえ、われわれがどこで無限を正当に承認するにせよ、その承認を感覚知覚から得ようとはしてこなかった。これを得るためには、特別な認識の源泉が必要とされるのであり、幾何学的な認識の源泉はそのようなものの一つなのである。
 空間的なものと並んで、さらに時間的なものが承認されなくてはならない。これにもまた、一つの認識源泉が対応し、この源泉からもわれわれは無限を引き出す。両方向に無限の時間は、両方向に無限な直線に似ている。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『数学と数学的自然科学の認識源泉[一九二四/二五]』292-294、フレーゲ著作集5、pp.306-308、金子洋之)
(索引: 無限)

フレーゲ著作集〈5〉数学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)
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