2020年3月19日木曜日

観測しなくても物理量の値があるという仮定(値の実在論)と局所性と因果律を合わせた理論はベルの不等式を導く。一方で,量子論はベルの不等式の破れを予測し、実験で破れが確認された。局所性と因果律が間違っているとは考えにくいので、値の実在論は誤りである。(谷村省吾(1967-))

値の実在論

【観測しなくても物理量の値があるという仮定(値の実在論)と局所性と因果律を合わせた理論はベルの不等式を導く。一方で,量子論はベルの不等式の破れを予測し、実験で破れが確認された。局所性と因果律が間違っているとは考えにくいので、値の実在論は誤りである。(谷村省吾(1967-))】
 「言葉使いに関する注意だが,科学哲学 [20, 21] で言う実在論(科学的実在論)と,いま問題にしている実在論は,ややニュアンスが異なる。私もよくわかっているわけではないので,哲学的用語解説への深入りは避けたいが,簡単に述べておこう。
 物理学では,電磁場やゲージ場や電子やニュートリノやエントロピーやブラックホールや非可換物理量やヒルベルト空間やラグランジアンのような,人間が直接見たり触れたりできないものを想定することがあるが,たとえ目に見えなくても,またそのようなものを想定する物理理論がなくても,それらが現に存在していると信じる立場を科学的実在論という。
 これに対して,電子のような抽象概念が理論上便利であることは認めるが,文字通りにそのような「もの」があると信じることを保留する立場を反実在論という。ただし,反実在論者と言えども,観測不可能な概念を想定している科学が間違っていると主張しているわけではない。「電子という概念を使うと便利なことは私も知っているが,そのことが電子の存在を信じる根拠になるわけではない。私は,電子がこの世にあるとかないとか,私の目や耳で確かめようのないことは言わない」という立場が,科学哲学でいう反実在論である。反実在論は,控え目で慎重な立場とも言えるが,自分の感覚だけを信じて,ハイテクの観測手段はあてにしないという,わざとらしいアナクロ立論のようにも思える。一方で,物理学者は,例えば机の実在性と電子の実在性とエントロピーの実在性とが同レベルで語られるものではないことをよく知っており,それらを「実在」の一言で表そうとする方に無理があることを心得ている。結局のところ,科学的実在論 vs. 反実在論の哲学論争は,本来多義的であるはずの「実在」という言葉に一義的な定義を押し付けようとして空しい努力を続けているように私には思える。
 本記事で問題にしている実在論は,我々が観測できるものは,適当な条件が満たされれば(単純に言えば,何度観測しても誰が観測しても同じ結果になることを確認する),観測していないときも観測したとおりに存在している,と信ずる立場のことである。とりわけ,いま問題にしているのは,物理量の値の実在性である。例えば,体重は物理量であり,60 キログラムというのは物理量の値である。物理量を測れば値を得るが,測っていないときも物理量の値はあるはずだ,と信ずるのが,いわば「値の実在論」の立場である。
 そして,この「値の実在論」と局所性と因果律を合わせた理論はベルの不等式を導く。一方で,量子論はベルの不等式の破れを予測し,実験でもベルの不等式の破れが確認された。局所性と因果律が間違っているとは考えにくいので,「値の実在論」が現実世界では通用しないのだろう,というのが本記事の結論であった。
 私は,科学的実在論と反実在論のどちらが正しいかという議論をしたいのではないし,一意的な「実在」の定義を探しているのでもない。ただ,この自然界における「実在」の奥行を感じてもらいたくて本記事を書いた。」
『「揺らぐ境界? 非実在が動かす実在」を読んでいろいろ疑問が湧いた人のための補足谷村省吾 名古屋大学
(索引:値の実在論)

(出典:名古屋大学
谷村省吾(1967-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「最近(2020年)、時間の哲学と心の哲学の問題に関わることが多くなり、「意識とは何か、物理系に意識を実装できるか」という問題を本格的に考えたいと思うようになった。裏プロジェクトとして意識の科学化を考えている。
 「科学で扱えるものと扱えないとされるもののギャップ」は、心得ておくべきではあるが、ギャップにこそ重要な問題が隠されており、ギャップを埋める・ギャップを乗り越えることによって科学は進歩してきたとも言える。」(中略)
 「物理学におけるギャップの難問として次のようなものがある。マクロ系によるミクロ系の観測に伴う波束の収縮、量子系から古典系の創発、相対論的系から非相対論的系の出現、可逆力学系から不可逆系の出現、意識なきものから意識あるものの出現「いまある感」の起源、などがそのような例であるが、これらは地続きの問題であり、いずれも機が熟すれば科学的に究明されるべき課題だと私は考えている。」(後略)
(研究の裏で私が意識していること 谷村省吾 名古屋大学谷村省吾(1967-)

谷村省吾(1967-)
TANIMURA Shogo@tani6s
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状態とは「どういう実験を行うか」という設定に他ならない。実験の設定や、観測結果の説明は、古典物理学の用語を適切に用いることで曖昧さなく、表現されなければならない。(谷村省吾(1967-))

波動関数は実在するか

【状態とは「どういう実験を行うか」という設定に他ならない。実験の設定や、観測結果の説明は、古典物理学の用語を適切に用いることで曖昧さなく、表現されなければならない。(谷村省吾(1967-))】
 「量子力学がミクロ世界の物理理論として成功を収めると,「古典力学は近似理論であり,人間の粗 雑な観察を直接的に記述した現象論に過ぎない」という考えが物理学者の間に広まったが,果たしてそれは自然界に対する適切な描像だろうか?量子的な系の記述には古典論の概念が必要だということを Bohr は強調していた.少し長くなるが,Bohr の 1949 年の言葉を引用しよう:
《現象が古典物理学で説明のつく範囲からどれほど外れていても,すべての証拠の説明は古典論の用語で表されなければならない…要するに,「実験」という言葉で私たちが指しているものは,私たちが何を行い何を学んだのかを他人に語ることが可能な状況であり,それゆえ,実験設定や観測結果の説明は,古典物理学の用語を適切に用いることで曖昧さなく表現されなければならない》.
 たしかに測定値や確率は古典物理的な装置で測定され記録される.状態は量子的な物理量に測定値と確率を割り当てる写像であり,結局,状態 (state)とは「どういう実験を行うか」という設定 (setting,situation) に他ならない.「実験の準備=状態の準備」であり,実験は古典物理的な方法で用意され記述される.量子論が登場したことによって古典論が用済みになったのではなく,量子論だけでは世界の記述は完結せず,量子的世界に対面する古典的世界を必要としているのである.」
『波動関数は実在するか 物質的存在ではない.二つの世界をつなぐ窓口である』谷村省吾 名古屋大学
(索引:波動関数は実在するか)

(出典:名古屋大学
谷村省吾(1967-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「最近(2020年)、時間の哲学と心の哲学の問題に関わることが多くなり、「意識とは何か、物理系に意識を実装できるか」という問題を本格的に考えたいと思うようになった。裏プロジェクトとして意識の科学化を考えている。
 「科学で扱えるものと扱えないとされるもののギャップ」は、心得ておくべきではあるが、ギャップにこそ重要な問題が隠されており、ギャップを埋める・ギャップを乗り越えることによって科学は進歩してきたとも言える。」(中略)
 「物理学におけるギャップの難問として次のようなものがある。マクロ系によるミクロ系の観測に伴う波束の収縮、量子系から古典系の創発、相対論的系から非相対論的系の出現、可逆力学系から不可逆系の出現、意識なきものから意識あるものの出現「いまある感」の起源、などがそのような例であるが、これらは地続きの問題であり、いずれも機が熟すれば科学的に究明されるべき課題だと私は考えている。」(後略)
(研究の裏で私が意識していること 谷村省吾 名古屋大学谷村省吾(1967-)

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科学を含む人類の文化の動向を、自然淘汰だけによって理解するのは、当たっていないかもしれない。なぜなら、人間には未来を構想して、現在した方がよいことを検討し選ぶ能力があるからである。(谷村省吾(1967-))

思考と表現の進化論

【科学を含む人類の文化の動向を、自然淘汰だけによって理解するのは、当たっていないかもしれない。なぜなら、人間には未来を構想して、現在した方がよいことを検討し選ぶ能力があるからである。(谷村省吾(1967-))】

参考: 数学による自然界の記述可能性は、奇跡なのだろうか。失敗した数多くの理論の歴史を顧みれば、人の脳に宿ったアイデアのうち、この世界に適応できたものが自然淘汰によって生き残ったというのが、真実のように思われる。(谷村省吾(1967-))
 「また,自然淘汰には善悪の価値判断や,目的論的な計画性がないので,うっかりすると,進化の方向が生物個体の生存にとって不利なだけでなく,遺伝子の増殖にとってすら有利とは思えない方向に進むこともある.そのような例としては,クジャクのオスの羽がよく挙げられる.クジャクのオスの羽は大きくてきらびやかだが,大きすぎて動くのに不便だし,敵にも見つかりやすいし,大きくて美しい羽を形成して維持するにも栄養などのコストがかかる.解釈としては,そのような無駄に大きくて美しい羽を持っていられるオスは美しい羽という代償を払えるくらいに有利な別の特性を備えていると見てよく,メスはそのような優秀な生体を形作る遺伝子を持つオスと交配して,優秀な遺伝子を子に引き継ぎたいのだろうと考えられる.いったんオスが「大きくて美しい羽を作る」遺伝子を獲得し,メスが「大きくて美しい羽を持つオスとの交配を好む」遺伝子を獲得してしまうと,これら2 種の遺伝子がともに手を取り合って淘汰を勝ち進んでしまい,クジャクがいまのような姿になった,と利己的遺伝子説は説明する.しかし本当に子孫繁栄を目的とするなら,こんな無駄の多いデザインをすることはなかったであろう.
 この他にも,自然淘汰・進化は必ずしも個体にとっての改善をもたらさないという例はあるだろう.とくに,遺伝子の突然変異と自然淘汰のプロセスは非常に緩慢なので,環境が急変すると,以前は生存・増殖に有利だった特性が,環境変化後には不利な特性になってしまうことはあり得る.もちろん,その逆に,以前は生存・増殖にさして有利ではなかった特性が,環境変化後には俄然有利に働くこともあり得る.
 遺伝子には,先を見通す能力がないし,将来の計画を立てて準備する能力もない.我々人間は,未来を構想して,現在した方がよいことを検討し選ぶ能力がある,と考えられている.ゆえに,人類の動向を生物進化になぞらえて考えることは当たっていないかもしれない.
 しかし,学問分野のマクロな動向は,個々人の検討・選択によって動いていると言うよりは,抗いがたい潮流のように見えることもある.だからこそ,物理理論の失敗や放棄も起きるのだろう.すべての研究が計画通りによい方向に進むものなら,そのような無駄なことは起きなかったはずである.
 研究分野の将来がいかなるものか予測することは,個人の先見能力よりも高次の能力を要するのかもしれない.我々は自分たちの遠い将来を見通せるほどには賢明ではないことを知る謙虚さを持つべきだと思う.」
『量子論と代数―思考と表現の進化論』谷村省吾 名古屋大学
(索引:思考と表現の進化論)
(出典:名古屋大学
谷村省吾(1967-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「最近(2020年)、時間の哲学と心の哲学の問題に関わることが多くなり、「意識とは何か、物理系に意識を実装できるか」という問題を本格的に考えたいと思うようになった。裏プロジェクトとして意識の科学化を考えている。
 「科学で扱えるものと扱えないとされるもののギャップ」は、心得ておくべきではあるが、ギャップにこそ重要な問題が隠されており、ギャップを埋める・ギャップを乗り越えることによって科学は進歩してきたとも言える。」(中略)
 「物理学におけるギャップの難問として次のようなものがある。マクロ系によるミクロ系の観測に伴う波束の収縮、量子系から古典系の創発、相対論的系から非相対論的系の出現、可逆力学系から不可逆系の出現、意識なきものから意識あるものの出現「いまある感」の起源、などがそのような例であるが、これらは地続きの問題であり、いずれも機が熟すれば科学的に究明されるべき課題だと私は考えている。」(後略)
(研究の裏で私が意識していること 谷村省吾 名古屋大学谷村省吾(1967-)

谷村省吾(1967-)
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2020年3月18日水曜日

数学による自然界の記述可能性は、奇跡なのだろうか。失敗した数多くの理論の歴史を顧みれば、人の脳に宿ったアイデアのうち、この世界に適応できたものが自然淘汰によって生き残ったというのが、真実のように思われる。(谷村省吾(1967-))

思考と表現の進化論

【数学による自然界の記述可能性は、奇跡なのだろうか。失敗した数多くの理論の歴史を顧みれば、人の脳に宿ったアイデアのうち、この世界に適応できたものが自然淘汰によって生き残ったというのが、真実のように思われる。(谷村省吾(1967-))】

関連命題: 人間は自然の一部分であって他の諸部分と密接に結合している。だから、もしこの自然がいまとは異なった仕方で創造されていたとしたら、我々の本性もまた、それら創造された事物を理解し得るようなものに創られていたことであろう。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))

(出典:wikipedia

関連命題: 生命は、激烈な闘争と自然淘汰の結果として存在しているが、命をかけ暴力を使うことなく、試行し、誤りを排除できる方法が発現し、圧倒的な優位を獲得した。それが、人間の心の発現と、文化(世界3)の発現である。(カール・ポパー(1902-1994))
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「遺伝子のことを英語でgene(ジーン)と言い,模倣のことをmime(マイム,パントマイムのマイム)と言うが,「ジーン」のような響きがするようにマイムを言い換えたのが「ミーム」である.要するに,人の脳に宿って人の行動様式を変え,他の人に乗り移って,受け取った人もそのような行動をまねし出すときに,宿ったり増殖したりしているものがミームである.遺伝子の物理的実体は分子だが,ミームの物理的実体は特定し難く,私はそれをアイデアと呼んだ.
 話がずいぶん脇道に逸れたが,要するに我々が数学とか物理学と呼んでいるものもミーム群だということが言いたいのである10).数学も物理学も誰かが考え出したものであり,人の手を加えられ,人から人へと伝えられるものである.人が建物を建てたり,船を動かしたり,ロケットを打ち上げたり,テレビで映像を伝えたり,合成繊維で服を作ったり,遺伝子操作で病気になりにくい野菜を作ったり,人がいろいろなことをする上で自然科学の知識を使って物に働きかけるとうまくいったのである.自然科学がうまくいっているのは,それがこの世界に適応しているからである.数学の一部分が自然界の規則性の記述にちょうどうまく当てはまり,それを使うとものごとが正確に予測できることがわかったので,みんながそれをまねして使うようになったのである.」
『量子論と代数―思考と表現の進化論』谷村省吾 名古屋大学
 「たしかに,明瞭な数学的体裁の整った物理理論が自然現象を正確に予測するという成功例は数多くあり,そういう正確な予測力が物理学の魅力であり有用性の源でもあることは間違いないと私も思う.しかし待てよと私は言いたい.
 数学的体裁は整っていたが現実の現象を予測・説明することに関して失敗した物理理論もあるし,逆に,体裁は不細工であったが,なかなかの成功をおさめた物理理論もある.」(中略)
 「話が長くなったが,数学的な物理理論の素晴らしい成功にウィグナーはいたく感心し,これは奇跡ではなかろうかというところまで行っているが,それは華々しい成功例だけに目を奪われすぎでしょうということを私は言いたかったのである.現実には,大失敗もあったし,ほどほどの中途半端な成功もあったし,当初の目的に関しては失敗したけど副産物を得たというケースもあるのである.
 成功したものだけが多くの子孫を残すことこそ自然淘汰の特性であり,結果的に目につくものは成功例ばかりになってしまい,奇跡が起こったかのように見えてしまうのである.」
『量子論と代数―思考と表現の進化論』谷村省吾 名古屋大学
(索引:思考と表現の進化論)

(出典:名古屋大学
谷村省吾(1967-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「最近(2020年)、時間の哲学と心の哲学の問題に関わることが多くなり、「意識とは何か、物理系に意識を実装できるか」という問題を本格的に考えたいと思うようになった。裏プロジェクトとして意識の科学化を考えている。
 「科学で扱えるものと扱えないとされるもののギャップ」は、心得ておくべきではあるが、ギャップにこそ重要な問題が隠されており、ギャップを埋める・ギャップを乗り越えることによって科学は進歩してきたとも言える。」(中略)
 「物理学におけるギャップの難問として次のようなものがある。マクロ系によるミクロ系の観測に伴う波束の収縮、量子系から古典系の創発、相対論的系から非相対論的系の出現、可逆力学系から不可逆系の出現、意識なきものから意識あるものの出現「いまある感」の起源、などがそのような例であるが、これらは地続きの問題であり、いずれも機が熟すれば科学的に究明されるべき課題だと私は考えている。」(後略)
(研究の裏で私が意識していること 谷村省吾 名古屋大学谷村省吾(1967-)

谷村省吾(1967-)
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2019年11月25日月曜日

8.自分で目標を決め、方策を考え決定を下し、実現してゆくという積極的自由は、歪曲されてきた。(a)欲望、情念は「低次」で、自律的ではないとする説、(b)「高次」の良い目標のためには、目標が強制できるとする説である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

積極的自由の歪曲

【自分で目標を決め、方策を考え決定を下し、実現してゆくという積極的自由は、歪曲されてきた。(a)欲望、情念は「低次」で、自律的ではないとする説、(b)「高次」の良い目標のためには、目標が強制できるとする説である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

 (2.2)追加。
 (2.3)追加。

(2)積極的自由
 「あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、またはだれであるか」という問いに対する答えのなかに含まれている。
 干渉や妨害からの自由である消極的自由とは区別される、積極的自由の概念がある。自分で目標を決め、実現するための方策を考え、決定を下し、自分の目標を実現していけるという自由である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
 (2.1)自分自身が、主人公でありたいという個人の願望
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
 (2.2)積極的自由の歪曲1:欲望・情念・衝動
  欲望、情念、衝動は低次で、制御できず、非合理的なので、自律的で自由とは言えない。
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)欲望、快楽の追求 「低次」なのか?
   (ii)情念 「制御できない」のか?
   (iii)社会的な諸価値の体系 「高次」「真実」「理想的」なのか?
   (iv)理性による判断
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
   (i)衝動 「非合理的」なのか?
   (ii)理性による判断
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
   (i)衝動 「非合理的」なのか?
   (ii)理性による判断
 (2.3)積極的自由の歪曲2:良い目標のための消極的自由の制限
  正義なり、公共の健康など良い目標のためであれば、人々に強制を加えることは可能であり、時として正当化され得る。
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)個人が自分で目標を決めるのではなく、「良い目標」を強制される。
   (ii)強制される人は、「啓発されたならば」自らその「良い目標」を進んで追求するとされる。
   (iii)すなわち、本人よりも、強制を加えようとする人の方が、「真の」必要を知っていると考えてられている。
   (iv)欲望や情念より、社会的な諸価値の方が「高次」で「真実」の目標なのだという教説とともに、民族や教会や国家の諸価値が導入され、これが「真の自由」であるとされる。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。

 「ひとが自分自身の主人であることに存する自由と、わたくしが自分のする選択を他人から妨げられないことに存する自由とは、文字面では相互にたいした論理的なちがいのない概念であるように見え、ただ同じことを消極的にいっているか積極的にいっているかのいいあらわし方の相違があるにすぎないと思われるかもしれない。

けれども、この自由の「積極的」観念と「消極的」観念とはそれぞれ異なる方向に展開され、最後には両者が直接に衝突するところまでゆく。

 このことをはっきりさせるひとつの方法は、自己支配 selfmastery という暗喩が要求する自律的な力を見てみることにある。

「わたくしはわたくし自身の主人である」。「わたくしはいかなるひとの奴隷でもない」。

だがわたくしは(たとえばT・H・グリーンがいつもいっているように)自然の奴隷ではないのであろうか。あるいはまた、わたくし自身の「制御できない」情念の奴隷ではなかろうか。これらはいずれも「奴隷」という同一の類のなかのいくつかの種――あるものは政治的ないし法律的、他のものは道徳的ないし精神的な――であるのではないだろうか。

ひとは精神的隷従あるいは自然への隷従から解放されたという経験をもったことがないであろうか、またその過程において、一方では支配する自我、他方では服従させられるなにものかを自分のうちに自覚することがないであろうか。

ところでこの支配する自我は、理性とか「より高次の本性」とか、また結局は自我を満足させるであろうところのものを目ざし計算する自我とか、「真実」の、「理想的」の、「自律的」な自我、さらには「最善」の自我とかいったものとさまざまに同一化されてくる。

そしてこの支配する自我は、非合理的な衝動や制御できない欲望、わたくしの「低次」の本性、直接的な快楽の追求、と対置される。

この「経験的」あるいは「他律的」な自我は、激発するすべての欲望や情念にさらわれてしまうものであり、その「真実」の本性の高みにまで引き上げられるためには厳しい訓練を必要とするものである。

やがてこの二つの自我はさらに大きなギャップによってへだてられたものとして説明されることになる。

真の自我は個人的な自我(普通に理解される意味で)よりももっと広大なもの、個人がそれの一要素あるいは一局面であるようなひとつの社会的「全体」――種族、民族、教会、国家、また生者・死者およびいまだ生まれきたらざる者をも含む大き社会――として考えられる。

こうなるとその全体は、集団的ないし「有機体的」な唯一の意志を反抗するその「成員」に強いることによって、それ自身の、したがってまたその成員たちの、「より高い」レヴェルの自由にまで高めるために、あるひとびとによって加えられる強制を正当化するのに有機体的な暗喩を用いることの危険性は、これまでにもしばしば指摘されてきたことだ。

けれども、この種の議論にひじょうなもっともらしさを与えるゆえんのものは、ある目標(正義といい公共の健康という)の名においてひとを強制することが可能であり、時としては正当化もされるということをわれわれが認めているところにある。

その目標は、もしもかれらがさらに啓発されたならば、当然みずから進んで追求するはずの目標であり、現にいまかられが追求していないのは、かれらが盲目、無知で、堕落しているからなのだといわれる。

これによってわたくしは、他のひとびとをかれらのために、わたくしのではなくかれらの利益のために、強制していると容易に考えることができるようになる。

わたくしは、かれらが真の必要としているものをかれら以上によく知っていると主張しているわけだ。

せいぜいのところ、ここから引き出されてくるものは、かられが理性的で、わたくしと同じくらいに賢明であり、わたくしと同じようにかれらの利害を理解するならば、かれらは決してわたくしに反抗しはしないであろうということである。

しかしながら、さらにこれ以上の主張をするところまで進むこともできる。

かれらは、その無知状態にあってかれらが意識的には抵抗しているものを、実際には目ざしているのだ。なぜなら、かれらのうちにはひとつの隠れた実体――潜在的な理性的意志あるいは「真」の目的――があるからである。

そしてこの実体は、かられが公然と感じたり、したり、いったりしていることすべてによって裏切られているけれども、実はかられの「真実」の自我なのである。

時間・空間のなかにある貧弱な経験的自我はこの「真実」の自我についてはなにも、あるいはほとんど知ることはできない。この内面的な精神こそ、それの願望を斟酌するに値する唯一の自我であるというわけだ。

いったんこのような見地をとったならば、わたくしはひとびとなり社会なりの現実の願望を無視し、かられの「真実」の自我の名において、かられの「真実」の自我のために、かれらを嚇し、抑圧し、拷問にかけることができるようになる。

人間の真の目標がなんであれ(幸福、義務の遂行、知恵、正義の社会、自己完成)、それは人間の自由――たとえいまは底に潜んでいてはっきり見えないにしてもその「真」の自我の自由な選択――と同一でなければならぬことは確実なのであるから。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),2 「積極的」自由の概念,pp.26-29,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:積極的自由,積極的自由の歪曲)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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他人に危害が及ぶ行為は排除されるが、行為しないことによって他人に危害が発生する場合や、他人の利益になる行為は、個人の自由に任せる長所や、社会の管理による弊害を考慮して、義務とすべきか考える必要がある。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

他人に関係のある行為

【他人に危害が及ぶ行為は排除されるが、行為しないことによって他人に危害が発生する場合や、他人の利益になる行為は、個人の自由に任せる長所や、社会の管理による弊害を考慮して、義務とすべきか考える必要がある。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】


   (2.2.3.1)追加。


  (2.2.3)強制が正当化される理由
   (2.2.3.1)ある人の行為が、他人に関係するとき。
    (a)ある人の行為によって、他人に危害が及ぶとき。
     その行為をしないように、強制することが正当である。
    (b)ある人が行動しなかったことによって、他人に害を与えることになるとき。
     (i)この場合も、他人に与えた被害について責任を負うのが当然である。
     (ii)ただし、強制力の行使は、はるかに慎重にならなければならない。責任を問うのは、どちらかといえば例外である。だが、責任が明白で重大なことから、例外として責任を問うのが適切な場合はかなり多い。
     (iii)考えるための事例。
      ・命の危険にさらされている人を助けること。
      ・虐待されている弱者を保護するために干渉すること。
    (c)ある人の行為によって、他人の利益になるとき。
     (i)各人にその行動をとるよう強制するのが適切だともいえるものが多数ある。
     (ii)逆に、社会による強制が好ましくない場合。
      ・自由意思に任せておく方が、本人が全体として良い行動をとる可能性が高い場合。
      ・社会が管理しようとすると、より大きな害悪が生まれると予想される場合。
     (iii)考えるための事例。
      ・裁判所で証言すること。
      ・社会のために必要な防衛などの共同の仕事に参加して、応分の義務を果たすこと。
    (d)義務と考えられている行為
     行動をとらなかったときに、社会に対する責任を問われることになる。
   (2.2.3.2)ある人の行為が、本人だけに関係しており、他人には関係がないとき。
   いかに奇妙な行為でも当人以外に無関係なら、妨害は不当である。また、いかに「良い」と思われる行為でも、忠告や説得を超える強制は不当である。その行為によって他人に危害が及ぶ場合のみ、強制は正当化される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

    (a)いかに奇妙な行為でも当人以外に無関係なら、妨害は不当である。
     (i)各人は、自分自身の身体と心に対して、絶対的な自主独立を維持する権利を持っている。
     (ii)ただし、子供や、法的に成人に達していない若者は対象にならない。
    (b)ある人に、物質的にか精神的にか「良い」行為をさせたいとき。
     (i)その当人にある行動を強制したり、ある行動を控えるように強制することは、正当ではない。ましては、その「良い」行為をしなかったことを、処罰するのは不当である。
     (ii)忠告したり、理を説いたり、説得したり、懇願することは、正当である。

 「あらかじめお断りしておきたいことがある。効用との関係を切り離して正義を抽象的にとらえる見方によっても、以上の主張を裏付けることができるが、その利点は利用しない。効用(つまり有益さ)こそが、倫理に関するすべての問題を判断するときの最終的な規準だとわたしは考えている。ただし、その際の効用は、もっとも広い意味のものでなければならない。進歩しつづける存在としての人間の恒久的な利害に基づく効用でなければならない。こうした利害に基づけば、個人の自発性を外部の管理のもとにおくのが正当だといえるのは、個人の行動が他人の利害に関係する場合だけだと主張したい。他人に害を与える行動をとったとき、その人を法律によって処罰するのが当然であり、刑罰を適用できる行動でない場合には、世論の非難によって罰するのが当然だと、まずは推定できる。また、他人の利益になる行動には、各人にその行動をとるよう強制するのが適切だともいえるものが多数ある。たとえば、裁判所で証言すること、自分を保護している社会のために必要な防衛などの共同の仕事に参加して応分の義務を果たすこと、命の危険にさらされている人を助け、虐待されている弱者を保護するために干渉するなど、他人のために個人でできる行動をとることといった点があげられる。これらの行動をとるのが明らかな義務である場合、行動をとらなかったときに社会に対する責任を問われるのが適切だともいえる。人は行動によって他人に害を与えることがあるが、行動しなかったために他人に害を与えることもあり、どちらの場合にも他人に与えた被害について責任を負うのが当然である。もっとも、行動しないことへの責任を問う場合には、行動への責任を問うときとくらべて、強制力の行使にはるかに慎重にならなければならない。他人に害を与える行動をとったときに責任を問うのが原則であって、他人に害が及ぶのを防ぐ行動をとらなかったときに責任を問うのは、どちらかといえば例外である。だが、責任が明白で重大なことから、例外として責任を問うのが適切な場合はかなり多い。個人は外部世界と関係するすべての点で、それらの点に利害関係をもつ人びとに対して、そして必要な場合にはそれらの人びとを保護する立場にある社会に対して、責任を負うのが当然である。責任を問わないのが適切だとする理由が十分にある場合も少なくないが、そうした理由は個々の事例の特殊な事情によるもののはずである。つまり、社会が行使できる手段を使ってその人物を管理するより、自由意思に任せておく方が、本人が全体として良い行動をとる可能性が高い場合か、社会が管理しようとすると、防ごうとする害悪より大きな害悪が生まれると予想される場合である。こうした理由で社会が責任を強制しなかった場合、責任を問われなかった人はみずからの良心を裁判官として、他人の利益のうち社会の保護を受けていない部分を守るようにつとめるべきである。他人の判断にしたがうよう強制されないのだから、通常よりも厳しく自分自身を裁くべきである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第1章 はじめに,pp.28-30,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:他人に関係のある行為)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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私たちが、互いを理解し赦しの眼差しで大切にしあい、一つの運命共同体に属していると知るなら、共通の未来を確実に安全なものとするため、各集団の利益を後回しにし、和解と平和のため共に歩み闘うことが実現できる。(フランシスコ教皇(1936-),2019/11/24 広島)

相互理解と運命共同体

【私たちが、互いを理解し赦しの眼差しで大切にしあい、一つの運命共同体に属していると知るなら、共通の未来を確実に安全なものとするため、各集団の利益を後回しにし、和解と平和のため共に歩み闘うことが実現できる。(フランシスコ教皇(1936-),2019/11/24 広島)】
(出典:wikipedia
フランシスコ教皇(1936-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
「広島 平和公園でのスピーチ
教皇のスピーチ
広島の平和公園にて
2019年11月24日
「わたしはいおう、わたしの兄弟、友のために。『あなたのうちに平和があるように』」(詩編122・8)。

あわれみの神、歴史の主よ、この場所から、わたしたちはあなたに目を向けます。死といのち、崩壊と再生、苦しみといつくしみの交差するこの場所から。

ここで、大勢の人が、その夢と希望が、一瞬の閃光と炎によって跡形もなく消され、影と沈黙だけが残りました。一瞬のうちに、すべてが破壊と死というブラックホールに飲み込まれました。その沈黙の淵から、亡き人々のすさまじい叫び声が、今なお聞こえてきます。さまざまな場所から集まり、それぞれの名をもち、なかには、異なる言語を話す人たちもいました。そのすべての人が、同じ運命によって、このおぞましい一瞬で結ばれたのです。その瞬間は、この国の歴史だけでなく、人類の顔に永遠に刻まれました。

この場所のすべての犠牲者を記憶にとどめます。また、あの時を生き延びたかたがたを前に、その強さと誇りに、深く敬意を表します。その後の長きにわたり、身体の激しい苦痛と、心の中の生きる力をむしばんでいく死の兆しを忍んでこられたからです。

わたしは平和の巡礼者として、この場所を訪れなければならないと感じていました。激しい暴力の犠牲となった罪のない人々を思い出し、現代社会の人々の願いと望みを胸にしつつ、静かに祈るためです。とくに若者たち、平和を望み、平和のために働き、平和のために自らを犠牲にする若者たちの願いと望みです。わたしは記憶と未来にあふれるこの場所に、貧しい人たちの叫びも携えて参りました。貧しい人々はいつの時代も、憎しみと対立の無防備な犠牲者だからです。

わたしはへりくだり、声を発しても耳を貸してもらえない人々の声になりたいと思います。現代社会が直面する増大した緊張状態を、不安と苦悩を抱えて見つめる人々の声です。それは、人類の共生を脅かす受け入れがたい不平等と不正義、わたしたちの共通の家を世話する能力の著しい欠如、また、あたかもそれで未来の平和が保障されるかのように行われる、継続的あるいは突発的な武力行使などに対する声です。

確信をもって、あらためて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代において、犯罪以外の何ものでもありません。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反します。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。2年前に私が言ったように、核兵器の所有も倫理に反します。これについて、わたしたちは神の裁きを受けることになります。次の世代の人々が、わたしたちの失態を裁く裁判官として立ち上がるでしょう。平和について話すだけで、諸国間の行動を何一つしなかったと。戦争のための最新鋭で強力な兵器を製造しながら、平和について話すことなどどうしてできるでしょうか。差別と憎悪の演説という役に立たない行為をいくらかするだけで自らを正当化しながら、どうして平和について話せるでしょうか。

平和は、それが真理を基盤とし、正義に従って実現し、愛によって息づき完成され、自由において形成されないのであれば、単なる「発せられることば」に過ぎなくなると確信しています。(聖ヨハネ23世回勅『パーチェム・イン・テリス――地上の平和』37〔邦訳20〕参照)。真理と正義をもって平和を築くとは、「人間の間には、知識、徳、才能、物質的資力などの差がしばしば著しく存在する」(同上87〔同49〕)のを認めることです。ですから、自分だけの利益を他者に押し付けることはいっさい正当化できません。その逆に、差の存在を認めることは、強い責任と敬意の源となるのです。同じく政治共同体は、文化や経済成長といった面ではそれぞれ正当に差を有していても、「相互の進歩に対して」(同88〔同49〕)、すべての人の善益のために働く責務へと招かれています。

実際、より正義にかなう安全な社会を築きたいと真に望むならば、武器を手放さなければなりません。「武器を手にしたまま、愛することはできません」(聖パウロ6世「国連でのスピーチ(1965年10月4日)」10)。武力の論理に屈し、対話から遠ざかってしまえば、いっそうの犠牲者と廃墟を生み出すことが分かっていながら、武力が悪夢をもたらすことを忘れてしまうのです。武力は「膨大な出費を要し、連帯を推し進める企画や有益な作業計画が滞り、民の心理を台なしにします」(同)。紛争の正当な解決策であるとして、核戦争の脅威で威嚇することに頼りながら、どうして平和を提案できるでしょうか。この底知れぬ苦しみが、決して越えてはならない一線を自覚させてくれますように。真の平和とは、非武装の平和以外にありえません。それに、「平和は単に戦争がないことでもな〔く〕、……たえず建設されるべきもの」(第二バチカン公会議『現代世界憲章』78)です。それは正義の結果であり、発展の結果、連帯の結果であり、わたしたちの共通の家の世話の結果、共通善を促進した結果生まれるものなのです。わたしたちは歴史から学ばなければなりません。

思い出し、ともに歩み、守ること。この三つは、倫理的命令です。これらは、まさにここ広島において、よりいっそう強く、より普遍的な意味をもちます。この三つには、平和となる真の道を切り開く力があります。したがって、現在と将来の世代が、ここで起きた出来事を忘れるようなことがあってはなりません。記憶は、より正義にかない、いっそう兄弟愛にあふれる将来を築くための、保証であり起爆剤なのです。すべての人の良心を目覚めさせられる、広がる力のある記憶です。わけても、国々の運命に対し、今、特別な役割を負っているかたがたの良心に訴えるはずです。これからの世代に向かって、言い続ける助けとなる記憶です。二度と繰り返しません、と。

だからこそわたしたちは、ともに歩むよう求められているのです。理解とゆるしのまなざしで、希望の地平を切り開き、現代の空を覆うおびただしい黒雲の中に、一条の光をもたらすのです。希望に心を開きましょう。和解と平和の道具となりましょう。それは、わたしたちが互いを大切にし、運命共同体で結ばれていると知るなら、いつでも実現可能です。現代世界は、グローバル化で結ばれているだけでなく、共通の大地によっても、いつも相互に結ばれています。共通の未来を確実に安全なものとするために、責任をもって闘う偉大な人となるよう、それぞれのグループや集団が排他的利益を後回しにすることが、かつてないほど求められています。

神に向かい、すべての善意の人に向かい、一つの願いとして、原爆と核実験とあらゆる紛争のすべての犠牲者の名によって、声を合わせて叫びましょう。戦争はもういらない! 兵器の轟音はもういらない! こんな苦しみはもういらない! と。わたしたちの時代に、わたしたちのいるこの世界に、平和が来ますように。神よ、あなたは約束してくださいました。「いつくしみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます」(詩編85・11-12)。

主よ、急いで来てください。破壊があふれた場所に、今とは違う歴史を描き実現する希望があふれますように。平和の君である主よ、来てください。わたしたちをあなたの平和の道具、あなたの平和を響かせるものとしてください!

私は、君とともに平和を唱えます。」
(出典:ローマ教皇 長崎 広島でのスピーチ(全文) 2019年11月24日NHK
(索引:相互理解,運命共同体,赦しの眼差し,共通の未来)

広島、長崎で起きた出来事を記憶し、二度と繰り返さないと言い続けることは、倫理的命令である。それは、政治家を含むすべての人々の良心を目覚めさせ、より正義にかなった未来を築くための保証であり起爆剤である。(フランシスコ教皇(1936-),2019/11/24 広島)

記憶することの倫理的命令

【広島、長崎で起きた出来事を記憶し、二度と繰り返さないと言い続けることは、倫理的命令である。それは、政治家を含むすべての人々の良心を目覚めさせ、より正義にかなった未来を築くための保証であり起爆剤である。(フランシスコ教皇(1936-),2019/11/24 広島)】
(出典:wikipedia
フランシスコ教皇(1936-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
「広島 平和公園でのスピーチ
教皇のスピーチ
広島の平和公園にて
2019年11月24日
「わたしはいおう、わたしの兄弟、友のために。『あなたのうちに平和があるように』」(詩編122・8)。

あわれみの神、歴史の主よ、この場所から、わたしたちはあなたに目を向けます。死といのち、崩壊と再生、苦しみといつくしみの交差するこの場所から。

ここで、大勢の人が、その夢と希望が、一瞬の閃光と炎によって跡形もなく消され、影と沈黙だけが残りました。一瞬のうちに、すべてが破壊と死というブラックホールに飲み込まれました。その沈黙の淵から、亡き人々のすさまじい叫び声が、今なお聞こえてきます。さまざまな場所から集まり、それぞれの名をもち、なかには、異なる言語を話す人たちもいました。そのすべての人が、同じ運命によって、このおぞましい一瞬で結ばれたのです。その瞬間は、この国の歴史だけでなく、人類の顔に永遠に刻まれました。

この場所のすべての犠牲者を記憶にとどめます。また、あの時を生き延びたかたがたを前に、その強さと誇りに、深く敬意を表します。その後の長きにわたり、身体の激しい苦痛と、心の中の生きる力をむしばんでいく死の兆しを忍んでこられたからです。

わたしは平和の巡礼者として、この場所を訪れなければならないと感じていました。激しい暴力の犠牲となった罪のない人々を思い出し、現代社会の人々の願いと望みを胸にしつつ、静かに祈るためです。とくに若者たち、平和を望み、平和のために働き、平和のために自らを犠牲にする若者たちの願いと望みです。わたしは記憶と未来にあふれるこの場所に、貧しい人たちの叫びも携えて参りました。貧しい人々はいつの時代も、憎しみと対立の無防備な犠牲者だからです。

わたしはへりくだり、声を発しても耳を貸してもらえない人々の声になりたいと思います。現代社会が直面する増大した緊張状態を、不安と苦悩を抱えて見つめる人々の声です。それは、人類の共生を脅かす受け入れがたい不平等と不正義、わたしたちの共通の家を世話する能力の著しい欠如、また、あたかもそれで未来の平和が保障されるかのように行われる、継続的あるいは突発的な武力行使などに対する声です。

確信をもって、あらためて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代において、犯罪以外の何ものでもありません。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反します。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。2年前に私が言ったように、核兵器の所有も倫理に反します。これについて、わたしたちは神の裁きを受けることになります。次の世代の人々が、わたしたちの失態を裁く裁判官として立ち上がるでしょう。平和について話すだけで、諸国間の行動を何一つしなかったと。戦争のための最新鋭で強力な兵器を製造しながら、平和について話すことなどどうしてできるでしょうか。差別と憎悪の演説という役に立たない行為をいくらかするだけで自らを正当化しながら、どうして平和について話せるでしょうか。

平和は、それが真理を基盤とし、正義に従って実現し、愛によって息づき完成され、自由において形成されないのであれば、単なる「発せられることば」に過ぎなくなると確信しています。(聖ヨハネ23世回勅『パーチェム・イン・テリス――地上の平和』37〔邦訳20〕参照)。真理と正義をもって平和を築くとは、「人間の間には、知識、徳、才能、物質的資力などの差がしばしば著しく存在する」(同上87〔同49〕)のを認めることです。ですから、自分だけの利益を他者に押し付けることはいっさい正当化できません。その逆に、差の存在を認めることは、強い責任と敬意の源となるのです。同じく政治共同体は、文化や経済成長といった面ではそれぞれ正当に差を有していても、「相互の進歩に対して」(同88〔同49〕)、すべての人の善益のために働く責務へと招かれています。

実際、より正義にかなう安全な社会を築きたいと真に望むならば、武器を手放さなければなりません。「武器を手にしたまま、愛することはできません」(聖パウロ6世「国連でのスピーチ(1965年10月4日)」10)。武力の論理に屈し、対話から遠ざかってしまえば、いっそうの犠牲者と廃墟を生み出すことが分かっていながら、武力が悪夢をもたらすことを忘れてしまうのです。武力は「膨大な出費を要し、連帯を推し進める企画や有益な作業計画が滞り、民の心理を台なしにします」(同)。紛争の正当な解決策であるとして、核戦争の脅威で威嚇することに頼りながら、どうして平和を提案できるでしょうか。この底知れぬ苦しみが、決して越えてはならない一線を自覚させてくれますように。真の平和とは、非武装の平和以外にありえません。それに、「平和は単に戦争がないことでもな〔く〕、……たえず建設されるべきもの」(第二バチカン公会議『現代世界憲章』78)です。それは正義の結果であり、発展の結果、連帯の結果であり、わたしたちの共通の家の世話の結果、共通善を促進した結果生まれるものなのです。わたしたちは歴史から学ばなければなりません。

思い出し、ともに歩み、守ること。この三つは、倫理的命令です。これらは、まさにここ広島において、よりいっそう強く、より普遍的な意味をもちます。この三つには、平和となる真の道を切り開く力があります。したがって、現在と将来の世代が、ここで起きた出来事を忘れるようなことがあってはなりません。記憶は、より正義にかない、いっそう兄弟愛にあふれる将来を築くための、保証であり起爆剤なのです。すべての人の良心を目覚めさせられる、広がる力のある記憶です。わけても、国々の運命に対し、今、特別な役割を負っているかたがたの良心に訴えるはずです。これからの世代に向かって、言い続ける助けとなる記憶です。二度と繰り返しません、と。

だからこそわたしたちは、ともに歩むよう求められているのです。理解とゆるしのまなざしで、希望の地平を切り開き、現代の空を覆うおびただしい黒雲の中に、一条の光をもたらすのです。希望に心を開きましょう。和解と平和の道具となりましょう。それは、わたしたちが互いを大切にし、運命共同体で結ばれていると知るなら、いつでも実現可能です。現代世界は、グローバル化で結ばれているだけでなく、共通の大地によっても、いつも相互に結ばれています。共通の未来を確実に安全なものとするために、責任をもって闘う偉大な人となるよう、それぞれのグループや集団が排他的利益を後回しにすることが、かつてないほど求められています。

神に向かい、すべての善意の人に向かい、一つの願いとして、原爆と核実験とあらゆる紛争のすべての犠牲者の名によって、声を合わせて叫びましょう。戦争はもういらない! 兵器の轟音はもういらない! こんな苦しみはもういらない! と。わたしたちの時代に、わたしたちのいるこの世界に、平和が来ますように。神よ、あなたは約束してくださいました。「いつくしみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます」(詩編85・11-12)。

主よ、急いで来てください。破壊があふれた場所に、今とは違う歴史を描き実現する希望があふれますように。平和の君である主よ、来てください。わたしたちをあなたの平和の道具、あなたの平和を響かせるものとしてください!

私は、君とともに平和を唱えます。」
(出典:ローマ教皇 長崎 広島でのスピーチ(全文) 2019年11月24日NHK
(索引:広島,長崎,記憶することの倫理的命令,良心)

「武器を手にしたまま、愛することはできません」。武力は、対話から遠ざけ、連帯を推し進める企画や有益な作業計画を滞らせる。「真の平和とは、非武装の平和以外にありえません。」(フランシスコ教皇(1936-),2019/11/24 広島)

武器を手にしたまま愛することはできない

【「武器を手にしたまま、愛することはできません」。武力は、対話から遠ざけ、連帯を推し進める企画や有益な作業計画を滞らせる。「真の平和とは、非武装の平和以外にありえません。」(フランシスコ教皇(1936-),2019/11/24 広島)】
(出典:wikipedia
フランシスコ教皇(1936-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
「広島 平和公園でのスピーチ
教皇のスピーチ
広島の平和公園にて
2019年11月24日
「わたしはいおう、わたしの兄弟、友のために。『あなたのうちに平和があるように』」(詩編122・8)。

あわれみの神、歴史の主よ、この場所から、わたしたちはあなたに目を向けます。死といのち、崩壊と再生、苦しみといつくしみの交差するこの場所から。

ここで、大勢の人が、その夢と希望が、一瞬の閃光と炎によって跡形もなく消され、影と沈黙だけが残りました。一瞬のうちに、すべてが破壊と死というブラックホールに飲み込まれました。その沈黙の淵から、亡き人々のすさまじい叫び声が、今なお聞こえてきます。さまざまな場所から集まり、それぞれの名をもち、なかには、異なる言語を話す人たちもいました。そのすべての人が、同じ運命によって、このおぞましい一瞬で結ばれたのです。その瞬間は、この国の歴史だけでなく、人類の顔に永遠に刻まれました。

この場所のすべての犠牲者を記憶にとどめます。また、あの時を生き延びたかたがたを前に、その強さと誇りに、深く敬意を表します。その後の長きにわたり、身体の激しい苦痛と、心の中の生きる力をむしばんでいく死の兆しを忍んでこられたからです。

わたしは平和の巡礼者として、この場所を訪れなければならないと感じていました。激しい暴力の犠牲となった罪のない人々を思い出し、現代社会の人々の願いと望みを胸にしつつ、静かに祈るためです。とくに若者たち、平和を望み、平和のために働き、平和のために自らを犠牲にする若者たちの願いと望みです。わたしは記憶と未来にあふれるこの場所に、貧しい人たちの叫びも携えて参りました。貧しい人々はいつの時代も、憎しみと対立の無防備な犠牲者だからです。

わたしはへりくだり、声を発しても耳を貸してもらえない人々の声になりたいと思います。現代社会が直面する増大した緊張状態を、不安と苦悩を抱えて見つめる人々の声です。それは、人類の共生を脅かす受け入れがたい不平等と不正義、わたしたちの共通の家を世話する能力の著しい欠如、また、あたかもそれで未来の平和が保障されるかのように行われる、継続的あるいは突発的な武力行使などに対する声です。

確信をもって、あらためて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代において、犯罪以外の何ものでもありません。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反します。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。2年前に私が言ったように、核兵器の所有も倫理に反します。これについて、わたしたちは神の裁きを受けることになります。次の世代の人々が、わたしたちの失態を裁く裁判官として立ち上がるでしょう。平和について話すだけで、諸国間の行動を何一つしなかったと。戦争のための最新鋭で強力な兵器を製造しながら、平和について話すことなどどうしてできるでしょうか。差別と憎悪の演説という役に立たない行為をいくらかするだけで自らを正当化しながら、どうして平和について話せるでしょうか。

平和は、それが真理を基盤とし、正義に従って実現し、愛によって息づき完成され、自由において形成されないのであれば、単なる「発せられることば」に過ぎなくなると確信しています。(聖ヨハネ23世回勅『パーチェム・イン・テリス――地上の平和』37〔邦訳20〕参照)。真理と正義をもって平和を築くとは、「人間の間には、知識、徳、才能、物質的資力などの差がしばしば著しく存在する」(同上87〔同49〕)のを認めることです。ですから、自分だけの利益を他者に押し付けることはいっさい正当化できません。その逆に、差の存在を認めることは、強い責任と敬意の源となるのです。同じく政治共同体は、文化や経済成長といった面ではそれぞれ正当に差を有していても、「相互の進歩に対して」(同88〔同49〕)、すべての人の善益のために働く責務へと招かれています。

実際、より正義にかなう安全な社会を築きたいと真に望むならば、武器を手放さなければなりません。「武器を手にしたまま、愛することはできません」(聖パウロ6世「国連でのスピーチ(1965年10月4日)」10)。武力の論理に屈し、対話から遠ざかってしまえば、いっそうの犠牲者と廃墟を生み出すことが分かっていながら、武力が悪夢をもたらすことを忘れてしまうのです。武力は「膨大な出費を要し、連帯を推し進める企画や有益な作業計画が滞り、民の心理を台なしにします」(同)。紛争の正当な解決策であるとして、核戦争の脅威で威嚇することに頼りながら、どうして平和を提案できるでしょうか。この底知れぬ苦しみが、決して越えてはならない一線を自覚させてくれますように。真の平和とは、非武装の平和以外にありえません。それに、「平和は単に戦争がないことでもな〔く〕、……たえず建設されるべきもの」(第二バチカン公会議『現代世界憲章』78)です。それは正義の結果であり、発展の結果、連帯の結果であり、わたしたちの共通の家の世話の結果、共通善を促進した結果生まれるものなのです。わたしたちは歴史から学ばなければなりません。

思い出し、ともに歩み、守ること。この三つは、倫理的命令です。これらは、まさにここ広島において、よりいっそう強く、より普遍的な意味をもちます。この三つには、平和となる真の道を切り開く力があります。したがって、現在と将来の世代が、ここで起きた出来事を忘れるようなことがあってはなりません。記憶は、より正義にかない、いっそう兄弟愛にあふれる将来を築くための、保証であり起爆剤なのです。すべての人の良心を目覚めさせられる、広がる力のある記憶です。わけても、国々の運命に対し、今、特別な役割を負っているかたがたの良心に訴えるはずです。これからの世代に向かって、言い続ける助けとなる記憶です。二度と繰り返しません、と。

だからこそわたしたちは、ともに歩むよう求められているのです。理解とゆるしのまなざしで、希望の地平を切り開き、現代の空を覆うおびただしい黒雲の中に、一条の光をもたらすのです。希望に心を開きましょう。和解と平和の道具となりましょう。それは、わたしたちが互いを大切にし、運命共同体で結ばれていると知るなら、いつでも実現可能です。現代世界は、グローバル化で結ばれているだけでなく、共通の大地によっても、いつも相互に結ばれています。共通の未来を確実に安全なものとするために、責任をもって闘う偉大な人となるよう、それぞれのグループや集団が排他的利益を後回しにすることが、かつてないほど求められています。

神に向かい、すべての善意の人に向かい、一つの願いとして、原爆と核実験とあらゆる紛争のすべての犠牲者の名によって、声を合わせて叫びましょう。戦争はもういらない! 兵器の轟音はもういらない! こんな苦しみはもういらない! と。わたしたちの時代に、わたしたちのいるこの世界に、平和が来ますように。神よ、あなたは約束してくださいました。「いつくしみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます」(詩編85・11-12)。

主よ、急いで来てください。破壊があふれた場所に、今とは違う歴史を描き実現する希望があふれますように。平和の君である主よ、来てください。わたしたちをあなたの平和の道具、あなたの平和を響かせるものとしてください!

私は、君とともに平和を唱えます。」
(出典:ローマ教皇 長崎 広島でのスピーチ(全文) 2019年11月24日NHK
(索引:武器,武力,対話と連帯,非武装)

「戦争のための最新鋭で強力な兵器を製造しながら」、また「差別と憎悪の演説という役に立たない行為をいくらかするだけで自らを正当化しながら、どうして平和について話せるでしょうか。」(フランシスコ教皇(1936-),2019/11/24 広島)

兵器の製造、差別と憎悪の演説

【「戦争のための最新鋭で強力な兵器を製造しながら」、また「差別と憎悪の演説という役に立たない行為をいくらかするだけで自らを正当化しながら、どうして平和について話せるでしょうか。」(フランシスコ教皇(1936-),2019/11/24 広島)】
(出典:wikipedia
フランシスコ教皇(1936-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
「広島 平和公園でのスピーチ
教皇のスピーチ
広島の平和公園にて
2019年11月24日
「わたしはいおう、わたしの兄弟、友のために。『あなたのうちに平和があるように』」(詩編122・8)。

あわれみの神、歴史の主よ、この場所から、わたしたちはあなたに目を向けます。死といのち、崩壊と再生、苦しみといつくしみの交差するこの場所から。

ここで、大勢の人が、その夢と希望が、一瞬の閃光と炎によって跡形もなく消され、影と沈黙だけが残りました。一瞬のうちに、すべてが破壊と死というブラックホールに飲み込まれました。その沈黙の淵から、亡き人々のすさまじい叫び声が、今なお聞こえてきます。さまざまな場所から集まり、それぞれの名をもち、なかには、異なる言語を話す人たちもいました。そのすべての人が、同じ運命によって、このおぞましい一瞬で結ばれたのです。その瞬間は、この国の歴史だけでなく、人類の顔に永遠に刻まれました。

この場所のすべての犠牲者を記憶にとどめます。また、あの時を生き延びたかたがたを前に、その強さと誇りに、深く敬意を表します。その後の長きにわたり、身体の激しい苦痛と、心の中の生きる力をむしばんでいく死の兆しを忍んでこられたからです。

わたしは平和の巡礼者として、この場所を訪れなければならないと感じていました。激しい暴力の犠牲となった罪のない人々を思い出し、現代社会の人々の願いと望みを胸にしつつ、静かに祈るためです。とくに若者たち、平和を望み、平和のために働き、平和のために自らを犠牲にする若者たちの願いと望みです。わたしは記憶と未来にあふれるこの場所に、貧しい人たちの叫びも携えて参りました。貧しい人々はいつの時代も、憎しみと対立の無防備な犠牲者だからです。

わたしはへりくだり、声を発しても耳を貸してもらえない人々の声になりたいと思います。現代社会が直面する増大した緊張状態を、不安と苦悩を抱えて見つめる人々の声です。それは、人類の共生を脅かす受け入れがたい不平等と不正義、わたしたちの共通の家を世話する能力の著しい欠如、また、あたかもそれで未来の平和が保障されるかのように行われる、継続的あるいは突発的な武力行使などに対する声です。

確信をもって、あらためて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代において、犯罪以外の何ものでもありません。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反します。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。2年前に私が言ったように、核兵器の所有も倫理に反します。これについて、わたしたちは神の裁きを受けることになります。次の世代の人々が、わたしたちの失態を裁く裁判官として立ち上がるでしょう。平和について話すだけで、諸国間の行動を何一つしなかったと。戦争のための最新鋭で強力な兵器を製造しながら、平和について話すことなどどうしてできるでしょうか。差別と憎悪の演説という役に立たない行為をいくらかするだけで自らを正当化しながら、どうして平和について話せるでしょうか。

平和は、それが真理を基盤とし、正義に従って実現し、愛によって息づき完成され、自由において形成されないのであれば、単なる「発せられることば」に過ぎなくなると確信しています。(聖ヨハネ23世回勅『パーチェム・イン・テリス――地上の平和』37〔邦訳20〕参照)。真理と正義をもって平和を築くとは、「人間の間には、知識、徳、才能、物質的資力などの差がしばしば著しく存在する」(同上87〔同49〕)のを認めることです。ですから、自分だけの利益を他者に押し付けることはいっさい正当化できません。その逆に、差の存在を認めることは、強い責任と敬意の源となるのです。同じく政治共同体は、文化や経済成長といった面ではそれぞれ正当に差を有していても、「相互の進歩に対して」(同88〔同49〕)、すべての人の善益のために働く責務へと招かれています。

実際、より正義にかなう安全な社会を築きたいと真に望むならば、武器を手放さなければなりません。「武器を手にしたまま、愛することはできません」(聖パウロ6世「国連でのスピーチ(1965年10月4日)」10)。武力の論理に屈し、対話から遠ざかってしまえば、いっそうの犠牲者と廃墟を生み出すことが分かっていながら、武力が悪夢をもたらすことを忘れてしまうのです。武力は「膨大な出費を要し、連帯を推し進める企画や有益な作業計画が滞り、民の心理を台なしにします」(同)。紛争の正当な解決策であるとして、核戦争の脅威で威嚇することに頼りながら、どうして平和を提案できるでしょうか。この底知れぬ苦しみが、決して越えてはならない一線を自覚させてくれますように。真の平和とは、非武装の平和以外にありえません。それに、「平和は単に戦争がないことでもな〔く〕、……たえず建設されるべきもの」(第二バチカン公会議『現代世界憲章』78)です。それは正義の結果であり、発展の結果、連帯の結果であり、わたしたちの共通の家の世話の結果、共通善を促進した結果生まれるものなのです。わたしたちは歴史から学ばなければなりません。

思い出し、ともに歩み、守ること。この三つは、倫理的命令です。これらは、まさにここ広島において、よりいっそう強く、より普遍的な意味をもちます。この三つには、平和となる真の道を切り開く力があります。したがって、現在と将来の世代が、ここで起きた出来事を忘れるようなことがあってはなりません。記憶は、より正義にかない、いっそう兄弟愛にあふれる将来を築くための、保証であり起爆剤なのです。すべての人の良心を目覚めさせられる、広がる力のある記憶です。わけても、国々の運命に対し、今、特別な役割を負っているかたがたの良心に訴えるはずです。これからの世代に向かって、言い続ける助けとなる記憶です。二度と繰り返しません、と。

だからこそわたしたちは、ともに歩むよう求められているのです。理解とゆるしのまなざしで、希望の地平を切り開き、現代の空を覆うおびただしい黒雲の中に、一条の光をもたらすのです。希望に心を開きましょう。和解と平和の道具となりましょう。それは、わたしたちが互いを大切にし、運命共同体で結ばれていると知るなら、いつでも実現可能です。現代世界は、グローバル化で結ばれているだけでなく、共通の大地によっても、いつも相互に結ばれています。共通の未来を確実に安全なものとするために、責任をもって闘う偉大な人となるよう、それぞれのグループや集団が排他的利益を後回しにすることが、かつてないほど求められています。

神に向かい、すべての善意の人に向かい、一つの願いとして、原爆と核実験とあらゆる紛争のすべての犠牲者の名によって、声を合わせて叫びましょう。戦争はもういらない! 兵器の轟音はもういらない! こんな苦しみはもういらない! と。わたしたちの時代に、わたしたちのいるこの世界に、平和が来ますように。神よ、あなたは約束してくださいました。「いつくしみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます」(詩編85・11-12)。

主よ、急いで来てください。破壊があふれた場所に、今とは違う歴史を描き実現する希望があふれますように。平和の君である主よ、来てください。わたしたちをあなたの平和の道具、あなたの平和を響かせるものとしてください!

私は、君とともに平和を唱えます。」
(出典:ローマ教皇 長崎 広島でのスピーチ(全文) 2019年11月24日NHK
(索引:兵器の製造,差別と憎悪の演説,戦争,兵器)

核兵器の所有、原子力の戦争目的の使用は、「犯罪以外の何ものでもありません。」核兵器は、人類とその尊厳に反するだけでなく、私たちの共通の未来に開かれたあらゆる可能性と矛盾する。(フランシスコ教皇(1936-),2019/11/24 広島)

核兵器の所有、戦争目的の使用は犯罪である

【核兵器の所有、原子力の戦争目的の使用は、「犯罪以外の何ものでもありません。」核兵器は、人類とその尊厳に反するだけでなく、私たちの共通の未来に開かれたあらゆる可能性と矛盾する。(フランシスコ教皇(1936-),2019/11/24 広島)】
(出典:wikipedia
フランシスコ教皇(1936-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
「広島 平和公園でのスピーチ
教皇のスピーチ
広島の平和公園にて
2019年11月24日
「わたしはいおう、わたしの兄弟、友のために。『あなたのうちに平和があるように』」(詩編122・8)。

あわれみの神、歴史の主よ、この場所から、わたしたちはあなたに目を向けます。死といのち、崩壊と再生、苦しみといつくしみの交差するこの場所から。

ここで、大勢の人が、その夢と希望が、一瞬の閃光と炎によって跡形もなく消され、影と沈黙だけが残りました。一瞬のうちに、すべてが破壊と死というブラックホールに飲み込まれました。その沈黙の淵から、亡き人々のすさまじい叫び声が、今なお聞こえてきます。さまざまな場所から集まり、それぞれの名をもち、なかには、異なる言語を話す人たちもいました。そのすべての人が、同じ運命によって、このおぞましい一瞬で結ばれたのです。その瞬間は、この国の歴史だけでなく、人類の顔に永遠に刻まれました。

この場所のすべての犠牲者を記憶にとどめます。また、あの時を生き延びたかたがたを前に、その強さと誇りに、深く敬意を表します。その後の長きにわたり、身体の激しい苦痛と、心の中の生きる力をむしばんでいく死の兆しを忍んでこられたからです。

わたしは平和の巡礼者として、この場所を訪れなければならないと感じていました。激しい暴力の犠牲となった罪のない人々を思い出し、現代社会の人々の願いと望みを胸にしつつ、静かに祈るためです。とくに若者たち、平和を望み、平和のために働き、平和のために自らを犠牲にする若者たちの願いと望みです。わたしは記憶と未来にあふれるこの場所に、貧しい人たちの叫びも携えて参りました。貧しい人々はいつの時代も、憎しみと対立の無防備な犠牲者だからです。

わたしはへりくだり、声を発しても耳を貸してもらえない人々の声になりたいと思います。現代社会が直面する増大した緊張状態を、不安と苦悩を抱えて見つめる人々の声です。それは、人類の共生を脅かす受け入れがたい不平等と不正義、わたしたちの共通の家を世話する能力の著しい欠如、また、あたかもそれで未来の平和が保障されるかのように行われる、継続的あるいは突発的な武力行使などに対する声です。

確信をもって、あらためて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代において、犯罪以外の何ものでもありません。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反します。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。2年前に私が言ったように、核兵器の所有も倫理に反します。これについて、わたしたちは神の裁きを受けることになります。次の世代の人々が、わたしたちの失態を裁く裁判官として立ち上がるでしょう。平和について話すだけで、諸国間の行動を何一つしなかったと。戦争のための最新鋭で強力な兵器を製造しながら、平和について話すことなどどうしてできるでしょうか。差別と憎悪の演説という役に立たない行為をいくらかするだけで自らを正当化しながら、どうして平和について話せるでしょうか。

平和は、それが真理を基盤とし、正義に従って実現し、愛によって息づき完成され、自由において形成されないのであれば、単なる「発せられることば」に過ぎなくなると確信しています。(聖ヨハネ23世回勅『パーチェム・イン・テリス――地上の平和』37〔邦訳20〕参照)。真理と正義をもって平和を築くとは、「人間の間には、知識、徳、才能、物質的資力などの差がしばしば著しく存在する」(同上87〔同49〕)のを認めることです。ですから、自分だけの利益を他者に押し付けることはいっさい正当化できません。その逆に、差の存在を認めることは、強い責任と敬意の源となるのです。同じく政治共同体は、文化や経済成長といった面ではそれぞれ正当に差を有していても、「相互の進歩に対して」(同88〔同49〕)、すべての人の善益のために働く責務へと招かれています。

実際、より正義にかなう安全な社会を築きたいと真に望むならば、武器を手放さなければなりません。「武器を手にしたまま、愛することはできません」(聖パウロ6世「国連でのスピーチ(1965年10月4日)」10)。武力の論理に屈し、対話から遠ざかってしまえば、いっそうの犠牲者と廃墟を生み出すことが分かっていながら、武力が悪夢をもたらすことを忘れてしまうのです。武力は「膨大な出費を要し、連帯を推し進める企画や有益な作業計画が滞り、民の心理を台なしにします」(同)。紛争の正当な解決策であるとして、核戦争の脅威で威嚇することに頼りながら、どうして平和を提案できるでしょうか。この底知れぬ苦しみが、決して越えてはならない一線を自覚させてくれますように。真の平和とは、非武装の平和以外にありえません。それに、「平和は単に戦争がないことでもな〔く〕、……たえず建設されるべきもの」(第二バチカン公会議『現代世界憲章』78)です。それは正義の結果であり、発展の結果、連帯の結果であり、わたしたちの共通の家の世話の結果、共通善を促進した結果生まれるものなのです。わたしたちは歴史から学ばなければなりません。

思い出し、ともに歩み、守ること。この三つは、倫理的命令です。これらは、まさにここ広島において、よりいっそう強く、より普遍的な意味をもちます。この三つには、平和となる真の道を切り開く力があります。したがって、現在と将来の世代が、ここで起きた出来事を忘れるようなことがあってはなりません。記憶は、より正義にかない、いっそう兄弟愛にあふれる将来を築くための、保証であり起爆剤なのです。すべての人の良心を目覚めさせられる、広がる力のある記憶です。わけても、国々の運命に対し、今、特別な役割を負っているかたがたの良心に訴えるはずです。これからの世代に向かって、言い続ける助けとなる記憶です。二度と繰り返しません、と。

だからこそわたしたちは、ともに歩むよう求められているのです。理解とゆるしのまなざしで、希望の地平を切り開き、現代の空を覆うおびただしい黒雲の中に、一条の光をもたらすのです。希望に心を開きましょう。和解と平和の道具となりましょう。それは、わたしたちが互いを大切にし、運命共同体で結ばれていると知るなら、いつでも実現可能です。現代世界は、グローバル化で結ばれているだけでなく、共通の大地によっても、いつも相互に結ばれています。共通の未来を確実に安全なものとするために、責任をもって闘う偉大な人となるよう、それぞれのグループや集団が排他的利益を後回しにすることが、かつてないほど求められています。

神に向かい、すべての善意の人に向かい、一つの願いとして、原爆と核実験とあらゆる紛争のすべての犠牲者の名によって、声を合わせて叫びましょう。戦争はもういらない! 兵器の轟音はもういらない! こんな苦しみはもういらない! と。わたしたちの時代に、わたしたちのいるこの世界に、平和が来ますように。神よ、あなたは約束してくださいました。「いつくしみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます」(詩編85・11-12)。

主よ、急いで来てください。破壊があふれた場所に、今とは違う歴史を描き実現する希望があふれますように。平和の君である主よ、来てください。わたしたちをあなたの平和の道具、あなたの平和を響かせるものとしてください!

私は、君とともに平和を唱えます。」
(出典:ローマ教皇 長崎 広島でのスピーチ(全文) 2019年11月24日NHK
(索引:核兵器,核兵器の所有,原子力の戦争目的の使用)

2019年11月24日日曜日

核兵器のない世界は可能である。そして、それを実現する「責務には、わたしたち皆がかかわっていますし、全員が必要とされています。」祈り、一致の促進の飽くなき探求、対話への粘り強い招きが必要だ。(フランシスコ教皇(1936-),2019/11/24 長崎)

私たち全員の責務

【核兵器のない世界は可能である。そして、それを実現する「責務には、わたしたち皆がかかわっていますし、全員が必要とされています。」祈り、一致の促進の飽くなき探求、対話への粘り強い招きが必要だ。(フランシスコ教皇(1936-),2019/11/24 長崎)】
(出典:wikipedia
フランシスコ教皇(1936-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
「愛する兄弟姉妹の皆さん。
 この場所は、わたしたち人間が過ちを犯しうる存在であるということを、悲しみと恐れとともに意識させてくれます。近年、浦上教会で見いだされた被爆十字架とマリア像は、被爆なさった方とそのご家族が生身の身体に受けられた筆舌に尽くしがたい苦しみを、あらためて思い起こさせてくれます。
 人の心にある最も深い望みの一つは、平和と安定への望みです。核兵器や大量破壊兵器を所有することは、この望みへの最良の答えではありません。それどころか、この望みをたえず試みにさらすことになるのです。わたしたちの世界は、手に負えない分裂の中にあります。それは、恐怖と相互不信を土台とした偽りの確かさの上に平和と安全を築き、確かなものにしようという解決策です。人と人の関係をむしばみ、相互の対話を阻んでしまうものです。
 国際的な平和と安定は、相互破壊への不安や、壊滅の脅威を土台とした、どんな企てとも相いれないものです。むしろ、現在と未来のすべての人類家族が共有する相互尊重と奉仕への協力と連帯という、世界的な倫理によってのみ実現可能となります。
 ここは、核兵器が人道的にも環境にも悲劇的な結末をもたらすことの証人である町です。そして、軍備拡張競争に反対する声は、小さくともつねに上がっています。軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。しかし、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これは途方もないテロ行為です。
 核兵器から解放された平和な世界。それは、あらゆる場所で、数え切れないほどの人が熱望していることです。この理想を実現するには、すべての人の参加が必要です。個々人、宗教団体、市民社会、核兵器保有国も、非保有国も、軍隊も民間も、国際機関もそうです。核兵器の脅威に対しては、一致団結して応じなくてはなりません。それは、現今の世界を覆う不信の流れを打ち壊す、困難ながらも堅固な構造を土台とした、相互の信頼に基づくものです。1963年に聖ヨハネ23世教皇は、回勅『地上の平和(パーチェム・イン・テリス)』で核兵器の禁止を世界に訴えていますが(112番[邦訳60番]参照)、そこではこう断言してもいます。「軍備の均衡が平和の条件であるという理解を、真の平和は相互の信頼の上にしか構築できないという原則に置き換える必要があります」(113番[邦訳61番])
 今、拡大しつつある、相互不信の流れを壊さなくてはなりません。相互不信によって、兵器使用を制限する国際的な枠組みが崩壊する危険があるのです。わたしたちは、多国間主義の衰退を目の当たりにしています。それは、兵器の技術革新にあってさらに危険なことです。この指摘は、相互の結びつきを特徴とする現今の情勢から見ると的を射ていないように見えるかもしれませんが、あらゆる国の指導者が緊急に注意を払うだけでなく、力を注ぎ込むべき点なのです。
 カトリック教会としては、人々と国家間の平和の実現に向けて不退転の決意を固めています。それは、神に対し、そしてこの地上のあらゆる人に対する責務なのです。核兵器禁止条約を含め、核軍縮と核不拡散に関する主要な国際的な法的原則にのっとり、飽くことなく、迅速に行動し、訴えていくことでしょう。昨年の7月、日本司教協議会は、核兵器廃絶の呼びかけを行いました。また、日本の教会では毎年8月に、平和に向けた10日間の平和旬間を行っています。どうか、祈り、一致の促進の飽くなき探求、対話への粘り強い招きが、わたしたちが信を置く「武器」でありますように。また、平和を真に保証する、正義と連帯のある世界を築く取り組みを鼓舞するものとなりますように。
 核兵器のない世界が可能であり必要であるという確信をもって、政治をつかさどる指導者の皆さんにお願いします。核兵器は、今日の国際的また国家の、安全保障への脅威からわたしたちを守ってくれるものではない、そう心に刻んでください。人道的および環境の観点から、核兵器の使用がもたらす壊滅的な破壊を考えなくてはなりません。核の理論によって促される、恐れ、不信、敵意の増幅を止めなければなりません。今の地球の状態から見ると、その資源がどのように使われるのかを真剣に考察することが必要です。複雑で困難な持続可能な開発のための2030アジェンダの達成、すなわち人類の全人的発展という目的を達成するためにも、真剣に考察しなくてはなりません。1964年に、すでに教皇聖パウロ6世は、防衛費の一部から世界基金を創設し、貧しい人々の援助に充てることを提案しています(「ムンバイでの報道記者へのスピーチ=1964年12月4日」。回勅『ポプロールム・プログレッシオ=1967年3月26日』参照)。
 こういったことすべてのために、信頼関係と相互の発展とを確かなものとするための構造を作り上げ、状況に対応できる指導者たちの協力を得ることが、きわめて重要です。責務には、わたしたち皆がかかわっていますし、全員が必要とされています。今日、わたしたちが心を痛めている何百万という人の苦しみに、無関心でいてよい人はいません。傷の痛みに叫ぶ兄弟の声に耳を塞いでよい人はどこにもいません。対話することのできない文化による破滅を前に目を閉ざしてよい人はどこにもいません。
 心を改めることができるよう、また、いのちの文化、ゆるしの文化、兄弟愛の文化が勝利を収めるよう、毎日心を一つにして祈ってくださるようお願いします。共通の目的地を目指すなかで、相互の違いを認め保証する兄弟愛です。
 ここにおられる皆さんの中には、カトリック信者でない方もおられることでしょう。でも、アッシジの聖フランシスコに由来する平和を求める祈りは、私たち全員の祈りとなると確信しています。
 
主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。

 憎しみがあるところに愛を、
 いさかいがあるところにゆるしを、
 疑いのあるところに信仰を、
 絶望があるところに希望を、
 闇に光を、
 悲しみあるところに喜びをもたらすものとしてください。

 記憶にとどめるこの場所、それはわたしたちをハッとさせ、無関心でいることを許さないだけでなく、神にもと信頼を寄せるよう促してくれます。また、わたしたちが真の平和の道具となって働くよう勧めてくれています。過去と同じ過ちを犯さないためにも勧めているのです。
 皆さんとご家族、そして、全国民が、繁栄と社会の和の恵みを享受できますようお祈りいたします。」
(出典:ローマ教皇「世界覆う不信、打ち壊す」 スピーチ全文 2019年11月24日日本経済新聞社
(索引:私たち全員の責務,核兵器のない世界)

軍備の均衡が平和の条件であるという考えは、「恐怖と相互不信を土台とした偽りの確かさの上に平和と安全を築き、確かなものにしようという解決策です。」真の平和は、相互の信頼の上にしか構築できない。(フランシスコ教皇(1936-),2019/11/24 長崎)

恐怖と相互不信の均衡か、相互の信頼か

【軍備の均衡が平和の条件であるという考えは、「恐怖と相互不信を土台とした偽りの確かさの上に平和と安全を築き、確かなものにしようという解決策です。」真の平和は、相互の信頼の上にしか構築できない。(フランシスコ教皇(1936-),2019/11/24 長崎)】
(出典:wikipedia
フランシスコ教皇(1936-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
「愛する兄弟姉妹の皆さん。
 この場所は、わたしたち人間が過ちを犯しうる存在であるということを、悲しみと恐れとともに意識させてくれます。近年、浦上教会で見いだされた被爆十字架とマリア像は、被爆なさった方とそのご家族が生身の身体に受けられた筆舌に尽くしがたい苦しみを、あらためて思い起こさせてくれます。
 人の心にある最も深い望みの一つは、平和と安定への望みです。核兵器や大量破壊兵器を所有することは、この望みへの最良の答えではありません。それどころか、この望みをたえず試みにさらすことになるのです。わたしたちの世界は、手に負えない分裂の中にあります。それは、恐怖と相互不信を土台とした偽りの確かさの上に平和と安全を築き、確かなものにしようという解決策です。人と人の関係をむしばみ、相互の対話を阻んでしまうものです。
 国際的な平和と安定は、相互破壊への不安や、壊滅の脅威を土台とした、どんな企てとも相いれないものです。むしろ、現在と未来のすべての人類家族が共有する相互尊重と奉仕への協力と連帯という、世界的な倫理によってのみ実現可能となります。
 ここは、核兵器が人道的にも環境にも悲劇的な結末をもたらすことの証人である町です。そして、軍備拡張競争に反対する声は、小さくともつねに上がっています。軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。しかし、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これは途方もないテロ行為です。
 核兵器から解放された平和な世界。それは、あらゆる場所で、数え切れないほどの人が熱望していることです。この理想を実現するには、すべての人の参加が必要です。個々人、宗教団体、市民社会、核兵器保有国も、非保有国も、軍隊も民間も、国際機関もそうです。核兵器の脅威に対しては、一致団結して応じなくてはなりません。それは、現今の世界を覆う不信の流れを打ち壊す、困難ながらも堅固な構造を土台とした、相互の信頼に基づくものです。1963年に聖ヨハネ23世教皇は、回勅『地上の平和(パーチェム・イン・テリス)』で核兵器の禁止を世界に訴えていますが(112番[邦訳60番]参照)、そこではこう断言してもいます。「軍備の均衡が平和の条件であるという理解を、真の平和は相互の信頼の上にしか構築できないという原則に置き換える必要があります」(113番[邦訳61番])
 今、拡大しつつある、相互不信の流れを壊さなくてはなりません。相互不信によって、兵器使用を制限する国際的な枠組みが崩壊する危険があるのです。わたしたちは、多国間主義の衰退を目の当たりにしています。それは、兵器の技術革新にあってさらに危険なことです。この指摘は、相互の結びつきを特徴とする現今の情勢から見ると的を射ていないように見えるかもしれませんが、あらゆる国の指導者が緊急に注意を払うだけでなく、力を注ぎ込むべき点なのです。
 カトリック教会としては、人々と国家間の平和の実現に向けて不退転の決意を固めています。それは、神に対し、そしてこの地上のあらゆる人に対する責務なのです。核兵器禁止条約を含め、核軍縮と核不拡散に関する主要な国際的な法的原則にのっとり、飽くことなく、迅速に行動し、訴えていくことでしょう。昨年の7月、日本司教協議会は、核兵器廃絶の呼びかけを行いました。また、日本の教会では毎年8月に、平和に向けた10日間の平和旬間を行っています。どうか、祈り、一致の促進の飽くなき探求、対話への粘り強い招きが、わたしたちが信を置く「武器」でありますように。また、平和を真に保証する、正義と連帯のある世界を築く取り組みを鼓舞するものとなりますように。
 核兵器のない世界が可能であり必要であるという確信をもって、政治をつかさどる指導者の皆さんにお願いします。核兵器は、今日の国際的また国家の、安全保障への脅威からわたしたちを守ってくれるものではない、そう心に刻んでください。人道的および環境の観点から、核兵器の使用がもたらす壊滅的な破壊を考えなくてはなりません。核の理論によって促される、恐れ、不信、敵意の増幅を止めなければなりません。今の地球の状態から見ると、その資源がどのように使われるのかを真剣に考察することが必要です。複雑で困難な持続可能な開発のための2030アジェンダの達成、すなわち人類の全人的発展という目的を達成するためにも、真剣に考察しなくてはなりません。1964年に、すでに教皇聖パウロ6世は、防衛費の一部から世界基金を創設し、貧しい人々の援助に充てることを提案しています(「ムンバイでの報道記者へのスピーチ=1964年12月4日」。回勅『ポプロールム・プログレッシオ=1967年3月26日』参照)。
 こういったことすべてのために、信頼関係と相互の発展とを確かなものとするための構造を作り上げ、状況に対応できる指導者たちの協力を得ることが、きわめて重要です。責務には、わたしたち皆がかかわっていますし、全員が必要とされています。今日、わたしたちが心を痛めている何百万という人の苦しみに、無関心でいてよい人はいません。傷の痛みに叫ぶ兄弟の声に耳を塞いでよい人はどこにもいません。対話することのできない文化による破滅を前に目を閉ざしてよい人はどこにもいません。
 心を改めることができるよう、また、いのちの文化、ゆるしの文化、兄弟愛の文化が勝利を収めるよう、毎日心を一つにして祈ってくださるようお願いします。共通の目的地を目指すなかで、相互の違いを認め保証する兄弟愛です。
 ここにおられる皆さんの中には、カトリック信者でない方もおられることでしょう。でも、アッシジの聖フランシスコに由来する平和を求める祈りは、私たち全員の祈りとなると確信しています。
 
主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。

 憎しみがあるところに愛を、
 いさかいがあるところにゆるしを、
 疑いのあるところに信仰を、
 絶望があるところに希望を、
 闇に光を、
 悲しみあるところに喜びをもたらすものとしてください。

 記憶にとどめるこの場所、それはわたしたちをハッとさせ、無関心でいることを許さないだけでなく、神にもと信頼を寄せるよう促してくれます。また、わたしたちが真の平和の道具となって働くよう勧めてくれています。過去と同じ過ちを犯さないためにも勧めているのです。
 皆さんとご家族、そして、全国民が、繁栄と社会の和の恵みを享受できますようお祈りいたします。」
(出典:ローマ教皇「世界覆う不信、打ち壊す」 スピーチ全文 2019年11月24日日本経済新聞社
(索引:軍備の均衡,抑止力,恐怖と相互不信の均衡)

「人の心にある最も深い望みの一つは、平和と安定への望みです。」(フランシスコ教皇(1936-),2019/11/24 長崎)

平和と安定への望み

【「人の心にある最も深い望みの一つは、平和と安定への望みです。」(フランシスコ教皇(1936-),2019/11/24 長崎)】

(出典:wikipedia
フランシスコ教皇(1936-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
「愛する兄弟姉妹の皆さん。
 この場所は、わたしたち人間が過ちを犯しうる存在であるということを、悲しみと恐れとともに意識させてくれます。近年、浦上教会で見いだされた被爆十字架とマリア像は、被爆なさった方とそのご家族が生身の身体に受けられた筆舌に尽くしがたい苦しみを、あらためて思い起こさせてくれます。
 人の心にある最も深い望みの一つは、平和と安定への望みです。核兵器や大量破壊兵器を所有することは、この望みへの最良の答えではありません。それどころか、この望みをたえず試みにさらすことになるのです。わたしたちの世界は、手に負えない分裂の中にあります。それは、恐怖と相互不信を土台とした偽りの確かさの上に平和と安全を築き、確かなものにしようという解決策です。人と人の関係をむしばみ、相互の対話を阻んでしまうものです。
 国際的な平和と安定は、相互破壊への不安や、壊滅の脅威を土台とした、どんな企てとも相いれないものです。むしろ、現在と未来のすべての人類家族が共有する相互尊重と奉仕への協力と連帯という、世界的な倫理によってのみ実現可能となります。
 ここは、核兵器が人道的にも環境にも悲劇的な結末をもたらすことの証人である町です。そして、軍備拡張競争に反対する声は、小さくともつねに上がっています。軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。しかし、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これは途方もないテロ行為です。
 核兵器から解放された平和な世界。それは、あらゆる場所で、数え切れないほどの人が熱望していることです。この理想を実現するには、すべての人の参加が必要です。個々人、宗教団体、市民社会、核兵器保有国も、非保有国も、軍隊も民間も、国際機関もそうです。核兵器の脅威に対しては、一致団結して応じなくてはなりません。それは、現今の世界を覆う不信の流れを打ち壊す、困難ながらも堅固な構造を土台とした、相互の信頼に基づくものです。1963年に聖ヨハネ23世教皇は、回勅『地上の平和(パーチェム・イン・テリス)』で核兵器の禁止を世界に訴えていますが(112番[邦訳60番]参照)、そこではこう断言してもいます。「軍備の均衡が平和の条件であるという理解を、真の平和は相互の信頼の上にしか構築できないという原則に置き換える必要があります」(113番[邦訳61番])
 今、拡大しつつある、相互不信の流れを壊さなくてはなりません。相互不信によって、兵器使用を制限する国際的な枠組みが崩壊する危険があるのです。わたしたちは、多国間主義の衰退を目の当たりにしています。それは、兵器の技術革新にあってさらに危険なことです。この指摘は、相互の結びつきを特徴とする現今の情勢から見ると的を射ていないように見えるかもしれませんが、あらゆる国の指導者が緊急に注意を払うだけでなく、力を注ぎ込むべき点なのです。
 カトリック教会としては、人々と国家間の平和の実現に向けて不退転の決意を固めています。それは、神に対し、そしてこの地上のあらゆる人に対する責務なのです。核兵器禁止条約を含め、核軍縮と核不拡散に関する主要な国際的な法的原則にのっとり、飽くことなく、迅速に行動し、訴えていくことでしょう。昨年の7月、日本司教協議会は、核兵器廃絶の呼びかけを行いました。また、日本の教会では毎年8月に、平和に向けた10日間の平和旬間を行っています。どうか、祈り、一致の促進の飽くなき探求、対話への粘り強い招きが、わたしたちが信を置く「武器」でありますように。また、平和を真に保証する、正義と連帯のある世界を築く取り組みを鼓舞するものとなりますように。
 核兵器のない世界が可能であり必要であるという確信をもって、政治をつかさどる指導者の皆さんにお願いします。核兵器は、今日の国際的また国家の、安全保障への脅威からわたしたちを守ってくれるものではない、そう心に刻んでください。人道的および環境の観点から、核兵器の使用がもたらす壊滅的な破壊を考えなくてはなりません。核の理論によって促される、恐れ、不信、敵意の増幅を止めなければなりません。今の地球の状態から見ると、その資源がどのように使われるのかを真剣に考察することが必要です。複雑で困難な持続可能な開発のための2030アジェンダの達成、すなわち人類の全人的発展という目的を達成するためにも、真剣に考察しなくてはなりません。1964年に、すでに教皇聖パウロ6世は、防衛費の一部から世界基金を創設し、貧しい人々の援助に充てることを提案しています(「ムンバイでの報道記者へのスピーチ=1964年12月4日」。回勅『ポプロールム・プログレッシオ=1967年3月26日』参照)。
 こういったことすべてのために、信頼関係と相互の発展とを確かなものとするための構造を作り上げ、状況に対応できる指導者たちの協力を得ることが、きわめて重要です。責務には、わたしたち皆がかかわっていますし、全員が必要とされています。今日、わたしたちが心を痛めている何百万という人の苦しみに、無関心でいてよい人はいません。傷の痛みに叫ぶ兄弟の声に耳を塞いでよい人はどこにもいません。対話することのできない文化による破滅を前に目を閉ざしてよい人はどこにもいません。
 心を改めることができるよう、また、いのちの文化、ゆるしの文化、兄弟愛の文化が勝利を収めるよう、毎日心を一つにして祈ってくださるようお願いします。共通の目的地を目指すなかで、相互の違いを認め保証する兄弟愛です。
 ここにおられる皆さんの中には、カトリック信者でない方もおられることでしょう。でも、アッシジの聖フランシスコに由来する平和を求める祈りは、私たち全員の祈りとなると確信しています。
 
主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。

 憎しみがあるところに愛を、
 いさかいがあるところにゆるしを、
 疑いのあるところに信仰を、
 絶望があるところに希望を、
 闇に光を、
 悲しみあるところに喜びをもたらすものとしてください。

 記憶にとどめるこの場所、それはわたしたちをハッとさせ、無関心でいることを許さないだけでなく、神にもと信頼を寄せるよう促してくれます。また、わたしたちが真の平和の道具となって働くよう勧めてくれています。過去と同じ過ちを犯さないためにも勧めているのです。
 皆さんとご家族、そして、全国民が、繁栄と社会の和の恵みを享受できますようお祈りいたします。」
(出典:ローマ教皇「世界覆う不信、打ち壊す」 スピーチ全文 2019年11月24日日本経済新聞社
(索引:平和と安定への望み)

いかに奇妙な行為でも当人以外に無関係なら、妨害は不当である。また、いかに「良い」と思われる行為でも、忠告や説得を超える強制は不当である。その行為によって他人に危害が及ぶ場合のみ、強制は正当化される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

強制が正当化される理由

【いかに奇妙な行為でも当人以外に無関係なら、妨害は不当である。また、いかに「良い」と思われる行為でも、忠告や説得を超える強制は不当である。その行為によって他人に危害が及ぶ場合のみ、強制は正当化される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

  (2.2.3)強制が正当化される理由
   (a)ある人の行為によって、他人に危害が及ぶとき。
    その行為をしないように、強制することが正当である。
   (b)ある人の行為が、本人だけに関係しており、他人には関係がないとき。
    (i)各人は、自分自身の身体と心に対して、絶対的な自主独立を維持する権利を持っている。
    (ii)ただし、子供や、法的に成人に達していない若者は対象にならない。
   (c)ある人に、物質的にか精神的にか「良い」行為をさせたいとき。
    (i)その当人にある行動を強制したり、ある行動を控えるように強制することは、正当ではない。ましては、その「良い」行為をしなかったことを、処罰するのは不当である。
    (ii)忠告したり、理を説いたり、説得したり、懇願することは、正当である。

 「この小論の目的は、じつに単純な原則を主張することにある。社会が個人に対して強制と管理という形で干渉するとき、そのために用いる手段が法律による刑罰という物理的な力であっても、世論による社会的な強制であっても、その干渉が正当かどうかを決める唯一の原則を主張することにあるのだ。その原則はこうだ。人間が個人としてであれ、集団としてであれ、誰かの行動の自由に干渉するのが正当だといえるのは、自衛を目的とする場合だけである。文明社会で個人に対して力を行使するのが正当だといえるのはただひとつ、他人に危害が及ぶのを防ぐことを目的とする場合だけである。本人にとって物質的か精神的に良いことだという点は、干渉が正当だとする十分な理由にはならない。ある行動を強制するか、ある行動を控えるよう強制するとき、本人にとって良いことだから、本人が幸福になれるから、さらには、強制する側からみてそれが賢明だから、正しいことだからという点は正当な理由にならない。これらの点は、忠告するか、理を説くか、説得するか、懇願する理由にはなるが、強制する理由にはならないし、応じなかった場合に処罰を与える理由にはならない。強制や処罰が正当だといえるには、抑止しようとしている行動が誰か他人に危害を与えるものだといえなければならない。個人の行動のうち、社会に対して責任を負わなければならないのは、他人に関係する部分だけである。本人だけに関係する部分については、各人は当然の権利として、絶対的な自主独立を維持できる。自分自身に対して、自分の身体と心に対して、人はみな主権をもっているのである。
 おそらくいうまでもないことであろうが、この原則は判断能力が成熟した人だけに適用することを意図している。子供や、法的に成人に達していない若者は対象にならない。世話を必要としない年齢に達していないのであれば、本人の行動で起こりうる危害に対しても、外部からの危害に対しても保護する必要がある。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第1章 はじめに,pp.26-27,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:強制が正当化される理由)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年11月23日土曜日

法体系が成立しており、人々が法的責務を承認している場合でも、その体系が道徳的な拘束力を持っているとは限らないし、法的責務の履行に反対する道徳的ないしはその他の決定的理由が存在する場合もあり得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法的責務と道徳的責務

【法体系が成立しており、人々が法的責務を承認している場合でも、その体系が道徳的な拘束力を持っているとは限らないし、法的責務の履行に反対する道徳的ないしはその他の決定的理由が存在する場合もあり得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

 「事態のこの側面を振り返るとき、人の目を開かせる真実が明らかになる。つまり第1次的な責務のルールが社会統制の唯一の手段である単純な形態の社会から、中央に組織された立法府、裁判所、公機関や制裁をもつ法的世界への歩みは、一定の代償の下に確実な利益をもたらすということである。利益とは、変化に対する順応性、確実さ、能率のよさであり、これらの利益は莫大である。代償とは、中央に組織された権力が、第1次的なルールのより単純な体制ならできないような仕方で、その支持を必要としない人々を圧迫するために用いられることが十分ありうるという危険である。この危険が現実のものとなったことがあり、また将来そうなるかもしれないので、われわれは、自然法の最小限の内容として示した以上の何らかの仕方で、法は道徳に一致《しなければならない》という主張については、たいへん注意深く吟味する必要がある。多くのそのような主張は、法と道徳とがどのような意味で関連する必要があるかを明確にすることができないか、あるいは検討してみると、その意味は真実で重要ではあるが、これを法と道徳の必然的関係であるとして示せば、極度の混乱を招くようなものであるかである。われわれは、この主張の6つの形態を検討してこの章を終えることにしよう。
 (i)力と権威 法体系は、単に人の人に対する力を基礎とするものではなく、またそうできないので、それは道徳的責務の意識あるいは体系の道徳的価値に関する確信によらなければならないと言われることがよくある。われわれも本書の以前の章において、威嚇を背景とする命令とか服従の習慣が、法体系の基礎および法的妥当性という観念を理解するのにふさわしくないことを強調してきた。法体系の基礎および法的妥当性の観念を解明するためには、第6章で詳細に論じたように、受けいれられた承認のルールという観念が必要とされるだけでなく、この章で見てきたように、強制的な力の存続するための必要条件としても、少なくともいくらかの者は、体系に自発的に協力しそのルールを受けいれなければならないのである。この意味において、法の強制的な力は、たしかにそれが権威あるものとして受けいれられていることを前提とする。しかし、「単に力にもとづく法」と「道徳的に拘束力あるものとして受けいれられる法」という二分法では、すべてが尽くされるわけではない。たいへん多くの人々が道徳的に拘束力があるとはみなさない法によって強制されることがあるばかりでなく、人々が体系を自発的に受けいれる以上、そうするように道徳的に義務づけられているとみずから考えなければならないということは、その結果体系が非常に安定するとしても、まったく真実ではないのである。事実、彼らの体系への忠誠は、長い目でみた利益の計算、他人の対する私心のない関心、それとなく受け継がれた伝統的な態度、あるいは他人がするようにしたいという単なる願望などのさまざまな考慮にもとづいているかもしれない。人々が体系の権威を受けいれたからといって、その良心をかえりみてはならないことにならず、また彼らが、道徳的にはそれを受けいれるべきではないとしても、さまざまな理由でやはり受けいれ続けるように決心してならない理由はもちろんない。
 このありふれた事柄は、人々が承認する法的責務と道徳的責務の両方を表現するのに、普通同じ言葉が用いられることによって曖昧にされてきた。法体系の権威を受けいれる人々は内的視点からそれをながめ、法と道徳の双方に共通な規範的な言葉で表現された内的陳述という形で、法体系の要求に関する彼らの意識を表明する。「私(あなた)はすべきである」、「私(彼)はしなければならない」、「私(彼ら)には責務がある」というように。だからといって彼らは、法の要求するところをするのが道徳的に正しいという《道徳的》判断をしているのではない。別段のことがないかぎり、自分あるいは他人の法的責務についてこのように話す者は誰でも、その履行に反対する道徳的ないしはその他の理由がないと仮定していることは明らかである。それだからといって、いかなることも道徳的に責務があると認められてはじめて、法的にもそうであるということにはならない。今ここでのべた仮定は、話し手が法的責務の履行に反対する道徳的ないしはその他の決定的理由をもっている場合には、法的責務を承認したりあるいはそれに注意を向けたりするのは無意味であるという事実にもとづいているのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第3節 法的妥当性と道徳的価値,pp.220-222,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:法的責務,道徳的責務)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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7.干渉や妨害からの自由である消極的自由とは区別される、積極的自由の概念がある。自分で目標を決め、実現するための方策を考え、決定を下し、自分の目標を実現していけるという自由である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

積極的自由

【干渉や妨害からの自由である消極的自由とは区別される、積極的自由の概念がある。自分で目標を決め、実現するための方策を考え、決定を下し、自分の目標を実現していけるという自由である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(2.1)追記。

(2)積極的自由
 「あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、またはだれであるか」という問いに対する答えのなかに含まれている。
 (2.1)自分自身が、主人公でありたいという個人の願望
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。


 「自由という言葉の「積極的」な意味は、自分自身の主人公でありたいという個人の側の願望からくるものである。

わたくしは自分の生活やさまざまの決定をいかなる外的な力にでもなく、わたくし自身に依拠させたいと願う。わたくしは他人のではなく、自分自身の意志行為の道具でありたいと願う。

わたくしは客体ではなく、主体でありたいと願い、いわば外部からわたくしに働きかけてくる原因によってではなく、自分自身のものである理由によって、自覚的な目的によって動かされるものであることを願う。

わたくしはなにもの somebody かであろうとし、なにものでもないもの nobody ではありたくない。

決定されるのではなくて、みずから決定を下し、自分で方向を与える行為者でありたいと願いのであって、外的な自然あるいは他人によって、まるで自分がものや動物や奴隷――自分自身の目標や方策を考えてそれを実現するという人間としての役割を演ずることができない――であるかのように働きかけられることを欲しない。

少なくともこれが、わたくしが理性的であるといい、わたくしを世界の他のものから人間として区別するものはわたくしの理性であるというときに、意味していることがらである。

なかんずくわたくしは、自分が考え、意志し、行為する存在、自分の選択には責任をとり、それを自分の観念なり目的なりに関連づけて説明できる存在でありたいと願う。

わたくしはこのことが真実であると信ずる程度において自由であると感じ、それが真実でないと自覚させられる程度において隷従させられていると感じるのである。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),2 「積極的」自由の概念,pp.25-26,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:積極的自由)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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宗教の不寛容性が招いた宗教対立や異端迫害など数々の悲惨な過ちが、良心の自由、宗教の自由、社会に対する個人の権利、少数派を抑圧することの反対論へと導いてきた。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

宗教の自由

【宗教の不寛容性が招いた宗教対立や異端迫害など数々の悲惨な過ちが、良心の自由、宗教の自由、社会に対する個人の権利、少数派を抑圧することの反対論へと導いてきた。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

  (2.1.1)追加。

(2)個人の独立と社会による管理の均衡
 (2.1)個人の独立
  (2.1.1)良心の自由、宗教の自由への道のり
   (a)宗教の不寛容性が招いた数々の過ち
    (i)人間は、ほんとうに重要だと思う点については、寛容になれないのが自然なのである。
    (ii)誠実だが頑迷な宗教家は、他の宗教に対して憎悪を抱くことがある。
    (iii)宗教対立や異端迫害など数々の悲惨な過ちが繰り返されてきた。
   (b)良心の自由、宗教の自由
    (i)良心の自由は、不可侵の権利である。
    (ii)人が自分の信仰について、他人に説明し許可を得る責任は、決してない。
    (iii)宗教においては、社会に対する個人の権利が主張された。
    (iv)社会が少数派に力を行使することへの反対論が、公然と主張されてきた。

 (2.2)社会による管理
  (2.2.1)法律
   法律によって、何らかの行動の規則が定められる必要がある。
  (2.2.2)世論
   法律で規制するのが適切でない多数の点については、世論によってコントロールされる必要がある。
 「このように、社会全体、あるいは社会のうちとくに強力な部分の好悪の感情こそが実際上、主要な要因になって、人びとが遵守すべき規則が決められ、遵守しない場合には法律や世論によって制裁がくわえられるようになっているのである。そして、社会のなかでとくに進んだ思想と感情をもつ人も通常、この状況を根本から批判することはなく、細部のいくつかの点で異議を唱えるだけである。こうした人は、社会が好むべきもの、嫌うべきものは何かを探究することに懸命になっており、社会が好む点、嫌う点を法律や慣習として個人に守らせるのが適切かどうかは問題にしてこなかった。自分が少数派になっている個々の点について、人類の感情を変えるために努力することを好み、さまざまな少数派と協力して自由の擁護という共通の目標を掲げようとはしてこなかった。そのなかで唯一、もっと高い立場から自由の原則が一貫して主張され、しかも何人かの孤立した個人によってではなく、幅広い層によって主張されてきたのは、宗教の自由だけである。宗教の事例をみていくとさまざまな点で教訓が得られるが、なかでも重要な点として、いわゆる道徳感情が誤りに陥りやすいことを見事に示す実例がここにある。誠実だが頑迷な宗教家が他の宗教に対して抱く憎悪は、道徳感情のなかでもとくに曖昧なところがないものだからである。カトリック教会は普遍教会を自称し、その束縛を打ち破った宗教改革家も当初、宗教的な意見の違いを許そうとしない点では一般に、カトリック教会とほとんど変わらないほどであった。だが、どの宗派も完全な勝利を収めないまま宗教対立の熱が冷め、どの教会、どの宗派もそれまでに確保した地盤を維持することしか望めない状況になると、少数派は多数派になるとは期待できない現実を認識し、改宗させることができなかった多数派に対して、宗教上の違いを許容するよう求める必要に迫られた。このため、ほぼ唯一、宗教という戦場では、社会に対する個人の権利が原理原則という一般的な根拠に基づいて主張され、社会が少数派に力を行使することへの反対論が公然と主張されてきた。宗教の自由の確立に貢献してきた偉大な思想家のほとんどは、良心の自由を不可侵の権利として主張し、人が自分の信仰について他人に説明し許可を得る責任があるという考えを強く否定している。しかし、人間はほんとうに重要だと思う点については寛容になれないのが自然なので、宗教の自由が実際に確立している国はほとんどない。例外は、宗教に無関心な勢力が宗教対立によって平和が乱されるのを嫌い、宗教の自由を支持する側にまわって力関係が変わった場合だけである。とくに寛容な国ですら、宗教家のほとんどは、宗教に関する寛容の義務を認める際に、内心では留保をつけている。たとえば、教会の政治形態に関しては反対意見に寛容でも、教義に関しては寛容になれない人がいる。教義の違いにも寛容だが、ローマ法王の権威を認めるカトリック教徒に対して、そして三位一体を否定するユニテリアンに対しては寛容になれないという人もいる。啓示宗教であれば寛容になれる人もいる。もう少し範囲を広げている人もいるが、それでも神と来世を信じていない人にはまったく寛容になれない。多数派は、純粋で強い信仰心を維持している地域では、少数派に服従を求める主張をほとんど弱めていない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第1章 はじめに,pp.21-23,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:良心の自由,宗教の自由,宗教の不寛容性,個人の権利,少数派の保護)

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(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年11月22日金曜日

義務や正・不正に関する諸個人の感情は,(a)利害と欲求,(b)様々な感情,(c)支配階級の影響を受けた社会道徳,(d)宗教,(e)理性による判断などの影響の下で形成された習慣であり,その意見は好みの表明に過ぎない。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

義務や正・不正に関する諸個人の感情

【義務や正・不正に関する諸個人の感情は,(a)利害と欲求,(b)様々な感情,(c)支配階級の影響を受けた社会道徳,(d)宗教,(e)理性による判断などの影響の下で形成された習慣であり,その意見は好みの表明に過ぎない。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)~(3)追記。

(1)諸個人の道徳感情
 (1.1)自分たちの道徳感情
  自分や自分と同じ意見の人たちが、そう行動して欲しいと望むように、全ての人が行動すべきだという感情である。
 (1.2)道徳感情に影響を与える諸要因
  (1.2.1)各人の欲求や恐れ、自己利益
   (a)社会的な感情
   (b)妬みや嫉み、驕りや蔑みといった反社会的な感情
  (1.2.2)偏見や迷信
   (a)社会道徳は、かなりの部分、支配階級の自己利益と優越感から生まれている。
   (b)世俗の支配者や、信仰する神が好むか嫌うとされている点への追従がある。この追従は本質的には利己的なものだが、偽善ではない。
  (1.2.3)理性による判断
   社会全体の利益に関する理性的な判断
(2)個人の独立と社会による管理の均衡
 (2.1)個人の独立
 (2.2)社会による管理
  (2.2.1)法律
   法律によって、何らかの行動の規則が定められる必要がある。
  (2.2.2)世論
   法律で規制するのが適切でない多数の点については、世論によって規則が定められる必要がある。
(3)義務や正・不正に関する判断
 (a)それは「自明なこと」ではない
  異なる時代、異なる国では、様々な考えが存在した。しかし、その時代、その国の人々は、その考えが自明なことであり、説明の必要があるとは考えていない。
 (b)それは人間の本性ではなく習慣である
  その考えは習慣であるが、常に第1の天性、人間の本質とさえ理解されてきた。
 (c)それは「好み」の表明ではない
  その考えが、理由によって裏付けられていないのなら、単なる好みの表明に過ぎないことになる。
 (d)それは多数派の「好み」でもない
  また、多数派に支持されているという理由であれば、多数派の好みに過ぎないことになる。
(4)義務や正・不正の起源と性質
  義務の起源や性質に関する、以下の二つの考え方があるが、「義務や正・不正の感覚・感情論」は誤っており「義務や正・不正の理性論」が真実である。
 (4.1)義務や正・不正の感覚・感情論
  私たちには、「道徳感情」と言いうるような感覚が存在し、この感覚によって何が正しく、何が不正なのかを判定することができる。
  (a)その感覚を私心なく抱いている人にとっては、それが感覚である限りにおいて真実であり、(1)の偏見や情念と区別できるものは何もない。
  (b)その感覚が自分の都合に合っている人は、その感覚を「普遍的な本性の法則」であると主張することができる。

 (4.2)義務や正・不正の理性論
  道徳、すなわち何が正しく、何が不正なのかの問題は、理性による判断である。
   義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   理性による判断である義務や正・不正は、何らかの目的の連鎖と、行為が生み出す帰結によって評価される。究極的目的より導出されるはずの諸々の二次的目的・中間原理が、実践的には、より重要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

  (4.2.1)理性と計算の問題
   道徳は単なる感情の問題ではなく、理性と計算の問題である。
  (4.2.2)経験的な証拠に基づく理論
   道徳問題は、議論や討議に対して開かれている。すなわち、他のあらゆる理論と同じように、証拠なしに受け入れられたり、不注意に選別されたりするようなものではない。
  (4.2.3)目的の連鎖と行為の結果
   道徳は、何らかの目的の連鎖として体系化される。
   (a)行為の道徳性は、その行為が生み出す帰結によって決まる。
   (b)究極的目的、人間の幸福とは何かという問題は、体系的統一性、一貫性、純粋に科学的見地から重要なものである。しかし、これは複雑で難解な問題であり、様々な意見が存在している。
   (c)究極的目的から導出され、逆にそれを基礎づけることになる二次的目的、あるいは中間原理、媒介原理が、道徳の問題において重要な進歩を期待できるような、実践的な諸目的である。
   (d)このような二次的目的は、究極的目的については意見を異にしている人々の間でも、合意することがあり得る。なぜなら、人類は自分たちの「本性」について一つの見解を持つことが困難でも、事実として、現にある一つの本性を持っているだろうからである。

 究極的目的、人間の幸福
  ↓↑
 二次的目的、中間原理、媒介原理
  ↓↑
 行為が生み出す帰結:行為の価値


  (4.2.4)究極的目的(第一原理)の役割
    複数の道徳規則が対立し合うような特異な状況で、議論をさらに深めるために必要なのが、より上位の第一原理である。それでもなお、人間事象の複雑さは、行為者の道徳的責任における意思決定の裁量を残す。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   (i)個々の二次的目的については、人々が合意することができても、特異な状況においては異なる複数の二次的目的どうしが、互いに対立する事例が生じる。これが、真の困難であり複雑な点である。
   (ii)二次的目的が対立し合うような状況で、もし、より上位の第一原理が存在しなければ、複数の道徳規則がすべて独自の権威を主張し合うことになり、これ以上は議論が進まないことになる。このような場合に、第一原理に訴える必要がある。
   (iii)ベンサムは、自明のものとして受け入れることができ、他のあらゆる理論を論理的帰結としてそこに帰結させることができるような第一原理として、「功利性の原理」、あるいは彼の後の呼び方では「最大幸福原理」を置いた。

  (4.2.5)人間事象の複雑性と、意思決定の困難さ。
   (i)行為の規則を、例外を必要としないような形で作ることができない。
   (ii)ある行為を為すべきか、非難されるべきか、決定することが困難な場合もある。
   (iii)特異な状況における意思決定には、ある程度の裁量の余地が残り、行為者の道徳的責任において選択される。
 「個人の独立と社会による管理の均衡をうまくとるにはどうすべきかという実際的な問題になると、解決されている点はほとんどないのが現実である。誰にとっても、自分の生活を生きるに値するものにしようとすると、他人の行動を制限することが不可欠になる。したがって、まずは法律によって、そして法律で規制するのが適切でない多数の点については世論によって、何らかの行動の規則が定められていなければならない。その規則がどのようなものであるべきかは、人びとの生活にとって主要な問題である。しかしこの問題は、いくつかの目立った例外があるが、全体としては理解がとくに遅れている。その理由はいくつもある。どの二つの時代、ほぼどの二つの国でみても、この問題への答えが同じだということはない。ある時代、ある国の答えは他の時代、他の国の人にとって理解しがたいものである。ところがどの時代、どの国の人も自分たちの答えに問題があるなどとは思わず、人類がはるか昔からその答えに同意してきたかのように考えている。自分たちの間で確立した規則は自明だし、根拠を示す必要すらないと思えるのである。ほぼどの時代、どの国でもこのように錯覚されているのは、習慣というものの魔術を示す例のひとつである。習慣は第二の天性だといわれるが、それだけでなく、つねに第一の天性だと誤解されているのだ。以上のように、人々が互いに課している行動の規則は、習慣になっているために疑問が持たれにくいのだが、それだけではない。行動の規則については一般に、他人に対しても自分に対しても理由を示す必要があるとは考えられていないので、習慣の影響がさらに強くなっているのである。人は通常、この種の問題では理性よりも感情の方が重要なので、理性的な判断によって理由を明確にする必要があるわけではないと考えているし、哲学者として認められたいと望む人もこの考えを後押ししている。人が行動の規則に関する意見で実際に指針としているのは、各人の心のなかにある感情、つまり、自分や自分と同じ意見の人たちがそう行動してほしいと望むようにすべての人が行動すべきだという感情である。もちろん、判断の規準が自分の好みだとは、誰も認めようとしない。しかし、行動に関する意見は、しっかりした理由によって裏付けられていないのであれば、その人の好みだといえるにすぎない。そして理由があげられていても、同じような好みをもつ人が多いというにすぎないのであれば、ひとりの好みではなく多数の人の好みだといえるだけである。しかし自分の好みは普通の人にとって、道徳や好き嫌い、礼儀のうち、自分が信じる宗教の信条にはっきりとは書かれていない部分について、完全に満足できる理由だし、それ以外の理由は考えていないのが通常である。信条にはっきりと書かれている点についてすら、自分の好みがそれを解釈する際の最大の指針になっている。このため、称賛すべき点と非難すべき点についての各人の意見は、他人の行動に関する望みを左右するさまざまな要因から影響を受けている。そして、どのような問題でもそうであるように、この問題でも各人の望みに影響を与える要因はきわめて多い。ときには理性による判断であり、ときには偏見や迷信であり、社会的な感情の場合も多いし、妬みや嫉み、驕りや蔑みといった反社会的な感情の場合も少なくない。だが、もっとも一般的な要因は各人の欲求や恐れ、つまり各人の自己利益であり、これには正当なものと不当なものとがある。支配階級がある国では、その国の社会道徳は、かなりの部分、支配階級の自己利益と優越感から生まれている。古代スパルタの市民と奴隷、アメリカの植民者と黒人、国王と臣民、領主と農奴、男と女などの関係を規定する道徳は大部分、支配階級の利益と感情から生まれたものである。被支配階級との関係によって生み出された道徳感情は、支配階級内部の人間関係を規定する道徳感情にも影響を及ぼす。これに対して、過去の支配階級が支配的な立場を失った社会や、支配階級による支配が嫌われるようになった社会では、支配に対する強い嫌悪がその社会で一般的な道徳観の特徴になっていることが多い。もうひとつ、大きな要因をあげよう。行動すべき点と行動してはならない点の両面にわたって法律や世論によって強制されてきた行動の規則を決める大きな要因に、世俗の支配者や信仰する神が好むか嫌うとされている点への追従がある。この追従は本質的には利己的なものだが、偽善ではない。そこからまったく純粋な憎悪の感情が生まれる。魔術師や異端者を焼き殺すほどの憎悪が生まれるのである。以上にあげてきたように、道徳感情にはさまざまな低級な要因が影響を及ぼしており、そのなかでもちろん、社会全体の明らかな利益がひとつの要因、それも大きな要因になっている。だが、社会全体の利益に関する理性的な判断や、社会全体の利益そのものよりも、そこから生じた好悪の感情の方が、大きな影響を与えている。そして、社会の利益とは無関係な好悪の感情が、道徳の確立にあたって社会の利益と変わらないほど大きな影響を与えているのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第1章 はじめに,pp.17-21,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:義務や正・不正に関する諸個人の感情,欲求,道徳感情,自己利益,感情,偏見,迷信,社会道徳,宗教,理性)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年11月21日木曜日

ミセリコルディアとは、人が、他の誰かの苦しみを自らの苦しみとして理解する限りにおいて、その他者の苦しみに対して抱く嘆きや悲しみである。それは、家族や友人など社会的絆の有無を区別しない。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

ミセリコルディア

【ミセリコルディアとは、人が、他の誰かの苦しみを自らの苦しみとして理解する限りにおいて、その他者の苦しみに対して抱く嘆きや悲しみである。それは、家族や友人など社会的絆の有無を区別しない。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

ミセリコルディアとは。
 人が、他の誰かの苦しみを自らの苦しみとして理解する限りにおいて、その他者の苦しみに対して抱く嘆きや悲しみである(アクィナス)。ミセリコルディアは、以下の2つの要求を区別しない。
 (a)私たち自身が所属するコニュニティの中で、その人が占める位置のために、私たちとある明確な社会関係を有する人々の要求。例えば、家族の絆にもとづく要求や、直接的な社会的絆にもとづく要求。
 (b)私たちとの間にそのような関係があろうとなかろうと、現に何らかのしかたでひどく苦しんでいる人々の要求。特にその悪が、その苦しむ個人の選択から直接的に生じたものでない場合。

 「誰であれ、何らかの顕著な悪に苦しむすべての人々に対してであり、その悪がその苦しむ個人の選択から直接的に生じたものでない場合にはとりわけそうである。ただし、このような条件づけは、おそらくそれ自体、さらなる条件づけを必要としている。すなわち、〔ある行為者にとって〕ある他者が極度の苦境に陥り、緊急に援助を必要としているという事実そのものが、もっとも親密な家族の絆にもとづいて発せられる要求が提供する行動の理由をもしのぐほど強力な行動の理由を〔当該行為者に対して〕提供している。また、そうした他者のニーズがそれほど由々しきものではなく、かつまた、それほど緊急のものではない場合でさえ、そうした他者のニーズはしばしば、家族の絆にもとづく要求や、その他の直接的な社会的絆にもとづく要求に優先するものであると、適切にも判断されうる。とはいえ、どのようなケースがそうしたケースにあてはまるのかを決定する規則など存在しないのであって、それを判断するためには思慮 prudence という徳が発揮されねばならない。以上を踏まえる場合、私たちは、ときに相互に対立しあう、二種類の異なる要求にさらされているように思われる。すなわち、私たちは一方において、私たち自身が所属するコニュニティの中でその人が占める位置のために、私たちとある明確な社会関係を有する人々の要求にさらされているだろう。また他方において、私たちとの間にそのような関係があろうとなかろうと、現に何らかのしかたでひどく苦しんでいる人々の要求にさらされているだろう。しかし、ミセリコルディアという徳に関するアクィナスの説明は、少なくも私が右に定式化したような〔二つの要求の間の〕対比を拒絶するように私たちに求めている。
 ミセリコルディアとは、人が他の誰かの苦しみをみずからの苦しみとして理解するかぎりにおいて、その他者の苦しみに対して抱く嘆きや悲しみである、とアクィナスはいう。人がそのような嘆きや悲しみを抱くのは、その他者が以前からの友人であったり親族であったりする場合のように、かねてからその他者との間に何等かのつながりがあったからかもしれないし、あるいはまた、その人が当該他者の苦しみを理解するにあたって、ことによるとこの苦しみは自分にふりかかっていたものかもしれないと気づくからかもしれない。だが、そのような理解に必要とされているものは何であろうか。ミセリコルディアとは、私たちをして、私たちの隣人の必要とするものを彼らに提供するべく衝き動かす慈愛の一側面であって、そのようなものとしてミセリコルディアは私たちを私たちの隣人にかかわらせる諸徳のうちもっとも重要なものである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第10章 承認された依存の諸徳,pp.178-180,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:ミセリコルディア)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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依存的な理性的動物叢書・ウニベルシタス法政大学出版局

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