2021年12月21日火曜日

カール・ポパー(1902-1994)の命題集

カール・ポパー(1902-1994)命題集


カール・ポパー(1902-1994)















第1部 世界3論
第2部 心身問題
第3部 科学基礎論
第4部 社会科学方法論、進化論、歴史論
第5部 めざすべき社会──自由主義の諸原則



第1部 世界3論

(1)世界3は、世界1のなかに符号化されている
(2)世界3の存在
(3)世界2が真に接触し、鑑賞し、賞賛し、理解するのは、世界3である
(4)世界3は、世界2としては全く具現化されていなくても、存在する
(5)人間は、未だ世界1の中に具現化されていない世界3の対象を、把握したり理解したりする ことができる
(6)世界3は、世界1や世界2と同じ意味で、実在的な存在である
(7)世界3の自律性

第2部 心身問題

(1)【各論の概要
(1.1)【徹底的唯物論】
(1.2)【同一説(中枢状態説)】
(1.3)【随伴現象論(epiphenomenalism)】
(1.4)【汎心論】
(2)【心身問題と世界3
(2.1)心身問題と世界3
(2.2)世界3に属するもの
(2.3) 世界3の生成と変化の法則
(2.4)一つの反論:世界3の創造とは、世界1または世界2の中の符号との相互作用ではないのか(ジョン・エックルス(1903-1997)) 
(2.5)反論への回答
(2.6)心身問題における言語の役割
(2.6.1)言語の習得は、世界1の基盤によって支えられている
(2.6.2)言語の習得は、意識的、能動的な世界3の学習と探究の過程である
(2.6.2.1)記憶と学習
(2.6.3)人間の理性と人間の自由の創発
(2.6.4)言語の機能
(2.6.5)言語のフィードバック効果
(2.6.6)世界3の所産としての自我

第3部 科学基礎論
(1)真理の探究
(2)理論の役割
 (2.1)道具主義的な計算規則と理論との違いは何か
(3)理論は実証できない
 (3.1)帰納の非妥当性の原理
 (3.2)観察は知識の源泉ではないのか?
 (3.2.1)確実な経験と科学的事実
 (3.2.2)相互主観的テスト可能性
 (3.2.3)科学と独断論、心理主義
 (3.2.4)観察の役割
 (3.3)確実な知識の源泉はない
 (3.3.1) 観察、論理的思考、知的直観、想像力
 (3.3.2)知識の源泉としての伝統
 (3.4)理論は人間精神の一つの自由な創造物である
 (3.5)理論は人間の歴史の所産であり、多くの偶然に依存している
(4)では、理論の客観性とは何か
《小目次》
(1)科学的知識の性質
(1.1)科学的客観性を保証するもの
(1.2)科学者の友好的かつ敵対的協働
(1.3)科学における権威主義と批判的アプローチの対比
(2)大胆な理論の提起
(2.1)科学と擬似科学を区別する反証可能性
(2.2)ある出来事が生じないことを予言する理論
(2.3)テスト可能性の度合
(2.4)テストの厳しさの度合
(3)誤りを除去する批判的方法
(3.1)批判に対する辛抱強い反論の必要性
(3.2)実験的テスト
(3.3)実験は理論に導かれている
《小目次終わり》

(5)経験主義の原理
(6)帰納の論理的問題
(7)批判的合理主義の原理
 (7.1)批判的推論
 (7.2)観察と実験の役割
 (7.3)理論の拒否、受容の条件
 (7.3.1)後退を防ぐ保守的な条件
 (7.3.2)新しい仮説に望まれる革命的な条件
 (7.3.3)観察と実験による判定
 (7.4)世界の謎は汲み尽くされることはない
(8)傾向なのか、方法と能動的な行為なのか
 (8.1)傾向と考える理論
 (8.2)方法と能動的な行為と考える理論

第4部 社会科学方法論、進化論、歴史論
(1)人間や社会に関する法則とは?

(1.1)社会理論と社会との相互作用
(1.1.1)情報から社会への影響(オイディプス効果)
(1.1.2)社会から情報への反作用
(1.1.3)社会に関する理論と社会との相互作用

(1.2)問題:社会に関する理論の客観性とは何か
(1.2.1)解答:予言と技術的予測
(1.2.2)技術的社会科学
(1.2.3)技術的社会科学の効用
(1.2.4)方法論的唯名論と本質主義
(1.2.5)解答:方法論的個人主義
(1.2.6)仮説モデルとしての社会的存在
(1.2.7)社会科学における実験に関する問題提起
(1.2.8)解答:科学的な実験とは何か
(1.3)価値論

《小目次》
(1)問題:人間の本性にかなう行為と、人間の本性を害する行為とは?
(2)我々は、いかに行為すべきか
(3)規範を事実の上に基礎づけることは不可能
(3.1)生物学的自然主義への批判
(3.2)倫理的実定主義への批判
(3.3)心理学的自然主義への批判
(4)フレームワークの神話
 (4.1)独断論
 (4.2)共約不可能性
 (4.3)相対主義
(5)フレームワークの神話の誤り
 (5.1)フレームワークの神話の暗黙の前提
 (5.2)原理や公理は科学における合理的討論の対象
 (5.3)反論
 (5.4)反論への回答
 (5.4.1)方法1:自らの原理を強化する
 (5.4.2)方法2:人間、社会、自然、宇宙の真の姿の理解
 (5.4.3)客観的真理の増大という価値
 (5.4.4)合理主義と平等主義との関係
(6)私はいかに行為すべきか
《小目次終わり》


(2)生命の起源、生命の進化
(2.1)物理的過程との相関、累進的な単称的分析
(2.2)問題(あるいは情報)は実在的なものである
(2.3)生命の起源
(2.4)自己増殖、適応、変異
(2.5)問題解決方法も、問題であった
(2.6)進化論と世界3

(3)歴史とは何か
(3.1)問題:歴史における出来事の新奇性
(3.2)解答:新奇性、歴史性とは何か
(3.3)解答:単称言明である仮説
(3.4)問題:生命の進化や人間の歴史に法則は存在し得るのか?
(3.5)進化に傾向はあるのか
(3.6)規則性の因果的説明とは何か
(3.7)人間の歴史
(3.7.1)人間の歴史の道筋は予測できるのか
(3.7.2)歴史の中に「発見される意味」は恣意的、偶然的、非科学的なもの
(3.7.3)倫理的理念や目標設定によって初めて歴史に意味を読み取れる
(3.7.4)各世代の歴史解釈
(3.7.5)開かれた社会、理性の支配、正義、自由、平等、そして国際的犯罪の統治
(3.7.6)将来の運命は私たち自身にかかっている

第5部 めざすべき社会──自由主義の諸原則

(1)必要悪としての国家
(1.1)政治的、物理的制裁力
(2)民主主義の本質
(2.1)多数者支配は民主主義の本質ではない
(2.2)民主主義かどうかの認定規準
(2.3) 民主主義的憲法の改正限界
(2.4)寛容の限界
(2.5)民主主義を保護する制度
(2.6)経済的諸利益が依存するもの
(2.7)全ての闘いにおいて民主主義の維持が最優先である
(3)何事かをなし得るのは市民
(3.1)個人主義
(3.2)個人主義的利他主義
(4)民主主義は、最も害が少ない
(4.1)開かれた社会
(5)制度は善用も悪用もできる
(6)制度を支える伝統の力
(7)自由主義の諸原則は改善のための原則
(7.1)事実から目標は導出できない
(7.2)事実から目標が導出可能とする反論
(7.3)政治とは、政治目標とその実現方法の選択である
(7.4)最初に目標を決めることについて
(7.4.1)ユートピア的態度
(7.4.2)ユートピア主義への批判
(7.5)空想的な目標
(7.5.1)善い目的は悪い手段を正当化するか
(7.5.2)より大きな悪を避けるための手段としての悪
(7.5.3)ある行為の全結果と他の行為の全結果の比較
(7.5.4)政治権力と社会知識の相補性
(7.5.5)世論について
(7.5.6)制度による選抜の弊害
(7.6)事実の評価
(7.6.1)ピースミール工学
(7.7) 悪に対する漸次的闘い
(8)伝統としての道徳的枠組み
(8.1)伝統の力
(8.2)合理的討論の原則
(8.2.1)可謬性の原則
(8.2.2)合理的討論の原則
(8.2.3)真理への接近の原則
(8.3)思想の自由と真理
(8.4)知にかかわる倫理


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世界3論
《概要》

《目次》
(1)世界3は、世界1のなかに符号化されている
(2)世界3の存在
(3)世界2が真に接触し、鑑賞し、賞賛し、理解するのは、世界3である
(4)世界3は、世界2としては全く具現化されていなくても、存在する
(5)人間は、未だ世界1の中に具現化されていない世界3の対象を、把握したり理解したりする ことができる
(6)世界3は、世界1や世界2と同じ意味で、実在的な存在である
(7)世界3の自律性

(1)世界3は、世界1のなかに符号化されている
(a)世界3とは、物語、説明的神話、道具、真であろうとなかろうと科学理論、科学上の問題、 社会制度、芸術作品(彫刻、絵画など)のような人間の心の所産の世界である。対象の多くは 物体の形で存在し、世界1に属している。例として、書物そのものは、世界1に属している。

┌世界1────┐
│人間⇒世界3│
│   の符号│
└───────┘
(b)モナド論による定式化:実体的紐帯の精神
 人間の精神は、書籍を媒介物として、他者の精神と直に接触する。それは、自己の精神内の現象でありながら、元々の自己ではなく、また他者の精神そのものでもない。これを、新たなモナドである実体的紐帯の精神という概念で理解する。
 一般化する。人間は、人間の精神が創り出した物理的対象物を媒介物として、他者と相互作用する。一つの物理的媒介物は、一つの実体的紐帯を発生させる。実体的紐帯の精神が世界3である。
(2)世界3の存在
 世界3は、単に世界1の特定の対象ではない。また、個々の世界2の集まりともみなせな い。世界1、世界2とは別の世界が確かに存在する。
(a)人間の心の所産である対象が、人間とともに存在しているとき、そこに世界1、世界2と は異なる世界が生まれる。例えば書物には「内容」が存在する。この内容は世界1ではない し、読者の個人的な世界2でもない。これは、世界3に属している。そして内容は、本ごとや版 ごとで変わりはしない。
(b)世界3の諸対象は、我々自身の手になるものであるが、それらは必ずしも常に個々人に よって計画的に生産された結果ではない。

┌世界2────┐
│世界3  ⇔ 世界3
│の符号  │
└───────┘

(3)世界2が真に接触し、鑑賞し、賞賛し、理解するのは、世界3である
(参照:世界3とは何か?(カール・ポパー(1902- 1994))
 世界1に具現化されている世界3は、本のように符号化されたものもあれば、芸術作品のよう に世界1の対象の役割がより大きいものもあるが、世界2が真に接触し、鑑賞し、賞賛し、理解 するのは、物質化された世界3の対象というよりも、むしろ、物質化とは無関係な世界3の側面 である。

(a)私たちが本を読んで「意味」を理解する方法も、ページの上に符号化、具現化されたも のを飛び越して、世界3の属する意味を直接把握しているように思われる。
(b)特別な本ではない場合は、世界1の対象は単に付随的な符号と思われるかも知れないが、 例えば、ダンテの稀覯本を扱う際の鑑識家の楽しみは、特定の対象としての世界1に依存して いる。しかし、その楽しみは歴史などの知識に基づく世界3に属している。
(c)例として、ミケランジェロの彫刻はどうだろう。この場合は、さらに世界1の対象の役割 が大きくなる。しかし、世界2が真に接触し、鑑賞し、賞賛し、理解するのは、物質化された 世界3の対象というよりも、むしろ、物質化とは無関係な世界3の側面である。
(d)モナド論による定式化
 個別の精神が接触するのは、実体的紐帯の精神である。

(4)世界3は、世界2としては全く具現化されていなくても、存在する
(a)世界3は、物理的対象としての世界1としては常に存在するにしても、いずれかの世界2 が存在するときだけ存在すると言えるのか。それとも、世界2の記憶、意図の対象としていっ さい存在しないときにも、存在すると言えるのか。
(b)世界2として全く具現化されていない世界3の対象も、世界3として存在する。
(c)一度も演奏されなかったとしても、楽譜やレコードのように、記号化した形でのみ存在 している対象もまた、世界3として存在する。
参照:世界2として全く具現化されていない世界3の対象も、世界 3として存在する。また、世界3の実在性を理解することは、世界3での新発見や創造と、未解 決の問題を解決する探究の、前提条件である。(カール・ポパー(1902-1994))
(d)モナド論による定式化
 実体的紐帯の精神は、個別の人間精神と相互作用していないときも、存在する。実体的紐帯の身体たる、個別の人間の集合体と媒介物である人間精神の所産が存在する限り実体的紐帯の精神も存在すると考えて良い。個別の人間が存在しなければ、実体的紐帯も滅びる。

(5)人間は、未だ世界1の中に具現化されていない世界3の対象を、把握したり理解したり することができる
世界1の中に符号化、具現化されているものだけが、世界3ではない。人間は、未だ世界1の中 に具現化されていない世界3の対象を、把握したり理解したりすることができる。(カー ル・ポパー(1902-1994))
(a)モナド論による定式化
 個別の精神は、実体的紐帯の精神と相互作用する。物理的媒介物がなければ、感じたり考えたり行動したり、できないわけではない。


(6)世界3は、世界1や世界2と同じ意味で、実在的な存在である
人間の科学と技術の営みを考えると、次の命題が正しいことを確信させる:世界3の対象は、 世界2を経由して間接的に、物理的な世界1に働きかける。ゆえに、世界1を実在的と呼ぶなら ば、それに作用する世界3も実在的な対象である。(カール・ポパー(1902-1994))
(i)科学理論の構築は、科学者による既存の理論の理解、新しい問題の発見、解決法の提案、批 判的な議論など長い知的な仕事によるものだが、ここには個々の科学者の世界2の寄せ集めを 超える世界が存在する。これが、世界3である。そして、これら科学理論の応用である人工物 が、世界1に実現されて、地球表面を覆っていることを考えてみよ。これらが世界1の中だけで 実現されていると考え得るか。世界2の寄せ集めだけで実現されていると考え得るか。このよ うに考えると、世界3の実在性は確かなものに思える。
(ii)思想の実在性
 社会の経済組織が社会的制度の歴史的発展にとって基礎的であるという主張は、真理の一面を捉えている。しかし同時に、ある種の思想、我々の知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。(カール・ポパー(1902-1994))
 (a)社会の経済組織、すなわち自然との 物質交換の組織が、あらゆる社会的制度の歴史的発展にとって基礎的であるという主張は概ね正しいが注意すべき点がある。
 (b)ある種の思想、我々の知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理 的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。
 (c)思考実験:あらゆる機械やあらゆる社会的組織も含めて、我々の経済体制が、ある日壊滅させられたと想像せよ。だがしかし技術上の知識、科学上の知識が保存されたと想像してみよ。
 (d)思考実験:一方で、これらの事柄についてのすべての知識が消滅し、物質的なものは保存され たと想像してみよ。



(7)世界3の自律性
 世界3の対象は、世界2と世界1を経由して、世界3の他の対象を作り出す。

未だ世界1の形態あるいは世界2の形態をとってはいな いが、私たちの思考過程と相互作用する自律的な世界3の対象が存在する。それは、自身の内 的法則、制約、規則性を持ち、私たちの思考過程に決定的な影響を与える。(カール・ポ パー(1902-1994))

世界3の自律性:世界3はいったん存在するようになると、意図しなかった結果を生むようにな る。また、今は誰も知らない未発見の諸結果が、その中に客観的に存在しているかのようであ る。(カール・ポパー(1902-1994))
(a)世界3は、確かに最初は人間が作ったものであり、また人間の心の所産である。
(b)しかし、いったん存在するようになると、それは意図しなかった結果を生み出す。それ は、ある程度の自律性を持っている。
(c)また、今は誰も知らない未知の諸結果が客観的に存在していて、発見されるのを待って いるかのようである。
(c.1)世界3の無時間性が、そう感じさせる

(d)未知の諸結果が発見されるのを待っており、また、未解決の問題については、その解決 が客観的に存在すると理解することが、発見と解決のための探究の重要な前提条件である。

(8)世界3の歴史
 世界3は歴史をもっている。それはわれわれの観念の歴史である。


心身問題

心身問題のまとめ:徹底的唯物論、同一説(中枢状態説)、随伴現象論、汎心論。(カー ル・ポパー(1902-1994))


(1)【各論の概要
(1.1)【徹底的唯物論】
(1.2)【同一説(中枢状態説)】
(1.3)【随伴現象論(epiphenomenalism)】
(1.4)【汎心論】
(2)【心身問題と世界3
(2.1)心身問題と世界3
(2.2)世界3に属するもの
(2.3) 世界3の生成と変化の法則
(2.4)一つの反論:世界3の創造とは、世界1または世界2の中の符号との相互作用ではないのか(ジョン・エックルス(1903-1997)) 
(2.5)反論への回答
(2.6)心身問題における言語の役割
(2.6.1)言語の習得は、世界1の基盤によって支えられている
(2.6.2)言語の習得は、意識的、能動的な世界3の学習と探究の過程である
(2.6.2.1)記憶と学習
(2.6.3)人間の理性と人間の自由の創発
(2.6.4)言語の機能
(2.6.5)言語のフィードバック効果
(2.6.6)世界3の所産としての自我



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(1)【各論の概要
(1.1)【徹底的唯物論】
世界1のみが実在する。

時間1 世界1・P1 ⊃ 世界2・M1
 ↓           ↓
時間2 世界1・P2 ⊃ 世界2・M2

(1.2)【同一説(中枢状態説)】
 世界1は、次の2つの世界に区別することができる。すなわち、意識的過程と同一である物理 過程の世界 1mと、それ以外の世界 1pである。世界 1mと、世界 1pには、相互作用が可能である。
 徹底的唯物論とは異なり、心的世界2も実在すると考える。心的世界2と、身体・大脳の物理 的過程 1m とは、世界1のなかの同一の実体についての、異なる二つの記述方 法である。したがって、随伴現象論とは異なり、心的世界2も、世界1の実体として物理過程と 相互作用することができる。

時間1 世界1・P1 ⊃ 1m・状態1
 │       │                =世界2・M1
 ↓        ↓
時間2 世界1・P2 ⊃ 1m・状態2
        =世界2・M2

(1.3)【随伴現象論(epiphenomenalism)】
 精神状態は、脳内のプロセスに随伴する。ただし、因果関係にはかかわらない。
また、汎心論とは異なり、生命のある対象のみが、内的または主観的経験を持つと考える。

時間1 世界1・P1 ⇒ 世界2・M1
 ↓         ↓
時間2 世界1・P2 ⇒ 世界2・M2

(1.4)【汎心論】
 純粋な物理的対象も、多かれ少なかれ我々自身の内的意識に類似の内面を持っている。

時間1 世界1・P1 世界2・M1
 ↓        ↓                  ↓意識的な思考過程
時間2 世界1・P2 世界2・M2


(2)【心身問題と世界3
(2.1)心身問題と世界3
 個別の精神が、物理的諸法則に従いつつも、なぜ能動的に働き物理的世界に影響を与え得るように見えるのかを理解するのに、個別の精神が実体的紐帯の精神を把握して新たな実体的紐帯の精神を生成するという事実が重要な役割を果たしている。

(2.2)世界3に属するもの
(a)物理的世界1の諸法則の支配の下にある現象でもなく、個々の世界2の現象とも言えな いような現象が存在する。これが、世界3である。
(b)仮に、すべて物理的世界における現象だと考えてみる。
数学とか論理学も、物理的世界における人間の脳の進化と自然淘汰の産物ではないのか。環境 に適応する過程のなかで、言語が生まれ、思考が生まれ、適応的な推理のための性向的能力が 習得されたのではないか。(カール・ポパー(1902-1994))
(i)進化と自然淘汰の産物として、人間の大脳が生まれた。
(ii)環境に適応するこの過程のなかで言語活動が生まれた。
(iii)適応的な行動を生むための思考と、適応的な推理のための性向的能力が習得された。
(iv)やがて学校教育において、論理的思考が組織的に学習されることになった。

(v)数学や論理学が、世界1における人間の脳の進化と自然淘 汰の産物だとしても、ある論理法則の「正誤」は、世界1に具現化されている対象物や、それ と相互作用する世界2の集合体を超える、別の世界に属していると思われる。(カール・ ポパー(1902-1994))
(a)たとえば、世界2における計算、または世界1に書き下した計算式、または、ある計算 を行なっているコンピュータが「正しい」とか「誤っている」と言うことには、確かに意味が ある。「正しい」論理法則とは、何なのか。
(b)「正しい」「誤っている」と言うためには、基準が必要であるが、この基準は、物理 的世界1の中に具現化されているだろうか。たとえば、ある特定の論理学の書物が基準である とか。
(c)あるいは、大多数の論理学者が正しいと判断するから「正しい」というような方法 で、世界2の集合体が、その基準を具現化しているのだろうか。
(d)ある論理法則が「正しい」とか「誤っている」という基準は、物理的世界1に具現化さ れている対象物や、それと相互作用する主観的経験の世界2の集合体を超える、別の世界に属 していると思われる。
(e)モナド論による定式化
 個別の精神が、ある計算をしたとする。あるいは、紙の上に計算式を書き下したとする。あるいはまた、コンピュータの中である計算が実行されたとする。その計算が正しいか誤っているかは、確かに意味があるが、これは物理的法則で説明できるのか。あるいは個別の精神の何からの法則で説明できるのか。実体的紐帯の精神の概念で理解できる。

(2.3) 世界3の生成と変化の法則
 世界1を支配する諸法則によって、世界3の生成と変化を理解することができるだ ろうか。できるとは、思えない。

時間1 世界1・P1⇒世界3・C1
 ↓            ↓
時間2 世界1・P2⇒世界3・C2

(a)世界2は、世界3を把握し、批判的な選択作用により、新たな世界3を作り出す。 
 個別の精神は、実体的紐帯の精神を把握し、批判的な選択作用により、新たな実体的紐帯の精神を作り出す。

時間1 世界3・C1⇔世界2・M1
 │              │┌───┘
 ↓                ↓↓
時間2 世界3・C2⇒世界2・M2
 
(b)世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。
 実体的紐帯の精神は、個別の精神との相互作用によって、新たな実体的紐帯の精神を生成する。

時間1 世界1・P1(世界3・C1⇔世界2・M1)
 │       │                         │┌───┘
 ↓        ↓                          ↓↓
時間2 世界1・P2(世界3・C2⇒世界2・M2)

(c)世界2が、未だ世界3のなかに表現されておらず、したがって当然、世界1に は存在しない新しい問題を発見したり、問題への新しい解決を発見するときのような創造的行 為を考えると、世界2が必ず世界1を経由するということは、誤りではないかと思われる。 

(d)例として、数学の問題を発見し、証明する過程。
(i)最初に問題を感じ、問題の存在に気づく。あるいは、証明の考案がなされる。
(ii)次に、(i)が言語で表現される。
(iii)明確化し、証明の妥当性を批判的に調べるため、世界1の表現に具現化される。 

(e)例として、数学における無限の概念は、世界1、世界2に具現化されなくて も、直接把握される。論証のための表現は世界1、世界2に具現化されるが、概念そのものは直 接把握されるように思われる。

(f)例として、私たちが本を読んで「意味」を理解する方法も、ページの上に符 号化、具現化されたものを飛び越して、世界3の属する意味を直接把握しているように思われ る。

(2.4)一つの反論:世界3の創造とは、世界1または世界2の中の符号との相互作用ではないのか(ジョン・エックルス(1903-1997)) 
(g.1)モナド論による反論の定式化
 個別の精神は、直接的に実体的紐帯の精神と関係を持つのではなく、物理的世界を経由しているのではないか。すなわち、個別の精神は、実体的紐帯の身体たる物理的媒介物である符号、あるいは個別の精神内の何らかの対象に働きかけることで、新たな実体的紐帯の精神を生成するのではないか。
(b2.3.1)世界3の対象は、世界1の物質的対象の上に符号化されている。
(b2.3.2)世界2は、世界1の符号から意識経験を引き出している。

(符号)⇔(符号の意識経験)⇔(世界3)
世界1・S1⇔世界2・S1⇔世界3・C1
世界1・S2⇔世界2・S2⇔世界3・C2

(b2.3.3)世界2は、世界3の符号である世界1の対象へ働きかけることで、新たな世界3を 生成する。
時間1 世界1・P1⊃世界1・S1⇔世界2・S1⊂世界2・M1
 │      │                   │                     ↓↑                │
 │     │                    │                世界3・C1      │
 │     │                    │             ┌─────────┘
 ↓      ↓                     ↓              ↓
時間2 世界1・P2⊃世界1・S2⇔世界2・S2⊂世界2・M2
               ↓↑
             世界3・C2


(b2.3.4)世界2は、世界3の符号である世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を 生成する。
時間1 世界1・P1 世界2・S1⊂世界2・M1
 │         │                │      ↓↑          │
 │         │                │世界3・C1 │
 │         │                │      ┌────┘
 ↓          ↓                 ↓       ↓
時間2 世界1・P2 世界2・S2⊂世界2・M2
           ↓↑
         世界3・C2



(2.5)反論への回答
(b2.4)世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生 成し、世界1の対象、または世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を世界1と世界2へ 具現化する。(カール・ポパー(1902-1994))
(m)モナド論による定式化
 個別の精神は、実体的紐帯の精神と直接的に相互作用し、新たな実体的紐帯の精神を生成し、物理的世界または個別の精神内の対象に働きかけることで、新たな実体的紐帯の精神を、物理的世界や個別の精神内へ具象化する。

(b2.4.1)世界3の符号である世界1の対象は、いかに世界2により働きかけられるにして も、それ自体は世界1の対象であるから、世界1の諸法則に従って生成・変化する。また世界2 は、いかにそれが自ら固有の法則に従って働きかけるかのように見えようが、世界1の諸法則 に支えられている。世界2は、最初に直接的に、世界1の諸法則には服さない世界3との関係を 持つことなしには、世界1の因果関係から逃れることはできない。
(m)モナド論による定式化
 もし個別の精神が、実体的紐帯の身体たる物理的媒介物である符号を使っているならば、符号は物理的世界の法則の制約の下にある。また、個別の精神内の何らかの対象に働きかけているのなら、物理的法則とは異なる精神の法則には従ってはいるものの、個別の身体との相関法則には服している。

(b2.4.2)世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界1の対象へ働 きかけることで、新たな世界3を世界1へ具現化する。

(b2.4.3)世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界2の対象へ働 きかけることで、新たな世界3を世界2へ具現化する。

(b2.4.4)正しいことの理由。
参照:世界2は、世界3と直接的に相互作用する。例として、(a)新しい問題の 発見と解決、(b)例として数学の問題と証明、(c)例として数学における無限の概念、(d)例と して言語の「意味」の理解。(カール・ポパー(1902-1994))
(b2.4.4.1)世界2が、未だ世界3のなかに表現されておらず、したがって当然、世界1には 存在しない新しい問題を発見したり、問題への新しい解決を発見するときのような創造的行為 を考えると、世界2が必ず世界1を経由するということは、誤りではないかと思われる。
(b2.4.4.2)例として、数学の問題を発見し、証明する過程。
(i)最初に問題を感じ、問題の存在に気づく。あるいは、証明の考案がなされは異なり、 心的世界2も、世界1の実体として物理過程と相互作用することができる。


(2.6)心身問題における言語の役割
 言語は、世界1の基盤に支えられ、意識的、能動的な世界3の学習と探究を通じて、世界1との 関係、他者との関係、自我の形成に強い作用を及ぼす。自我は、世界1、他者、世界3との能動 的な相互作用の所産である。(カール・ポパー(1902-1994))

(2.6.1)言語の習得は、世界1の基盤によって支えられている。
 ・世界1:自然淘汰によって進化した遺伝的な基盤をもつ自然的過程
 ・言語を学習する強い必要性と、無意識的で生得的な動機
 ・言語を学習する能力
(2.6.2)言語の習得は、意識的、能動的な世界3の学習と探究の過程である。
 ・世界2:個々の言語を実際に学習する過程

(2.6.2.1)記憶と学習

最広義の"記憶"には,生得的なもの(遺伝子,神経系,免疫 系,その他の諸能力)も含まれるし,試行錯誤,問題解決,行為と選択による能動的な学習によっ て獲得された広大な領域も含まれる。(カール・ポパー(1902-1994))
(1)保持時間に基づく記憶の分類
(出典:記憶の分類<脳科学辞典)
(1.1)心理学
感覚記憶、短期記憶(保持期間が数十秒程度)、長期記憶
(1.2)臨床神経学
即時記憶(情報の記銘後すぐに想起させるもの)
近時記憶(情報の記銘と想起の間に干渉が介在される)
遠隔記憶(臨床場面では個人の生活史(冠婚葬祭や旅行など)を尋ねることが多い)
(2)内容に基づく記憶の分類
(出典:記憶の分類<脳科学辞典)
(2.1)陳述記憶(宣言的記憶)
 イメージや言語として意識上に内容を想起でき、その内容を陳述できる。

(2.1.1)エピソード記憶
 個人が経験した出来事に関する記憶で、例えば、昨日の夕食をどこで誰と何を食べた か、というような記憶に相当する。
(a)関連:「連続性形成記憶」。アンリ・ベルクソンの《純粋記憶》に関連しているよ うに思われる。すなわち、われわれの経験すべての正しい時間的順序による記録である。 (カール・ポパー(1902-1994))

(2.1.2)意味記憶
 知識に相当し、言語とその意味(概念)、知覚対象の意味や対象間の関係、社会的約 束など、世の中に関する組織化された記憶である。
(例) 試行錯誤、問題解決、あるいは行為と選択による能動的学習(カール・ポパー (1902-1994))
生得的な、そして獲得した《いかに行動するかの知識》と、背景にある《何であるかの 知識》とによって導かれる能動的探究
(a)新しい推測、新しい理論の作成
(b)その新しい推測や理論の批判とテスト
(c)その推測の拒絶と、それがうまくいかないという事実の記録
(d)もとの推測の修正や新しい推測を用いての(c)から(a)への過程の反復
(e)新しい推測がうまくいくようだという発見
(f)補足的なテストを含む、その新しい推測の適用
(g)その新しい推測の実際的で標準化された、反復的な使用

(2.2)非陳述記憶(非宣言的記憶)
 意識上に内容を想起できない記憶で、言語などを介してその内容を陳述できない記憶であ る。
(2.2.1)手続き記憶
 手続き記憶(運動技能、知覚技能、認知技能など・習慣)は、自転車に乗る方法やパズ ルの解き方などのように、同じ経験を反復することにより形成される。一般的に記憶が一旦形 成されると自動的に機能し、長期間保たれるという特徴を持つ。
(2.2.2)プライミング
 プライミングとは、以前の経験により、後に経験する対象の同定を促進(あるいは抑 制)される現象を指し、直接プライミングと間接プライミングがある。
(2.2.3)古典的条件付け
 古典的条件付けとは、梅干しを見ると唾液が出るなどのように、経験の繰り返しや訓練 により本来は結びついていなかった刺激に対して、新しい反応(行動)が形成される現象をい う。
(2.2.4)非連合学習
 非連合学習とは、一種類の刺激に関する学習であり、同じ刺激の反復によって反応が減 弱したり(慣れ)、増強したり(感作)する現象である。

(3)獲得方法に基づく記憶の分類(カール・ポパー(1902-1994))
(3.1)生得的な記憶
(a)遺伝子に暗号化された蛋白質(酵素)合成のプログラム
(b)生得的神経路の構造
(c)機能的性格をもった付加的な生得的記憶がある。これは歩いたり話したりすることを 学ぶためのさまざまな機能を十分に発達して生得的能力を含むようである。免疫学的記憶もま たここに挙げることができる。
(d)泳ぎ方、描き方、教え方を学ぶような、成熟とは密接に結びついていない学習のため のその他の生得的能力。
(3.2)何らかの学習過程を通して獲得される記憶
(a)無意識的で受動的な学習過程によって獲得される記憶
(b)意識的で能動的な学習過程によって獲得される記憶
(4)想起の様相に基づく記憶の分類(カール・ポパー(1902-1994))
(4.1)能動的に随意に想起できる記憶
(4.2)随意に想起できず、求められなくとも想起されてしまう記憶

3種類の学習:(1)試みと誤りによる学習、推測と反駁による学習、(2)模倣による学習、伝統 の吸収、(3)習慣形成による学習、反復そのものによる学習。(カール・ポパー(1902- 1994))
(1)試みと誤りによる学習、推測と反駁による学習
(a)新しい情報の獲得、すなわち新しい事実や新しい問題の発見、問題に対する新しい解決 の発見をもたらす学習である。
(b)解こうとしている問題、テストしようとしている推測に基づく、体系的観察による学習 と、偶然的な観察からの学習を含む。
(c)理論的なものだけでなく、新しい技能とか、物事を行なう新しいやり方など、実践的な ものも含む。
(2)模倣による学習、伝統の吸収
(a)原始的で重要な学習のひとつの形態で、高度に複雑な本能に基礎をおいている。
(b)示唆や感情が学習で演じている役割は、他の仕方での学習よりもはるかにはっきりして いる。
(c)模倣による学習は、いつでも典型的な試みと誤りの過程でもある。
(3)習慣形成による学習、反復そのものによる学習
(1)と(2)によって学ばれた解決に、慣れ親しむことによる学習である。



(2.6.3)人間の理性と人間の自由の創発
 思考は、言語で表現され外部の対象となることで、間主観的な批判に支えられた客観的な基準 の世界3に属するようになる。(カール・ポパー(1902-1994))
(a)思考はひとたび言語に定着させられると、われわれの外部の対象となる。
(b)外部の対象となることで、間主観的に批判できるものとなる。
(c)間主観的に批判できることで、客観的な基準の世界、すなわち世界3が出現してくる。
(d)世界3に属することで、等値、導出可能性、矛盾といった論理的関係が意味を持つように なる。
(e)客観的な基準の世界に対して、世界2は主観的な思考過程という位置づけが成立する。

(2.6.4)言語の機能
 言語が、記述機能と論証機能を獲得し、世界3が創造されたことによって、自然選択によらな い非遺伝的成長が可能となり、理性や人間の自由が創発された。(カール・ポパー (1902-1994))
(4.1)表出機能
(4.2)通信機能
(4.3)記述機能:記述内容には、真・偽の区別がある。
(4.4)論証機能:論証には、妥当かどうかの区別がある。
(a)世界3の創造
 記述機能、論証機能によって世界3が創造された。



(b)非遺伝的成長
 自然選択から、合理的批判にもとづく選択に依存して成長できるようになった。
(c)人間の理性と人間の自由の創発

(2.6.5)言語のフィードバック効果
(a)自らの物質的環境への精通
(b)他者との関係
(c)自我、人格の形成

(2.6.6)世界3の所産としての自我
 形而上学的信念、宗教的信念、道徳的信念、科学的知識 が「私の経験」から構築されると考える理論は誤っている。「私の」知識、信念は、それらが 属する世界3との相互作用、能動的な学習と探究の成果の所産である。(カール・ポパー (1902-1994))

自我とは、
(a)物質的環境との相互作用の所産である。
(b)他者との相互作用の所産である。
(c)世界3の能動的な学習と、探究の成果の所産である。
(i)例えば、科学的知識は「私の」知識ではない。
(ii)宗教的信念、道徳的信念、形而上学的信念も、ある伝統を吸収した結果である。
(iii)伝統のいくつかを自ら批判することは、「自分の知識」であると信じているものを 形成するのに重要な役割を演じるであろう。
(iv)そうした批判はほとんどいつでも、伝統の内部や、様々な伝統のあいだに不整合を発 見することから引き起こされてくる。
(v)自らの観察経験が伝統的理論を本当に反証する機会などめったにない。
(vi)もちろん、「私自身の経験」による「個人的知識」は存在する。しかし、その経験を 表現する言語の由来まで考えれば、完全に「私自身の経験」の結果だと言えるものなどほとん どない。


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科学基礎論
(1)真理の探究
(2)理論の役割
 (2.1)道具主義的な計算規則と理論との違いは何か
(3)理論は実証できない
 (3.1)帰納の非妥当性の原理
 (3.2)観察は知識の源泉ではないのか?
 (3.2.1)確実な経験と科学的事実
 (3.2.2)相互主観的テスト可能性
 (3.2.3)科学と独断論、心理主義
 (3.2.4)観察の役割
 (3.3)確実な知識の源泉はない
 (3.3.1) 観察、論理的思考、知的直観、想像力
 (3.3.2)知識の源泉としての伝統
 (3.4)理論は人間精神の一つの自由な創造物である
 (3.5)理論は人間の歴史の所産であり、多くの偶然に依存している
(4)では、理論の客観性とは何か
《小目次》
(1)科学的知識の性質
(1.1)科学的客観性を保証するもの
(1.2)科学者の友好的かつ敵対的協働
(1.3)科学における権威主義と批判的アプローチの対比
(2)大胆な理論の提起
(2.1)科学と擬似科学を区別する反証可能性
(2.2)ある出来事が生じないことを予言する理論
(2.3)テスト可能性の度合
(2.4)テストの厳しさの度合
(3)誤りを除去する批判的方法
(3.1)批判に対する辛抱強い反論の必要性
(3.2)実験的テスト
(3.3)実験は理論に導かれている
《小目次終わり》

(5)経験主義の原理
(6)帰納の論理的問題
(7)批判的合理主義の原理
 (7.1)批判的推論
 (7.2)観察と実験の役割
 (7.3)理論の拒否、受容の条件
 (7.3.1)後退を防ぐ保守的な条件
 (7.3.2)新しい仮説に望まれる革命的な条件
 (7.3.3)観察と実験による判定
 (7.4)世界の謎は汲み尽くされることはない
(8)傾向なのか、方法と能動的な行為なのか
 (8.1)傾向と考える理論
 (8.2)方法と能動的な行為と考える理論


(1)真理の探究
(a)真理の探究には、何ものにも勝る重要性があり、われわれの目的であり続ける。
(b) 科学は、事実に基礎をおいており、誰が正しく誰が間違っているのかを、完全な明晰さをもっ て結論づけられるようになっている。またそれは単に、検証可能な量的予測の技術なのではな く、この世界の真の仕組みを理解しようとする営みである。(カルロ・ロヴェッリ (1956-))

(2)理論の役割
 理論は、実践的な科学と理論科学にとって至高の重要性を持つ。
(2.1)道具主義的な計算規則と理論との違いは何か
理論は、普遍的に成立する真理を探究し、真理 は想像を超える未知の出来事を予測できる豊かさを持ち、経験の理解を助ける。予測は有用な だけでなく、偽なる理論を排除するために必要なものと考えられている。(カール・ポ パー(1902-1994))

(a)論理的構造が異なる
 限定された目的のための計算規則なのか(道具主義)、普遍的に成り立つことを推測とし て主張しているか(理論)の違いがある。2つ以上の理論体系の間には、演繹体系内における 論理関係があるが、2つ以上の計算規則の間には、この関係があるとは限らない。理論に基づ いて、限定された目的の計算規則を導出することはあり得るが、逆はあり得ない。
(b)有用なのか、真理なのか
 有用なので選ばれているのか(道具主義)、真理なので選ばれているのか(理論)の違い がある。


(c)応用可能性の限界なのか、反証なのか
 応用可能性の限界があっても使われるのか(道具主義)、反証されると破棄されるのか (理論)の違いがある。
(d)適用可能領域の変更なのか、反証なのか
 適用可能領域の変更があっても破棄されないのか(道具主義)、適用の失敗が反証事例と 考えられるのか(理論)の違いがある。
(e)特殊化する傾向があるか、一般化する傾向があるか
 ますます特殊化する傾向があるか(道具主義)、ますます一般化する傾向があるか(理 論)の違いがある。実用的な観点からは、道具は手もとの特殊な目的にとってもっとも便利な ものであることが望まれる。



(f)論理的に異なる理論への態度が異なる
 実際的な応用が予測できるかぎりでは、いまのところ、両者の区別がつかないといった ケースの場合、2つの理論がその適用領域で同じ結果をもたらすなら、それらは等しいと考え るのか(道具主義)、2つの理論が論理的に異なっていれば、異なった結果が生じるような適 用領域を見つけ出そうとするか(理論)の違いがある。

(g)未知の出来事の予測の有無
 既知の出来事をうまく予測しようとするだけなのか(道具主義)、決して誰も考えもしな かったような出来事が予測されることがあり得ると考えるのか(理論)の違いがある。理論で は、もしこれが「真理」であるならば、このようなことが生じるはずだという予測がある。 



(h)道具以上の何らかの情報内容
 すなわち、理論には、道具としての能力を超えて、何らかの情報内容がある。
(i)「真なる」理論は、経験の理解へ導く
 計算規則は経験を再現しようとするが、理論は経験を「解釈する」助けになる。
(j)予測は「偽なる」理論を排除する
 予測は実用的な価値のみならず(道具主義)、「偽なる」なる理論を除去する。

(3)理論は実証できない
 真理が実際に見出されたということを示す実証的理由は、決して与えることはできない。 
参照: ある理論が真理であることを示す実証的理由は、決して与え得ない。合理的な批判と、妥当な 批判的理由を示すことで先行の理論が真でないことを示し、新しい理論がより真理に近づいて いることを信じることができるだけである。(カール・ポパー(1902-1994))



(3.1)帰納の非妥当性の原理
(a)どんな帰納推理も、妥当ではあり得ない。すなわち、単称の観察可能な事例、およ び、それらの反復的生起から、規則性とか普遍的な自然法則へ至る妥当な推論はあり得ない。 
(b)理論を信じる実証的理由は、決して得られない。

(3.2.1)確実な経験と科学的事実

(a)いかに確実に思える経験でも科学的事実ではない
 確信の感情がいかに強烈であっても、それは言明をけっして正当化しえない。たとえば、私は、ある言明の真実性をまったく確信できる。私の知覚の明証は確かである。私の経験の強烈さは圧倒的だ。一切の疑 いは私には馬鹿らしく思える。しかし、このことは科学にたいして私の言明を受容れさせる理由にはならない。
(b)経験を表示する言明は心理学的な仮説
 経験を表示する言明(我々の知覚を叙述している言明、プロトコル文とも呼ばれるれる)は、科学においては心理学的言明であり、相互主観的テストが必要な仮説に過ぎない。
(c)経験への還元主義は誤りである
 従って、科学的言明の客観性を、経験を表示する言明に還元することによって基礎付けようとする理論は、誤りである。

(3.2.2)相互主観的テスト可能性


(a)相互主観的テスト可能性
 科学的言明が客観的でなければならぬ、という要求を固 持するとすれば、科学の経験的基礎に属する諸言明もまた客観的、つまり相互主観的にテスト 可能でなければならない。
(b)科学にはテスト不能な言明は存在しない
 なぜなら、そのその言明が理論において意味があるのなら、演繹の連鎖の中で、その言明が前提条件として登場するような、別の言明があることになるが、その言明がテスト可能なら元の言明もテスト可能だからである。
(c)演繹結果によるテストには、無限後退の困難は存在しない
 ある言明が真であるかどうかを、明らかに真である言明にまで遡らせようとする方法論には、無限後退の困難がある。しかし、テストの演繹的方 法は、テストしようとしている言明を確立または正当化しえないし、またそうするつもりもな い。従って、無限後退の困難はない。
(d)無限のテスト可能性について
 しかし、明らかにテストは事実上、無限に遂行することはできない。これは問題ないのか。問題ない。なぜなら、無限のテスト可能性の要求は、受容れられるに先立って実際にテストされてしまっていなければ ならぬという条件とは異なるか

(3.2.3)科学と独断論、心理主義

(a)科学は独断論なのか
 理論が確証されていない仮説にとどまるという意味で独断論というなら、そうである。しかし科学における理論は全てこのようなものであり、また必要とあれば、これらの基礎言明は容易 にテストを続行できるようなものである。
(a)科学は心理主義なのか
 (i)理論が予測する結果の確認が、我々の知覚的経験に依存しているという意味で、心理主義というなら、その通りである。しかし科学においては、その知覚的経験によってある言明が事実であることを正当化するのではない。その知覚的経験の情報によって、言明の受け入れまたは拒否の判断の材料として使われるだけである。


(3.2.4)観察の役割
(a)知識は、タブラ・ラサから始めることはできない。
(b)一般的には、ある観察や発見の影響範囲は、それによって既存の理論を修正できるか どうかにかかっている。
(c)ある観察や偶然の発見によって知識が進歩することは、時として可能ではある。



(3.3)確実な知識の源泉はない
 知識が事実であることを約束するような「知識の源泉」は、ない。
(3.3.1) 観察、論理的思考、知的直観、想像力
 観察、論理的思考、知的直観、知的想像力は、未知の領域に踏み込むために必要な大 胆な理論を創造する際の助けになり、重要なものである。しかし、真理であることを約束して くれるわけではない。それどころか、誤りへと導いてしまうかもしれない。実際、私たちの理 論のほとんど大部分は、誤りである。

(3.3.2)知識の源泉としての伝統
 知識の重要な源泉は、伝統である。知識の内容だけでなく、知識の習得方法や態度なども、伝統を通じて獲得される。


(3.5)理論は人間の歴史の所産であり、多くの偶然に依存している


(4)では、理論の客観性とは何か
 仮説的推測的知識の客観性の本質は,推論を反駁し,テ ストで反証しようとする他者の存在である.また,科学と擬似科学を区別するのは理論の反証可 能性である.自由な批判とテストによって誤りが除去されていく.(カール・ポパー (1902-1994))

(1)科学的知識の性質
 あらゆる科学的知識は仮説的ないし推測的なものである。
(1.1)科学的客観性を保証するもの
 科学的客観性は、その理論を反駁しようとする批判によって保証される。
(1.2)科学者の友好的かつ敵対的協働
 客観性は、個々の科学者の客観性ないし公平無私によって保証されるのではなく、「科学 者の友好的かつ敵対的協働」とでも呼べる科学者の集団によってもたらされる。
(1.3)科学における権威主義と批判的アプローチの対比
 科学における権威主義は、科学上の理論を確立しようとする観念、すなわち理論を証明し たり、実証したりしようとする観念と結びついていた。批判的アプローチは、科学上の推測を テストしようとする観念、すなわち推測を反駁したり、反証したりしようとする観念と結びつ いている。
(2)大胆な理論の提起
 知識の成長、とくに科学的知識の成長は、われわれの誤りから学ぶことにある。まず、あえ て誤りを犯すというリスクを冒すこと、すなわち、新しい理論を大胆に提起する。
(2.1)科学と擬似科学を区別する反証可能性
 理論とか仮説とか推測が科学において果たす根本的な役割は、テスト可能(あるいは反証 可能)な理論と、テスト可能ではない(あるいは反証可能ではない)理論とのあいだの区別を 重要なものにする。

()存在言明について

(2.2)ある出来事が生じないことを予言する理論
 ある特定の出来事が生じないであろうと予言する理論が、反証可能な理論である。あらゆ る手段を講じて、その出来事を生じさせようと努めることが、テストになる。
(2.3)テスト可能性の度合
 より多くのことを主張し、したがってより多くのリスクを冒している理論の方が、主張を あまりしていない理論よりテスト可能性の度合が高い。
(2.4)テストの厳しさの度合
 定性的なテストは、一般的にいえば、定量的なテストよりきびしさの度合が低い。また、 より正確な定量的予測のテストの方が、正確さの劣る予測のテストよりもいっそう厳しいテス トである。
(3)誤りを除去する批判的方法
 われわれが犯した誤りを系統的に探すこと、すなわち、われわれの理論を批判的に議論した り、批判的に検討したりする。
(3.1)批判に対する辛抱強い反論の必要性
 科学の方法は批判的議論の方法なので、批判の対象となっている理論が、辛抱強く擁護さ れるべきだということもおおいに重要なことである。というのは、そのような仕方でのみ、理 論のもつ真の力を知ることができるからだ。
(3.2)実験的テスト
 この批判的議論で用いられるもっとも重要な議論のなかには、実験的テストによる議論が ある。
(3.3)実験は理論に導かれている
 実験は、つねに理論によって導かれている。


(5)経験主義の原理
(a)科学理論の採否は、観察と実験の結果に依拠すべきである。
(6)帰納の論理的問題
参照: 帰納の非妥当性の原理と、経験主義の原理とが衝突し、そこに帰納の論理的問題があると、か つて考えられたことがあるが、反合理主義的な結論を引き出すのは誤りである。批判的合理主 義の原理が、解答を与える。(カール・ポパー(1902-1994))
(a)かつて、帰納の非妥当性の原理と経験主義の原理とが衝突するように考えられたことがあった。
(b)この問題から、反合理主義的な結論を引き出すのは誤りである。

(7)批判的合理主義の原理
(7.1)批判的推論
 科学理論の採否は、批判的推論に依拠すべきである。

(a)矛盾について

(b)矛盾を許さないという決意

(7.2)観察と実験の役割
 観察と実験は、ある理論が「真でない」ことを示す妥当な批判的理由を、与えることがで きる。

(a)観察と実験は、ある理論が「真でない」ことを示す妥当な批判的理由を、与えること ができる。
(b)私たちが、実在から得ることができる唯一の情 報は、理論が「真でない」ことを示す観察と実験の結果である。実在とは、私たちの考えが間 違っていることを教えてくれる何ものかである。(カール・ポパー(1902-1994))

(7.3)理論の拒否、受容の条件
 理論は、合理的批判の結果に照らして他の既知の理論よりもよりよい、あるいはより悪い 理論として、暫定的に、拒否されたり、受け容れられたりする。
先行仮説を超える新しい問題を解決し、新しい予測を導出するような新しい仮説の自由な創造 と、合理的批判、観察と実験による誤った仮説の消去という能動的方法により、仮説の「真理 らしさ」が増大する。(カール・ポパー(1902-1994))

(7.3.1)後退を防ぐ保守的な条件
(a)新しい仮説は、先行仮説が解決した問題を、同じ程度にうまく解決せねばならな い。
(b)伝統は、重要な知識の源泉である
 伝統なしには、知識を得ることは不可能である。知識は、既存の知識を修正し、訂正 することによって進歩する。
(c) 理論における想像力の役割:何の手がかりもなしに新たな理論を「想像しようと試みる」に は、わたしたちの空想力はあまりに貧弱である。すでに成功を収めている理論と実験データ に、この世界の真の姿の兆候が現われている。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

(7.3.2)新しい仮説に望まれる革命的な条件
(a)新しい仮説は、先行仮説からは導出されない予測を演繹する。
(b)新しい仮説は、先行仮説と新しい仮説のいずれを支持するかの、決め手となる実験 を構成する。

(7.3.3)観察と実験による判定
 もし、決め手となる実験が新しい仮説に有利に決まるなら、より「真理らしさ」が増大 した、科学理論は「進歩した」と言うことができる。

(7.4)世界の謎は汲み尽くされることはない
 ある問題の解決は、新たな未解決の問題を生み出す。世界の事物についての諸経験が深ま るほど、知識が深まるほど、自分たちの無知についての知識がいっそう明確になってゆく。こ れは、無知が必然的に際限のないものであるのに対して、私たちの知識には限界があるという 事実に由来する。

(8)傾向なのか、方法と能動的な行為なのか
 科学理論は、理論や仮説に固有の傾向として、真理らしさの増大に「向かう」と言うべきで はない。科学の進歩は、誤謬消去を基礎とした科学の方法と、我々の批判的で能動的な行為に より支えられている。
(8.1)傾向と考える理論



第2部 社会科学方法論、進化論、歴史論

《目次》
(1)人間や社会に関する法則とは?

(1.1)社会理論と社会との相互作用
(1.1.1)情報から社会への影響(オイディプス効果)
(1.1.2)社会から情報への反作用
(1.1.3)社会に関する理論と社会との相互作用

(1.2)問題:社会に関する理論の客観性とは何か
(1.2.1)解答:予言と技術的予測
(1.2.2)技術的社会科学
(1.2.3)技術的社会科学の効用
(1.2.4)方法論的唯名論と本質主義
(1.2.5)解答:方法論的個人主義
(1.2.6)仮説モデルとしての社会的存在
(1.2.7)社会科学における実験に関する問題提起
(1.2.8)解答:科学的な実験とは何か
(1.3)価値論

《小目次》
(1)問題:人間の本性にかなう行為と、人間の本性を害する行為とは?
(2)我々は、いかに行為すべきか
(3)規範を事実の上に基礎づけることは不可能
(3.1)生物学的自然主義への批判
(3.2)倫理的実定主義への批判
(3.3)心理学的自然主義への批判
(4)フレームワークの神話
 (4.1)独断論
 (4.2)共約不可能性
 (4.3)相対主義
(5)フレームワークの神話の誤り
 (5.1)フレームワークの神話の暗黙の前提
 (5.2)原理や公理は科学における合理的討論の対象
 (5.3)反論
 (5.4)反論への回答
 (5.4.1)方法1:自らの原理を強化する
 (5.4.2)方法2:人間、社会、自然、宇宙の真の姿の理解
 (5.4.3)客観的真理の増大という価値
 (5.4.4)合理主義と平等主義との関係
(6)私はいかに行為すべきか
《小目次終わり》

(2)生命の起源、生命の進化
(2.1)物理的過程との相関、累進的な単称的分析
(2.2)問題(あるいは情報)は実在的なものである
(2.3)生命の起源
(2.4)自己増殖、適応、変異
(2.5)問題解決方法も、問題であった
(2.6)進化論と世界3

(3)歴史とは何か
(3.1)問い:歴史における出来事の新奇性
(3.2)解答:新奇性、歴史性とは何か
(3.3)解答:単称言明である仮説
(3.4)問題:生命の進化や人間の歴史に法則は存在し得るのか?
(3.5)進化に傾向はあるのか
(3.6)規則性の因果的説明とは何か
(3.7)人間の歴史
(3.7.1)人間の歴史の道筋は予測できるのか
(3.7.2)歴史の中に「発見される意味」は恣意的、偶然的、非科学的なもの
(3.7.3)倫理的理念や目標設定によって初めて歴史に意味を読み取れる
(3.7.4)各世代の歴史解釈
(3.7.5)開かれた社会、理性の支配、正義、自由、平等、そして国際的犯罪の統治
(3.7.6)将来の運命は私たち自身にかかっている




(1.1)社会理論と社会との相互作用

(1.1.1)情報から社会への影響(オイディプス効果)
 (a)予測というのは一つの社会的なできごとであり、ほかの社会的できごとと相互作用する可能 性がある。そのほかのできごとには、当の予測の対象も含まれる。
 (b)極端な場合、予測自体が《原因》となってそのできごとが起こるということもあるかもしれ ない。
 (c)何かを予測することも、予測を控えることも、さまざまな結果をもたらしうる。

注意すべき理論


(1.1.2)社会から情報への反作用
 (a)予測自体が予測したできごとに影響を及ぼすかもしれないということも 意識すると、予測の中身にも逆の影響が及ぶ可能性がある。
 (b)ある状況においては、予測の影響が、予測をする観察者にも逆向きの重大な影響を返 すことがありうる。

(1.1.3)社会に関する理論と社会との相互作用
 (a)社会の発展のある一時期にある種の傾向が内在する場合は必ず、その発展に影響を及ぼ すよう な社会学理論があると考えていい。その場合、社会科学は新しい時代を生み出すのに手 を貸す助産婦の役割を果たすかもしれないが、保守的な利益のために、起ころうとしている社 会の変化を遅らせる働きをする可能性もある。
 (b)ヒストリズム
  各学説や学派を、特定の時代に支配的 だった嗜好や利害に関係づけて説明する。
 (c)知識社会学
  各学説や学派を、政 治的、あるいは経済的、あるいは階級的利害に関係づけて説明する。

(1.2)問題:社会に関する理論の客観性とは何か
 社会科学者は懸命に真実を見出そうとしているのだろうが、同時に、必ず社会に確かな 影響を及ぼすことになる。社会科学者の言明が《実際に》影響を及ぼすという事実により、科 学者の客観性は失われる。




(1.2.1)解答:予言と技術的予測


(1.2.2)技術的社会科学
(1.2.3)技術的社会科学の効用


(a)社会の改善提案への批判的研究
 社会科学は、ごく一般的に言うなら社会を改善する提案に対する批判を通じて、より厳密 に言うなら、経済的あるいは政治的なある特定の行為が期待された望ましい結果を生み出す可 能性が高いかどうかを知る試みを通じて、発展してきた。
(b)有意義な理論の源泉
 技術 的アプローチは、そこから純粋に理論的で有意義な問題が生まれるという点で実りあるものと なるだろう。
(c)科学的な基準への準拠
 技術的にアプ ローチすることで、私たちは、明晰性の基準や実践的検証可能性など、ある決まった基準に 従って理論を立てざるをえなくなる。
(d)形而上学的思弁への歯止め
 とくに本来的な社会学の分野では、思弁的 傾向から形而上学の領域に足を踏み入れがちであるが、この歯止めになる。


(1.2.4)方法論的唯名論と本質主義



(1.2.5)解答:方法論的個人主義



(1.2.6)仮説モデルとしての社会的存在


(1.2.7)社会科学における実験に関する問題提起

(a)自然科学における典型的な実験は、人為的な実験環境を準備し、理想的な条件の元で現象を再現させる。
(b)社会科学において、同様の実験が行えるとしても、意味を持つだろうか。
(c)社会科学において、そもそも理想的な実験条件を準備できるだろうか。

(1.2.8)解答:科学的な実験とは何か
(1)社会実験の例
 (a)新しい食料品店を開いた店主は、一つの社会実験を行なっている。
 (b)市場の売り手と買い 手は、供給が増えるたびに価格が下がり、需要が増えるたびに価格が上がる傾向があるという 教訓を、実践的な実験を通じてのみ学ぶのである。 
 (c)民間企業のあらゆる活動、公的な政策実施もすべて社会実験である。
(2)課題への取組みと誤りから学ぶ方法
 ただ観察したことを 記録するのでなく、積極的な試みをして、何らかのある程度実践的で限定的な問題を解決しよ うとする。そして《誤りから学ぶ》姿勢をもったときに、その場合にのみ、私たちは前進す る。
(3)社会的政治的な課題における効果的な方法は、科学的方法そのものである
 私たちが試行のリスクを冒す姿勢をより自由に、より意識 的にとればとるほど、そして自らが常に犯す間違いに、より批判的な目を向ければ向けるほ ど、試行錯誤の方法は科学的な性格を帯びることになる。この定式は、実験の方法だけでな く、理論と実験の関係についても当てはまる。すべての理論は試行である。うまくいくかどう かが試される暫定的な仮説なのである。実験による裏づけとは、理論のどこが誤っているかを 見つけ出そうと批判的精神のもとで遂行される検証の結果にすぎない。
(4)政治における科学的方法の適用
 政治に科学的方 法に近いものを適用する唯一の方法は、〈欠陥がなく悪影響も伴わないような政策などありえ ない〉という前提のもとで施策を進めることなのである。誤りに注意を向け、見つけ出し、公 にし、分析し、そこから学ぶという姿勢を、政治学者はもちろん、科学的政治家もとらなけれ ばならない。

(1.3)価値論

《小目次》
(1)問題:人間の本性にかなう行為と、人間の本性を害する行為とは?
(2)我々は、いかに行為すべきか
(3)規範を事実の上に基礎づけることは不可能
(3.1)生物学的自然主義への批判
(3.2)倫理的実定主義への批判
(3.3)心理学的自然主義への批判
(4)フレームワークの神話
 (4.1)独断論
 (4.2)共約不可能性
 (4.3)相対主義
(5)フレームワークの神話の誤り
 (5.1)フレームワークの神話の暗黙の前提
 (5.2)原理や公理は科学における合理的討論の対象
 (5.3)反論
 (5.4)反論への回答
 (5.4.1)方法1:自らの原理を強化する
 (5.4.2)方法2:人間、社会、自然、宇宙の真の姿の理解
 (5.4.3)客観的真理の増大という価値
 (5.4.4)合理主義と平等主義との関係
(6)私はいかに行為すべきか



(1)問題:人間の本性にかなう行為と、人間の本性を害する行為とは?


 (a)我々によって可能なすべての行為は人間本性に基づくものである。不可能な行為であれば、もとより考慮外でよい。従って、意味のある問い方は次のとおりである。
 (b)人間本性のうちで、どの要素に従って、それを発展させるべきであるのか。
 (c)人間本性のうちで、どの側面を抑圧ないし制御すべきであるのか。
 (d)すなわち、これは規範概念である。簡単な例で考えよう。美味しいものと、まずいもの。美味しいからといって身体に良いとは言えない。情動が、規範概念を直接定義するわけではない。そこで、健康に良い食べものとして再定義してみる。すると、経験と理性と他者との批判的な議論によって、真偽の区別ができる概念になる。しかし、この概念は我々が選択したものである。また、その食べ物が健康に良いものかどうかにかかわらず、我々はどの食べ物も食べることができるし、食べないこともできる。また、真偽の判断は区別はできても、判断の難しい対象もあるし、そもそも私は、健康に良いという基準では食べ物を選ばないかもしれない。

(2)我々は、いかに行為すべきか
 (a)法規範
 (b)慣習としての道徳規範
 (c)宗教的信念
 (d)医療的知識
 (e)一般にあらゆる工学的知識
 (f)科学も一定の規範に支えられている
 (g)美的規範


(3)規範を事実の上に基礎づけることは不可能




 (3.1)生物学的自然主義への批判

(3.2)倫理的実定主義への批判

(3.3)心理学的自然主義への批判




(4)フレームワークの神話
合理的討論の前提には無条件的な原理があり(独断 論),原理自体は討論の対象外で(共約不可能性),全て同等の資格を持つ(相対主義).これは誤 りである.原理は常に誤謬の可能性があり,その論理的帰結によって合理的討論ができる. (カール・ポパー(1902-1994))
(4.1)独断論
 あらゆる合理的討論は何らかの原理、もしくはしばしば公理と呼ばれるものから出発せね ばならず、また無限背進を避けようと望むならば、こういった原理や公理を独断的に受け入れ ねばならない。
(4.2)共約不可能性
 前提にした原理や公理自体は、合理的討論は不可能であり、したがって合理的選択もあり えない。
(4.3)相対主義
 全てのフレームワークは、優劣において同等の資格を持つ。
(5)フレームワークの神話の誤り
(5.1)フレームワークの神話の暗黙の前提
 フレームワークの神話には、暗黙の仮定が存在する。それは、合理的討論は正当化や証 明、論証、あるいは是認された前提からの論理的導出といった特徴を持たねばならないという 仮定である。
《概念図》
原理1 ←互いに対立→ 原理2
 ↓   討論不可     ↓
結論1              結論2

(5.2)原理や公理は科学における合理的討論の対象
 科学における合理的討論は、原理や公理の論理的帰結が、すべて受け入れることのできる ものかどうかを、あるいは望ましからぬ帰結が生じないかどうかを調べることによって、テス トしようとするものなのである。
《概念図》
原理1 原理2 ......つねに誤りの可能性がある
 ↓   ↓
結論1 結論2 ......結論が受け入れられるか?

(5.3)反論
「われわれに好ましく思える帰結」自体が、フレームワークの一部なのだから、フレーム ワークの外側に出ることはできない。
(5.4)反論への回答
帰結による合理的討論によっても,各自の原理 の外へは出れないという反論に対する再反論.相手の原理を無視し自己強化するのでなく,自他 の原理を超えた,より包括的な真理の探究という原理によって乗り越え可能である.(カー ル・ポパー(1902-1994))

 原理1、結論1が自らの主張であるとして、結論1も結論2も満足できない場合、われ われは以下の二つの方法を選択することができる。
(5.4.1)方法1:自らの原理を強化する
 自らの原理1を強化して、相手の原理、結論は課題に設定しない。
(5.4.2)方法2:人間、社会、自然、宇宙の真の姿の理解
 人間、社会、自然、宇宙の真の姿を理解すること。これは、確かに、一つのフレーム ワークの選択であるかもしれない。しかし、自らの原理、結論とともに、相手が提示した原 理、結論をも理解して、乗り越えようとする原理である。

《概念図》
原理1 原理2
 ↓   ↓
結論1 結論2
不満足 不満足

方法1
原理1’修正 原理2
 ↓     ↓
結論1’   結論2
満足   考慮外

方法2
より包括的な真理の探究
という原理
 ↓      ↓ 
原理1” 原理2”
 ↓    ↓
結論1” 結論2”
満足 満足

(5.4.3)客観的真理の増大という価値
 価値は生命とともに世界に登場する。無意識的な問題による価値から自由な想像力と知性によるあらゆる創造物までの中で、世界3の中核的部分に存在する人間的価値の世界は、客観的真理の増大という価値が支配している。なぜなら、それが価値であるというのは真実なのかという問題が立ち現れるからである。(カール・ポパー(1902-1994))

(5.4.4)合理主義と平等主義との関係



(6)私はいかに行為すべきか
 (a)道徳判断、倫理的決定という意味が、この意味だとすれば、仮に法規範に反することでも、私は自分の考えに従って、自分で行為を選択できる。
 (b)人の決定を「裁くな」というのは、人道主義倫理の根本法則の一つである。
 (c)たとえ善、悪という言葉を使ったとしても、善という言葉の意味が「私がなすべきこと」という意味を持たない限り、私のなすべきことは導出できない。



(2)生命の起源、生命の進化



 (2.1)物理的過程との相関、累進的な単称的分析
 物理学的過程と細微にわたって相関しているとみなせないような、あるいは物理化学的 見地から累進的に分析できないような生物学的過程は存在しない。
(2.2)問題(あるいは情報)は実在的なものである
 生物体のもろもろの問題は、物理学的なものではない。それらの問題は物的事物でもなけれ ば物理的法則でもなく、物理的事実でもない。それらの問題は特殊な生物学的実在である。こ れらの問題は、その存在が生物学的諸効果を生みだす原因となりうるという意味において「実 在的」である。




(2.3)生命の起源
 生命の起源とは、問題の起源である。問題の発現を、物理学的に説明できるだろうか、これが問題である。
(2.4)自己増殖、適応、変異
 増殖できると仮定してみよう。しかしそれでもなお、これら の物体は、もし適応ができないとすれば「生き」てはいないであろう。これを達成するためには、それらの物体は増殖に加えて正真正銘の変異性を必要と する。
(2.5)問題解決方法も、問題であった
 生命とは、問題を解決しつつある物理的構造体である。問題を解決するすべを、様々な種は自然淘汰によって、つまり増殖と変異の方法によって「学ん」だ。そしてこの方法そのものも、同じ方法によって学びとられたも のである。


(2.6)進化論と世界3
 進化論においても、世界3の概念を持ち込めるよう にさせもする。人間的世界3の先駆のみなせる動物的産物が存在する。
(3)歴史とは何か

(3.1)問い:歴史における出来事の新奇性

(a)自然科学における典型的な実験では、人為的な実験環境を準備し、理想的な条件の元で現象を再現させる。
(b)しかし社会には歴史があり、同じ条件での反復は不可能で、全ての出来事は1回だけしか起こらないかもしれない(新奇性)。
(c)社会現象の解明に、科学的な方法は使えるのだろうか。

(3.2)解答:新奇性、歴史性とは何か


(3.3)解答:単称言明である仮説

(a)医学的 な当座の診断は、普遍法則の性質は持たず、単称的で歴史的性格のものだが、これを仮説と表 現することはまったく正しい。
(b)進化論の仮説が普遍的自然法則ではなく、地上の多くの動植物の祖先に関する歴史的な特称(より正確に言うなら単称)言明である。

(3.4)問題:生命の進化や人間の歴史に法則は存在し得るのか?

(3.5)進化に傾向はあるのか


(3.6)規則性の因果的説明とは何か

(1)特定の出来事の因果的説明
 (a)《普遍法則》
 (b)《特定的初期条件》
 これは、単称言明である。正確には、条件ではなく、状態である。原因と呼ばれる。
 (c)ある《特定の出来事》を、(a)と(b)とから演繹できるとき、因果的説明がなされたことになる。説明された特定の出来事は、結果と呼ばれる。

(2)規則性の因果的説明
 (a)《普遍法則》
 (b)ある種類の状況を特徴付ける条件
 (c)ある規則性
 (a)と(b)とから規則性を演繹できても、不十分である。規則性の因果的説明とは、主張されているその規則性が当てはまる条件(b)を含む法則を、すでに独立に検証、確認された普遍法則から演繹することにある。




(3.7)人間の歴史
(3.7.1)人間の歴史の道筋は予測できるのか
 個々の社会理論(たとえば経済理論)は、ある特定の条件のもとで、社会にどのような発 展が生じるかという予測を導き出すだろうし、それが正しいかどうかテストすることもでき る。
(2)人間の歴史の道筋の予測
 しかし社会科学は、人間の歴史の道筋を予測することはできない。少なくとも、未来の道 筋のうち、知識の成長によって強く影響される側面は予測できない。
(2.1)知識の自己予測
 なぜなら、知識が自らの将来の成長について自己予測をすることは矛盾であり、不可 能だからだ。予測者がいかに複雑であったとしても、明日初めて知り得ることを今日予測する ことはできない。
(2.2)予測者の相互作用
 結果として、相互に行為しあう予測者からなる「社会」は、この社会自体の将来にお ける知識のありさまを予測することはできない。
(2.3)知識と人間の歴史の道筋
 人間の歴史の道筋は、人間の知識の成長によって強く影響される。よって、社会科学 は、人間の歴史の道筋を予測することはできない。



(3.7.2)歴史の中に「発見される意味」は恣意的、偶然的、非科学的なもの
 歴史の中に発見されるという「意味」は恣意的、偶然 的、非科学的なものである。私たち自身が与える倫理的理念、目標設定によって初めて、歴史 の「進歩」や「退歩」、いかに誤り、大きな犠牲を払って来たかなど、歴史に意味を読み込む ことができる。(カール・ポパー(1902-1994))

(3.7.3)倫理的理念や目標設定によって初めて歴史に意味を読み取れる
合理性原理の3つの意味
合理性の前提にある「状況」には少なくとも3つの意 味がある。真に客観的な状況に応ずる仮想的な合理性、行為者が現実に認識している状況に応 ずる現実的な合理性、行為者が認識すべき状況に応ずる規範的な合理性である。(カー ル・ポパー(1902-1994))
(1)客観的状況
 (a)現実にそうであったものとしての状況、歴史家が再構成しようとする客観的状況であ る。
 (b)客観的状況とは、そもそも何かを考えると、(3)が(1)を構成しているともいえる。 
 (c)各行為者が、現実をどのように認識していたのかという状況も含まれる。すなわち、 以下の(2)も状況として(1)に含まれている。
(2)行為者が認識する状況
 行為者が現実に見たものとしての状況である。
(3)行為者が認識すべき状況
 行為者が、客観的状況のなかでそう見ることができたはずの、そしてたぶんそう見るべき だったはずの状況である。
(4)仮想的な合理性原理
 行為者は、自らの客観的状況(1)に対して適切に行動する。
(5)現実的な合理性原理
 行為者は、認識した自らの状況(2)に対して適切に行動する。
(6)規範的な合理性原理
 (a)行為者は、認識すべきと考えられる自らの状況(3)に対して適切に行動するべきであ る。
 (b)歴史家が、「失敗」を説明しようと試みるさいには、合理性原理についての(2)と(3) の違いを論ずることになろう。
 (c)もし(2)と(3)のあいだに衝突があれば、行為者は合理的に行為しなかったといっても よい。
 (d)なお状況は、過去、現在、予測としての未来、規範としての未来を含むだろう。すな わち、行為者は過去、現在をこのように認識すべき、状況がこのような結果を招くだろうと予 測すべき、状況からこのようにすべきと認識すべきという様相が区別できよう。
(7)現実的な人間行動
 われわれはしばしば(1)、(2)、(3)のどの意味でも状況に対して適切ではないような仕方 で行為する、言葉をかえれば、合理性原理はわれわれが行為する仕方の記述としては、普遍的 には真ではないとつけ加えてもいいだろう。


(3.7.4)各世代の歴史解釈


(3.7.5)開かれた社会、理性の支配、正義、自由、平等、そして国際的犯罪の統治




(3.7.6)将来の運命は私たち自身にかかっている





第5部 めざすべき社会──自由主義の諸原則
 

めざすべき社会──自由主義の諸原則
(1)必要悪としての国家
(1.1)政治的、物理的制裁力
(2)民主主義の本質
(2.1)多数者支配は民主主義の本質ではない
(2.2)民主主義かどうかの認定規準
(2.3) 民主主義的憲法の改正限界
(2.4)寛容の限界
(2.5)民主主義を保護する制度
(2.6)経済的諸利益が依存するもの
(2.7)全ての闘いにおいて民主主義の維持が最優先である
(3)何事かをなし得るのは市民
(3.1)個人主義
(3.2)個人主義的利他主義
(4)民主主義は、最も害が少ない
(4.1)開かれた社会
(5)制度は善用も悪用もできる
(6)制度を支える伝統の力
(7)自由主義の諸原則は改善のための原則
(7.1)事実から目標は導出できない
(7.2)事実から目標が導出可能とする反論
(7.3)政治とは、政治目標とその実現方法の選択である
(7.4)最初に目標を決めることについて
(7.4.1)ユートピア的態度
(7.4.2)ユートピア主義への批判
(7.5)空想的な目標
(7.5.1)善い目的は悪い手段を正当化するか
(7.5.2)より大きな悪を避けるための手段としての悪
(7.5.3)ある行為の全結果と他の行為の全結果の比較
(7.5.4)政治権力と社会知識の相補性
(7.5.5)世論について
(7.5.6)制度による選抜の弊害
(7.6)事実の評価
(7.6.1)ピースミール工学
(7.7) 悪に対する漸次的闘い
(8)伝統としての道徳的枠組み
(8.1)伝統の力
(8.2)合理的討論の原則
(8.2.1)可謬性の原則
(8.2.2)合理的討論の原則
(8.2.3)真理への接近の原則
(8.3)思想の自由と真理
(8.4)知にかかわる倫理



(1)必要悪としての国家

 (a)人は人に対して狼であるか? 故に国家が必要であるか?
 (b)人が人に対して天使であるとしても、国家は必要である。依然として弱者と強者とが存在する。弱者が、強者の善良さに恩義をこうむりながら生き る。これを認めない場合は、国家の必要性が承認される。
 (c)国家は絶えざる脅威であり、たとえ必要悪であるとはいえ、悪であることに変わりはな い。国家が自らの課題を果すためには、権力を持たねばならないが、その権力の濫用から生じ る危険を完全に取り除くことはできない。また、権利の保護に対する代価が高すぎる場合もあ ろう。

(1.1)政治的、物理的制裁力



(2)民主主義の本質
 民主主義においては、政府は流血なしに倒されうる。専制政治においてはそうではない。 


(2.1)多数者支配は民主主義の本質ではない
 普通選挙制度が最も重要であるとはいえ、民主主義は多数者の支配として完全に性格づ けられうるものではない。なぜなら多数者が専制政治的に支配することもありうるからである。
(2.2)民主主義かどうかの認定規準
 支配者、政府を、流血の惨事なしに非支配者によって解職できること。これが民主主義の本質であり、民主主義と専制政治の区別が最も本質的である。それゆえ、権力の座にある者が、平和的変革運動の可能性を少数者に保証する諸制 度を保護しないならば、彼らの支配は専制政治なのである。
(2.3) 民主主義的憲法の改正限界
 整合的な民主主義的憲法は、法体系の変革のうち一つのものだけは、すなわち、憲法の民主主義的性格を危険にさらすであろうような変革だけは排除すべきである。 
(2.4)寛容の限界
 民主主義の暴力的転覆を他人に教唆するような者たちに、保護される権利は存在しない。




(a)不寛容な少数派が、合理的な提案として彼らの理論を論じたり 出版したりする限り、われわれは自由にそうさせておくべきである。
(b)ただし、寛容は相互性を基盤としてのみ存在し得ることを知らしめること。
(c)民主制の廃絶は、勝手気儘な行動へ、そして暴力へとつながるので、民主制の廃絶を訴える政党が、仮に民主的手段によって多数派になるようなことがあれば、われわれは寛容である必要 はない。


(2.5)民主主義を保護する制度
 民主主義を保護すべき諸制度をたてる政策は、いつでも、被支配者のうちにも支配者のうちにも反民主主義的傾向が潜在的に存在しているという仮定に基づいて進められねばならな い。 
(2.6)経済的諸利益が依存するもの
 民主主義が破壊されるならば、すべての権利が破壊されることになる。万一、被支配者が或る種の経済的諸利益を享受しているなら、それらは黙許によってのみ存続しているのであ ろう。
(2.7)全ての闘いにおいて民主主義の維持が最優先である
 民主主義は、暴力なき改革を許容するから、すべての合理的な改革にかけがえのない戦場を提供する。しかし、この戦場で戦われるすべての個別的戦闘において民主主義の維持が第 一に考慮されないならば、その時には、常に存在している潜在的な反民主主義的傾向は、民主主義の崩壊をもたらすであろう。


(3)何事かをなし得るのは市民
 民主主義は枠組みであり、何事かをなし得るのは市民である。

(3.1)個人主義

(3.2)個人主義的利他主義


(i)個人主義、集団主義、利己主義、利他主義
 (a)個人主義  (a')集団主義
 (b)利己主義  (b')利他主義
(a)人間の人格は永遠の価値を持ち、目的そのものである。(個人主義)
(a')個人はつねに、都市・国家・部族・ あるいは他の集合体の利益に役立たねばならない。(集団主義)
(b)自己や自集団の利益を最優先に考える。(利己主義)
(b')他者や他集団の利益を考える。(利他主義)

(ii)集団主義的利己主義の詭弁
 自己の利益を最優先にすること(利己主義)への道徳的な反発感情を使って、個人の人格に最高の価値を認める考え(個人主義)を攻撃し、個人は集団のためにあるという考え(集団主義)にすり替え、自集団のみの利益のために個人を犠牲にする。(集団主義的利己主義)
(iii)真実は個人主義的利他主義にある
 真実は、個人の人格に最高の価値を認める(個人主義)が故に、他者の喜びや悲しみに関心を持ち(利他主義)、政治や社会への関心は、他者に対する共感と責任感を基礎とする。


(4)民主主義は、最も害が少ない
 (a)多数派はいつでも正しいとは限らない。
 (b)民主主義の諸制度が、民主主義の伝統に根ざしている場合には、われわれの知る限りで もっとも害が少ない。

 (c)民主的統治形態(目的のための手段)
 (i)国家は、個人の自由と、人々の自由な社会生活のために存在する。
 (ii)開かれた社会を、内的あるいは外的な侵害から守るためには、強力な国家、強力な政 府の保護を必要とする。
 (iii)国家の諸制度は、強力であり、権力があるところには、いつもその誤用の危険がある。すべての権力は、拡大する傾向が あり、腐敗する傾向がある。
 (iv)必要とされているものは、ある種の政治的な綱渡りである。それは、抑制と均衡のシ ステムであり、「民主主 義」とも呼ばれる。

(4.1)開かれた社会

(a)開かれた社会(目的)
 個々人の解放は、それ自体価値あるものであり、それを実現する社会形態である。自由や寛容や正義、市民による知識の自由な追求、知識を広める権利、そして 価値や信念の市民による自由な選択、市民による幸福の追求のような諸価値に支えられている。

(b)闘う勇気を支える真理を探究し,誤謬から解放 されるためには,自身の理念を闘う理念と同様に,批判的に考察できることが必要だ。これは, 自他の多くの誤りが寛容される開かれた社会においてのみ可能である。(カール・ポパー (1902-1994))

(5)制度は善用も悪用もできる
 (a)制度は、いつでも両価的である。善用もできれば、悪用もできる。
 (b)制度を支える良い伝統が必要である。伝統は、制度と個人の意図や価値観を結びつける 一種の連結環を作り出すために必要である。
(6)制度を支える伝統の力
 (a)法はただ一般的な原理を書き記しているのみであり、その解釈や司法過程は、伝統的な 正義や原則によって支えられ、発展させられる。これは、自由主義のもっとも抽象的で一般的 な原則についても当てはまる。
 (b)個人の自由に加えられる制約は、それが社会的な共同生活によって不可避である場合、 可能なかぎり等しく課せられ、そして可能なかぎり少なくされる。

(7)自由主義の諸原則は改善のための原則

(7.1)事実から目標は導出できない
 (a)社会科学によって扱われる事実。
 (b)倫理的な考察に基づいているか、他の意思決定に基づいているかのいずれにせよ、政治 的な目標。 

(7.2)事実から目標が導出可能とする反論
 (a)意思決定の仕方は、教育やそれと同じような事実の影響に依存してい る。
 (b)目標や意思決定もそれ自体が事実である。

(7.3)政治とは、政治目標とその実現方法の選択である
 (a)目標が実現可能かどうかは事実の問題であり、社会科学 によって探究される。
 (b)目標を実現する方法もまた、社会科学に よって探究される。

(7.4)最初に目標を決めることについて
 それにもかかわらず、最初に社会を構想してから、実現方法を考えるというアプローチを、批判することを試みる。

(7.4.1)ユートピア的態度


(i)合理的な行為はどれも、一定の目標をもつ はずである。それは、目標を意識的かつ整合的に追求し、またこの目的に適うようにその手段 を決定する程度において合理的なものとなる。
(ii)それゆえ、われわれが合理的に行為したいと思 うなら、最初にやるべきことは目的の選択である。そして、真実の究極の目的を決定す るに当たっては注意深くなければならない。以上 の原則を政治活動の領域に適用すれば、何らかの実践活動をする前に、われわれの究極の政治 目標、すなわち理想国家を決定しなければならない、という要求となる。

(7.4.2)ユートピア主義への批判




(7.5)空想的な目標
 空想的な目標は、実行不可能性が問題ではなく、そのアプローチが全体主義的であり、そして全体主義は怪 物キマイラである。一連の新しい社会制度の帰結を《すべて》思い描くことはできない。





(7.5.1)善い目的は悪い手段を正当化するか

(7.5.2)より大きな悪を避けるための手段としての悪


(7.5.3)ある行為の全結果と他の行為の全結果の比較


(7.5.4)政治権力と社会知識の相補性

(7.5.5)世論について

(1)自由で批判的で公開的な討論
 世論は、正義の問題や他の道徳的テーマについての討論を含めて、学問において生じている 自由で批判的で公開的な討論からは区別される。
(2)一つの社会現象としての世論
 (a)自由で批判的で公開的な討論によって、世論はたしかに影響される。
 (b)しかし、討論の成果として、世論が出現してくるわけではない。
 (c)また、討論によって世論を押さえつけられるものでもない。
(3)世論の否定的な側面
(3.1)世論が真理と誤謬の裁判官ではない
 世論が、神の声として、真理と誤謬についての裁判官として、承認されることはあっては ならない。
(3.2)世論は操作され、演出され、計画される
 残念なことに世論は操作され、演出され、また計画される。
(3.3)世論が自由にとっての脅威となることもある
 強固な自由主義の伝統による束縛を受けないならば、世論は、自由にとっての脅威とな る。世論は趣味の問題の裁判官としては、危険なものなのである。
(4)世論の否定的な側面の克服
(4.1)自由主義の伝統の強化
 これらすべての脅威に対してわれわれは、自由主義の伝統を強化することによってのみ対 抗し得る。また、この自由主義を守るということにおいて、すべての人は共同することができ る。
(4.2)世論の積極的な側面
(a)世論はしばしば政府より賢明
 世論は、確かに、政府などよりはしばしば啓発されていて賢明である。
(b)世論は、正義と道徳的価値を言い当てる
 また世論は、往々にして、正義と他の道徳的価値にかんする啓発された裁判官でもあ る。




(7.5.6)制度による選抜の弊害


(a)制度による選抜の弊害
 制度による選抜は、常に自発性と独創性を排除し、またより一 般的に言えば異常な性質や予期されない性質というものを排除する。
(b)教育制度による選抜の弊害
 教育制度に対して、最善者を選抜するという不可能 な課題を負わせようとする傾向は、教育体系を競争場に変え、学科過程を障害物競争に 変えてしまう。学生が研究のための研究に没頭し自分の主題と研究を真に愛するのを励ますの ではなく、彼は個人的経歴のための研究を奨励される。彼は自分の昇進のために越えなければ ならない障害を超すのに役立つ知識のみを得るように誘導される。
(c)特に知的指導者の選抜
 知的指導者を制度によって選抜するという不可能な要求は、科学の生命ばかりか知性の生命そのものをも危地に陥し入れるのである。

(7.6)事実の評価
 目標は事実に還元不可能である。では、目標は何から得られるのか。それは、単なる空想なのか。事実の評価から、我々は選択肢を作り、そして選択する。

(a)評価、改善のための制度
 自由主義の諸原則は、現行の諸制度を評価し、必要とあれば、制限を加えたり改変でき るようにするための補助的な原則である。自由主義の諸原則が、現行の諸制度にとって代わる ことはできない。

(7.6.1)ピースミール工学
(i)この方法を採用する政治家は、社会の青写真を心にもっていてもよいしもっていなくて もよい。
(ii)完全というものは仮に達成可能だとしても はるかに遠いものであり、人類の各世代、それゆえ現在の世代もまたある要求をもっている。
(iii)社会の最大で最も緊急な悪を探してそれと闘うという方法を採用する。


(7.7) 悪に対する漸次的闘い
 従って、政治的な目標選択は、悪に対する漸次的闘いとなる。
 自由主義とは、専制政治への対抗という点を除けば、革命的であ るというよりは、むしろ進化を目ざす信条である。






(8)伝統としての道徳的枠組み
 伝統のうちでも、もっとも重要なものは、制度化された法的枠組みに呼応する道徳的枠組み を形成している伝統である。この伝統により、道徳的感情が育成されている。





(8.2)合理的討論の原則
 認識論的かつ倫理的な原則である。
 恐らく,私たちは共に部分的に間違っている. 私たちは, 真理に接近するために討論するのであって,相手を打ち負かすためではない. だから,合意でき なくとも,互いによりよい理解には達し,多くを学ぶだろう.(カール・ポパー(1902- 1994))
(8.2.1)可謬性の原則
 私は、あなたから学ぼうとしている。私が間違っていて、恐らくあなたが正しいのであろ う。しかし、私たちの両方がともに間違っているのかもしれない。
我々は必ず間違える



(8.2.2)合理的討論の原則
 私たちは、批判可能な特定の問題を論じているのであって、相手の人格を攻撃しようとし ているのではない。問題を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲している。
(8.2.3)真理への接近の原則
 私たちは何故、討論するのか。真理に接近するためである。だから仮に、合意に達するこ とができないときでも、互いによりよい理解には達し、多くを学ぶことができるに違いない。 

(8.3)思想の自由と真理
 思想の自由および自由な討論は、目的そのものともいえる根本的な自由主義的価値だが、我々が真理に到達するためにも必要なものだ。真理は顕現しない。しかも手に入れるのは容易ではない。真理の探求には (a)自由な想像力と(b)試行錯誤(c)批判的討論を経由した偏見の漸次的発見が必要だからである。(カール・ポパー(1902-1994))


(8.4)知にかかわる倫理
 知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、政治家などに とっての倫理である。
推論知には権威が存在せず,確証理論も例外ではない.誤り は不可避で,学びの契機であり,自己批判と知的誠実さ,他者批判の必要性と尊重,寛容の原理が 要請される.批判は真理のため,人でなく理論に関し理由と論拠によってなされる.(カー ル・ポパー(1902-1994))

(1)推論知の本質
 (a)客観的な推論知において権威は存在しない。われわれの客観的な推論知は、いつでもひとりの人間が修得できるところをはるかに超え ている。それゆえいかなる権威も存在しない。このことは専門領域の内部においてもあてはま る。
 (b)確証された理論も例外ではない。もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。

(2)誤りの不可避性
 (a)誤りを避けることは不可能
 すべての誤りを避けること、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けること は、不可能である。
 (b)誤りを避けることの困難性
 もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である。しかしな がら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして 何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。 

(3)誤りの本質の理解
 (a)誤りに対する態度の変更
 それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない。われわれの実際上の 倫理改革が始まるのはここにおいてである。
 (b)誤りから学ぶという原則
 新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれはまさ に自らの誤りから学ばねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大 の知的犯罪である。
 (c)誤りを分析すること
 それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれ は、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りを あらゆる角度から分析しなければならない。

(4)自己批判と知的誠実さ
 それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる。

(5)価値あるものとしての他者の批判
 (a)他者による批判の必要性
 われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし他者による批判が必要なことを学 ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 (b)自分とは似ていない他者の価値、寛容の原理
 誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする、また彼らはわれわれ を必要とするということ、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の 人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 (c)他者から指摘された誤りへの感謝
 われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせ てくれたときには、それを受け入れること、実際、感謝の念をもって受け入れることを学ばね ばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと 同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。

(6)合理的な批判の原則
 (a)理由や論拠を伴った具体的な批判
 合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言 明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定さ れた理由を述べるものでなければならない。
 (b)批判は、真理のため
 それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。
 (c)人の批判ではなく内容の批判
 このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。



2021年12月19日日曜日

(a)世界3の無時間性、(b)世界3を本質的に人間精神の産物である、(c)世界3の自律性、(d)世界3は実在する、(e)世界3の歴史、(f)進化論と世界3、(g)世界3の一般化。(カール・ポパー(1902-1994))

世界3

(a)世界3の無時間性、(b)世界3を本質的に人間精神の産物である、(c)世界3の自律性、(d)世界3は実在する、(e)世界3の歴史、(f)進化論と世界3、(g)世界3の一般化。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)世界3の無時間性
 もしはっきり定式化された言明がいま真であるならば、それは永遠に真で あり、また常に真であった。真理は無時間的である。
(b)世界3を本質的に人間精神の産物である。
(c)世界3の自律性
 世界3の諸対象がそれ自身の固有なまたは自律的な法則をもっていて、我々の意図せ ぬ、また予期もしなかったもろもろの結果を生みだすということは、より一般的な通則、すなわち、我々のすべての行為はそのような結果を生みだすという通則の一例に過ぎない。
(d)世界3は実在する
 世界3は人間の作った他の産物と同様に実在的であり、記号体 系と同様に実在的であり、大学とか警察といった社会制度と同様に実在的である。
(e)世界3の歴史
 世界3は歴史をもっている。それはわれわれの観念の歴史である。
(f)進化論と世界3
 進化論においても、世界3の概念を持ち込めるよう にさせもする。人間的世界3の先駆のみなせる動物的産物が存在する。
(g)世界3の一般化
 問題、理論、批判的 議論の世界を世界3の特殊ケース、狭義の世界3、あるいは世界3の論理的または知的領域とみ なせる。そしてより広い一般的意味での世界3に、もろもろの道具、制度、芸術作品といった 人間精神のすべての産物を含めることができる。



「自律性の問題といささか関連した、しかし私の思うに重要さに劣るものに、世界3の無時 間性の問題がある。もしはっきり定式化された言明がいま真であるならば、それは永遠に真で あり、また常に真であった。真理は無時間的である(また偽もそうである)。矛盾性とか両立 性といった論理的諸関係もまた無時間的であり、ずっとはっきりそうである。こういうわけ で、世界3の全体を、プラトンが形相またはイデアの世界についていったように、無時間的な ものとみなすのは、たいした苦労を要さないであろう。われわれはけっして理論を発明するの でなく、常に理論を発見するのである、と仮定しさえすればよいのである。そうすれば、生命 が発生する以前から存在し、すべての生命が消滅したあとにも存在し続ける無時間的な世界 3――人間がそこここでそのごく一部分を発見するところの世界――があることになろう。  このような見解をとることは可能である。だが、私はこの見解をとらない。それは世界3の 存在論的資格の問題を解決するのに失敗するだけでなく、この問題を合理的な見地から解決で きなくさせてしまう。それというのも、この見解は世界3の対象を「発見する」ことをわれわ れに許すけれども、これらの対象を発見する際にわれわれがそれらと相互作用するのか、それ ともこれらの対象がわれわれに作用しかけるだけなのか、また――特に、もしわれわれがそれら の対象に働きかけることができないのだとすれば――それらの対象はどのようにしてわれわれに働きかけることができるのか、を説明できないからである。この見解はプラトン的または新プ ラトン的直感主義にいきつき、多くの困難にぶつかることになると私は思う。それというの も、この見解は、私の思うに、世界3の諸対象の《あいだの論理的関係》の特質がこれらの対 象そのものに具備されていなければならないという誤った理解に立脚しているからである。  私はこれとは異なった考え方――驚くほど実り豊かだと私が認めたもの――を提案する。《私は 世界3を本質的に人間精神の産物だとみなす》。世界3の諸対象を創造するのはわれわれであ る。これらの諸対象がそれ自身の固有なまたは自律的な法則をもっていて、われわれの意図せ ぬ、また予期もしなかったもろもろの結果を生みだすということは、より一般的な通則――われ われのすべての行為はそのような結果を生みだすという通則――の一例(きわめて興味のある例 だが)にすぎない。  こうして私は、世界3を人間活動の産物とみなすと同時に、われわれの物理的環境と同じく らい、あるいはそれ以上に、反作用を及ぼす産物であるとみなす。すべての人間活動には一種 のフィードバックがある。行為しながら、間接的に、われわれは常にわれわれ自身に働きかけ ているのである。  もっと正確にいうと、私は問題、理論、批判的議論の世界3を人間言語の進化の諸結果の一 つと、そしてこの進化に作用し返しているものとみなす。  この見方は真理および論理的諸関係の無時間性と完全に両立する。またそれは世界3の実在 性を理解できるようにさせる。世界3は人間の作った他の産物と同様に実在的であり、記号体 系――言語――と同様に実在的であり、大学とか警察といった社会制度と同様に(おそらくはそれ よりもずっと)実在的である。  また世界3は歴史をもっている。それはわれわれの観念の歴史であるが、それら諸観念の発 見の歴史であるばかりでなく、どのようにしてわれわれがそれらの観念を発明したか――どのよ うにしてわれわれがそれらを作り出したか、それらがどのようにわれわれに作用し返したか、 またわれわれ自身の手になるこれらの産物にわれわれがどのように反作用したかの歴史でもあ る。  世界3のこのような見方は、人間を動物として見る進化論の領域内に世界3を持ち込めるよう にさせもする。人間的世界3の先駆のみなせる(巣のような)動物的産物があるのだ。  そして最後に、この見方は別の方向での一般化を示唆する。われわれは問題、理論、批判的 議論の世界を世界3の特殊ケース、狭義の世界3、あるいは世界3の論理的または知的領域とみ なせる。そしてより広い一般的意味での世界3に、もろもろの道具、制度、芸術作品といった 人間精神のすべての産物を含めることができる。」
(カール・ポパー(1902-1994),『果てしなき探求』,38 世界3または第三世界, (下),pp.161-163,岩波書店(1995),森博(訳))

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カール・ポパー(1902-1994)





あるものが存在するという言明(孤立した純粋存在言明)は、反証不可能である。存在しないことは、経験では実証できないからである。しかし、その否定、あるものが存在しないという言明が反証可能であり、科学的に意味のある言明なら、もとの存在言明も意味のある言明である。(カール・ポパー(1902-1994))

存在言明について

あるものが存在するという言明(孤立した純粋存在言明)は、反証不可能である。存在しないことは、経験では実証できないからである。しかし、その否定、あるものが存在しないという言明が反証可能であり、科学的に意味のある言明なら、もとの存在言明も意味のある言明である。(カール・ポパー(1902-1994))



「ある種の言明はテスト可能なので科学に属するが、《その否定》はテスト可能でないとわ かり、したがって境界設定線の下に位置づけられなければならないといった事態が生じうる。 そしてこれは重要なケースであることが判明する。実際これは、最も重要で最も厳しくテスト 可能な言明――《科学的普遍法則》――について当てはまるのである。わたくしは『科学的発見の 論理』で次のように勧告した。すなわち、これらの法則は、ある種の目的のために、「いかな る永久機関も存在しない」(これはしばしば「熱力学の第一法則についてのプランクの定式 化」と呼ばれる)といった形で、つまり《存在言明の否定》の形で表現されるべきである、 と。これに対応する存在言明――「永久機関が存在する」――は、「海蛇が存在する」と共に、境 界設定線の下の部分に入る。これに反して「大英博物館には海蛇が展示されている」は、容易 にテストできるので、優に線上の部分に入る。しかし、孤立した純粋存在言明はテストするす べがない。  孤立した純粋存在言明がテスト不能なものとして、また科学者の関心の範囲外に落ちるもの として分類されるべきであるという見解の適切性を、ここで論証するいとまはない。ただわた くしは次の点だけは明らかにさせたいと思う。《もし》この見解が受け入れられると《すれ ば》、形而上学的言明を無意味と呼んだり、あるいはわれわれの言語から締め出したりするの は、おかしいであろう。なぜなら、もし存在言明の《否定》を有意味なものとして受け入れる ならば、われわれは存在言明そのものをも有意味なものとして受け入れなければならないからである。  わたくしがこの点を強調せざるをえなかったのは、わたくしの立場が反証可能性または反駁 可能性を(境界設定のではなく)《意味》の基準として採用する提案だと、あるいは存在言明 をわれわれの言語から、もしくは科学の言語から締め出す提案だと、繰り返しいわれてきたか らである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第11章 科学と形而上学との境界設定,第2節 この問題に対するわたくし自身の見解,pp.490-491,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳), 石垣壽郎(訳),森博(訳))






カール・ポパー(1902-1994)





価値は生命とともに世界に登場する。無意識的な問題による価値から自由な想像力と知性によるあらゆる創造物までの中で、世界3の中核的部分に存在する人間的価値の世界は、客観的真理の増大という価値が支配している。なぜなら、それが価値であるというのは真実なのかという問題が立ち現れるからである。(カール・ポパー(1902-1994))

客観的真理の増大という価値

価値は生命とともに世界に登場する。無意識的な問題による価値から自由な想像力と知性によるあらゆる創造物までの中で、世界3の中核的部分に存在する人間的価値の世界は、客観的真理の増大という価値が支配している。なぜなら、それが価値であるというのは真実なのかという問題が立ち現れるからである。(カール・ポパー(1902-1994))


「かつて生命のない物的世界があったという推測が正しいとすれば、この世界は、私の思う に、問題なき、それゆえ価値なき世界であったろう。価値は意識とともにはじめて世界に登場 する、としばしばいわれてきた。私の見解はそうではない。価値は生命とともに世界に登場す る、と私は考える。もし意識なき生命があるとすれば(動物や人間の場合でさえ十分ありうる ことだと思う。それというのも、夢のない眠りのようなものがあるらしいからである)、意識 がなくてさえ、そこには客観的価値もあるであろう、と私はいいたい。  したがって、二種類の価値がある。生命によって、無意識的な問題によって生みだされる価 値と、人間の心によって、先の解決をふまえて、多少ともよく理解された問題を解決しようと する試みにおいて生じる価値と、である。  事実の世界において私が価値を認めるのはここのところである。そこは世界3のうちの歴史 的に生まれる問題と伝統の領域であり、この領域は事実の世界――世界1に属する事実の世界で はなく、人間の心によって部分的に生みだされた事実の世界であるけれども――の一部である。 価値の世界は、価値なき事実の世界――いわば生のままの事実の世界――を超越している。  世界3の最も奥深い中核的部分は、私の見るところでは、問題、理論、批判の世界であ る。価値はこの中核的部分には属さないが、この部分は価値によって支配されている。《客 観的真理およびその増大》という価値がそれである。世界3に他のもろもろの価値が入るのを 認めなければならないけれども、この価値はある意味で人間のこの知的な世界3の全体をつう じてすべてのうちで最高の価値であり続けるといえる。なぜなら、持ち出されるすべての価値 とともに次のような問題が生じるからである。それが価値であるというのは《真実》である か、それが価値の階層においてそれ固有の地位をもっているということは《真実》であるか、 親切が正義より価値があるというのは真実であるか、そもそも親切は正義と比較できるのか。 (それゆえ私は真理を恐れる人たち――知識の木の実を食べたのは罪であったと考える人たち―― にまったく反対する。)  広義の世界3がわれわれの知性の諸産物――それらの産物から生じる意図せぬ結果をも含めて ――だけでなく、もっとずっと広い意味でのわれわれの心の諸産物――たとえば、われわれの想像 の産物――をも包含するように、われわれは人間的た世界3の観念を一般化した。われわれの知性 の産物たる理論でさえ、われわれの想像の産物たる神話を批判することから生じる。理論は神 話なしにはありえなかったであろうし、批判は事実と虚構、真と偽との区別の発見なしには不 可能であったろう。神話と虚構が世界3から排除されるべきでない理由もここにある。それゆ え結局われわれは芸術および――われわれの観念のあるものを注入したところの、また《批判》 (単なる知的批判よりもずっと広い意味での批判)の結果を取り込んだところの――すべての人 間的産物を含めることになる。われわれは先行者たちの考えを吸収し、批判し、われわれ自身 を陶冶しようと努めているので、われわれ自身がこれに含まれうる。そしてまたわれわれの子 供や教え子、われわれの伝統や制度、われわれの生活様式、われわれの意図や目的もこれに含 まれよう。」

(カール・ポパー(1902-1994),『果てしなき探求』,40 諸事実の世界における諸価値の一, (下),pp.178-183,岩波書店(1995),森博(訳))

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カール・ポパー(1902-1994)





生命の起源とは問題の起源である。問題の発現を、物理学的に説明できるだろうか。生命とは、問題を解決しつつある物理的構造体である。問題は、その存在が生物学的諸効果を生みだす原因となりうるという意味において実 在的であるが、それは何なのか。(カール・ポパー(1902-1994))

生命の起源、生命の進化

生命の起源とは問題の起源である。問題の発現を、物理学的に説明できるだろうか。生命とは、問題を解決しつつある物理的構造体である。問題は、その存在が生物学的諸効果を生みだす原因となりうるという意味において実 在的であるが、それは何なのか。(カール・ポパー(1902-1994))


 (a)物理的過程との相関、累進的な単称的分析
 物理学的過程と細微にわたって相関しているとみなせないような、あるいは物理化学的 見地から累進的に分析できないような生物学的過程は存在しない。
(b)問題(あるいは情報)は実在的なものである
 生物体のもろもろの問題は、物理学的なものではない。それらの問題は物的事物でもなけれ ば物理的法則でもなく、物理的事実でもない。それらの問題は特殊な生物学的実在である。こ れらの問題は、その存在が生物学的諸効果を生みだす原因となりうるという意味において「実 在的」である。
(c)生命の起源
 生命の起源とは、問題の起源である。問題の発現を、物理学的に説明できるだろうか、これが問題である。
(d)自己増殖、適応、変異
 増殖できると仮定してみよう。しかしそれでもなお、これら の物体は、もし適応ができないとすれば「生き」てはいないであろう。これを達成するためには、それらの物体は増殖に加えて正真正銘の変異性を必要と する。
(e)問題解決方法も、問題であった
 生命とは、問題を解決しつつある物理的構造体である。問題を解決するすべを、様々な種は自然淘汰によって、つまり増殖と変異の方法によって「学ん」だ。そしてこの方法そのものも、同じ方法によって学びとられたも のである。

「生命の起源と《問題》の起源とは一致していると私は推測する。これは、生物学を化学 に、さらには物理学に還元しうるようになると期待できるかどうかという問題と無縁でない。 われわれがいつの日か無生物から生物を作り出せるであろうことは、単にありうるばかりでな く確からしいと私は考える。無生物から生物を作り出すことは、いうまでもなく(還元主義者 の見地からのみならず)それ自体としてきわめて興味をそそるものだが、それは生物学が物理 学または化学に「還元」できるということを《確定》しはしないであろう。なぜならば、それ は――物理的手段によって化学的化合物を作り出すわれわれの能力が、化学的結合の物理学的理 論を確立したり、あるいはそのような理論が存在するということさえ立証しないのと同様に―― 問題の発現の物理学的説明を確立しないだろうからである。  したがって、私の立場は《還元不可能性と創発》の理論を支持する立場だといえよう。そし てこの立場は次のような仕方でおそらく最もよく要約できるであろう。  (1)物理学的過程と細微にわたって相関しているとみなせないような、あるいは物理化学的 見地から累進的に分析できないような生物学的過程は存在しない、と私は推測する。しかし、 いかなる物理化学的理論も新しい問題の発現を説明できないし、またいかなる物理化学的過程 もそれ自体では《問題》を解決できない。(最小作用の原理とかフェルマの原理といった物理 学における変分原理は、おそらくこれに類したものであろうが、しかしそれらは問題への解決 にならない。アインシュタインの有神論的方法は、同じような目的のために神を用いようとす る。)  (2)もしこの推測が支持できるとすれば、この推測は多くの区別に進んでいく。われわれは 次のものを互いに区別しなければならない。
 物理学的問題=物理学者の問題
 生物学的問題=生物学者の問題  
生物体の問題=どのようにして生き残るか、どのようにして子孫を殖やすか、どのように変 化するか、どのように適応するか、といった問題  
人間の作った問題=どのようにして浪費を抑制するか、といった問題  
これらの区別から次のテーゼがもたらされる。  
《生物体のもろもろの問題は物理学的なものではない。それらの問題は物的事物でもなけれ ば物理的法則でもなく、物理的事実でもない。それらの問題は特殊な生物学的実在である。こ れらの問題は、その存在が生物学的諸効果を生みだす原因となりうるという意味において「実 在的」である》。
  (3)ある物体が自己増殖の問題を「解決」したと、つまり、それらの物体がみずからをまっ たく同じようにか、さもなければ結晶のように化学的に(あるいは機能的にさえ)《非本質 的》なわずかの欠損しかなくて、増殖できると仮定してみよう。しかしそれでもなお、これら の物体は、もし適応ができないとすれば、(十分な意味においては)「生き」てはいないであろう。これを達成するためには、それらの物体は増殖《に加えて》正真正銘の変異性を必要と する。  (4)事柄の「本質」は《問題解決》であると私はいいたい。(しかしわれわれは「本質」に ついて云々すべきでない。この言葉は、ここでは本気で使われていない。)われわれが知って いるような生命は、問題を解決しつつある物理的「物体」(より正確にいうと構造)から成り 立っている。問題を解決するすべを、さまざまな種は自然淘汰によって、つまり増殖プラス変 異の方法によって「学ん」だ。そしてこの方法そのものは、同じ方法によって学びとられたも のである。この遡及は必ずしも無限後退ではない――実際、それはかなりはっきりしたある発現 時にたどりつける。」

(カール・ポパー(1902-1994),『果てしなき探求』,37 形而上学としてのダーウィン主義, (下),pp.147-149,岩波書店(1995),森博(訳))

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カール・ポパー(1902-1994)





2021年12月18日土曜日

生物の好みまたは目的構造、技能構造、解剖学的構造の相互的強化の階層的システムは、ほとんどの場合、好みまたは目的構造における制御がより低次の諸制御をば全階層をつうじて大幅に左右するように働くのではないか。(カール・ポパー(1902-1994))

好みまたは目的構造

生物の好みまたは目的構造、技能構造、解剖学的構造の相互的強化の階層的システムは、ほとんどの場合、好みまたは目的構造における制御がより低次の諸制御をば全階層をつうじて大幅に左右するように働くのではないか。(カール・ポパー(1902-1994))



「これらのことは相互的強化の一般的原理に導いていく。一方には、好みまたは目的構造の 技能構造に及ぼす、さらには解剖学的構造に及ぼす、第一次的な階層的制御がある。しかし他 方ではまた、これら諸構造のあいだに第二次的な相互作用またはフィードバックがある。この 相互強化の階層的システムは、ほとんどの場合、好みまたは目的構造における制御がより低次 の諸制御をば全階層をつうじて大幅に左右するように働く、と私はいいたい。  諸実例はこれらの考えのいずれをも例証するである。「好み構造」または「目的構造」と私 が呼ぶものに生じる遺伝的諸変化(突然変異)を、「技能構造」における諸変化および「解剖 学的構造」における諸変化と区別するならば、目的構造と解剖学的構造とのあいだの相互作用 に関しては次のような可能性があるであろう。  (a)目的構造の突然変異が解剖学的構造に及ぼす作用。キツツキの場合のように、好みに変 化が生じても、食物獲得に関連した解剖学的構造は変化しないままのことがありうる。このよ うな場合には、種は(変則的な特別の技能を用いないかぎり)自然淘汰によって排除される公 算が大きい。さもなければ、種は眼のような器官に類似した新しい解剖学的特殊化を発展させて適応するかもしれない。つまり、種における見ることへの強い関心(目的構造)が、眼の解 剖学的構造の改善に好都合な突然変異の選択に導きうるであろう。  (b)解剖学的構造の突然変異が目的構造に及ぼす作用。食物獲得に重要な関連のある身体組 織が変化するとき、食物に関する目的構造は自然淘汰によって固定化または硬化されていくお それがあり、これが立ち代わりさらなる解剖学的特殊化に導きうる。それは眼の場合に似てお り、身体組織の改善に好都合な突然変異は見ることへの関心の鋭敏さを増大させるであろう (これは逆効果に似ている)。」
(カール・ポパー(1902-1994),『果てしなき探求』,37 形而上学としてのダーウィン主義, (下),pp.143-144,岩波書店(1995),森博(訳))

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カール・ポパー(1902-1994)





生体構造だけでなく、好みや技能などの行動も、何らかの遺伝子によって制御されていると仮定すると、外的環境の変化に応じて、まず非遺伝的に新しい行動が獲得され、好みや技能を通じて特定の遺伝子を助長するという仕組みで、進化の一定の傾向が説明できるかもしれない。(カール・ポパー(1902-1994))

進化に傾向はあるのか

生体構造だけでなく、好みや技能などの行動も、何らかの遺伝子によって制御されていると仮定すると、外的環境の変化に応じて、まず非遺伝的に新しい行動が獲得され、好みや技能を通じて特定の遺伝子を助長するという仕組みで、進化の一定の傾向が説明できるかもしれない。(カール・ポパー(1902-1994))


「ここに重要な問いが生じる。ランダム歩行が進化の系譜において際立っているようにはみ えないのはどうしてなのか。この問いは、もしダーウィン主義が「定向進化的趨勢」(としば しば呼ばれるもの)、つまり同じ「方向」への進化的諸変化が相継いで生じること(非ランダ ム的歩行)を説明できれば、答えられるであろう。シュレーディンガーやウォディントン、特 にアリスター・ハーディ卿などのさまざまな思想家が定向進化的趨勢のダーウィン主義的説明 をしようと試みた。私もスペンサー公演でそのような試みをした。  定向進化を説明するかもしれぬダーウィン主義豊富化のための私の提言は、簡単にいうと次 のようなものである。  (A)私は外的または環境的淘汰圧を内的淘汰圧から区別する。内的淘汰圧は生物体そのもの からくるものであり、また――私の推測によれば――究極的には生物体の《好み》(または「目 的」)から生じる。もちろん、これらの好みや目的は外的諸変化に応じて変化しうるものであ るけれども。  (B)さまざまな部類の遺伝子があると私は想定する。主として《生体構造》制御するもの、 これを私はa遺伝子と呼ぶ。主として《行動》を制御するもの、これを私はb遺伝子と呼ぶ。 (混合的機能をもったものをも含めて)中間的な諸遺伝子は(存在すると思われるけれど も)、ここでは考慮外におく。b遺伝子は同様に(好みまたは「目的」を制御する)p遺伝子と (技能を制御する)s遺伝子とに細分できよう。  さらに、ある生物体は、外的淘汰圧を受けて、当の生物体にある程度の変異性を許す諸遺伝 子、特にb遺伝子を発達させた、と私は想定する。行動面での変異の《範囲》は、遺伝子bの構 造によってある程度まで制御されるであろう。しかし、外的事態はさまざまに変わるので、b 構造による行動の決定づけがあまり厳格でない方が、遺伝(つまり遺伝子変異性の範囲)の遺 伝子的決定づけがあまりにも厳格でない場合と同じように、うまくいくことがある。(先の (2)(d)を参照。)こうしてわれわれは、遺伝的に決定づけられた範囲またはレパートリー内 での非遺伝的な変化を意味する、行動の「純粋に行動的な」変化、または行動の変異について 語ることができ、これらのものを遺伝的に固定もしくは決定された行動的変化と対置できよ う。  こうして今やわれわれは、ある環境的な変化はさまざまな新しい問題とそれに続く(たとえ ばある種類の食物がなくなってしまったので)新しい好みまたは目的の採用とに導きうる、と いえる。新しい好みまたは目的は、最初は(b遺伝子によって可能にされた、しかし固定され ていない)新しい暫定的な行動というかたちをとってあらわれるかもしれない。このようにし て動物は遺伝的変化がなくても新しい状況に暫定的に適応しうる。しかし、この《純粋に行動 的》で暫定的な変化は、うまくいった場合には、新しい生態的地位の採用または発見に等しい であろう。したがってその変化は、好みの新しい行動パターンを多かれ少なかれ予知したり定 着させる《遺伝的》p構造(つまり本能的な好みまたは「目的」)をもった個体を助長するであろう。この前進は決定的であることがわかろう。それというのも、今では新しい好みに合致す るような技能構造(s構造)の変化――たとえば、好まれるようになった食物を獲得する技能―― が助長されるだろうからである。  こうして、《s構造が変化したあとではじめて構造におけるある種の変化――つまり新しい技 能に好都合な解剖学的構造における変化――が助長されるようになる》、と私は提言する。これ らの場合における内的淘汰圧は「方向づけ」られており、それゆえ一種の定向進化に導くであ ろう。  この内的淘汰機構についての私の提言は、次のように図式的に書きあらわすことができる。  p─→s─→a つまり、好みの構造とその変異が技能構造とその変異の選択を制御する。そして後者が立ち代 わり純粋に解剖学的な構造とその変異の選択を制御する。  しかしながら、この連続的系列は循環的でありうる。新しい身体構造が立ち代わり好みの変 化を促進させる、といったぐあいに進むことがありうる。」
(カール・ポパー(1902-1994),『果てしなき探求』,37 形而上学としてのダーウィン主義, (下),pp.138-141,岩波書店(1995),森博(訳))

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カール・ポパー(1902-1994)





2021年12月17日金曜日

政治的行為の究 極的目的を科学的に、あるいは純粋に合理的な方法によって決定することはできないので、理 想の状態とはどのようなものであるべきかに関する意見のさまざまな相違は、議論の方法によっては必ずしも常に取り除けない。(カール・ポパー(1902-1994))

ユートピア主義の批判

政治的行為の究 極的目的を科学的に、あるいは純粋に合理的な方法によって決定することはできないので、理 想の状態とはどのようなものであるべきかに関する意見のさまざまな相違は、議論の方法によっては必ずしも常に取り除けない。(カール・ポパー(1902-1994))



「社会のある理想状態をわれわれの一切の政治的行為が貢献すべき目的として選ぶユートピ ア的方法は暴力を生み出しやすい、ということは次のようにして論証できる。政治的行為の究 極的目的を科学的に、あるいは純粋に合理的な方法によって決定することはできないので、理 想の状態とはどのようなものであるべきかに関する意見のさまざまな相違は、議論の方法に よっては必ずしも常に取り除けない。理想状態についてのこのような意見の相違は、少なくも 部分的には、宗教的意見の相違の性格をもつであろう。そして、これらの相異なったユートピ ア的諸宗教のあいだには、いかなる寛容もありえないのだ。ユートピア的目的は合理的な政治 的行為と議論の基礎としての役を果たすものと目論まれており、したがってこの目的がはっき りと定まっている場合にのみ、はじめてそのような行為は可能となるであろう。それゆえユー トピア主義者は、自分と同じユートピア目的を共有せぬ、また自分と同じユートピア宗教を信 仰しない、競争相手の他のユートピア主義者たちを、説得して自分の側につけるか、さもなけ れば粉砕してしまうかのいずれかをしなければならなくなる。  しかし、ユートピア主義者はもっとそれ以上のことをせざるをえない。かれは競合するすべ ての異端的見解の排除と駆遂とをきわめて徹底的におこなわざるをえない。なぜなら、ユート ピア的目標への道は長く、したがってかれの政治的行為が合理的であるためには、これからさ き長期間にわたって目的を不変に保つ必要があり、これをなしとげうるのは、競合している ユートピア的諸宗教を粉砕するにとどまらず、そのような諸宗教の一切の記憶をできるかぎり 駆遂してしまう場合だけだからである。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第18章 ユートピアと暴力,pp.662-664,法 政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))






カール・ポパー(1902-1994)





我々は必ず間違えることがあり、また知識の大部分が他の人々に負っているという事実を忘れてはならない。たとえ穏やかな説得であっても、自分の知っている知識や信念や実例を、もし絶対的に確信しているならば、恐らく暴力を生み出すであろう。宗教戦争と魔女狩りの歴史を思い出せ。(カール・ポパー(1902-1994))

我々は必ず間違える

我々は必ず間違えることがあり、また知識の大部分が他の人々に負っているという事実を忘れてはならない。たとえ穏やかな説得であっても、自分の知っている知識や信念や実例を、もし絶対的に確信しているならば、恐らく暴力を生み出すであろう。宗教戦争と魔女狩りの歴史を思い出せ。(カール・ポパー(1902-1994))



「わたくしが合理的態度あるいは合理主義的態度と呼ぶものが、ある程度の知的謙譲を前提 にしていることがわかるであろう。自分は時として考え違いをするものだということに気づい ている人びと、自分の誤りをいつもきまって忘れてしまうということのない人たちだけが、お そらくこの態度をとることができよう。この態度は、われわれが全知でなく、われわれの知識の大部分が他の人びとのおかげをこうむっている、という自覚から生まれる。それは、あらゆ る訴訟手続の二つの規則――第一に、常に双方の言い分を聞くべきであるという規則、第二に、 訴訟の当事者には適正な判断が下せないという規則――を、意見を闘わせる分野全般にまで、で きるかぎり移して適用しようとする態度である。  社会生活において互いに相手と対処しあうとき、この合理的態度を実際に行動に移す場合に のみ、はじめて暴力を避けることができる、とわたくしは信じている。これ以外の態度はすべ て――たとえ穏やかな説得でもって他人に対処し、自分が所有を誇るすぐれた洞察力にもとづく 議論や実例によって、また自分がその真理性を絶対的に確信している議論や実例で相手を納得 させようとする一方的な試みでさえ――おそらく暴力を生み出すであろう。いかに多くの宗教戦 争が愛と優しさを説く宗教のために闘われたかを、われわれの誰もが覚えている。また、永劫 の地獄の業火から人びとの魂を救おうとする正真正銘の親切心から、いかに多くの人間が生き ながら火あぶりにされたかを、われわれはよく覚えている。意見の領域でわれわれが権威主義 的な態度を放棄する場合にのみ、そして、互酬の態度、つまり進んで他人から学ぼうとする態 度を確立する場合にのみ、はじめてわれわれは信心と義務感によって喚起されるもろもろの暴 力行為を抑制することが期待できる。  合理的態度の急速な普及を妨げている多くの障害がある。その主要な障害の一つは、討論を 合理的にするのは常に二人がかりでのことである、という点である。当事者のそれぞれが、相 手から学ぼうとする用意ができていなければならないのである。相手から説得されてしまうよ りは相手を射殺してしまった方がましだ、と考えるような人間とは合理的な討論をすることは できない。いいかえると、合理的態度には限界がある。それは寛容の場合と同じである。不寛 容な者でもすべて寛容するという原理を、無条件に受け入れてはならない。もし受け入れるな らば、わが身を滅ぼすことになるばかりか、寛容の態度そのものをも滅ぼすことになろう。 (すべてこれらのことは、合理的態度は《互酬互譲》の態度でなければならない、というわた くしの先の指摘に示されている。)  右に述べたことからもたらされる一つの重要な帰結は、攻撃と防御との区別があいまいにさ れるのを許してはならない、ということである。われわれはその区別を強調しなければなら ず、また攻撃的侵略と侵略への抵抗とを識別するのを職務とするさまざまの(国内的および国 際的)社会制度を支持し発展させなければならない。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第18章 ユートピアと暴力,pp.656-657,法 政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))



カール・ポパー(1902-1994)





思想の自由および自由な討論は、目的そのものともいえる根本的な自由主義的価値だが、我々が真理に到達するためにも必要なものだ。真理は顕現しない。しかも手に入れるのは容易ではない。真理の探求には (a)自由な想像力と(b)試行錯誤(c)批判的討論を経由した偏見の漸次的発見が必要だからである。(カール・ポパー(1902-1994))

思想の自由と真理

思想の自由および自由な討論は、目的そのものともいえる根本的な自由主義的価値だが、我々が真理に到達するためにも必要なものだ。真理は顕現しない。しかも手に入れるのは容易ではない。真理の探求には (a)自由な想像力と(b)試行錯誤(c)批判的討論を経由した偏見の漸次的発見が必要だからである。(カール・ポパー(1902-1994))




(a)討論の効果、目的
 批判的合理的方法の価値は、 討論に参加した人たちが、討論することによってある程度まで自分たちの意見を変え、討論を終えて別れるときには前よりも賢明になっている、という事実にある。
(b)共通フレームの神話
 討論は共通の言語をもち共通の基本的前提を受け入れている人びとのあいだでしか可能でな い、としばしばいわれる。このような主張は誤っている。
(c)批判的合理主義の価値観
 必要なのはただ、 討論している相手から、かれが言おうとしていることを理解しようと心底から望むことを含め て、学びとろうとする心構えである。
(d)多様な経歴、立場、価値観
 この心構えが本当にあれば、討論の相手たちの経歴や立 場などの背景が異なっていればいるほど、討論はいっそう実り多いであろう。だから、討論の 価値は、競合しあう見解の多様性に主としてかかっている。

「思想の自由および自由な討論は、さらにこれ以上のいかなる正当化も実際に要しない根本 的な自由主義的価値である。それにもかかわらず、これらのものは真理の探求において演じる 役割の見地から実用主義的にも正当化できる。真理は顕現しない。しかも、手に入れるのは容 易ではない。真理の探求には、少なくとも、次のことどもが必要である。
 (a)想像力
 (b)試行錯誤 
 (c)(a)と(b)および批判的討論を経由してのわれわれの偏見の漸次的発見。  ギリシャ人に由来する西欧合理主義の伝統は、批判的議論の――もろもろの命題や理論を反駁 すべく試みることによって検査し試験する――伝統である。この批判的合理的方法は、証明の方 法、つまり真理を究極的に確定する方法と取り違えられてはならない。またそれは、常に合意 が得られることを保証する方法でもない。そうではなくて、この批判的合理的方法の価値は、 討論に参加した人たちが、討論することによってある程度まで自分たちの意見を変え、討論を終えて別れるときには前よりも賢明になっている、という事実にある。  討論は共通の言語をもち共通の基本的前提を受け入れている人びとのあいだでしか可能でな い、としばしばいわれる。このような主張は誤っているとわたくしは思う。必要なのはただ、 討論している相手から、かれが言おうとしていることを理解しようと心底から望むことを含め て、学びとろうとする心構えである。この心構えが本当にあれば、討論の相手たちの経歴や立 場などの背景が異なっていればいるほど、討論はいっそう実り多いであろう。だから、討論の 価値は、競合しあう見解の多様性に主としてかかっている。バベルの塔〔共通の言語〕がない とあらば、われわれはそれを工夫して作り出すべきである。自由主義者は意見の完全な一致を 望みはしない。かれが望むことはただ、もろもろの意見が互いに豊かになり、その結果として もろもろの考えが成長していくことである。誰にでも満足のいくように問題が解決される場合 でさえ、その問題を解決することにおいて、意見の分かれざるをえない多くの新しい問題が生 み出されるのである。これは、遺憾とされるべきことではない。  自由で合理的な討論は〔私事ではなく〕公の事柄であるけれども、世論は(どのようなもの であれ)このような討論から生み出されるのではない。世論は科学によって影響されることが ありうるし、また科学に判定を下すことがありうるけれども、世論は科学的討論の産物ではな い。  しかし、合理的な討論の伝統は、政治の分野に、討論による統治の伝統、およびそれと共に 異なった見解に耳を傾ける習慣、正義感の増大、そして妥協への気構え、を生み出す。  こうして、批判的討論の影響を受けて、また新しい問題の挑戦に応じて、変化し発展するも ろもろの伝統が、通常「世論」と呼ばれるものの多くにとってかわり、世論の果たすべきもの とみなされている諸機能を引き継ぐことを、われわれは期待するものである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第17章 世論と自由主義的原理,第4節 自由 な討論についての自由主義的理論,pp.648-649,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣 壽郎(訳),森博(訳))




カール・ポパー(1902-1994)





2021年12月16日木曜日

弁証法論者が主張する、進歩にとっての矛盾の重要性は事実である。しかし、発展を推進するのは、 観念のうちにある神秘的な力などではなく、ひとえに、矛盾を許さないという我々の決意、我々の決断で あって、それが矛盾を避け得るかもしれぬ新しい視点の探索へと我々を向かわせるからである。(カール・ポパー(1902-1994))

弁証法論理学の誤り

弁証法論者が主張する、進歩にとっての矛盾の重要性は事実である。しかし、発展を推進するのは、 観念のうちにある神秘的な力などではなく、ひとえに、矛盾を許さないという我々の決意、我々の決断で あって、それが矛盾を避け得るかもしれぬ新しい視点の探索へと我々を向かわせるからである。(カール・ポパー(1902-1994))


「弁証法論者たちは、矛盾は進歩にとって実り豊かであり、多産的であり、生産的であると いう。われわれも、これがある意味では真実であると認めた。だが、それが真実であるのは、 われわれが矛盾を許さず、矛盾を含む理論はすべてこれを変更すると――いいかえれば、矛盾を 決して容認しないと――決意する限りにおいてのみである。批判、つまり矛盾の指摘がわれわれ に理論を変更させ、それによって進歩を生じさせるのは、もっぱらわれわれのこの〔矛盾を容 認しないという〕決意に発するのである。  もしわれわれがこの態度を変え、矛盾をがまんする決心をすれば、矛盾はただちに一切の実 り豊かさを失ってしまう、ということはいくら強調しても強調したりない。矛盾はもはや知的 進歩を生み出さなくなるだろう。それというのも、われわれが矛盾をがまんする気になってし まっていれば、いくらわれわれの理論の矛盾を指摘されても、もはやわれわれを理論の変更に 向かわせることはできないからである。いいかえると、(矛盾を指摘することにある)批判 は、ことごとくすべて、その力を失ってしまうであろう。批判〔矛盾の指摘〕に対しては、 「なぜそれで悪いんだ」とか、あるいは、ひょっとすると、熱狂的に「そうだ、そうだ」とさ え、つまり指摘された矛盾を歓迎しさえする、返答がなされることになろう。  しかし、これは、われわれが矛盾をがまんする気になっていれば、批判ならびにそれととも にすべての知的進歩は終りにならざるをえない、ということを意味している。  したがって、われわれは弁証法論者にこう告げなければならぬ。君は両てんびんをかけることはできないのだ。実り豊かであるということで矛盾を重視するのであれば、君は矛盾を容認 してはならない。そうでなくて、君が矛盾を容認する気なら、そのときには矛盾は不毛であ り、合理的批判、議論、知的進歩はありえないであろう、と。  それゆえ、弁証法的発展を推進する唯一の「力」は、テーゼとアンチテーゼのあいだの矛盾 を容認しない、あるいは黙許しな、というわれわれの決意なのである。発展を推進するのは、 これら二つの観念のうちにある神秘的な力でなく、それらのあいだの神秘的な緊張関係でない ――発展を促進するのは、ひとえに、矛盾を許さないというわれわれの決意、われわれの決断で あって、それが矛盾を避けうるかもしれぬ新しい視点の探索へとわれわれを向かわせるのであ る。そして、この決意は完全に正当化できる。なぜなら、もし矛盾を容認すれば、いかなる種 類の科学的活動も断念しなければならなくなる、つまり、それは科学の全面的な崩壊を意味す るであろう、ということが簡単に論証できるからである。この点は、《もし二つの矛盾する言 明が認められるとなると、どんな言明でもすべて認めなければならなくなる》、なぜなら、一 組の矛盾する言明からはいかなる言明でも妥当に推論できるからである、ということを証明す ることによって明らかにできる。」

(カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第15章 弁証法とは何か,第1節 弁証法の解 明,pp.585-586,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))


カール・ポパー(1902-1994)





批判は例外なく何らかの矛盾を指摘することである。さもなければ、おそらくは端的にその理論を否定することである。批判がなければ、理論を変えるいかなる合理的動機もないであろう。(a)理論内部の矛盾、(b)受け入れている別の 理論との矛盾(c)理論とある種の事実のあいだの矛盾。(カール・ポパー(1902-1994))

批判的合理主義

批判は例外なく何らかの矛盾を指摘することである。さもなければ、おそらくは端的にその理論を否定することである。批判がなければ、理論を変えるいかなる合理的動機もないであろう。(a)理論内部の矛盾、(b)受け入れている別の 理論との矛盾(c)理論とある種の事実のあいだの矛盾。(カール・ポパー(1902-1994))


「最も重要な誤解と混乱は、矛盾についての弁証法論者たちの不正確な語り方から生じる。  かれらは、矛盾が思考の歴史において最大の重要性を――まさに批判と同じくらいの重要性を ――もつことを、正しく、洞察している。それというのも、批判は例外なく何らかの矛盾、つま り、批判される理論内部の矛盾か、その理論とわれわれが受け入れる何らかの理由をもつ別の 理論とのあいだの矛盾か、あるいはその理論とある種の事実――もっと正確にいうと、その理論 と事実についてのある言明――とのあいだの矛盾、を指摘することにあるからである。批判はそ のようなある矛盾を指摘することか、さもなければおそらくは端的にその理論を否定すること (つまり、批判はただ単にアンチテーゼの言明であることがありうる)以外には決してなにも なしえない。だが、批判は、きわめて重要な意味において、あらゆる知的発展の主要原動力で ある。矛盾がなければ、批判がなければ、理論を変えるいかなる合理的動機もないであろう。 そこには、いかなる知的進歩もないであろう。  こうして、もろもろの矛盾――とりわけ、いうまでもなく、ジンテーゼというかたちでの進歩 を「生み出す」ところのテーゼとアンチテーゼとのあいだの矛盾――がきわめて実り豊かなもの であり、実に思考の一切の進歩の原動力であることを正しく洞察したあげく、弁証法論者たち は――これから見るように、誤って――これらの実り多い矛盾を回避する必要はまったくないと結 論をくだす。さらにかれらは、矛盾は世界のいたるところに生じるのであるから避けることは できない、と主張しさえする。  このような主張は、伝統的論理学のいわゆる「矛盾律」(あるいは、もっと詳しくいえば 「矛盾排除律」)――二つの矛盾する言明は同時に真とは決してなりえない、あるいは、二つの 矛盾する言明の連言から成る言明は純論理的理由から常に偽として拒否されなければならない、という法則――に対する攻撃となる。矛盾の実り豊かさということを口実にして、弁証法論 者たちは、伝統的論理学のこの法則は棄て去られなければならないと主張する。このように矛 盾律を放棄することにより、結局のところ、弁証法が新しい論理学――弁証法論理学――になる、 とかれらは主張する。これまで私が単なる歴史的理論――思考の歴史的発展についての理論――と して紹介してきた弁証法は、このようにして、まったく別の理論になろうとした。つまり、弁 証法は論理学の理論であると同時に(これから見るように)世界の一般理論であろうとしたの である。  これらはとてつもなく巨大な要求であるが、しかしいささかの根拠もないものである。事 実、それは、不正確で不鮮明な語り方以上のなにものにももとづいていない。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第15章 弁証法とは何か,第1節 弁証法の解 明,pp.584-585,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))






カール・ポパー(1902-1994)





原始より人間には、不規則性や変化を恐れ、斉一性を求める傾向があり、自らの行為と他者の行為を、予測可能なものにしようとしてきた。伝統を創造し守ろうとする傾向もまた同じである。批判的合理主義は、この伝統の重要性を理解し、かつ寛容の伝統を基礎に自由な批判によってより良い伝統の創造を主張する。(カール・ポパー(1902-1994))

伝統主義と批判的合理主義

原始より人間には、不規則性や変化を恐れ、斉一性を求める傾向があり、自らの行為と他者の行為を、予測可能なものにしようとしてきた。伝統を創造し守ろうとする傾向もまた同じである。批判的合理主義は、この伝統の重要性を理解し、かつ寛容の伝統を基礎に自由な批判によってより良い伝統の創造を主張する。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)不規則性や変化への恐れ
 人間は、不規則性や変化を恐れ、逆に、斉一的になるものにしがみつく傾向があ る。

(b)予測可能な行為
 みずからの行為が合理的 であること、つまり他人から見て予測のつくものであることを、他の人々に保証してやり、他 の人々にも同じように行動してほしいと望んでいる。
(c)伝統を創造し守ろうとする傾向
 人間には、伝統を 創造する傾向があるばかりでなく、注意深くそれに従い、他の人々にもそうするよう強く要求 することによって、その、手にした伝統を再確認するという傾向もある。
(d)合理主義と伝統主義
 合理主義者の望みは、伝統主義者の不寛容さとタブー化の態度のかわりに、寛容の 伝統をおき、現存の伝統を批判的に 考察し、利害得失を比較考量し、しかも、その伝統が確立された伝統であるという事実がもつ 利点をも忘れないようにする態度を置くことである。
(e)社会的伝統の批判にも他の伝統が必要
 すべての社会批判やすべての社会的改良というものは、社 会的伝統の枠組に頼らざるをえない。また、この社会的伝統の批判がまた他の伝統に頼ら ざるをえない。

「われわれは、社会生活における伝統の機能を、簡単に検討してきた。そこで見出した事柄 は、次に、伝統がどのようにして生じ、どのようにして伝えられ、どのようにして固定されて いくか――これらはすべて人間の行為の意図されざる結果なのだが――という問いに答えるのに、 役立つであろう。人々は、なぜ、自然的環境の法則を学ぼうと(し、それを他の人々に、しば しば神話の形で、教えようと)するのか。それだけでなく、なぜ、社会的環境の伝統をも、学 ぼうとするのか。その理由を、われわれは今や理解できる。人間(とくに未開人や子供)に は、なぜ、自分の生活において斉一的であるものや、斉一的になるものにしがみつく傾向があ るのか。その理由をも、われわれは今や理解できる。人間は神話にしがみつくし、みずからの 行為の斉一性にしがみつきがちである。その理由は、第一に、不規則性や変化を恐れ、した がって、不規則性や変化を起こすことを恐れるからである。第二に、みずからの行為が合理的 であること、つまり他人から見て予測のつくものであることを、他の人々に保証してやり、他 の人々にも同じように行動してほしいと望んでいるからである。このように人間には、伝統を 創造する傾向があるばかりでなく、注意深くそれに従い、他の人々にもそうするよう強く要求 することによって、その、手にした伝統を再確認するという傾向もある。これが、伝統的タ ブーが生じる有様であり、それが伝えられていく有様である。  これは、すべての伝統主義に特徴的な、極度に情緒的な不寛容さというものを、つまり、合 理主義者がつねに正当にも抵抗し続けてきた不寛容さを、部分的に、説明している。しかし、 この傾向の故に伝統そのものに攻撃を加えるようになった合理主義者は誤っていたということ が、今やわれわれにははっきり分かる。われわれは、次のように言ってもよいかもしれない。 合理主義者が本当に望んでいたことは、伝統主義者の不寛容さのかわりに新しい伝統――寛容の 伝統――を置くこと、より一般的に言えば、タブー化の態度のかわりに、現存の伝統を批判的に 考察し、利害得失を比較考量し、しかも、その伝統が確立された伝統であるという事実がもつ 利点をも忘れないようにする態度を置くこと、である。というのは、現存の伝統をよりよい伝統 で(あるいは、よりよい伝統であるとわれわれが信じるもので)置き換えるためには、結果と して現存の伝統を拒絶することになるにしても、われわれはつねに次の事実を意識していなけ ればならないからである。つまり、すべての社会批判やすべての社会的改良というものが、社 会的伝統の枠組に頼らざるをえないということ、この社会的伝統の批判がまた他の伝統に頼ら ざるをえないということである。これはちょうど、科学におけるすべての進歩が、科学理論の 枠組みの中で進行せざるをえず、この科学理論の批判は他の科学理論の光のもとで行なわれ る、というのと同じである。  伝統についてここで述べたことの多くは、制度についても述べることができる。なぜなら ば、伝統と制度は、大部分の点において驚くほど似ているからである。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第4章 合理的な伝統論に向けて,pp.214- 216,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))


カール・ポパー
(1902-1994)








2021年12月15日水曜日

理論は、我々が作った思考の道具であることは、間違いない。しかしそれは、実在の一端を捉え得るし、新しい世界を発見し得る。理論は、観察や経験を説明するために作られるが、感覚経験を超えて、新しい世界を発見するに至る。(カール・ポパー(1902-1994))

理論は感覚経験を超える

理論は、我々が作った思考の道具であることは、間違いない。しかしそれは、実在の一端を捉え得るし、新しい世界を発見し得る。理論は、観察や経験を説明するために作られるが、感覚経験を超えて、新しい世界を発見するに至る。(カール・ポパー(1902-1994))


「理論は、われわれ自身がつくり出したもの、われわれ自身の観念である。理論は、われわ れに強いられたものではなくて、われわれ自身がつくった思考の道具である。こういったこと は観念論者が明晰に見てとってきた。しかし、これらのわれわれの理論には実在との衝突をお こしうるものがある。そしてそのような衝突がおこるとき、われわれはある実在が存在してい ることを知るのである。つまり、われわれの観念が誤りうるという事実をわれわれに思い出さ れる何物かの存在を知るのである。そしてこれは実在論者が正しいということの理由なのであ る。  したがってわたくしは、《科学が実在に関する発見をなしうる》という本質主義の見解に賛 成であるし、さらに、新しい世界の発見ということに関しては、われわれの知性の方がわれわ れの感覚経験に対して勝利をおさめるという本質主義の見解にさえも賛成なのである。しかし わたくしはパルメニデスが犯した誤り――この世界において、色彩にあふれ、変化し、個別的 で、不確定で、記述しがたいもの一切に実在性を否定するという誤り――におちいってはいない。  わたくしは、科学が実在に関する発見をなしうると信じているので、ガリレイと同じく道具 主義には反対の立場をとる。われわれの発見が推測的であることをわたくしは認める。しかし このことは地理上の探検にさえもあてはまるのである。コロンブスが自分で発見したものに関 して行なった推測は事実誤りであった。しかし推測がもつこういった要素によって、かれらの 発見したものの実在性が希薄になったり意義が少なくなったりするのではない。  われわれは科学的予測に二種類のものを区別することができる。これは重要な区別である が、道具主義はこの区別をつけることができない。これは科学的発見と関連した区別である。 わたくしが念頭においている区別というのは、一方では日月食や雷雨のような、《すでに知ら れている種類の出来事》の予測と、他方では(物理学者が「新効果」と呼ぶ)《新しい種類の 出来事》の予測、たとえば、無線の電波や零点エネルギーを発見させたり、以前には自然界に は見出されなかった元素を人工的に作り出させたりしたような予測、との間の区別である。  道具主義が第一の種類の予測しか説明できないということは、わたくしには明らかなことに 思われる。つまり、理論が予測のための道具ならば、他の道具の場合と同じように理論の目的 もあらかじめ決定されたものでなければならないと仮定せざるをえない。第二の種類の予測 は、それを発見と見なさないかぎり十分に理解することはできないのである。  さきに述べた例や他の大部分の発見の場合でも、理論が「観察による」発見の結果であるよ りもむしろ、発見が理論に導かれたものである、というのがわたくしの信念である。というの は、観察自体が理論に導かれることが多いからである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第3章 知識に関する三つの見解,第6節 第3 の見解――推測、真理、実在,pp.187-189,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎 (訳),森博(訳))
カール・ポパー
(1902-1994)









2021年12月14日火曜日

確実に知り得ることは実在的であるけれど も、それだけが実在的だと考えるのは誤りである。我々は全知ではない。科学的な仮説は推論に過ぎないが、実在の一端を捉え得るし、推論が偽の場合には、実在的な事態との衝突があらわになる。(カール・ポパー(1902-1994))

実在とは何か

確実に知り得ることは実在的であるけれど も、それだけが実在的だと考えるのは誤りである。我々は全知ではない。科学的な仮説は推論に過ぎないが、実在の一端を捉え得るし、推論が偽の場合には、実在的な事態との衝突があらわになる。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)より高次のより推測的なレヴェルのほうが、より推測的であるという事実にもかかわらず、より実在的である。
(b)あるいは、偽であることが明らかに なるかもしれない推測が記述する事態ではなくて、むしろ、真なる言明が記述する事態のみ を「実在的」と呼ぶべきではないだろうかという反論がある。
(c)しかし、推測であっても真であるかもしれ ず、したがって、実在的な事態を記述しているかもしれない。
(d)また、もしその推測が偽であるならば、それは、それを否定した真なる言明が記述する何らかの実在的な事態との衝突を起こす。

「「実在的(real)」とう語の一つの意味においては、これらのさまざまなレヴェルはすべ て同じように実在的であるけれども、より高次のより推測的なレヴェルのほうが――より推測的 であるという事実にもかかわらず――《より実在的な》レヴェルであると言ってもいいような、 別のもう一つの意味がこれに密接に関連している。理論によるとそのようなレヴェルのほうが より実在的(より安定的たらんとし、より永続的)であるというときの意味は、テーブルや樹 木や星のほうがその諸側面よりも実在的であるというときの意味と同じである。  しかし、理論のまさにこの推測的ないし仮説的な性格のゆえに、理論が記述する世界に実在 性を帰属させてはいけないのではないだろうか。(たとえばバークリーの「存在することは知 覚されることである」は狭量にすぎることがわかっているにしても)偽であることが明らかに なるかもしれない推測が記述する事態ではなくて、むしろ、《真なる言明が記述する事態のみ を「実在的」と呼ぶ》べきではないだろうか。こういった問いを提出することによって、道具 主義的見解の検討へ向かうことにしよう。道具主義的見解は、理論はたんなる道具であると主 張し、実在世界というような何らかのものが理論によって記述されるという見解を否定してい るのである。  わたくしは、事態を記述する言明が真であるとき、かつそのときにかぎり、その事態を「実 在的」と呼ぶべきであるとする見解(真理の古典的理論ないし対応説に含まれている見解)を 受けいれる。しかしここから、理論の不確実性すなわち理論の仮説的ないし推測的性格によっ て、実在的なものの記述という理論の暗黙の《主張》がともかくも減殺されてしまうという結 論をくだせば、それは重大な誤りであろう。なぜならば、いかなる言明であれ言明Sは、Sが真 であると主張する言明に等しいし、また、Sが推測であるということに関して、われわれは次 のことを忘れてはならないからである。まず第一に、推測であっても真である《かもしれ ず》、したがって、実在的な事態を記述している《かもしれない》ということ、第二に、もし その推測が偽であるならば、それは(それを否定した真なる言明が記述する)なんらかの実在 的な事態との衝突をおこすということである。さらに、われわれが〔実際に〕推測をテストし その反証に成功するならば、われわれは、ある実在的なもの――その推測との衝突を可能にした 何物か――の存在していたことがきわめて明瞭にわかるのである。  したがって反証は、われわれがいわば実在に触れた地点を示しているのである。そしてわれ われのもっとも新しい最良の理論というのはつねに、その分野で見出されたすべての反証〔事 例〕を、もっとも単純な仕方で――つまり(わたくしが『科学的発見の論理』31-46節で示した ように)もっともテスト可能な仕方で、という意味であるが――説明することによって統合しよ うと試みるものなのである。  明らかに、もしわれわれが理論のテストの仕方を知らないならば、理論によって記述される種類(あるいはレヴェル)のものがそもそも存在するのかと疑うことにもなろう。また、その 理論はテストできないと明確に知るようになれば、われわれの疑いは増大するだろう。われわ れはその理論がたんなる神話やおとぎ話ではないかと疑うかもしれない。《しかし、理論がテ スト可能ならば、それは、ある種の出来事が起こりえないということを含意し、したがって実 在について何らかのことを主張しているのである》。(この理由からわれわれは、理論が推測 的であるほど理論のテスト可能性の程度も高くなければならないと要求するのである。)した がっていずれにしても、テスト可能な推測は実在に関する推測であり、その不確実なあるいは 推測的な性格から導かれることは、その記述する実在に関するわれわれの知識が不確実あるい は推測的だということにすぎない。また、確実に知りうることのみが確実に実在的であるけれど も、確実に実在的であると知っていることのみが実在的だと考えるのは誤りである。われわれ は全知ではないし、われわれの誰も知らない多くのものが実在しているということは疑いはな い。したがって実に、(「存在することは知られることである」という形での)古いバーク リー的な誤りがいまなお道具主義の根底に横たわっているのである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第3章 知識に関する三つの見解,第6節 第3 の見解――推測、真理、実在,pp.185-187,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎 (訳),森博(訳)
カール・ポパー
(1902-1994)









科学的説明とは、未知のものを既知のものへ還元することであると言われることがあるが、若干の注意が必要だ。確かに、応用科学ではそうかもしれない。しかし、純粋科学にあっては、説明とは常に諸仮説を、もっと普遍性のレベルの高い別の仮説へ論理的に還元しようとする。(カール・ポパー(1902-1994))

未知なものと既知のもの

科学的説明とは、未知のものを既知のものへ還元することであると言われることがあるが、若干の注意が必要だ。確かに、応用科学ではそうかもしれない。しかし、純粋科学にあっては、説明とは常に諸仮説を、もっと普遍性のレベルの高い別の仮説へ論理的に還元しようとする。(カール・ポパー(1902-1994))



「《説明》そのものの問題。科学的説明とは未知のものを既知のものへ還元することであ る、としばしば言われてきた。もし純粋科学の意味であるなら、これほど真理から遠いものは ない。逆説に陥ることなく、科学的説明とは反対に既知のものを未知のものへ還元することで ある、と言うことができるのである。純粋科学を「与えられたもの」あるいは「既知」と考え る応用科学に反し、純粋科学にあっては、説明とは常に諸仮説を、もっと普遍性のレベルの高 い別の仮説へ論理的に還元すること、「既知」の事実と「既知」の理論を、われわれのまだほ とんどよく知らない、これからテストされなくてはならない諸仮定へ論理的に還元すること、 なのである。説明能力の程度、まともな説明とまがいものの説明との関係、説明と予測との関 係などの分析は、このコンテクストにおけるきわめて興味ぶかい問題の一例である。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第1章 科学――推論と反駁,補遺 科学哲学に おけるいくつかの問題,(10),pp.83-84,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎 (訳),森博(訳))


カール・ポパー
(1902-1994)








普遍言明の受容れ条件は、テストの厳しさであり、理論の単純性そのものではない。また合意は、何らかの基準による普遍言明についての合意ではなく、単称言明である基礎言明についての合意である。それは、直接経験による言明の正当化ではなく、科学的方法の目的に沿った自由な決定としての合意である。(カール・ポパー(1902-1994))

理論の単純性、合意の内容

普遍言明の受容れ条件は、テストの厳しさであり、理論の単純性そのものではない。また合意は、何らかの基準による普遍言明についての合意ではなく、単称言明である基礎言明についての合意である。それは、直接経験による言明の正当化ではなく、科学的方法の目的に沿った自由な決定としての合意である。(カール・ポパー(1902-1994))


「約束主義者にとっては、普遍言明の受容れは単純性の原理によって支配される。 彼はもっとも単純な体系を選ぶ。反対に私は、考慮されるべき第一の事柄はテストの厳しさで なければならない、と要求する。(私が「単純性」とよぶものとテストの厳しさとのあいだに は密接な結びつきがある。しかし、私の単純性の考えは約束主義者のそれとは非常に異なって いる。第46節を見られたい)。そして私は、理論の運命を最終的に決定するのはテストの結 果、つまり基礎言明についての合意である、と主張する。私は約束主義者とともに、なんらか の特定の理論を選ぶということが行為であり、実践の問題であると主張する。しかし私の場合 には、その選択は理論の応用およびこの応用に結びついた基礎言明の受容れによって決定的に 影響されるものである。これに反して、約束主義者の場合には、審美的動機が決定的である。  こうして私は、合意よって決定される言明が普遍言明でなく単称言明であると主張 する点で、約束主義と異なっている。また私は、基礎言明がわれわれの直接経験によって正当 化されるものではなく、論理的観点からすると行為、自由な決定(心理学的観点からすると、 これはおそらく、目的的なよく適応した反応であろう)によって受容れられるものであると主 張する点で、実証主義者と異なる。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『科学的発見の論理』,第2部 経験の理論の若干の構成要素, 第5章 経験的基礎の問題,30 理論と実験,pp.136-137,恒星社厚生閣(1972),大内義一 (訳),森博(訳))

科学的発見の論理(上) [ カール・ライムント・ポパー ]



カール・ポパー
(1902-1994)








客観的科学の経験的基礎は、従って、科学についてなんら「絶対的」なものを持たない。科学理論の大胆な構築物は、いわば沼地の上に聳 え立っているのである。それは杭の上に直立している建物のようなものである。われわれはただ、少なくとも差し当っては、杭が構築物を支えるに 足るほど堅固だと満足するときに、ストップするだけなのである。(カール・ポパー(1902-1994))

客観的科学の経験的基礎

客観的科学の経験的基礎は、従って、科学についてなんら「絶対的」なものを持たない。科学理論の大胆な構築物は、いわば沼地の上に聳 え立っているのである。それは杭の上に直立している建物のようなものである。われわれはただ、少なくとも差し当っては、杭が構築物を支えるに 足るほど堅固だと満足するときに、ストップするだけなのである。(カール・ポパー(1902-1994))


「客観的科学の経験的基礎は、したがって、科学についてなんら「絶対的」なものをもたな い。科学は岩底に基礎をおくものではない。科学理論の大胆な構築物は、いわば沼地の上に聳 え立っているのである。それは杭の上に直立している建物のようなものである。杭は上から沼 地のなかに打ち込まれるが、いかなる自然的なまたは「既定の」基盤にも達しない。そしてわ れわれがより深い層に杭を打ち込もうとする企てをやめる時でも、それはわれわれが堅固な基 礎に達したからではない。われわれはただ、少なくとも差し当っては、杭が構築物を支えるに 足るほど堅固だと満足するときに、ストップするだけなのである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『科学的発見の論理』,第2部 経験の理論の若干の構成要素, 第5章 経験的基礎の問題,30 理論と実験,p.139,恒星社厚生閣(1972),大内義一(訳),森博 (訳))

科学的発見の論理(上) [ カール・ライムント・ポパー ]


カール・ポパー
(1902-1994)









科学においては、理論が確証されていない仮説にとどまるが、つねにテスト可能であるので単なる独断論ではない。また、理論の予測結果の確認が、知覚的経験に依存しているが、その情報は、言明の受け入れ可否の判断材料なので、経験内容によって事実を正当化しようとする単なる心理主義とは異なる。 (カール・ポパー(1902-1994))

科学と独断論、心理主義

科学においては、理論が確証されていない仮説にとどまるが、つねにテスト可能であるので単なる独断論ではない。また、理論の予測結果の確認が、知覚的経験に依存しているが、その情報は、言明の受け入れ可否の判断材料なので、経験内容によって事実を正当化しようとする単なる心理主義とは異なる。 (カール・ポパー(1902-1994))


(a)科学は独断論なのか
 理論が確証されていない仮説にとどまるという意味で独断論というなら、そうである。しかし科学における理論は全てこのようなものであり、また必要とあれば、これらの基礎言明は容易 にテストを続行できるようなものである。
(a)科学は心理主義なのか
 理論が予測する結果の確認が、我々の知覚的経験に依存しているという意味で、心理主義というなら、その通りである。しかし科学においては、その知覚的経験によってある言明が事実であることを正当化するのではない。その知覚的経験の情報によって、言明の受け入れまたは拒否の判断の材料として使われるだけである。


「それではフリースのトリレンマ――独断論・無限後退・心理主義からの――三者択一(第25 節を参照)に関し、われわれはいかなる立場にあるのか。われわれが、満足すべきものとし て、また十分にテストされたものとして、受容れることを決定し、そこでストップするところ の基礎言明は、それらをわれわれがさらなる論証によって(あるいはテストによって)、正当 化するのを止めてよいというかぎりにおいてだけであるが、確かにドグマの性格をも つ。しかしこの種の独断論は無害である。なぜなら、必要とあれば、これらの基礎言明は容易 にテストをさらに続行できるからである。これはまた、演繹の連鎖を原則上無限なものにさせ るものであることを、私は認める。しかしこの種の無限後退もまた、無害である。なぜなら、 われわれの理論にあっては、なんらかの言明を立証しようとすることなど全然問題でないから である。そして最後に、心理主義について:基礎言明を受容れそれで満足するという決定が、 われわれの経験――とりわけわれわれの知覚的経験と因果的に結びついていることを、 私はふたたび認める。しかしわれわれは、これらの経験によって基礎言明を正当化し ようとは企てない。経験は決定を動機づけることはでき、したがって言明の受容れま たは拒否を動機づけうる、しかし基礎言明は経験によって正当化されえない――テーブルをた たくことによって正当化できぬのと同様に。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『科学的発見の論理』,第2部 経験の理論の若干の構成要素, 第5章 経験的基礎の問題,29 基礎言明の相対性、フリースの三者択一の解決,pp.130-131, 恒星社厚生閣(1972),大内義一(訳),森博(訳))


科学的発見の論理(上) [ カール・ライムント・ポパー ]



カール・ポパー
(1902-1994)








2021年12月13日月曜日

科学には、相互主観的テスト可能ではない言明は存在しない。真なる言明にまで遡ることで科学を基礎付けようとする方法には、無限後退の困難があるが、演繹結果によるテストにはこの困難はない。各言明は、つねに無限のテスト可能性に向けて開かれている。(カール・ポパー(1902-1994))

相互主観的テスト可能性

科学には、相互主観的テスト可能ではない言明は存在しない。真なる言明にまで遡ることで科学を基礎付けようとする方法には、無限後退の困難があるが、演繹結果によるテストにはこの困難はない。各言明は、つねに無限のテスト可能性に向けて開かれている。(カール・ポパー(1902-1994))



(a)相互主観的テスト可能性
 科学的言明が客観的でなければならぬ、という要求を固 持するとすれば、科学の経験的基礎に属する諸言明もまた客観的、つまり相互主観的にテスト 可能でなければならない。
(b)科学にはテスト不能な言明は存在しない
 なぜなら、そのその言明が理論において意味があるのなら、演繹の連鎖の中で、その言明が前提条件として登場するような、別の言明があることになるが、その言明がテスト可能なら元の言明もテスト可能だからである。
(c)演繹結果によるテストには、無限後退の困難は存在しない
 ある言明が真であるかどうかを、明らかに真である言明にまで遡らせようとする方法論には、無限後退の困難がある。しかし、テストの演繹的方 法は、テストしようとしている言明を確立または正当化しえないし、またそうするつもりもな い。従って、無限後退の困難はない。
(d)無限のテスト可能性について
 しかし、明らかにテストは事実上、無限に遂行することはできない。これは問題ないのか。問題ない。なぜなら、無限のテスト可能性の要求は、受容れられるに先立って実際にテストされてしまっていなければ ならぬという条件とは異なるからである。


「経験的基礎の問題にたいするわれわれの最終的な答えがどんなものであるにせよ、次の一 事は明らかなはずである。すなわち、科学的言明は客観的でなければならぬ、という要求を固 持するとすれば、科学の経験的基礎に属する諸言明もまた客観的、つまり相互主観的にテスト 可能でなければならないということ、これである。相互主観的なテスト可能性とは、テストさ れるべき言明から他のテスト可能な言明が導きだせることを意味する。したがって、もし基礎 言明が立替って相互主観的にテスト可能にならなければならぬとすれば、科学においては 究極的な言明はありえない。すなわち、科学にはテストすることのできぬいかなる言明も ありえない。それゆえ、それらの言明から導出されうる諸結論のあるものを反証することに よって、原理上、論破することのできぬ言明はひとつもないのである。  こうして、われわれは次のような見解に達する。諸理論の諸体系は、それから普遍性のレベ ルのより低い言明を演繹することによってテストされる。それらの言明は、相互主観的にテス ト可能であるはずのものだから、翻ってまたそれ自体が同様の仕方でテスト可能でなければな らない。――これが無限に続いていく。  この見解は無限後退に導くものであり、それゆえ支持しがたいものだと考えられるかもしれ ない。第1節で帰納を批判したさい、私は帰納が無限後退をもたらすものだという反論を提起 した。ところが、それとまったく同じ批判が私の提唱する演繹的テストの手続にたいしてもあ てはまる、と読者は思うかもしれない。しかし、そうはならないのである。テストの演繹的方 法は、テストしようとしている言明を確立または正当化しえないし、またそうするつもりもな いのだ。だから、そこには無限後退の危険はない。しかし私が注意を喚起した状況――無限 のテスト可能性、およびテストの必要のない究極的言明は存在しないということ――が、 ある問題を生みだすことは認めなければならない。なぜなら、明らかにテストは事実上、無限に遂行することはできないからである。遅かれ早かれ、われわれは中止せざるをえな い。ここではこの問題を詳しく論じないで、次のことを指摘するだけにとどめたい。すなわ ち、テストをいつまでも続けていけないという事実は、すべての言明がテスト可能でなければ ならないという私の要求と矛盾するものではない、ということである。なぜなら、すべての科 学的言明は、それが受容れられるに先立って実際にテストされてしまっていなければ ならぬ、と私は要求しているのではないからである。私はただ、すべての科学的言明はテスト されうるものでなければならない、と要求しているだけなのである。いいかえれば、 テストすることが論理的理由から可能とは思われぬというただそれだけのことで、あきらめ て、真として受容れなければならない言明が科学には存在するのだという見解を、私は拒否す るのである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『科学的発見の論理』,第1部 科学の論理序説,第1章 若干の 基本的諸問題の検討,8 科学的客観性と主観的確信,pp.57-58,恒星社厚生閣(1972),大内義 一(訳),森博(訳))

科学的発見の論理(上) [ カール・ライムント・ポパー ]


カール・ポパー
(1902-1994)









いかに確実に思える経験でも科学的事実ではなく、相互主観的テストが必要な仮説に過ぎない。従って、科学における客観性を確実な経験によって基礎付けようとする理論は、誤りである。(カール・ポパー(1902-1994))

確実に思える経験と科学的事実

いかに確実に思える経験でも科学的事実ではなく、相互主観的テストが必要な仮説に過ぎない。従って、科学における客観性を確実な経験によって基礎付けようとする理論は、誤りである。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)いかに確実に思える経験でも科学的事実ではない
 確信の感情がいかに強烈であっても、それは言明をけっして正当化しえない。たとえば、私は、ある言明の真実性をまったく確信できる。私の知覚の明証は確かである。私の経験の強烈さは圧倒的だ。一切の疑 いは私には馬鹿らしく思える。しかし、このことは科学にたいして私の言明を受容れさせる理由にはならない。
(b)経験を表示する言明は心理学的な仮説
 経験を表示する言明(我々の知覚を叙述している言明、プロトコル文とも呼ばれるれる)は、科学においては心理学的言明であり、相互主観的テストが必要な仮説に過ぎない。
(c)経験への還元主義は誤りである
 従って、科学的言明の客観性を、経験を表示する言明に還元することによって基礎付けようとする理論は、誤りである。



「ここで、前節でとりあげられた問題点、つまり主観的経験または確信の感情は、けっして 科学的言明を正当化しえず、また科学の内部において経験的(心理学的)研究の対象として以 外のいかなる役割をも演じえないという私のテーゼ、に立ちもどろう。確信の感情がいかに強 烈であっても、それは言明をけっして正当化しえない。たとえば、私は、ある言明の真実性を まったく確信できる。私の知覚の明証は確かである。私の経験の強烈さは圧倒的だ。一切の疑 いは私には馬鹿らしく思える。しかし、このことは科学にたいして私の言明を受容れさせる理 由をいささかでも提供するであろうか。カール・ポパーが真なることを確信しているという事 実によって、なんらかの言明が正当化されうるであろうか。答は「否」である。これ以上のど んな答も、科学的客観性の観念と両立しえまい。私がこの確信感情を経験しているという事実 は、私にとってはきわめて堅固に確立されているにしても、客観的な科学の分野の内部では 心理学的仮説(もちろん相互主観的テストを要する)の形においてしかあらわれえな い。私がこの確信感情をもっているということから推測して心理学者は、心理学的その他の理 論の助けをかりて、私の行動について一定の予測を導きだせよう。そしてそれらの予測は実験 的テストの過程で裏付けられ、あるいは反駁されるかもしれぬ。しかし認識論の観点からすれ ば、私の確信感情が強いか弱いか、それが疑いをいれぬ確実性(あるいは「自己明証」)の強 いあるいは抗しがたい印象からきたのか、たんに疑わしい憶測からのものであるかということ は、まったくかかわりのないことである。いずれにしても、それらのことは科学的言明がいか にして正当化されうるかという問題には、いささかの意義ももたない。  このような考察は、もちろん、経験的基礎の問題に回答を提供するものではない。しかし、 少なくとも、問題の主な難所がどこにあるかを理解する助けになる。他の科学的言明にたいす るのと同じく、基礎言明にたいする客観性の要求において、われわれは科学的言明の真理性を われわれの経験に還元させようとするいかなる論理的手段をもみずから拒否する。さらにわれ われは、経験を表示する言明――われわれの知覚を叙述している言明(それらは時として「プロ トコル文」とよばれる)のごとき――に、いかなる特権的地位をも与えてはならない。これらの ものは、科学においては心理学的言明としてのみあらわれるのであって、このことは(心理学 の現状から考えて)相互主観的テストの基準が非常に高いとは明らかにいえない種類の仮説と してしか通用しないことを意味する。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『科学的発見の論理』,第1部 科学の論理序説,第1章 若干の 基本的諸問題の検討,8 科学的客観性と主観的確信,pp.56-57,恒星社厚生閣(1972),大内義 一(訳),森博(訳))

科学的発見の論理(上) [ カール・ライムント・ポパー ]


カール・ポパー
(1902-1994)








2021年12月12日日曜日

(1)知識の究極的根源は存在しない、(2)事実との一致、(3)観察結果との一致、内部無矛盾性、(4)知識の源泉としての伝統、(5)批判的検討、(6)知識の進歩、(7)誤謬や虚偽は知ることができる、(8) 観察も理性も権威ではない、(9)明瞭さと精密さは異なる、(10) 世界の謎(カール・ポパー(1902-1994))

科学的方法

(1)知識の究極的根源は存在しない、(2)事実との一致、(3)観察結果との一致、内部無矛盾性、(4)知識の源泉としての伝統、(5)批判的検討、(6)知識の進歩、(7)誤謬や虚偽は知ることができる、(8) 観察も理性も権威ではない、(9)明瞭さと精密さは異なる、(10) 世界の謎(カール・ポパー(1902-1994))


(1)知識の究極的根源は存在しない
 知識の究極的根源など存在しない。事実かどうかが問題なのであって、情報の根源(出所)が問題なのではない。
(2)事実との一致
 言明が事実と一致しているかどうか、直接テストしたり、その諸帰結をテストする。
(3)観察結果との一致、内部無矛盾性
 典型的な手続きは、観察結果との一致を確認したり、内部に相互の矛盾がないかの確認したりする。
(4)知識の源泉としての伝統
 知識の重要な源泉は、伝統である。知識の内容だけでなく、知識の習得方法や態度なども、伝統を通じて獲得される。
(5)批判的検討
 伝統が無ければ知識の習得があり得ないにもかかわらず、全ての知識は批判的検討に対して開かれており、その結果、放棄されることもあり得る。
(6)知識の進歩
 知識の進歩は、主として、それ以前の知識の修正によって成り立つ。観察から始まるのではない。白紙から始まるのでもない。
(7)誤謬や虚偽は知ることができる
 真理の基準は、われわれの手の内にはない。しかし、誤謬や虚偽を認知させてくれるような規準がある。不明瞭や混乱、不整合や矛盾である。
(8) 観察も理性も権威ではない
 観察も理性も権威ではない。知的直感や想像力も非常に重要であるが、真理の決め手ではない。真理の基準は、われわれの手の内にはない。
(9)明瞭さと精密さは異なる
 明瞭さはそれ自体価値のあるものであるが、精密さや正確さはそうではない。すなわち、われわれの問題が要求する以上に正確であろうとしても意味がない。
 言語上の正 確さというのは妄想であり、ことばの意味や定義に関わる問題は重要でない。ことばが有意義なのは理論構成の道具としてだ けである。
(10) 世界の謎は汲み尽くされることはない


「さて、以上の議論の認識論的帰結を整理しておくべき段階に達しているように思う。以下 それらを10のテーゼの形で述べてみよう。  1、知識の究極的根源など存在しない。どのような根拠、どのような提案も提示されてよい が、どのような根拠、どのような提案も、批判的検討を受けなくてはならない。歴史の場合を 除いて、われわれは通常、事実そのものを検討するのであって、その情報の根源(出所)を検 討するのではない。  2、関わるべき認識論の問題は、根源に関するものではない。むしろ、われわれは、なされ た言明が真であるか否か――すなわち、その言明が事実と一致しているか否か――を問う。(事実 に対応しているという意味での客観的真理という概念を、矛盾に陥ることなく操作しうること は、アルフレッド・タルスキーの労作によって示されている。)そして、われわれは、言明そ のものを検討したりテストしたりすることによって、すなわち、直接にか、あるいはその諸帰 結かを検討し、テストすることによって、できるかぎり、この一致ないし対応を見出そうとす るのである。  3、こうした検討に関しては、あらゆる種類の議論が関係してくるであろう。その典型的な 手続は、われわれの論理が観察結果と矛盾していないかどうかを調べることである。しかし、 また、たとえばわれわれの歴史資料(根源)が相互に内的に無矛盾であるかどうかを調べるこ ともできる。  4、量的かつ質的に、われわれの知識のはるかに重要な源泉と言えば、それは――生得の知識 を別にすれば――伝統である。われわれの知っている事柄の大部分は、範例を示されたり、こと ばで教えられたり、あるいは、批判のしかたや、その批判の受けとりかたや、真理に対する敬 意の払いかたを学んだりすることによって習得したものである。  5、われわれの知識の根源のほとんどが伝統に由来するという事実は、反伝統主義を無益の わざと見なす。しかし、この事実が伝統主義的な態度を支持するものと考えられてはならな い。われわれの伝統的な知識の一つ一つ(さらにはわれわれの生得的知識さえも)が、批判的 検討に対して開かれており、その結果、放棄されることもありうるのである。にもかかわら ず、伝統がなければ、知識は不可能となろう。  6、知識は無から――白紙の状態から――出発するものでもなければ、観察から出発するのでも ない。知識の進歩というものは、主として、それ以前の知識の修正によって成り立つ。時に は、たとえば考古学においては、偶然の観察によって知識が進展することがあるけれども、その発見の意義は、通常、それによってそれ以前の理論を修正できるかどうかによって決まるの である。  7、悲観的な認識論も、楽天的な認識論も、ともに同じくらい間違っている。プラトンの悲 観的な洞窟の比喩は真理であるが、その楽天的な想起説はそうでない(たとえすべての人間 が、他のすべての動物とか、場合によってはすべての植物と同様に、生得的な知識を所有して いるということを認めるとしても)。なるほど見かけの世界は、洞窟の壁に映った単なる影の 世界なのであろうが、しかし、われわれは、すべて不断にその世界を超え出ようと努めてい る。デモクリストが言ったように、真理は奥深く隠されているものであるが、われわれはその 深みへさぐりを入れることができる。真理の基準は、われわれの手の内にはない。そして、そ の事実がペシミズムを支えている。しかし、われわれには、《運さえよければ》、誤謬や虚偽 を認知させてくれるような規準がある。明瞭性や判然性は真理の基準ではないが、不明瞭や混 乱のような事柄は誤りのしるしで《ありえよう》。同様にして、整合性があるからといって真 理が確定するわけではないけれども、不整合や矛盾があれば虚偽が確定する。そして、それら が認識されたときには、われわれ自身の間違いがおぼろげながらも赤信号となり、われわれが 洞窟の闇から手さぐりで抜け出す手助けになってくれるのである。  8、観察も理性も権威ではない。知的直感や想像力は非常に重要であるが、それらも頼りに ならない。それらは事物を極めて明白に示してくれるだろうが、われわれを過たせもする。そ れらはわれわれの理論の主たる根源として不可欠ではあるが、われわれの理論の大部分は、と もかくも真理であるとは言えない。観察と理性能力、さらには直感と想像力の、最も重要な機 能は、われわれが未知の事柄をさぐる際の手段となるような、思い切った推測を批判的に検討 するのに役立つということである。  9、明瞭さはそれ自体価値のあるものであるが、精密さや正確さはそうではない。すなわ ち、われわれの問題が要求する以上に正確であろうとしても意味がないのである。言語上の正 確さというのは妄想であり、ことばの意味や定義に関わる問題は重要でない。だから既述の観 念表(33ページ)は、その対称性にもかかわらず、重要な半分と重要でない半分に分たれ る。」

(33ページ、再掲)
        観念(IDEAS)
指示記号          陳述
ないし名辞      ないし判断
ないし概念      ないし命題
     が表現されるのは
語                      断定文
     によってであり、これらは
有意味              真
     であり得、その
意味                  真理
     は、
定義                  導出
     という手段を介して、
未定義概念      原始命題
     の意味ないし真理へ還元し得る。
     こうした方法によって、
意味                 真理      を還元しようとせず、むしろこれらを確定しようとする試みは、無限後退に陥る。

 「すなわち、左側(ことばとその意味)が重要でないのに対して、右側(理論とその真偽に 関わる諸問題)のほうは全部重要なのである。ことばが有意義なのは理論構成の道具としてだ けであって、ことばの問題は万難を排して回避すべきである。  10、一つの問題を解決しても、必ず未解決の問題が生じてくる。そうであればあるほど、元 の問題は深みを増し、その解決は一層大胆になる。われわれが世界について学べば学ぶほど、 われわれの学問が深くなればなるほど、自分の知らないことに関するわれわれの知識、すなわ ち自己の無知に関する知が、もっと意識され、明細になり、はっきりしてくるであろう。なぜ なら、このこと――すなわち、われわれの知識は有限でしかありえないのに、われわれの無知は 必然的に果てしがないという事実――こそ、われわれの無知の主たる根源なのだからである。」 

(カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,序章 知識と無知の源泉について,16,pp.48-50,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))

カール・ポパー
(1902-1994)









社会の経済組織が社会的制度の歴史的発展にとって基礎的であるという主張は、真理の一面を捉えている。しかし同時に、ある種の思想、我々の知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。(カール・ポパー(1902-1994))

実在するものとしての思想

社会の経済組織が社会的制度の歴史的発展にとって基礎的であるという主張は、真理の一面を捉えている。しかし同時に、ある種の思想、我々の知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)社会の経済組織、すなわち自然との 物質交換の組織が、あらゆる社会的制度の歴史的発展にとって基礎的であるという主張は概ね正しいが注意すべき点がある。
(b)ある種の思想、我々の知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理 的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。
(c)思考実験:あらゆる機械やあらゆる社会的組織も含めて、我々の経済体制が、ある日壊滅させられたと想像せよ。だがしかし技術上の知識、科学上の知識が保存されたと想像してみよ。
(d)思考実験:一方で、これらの事柄についてのすべての知識が消滅し、物質的なものは保存され たと想像してみよ。


「第二は経済学主義(もしくは「唯物論」)であり、社会の経済組織、われわれと自然との 物質交換の組織が、あらゆる社会的制度、特に制度の歴史的発展にとって基礎的であるという 主張である。私の信じるところでは、この主張は、「基礎的」という用語が日常的な漠然とし た意味で受け取られ、過度に強調されることがない限り、完全に健全である。換言すれば、実 際上あらゆる社会研究は、制度的な研究であるにせよ歴史的な研究であるにせよ、社会の「経 済的諸条件」を顧慮に入れて遂行されるならば、有益なものになりうることには何の疑問も挟 みようがないのである。数学のような抽象的科学の歴史でさえ例外ではない。この意味で、マ ルクスの経済学主義は社会科学の方法に極めて価値のある前進を示していると言えるのであ る。  しかし、私が前に言ったように、われわれは「基礎的」という用語をあまり重大に受けとるべきではない。マルクス自身は疑いもなくそうしたのである。マルクスはヘーゲル主義の下で 育ったから、「実体」と「現象」との古代の区別、またそれに対応している「本質的」なもの と「偶然的」なものとの区別によって影響されていた。マルクスは、自分がヘーゲル(そして カント)に加えた改良は、「実体」を(人間の物質交代を含む)物質界と同一視したこと、そ して「現象」を思想や理念の世界と同一視したことにある、と見がちであった。それゆえ、す べての思想や観念は、基礎になっている本質的な実体、すなわち経済的諸条件に還元されて説 明されねばならないということになろう。こうした哲学的見解が他の何らかの形態の本質主義 より格段に優れているわけではないのは確かである。そしてそれが方法の領域に及ぼす効果 は、経済学主義の過度の強調とならざるをえないのである。なぜなら、《マルクスの経済学主 義の一般的重要性はいくら評価してもまず評価しきれるものではないが、個々の特殊的な事例 では、経済的諸条件の重要性が過大に評価されやすいからである》。経済的諸条件についての ある知識は、例えば数学の問題史にかなり寄与するであろうが、しかし数学の問題の知識その ものの方が、こうした目的にとってははるかに重要である。つまり、数学上の問題の「経済的 背景」にいっさい言及せずとも、十分に行き届いた数学の問題史を著述することさえ可能なの である(私見によれば、科学の「経済的諸条件」もしくは「社会的諸関係」というのは、すぐ 使いすぎになって陳腐に堕しやすいテーマである)。  しかし、これは、経済学主義を過度に強調する危険の矮小な例でしかない。経済学主義は、 しばしば十把一からげにされて、すべての社会的発展は経済的諸条件の発展とりわけ物理的生 産手段の発展に依存するのだ、という学説であると解釈されている。しかしこうした学説は明 白に誤りである。経済的諸条件と思想には相互作用が存在するのであって、単純に後者が前者 に一面的に依存するのではない。それどころか、われわれは、以下の考察から知ることができ るように、ある種の思想、われわれの知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理 的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。あらゆる機械やあらゆる社会的組織 も含めて、われわれの経済体制がある日壊滅させられたと、だがしかし技術上の知識は科学上 の知識は保存されたと想像してみよ。こうした場合でも、(多数の人々が餓死してしまった後 で小規模に)経済体制が再建されるまでに相当に長い期間が費やされることはおそらくないで あろう。だが、これらの事柄についての《すべての知識》が消滅し、物質的なものは保存され たと想像してみよ! このことは、未開民族が高度に産業化されてはいるが人々のいなくなっ た国を占領した場合に生じることに等しいであろう。それはすぐさま文明のあらゆる物質的残 存物の完璧な消滅につながるであろう。」
(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第2部 予言の大潮――ヘーゲル、 マルクスとその余波,第15章 経済学的歴史信仰,第3節,pp.102-104,未来社(1980),内田詔 夫(訳),小河原誠(訳))
カール・ポパー
(1902-1994)









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