制度化された諸関係
【(a)権力の不平等性,(b)不平等を隠蔽する仕組み,(c)善の達成の手段,(d)支配と略奪の道具、これらの属性を持つ、一連の持続する制度化された諸関係の中で、人間は、自らの善と他者たちの善の双方を達成する。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】(1)人間は、一連の持続する制度化された諸関係の中で、自己がある立場を占めているのを見出す。
例えば、
(a)家族や家庭
(b)学校
(c)ある実践における師弟関係
(d)地域コミュニティ
(e)より大きな社会
(2)制度化されたネットワークにおいて、自らの善と他者たちの善の双方を達成するためには、以下のことが必要である。
(2.1)つねに、不当な差別や不当な搾取をこうむる可能性と結びついていることを認識する。
(2.2)私たちは、権力の実情に即して生きる術と、それに抗して生きる術の双方を学ぶ必要がある。
(2.3)制度化されたネットワークの諸特性
(a)権力の不平等性
権力は、つねに不平等なしかたで配分されている。
(b)不平等を隠蔽する仕組み
不平等な権力の配分を、隠蔽し保護する巧妙な仕組みを備えている。
(c)善の達成の手段
このネットワークなしには、私も他者たちも、自分たちの善を達成する力を獲得できない。すなわち、開花という私たちの目的を達成するうえで欠かせない手段である。
(d)支配と略奪の道具
同時に、支配と略奪の道具として機能することで、私たちの善の追求をしばしば妨げる。
(e)最悪の状態
与えることと受けとることに対して課せられる諸規則が、権力の諸目的に実質的に従属しているか、さもなければそれらに奉仕させられているような最悪の状態が存在する。
(f)最善の状態
最善の状態とは、与えることと受けとることを律する諸規則が、そこに向けて方向づけられている諸目的に、権力が奉仕しうるようなしかたで、権力の配分が達成された状態である。
「フーコーは、私たちに次のことを気づかせてくれた思想家たちの長い系譜――アウグスティヌス、ホッブズ、およびマルクスは、もっとも著名な彼の先駆者たちである――に連なる最新の思想家にすぎなかった。すなわち、彼らが気づかせてくれたのは、制度化された〈与えることと受けとることのネットワーク〉とは、つねに、権力が不平等なしかたで配分されている社会組織であり、しかも、そのような不平等な権力の配分を隠蔽し保護する巧妙な仕組みを備えた社会組織である、ということである。そうである以上、そのようなネットワークへの参加は、つねに、不当な差別や不当な搾取をこうむる可能性と結びついており、現にしばしばそうした可能性は現実のものとなる。私たちがそのような事実をきちんと認識していない場合、私たちの実践的判断や推論はかなり的外れなものとなってしまうだろう。そうしたネットワークへの参加を通じて、みずからの善と他者たちの善の双方を達成するために私たちが必要とする諸徳は、〔当該社会における〕権力の配分のされかたや、権力の行使が陥りがちな腐敗の諸形態に関する認識を踏まえつつ発揮される場合にのみ、本物の徳として機能するのである。これは私たちの人生全般についていえることだが、この点においてもまた、私たちは権力の実情に即して生きる術と、それに抗して生きる術の双方を学ぶ必要があるのだ。
そういうわけで、家族や家庭、学校やある実践における師弟関係、地域コミュニティやより大きな社会といった、一連の、持続する制度化された諸関係の中で自己がある立場を占めているのを見出すことが、また、ふつうは時の経過とともにその立場が移り変わっていくことが、ヒト〔の生〕に特有の条件である。そして、そのような制度化された諸関係は、二つの様相を呈して現れる。〔すなわち、一方で〕それらは、これまで私が描写してきたような、〈与えることと受けとること〉という種類の諸関係であるかぎりにおいて、それらなしには私も他者たちも自分たちの善を達成する力を獲得できなかったし、そうした力を維持することもできなかった、そうした諸関係である。つまり、それらは、開花という私たちの目的を達成するうえで欠かせない手段である。しかしながら〔他方で〕、それらはまた一般的に、支配と略奪の道具として機能することで私たちの善の追求をしばしば妨げる。そうした既存の権力のヒエラルキーや権力の用途を具体的に表現している諸関係でもあるだろう。
その場合、私たちは概して、そうした二重の性格を備えた社会状況のうちに身を置いていることになる。そして、そのような二重の性格は、私たちの諸々の社会関係の構造を支配し、それらを作動させている諸規則や諸規範を、私たちがあまりにも安易に、「その諸規則」とか「その諸規範」などと呼ぶとき、私たちの目から覆い隠されてしまうものである。ときとして二種類の規則群〔私たちの善の達成に寄与する規則群と、私たちの善の達成を妨げる規則群〕は並存しているだろう。あるいは、同一の規則ないしは規則群が、あるときは一方のしかたで、またあるときは他方のしかたで機能するということもあるだろう。一方の規則群と他方の規則群が真っ向から対立しあっている生活様式もあるだろうし、一方の規則群が他方の規則群に従属させらている、もしくは、吸収されてしまっている生活様式もあるだろう。これら二種類の規則の間の、このように多様で、しばしば変化しつつある関係が反映しているのは、〔個々の規則間の〕大小さまざまな葛藤や闘争のその帰結である。〔その場合〕最悪の帰結とは、与えることと受けとることに対して課せられる諸規則が、権力の諸目的に実質的に従属しているか、さもなければそれらに奉仕させられている状態である。また、最善の帰結とは、与えることと受けとることを律する諸規則がそこにむけて方向づけられている諸目的に権力が奉仕しうるようなしかたで、権力の配分が達成された状態である。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第9章 社会関係、実践的推論、共通善、そして個人的な善,pp.141-143,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:制度化された諸関係,権力の不平等性,不平等を隠蔽する仕組み,善の達成の手段,支配と略奪の道具)
|  | 
 
(出典:wikipedia)
 「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
 「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)
アラスデア・マッキンタイア(1929-)
マッキンタイアの関連書籍(amazon)
 
検索(マッキンタイア)
依存的な理性的動物< 叢書・ウニベルシタス < 法政大学出版局
 

 
 「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。 

 
 「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
 「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」 


 

 
 「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。 

 
 
 
 


 
 
