2019年9月1日日曜日

人間に関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能である。これは、生存する目的を仮定することによる目的と手段による説明であり、原因と結果による因果的説明とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

自然法とは何か

【人間に関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能である。これは、生存する目的を仮定することによる目的と手段による説明であり、原因と結果による因果的説明とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)目的と手段による説明
 (a)生存する目的を前提として仮定する。
 (b)自然的事実:人間に関する、ある単純で自明な諸事実が幾つか存在する。
 (c)法と道徳は、自然的事実に対応する、ある特定の内容を含まなければならない。
  その特定の内容を含まなければ、生存という目的を達成することができないため、そのルールに自発的に服従する人々が存在することになり、彼らは、自発的に服従しようとしない他の人にも、強制して服従させようとする。
(2)原因と結果による説明
 (a)心理学や社会学における説明のように、人間の成長過程において、身体的、心理的、経済的な条件のもとにおいて、どのようなルール体系が獲得されていくかを、原因と結果の関係として解明する。
 (b)因果的な説明は、人々がなぜ、そのような諸目的やルール体系を持つのかも、解明しようとする。
 (c)他の科学と同様、観察や実験と、一般化と理論という方式を用いて確立するものである。

 「われわれがここで提出する単純な自明の真理を考え、またそれらが法や道徳とどのような関係をもつかを考察するにあたって注意しなければならないのは、それぞれの場合についてそこにのべられた事実が、生存という目的が前提された場合、法と道徳はなぜ特定の内容を含まなければならないかの《理由》を示しているということである。この議論のたどる普通の形態は、簡単にいって、そのような内容がなければ、法と道徳は、人々が互いに結合するさいにもつ生存という最小限の目的をも推し進めることはできないであろうということである。この内容がない場合、人々はそのままでは、いかなるルールにも自発的に服従する理由をもたないことになろう。つまり、ルールに従いそれを維持するほうが有利であると思う人々が自発的に最小限の協力をしなければ、自発的に服従しようとはしない他の人を強制することは不可能である。とりわけ強調したいのは、このアプローチにおいては、自然的事実と法的ないし道徳的ルールの内容とが、とくに合理的な関係をもっていることである。というのは、自然的事実と法的ないしは道徳的ルールとがもつこれとはまったく異なった形の関連を探究することも可能であり重要だからである。たとえば、心理学や社会学のようなまだ若い科学は、一定の肉体的、心理的あるいは経済的条件が充足されなければ、たとえば、幼い子供が家族のなかで一定の仕方で食物を与えられ養育されることがなかったならば、法体系や道徳律などというものは、確定されえないということ、あるいは一定のタイプに一致する法だけがうまく機能しうるということを発見するかもしれないし、またすでに発見しているかもしれない。自然条件とルールの体系とがこの種の関係をもつのは《理由》によって媒介されるわけではない。というのは、この種の関係は、一定のルールの存在を、人々がそれを意識的な目的ないし目標にしていることに関連づけるものではないからである。幼年時代に一定の仕方で食物を与えられるということは、人々が道徳律あるいは法を発展あるいは維持させる必要条件であり、また《原因》でさえあるということは十分示されるだろうが、しかしそれは、人々がそうする《理由》ではない。そのような因果的な関係は、目標とか意識的目的にもとづく関係とはもちろん矛盾しない。因果的な関係は、実際、目的的関係よりも重要で基本的だと考えられるかもしれないが、それは、この因果的な関係が、自然法の出発点となっている意識的目的、目標を人々がなぜもつかを実際的に説明するからである。しかし、このタイプの因果的説明は、自明の真理にもとづいているのでもなければ、意識的な目的とか目標に媒介されているのでもない。それは、社会学や心理学が、他の科学と同様、観察に、また可能な場合には実験により、一般化と理論という方式を用いて確立するものである。したがってそのような関係は、一定の法的ないしは道徳的ルールの内容を、以下の自明の真理としてのべる事実に結びつける関係とは異なっている。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第2節 自然法の最小限の内容,pp.211-212,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:自然法,生存する目的,目的と手段による説明,原因と結果による説明,因果的説明)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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政治機構は、人々の能力や資質の現状に適合していなければ、その目的を実現することができない。(1)統治体制の受け容れ、(2)統治体制を守るための能力と行動、(3)統治目的を実現するための能力と行動(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

統治体制と国民の能力、資質

【政治機構は、人々の能力や資質の現状に適合していなければ、その目的を実現することができない。(1)統治体制の受け容れ、(2)統治体制を守るための能力と行動、(3)統治目的を実現するための能力と行動(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
 政治機構は、人々の能力や資質の現状に適合していなければ、その目的を実現することができない。以下の3条件の全てが満たされている必要がある。
(1)統治体制の受け容れ
 特定の統治形態の適用対象となる国民は、それを進んで受け容れていなければならない。あるいは少なくとも、その統治形態を確立するのに克服不可能な障害となる程度にまでは嫌がってはいないことが必要である。
(2)統治体制を守るための能力と行動
 国民は、その統治形態の存続に必要な事物を進んで行わなければならないし、かつ、行えなければならない。例えば、自由な統治に必要な能力と行動は次のようなものである。
 (2.1)公共精神、注意深さ、勇敢さ、勤勉さ
  不適切な例:怠惰、不注意、臆病、公共精神の欠如のために、自由な統治の維持に必要な努力を行えない。
 (2.2)自由の侵害に対する戦い
  不適切な例:自由な統治が直接攻撃されているときに、自由な統治のために戦わない。
 (2.3)欺瞞を見破る知性
  不適切な例:国民を自由な統治から逸脱させようとして使われる欺瞞に、国民がのせられてしまう。
 (2.4)専制や独裁から国民の主権を守る
  不適切な例:国民が、一時的な落胆やパニックのために、あるいは一個人に対する発作的熱狂のために、大人物の足下に自分たちの自由を投げだしてしまう。あるいは、制度を転覆できるような権力をその人物に委ねたりする。
(3)統治目的を実現するための能力と行動
 国民は、その統治形態の目的を達成するために国民に求められる物事を進んで行わなければならないし、かつ、行えなければならない。例えば、不適切な例は次のとおりである。
 (3.1)国民の義務の履行
  不適切な例:統治形態によって求められている義務を果たすのに消極的であり、その能力を欠いている。
 (3.2)法と統治への共感と法の遵守
  不適切な例:法に共感を持ち法の執行に進んで協力するのではなく、法に公然と背く人々よりも、法の執行者を邪悪な敵とみなす。
 (3.3)統治体制への関心と適切な投票
  不適切な例:選挙人の大半が、自分たち自身の統治体制に無関心なために投票しない。
 (3.4)公的な根拠に基づいた投票
  不適切な例:投票はするにしても、公的な根拠にもとづいて投票せずに、買収されて投票したり、自分を支配している人とか、私的な理由で機嫌をとりたいと思っている人の言いなりになって投票したりする。
 「他方、政治機構はひとりでには動かない、ということにも留意すべきである。最初に人間が作るのだから、人間が動かさねばならない。しかも、ふつうの人間がである。政治機構に必要なのは人々の服従だけではなく人々の活発な参加だから、政治機構は人々の能力や資質の現状に適合していなければならない。これは、三つの条件を含意している。〔第一に〕特定の統治形態の適用対象となる国民は、それを進んで受け容れていなければならない。あるいは少なくとも、その統治形態を確立するのに克服不可能な障害となる程度にまでは嫌がってはいないことが必要である。〔第二に〕国民は、その統治形態の存続に必要な事物を進んで行わなければならないし、かつ、行えなければならない。そして、〔第三に〕国民は、その統治形態の目的を達成するために国民に求められる物事を進んで行わなければならないし、かつ、行えなければならない。ここでの「行う」という語は、作為と不作為の双方を含むと解すべきである。すでに確立している政体を存続させるためには、あるいは、特定の政体を推奨する理由としてその政体ならば達成できるとされている目的を達成するためには、行為や自制の点で必要な条件を国民は満たせなければならない。
 これらの条件すべてが満たされるのであればどれほど望ましい見通しが得られる統治形態であっても、いずれかが満たされていない事例では適合性がない。
 特定の統治形態に対する国民の嫌悪という第一の障害は、理論上、見落としはありえないから、例解は不要だろう。こういう事態は絶えず生じている。」(中略)
 「しかし、ある統治形態を国民が嫌っていないにもかかわらず、おそらくは望んですらいるにもかかわらず、そのための条件〔第二の条件〕を積極的に満たそうとしない、あるいは満たせない、ということもある。統治体制を名目的にでも存続させるのに必要な物事ですら、国民が行えないこともあるだろう。国民が自由な統治を選好しているとしても、自由にまったく不向きなときがある。怠惰、不注意、臆病、公共精神の欠如のために、自由な統治の維持に必要な努力を行えない、自由な統治が直接攻撃されているときに自由な統治のために戦わない、あるいは、国民を自由な統治から逸脱させようとして使われる欺瞞に国民がのせられてしまう場合がそうである。国民が、一時的な落胆やパニックのために、あるいは一個人に対する発作的熱狂のために、大人物の足下に自分たちの自由を投げだしてしまったり、制度を転覆できるような権力をその人物に委ねたりする場合も同様である。こうした国民にとっても、たとえ短期間でも自由な統治を手にするのはよいことだろうが、しかし、彼らが長期にわたって自由な統治を享受する見込みはない。
 さらに、国民が自分たちの統治形態によって求められている義務を果たすのに消極的な場合や、能力を欠いている場合〔第三の条件を満たしていない場合〕もある。」(中略)「劣悪な統治が国民に、法は国民の善以外の目的のために作られていると教え、法に公然と背く人々よりも法の執行者を邪悪な敵とみなすように教えたのである。しかし、こうした精神の習慣がはびこってしまっている人々に責任はないとしても、また、よい統治によってこの習慣が最終的には克服可能だとしても、ともかくこの習慣が存在する限り、以上のような傾向のある国民は、法に共感を持ち法の執行に進んで協力する国民のように、わずかな権力行使で統治するのは不可能である。さらにまた、選挙人の大半が、自分たち自身の統治体制に無関心なために投票しない場合、あるいは、投票はするにしても、公的な根拠にもとづいて投票せずに、買収されて投票したり、自分を支配している人とか私的な理由で機嫌をとりたいと思っている人の言いなりになって投票したりする場合、代議制は無価値であり、暴政や陰謀のたんなる道具になってしまうだろう。そのようにして行われる民主的選挙は、悪政の防止策どころか、悪政の装置の追加部品でしかない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第1章 統治形態はどの程度まで選択の問題か,pp.4-7,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:統治体制,国民の能力・資質,統治体制の受容,統治体制維持能力,統治目的実現能力)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年8月31日土曜日

10.公共政策では、市場や国家や市民社会の役割のような、重要で基礎的な思想をめぐって論争される。なぜなら、この大きな枠組みが個別の認識と、特別な利害関係を考慮した現実的政策に影響を与えるからである。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

公共政策をめぐる戦い

【公共政策では、市場や国家や市民社会の役割のような、重要で基礎的な思想をめぐって論争される。なぜなら、この大きな枠組みが個別の認識と、特別な利害関係を考慮した現実的政策に影響を与えるからである。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))】

公共政策をめぐる戦い
(1)利害関係
 実際には、特別な利害関係を考慮した現実的政策が争われている。
(2)表向きの主張
 表向きの主張では、効率性や公平さに焦点があてられる。すなわち、あくまでも自分たちの利益ではなく、他の人々の利益にもなるという主張がなされる。
(3)枠組み思考の重要性
 市場や国家や市民社会の役割のような、重要で基礎的な思想が、大きな“枠組み作り”を行い、個別の認識は、この枠組みの影響を受ける。

 「不平等の政治学
 ここまで、どのようにしてわたしたちの認識が“枠組み作り”の影響を受けるか説明した。

だから、今日の戦いの多くが不平等の枠組み作りの戦いであることは驚くにあたらない。

美と同じく公平さも、少なくとも多少は見る人の見かたに左右されるし、最上層の人々は、いまのアメリカにおける不平等が公平なものに見えるような、少なくとも許容範囲内のものに見えるような枠組みになっていることを確信したいと思っている。

不公平だと認識されると、職場の生産性に響くおそれがあるだけでなく、不平等を緩和しようとする法律が制定されることにもなりかねないからだ。

 公共政策をめぐる戦いにおいては、特別な利害関係を考慮した現実的政策がどのようなものであろうとも、一般大衆の会話では、効率性や公平さに焦点があてられる。

わたしが政府の役職に就いていたころ、産業への助成金を求める嘆願者が、財源が豊かになるからという理由だけで助成金を求めるのを耳にしたことは一度もない。むしろ、嘆願者は公平という言葉を使って――そして、そうすることがほかの人々の利益にもなるという表現を使って――自分たちの要望を伝えてきた。

 同じことは、アメリカ
で不平等を拡大させた政策についても言える。

“枠組み作り”についての戦いは、まず、わたしたちが不平等をどう見るのか――不平等はどのくらい大きいのか、その原因は何か、どのように正当化できるのか――が焦点となる。

 それゆえ企業のCEO、特に金融部門のCEOは、自分たちの高給は社会に大きな貢献をした成果だから正当化できると主張してきた。このような貢献を続ける意欲を持つには高給が必要だということを、他人に(そして自分自身に)納得させようとしてきた。だからこそCEOの高給は報奨金と呼ばれているのだ。

しかし、金融危機が、そういうCEOの主張はごまかしだということを白日のもとにさらした。4章で触れたように、報奨金という名称の報酬は、とても報奨金と呼べる代物ではなかった。業績がよければ報酬は高くなったが、業績が悪くても報酬は高いままだった。変わったのは名称だけだ。業績が悪いと、報酬の名称は“慰留金”に変えられた。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第6章 大衆の認識はどのように操作されるか,pp.231-232,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
(索引:公共政策をめぐる戦い)

世界の99%を貧困にする経済


(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。
 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。」(中略)「多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。
 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。」(中略)「こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。
 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。
 つまり、労働法コーポレートガバナンス金融規制貿易協定体系化された差別金融政策課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)
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6.放射性廃棄物の管理を難しくする理由(a)毒性が非常に強い。(b)半減期が非常に長い。(c)熱を発生し続けるので、小さく集めて管理できない。(d)化学的性質が違う多くの元素を含むので、処理や保管が難しい。(高木仁三郎(1938-2000))

放射性廃棄物の管理を難しくする4つの理由

【放射性廃棄物の管理を難しくする理由(a)毒性が非常に強い。(b)半減期が非常に長い。(c)熱を発生し続けるので、小さく集めて管理できない。(d)化学的性質が違う多くの元素を含むので、処理や保管が難しい。(高木仁三郎(1938-2000))】

放射性廃棄物の管理を難しくする4つの理由
(a)毒性が非常に強い。
(b)半減期が非常に長い。
(c)熱を発生し続けるので、小さく固めて集めて管理できない。
(d)化学的性質が違う多くの元素を含むので、処理や保管が難しい。

 「放射性廃棄物の特徴は、まず第一に毒性がプルトニウムと同じように非常に強いことです。第二に非常に長生きです。第三に非常にやっかいな特徴として、熱を発生し続けるという、発熱性の問題があります。

廃棄物が熱を発生しなければもう少し処理がしやすいのです。一カ所に固めて置いておけばいいのですが、それができないのは発熱性があるからです。原発から出てくる廃棄物を一つにまとめたら小さくなるという話がありますが、一つにまとめられない。もしまとめたら、そのとたんに内部から溶けていきます。地中に埋める場合でもこの点が問題になります。

 さらに、成分が雑多という第四の特徴があります。成分が雑多というのは、化学的性質が違う多くの元素がからんでくるという意味です。セシウムという元素もあればルテニウム、プルトニウム、ストロンチウムなどの元素もある。

産業廃棄物もやっかいですが、たとえばクロムならクロムの性質をうまく理解してそれにあった器に入れたり化学処理を考えてやればいいのですから、クロムを閉じ込めたり処分することができます。

放射性廃棄物がやっかいなのは、化学的性質を単一に決めることができない点です。学校時代に習った元素の周期律表の端から端までの雑多な元素を含んでいますから、その全部にあった処理方法はなかなかないわけです。それがいろいろなトラブルを起こしてしまう原因です。」

(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第二巻 脱原発へ歩みだすⅡ』反原発、出前します! Ⅳ 核燃料サイクル、pp.387-388)
(索引:放射性廃棄物の管理の困難さ)

脱原発へ歩みだす〈2〉 (高木仁三郎著作集)

(出典:高木仁三郎の部屋
友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ
 「「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
 未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
 まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
 反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々とともにあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向って進めてくれました。幸いにして私は、ライト・ライブリフッド賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うものとしての受賞でした。
 残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期的症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
 後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
 私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。
 泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
 今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向っての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
 いつまでも皆さんとともに
 高木 仁三郎
 世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』未公刊資料 友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ、pp.672-674)

高木仁三郎(1938-2000、物理学、核化学)
原子力資料情報室(CNIC)
Citizens' Nuclear Information Center
認定NPO法人 高木仁三郎市民科学基金|THE TAKAGI FUND for CITIZEN SCIENCE
高木仁三郎の部屋
高木仁三郎の本(amazon)
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ニュース(高木仁三郎)
高木仁三郎 略歴・業績Who's Whoarsvi.com立命館大学生存学研究センター
原子力市民委員会(2013-)
原子力市民委員会
Citizens' Commission on Nuclear Energy
原子力市民委員会 (@ccnejp) | Twitter
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ニュース(原子力市民委員会)

難解な事案を解決するとき、裁判官たちの感ずる拘束を表現する比喩の例:「法全体に内在する新たな法準則」「法の内在的論理に拘束力を持たせる」「法にはそれ固有のある種の生命が認められる」(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法全体に内在する拘束力

【難解な事案を解決するとき、裁判官たちの感ずる拘束を表現する比喩の例:「法全体に内在する新たな法準則」「法の内在的論理に拘束力を持たせる」「法にはそれ固有のある種の生命が認められる」(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(3.3.5)追記。

(3)立法趣旨とコモン・ローの原理
  裁判官は、制定法の立法趣旨、および判例法の基礎に存在するコモン・ローの原理、すなわち政治的権利を根拠に難解な事案を解決し、法的権利を確定する。法的権利は、政治的権利のある種の函数と言えよう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
 (3.1)立法趣旨
  ある特定の制定法ないしは制定法上の条項の「意図」ないし「趣旨」
  (3.1.1)権利は、制定法により創出される。
  (3.1.2)特定の制定法により、如何なる権利が創造されたかが問題となる難解な事案が発生する。
 (3.2)コモン・ローの原理
  判例法上の実定的法準則の「基礎に存し」、あるいはそれへと「埋め込まれた」原理
  (3.2.1)「同様の事例は、同様に判決されるべし」とする原理。
  (3.2.2)一般的法理が具体的に如何なる判決を要請するかが不明確な難解な事案が発生する。
 (3.3)難解な事案において、立法趣旨、コモン・ローの原理が果たしている機能
  (3.3.1)制定法は、法的権利を創出し消滅させる一般的な権能を有する。
  (3.3.2)裁判官は、判例法上の実定的法準則に従う義務が一般的に存在する。
  (3.3.3)政治的権利は、立法趣旨、コモン・ローの原理として表現される。
  (3.3.4)如何なる法的権利が存在するか、如何なる判決が要請されるかが不明確な、難解な事案が発生する。
  (3.3.5)裁判官は、立法趣旨およびコモン・ローの原理を拠り所として、自らに認められている自律性を受容し、難解な事案を解決する。
   (a)裁判官たちは、以前の判決の効力の内実につき意見を異にする場合でさえ、その判決に牽引力が認められることについては意見が一致している。
   (b)裁判官たちは、新たな法を創造していると自覚するときでさえ感ずる拘束を、次のような比喩で表現する。「法全体に内在する新たな法準則」「法の内在的論理に拘束力を持たせる」「裁判官は、法それ自体が純粋に作用するための機関である」「法にはそれ固有のある種の生命が認められる」。
  (3.3.6)したがって法的権利は、政治的権利のある種の函数として定義されることになる。

 立法趣旨  コモン・ローの原理……政治的権利
  ↓      ↓          │
 制定法   判例法上の        │
  │    実定的法準則       │
  ↓      ↓          ↓
 個別の権利 個別の判決………………法的権利


 「裁判官達は、以前の判決が解釈以外の何らかの仕方で、論争の対象となる新たな法準則の定式化に寄与することを認める点では同意しているように思われる。彼らは以前の判決の効力の内実につき意見を異にする場合でさえ、その判決に牽引力が認められることについては意見が一致している。これに対し、ある問題に関してどのような投票を行うべきかを決定する際、立法者はきわめてしばしば背景的倫理や政策上の諸問題にしか関心を払わない。立法者は、その投票が議会の同僚議員のそれと、あるいは過去の議会のそれと矛盾しないことを示す必要はない。しかし裁判官が、このような独立的な性格をもつことは非常に稀である。裁判官は、自己の法創造的判決に対して自ら与える正当化を他の裁判官や公務担当者が過去において下した判決と関連づけようと努めるのが常である。
 事実、有能な裁判官は、彼らの職務を一般的な方法で説明しようとする場合、彼らが新たな法を創造していると自覚するときでさえ感ずる拘束を、そして彼らが立法者であれば適切ではないような拘束を表現するために、何らかの比喩的表現を探そうとする。たとえば彼らは、法全体に内在する新たな法準則を見出したと述べてみたり、政治よりは哲学に属するような方法を通じて、法の内在的論理に拘束力をもたせるとか、裁判官は法それ自体が純粋に作用するための機関であるとか、あるいはたとえ法の生命は論理よりは経験に属するものであっても、法にはそれ固有のある種の生命が認められるなどと述べたりする。ハーキュリーズは、これら周知の比喩や擬人的表現に満足してはならないが、同時にこれらの表現に含まれた最良の法律家へと訴えかける含蓄ある内容を無視するようないかなる司法過程の記述にも満足してはならない。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,B コモン・ロー,木鐸社(2003),pp.139-140,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:法全体に内在する拘束力,法に固有の生命)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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(a)権力の不平等性,(b)不平等を隠蔽する仕組み,(c)善の達成の手段,(d)支配と略奪の道具、これらの属性を持つ、一連の持続する制度化された諸関係の中で、人間は、自らの善と他者たちの善の双方を達成する。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

制度化された諸関係

【(a)権力の不平等性,(b)不平等を隠蔽する仕組み,(c)善の達成の手段,(d)支配と略奪の道具、これらの属性を持つ、一連の持続する制度化された諸関係の中で、人間は、自らの善と他者たちの善の双方を達成する。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(1)人間は、一連の持続する制度化された諸関係の中で、自己がある立場を占めているのを見出す。
 例えば、
 (a)家族や家庭
 (b)学校
 (c)ある実践における師弟関係
 (d)地域コミュニティ
 (e)より大きな社会
(2)制度化されたネットワークにおいて、自らの善と他者たちの善の双方を達成するためには、以下のことが必要である。
 (2.1)つねに、不当な差別や不当な搾取をこうむる可能性と結びついていることを認識する。
 (2.2)私たちは、権力の実情に即して生きる術と、それに抗して生きる術の双方を学ぶ必要がある。
 (2.3)制度化されたネットワークの諸特性
  (a)権力の不平等性
   権力は、つねに不平等なしかたで配分されている。
  (b)不平等を隠蔽する仕組み
   不平等な権力の配分を、隠蔽し保護する巧妙な仕組みを備えている。
  (c)善の達成の手段
   このネットワークなしには、私も他者たちも、自分たちの善を達成する力を獲得できない。すなわち、開花という私たちの目的を達成するうえで欠かせない手段である。
  (d)支配と略奪の道具
   同時に、支配と略奪の道具として機能することで、私たちの善の追求をしばしば妨げる。
  (e)最悪の状態
   与えることと受けとることに対して課せられる諸規則が、権力の諸目的に実質的に従属しているか、さもなければそれらに奉仕させられているような最悪の状態が存在する。
  (f)最善の状態
   最善の状態とは、与えることと受けとることを律する諸規則が、そこに向けて方向づけられている諸目的に、権力が奉仕しうるようなしかたで、権力の配分が達成された状態である。

 
 「フーコーは、私たちに次のことを気づかせてくれた思想家たちの長い系譜――アウグスティヌス、ホッブズ、およびマルクスは、もっとも著名な彼の先駆者たちである――に連なる最新の思想家にすぎなかった。すなわち、彼らが気づかせてくれたのは、制度化された〈与えることと受けとることのネットワーク〉とは、つねに、権力が不平等なしかたで配分されている社会組織であり、しかも、そのような不平等な権力の配分を隠蔽し保護する巧妙な仕組みを備えた社会組織である、ということである。そうである以上、そのようなネットワークへの参加は、つねに、不当な差別や不当な搾取をこうむる可能性と結びついており、現にしばしばそうした可能性は現実のものとなる。私たちがそのような事実をきちんと認識していない場合、私たちの実践的判断や推論はかなり的外れなものとなってしまうだろう。そうしたネットワークへの参加を通じて、みずからの善と他者たちの善の双方を達成するために私たちが必要とする諸徳は、〔当該社会における〕権力の配分のされかたや、権力の行使が陥りがちな腐敗の諸形態に関する認識を踏まえつつ発揮される場合にのみ、本物の徳として機能するのである。これは私たちの人生全般についていえることだが、この点においてもまた、私たちは権力の実情に即して生きる術と、それに抗して生きる術の双方を学ぶ必要があるのだ。
 そういうわけで、家族や家庭、学校やある実践における師弟関係、地域コミュニティやより大きな社会といった、一連の、持続する制度化された諸関係の中で自己がある立場を占めているのを見出すことが、また、ふつうは時の経過とともにその立場が移り変わっていくことが、ヒト〔の生〕に特有の条件である。そして、そのような制度化された諸関係は、二つの様相を呈して現れる。〔すなわち、一方で〕それらは、これまで私が描写してきたような、〈与えることと受けとること〉という種類の諸関係であるかぎりにおいて、それらなしには私も他者たちも自分たちの善を達成する力を獲得できなかったし、そうした力を維持することもできなかった、そうした諸関係である。つまり、それらは、開花という私たちの目的を達成するうえで欠かせない手段である。しかしながら〔他方で〕、それらはまた一般的に、支配と略奪の道具として機能することで私たちの善の追求をしばしば妨げる。そうした既存の権力のヒエラルキーや権力の用途を具体的に表現している諸関係でもあるだろう。
 その場合、私たちは概して、そうした二重の性格を備えた社会状況のうちに身を置いていることになる。そして、そのような二重の性格は、私たちの諸々の社会関係の構造を支配し、それらを作動させている諸規則や諸規範を、私たちがあまりにも安易に、「その諸規則」とか「その諸規範」などと呼ぶとき、私たちの目から覆い隠されてしまうものである。ときとして二種類の規則群〔私たちの善の達成に寄与する規則群と、私たちの善の達成を妨げる規則群〕は並存しているだろう。あるいは、同一の規則ないしは規則群が、あるときは一方のしかたで、またあるときは他方のしかたで機能するということもあるだろう。一方の規則群と他方の規則群が真っ向から対立しあっている生活様式もあるだろうし、一方の規則群が他方の規則群に従属させらている、もしくは、吸収されてしまっている生活様式もあるだろう。これら二種類の規則の間の、このように多様で、しばしば変化しつつある関係が反映しているのは、〔個々の規則間の〕大小さまざまな葛藤や闘争のその帰結である。〔その場合〕最悪の帰結とは、与えることと受けとることに対して課せられる諸規則が、権力の諸目的に実質的に従属しているか、さもなければそれらに奉仕させられている状態である。また、最善の帰結とは、与えることと受けとることを律する諸規則がそこにむけて方向づけられている諸目的に権力が奉仕しうるようなしかたで、権力の配分が達成された状態である。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第9章 社会関係、実践的推論、共通善、そして個人的な善,pp.141-143,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:制度化された諸関係,権力の不平等性,不平等を隠蔽する仕組み,善の達成の手段,支配と略奪の道具)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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依存的な理性的動物叢書・ウニベルシタス法政大学出版局

法や道徳、社会の理論の構築のためには、(a)生存するという目的を仮定する必要がある。この目的は、(b)社会により異なる恣意的、慣習的な諸目的や、(c)人によって異なる特定の諸目的とは、本質的に異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

生存するという目的

【法や道徳、社会の理論の構築のためには、(a)生存するという目的を仮定する必要がある。この目的は、(b)社会により異なる恣意的、慣習的な諸目的や、(c)人によって異なる特定の諸目的とは、本質的に異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(9)追記

 自然を支配している諸法則を考えると、そこには善いものと悪いものを基礎づける何らかの根拠があるようには思えない。このことから、どうあるべきかという言明(価値の言明)は、何が起こっているのかという言明(事実の言明)からは基礎づけられ得ないと考えられた。
 考察するための事例。
 (1)全ての出来事は、自然を支配している諸法則に従っている。
 (2)地球が、自然を支配している諸法則に従って、自転している。
 (3)地球が、自然を支配している諸法則に従って、温暖化している。
 (4)時計が、自然を支配している諸法則に従って、止まっている。
 (5)時計が、自然を支配している諸法則に従って、正確に動いている。
  (a)目的と機能
   時計の目的に従って、時計の諸構造の機能を説明することができる。
  (b)目的は人間が導入した
 (6)どんぐりが、自然を支配している諸法則に従って、腐ってしまう。
 (7)どんぐりが、自然を支配している諸法則に従って、樫の木になる。
   人間は、自然の中に目的を導入し、自然、生命、自らの身体と精神や社会を、目的と機能の言葉で説明する。この目的は、人間が創造できるにもかかわらず、また同時に、何らかの自然の諸法則に基礎を持つ。(ハーバート・ハート(1907-1992))

  (a)目的と機能
   成長して樫の木になることが「目的」だとしたら、この目的のために中間段階が「良い」とか「悪い」と記述することもできるし、どんぐりの諸構造とその変化を、目的のための「機能」として説明することもできる。
  (b)目的は人間が導入した
  (c)目的自体は何らかの自然の諸法則を基礎に持つ
   人間が、説明のために目的を導入したとしても、どんぐりは自ら、自然を支配している諸法則に従って、樫の木になる。目的自体も何らかの自然の諸法則を基礎に持つ。この意味において、目的は、どんぐり自身のなかに含まれていたとも言い得る。
 (8)人間が、自然を支配している諸法則に従って、滅亡する。
 (9)人間が、自然を支配している諸法則に従って、目的を創造し、それを実現する。
  (a)目的と機能
   人間は、自分自身の目的を創造し、それを実現しようとする。健康と病気の区別と、身体の機能および精神の諸機能。善と悪の区別と、社会の機能。
  (b)目的自体は何らかの自然の諸法則を基礎に持つ
   人間は、自ら意識的に目的を創造できるため、なお、目的自体が何らかの自然の諸法則に基礎を持っていることが信じられなかった。すなわち、何が良いか悪いかを決めるのは人間であり、自然を支配している諸法則からは独立しているのだと考えた。しかし、これは誤りである。
  (c)目的
   (c.1)生存すること
    (c.1.1)事実
     たいていの人間は、通常生き続けることを望むという事実がある。しかし、これは単なる偶然的な事実であると反論することができる。
    (c.1.2)仮定としての目的
     人間の法や道徳、すなわち人間が共同していかに生きるべきかを解明するためには、生存することを目的として仮定して理論を構築する。なぜなら、「ここでの問題は生き続けるための社会的取り決めであって、自殺クラブの取り決めではないからである」。
   (c.2)生存以外の諸目的
    生存すること以外の目的、人間にとっての善、人間にとっての特定の良き生き方といったものには、様々な意見があり、意見の深い不一致も存在する。
    (c.2.1)人間が作った、単なる慣習である規則や目的。
     個々の社会に特有のものや、恣意的もしくは単なる選択の問題にすぎないようなものがたくさん見られる。
    (c.2.2)人によって異なる特定の目的。
  (d)目的を実現する手段
   (d.1)危険と安全、危害と利益、病気と治療
    生存という目的を阻害するか、促進するか。生存することが、他の諸目的とは異なる特別な地位にあることは、生存することが、世界や人間相互のことを記述するのに用いる、思考や言語の構造全体に反映されていることから実証できる。
   (d.2)良い、悪い
    生存以外の目的に対しても、目的に役立つかどうかで良い、悪いと語ることができる。
   (d.3)必要と機能
    生存という目的のために「必要」なもの。例えば、食物や休息。目的を実現するための「機能」による説明が可能である。例えば、血液を循環させるのが心臓の機能である。これは、単なる因果的説明とは異なる。

 「さらに、この目的論的な見方の多くは、人間に関するわれわれの考え方ないしは話し方のいくつかに残っている。それは、われわれがある事柄を人間に《必要なもの》と認めて、それを満たすのが《良い》と判断し、また、人間《によって》加えられたり人間がこうむるある事柄を《害悪》であるとか《危害》であると認めるさいに潜在している。たとえば、死にたいという理由から食べたり休息したりするのを拒む人は、たしかにいるかもしれないが、われわれは、食事や休息を、人々が規則的にしたり、あるいは単にたまたま望んだりするよりも、もっとそれ以上のものであると考える。食物や休息は、必要なときにそれを拒む者がいるとしても、やはり人間に必要なものである。こうして、食べて眠ることは、すべての人間にとって自然であると言われるばかりでなく、すべての人間はときどき食べかつ休息すべきであるとか、そうすることは自然にかなった良いことであるとも言われるのである。「自然にかなった」という言葉は、このような人間の行動に関する判断に用いられるのであるが、それは、これらの判断と以下の二つの判断との違いを明示しうる力をもっている。すなわち、思考や反省によって発見されえない内容をもった単なる慣習もしくは人間のつくった規則(「あなたは帽子を脱ぐべきである」)をあらわすにすぎない判断、また、あるときある人が抱き、別の人なら抱かない何か特定の目的を達成するために必要とされるものを単に示すにすぎない判断との違いを明示しうるのである。同じような見方は、身体の器官の《機能》という観念のなかに、また、それと単なる因果的性質とを区別するさいにみられる。われわれは、血液を循環させるのが心臓の機能であるとは言うが、死をひき起こすのがガン腫の機能であるとは言わない。
 これらの粗雑な例は、人間行動に関する普通の考えのなかに、今もなお生きている目的論的な要素を明らかにするために挙げられたのであるが、それは、人間が他の動物と共有する生物学的事実という低い分野から引かれたものである。何がこの種の考え方や表わし方を意味あらしめるかは、まったく自明と言ってよいであろう。すなわちそれは、人間の活動の固有の目的は生き残ることであるという暗黙の前提である。そして、この前提がまた、たいていの人間は通常生き続けることを望むというきわめて偶然的な事実にもとづいている。そうするのが自然になかってよいといわれる行動は、生き残るために必要とされる行動である。人間に必要なもの、害悪、身体の器官あるいは変化の《機能》という観念も同様な単純な事実にもとづいている。もしここで止まるならば、われわれはたしかに、自然法についての非常に薄められた説明しかもたないことになろう。というのは、この見方の古典的な主張者達は、生き残ること(《自己存在の堅持》perseverare in esse suo)を、人間の目的とか人間にとっての善という、それよりずいぶん複雑でまた議論の余地ある概念の中で、もっとも低い次元のものにすぎないと考えたからである。アリストテレスはその概念に、人間知性の公平な要請を含めたし、アクィナスは神に関する知識を含めたが、そのどちらもが将来争われるかもしれないし、またこれまでにも争われてきたような価値を表明している。しかし他の思想家達、なかでもホッブズやヒュームは、すすんでその照準を一段低いところへすえた。つまり彼らは、生存というつつましい目的のなかに、自然法という用語に経験上妥当な意味を与えるところの明白な中心的要素を認めたのである。「人間本性は、個人の結合がなければ決して存在しえない。そしてその結合は、衡平と正義の法に考慮が払われなければ、決して見られなかったであろう。」
 この単純な思想は実際、法と道徳双方の特徴におおいに関係があるのである。しかもこの単純な思想をとり出し、一般的な目的論的見解のより議論の余地ある部分、つまり人間にとっての目的とか善が、ある特定の生き方としてあらわれ、それについて人々の間で事実上深い意見の不一致を招くような部分から、それを分離することが可能なのである。さらに、生存ということに関連して、それは、前もって決められたものであって、人間固有の目標であり目的であるから、人は必ずそれを欲するものであるという考えは、今日の考え方からみると形而上学的にすぎるとして放棄することができる。その代わり、一般に人間が生きたいと思うことは単なる偶然の事実であって、ひょっとするとそうでないかもしれないと考えることができるし、しかも、生存が人間の目標あるいは目的であるという意味は、人間が生存を単に望んでいるという以上に出ないのである。しかし、たとえこのように常識的に考えても、生存ということは、人間行為との関係においても人間行為に関するわれわれの思考においてもやはり特別の地位を占めるのであり、その地位は正当的な自然法理論において生存が重要でしかも必要であるとされていることと相応するのである。というのは、単に大多数の人間がどんな悲惨な目にあっても生きていたいと思うだけでなく、このことが世界や人間相互のことをのべるのに用いる思考や言語の構造全体に反映されているからである。生きたいという一般の人の願望を除外しては、危険と安全、危害と利益、必要と機能、病気と治療というような概念は意味をなさなくなるであろう。というのは、これらの概念は、目的として受けいれられている生存に役立つかどうかによって、ある事柄を同時に記述し、評価する手段であるからである。
 しかし、人間の法と道徳をめぐる議論にもっと直結したという意味では、生存を目的として受けいれることが必要であるという考えにくらべると、はるかに単純で、はるかに哲学的でない考え方が存在する。われわれは、この議論を進めていくさいに、生存を仮定されたものとして取り扱うことにしよう。というのは、ここでの問題は生き続けるための社会的取り決めであって、自殺クラブの取り決めではないからである。われわれは、これらの社会的取り決めのなかに、理性によって発見できる自然法であると位置づけられるようなものがあるかどうか、またそれは、人間の法や道徳とどのような関係をもつのかを知りたいと思う。人間が共同して《いかに》生きるべきかについて、このような、もしくは何かほかの問題を立てるためには、一般的にいって人間の目的は生きることであると仮定しなければならない。この点から出発すれば議論は簡単である。人間本性および人間の住む世界に関するいくつかの非常に明白な一般原則――まさに自明の真理――を熟慮してみると、それらが妥当するかぎり、いかなる社会組織でも、それが存続しようとする以上もたなければならない一定の行為のルールのあることがわかる。このようなルールは、法と慣習的道徳が社会的統制の個別の形態として区別される時点まで進んだあらゆる社会の法と慣習的道徳に、しかも実際には両者に共通の要素となるのである。そのほかに、法と道徳の双方に、個々の社会に特有のものや、恣意的もしくは単なる選択の問題にすぎないようなものがたくさん見られるのである。人間、その自然的環境、目的に関する基本的な真理に基礎をおくこのような普遍的に認められた行為の原則は、自然法の名の下にしばしば提出された、より大げさでより疑わしい理論と比べてみると、自然法の《最小限の内容》と考えられるであろう。次の節において、われわれは、この謙虚だが重要な最小限の内容が拠って立つ人間本性の目立った特徴を、5つの自明の真理といった形で考察しよう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第1節 自然法と法実証主義,pp.208-210,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:生存するという目的)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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政治的な主張においては、具体的な法的・制度的な保障を要求しない、単なる抵抗、蜂起、反乱、革命を求める主張の欺瞞に、注意すること。それは始まらず、始まっても成功せず、成功しても救済策ではない。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

欺瞞的な主張

【政治的な主張においては、具体的な法的・制度的な保障を要求しない、単なる抵抗、蜂起、反乱、革命を求める主張の欺瞞に、注意すること。それは始まらず、始まっても成功せず、成功しても救済策ではない。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(b)追加。

欺瞞的な主張
(a) 政治的な主張においては、結果を伴わない修辞的で一般的な主張の欺瞞に、注意すること。実際に何を得ることができるのか。法的、制度的に何を変更して、何が保障されることになるのかを問うこと。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

(b)政治的な主張においては、具体的な法的・制度的な保障を要求しない、単なる抵抗、蜂起、反乱、革命を求める主張の欺瞞に、注意すること。それは始まらず、始まっても成功せず、成功しても救済策ではない。

 「抵抗が必要であると想定するのは、悪政の存在を想定することであるが、抵抗の保障ということは、人民に抵抗をその弊害に対する救済策だと思わせて、悪政に満足させようともくろまれているに過ぎない。実は、抵抗は決して救済策ではない。その理由には、二つある。第一の理由は、すべての人々は自分の身体と財産を内乱の危険にさらすことを嫌うために、抵抗する以前に非常な悪政に進んで服従することである。しかし、その上、革命は、それが起こった時でさえ、それ自体として何らの利益を生み出しはしない。革命は、善政に対する永久的な保障を樹立するのに貢献する限りにおいてのみ有益なのである。このような効果がないならば、革命のすべての犠牲は、全くの害悪である。それなのに、善政に対する保証に常に懸命に抗議してきた『エディンバラ・レヴュー』は、抵抗の原理を抑圧に対するわれわれの唯一の保障として支持している。それは、なぜであろうか。それは、抵抗の原理が、原理のように思われるその他のすべてのものと同様に、本当は保障にはならないのに、人民の目先のきかない人々の好意を得るようにもくろまれており、しかも貴族階級の臆病な人々以外は驚かせないからである。貴族階級の中で恐怖の余り全く理性を失った人は別として、他の人々はすべて、彼らが恐れる理由のある唯一の抵抗である蜂起の成功が普通の政府の下ではめったに起こらないこと、また、彼らの側にごく普通の慎重さがあるならば大抵の場合起こるのを防ぐことができると知り抜いている。従って、彼らは、人民が効果的ではない救済策に注目を集中して、効果的な救済策から目をそらすことに満足しているのである。
 『エディンバラ・レヴュー』の筆者の政治に関するすべての言辞は、彼らが人民が悪政に対抗する保障を求めることを阻止しようと願っていることを立証している。彼らが或る法律または制度を称賛するのは、それが善政に貢献するからではなく、自由にとって有利だからである。彼らが政府の政策を非難するのは、それが圧政への扉を開くからではなく、それが非立憲的だからである。このような言辞は、すぐあとで明らかにするように、善政の問題をあいまいにしようと欲する人々にとって、極めて便利なのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『「エディンバラ・レビュー」批判』(集録本『ミル初期著作集』第1巻),1 若きベンサム主義者として(1821~26),4 「エディンバラ・レビュー」批判(1824),pp.144-146, 御茶の水書房(1979),杉原四郎(編集),山下重一(編集),山下重一(訳))
(索引:欺瞞的な主張)

J・S・ミル初期著作集〈第1巻〉1809~1829年 (1979年)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月30日金曜日

人間は、社会関係の中に組み込まれ他者に依存した状態から、共通善を理解し、めざすべき未来を他者と共有し、社会関係の形成や維持に寄与する自立した実践的推論者へと成長する。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

自立した実践的推論者

【人間は、社会関係の中に組み込まれ他者に依存した状態から、共通善を理解し、めざすべき未来を他者と共有し、社会関係の形成や維持に寄与する自立した実践的推論者へと成長する。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(1)子ども
 (a)ごく幼い子どもは、誕生する前から、自らが作り上げたわけではない一群の社会関係の中に、組み込まれている。
 (b)子どもは、大人に依存している。
(2)子どもが、自立した実践的推論者になるための諸条件
 (a)言語の獲得と、言語を幅広く多様なしかたで用いる能力を獲得する。
 (b)自らの行動の諸理由を比較衡量する能力を獲得する。
 (c)自分が現在抱いている諸々の要求から距離を置く能力を獲得する。
 (d)ただ現在だけを意識している状態から、想像上の未来をも見通している意識状態へと変化する。
(3)自立した実践的推論者
 (a)自らが参加する社会関係の形成や維持に寄与する。
 (b)自立した実践的推論者たちによる共通善を理解する。
 (c)現在および未来の可能な諸相に関して、ある程度共通の理解が存在する。
 (d)共通善の達成を可能にするような、他者との協力関係を形成・維持する技術を学ぶ。

 「ごく幼い子どもは、その誕生の瞬間から、いやそれどころか誕生する前から、みずからが作り上げたわけではない一群の社会関係の中に組み込まれているし、そうした諸関係によって自己のありようを規定されている。そのような子どもがいずれ到達しなければならない状態とは、一人の自立した実践的推論者たるその人間が、他の自立した実践的推論者たちとの間に、また、〔いまはその子どもが彼らに依存しているのだが〕やがては彼らのほうがその人間に依存するようになる人々との間に、諸々の社会関係をとり結んでいる状態である。自立した実践的推論者は、幼児とは異なり、彼らがそこに参加する社会関係の形成や維持に寄与する。そして、自立した実践的推論者になる術を学ぶということは、自立した実践的推論者たちによる共通善の達成を可能にするような、そうした関係を他者と協力して形成・維持する術を学ぶことである。しかるに、そのような他者と協力しあっておこなう活動は、〔その活動にたずさわる人々の間に〕現在および未来の可能な諸相に関して、ある程度共通の理解が存することを前提としている。
 ただ現在だけを意識している状態から想像上の未来をも見通している意識状態へと変化することが、幼児の状態から自立した実践的推論者の状態への移行に見出される第三の側面である。この能力も、みずからの行動の諸理由を比較衡量する能力や、自分が現在抱いている諸々の要求から距離を置く能力と同様に、言語の獲得と言語を幅広く多様なしかたで用いる力の双方をその要件とする能力である。言語を用いない知的な種のメンバーは、この能力をもちえない。ウィトゲンシュタインはこう述べている。「動物(Tier)が怒っていたり、おびえていたり、悲しんでいたり、喜んでいたり、びっくりしている状態というのは想像できる。だが、希望に満ちた状態というのはどうだろう。そして、そのような状態が想像できないのはなぜだろう」。そして、彼は続けてこう指摘している。イヌは自分の主人がいま玄関にいることは信じることはあっても、自分の主人があさって帰ってくると信じることはないだろう、と。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第7章 傷つきやすさ、開花、諸々の善、そして「善」,pp.100-101,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:自立した実践的推論者,社会関係,共通善)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

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人間は、自然の中に目的を導入し、自然、生命、自らの身体と精神や社会を、目的と機能の言葉で説明する。この目的は、人間が創造できるにもかかわらず、また同時に、何らかの自然の諸法則に基礎を持つ。 (ハーバート・ハート(1907-1992))

目的論的な自然観

【人間は、自然の中に目的を導入し、自然、生命、自らの身体と精神や社会を、目的と機能の言葉で説明する。この目的は、人間が創造できるにもかかわらず、また同時に、何らかの自然の諸法則に基礎を持つ。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

 自然を支配している諸法則を考えると、そこには善いものと悪いものを基礎づける何らかの根拠があるようには思えない。このことから、どうあるべきかという言明(価値の言明)は、何が起こっているのかという言明(事実の言明)からは基礎づけられ得ないと考えられた。
 考察するための事例。
 (1)全ての出来事は、自然を支配している諸法則に従っている。
 (2)地球が、自然を支配している諸法則に従って、自転している。
 (3)地球が、自然を支配している諸法則に従って、温暖化している。
 (4)時計が、自然を支配している諸法則に従って、止まっている。
 (5)時計が、自然を支配している諸法則に従って、正確に動いている。
  (a)目的と機能
   時計の目的に従って、時計の諸構造の機能を説明することができる。
  (b)目的は人間が導入した
 (6)どんぐりが、自然を支配している諸法則に従って、腐ってしまう。
 (7)どんぐりが、自然を支配している諸法則に従って、樫の木になる。
  (a)目的と機能
   成長して樫の木になることが「目的」だとしたら、この目的のために中間段階が「良い」とか「悪い」と記述することもできるし、どんぐりの諸構造とその変化を、目的のための「機能」として説明することもできる。
  (b)目的は人間が導入した
  (c)目的自体は何らかの自然の諸法則を基礎に持つ
   人間が、説明のために目的を導入したとしても、どんぐりは自ら、自然を支配している諸法則に従って、樫の木になる。目的自体も何らかの自然の諸法則を基礎に持つ。この意味において、目的は、どんぐり自身のなかに含まれていたとも言い得る。
 (8)人間が、自然を支配している諸法則に従って、滅亡する。
 (9)人間が、自然を支配している諸法則に従って、目的を創造し、それを実現する。
  (a)目的と機能
   人間は、自分自身の目的を創造し、それを実現しようとする。健康と病気の区別と、身体の機能および精神の諸機能。善と悪の区別と、社会の機能。
  (b)目的自体は何らかの自然の諸法則を基礎に持つ
   人間は、自ら意識的に目的を創造できるため、なお、目的自体が何らかの自然の諸法則に基礎を持っていることが信じられなかった。すなわち、何が良いか悪いかを決めるのは人間であり、自然を支配している諸法則からは独立しているのだと考えた。しかし、これは誤りである。

 「これが、事物はそれ自身のなかに実現すべき高いレベルを含んでいるという、目的論的な自然観である。いかなる種類の事物でも、それに特定ないしは固有の目的に向かって前進するときの諸段階は、規則的なものであり、したがって、その事物の変化、行動、あるいは発展の特徴的な態様を記述するものとして一般的に定式化されよう。そのかぎりで、目的論的な自然観は、近代的な思想と重なりあう。相違点は、目的論的な観点では、事物に対して規則的に起こる出来事が、《単に》規則的に起こると考えられず、また、出来事が《現に》規則的に《起こる》のかどいうかという問題と、起こる《べき》かどうか、つまり起こるのが《よい》のかどうかという問題とが、別々の問題であるとみなされないところにある。これに反して(「偶然」に帰しうるいくらかのまったく稀な場合を除いて)、一般的に起こるものは、その事物の固有の目的あるいは目標に向かう一歩であることを示すことによって、善あるいは起こるべきものと説明されるとともに評価されうるのである。したがってある事物の発展法則は、その事物がどのように規則的に行動あるいは変化すべきか、また現にするかの双方を示さなければならないということになる。
 自然に関するこの思考様式は、抽象的にのべると奇妙におもわれる。もし少なくとも生物に対していまでもわれわれが言及する仕方のいくつかを想い起こすならば、この思考様式は、それほど風変わりなものではないようにおもわれる。というのは、生物の成長を記述する普通の仕方には、今もなお、目的論的な見方がみられるからである。たとえばどんぐりの場合、成長して樫の木になることは、どんぐりによって単に規則的に達成されることであるだけではなく、どんぐりの腐る場合(これもまた規則的である)と違って、成熟という最適状態であるとも認められる。そしてこの最適状態に照らして、中間段階が良いとか悪いとか説明されるとともに、構造的な変化を伴うどんぐりのさまざまな部分の「働き」も確認されるのである。木の葉について言えば、もし「十分な」あるいは「適切な」発育に必要な水分が得られれば、それは正常に成長すべきものである。そしてこの水分を供給するのが木の葉の「働き」なのである。だからわれわれは、この成長を「当然起こるべき」ことであると考え、またそう言うのである。無生物の作用や運動の場合には、それが人間によってある目的のために作られた加工物である場合を除いて、そのような言い回しはどうみてももっともらしくない。石が地面に落ちるさいに、何か適切な「目的」を実現しているとか、馬屋へ駆けて帰る馬のように、その「しかるべき場所」へ帰っていると考えることは、いまでは少しこっけいである。
 実際、目的論的な自然観を理解する困難の一つは、それが、規則的に起こることの陳述と起こるべきことの陳述との相異を軽視したのとまったく同様に、近代的な思想にとって非常に重要な相異、すなわち、自分自身の目的を《もち》それを実現しようと意識的に努力する人間と他の生物もしくは無生物との相異を軽視することである。というのは、目的論的な世界観においては、人間は他の生物と同様、彼に設定された特有の最適状態あるいは目的へと向かう傾向があると考えられており、人間が他の物とは違って、これを意識的に実現するかもしれないという事実は、人間とその他の自然のものとの根本的な相異ではないと考えられているからである。この人間に特有の目的あるいは善は、部分的には他の生物のそれと同様、生物学的成熟および発達した物理的な力の状態である。しかしそれはまた、人間に特有な要素として思考や行動に表わされる知力や性格の発達と卓越さをも含むのである。他の事物と異なり、人間は、このすぐれた知力と性格を身につけることによってもたらされるものを、推論と反省によって発見できるし、また望むこともできる。しかしそれでも、この目的論的な見方によれば、この最適状態は、人間がそれを望んだから人間の善あるいは目的となるのではない。むしろそれがすでに人間の自然の目的であるから、人間はそれを望むのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第1節 自然法と法実証主義,pp.206-208,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:目的論的な自然観)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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31.政治的な主張においては、結果を伴わない修辞的で一般的な主張の欺瞞に、注意すること。実際に何を得ることができるのか。法的、制度的に何を変更して、何が保障されることになるのかを問うこと。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

欺瞞的な主張

【政治的な主張においては、結果を伴わない修辞的で一般的な主張の欺瞞に、注意すること。実際に何を得ることができるのか。法的、制度的に何を変更して、何が保障されることになるのかを問うこと。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

 「「すべての権力は、人民に由来する。」「政府は、人民の一般的同意および暗黙の同意に基づく。」等々。国民がこのような人民主権の言葉の上だけの承認によって全く利益を受けないことは明らかである。それは、人民を善政の獲得にいささかでも近付けない。人民は、善政に対する真実で効果的な《保障》をもつことによってのみ善政を獲得する。しかし、このようなあいまいな言辞は、人民には全く役に立たないとはいえ、ウイッグ党の目的には見事に適合している。その目的とは、貴族階級を驚かさないことと両立する限りにおいて、人民のご機嫌とりをすることである。人民の優位を主張する言い廻しのうまい修辞的な文章は、多くの人民の耳に有難く聞こえるように期待されている。多くの人民は、善政の効果的な保障がどのようなものであるかをよく知らないので、単なる雄弁が全く保障にならないことが分からないのである。貴族階級の方はどうかといえば、結果を伴わない一般的な金言を敵方に与えても全く危険を冒すことはない。彼らの権力と収入は、全くもとのままである。貴族階級が恐れる理由のある唯一のこと――悪政に対する効果的な保障の確立――に対しては、『エディンバラ・レヴュー』は、最初から断固として反対である。もしも人民が人民主権に関する甘い言葉にだまされるとすれば、『エディンバラ・レヴュー』には、いくらでも甘い言葉がある。しかし、もしも人民が何か本物のことを要求するならば――人民が誇りとしている主権によって、《何を得ることができるか》と問うならば――『エディンバラ・レヴュー』は、彼らを財産権の廃止と社会秩序の破壊を望む急進主義者、民主主義者と呼ぶのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『「エディンバラ・レヴュー」批判』(集録本『ミル初期著作集』第1巻),1 若きベンサム主義者として(1821~26),4 「エディンバラ・レヴュー」批判(1824),pp.137-138, 御茶の水書房(1979),杉原四郎(編集),山下重一(編集),山下重一(訳))
(索引:欺瞞的な主張)

J・S・ミル初期著作集〈第1巻〉1809~1829年 (1979年)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月27日火曜日

30.経済的に恵まれている階級に属する人々の信条と伝統的な意見、それに対立する信条、意見の違いを乗り越えた変革を実現させるのは、信条を組織だて合理的に説明しようとする願望と、人間の知性の力である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

啓蒙による変革

【経済的に恵まれている階級に属する人々の信条と伝統的な意見、それに対立する信条、意見の違いを乗り越えた変革を実現させるのは、信条を組織だて合理的に説明しようとする願望と、人間の知性の力である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(4)追加。

(1)伝統的な意見
  単なる信念である伝統的な意見も、人間の自然な要求や必要に関する諸事実を明らかにする。しかし信念は、人間の利己的な利害、諸感情、知性の錯綜物であり、それが真理であるかどうかは別問題である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.1)現在は、単に信じられているだけかもしれないが、最初の創始者たちにとっては、人間が持つある自然な要求や必要に由来する、現実的な何かしらの真理を表現したもののはずである。
 (1.2)信念は、人間の知性と感情との錯綜物であり、ある信念が長く存続したという事実は、少なくともその信念が、人間の精神の何らかの部分に対してある適合性を持っていた証拠である。
(2)伝統的な意見と対立する意見
 (2.1)伝統的な意見は、単なる伝統に従って信じられてきただけであり、真理であるとは限らない。
 (2.2)伝統的な意見は、社会の支配的な階級に属する人たちの、利己的な利害に由来する。
(3)真理は、伝統的な意見とそれに対立する意見の双方にある
   人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、真理の一部をその全体と誤解することである。論争的な問題においては、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.1)それぞれの観点にあまりにも厳格に固執するならば、相手方の真理に目をふさぐことになる。
 (3.2)真理の一部を全体と誤解する誤謬
  人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、虚偽を真理と誤認することであるというよりは、むしろ真理の一部をその全体と誤解することである。
 (3.3)論争における弊害
  社会哲学における論争においては、双方の意見を乗り越えて真理に迫ろうとするよりも、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれる。その結果、ほとんどそのすべての場合において、双方が彼らの否定する点においては誤っているが、彼らの肯定する点においては正当であるというような事態になる。
 (3.4)例として、人類は文明によって、どれほどの利益を得たかという問題
  (3.4.1)経済システムの恩恵と弊害、制約
   (a)物理的な安楽が増大したこと。
   (b.1)人類のきわめて多くの部分が、人為的な必要品の奴隷となり果てていること。
   (b.2)文明国の人民の大多数が、必要物の供給の点で無数の足かせに縛られて悩んでいること。
  (3.4.2)知識の進歩
   (a.1)知識が進歩し普及したこと。
   (a.2)迷信がすたれたこと。
  (3.4.3)文化一般と人間の個性
   (a)礼儀作法が優雅になったこと。
   (b)彼らの性格が、情熱に欠け面白味の無いものとなり、何らの鮮明な個性を持たないものになっていること。
  (3.4.4)交流と独立心
   (a)相互交流が容易になったこと。
   (b)誇り高くして自らを頼む独立心が失われたこと。
  (3.4.5)分業の効果と人間の諸能力
   (a)大衆の協力によって、地球上の至るところに諸々の偉大な事業が成就されたこと。
   (b.1)即座に目的に即応する手段を取りうるか否かによって、己の生存と安全とが刻々に決定されていく原始林の住民の持つ多様な能力に比較して、決まりきった規則に則って、決まりきった仕事を果たすことに生涯を費やすことによって産み出される狭く機械的な理解力。
   (b.2)彼らの生活が、退屈で刺激のない単調なものとなり変わったこと。
  (3.4.6)戦争、個人的闘争と人間の性格
   (a)戦争と個人的闘争とが減少したこと。
   (b.1)個人の精力と勇気とが減退したこと。
   (b.2)彼らが女々しくも苦痛の影をすら避けようとしていること。
  (3.4.7)直接的な圧制から富と社会的地位による支配へ
   (a)強者が弱者の上に及ぼす圧制が、漸次制限されてゆくこと。
   (b)富と社会的地位との甚だしい不平等が、道義的な退廃を醸し出していること。

(4)問題:伝統的な意見と、それに対立する意見の双方を乗り越えて、変革を実現するためには、どうすればよいのだろうか。
 (4.1)経済的に恵まれている階級に属する人々の意見
  大財産の所有者および大財産の所有者と親密な関係にあるすべての階級の大部分は、今の自分の状態を維持するために、伝統的な意見を支持しているものである。
 (4.2)経済的に恵まれている階級の強大な力
  大財産の所有者および大財産の所有者と親密な関係にあるすべての階級の人々は、強大な勢力を持っている。この事実を無視し、彼らを考慮することなく諸問題の解決を図ろうとすることは、愚の骨頂である。
 (4.3)論争や闘争の弊害
  伝統的な意見を否定し、それに対立する意見を、経済的に恵まれている階級の人々に対して主張し、彼らの意見を変えさせることが可能だろうか。
  参照:人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、真理の一部をその全体と誤解することである。論争的な問題においては、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (4.4)啓蒙による変革
  経済的に恵まれている階級に属する人々が、自らの信念である伝統的な意見の一部が誤りであることに気づき、それに対立する意見のうちにある真理の一部を、伝統的な意見の一部として、自ら採用するように導かれるようにする。これ以外の方法に見込みがあるとは思われない。「この進歩を達成するための第一歩は、彼ら自身の現実の信条を組織だて、かつ、それを合理的に説明しようとする願望を、彼らの心に吹き入れることである」。

 「「主よ、われらの敵を啓蒙したまえ」、というのがあらゆる真の〈改革論者〉の祈りでなければならない。彼らの知力を鋭くし、彼らの知覚を鋭敏にし、彼らの推理力に連続性と明晰さとを与えたたまえ。彼らの弱さこそわれわれを不安の念で満たしているのであり、彼らの強さがそうさせているのではない。
 われわれ自身としては、われわれが特殊な意見を持っているからといって、次の事実に気づかないほど盲目となってはいない。すなわち、わが国および他のあらゆるヨーロッパ諸国において、大財産の所有者および大財産の所有者と親密な関係にあるすべての階級の大部分は、主として〈保守的〉であり、また当然そうであることが予期されなくてはならない、という事実がそれである。このように強力な団体が存在しながら、なおもそれが国内において強大な勢力を振るわずにいられるということを想定すること、あるいは、霊的な変革にせよ世俗的なそれにせよ、彼らを問題の外に置いて重要な変革を企てることは、愚の骨頂であるだろう。そのような変革を望む人は、すべからく次のことを自問すべきである。すなわち、われわれは、これらの階級がひとり残らず団結して、自分たちに反対し、かつまたいつまでもそうし続けることに甘んじていられるだろうか、と。また、一つの準備過程がほかならぬこれらの階級の人びとの心中に進行しない限りは、そしてその準備過程も、彼らを〈保守主義者〉から〈自由主義者〉に転向させるという実行不可能な方法によって促されるのではなく、彼らが〈保守主義〉自体の一部として次々と自由主義的な意見を採用するように導かれるという方法によるものでない限りは、われわれはいかなる進歩の実をあげる見込みがあるであろうか、またいかなる方法によって進歩をもたらしえようか、と。この進歩を達成するための第一歩は、彼ら自身の現実の信条を組織だてかつそれを合理的に説明しようとする願望を彼らの心に吹き入れることである。したがって、この第一歩を踏み出そうとする最も微力な試みでさえ、本質的な価値を持つのである。そうだとすれば、コウルリッジの哲学のように、道徳的善と真の洞察との二つながらをきわめて多く包含している試みが、なおさら貴重な価値を持つものであることは、改めて言うまでもないことである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『コウルリッジ』(集録本『ベンサムとコウルリッジ』),pp.216-217,みすず書房(1990),松本啓(訳))
(索引:啓蒙による変革,伝統的な意見,論争や闘争の弊害)

OD>ベンサムとコウルリッジ


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月26日月曜日

29.人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、真理の一部をその全体と誤解することである。論争的な問題においては、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

真理の一部をその全体と誤解すること

【人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、真理の一部をその全体と誤解することである。論争的な問題においては、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3)追記。

(1)伝統的な意見
  単なる信念である伝統的な意見も、人間の自然な要求や必要に関する諸事実を明らかにする。しかし信念は、人間の利己的な利害、諸感情、知性の錯綜物であり、それが真理であるかどうかは別問題である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.1)現在は、単に信じられているだけかもしれないが、最初の創始者たちにとっては、人間が持つある自然な要求や必要に由来する、現実的な何かしらの真理を表現したもののはずである。
 (1.2)信念は、人間の知性と感情との錯綜物であり、ある信念が長く存続したという事実は、少なくともその信念が、人間の精神の何らかの部分に対してある適合性を持っていた証拠である。
(2)伝統的な意見と対立する意見
 (2.1)伝統的な意見は、単なる伝統に従って信じられてきただけであり、真理であるとは限らない。
 (2.2)伝統的な意見は、社会の支配的な階級に属する人たちの、利己的な利害に由来する。
(3)真理は、伝統的な意見とそれに対立する意見の双方にある
 (3.1)それぞれの観点にあまりにも厳格に固執するならば、相手方の真理に目をふさぐことになる。
 (3.2)真理の一部を全体と誤解する誤謬
  人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、虚偽を真理と誤認することであるというよりは、むしろ真理の一部をその全体と誤解することである。
 (3.3)論争における弊害
  社会哲学における論争においては、双方の意見を乗り越えて真理に迫ろうとするよりも、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれる。その結果、ほとんどそのすべての場合において、双方が彼らの否定する点においては誤っているが、彼らの肯定する点においては正当であるというような事態になる。
 (3.4)例として、人類は文明によって、どれほどの利益を得たかという問題
  (3.4.1)経済システムの恩恵と弊害、制約
   (a)物理的な安楽が増大したこと。
   (b.1)人類のきわめて多くの部分が、人為的な必要品の奴隷となり果てていること。
   (b.2)文明国の人民の大多数が、必要物の供給の点で無数の足かせに縛られて悩んでいること。
  (3.4.2)知識の進歩
   (a.1)知識が進歩し普及したこと。
   (a.2)迷信がすたれたこと。
  (3.4.3)文化一般と人間の個性
   (a)礼儀作法が優雅になったこと。
   (b)彼らの性格が、情熱に欠け面白味の無いものとなり、何らの鮮明な個性を持たないものになっていること。
  (3.4.4)交流と独立心
   (a)相互交流が容易になったこと。
   (b)誇り高くして自らを頼む独立心が失われたこと。
  (3.4.5)分業の効果と人間の諸能力
   (a)大衆の協力によって、地球上の至るところに諸々の偉大な事業が成就されたこと。
   (b.1)即座に目的に即応する手段を取りうるか否かによって、己の生存と安全とが刻々に決定されていく原始林の住民の持つ多様な能力に比較して、決まりきった規則に則って、決まりきった仕事を果たすことに生涯を費やすことによって産み出される狭く機械的な理解力。
   (b.2)彼らの生活が、退屈で刺激のない単調なものとなり変わったこと。
  (3.4.6)戦争、個人的闘争と人間の性格
   (a)戦争と個人的闘争とが減少したこと。
   (b.1)個人の精力と勇気とが減退したこと。
   (b.2)彼らが女々しくも苦痛の影をすら避けようとしていること。
  (3.4.7)直接的な圧制から富と社会的地位による支配へ
   (a)強者が弱者の上に及ぼす圧制が、漸次制限されてゆくこと。
   (b)富と社会的地位との甚だしい不平等が、道義的な退廃を醸し出していること。

 「人間と社会との研究家で、しかもそのように困難な研究にとっての第一要件、すなわちその研究にともなうもろもろの困難についてのしかるべき認識、を備えている人は皆、絶えずつきまとう危険は、虚偽を真理と誤認することであるというよりはむしろ真理の一部をその全体と誤解することである、ということを知っているはずである。社会哲学における、過去または現在の、主な論争は、ほとんどそのすべての場合において、双方が彼らの否定する点においては誤っているが、彼らの肯定する点においては正当であるということ、また、いずれの側にせよ、そもそも己の見解の上に相手の見解を加味することができたならば、その教説を完全なものにするためには、それ以上にほとんど何ものをも要しなかったであろうということ、以上のことは、まず間違いなく主張しうるところであると言ってよいだろう。人類は文明によってどれほどの利益を得たかという問題を例にとってみるがよい。ある観察者は、物理的な安楽が増大したこと、知識が進歩し普及したこと、迷信がすたれたこと、相互交流が容易になったこと、礼儀作法が優雅になったこと、戦争と個人的闘争とが減少したこと、強者が弱者の上に及ぼす圧制が漸次制限されてゆくこと、大衆の協力によって地球上のいたるところにもろもろの偉大な事業が成就されたこと、以上のことによって強烈な印象をうける。こうして彼は、あのきわめてありふれた人物、すなわち「わが開明の時代」の礼賛者となるのである。しかるに、他の観察者は、これらの利益の持っている価値にではなしに、これらの利益を得るために支払われた高価な代償に、もっぱらその注意を向ける。すなわち、個人の精力と勇気とが減退したこと、誇り高くして自らをたのむ独立心が失われたこと、人類のきわめて多くの部分が人為的な必要品の奴隷となり果てていること、彼らが女々しくも苦痛の影をすら避けようとしていること、彼らの生活が退屈で刺激のない単調なものとなり変わったこと、彼らの性格が情熱に欠け面白味のないものとなり、何らの鮮明な個性を持たないものになっていること、決まりきった規則にのっとって決まりきった仕事を果たすことに生涯を費やすことによって産み出される狭く機械的な理解力と、即座に目的に即応する手段を取りうるか否かによって己の生存と安全とが刻々に決定されていく原始林の住民の持つ多様な能力と、この両者の間にいちじるしい対照が感じられること、富と社会的地位とのはなはだしい不平等が道義的な退廃をかもし出していること、文明国の人民の大多数が、必要物の供給の点では野蛮人の場合とほとんど変わらないにもかかわらず、野蛮人が必要物の供給のうえの不便さの代償として持っている自由と刺激との代わりに、無数の足かせに縛られて悩んでいること、などがそれである。こうしたことに、しかももっぱらこうしたことのみに、注目する人は、野蛮生活は文明生活よりも望ましいものであり、文明の作用は、できる限り、抑制されるべきものであると推論しがちになるのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『コウルリッジ』(集録本『ベンサムとコウルリッジ』),pp.138-139,みすず書房(1990),松本啓(訳))
(索引:真理の一部をその全体と誤解すること)

OD>ベンサムとコウルリッジ


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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