ミエリン形成グリア
【ミエリン形成グリアが知性や学習に関係があることを示唆する事実:オリゴデンドロサイトの数と脳梁の軸索の数への環境刺激の影響(若いラット,視覚野),脳梁領域への幼少期のネグレクトの影響などがある。(R・ダグラス・フィールズ(19xx-))】ミエリン形成グリアが知性や学習に何らかの関係を持ちうる事実
(a)病気や毒素、感染によるミエリンの損傷は、多くの神経学的な障害を引き起こす。傷害や疾患のあとには、電気的コミュニケーションと機能の回復のために、ミエリンが必ず修復されなくてはならない。
(b)オリゴデンドロサイト
刺激の豊かな環境で成育された若いラットの視覚野では、オリゴデンドロサイトの数が27~33パーセントも増加する。その働きは、軸索の周囲を被覆して密閉し、電流の漏出を防ぐことである。
(c)脳梁の軸索の数
刺激の豊かな環境で育ったラットでは、脳梁のミエリンで被覆された軸索の数も増加していた。脳梁は、脳の左右両側を連結する軸索の太い束である。
(d)幼少期のネグレクトの影響など
幼少期にネグレクトに苦しんだ子供では、脳梁領域が17パーセント減少することが、MRIスキャンによって示されている。なかでも最も意外だったのが、統合失調症やうつ病を含むある種の精神障害を患う人たちの脳スキャンでも、白質の発達が低下していることを明かした最近の発見である。灰白質ではなく、白質である。
「アストロサイトがニューロンを保護し、そのあらゆる要求に応えるために存在していることは認識されていたものの、それが情報処理や学習に一役買っているかもしれないとまでは、考えが及ばなかった。実験動物におけるアストロサイト数のどんな変化も、血管系の増加が示すのと同じ意味合いしか持たないと受け止められた。すなわち、豊かな環境が提供する精神的刺激の増加によって、ニューロンの要求が増大し、その要求を満たすために支持細胞が応答したにすぎないというのだ。
とりわけ、ミエリン形成グリアが知性や学習に何らかの関係を持ちうるという発想は、通説からあまりにかけ離れていたので、真剣な考察の対象とはならなかった。神経科学者は、ミエリンの働きを理解していた。つまり、軸索の絶縁だ。電気工学を専攻する学生の大多数が、銅線を包むプラスチック製の絶縁体を研究するエレクトロニクス分野に魅力を感じないように、神経生物学の学生でミエリンに興味を持つ者はほとんどいない。彼らの情熱は、認知や学習、記憶などの秘密を解き明かすことに向けられている。ミエリン研究を行っているのはおもに、脱髄疾患を研究する医学者や生化学者だ。ヒト脳の半分は白質であるため、生化学者が破砕して均質化した脳組織から試験管内へ抽出したものの大半は、ミエリンである。また医師にとっては、ミエリンは間違いなく、常に研究の中心にある。なぜなら、傷害や疾患のあとには、電気的コミュニケーションと機能の回復のために、ミエリンが必ず修復されなくてはならないからだ。病気や毒素、感染によるミエリンの損傷は、多くの神経学的な障害を引き起こすが、情報処理や学習といった脳の中核的な仕組みには、ミエリンは無関係だと考えられていた。これは今なお支配的な見解だが、それも変わりつつある。
では次に、見捨てられていた手がかりを順にたどってみよう。40年も前から、刺激の豊かな環境で成育された若いラットの視覚野では、オリゴデンドロサイトの数が27~33パーセントも増加することが知られていた。この奇妙な発見は、どうも辻褄が合わない。なにしろ、オリゴデンドロサイトはニューロンの情報処理に何の関係もないのだ。その働きは、軸索の周囲を被覆して密閉し、電流の漏出を防ぐことだけである。オリゴデンドロサイトは、シナプスとも、樹状突起とも、ニューロンの細胞体とも関連がない。
この手がかりは、突拍子もなく感じられるかもしれないが、証拠はこれだけではない。裏付けはほかにもあるのだ。この奇妙な現象は、視覚野のグリアに限定されたものではなく、刺激の豊かな環境で育ったラットでは、脳梁のミエリンで被覆された軸索の数も増加していた。脳梁は、第11章で論じたとおり、脳の左右両側を連結する軸索の太い束だ。この脳梁を介する大脳半球間の連絡は、私たちの脳のデュアルプロセッサーを、単一の連動システムに統合するために欠かせない。ではなぜ、豊かな環境で成育された動物では、私たちの左右の脳を連結するこのケーブルを包んでいる絶縁体が増加し、この絶縁体を形成するオリゴデンドロサイトの集団が3分の1近くも数を増すのだろうか?
この奇妙な現象は、下位のラット以外でも観察されている。刺激の豊かな環境で養育されたアカゲザルでも、脳梁に通常より多くのミエリンが発現する。この差異はさらに、学習および記憶の試験で、それらのサルの認知能力が向上していることとも相関していた。
情報処理へのグリアの関与を示唆する同様の手がかりは、次々と現われており、それはヒトを対象とした研究でも同じだ。幼少期にネグレクトに苦しんだ子供では、脳梁領域が17パーセント減少することが、MRIスキャンによって示されている。なかでも最も意外だったのが、統合失調症やうつ病を含むある種の精神障害を患う人たちの脳スキャンでも、白質の発達が低下していることを明かした最近の発見である。精神を病んだ人たち、あるいはネグレクトに遭い、心を育むために必要とされる正常な刺激を奪われた子供たちで、萎縮することが予想される灰白質ではなく、白質が萎縮しているというのだ。」
(R・ダグラス・フィールズ(19xx-),『もうひとつの脳』,第3部 思考と記憶におけるグリア,第15章 シナプスを超えた思考,講談社(2018),pp.480-482,小松佳代子(訳),小西史朗(監訳))
(索引:思考,記憶,グリア,シナプスを超えた思考,ミエリン形成グリア)
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(出典:R. Douglas Fields Home Page)
「アストロサイトは、脳の広大な領域を受け持っている。一個のオリゴデンドロサイトは、多数の軸索を被覆している。ミクログリアは、脳内の広い範囲を自由に動き回る。アストロサイトは一個で、10万個ものシナプスを包み込むことができる。」(中略)「グリアが利用する細胞間コミュニケーションの化学的シグナルは、広く拡散し、配線で接続されたニューロン結合を超えて働いている。こうした特徴は、点と点をつなぐニューロンのシナプス結合とは根本的に異なる、もっと大きなスケールで脳内の情報処理を制御する能力を、グリアに授けている。このような高いレベルの監督能力はおそらく、情報処理や認知にとって大きな意義を持っているのだろう。」(中略)「アストロサイトは、ニューロンのすべての活動を傍受する能力を備えている。そこには、イオン流動から、ニューロンの使用するあらゆる神経伝達物質、さらには神経修飾物質(モジュレーター)、ペプチド、ホルモンまで、神経系の機能を調節するさまざまな物質が網羅されている。グリア間の交信には、神経伝達物質だけでなく、ギャップ結合やグリア伝達物質、そして特筆すべきATPなど、いくつもの通信回線が使われている。」(中略)「アストロサイトは神経活動を感知して、ほかのアストロサイトと交信する。その一方で、オリゴデンドロサイトやミクログリア、さらには血管細胞や免疫細胞とも交信している。グリアは包括的なコミュニケーション・ネットワークの役割を担っており、それによって脳内のあらゆる種類(グリア、ホルモン、免疫、欠陥、そしてニューロン)の情報を、文字どおり連係させている。」(R・ダグラス・フィールズ(19xx-),『もうひとつの脳』,第3部 思考と記憶におけるグリア,第16章 未来へ向けて――新たな脳,講談社(2018),pp.519-520,小松佳代子(訳),小西史朗(監訳))
(索引:)
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「国家や政府は人間が作ったものであり、法律も企業もそして野球だって人間が作ったものだ。同じように市場も人間の産物である。他のシステムと同じく市場の構築の仕方にもさまざまな方法があるが、それがどう作られようと、人々のやる気や市場のルールによって生まれてくる。理想的には、ルールによって人々が働いたり協力しあう気になり、生産的で創造的でありたいと動機づけされるのが望ましい。つまり、ルールが人々が望む暮らしの実現を手助けするのである。ルールはまた、人々の倫理観や、何が良くて立派で、何が公平かについての判断基準をも映し出す。そしてルールは不変ではなく、時間の経過とともに変わっていく。願わくば、ルールにかかわる人のほとんどが、より良くより公平だと思う方向へ――。だが、常にそうなるとは限らない。ある特定の人々が自分たちを利するようにルールを変える力を得たことによっても、ルールは変わりうるからだ。これがこの数十年の間に、米国や他の多くの国々で起こったことである。
「批判的思考の課題は「過去を保存することではなく、過去の希望を救済することである」というアドルノの教えは、その今日的な問題性をいささかなりとも失ってはいない。しかしまさしくその教えが今日的な問題性を持つのが急激に変化した状況においてであるがゆえに、批判的思考は、その課題を遂行するために、絶え間ない再考を必要とするものとなる。その再考の検討課題として、二つの主題が最高位に置かれなければならない。
「実のところ、正面切っていう社会学者はいないが、しかしすべての社会学の理論が、人間は生来的に(すなわち生物学的という意味で)《社会的》であるとする暗黙の前提に基づいている。事実、草創期の社会学者を大いに悩ませた難問――疎外、利己主義、共同体の喪失のような病理状態をめぐる問題――は、人間が集団構造への組み込みを強く求める欲求によって動かされている、高度に社会的な被造物であるとする仮定に準拠してきた。パーソンズ後の時代における社会学者たちの、不平等、権力、強制などへの関心にもかかわらず、現代の理論も強い社会性の前提を頑なに保持している。もちろんこの社会性については、さまざまに概念化される。たとえば存在論的安全と信頼(Giddens,1984)、出会いにおける肯定的な感情エネルギー(Collins,1984,1988)、アイデンティティを維持すること(Stryker,1980)、役割への自己係留(R. Turner,1978)、コミュニケーション的行為(Habermas,1984)、たとえ幻想であれ、存在感を保持すること(Garfinkel,1967)、モノでないものの交換に付随しているもの(Homans,1961;Blau,1964)、社会結合を維持すること(Scheff,1990)、等々に対する欲求だとされている。」(中略)「しかしわれわれの分析から帰結する一つの結論は、巨大化した脳をもつヒト上科の一員であるわれわれは、われわれの遠いイトコである猿と比べた場合にとくに、生まれつき少々個体主義的であり、自由に空間移動をし、また階統制と厳格な集団構造に抵抗しがちであるということだ。集団の組織化に向けた選択圧は、ヒト科――アウストラロピテクス、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトゥス、そしてホモ・サビエンス――が広く開けた生態系に適応したとき明らかに強まったが、しかしこのとき、これらのヒト科は類人猿の生物学的特徴を携えていた。」