注意の瞬き
【同じ場所に、異なる時刻に提示された2つのイメージ間の競合における「注意の瞬き」という現象は、能動的な「注意」の同時処理の限定性とを示す。一時的に意識が飽和することで、イメージを不可視化したのである。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))】(2)追加。
(1)同時に提示された2つのイメージ間の競合
両眼視野闘争と連続フラッシュ抑制は、十分に知覚できるほど長い時間与えられた視覚イメージであっても、注意によって選択されなければ、意識的経験から完全に排除され得ることを示している。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))
(1.1)両眼視野闘争
(a)両目のそれぞれに知覚可能なイメージを同時に提示すると、実際には一方のイメージのみが知覚される。
(b)能動的な注意の存在
両眼視野闘争は受動的なものだろうか? それとも、意識的に決められるか? 意識的な注意が欠如すると、二つのイメージはともに処理され、競い合わない。両眼視野闘争には、能動的で注意深い観察者が必要なのだ。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))
(1.2)連続フラッシュ抑制
二つのイメージのうちの一方を恒久的に視野から消すことができる。これは、他方の目に鮮やかな色の長方形を連続してフラッシュ(一瞬表示させること)すると、そちらのイメージの流れのみが見えるようになる。
(2)同じ場所に、異なる時刻に提示された2つのイメージ間の競合
(2.1)注意の瞬きという現象
(a)実験方法
コンピュータ画面の特定の場所に、一連のシンボルが表示される。シンボルのほとんどは数字だが、なかには文字もあり、被験者は文字を覚えておくように指示される。
(b)実験結果
最初の文字は容易に覚えられる。0.5秒後に2番目の文字が出現すると、それも正確に記憶される。しかし、2番目の文字がほとんど間を置かずに出現すると、それはしばしば完全に見落とされる。被験者は一文字しか見ていないと報告し、実際には二つ表示されたことを知らされると驚く。最初の文字に注意を向ける行為は、二番目の文字の知覚を阻害する一時的な「心の瞬き」を生む。
(c)能動的な注意の存在
ただ単に受動的に目を向けていると、すべての数字や文字を「見ている」気がする。
(2.2)無意識的な入力の存在は脳画像法で確認できる
脳画像法を用いれば、無意識的なものも含めてすべての文字情報が脳に伝達されていることを確認できる。それらはすべて、視覚の初期過程を司る領域に達しており、また奥深くまで到達してターゲットとして分類されていることすらある。
(2.3)注意の容量の存在、意識の飽和
(a)注意は、同時に対処できるイメージの数が限定されている。
(b)ある一つの文字を記憶に登録する処理は、他の文字が不可視になる一時的な期間を作り出すのに十分なほど長時間、意識というリソースを独占するのである。すなわち、一時的に意識を飽和させることで、イメージが不可視化される短い期間を作り出せる。
「このように、注意は同時に対処できるイメージの数を限定する。この制限はさらに、コンシャスアクセスの最小の対比を変える。いみじくも「注意の瞬き」と呼ばれる方法を用いると、一時的に意識を飽和させることで、イメージが不可視化される短い期間を作り出せる。図5は、この瞬きが生じる典型的な条件を示す。コンピュータ画面の特定の場所に、一連のシンボルが表示される。シンボルのほとんどは数字だが、なかには文字もあり、被験者は後者を覚えておくように指示される。最初の文字は容易に覚えられる。0.5秒後に2番目の文字が出現すると、それも正確に記憶される。しかし、2番目の文字がほとんど間を置かずに出現すると、それはしばしば完全に見落とされる。被験者は一文字しか見ていないと報告し、実際には二つ表示されたことを知らされると驚く。最初の文字に注意を向ける行為は、二番目の文字の知覚を阻害する一時的な「心の瞬き」を生むのだ。
脳画像法を用いれば、無意識的なものも含めてすべての文字情報が脳に伝達されていることを確認できる。それらはすべて、視覚の初期過程を司る領域に達しており、また奥深くまで到達してターゲットとして分類されていることすらある。かくして脳の一部は、いつターゲットの文字が提示されたかを「知る」。しかし、この知識は何らかの理由で意識にのぼらない。意識的に知覚されるには、文字は、気づきへと登録する処理の段階まで達しなければならない。この登録処理は、極度に限定されるらしい。つまり、いかなる時点でも、一つの情報のみがその過程を通過でき、視野に存在するそれ以外のすべての情報は、知覚されずに取りこぼされる。
両眼視野闘争は、同時に提示された二つのイメージ間の競合を明らかにする。それに対し注意の瞬きでは、類似の競合が、同じ場所に提示された二つのイメージ間で継時的に生じる。意識の働きはきわめて緩慢なので、ときに画面にイメージが表示される速度についていけなくなる。ただ単に受動的に目を向けていると、すべての数字や文字を「見ている」気がするが、ある一つの文字を記憶に登録する処理は、他の文字が不可視になる一時的な期間を作り出すのに十分なほど長時間、意識というリソースを独占するのである。意識を備えた心の要塞は、心的表象を互いに争わせるほど狭い跳ね橋を、その前面に備えているのだ。こうしてコンシャスアクセスは、入力に対して非常に狭い隘路を課す。」
図5(p.53の図5の説明を参考に、趣旨を変えずに書き換えてある。)
(a)Mは記憶できるが、Tは約30%しか見えない。
397M4T8162
┴┴┴┼┴┼┴┴┴┴
│ │
200ms
(b)Mは記憶できるが、Tは約30%しか見えない。
397M46T816
┴┴┴┼┴┴┼┴┴┴
│ │
300ms
(c)Mは記憶できるが、Tは40~50%しか見えない。
397M462T81
┴┴┴┼┴┴┴┼┴┴
│400ms │
(d)Mは記憶できる。Tも約70%記憶できる。
397M4624T8
┴┴┴┼┴┴┴┴┼┴
│500ms │
(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第1章 意識の実験,紀伊國屋書店(2015),pp.51-52,高橋洋(訳))
(索引:注意の瞬き,意識の飽和,注意,能動的な注意,不可視化)
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(出典:wikipedia)
遺伝的な規則、過去の記憶、偶然のできごとが交錯することで形作られる神経コードは、人によって、さらにはそれぞれの瞬間ごとに独自の様相を呈する。その状態の無限とも言える多様性は、環境に結びついていながら、それに支配はされていない内的表象の豊かな世界を生む。痛み、美、欲望、後悔などの主観的な感情は、この動的な光景のもとで、神経活動を通して得られた、一連の安定した状態のパターン(アトラクター)なのである。それは本質的に主観的だ。というのも、脳の動力学は、現在の入力を過去の記憶、未来の目標から成る布地へと織り込み、それを通して生の感覚入力に個人の経験の層を付与するからである。
それによって出現するのは、「想起された現在」、すなわち残存する記憶と未来の予測によって厚みを増し、常時一人称的な観点を外界に投影する、今ここについてのその人独自の暗号体系(サイファー)だ。これこそが、意識的な心の世界なのである。
この絶妙な生物機械は、あなたの脳の内部でたった今も作動している。本書を閉じて自己の存在を改めて見つめ直そうとしているこの瞬間にも、点火したニューロンの集合の活動が、文字通りあなたの心を作り上げるのだ。」
(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第7章 意識の未来,紀伊國屋書店(2015),pp.367-368,高橋洋(訳))
(索引:)
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「アストロサイトは、脳の広大な領域を受け持っている。一個のオリゴデンドロサイトは、多数の軸索を被覆している。ミクログリアは、脳内の広い範囲を自由に動き回る。アストロサイトは一個で、10万個ものシナプスを包み込むことができる。」(中略)「グリアが利用する細胞間コミュニケーションの化学的シグナルは、広く拡散し、配線で接続されたニューロン結合を超えて働いている。こうした特徴は、点と点をつなぐニューロンのシナプス結合とは根本的に異なる、もっと大きなスケールで脳内の情報処理を制御する能力を、グリアに授けている。このような高いレベルの監督能力はおそらく、情報処理や認知にとって大きな意義を持っているのだろう。」(中略)「アストロサイトは、ニューロンのすべての活動を傍受する能力を備えている。そこには、イオン流動から、ニューロンの使用するあらゆる神経伝達物質、さらには神経修飾物質(モジュレーター)、ペプチド、ホルモンまで、神経系の機能を調節するさまざまな物質が網羅されている。グリア間の交信には、神経伝達物質だけでなく、ギャップ結合やグリア伝達物質、そして特筆すべきATPなど、いくつもの通信回線が使われている。」(中略)「アストロサイトは神経活動を感知して、ほかのアストロサイトと交信する。その一方で、オリゴデンドロサイトやミクログリア、さらには血管細胞や免疫細胞とも交信している。グリアは包括的なコミュニケーション・ネットワークの役割を担っており、それによって脳内のあらゆる種類(グリア、ホルモン、免疫、欠陥、そしてニューロン)の情報を、文字どおり連係させている。」







「国家や政府は人間が作ったものであり、法律も企業もそして野球だって人間が作ったものだ。同じように市場も人間の産物である。他のシステムと同じく市場の構築の仕方にもさまざまな方法があるが、それがどう作られようと、人々のやる気や市場のルールによって生まれてくる。理想的には、ルールによって人々が働いたり協力しあう気になり、生産的で創造的でありたいと動機づけされるのが望ましい。つまり、ルールが人々が望む暮らしの実現を手助けするのである。ルールはまた、人々の倫理観や、何が良くて立派で、何が公平かについての判断基準をも映し出す。そしてルールは不変ではなく、時間の経過とともに変わっていく。願わくば、ルールにかかわる人のほとんどが、より良くより公平だと思う方向へ――。だが、常にそうなるとは限らない。ある特定の人々が自分たちを利するようにルールを変える力を得たことによっても、ルールは変わりうるからだ。これがこの数十年の間に、米国や他の多くの国々で起こったことである。
「批判的思考の課題は「過去を保存することではなく、過去の希望を救済することである」というアドルノの教えは、その今日的な問題性をいささかなりとも失ってはいない。しかしまさしくその教えが今日的な問題性を持つのが急激に変化した状況においてであるがゆえに、批判的思考は、その課題を遂行するために、絶え間ない再考を必要とするものとなる。その再考の検討課題として、二つの主題が最高位に置かれなければならない。
「実のところ、正面切っていう社会学者はいないが、しかしすべての社会学の理論が、人間は生来的に(すなわち生物学的という意味で)《社会的》であるとする暗黙の前提に基づいている。事実、草創期の社会学者を大いに悩ませた難問――疎外、利己主義、共同体の喪失のような病理状態をめぐる問題――は、人間が集団構造への組み込みを強く求める欲求によって動かされている、高度に社会的な被造物であるとする仮定に準拠してきた。パーソンズ後の時代における社会学者たちの、不平等、権力、強制などへの関心にもかかわらず、現代の理論も強い社会性の前提を頑なに保持している。もちろんこの社会性については、さまざまに概念化される。たとえば存在論的安全と信頼(Giddens,1984)、出会いにおける肯定的な感情エネルギー(Collins,1984,1988)、アイデンティティを維持すること(Stryker,1980)、役割への自己係留(R. Turner,1978)、コミュニケーション的行為(Habermas,1984)、たとえ幻想であれ、存在感を保持すること(Garfinkel,1967)、モノでないものの交換に付随しているもの(Homans,1961;Blau,1964)、社会結合を維持すること(Scheff,1990)、等々に対する欲求だとされている。」(中略)「しかしわれわれの分析から帰結する一つの結論は、巨大化した脳をもつヒト上科の一員であるわれわれは、われわれの遠いイトコである猿と比べた場合にとくに、生まれつき少々個体主義的であり、自由に空間移動をし、また階統制と厳格な集団構造に抵抗しがちであるということだ。集団の組織化に向けた選択圧は、ヒト科――アウストラロピテクス、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトゥス、そしてホモ・サビエンス――が広く開けた生態系に適応したとき明らかに強まったが、しかしこのとき、これらのヒト科は類人猿の生物学的特徴を携えていた。」