論理的に単一の法体系を持つ社会の2つの類型
【単一の法体系が存在し得る2つの社会類型がある。一つは例外者を除いて規則を受入れている健全な社会、もう一つは公的機関を構成する人々は相互自制の規則を受入れているが、他の人々が強制によって服従している社会である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】(3.3.3)追記。
(3.3.4)追記。
(3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」の違い
「責務を負っている」は、予想される害悪を避けるための「せざるを得ない」とは異なる。それは、ある社会的ルールの存在を前提とし、ルールが適用される条件に特定の個人が該当する事実を指摘する言明である。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(3.1)「せざるを得ない」
(a)行動を行なう際の、信念や動機についての陳述である。
(b)そうしないなら何らかの害悪や他の不快な結果が生じるだろうと信じ、その結果を避けるためそうしたということを意味する。
(c)この場合、予想された害悪が、命令に従うこと自体による不利益よりも些細な場合や、予想された害悪が、実際に実現するだろうと考える根拠がない場合には、従わないこともあろう。
(3.2)「責務を負っている」
(a)信念や動機についての事実は、必要ではない。
(b)その責任に関する、社会的ルールが存在する。
(c)特定の個人が、この社会的ルールの条件に当てはまっているという事実に注意を促すことによって、その個人にルールを適用する言明が「責務を負っている」である。
(3.3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」との緊張関係
社会には、「私は責務を負っていた」と語る人々と、「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々の間の緊張が存在していることだろう。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(3.3.1)「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々。
(a)「ルール」の違反には処罰や不快な結果が予想される故に、「ルール」に関心を持つ。
(b)ルールが存在することを拒否する。
(c)この人々は、ルールに「服従」している。
(d)行為が「正しい」「適切だ」「義務である」かどうかという考えが、必ずしも含まれている必要がない。
(e)逸脱したからといって、自分自身や他人を批判しようとはしないだろう。
(3.3.2)「私は責務を負っていた」と語る人々。
(a)自らの行動や、他人の行動をルールから見る。
(b)ルールを受け入れて、その維持に自発的に協力する。
(3.3.3)論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件
論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件は、「私は責務を負っていた」と語る人々からなる公機関の存在と、一般の私人の「せざるを得ない」か「責務」かは問わない服従である。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)人間の歴史の痛ましい事実は、社会が存続するためには、その構成員のいくらかの者に相互自制の体系を与えなければならないけれども、不幸にも、すべての者に与える必要はないということを十分に示している。
(b)公機関
法的妥当性の基準を明記する承認のルール、変更のルール、裁判のルールが、公機関の活動に関する共通の公的基準として、公機関によって有効に容認されている。従って、逸脱は義務からの違反として、批判される。
(c)一般の私人
これらのルールが、一般の私人によって従われている。私人は、それぞれ自分なりに「服従」している。また、その服従の動機はどのようなものでもよい。
(3.3.4)論理的に単一の法体系を持つ社会の2つの類型
(a)公機関も一般の私人も、「私は責務を負っていた」と語る人々からなる健全な社会。
(i)体系が公正であり、服従を要求される全ての人々の非常に重要な要求を満たしているならば、このような社会が実現し、その社会は安定しているだろう。
(ii)このような社会で、強制的な制裁が加えられるのは、ルールの保護を受けているのに、利己的にルールを破る例外的な人びとに対してだけであろう。
(b)一般の私人が、「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々からなる社会。
「このような状態にある社会は悲惨にも羊の群れのようなものであって、その羊は屠殺場で生涯を閉じることになるであろう。」しかし、法体系は存在している。
(i)支配者集団に比べて大きいことも小さいこともある被支配者集団を、前者の利用できる強制、連帯、規律という手段を用いて、あるいは後者がその組織力において無力、無能であることを利用して、被支配者集団を服従させ、永続的に劣った状態におくために用いられるかもしれない。
(ii)このような社会で圧迫される人々にとっては、この体系には忠誠を命じるものは何もなく、ただ恐れることだけしかないことになろう。
「法が、受けいれられた道徳よりも進んでいる社会がときにはあったけれども、普通は、法は道徳に従うのであり、奴隷を殺すことが、公共資源の浪費とか奴隷所有者に対する犯罪とみなされることさえあるかもしれないのである。奴隷制が公的には認められていないところにおいてさえ、人種、皮膚の色あるいは信条にもとづく差別のために、あらゆる人々が他人からの最小限の保護を受ける資格があることを認めない法体系や社会道徳があるかもしれない。
人間の歴史のこれらの痛ましい事実は、社会が存続するためには、その構成員の《いくらかの者》に相互自制の体系を与えなければならないけれども、不幸にも、すべての者に与える必要はないということを十分に示している。制裁の必要性および可能性を議論するさいにすでに強調しておいたとおり、ルールの体系がいかなる者にも強制的に課されるためには、それを自発的に受けいれる人々が十分いなければならないことは真実である。彼らの自発的な協力、したがって《権威》の創造がなければ、法と統治の強制的な力は確立されえない。しかし、このように権威にもとづいて確立された強制的な力は、二つの主なやり方で用いられるであろう。それは、ルールの保護を受けているのに、利己的にルールを破る悪人に対してだけ行使されるかもしれない。他方それは、支配者集団に比べて大きいことも小さいこともある被支配者集団を、前者の利用できる強制、連帯、規律という手段を用いて、あるいは後者がその組織力において無力、無能であることを利用して、被支配者集団を服従させ、永続的に劣った状態におくために用いられるかもしれない。このように圧迫される人々にとって、この体系には忠誠を命じるものは何もなく、ただ恐れることだけしかないことになろう。彼らは体系の犠牲者であって、その受益者ではないのである。
本書の以前の章において、法体系の存在は常に二側面をもつ社会現象であって、法体系について現実的に見ようとすれば、われわれはその双方に注意しなければならないということを強調した。それは、ルールを自発的に受けいれるさいの態度や行為と単に服従ないしは黙従するときのより単純な態度や行為を含むのである。こうして、法をもつ社会には、ルールを、もしそれに従わなかったならば公機関が何を行なうであろうかということに関する信頼できる予測と単に見るのではなく、内的視点から、容認された行動の基準とみなす人々がいることになる。しかしその社会には、悪人でありあるいはその体系の救いようのない犠牲者であるという理由で、これらの法的基準が、力ないし力の威嚇によって課せられなければならない人々も含まれる。彼らがルールにかかわるのは、もっぱら可能な刑罰の源泉としてである。これら二つの構成要素のバランスは、さまざまな要因によって決定されるだろう。もし体系が公正であり、服従を要求されるすべての人々の非常に重要な要求を本当に満たすならば、その体系は、だいたいいつも、たいていの人々の忠誠を確保できるであろうし、したがってそれは安定しているだろう。他方それは、支配的集団の利益のために用いられる、偏狭な排他的な体系であるかもしれない。そしてそれは、社会的変動が起こるのではないかという潜在的なおそれのため、ますます抑圧的にまた不安定になるかもしれないのである。この両極端の間に、法に対する態度のさまざまな組み合わせが、しばしば同一個人においてさえ見られるのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第3節 法的妥当性と道徳的価値,pp.219-220,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:論理的に単一の法体系を持つ社会の2つの類型)
(出典:wikipedia)
「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)
ハーバート・ハート(1907-1992)
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