2020年5月13日水曜日

自由で批判的で公開的な討論とは異なる,世論という社会現象は,ときに過ち,操作され演出され計画され,自由の脅威ともなる。だが,しばしば政府より賢明であり,正義と道徳的価値を言い当てる。ただし条件がある。(カール・ポパー(1902-1994))

世論

【自由で批判的で公開的な討論とは異なる,世論という社会現象は,ときに過ち,操作され演出され計画され,自由の脅威ともなる。だが,しばしば政府より賢明であり,正義と道徳的価値を言い当てる。ただし条件がある。(カール・ポパー(1902-1994))】

(1)自由で批判的で公開的な討論
 世論は、正義の問題や他の道徳的テーマについての討論を含めて、学問において生じている自由で批判的で公開的な討論からは区別される。
(2)一つの社会現象としての世論
 (a)自由で批判的で公開的な討論によって、世論はたしかに影響される。
 (b)しかし、討論の成果として、世論が出現してくるわけではない。
 (c)また、討論によって世論を押さえつけられるものでもない。
(3)世論の否定的な側面
 (3.1)世論が真理と誤謬の裁判官ではない
  世論が、神の声として、真理と誤謬についての裁判官として、承認されることはあってはならない。
 (3.2)世論は操作され、演出され、計画される
  残念なことに世論は操作され、演出され、また計画される。
 (3.3)世論が自由にとっての脅威となることもある
  強固な自由主義の伝統による束縛を受けないならば、世論は、自由にとっての脅威となる。世論は趣味の問題の裁判官としては、危険なものなのである。
(4)世論の否定的な側面の克服
 (4.1)自由主義の伝統の強化
  これらすべての脅威に対してわれわれは、自由主義の伝統を強化することによってのみ対抗し得る。また、この自由主義を守るということにおいて、すべての人は共同することができる。
 (4.2)世論の積極的な側面
  (a)世論はしばしば政府より賢明
   世論は、確かに、政府などよりはしばしば啓発されていて賢明である。
  (b)世論は、正義と道徳的価値を言い当てる
   また世論は、往々にして、正義と他の道徳的価値にかんする啓発された裁判官でもある。

 「まとめておきましょう。
 「世論」と呼ばれている、かのいくぶん曖昧でまさに把握し難いものは、たしかに政府などよりはしばしば啓発されていて賢明でもありますが、強固な自由主義の伝統による束縛を受けないならば、自由にとっての脅威を意味します。世論が、神の声(vox dei)として、真理と誤謬についての裁判官として、承認されることはあってはなりませんが、世論は、往々にして、正義と他の道徳的価値にかんする啓発された裁判官です。(イギリス植民地における奴隷の解放)。世論は趣味の問題の裁判官としては危険なものです。残念なことに世論は「操作」され、「演出」され、また「計画」されるものです。これらすべての脅威に対してわれわれは、自由主義の伝統を強化することによってのみ対抗しうるのであり、またこうした意図のもとで各人は共同することができます。
 世論は、正義の問題や他の道徳的テーマについての討論を含めて、学問において生じている(あるいは生じるべき)自由で批判的で公開的な討論からは区別されるべきものです。こうした討論によって世論はたしかに影響されますが、世論は討論の成果として出現してくるのでもなければ、討論によって押さえつけられるものでもありません。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第11章 自由主義の原則に照らしてみた世論,8 まとめ,p.252,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:自由主義,世論)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2020年5月11日月曜日

支援者と資金が力の源泉である議員と,議員とのコネと影響力が欲しい大企業の幹部とは,潜在的に親しくなりやすい。誰しも,日常的に交際する人々の世界観から影響を受ける。かくして"不正なし"の政治腐敗が出現する。(ロバート・ライシュ(1946-))

不正なしの政治腐敗

【支援者と資金が力の源泉である議員と,議員とのコネと影響力が欲しい大企業の幹部とは,潜在的に親しくなりやすい。誰しも,日常的に交際する人々の世界観から影響を受ける。かくして"不正なし"の政治腐敗が出現する。(ロバート・ライシュ(1946-))】

(1)政治家
 (1.1)人脈は力なり
  例えば、金融業界や企業の役員あてに、コーヒーでも飲みましょうと声をかける。やがて、彼はこの重役を通じて、その友人や仕事仲間、同僚、所属する社交クラブや理事会といった裕福な人々のネットワークへのアクセスを獲得する。
 (1.2)資金は力なり
  選挙資金を寄付してもらえるかもしれないし、もらいないかもしれない。しかし、やがて寄付してもらえるだろう。そして、新しく知人になった人々も献金してくれるようになり、さらに新たな友人知人につないでくれるようになる。
 (1.3)日常的に交際する人々の世界観、提案、課題の影響
  この議員が富裕層ネットワークの中ではてしなく繰り広げられる社交に加わることで、必然的に、彼の世界観は影響を受ける。このようにして彼は、似たような提案、似たような懸念や優先的課題を聞くことになる。
 (1.4)普通の人々の考えは、届きにくい
  議員は、普通の人々のことは、世論調査の専門家や地元選挙区で時折行う演説会などを通して知る。しかし、彼もすでに居心地の良い世界に慣れてしまっているため、そのような社会問題に真剣に取り組もうとはしない。
(2)大企業の役員
 (2.1)人脈が力なり
  その役員にとってこのお茶飲みイベントの最大の価値は、彼がワシントンの大物議員に一目置かれているということを他の人に示すことができる点である。議員とのティータイム懇談を収めたサイン付きの写真は、役員の部屋の壁に飾られることになる。
 (2.2)影響力があるように見えること
  世間から、政界にコネを持つ人物、影響力を持つ人物と見なされたのだ。このような評判は、役員である彼にとって社会的に重要で、何より経済的に重要だ。彼と取引する人たちに、思ったことは何でも実現してしまう人物だという印象を与えることができるからだ。得意先や顧客、サプライヤー、債権者、投資家などとの今後の取引を、とてもやりやすくするのである。
(3)普通の人々
 普通の人々は議員とお茶を飲んだり食事をすることはないし、自分たちが社会をどう見ているかを、気さくな会話を通して、あるいは個人的な話を織り交ぜたりして、議員に直接繰り返し話すこともない。普通の人々は「彼らなりの」不安や懸念を、政治家の耳に継続的に届けることはできないのだ。

 「今日の政策における政治腐敗の実態は、あからさまな賄賂や特定の票につながる献金のように、はっきりとした形をとることはほとんどない。例えば、議会の重要な委員会の長から、金融業界や企業の役員あてに、コーヒーでも飲みましょうと声がかかる。この招待は、企業役員にとっては何でもないことだし、あるいはその役員のほうから議員に頼んでそうするかもしれない。いずれにしても、その役員にとってこのお茶飲みイベントの最大の価値は、彼がワシントンの大物議員に一目置かれているということを他の人に示すことができる点である。議員とのティータイム懇談を収めたサイン付きの写真は、役員の部屋の壁に飾られることになる。その議員から個人的な礼状が届いた日には、これみよがしに自慢もできる。
 このことは、この役員にとって計り知れない意味を持つ。彼は、今や政権の「側近」に近づくことができる有力者だ。世間から、政界にコネを持つ人物、影響力を持つ人物と見なされたのだ。このような評判は、役員である彼にとって社会的に重要で、何より経済的に重要だ。彼と取引する人たちに、思ったことは何でも実現してしまう人物だという印象を与えることができるからだ。そういう印象が本当かどうかは、この際関係ない。影響力があるように見えることが、得意先や顧客、サプライヤー、債権者、投資家などとの今後の取引を、とてもやりやすくするのである。
 議員のほうは、その見返りに、リッチな重役から選挙資金を寄付してもらえるかもしれないし、もらいないかもしれない。しかし政治家としてこの取引のポイントは、献金ではない。彼はこの重役を通じて、その友人や仕事仲間、同僚、所属する社交クラブや理事会といった裕福な人々のネットワークへのアクセスを獲得できるのだ。今後、この重役は機会が訪れれば、自分の友人や知人を議員に紹介するだろう。そのうち、彼から直接、朝食やお茶、晩さん会、ゴルフの誘いが届くようになる。そうこうするうちに、新しく知人になった人々が献金してくれるようになり、さらに新たな友人知人につないでくれるようになる。
 このことで、政策や法律や投票行動がすぐさま金持ちたちの意のままに変わるわけではない。しかし、この議員が富裕層ネットワークの中ではてしなく繰り広げられる社交に加わることで、必然的に、彼の世界観は影響を受ける。このようにして彼は、似たような提案、似たような懸念や優先的課題を聞くことになる。裕福な人々は、当然ながら自分たちの声を一つにまとめて主張することはしないが、互いに幅広い範囲で考え方を共有している。社会的に恵まれない人々からの声は、政治家のところには間接的・抽象的にしか届いていない。彼らは議員とお茶を飲んだり食事をすることはないし、自分たちが社会をどう見ているかを、気さくな会話を通して、あるいは個人的な話を織り交ぜたりして、議員に直接繰り返し話すこともない。普通の人々は「彼らなりの」不安や懸念を、政治家の耳に継続的に届けることはできないのだ。議員は、そういうことは世論調査の専門家や地元選挙区で時折行う演説会などを通して知る。しかし、彼もすでに居心地の良い世界に慣れてしまっているため、そのような社会問題に真剣に取り組もうとはしない。このように富裕層ネットワークは、必ずしも政治家の法案への投票行動を買うわけではないが、政治家の心を手なずけてしまうのである。」
(ロバート・ライシュ(1946-)『余震』(日本語名『余震(アフターショック) そして中間層がいなくなる』)第2部 反動、第17章 富が集中するように仕組まれたゲーム、pp.131-133、東洋経済新報社 (2011)、雨宮寛・今井章子(訳))
(索引:不正なしの政治腐敗)

余震(アフターショック) そして中間層がいなくなる

(出典:wikipedia
ロバート・ライシュ(1946)の命題集(Propositions of great philosophers) 「国家や政府は人間が作ったものであり、法律も企業もそして野球だって人間が作ったものだ。同じように市場も人間の産物である。他のシステムと同じく市場の構築の仕方にもさまざまな方法があるが、それがどう作られようと、人々のやる気や市場のルールによって生まれてくる。理想的には、ルールによって人々が働いたり協力しあう気になり、生産的で創造的でありたいと動機づけされるのが望ましい。つまり、ルールが人々が望む暮らしの実現を手助けするのである。ルールはまた、人々の倫理観や、何が良くて立派で、何が公平かについての判断基準をも映し出す。そしてルールは不変ではなく、時間の経過とともに変わっていく。願わくば、ルールにかかわる人のほとんどが、より良くより公平だと思う方向へ――。だが、常にそうなるとは限らない。ある特定の人々が自分たちを利するようにルールを変える力を得たことによっても、ルールは変わりうるからだ。これがこの数十年の間に、米国や他の多くの国々で起こったことである。
 私的所有独占への制限契約不履行に対処するための破産などの手段ルールの執行といった事柄は、いかなる市場にも必須の構成要素だ。資本主義と自由企業体制にはこれらが必要なのだ。だがこの要素の一つひとつを、多くの人ではなく、ひと握りの人々を利するように捻じ曲げることも可能である。」(中略)「経済的支配力が、政治的権力を増大させ、政治的権力がさらに経済的支配力を拡大させる。大企業と富裕層が市場を構築する政治の仕組みに影響を与え、彼らがその政治的決定によって最も恩恵を受けるという状況は加速するばかりだ。こうして彼らの富は増強され、その富によってますます、将来発生する決断事項への影響力を得ていくのである。」(中略)「拡大する不平等は「自由市場」の構成要素そのものにしっかりと焼き込まれている。グローバル化と技術革新がなくても減税や補助金がなくても、国民総所得のうち、企業と、企業収益に自分の所得が連動する重役たちや投資家に振り分けられる割合は、労働者層に向う割合よりも、相対的に増加している。こうして悪循環が勝手に成立していくのである。」
(ロバート・ライシュ(1946-)『資本主義を救う』(日本語名『最後の資本主義』)第1部 自由市場、第9章 まとめ――市場メカニズム全般、pp.108-111、東洋経済新報社 (2016)、雨宮寛・今井章子(訳))

ロバート・ライシュ(1946-)
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企業利益の主要な源泉が,大量の消費者を獲得できるアイディアに変化し,労働力への依存度が減少,比較的単純な仕事の担い手は,交換可能な部品,消耗品とみなされ,仕事の意義を見失い,同僚との結びつきも希薄化する。(ジグムント・バウマン(1925-2017))

仕事の意味が変わった

【企業利益の主要な源泉が,大量の消費者を獲得できるアイディアに変化し,労働力への依存度が減少,比較的単純な仕事の担い手は,交換可能な部品,消耗品とみなされ,仕事の意義を見失い,同僚との結びつきも希薄化する。(ジグムント・バウマン(1925-2017))】

(1)企業の利益の主要な源泉の変化
 (a)アイディアへの依存
  物質的対象というよりも、ますますアイディアになってきている。
 (b)消費者への依存
  アイディアは、多くの人々に依存しながら富を生み続けるのであり、生産者に依存することはない。資本はその競合性・有効性・収益性に関しては消費者に依存している。
 (c)消費者を作り出すということ
  「消費者を生産する」可能性、つまり手持ちのアイディアに対する需要を生み出し、それを増大させる可能性に導かれている。
(2)企業の利益の主要な源泉の変化の影響
 (2.1)労働力への依存度の減少
  資本の移動を計画し、その転位を促すにあたっては、労働力の依存はせいぜい二次的な意味しかもたないのである。その結果、ローカルな労働力が資本に対して、もっと一般的にいえば雇用条件と仕事の可能性に対して「保持する権力」は、かなり縮小したわけである。
 (2.2)仕事の類型と、仕事への影響
  (a)アイディアを生み出す仕事
   アイディアを生み出し、それを望ましいもの、売却可能なものにするやり方を発明する人々である。
  (b)労働の再生産の仕事
   教育者や、福祉国家のさまざまな職員たちのように、労働の再生産に従事する人々である。
  (c)サービスの受け手に対する対面的な接触が必要な仕事
   製品の売り手たちと、製品に対する欲望を効果的に演出するような人々が含まれる。
  (d)それ以外の仕事
   (i)単純な仕事
    組み立てラインや、最新の環境においてはコンピュータ・ネットワークや、レジ打ち機のように電子的に自動化された装置に結びつけられている人たちである。
   (ii)交換可能な部品、消耗品
    こうした人たちは最も消耗品扱いされ、使い捨て可能とされ、経済システムの交換可能な部品と見なされる。
   (iii)仕事への愛着と同僚との結びつきが希薄化、仕事に大切な価値を見い出しにくい
    その結果、自らの仕事に愛着をもって肩入れすることや、同僚との持続的な関係をもつことに、たいして重要性を感じていない。彼れはどんな仕事場でも忠誠を尽くすこと、投影された仕事場の未来に自らの人生目標をしるすといったことには慎重になる傾向があるのである。

「利益の主要な源泉――特に大きな利益の、したがってまた未来の資本の源泉――は、《物質的対象》というよりもますます《アイディア》になってきている。アイディアは一度だけ生み出され、その後で購買者/顧客/消費者として関わる多くの人々に依存しながら富を生み続けるのであり、商品の原型を繰り返し生産することに従事する多くの人々、つまり生産者に依存することはない。アイディアから利益を得ることが問題となるときには、競合する相手は消費者であり、生産者ではないのである。したがって、今日資本が関わりをもつのは主に消費者であるということには何の不思議もない。そしてこの関係においてだけ、「相互依存」について有意味な話ができるのである。資本はその競合性・有効性・収益性に関しては消費者に依存しているのであり、その回転率は消費者のあるなしと、「消費者を生産する」可能性、つまり手持ちのアイディアに対する需要を生み出し、それを増大させる可能性に導かれている。資本の移動を計画し、その転位を促すにあたっては、労働力の依存はせいぜい二次的な意味しかもたないのである。その結果、ローカルな労働力が資本に対して、もっと一般的にいえば雇用条件と仕事の可能性に対して「保持する権力」は、かなり縮小したわけである。
 現在、経済活動に従事している人々は大まかに四つの大きなカテゴリーに分類できるとロバート・ライシュが示唆している。「シンボル操作をおこなう者」、つまりアイディアを生み出し、それを望ましいもの、売却可能なものにするやり方を発明する人々が、第一のカテゴリーを形成する。また労働の再生産に従事する人々(教育者と、福祉国家のさまざまな職員たち)が、第二のカテゴリーに属する。第三のカテゴリーは、サービスの受け手に対する対面的な接触が必要となる「対人サービス」(ジョン・オニールが「スキントレード」と類別したような職業)で雇われている人々を指す。製品の売り手たちと、製品に対する欲望を効果的に演出するような人たちが、このカテゴリーの大部分をなしている。そして最後に第四のカテゴリーだが、これはここ一世紀半にわたって労働運動の「社会的下位階層」を形成してきた人たち属するものである。彼らは、ライシュの言葉でいえば「単純作業労働者」であり、組み立てラインや、最新の環境においてはコンピュータ・ネットワークや、レジ打ち機のように電子的に自動化された装置に結びつけられている人たちである。こうした人たちは最も消耗品扱いされ、使い捨て可能とされ、経済システムの交換可能な部品と見なされる存在である。彼らの仕事には、特別な技術も顧客との社会的相互行為の技法も必要とされない。それゆえに、彼らは最も容易に取り替えられ、あったとしても余分で取るに足らない交渉能力しかもっていないとされるのである。また彼らは自分たちが使い捨て可能と見なされていることを自覚しているがゆえに、自らの仕事に愛着をもって肩入れすることや、同僚との持続的な関係をもつことに、たいして重要性を感じていない。彼れはどんな仕事場でも忠誠を尽くすこと、投影された仕事場の未来に自らの人生目標をしるすといったことには慎重になる傾向があるのである。」
(ジグムント・バウマン(1925-2017)『個人化社会』第1章 労働の隆盛と衰退、pp.42-43、青弓社 (2008)、菅野博史(訳))
(索引:労働,仕事の意味)

個人化社会 (ソシオロジー選書)


(出典:wikipedia
ジグムント・バウマン(1925-2017)の命題集(Propositions of great philosophers) 「批判的思考の課題は「過去を保存することではなく、過去の希望を救済することである」というアドルノの教えは、その今日的な問題性をいささかなりとも失ってはいない。しかしまさしくその教えが今日的な問題性を持つのが急激に変化した状況においてであるがゆえに、批判的思考は、その課題を遂行するために、絶え間ない再考を必要とするものとなる。その再考の検討課題として、二つの主題が最高位に置かれなければならない。
 第一に、自由と安定性(セキュリティ)のあいだの許容しうるバランスをうまく作り出すことへの希望と可能性である。これら二つの、両立できるかどうか自明ではないとはいえ、等しくきわめて重要な人間社会の必須の(sine qua non)条件が、再考の努力の中心に置かれる必要がある。そして第二に、至急救い出される必要がある、過去に存在した数々の希望のなかでも、カント自身の「瓶に詰められたメッセージ」として保持されてきたもの、つまりカントの『世界市民的見地における一般史の構想』は、メタ希望としての地位を正当にも主張しうるものだということである。つまりそれは、希望するという果敢な振る舞いそのものを可能にすることができる――するであろう、すべきである――ような希望である。自由と安定性のあいだにいかなる新しいバランスを作ることが探究されるとしても、それは、地球規模のスケールで構想される必要がある。」
(ジグムント・バウマン(1925-2017)『液状不安』第6章 不安に抗する思考、pp.256-257、青弓社 (2012)、澤井敦(訳))

ジグムント・バウマン(1925-2017)
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3怒りの表出を伴う否定的裁可は、相手に恐怖を喚起する。これは、危険からの逃走、敵への攻撃という基盤を持つ感情のため効果的であるが、対抗的な怒りを生み、連帯を促進しない悪循環を生み出す可能性もある。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))

否定的裁可

【怒りの表出を伴う否定的裁可は、相手に恐怖を喚起する。これは、危険からの逃走、敵への攻撃という基盤を持つ感情のため効果的であるが、対抗的な怒りを生み、連帯を促進しない悪循環を生み出す可能性もある。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))】


否定的裁可
 (1)怒りの表出
  相手側が期待に適うことができなかったことに対する、当事者の怒りあるいはこの感情の変種を含んでいる。
 (2)恐怖の喚起
  間違いをした側に、恐怖心あるいはこの感情の変種を喚起する。
 (3)否定的裁可の効果
  否定的裁可は、ほとんどの哺乳類において原基的な感情である、怒りと恐れの感情を利用しているため、非常に効果的である。
  (a)恐怖
   恐怖心をもたない動物は、まもなく選択から除外される。
  (b)怒り
   防衛的攻撃を動員する能力をもたない動物は、逃げのびて退避できない場合に、捕食者の歯牙にかかって死ぬ運命にあるからである。
 (4)否定的裁可の問題点
  否定的裁可は、恐れを喚起するだけでなく、しばしば対抗的な怒りを生む。そのため、否定的裁可は連帯を促進しない怒り-恐れ-怒りという複雑な循環を生みだす可能性がある。

 「否定的裁可は非常に効果的である。

というのも、否定的裁可はほとんどの哺乳類において原基的な感情――反感-恐れと不平-攻撃――の活性化に頼っているからである。これらの感情がもっとも原基的である。

なぜなら、恐怖心をもたない動物はまもなく選択から除外され、そして防衛的攻撃を動員する能力をもたない動物は逃げのびて退避できない場合に、捕食者の歯牙にかかって死ぬ運命にあるからである(Le Doux 1991,1993a,1993b,1996)。

ゆえに否定的裁可は、相手側が期待に適うことができなかったことに対する当事者の怒り(あるいはこの感情の変種)を含んでいる。

そして行動の変更を行わせる裁可の力は、間違いをした側に恐怖心(あるいはこの感情の変種)を喚起する能力である。

しかし否定的裁可につきまとう問題は、それが最小限の感情結合(恐れと怒り)にしか基づいていないということである。さらに、他の個体を裁可するためにある個体の怒りを利用することは恐れを喚起するだけでなく、しばしば対抗的な怒りを生む。そのため、否定的裁可は連帯を促進しない怒り-恐れ-怒りという複雑な循環を生みだす可能性がある(Turner 1995,1996a)。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第2章 選択力と感情の進化、pp.69-70、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
(索引:感情の進化,選択圧,否定的裁可,怒り,恐れ)

感情の起源 ジョナサン・ターナー 感情の社会学


(出典:Evolution Institute
ジョナサン・H・ターナー(1942-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「実のところ、正面切っていう社会学者はいないが、しかしすべての社会学の理論が、人間は生来的に(すなわち生物学的という意味で)《社会的》であるとする暗黙の前提に基づいている。事実、草創期の社会学者を大いに悩ませた難問――疎外、利己主義、共同体の喪失のような病理状態をめぐる問題――は、人間が集団構造への組み込みを強く求める欲求によって動かされている、高度に社会的な被造物であるとする仮定に準拠してきた。パーソンズ後の時代における社会学者たちの、不平等、権力、強制などへの関心にもかかわらず、現代の理論も強い社会性の前提を頑なに保持している。もちろんこの社会性については、さまざまに概念化される。たとえば存在論的安全と信頼(Giddens,1984)、出会いにおける肯定的な感情エネルギー(Collins,1984,1988)、アイデンティティを維持すること(Stryker,1980)、役割への自己係留(R. Turner,1978)、コミュニケーション的行為(Habermas,1984)、たとえ幻想であれ、存在感を保持すること(Garfinkel,1967)、モノでないものの交換に付随しているもの(Homans,1961;Blau,1964)、社会結合を維持すること(Scheff,1990)、等々に対する欲求だとされている。」(中略)「しかしわれわれの分析から帰結する一つの結論は、巨大化した脳をもつヒト上科の一員であるわれわれは、われわれの遠いイトコである猿と比べた場合にとくに、生まれつき少々個体主義的であり、自由に空間移動をし、また階統制と厳格な集団構造に抵抗しがちであるということだ。集団の組織化に向けた選択圧は、ヒト科――アウストラロピテクス、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトゥス、そしてホモ・サビエンス――が広く開けた生態系に適応したとき明らかに強まったが、しかしこのとき、これらのヒト科は類人猿の生物学的特徴を携えていた。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『社会という檻』第8章 人間は社会的である、と考えすぎることの誤謬、pp.276-277、明石書店 (2009)、正岡寛司(訳))

ジョナサン・H・ターナー(1942-)
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2.人類の祖先は元来、弱い結合、移動、自律を好んだが、社会性と集団構造という選択圧により、感情エネルギーを確実に生成し、様々な場面で、焦点、感情状態、連帯を維持するために、儀礼を使用する能力を獲得した。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))

感情エネルギーの動員と経路づけ

【人類の祖先は元来、弱い結合、移動、自律を好んだが、社会性と集団構造という選択圧により、感情エネルギーを確実に生成し、様々な場面で、焦点、感情状態、連帯を維持するために、儀礼を使用する能力を獲得した。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))】

感情エネルギーの動員と経路づけ
 (1)動物の儀礼
  他の動物も儀礼を使うが、しかし彼らのそれは神経学的に固定した形で配線され、そして求愛、配偶、性的争い、縄張り保全他の非常に基本的な活動に限られている。
 (2)人間の儀礼
  人間は、様々な場面で儀礼を使用し、そしてそれらを、焦点、感情状態、連帯を維持するために活用する。しかし、なぜ儀礼が必要となったのかが問題である。
 (3)人類の祖先は元来、弱い結合、移動、自律を好んだ
  (a)人類の祖先は元来、弱い結合、移動、自律を好んだ。そのため、必要な水準のエネルギーを確実に生成するために、儀礼を使用する必要に迫られた。
  (b)固体主義と集合主義の二元性の由来
   以上が、固体主義と集合主義の二元性の由来である。一方で、自由、自律を重んじ、他者の権威、束縛、統制に反抗する。もう一方で、連帯性、親密性、共同体などの結合関係を渇望する。

 「他の動物も儀礼を使うが、しかし彼らのそれは神経学的に固定した形で配線され、そして求愛、配偶、性的争い、縄張り保全他の非常に基本的な活動に限られている。

それとは対照的に、人間は相互作用の《それぞれの、またすべての》エピソードにおいて儀礼を使用し、そしてそれらを、焦点、感情状態、連帯を維持するために活用する必要がある。

ハーバート・スペンサー(H. Spencer,1874-96)とエミール・デュルケム(Durkheim 1912)は、ずっと以前に社会生活のこの事実を認識していた。

そしてほとんどの対人理論は儀礼活動のモデルをそれぞれの概念化に取り込んでいるが、しかしそのいずれも、《なぜ》儀礼が人間の相互作用にこれほどまで普及し、際だっているかということに疑問を差しはさんでいないように思われる。

 その答えは、われわれ祖先が弱い結合、移動、自律と低い社会性を好んだことのうちにあるとわたしは確信している。

ヒト科の脳は種々の感情を動員する能力を増強するために変更を余儀なくされたが、しかし選択は低い社会性という原初的傾向を一掃することはしなかった。むしろ進化上の証拠は、低位水準の社会性と連帯という元来の傾向の上に、感情エネルギーを動員し、そして必要な水準のエネルギーを確実に生成するために儀礼を使用できる拡張せられた能力が積み重ねられたにすぎないことを示唆している。

ゆえに人間は二つの心から成り立っている。一つは感情エネルギーを動員するために儀礼をわれわれに使わせようとする心であり、もう一つはわれわれ類人猿の祖先の傾向を主張する心である。

 この二元性が人間の社会的配置とイデオロギーに映しだされる。一方でわれわれは連帯性、親密性、共同体(community)他の結合関係を渇望し、もう一方でわれわれは他者の権威、束縛、統制に反抗する。

われわれは集合主義的イデオロギーを構築するが、しかし結局のところ、われわれは類人猿の祖先に押しつけるその束縛にわれわれは憤慨する。われわれは自由、自律、個体主義、そして利己主義を享受しながら、しかしなにか――社会的連帯の結合――を欠いていると感じる。

この二元性と、それが保持している恒常的な弁証法とが、われわれの神経学的特徴の一部分であると考えられるのである。だから、あらたな選択圧がわれわれの種を別の方向に連れていかない限り、われわれはこの二元性とともに歩むことを運命づけられているのである。

 わたしがこの二元性に言及する要点は、ヒト科の場合、エネルギーを動員する新しい方法がどれほど不安定であったかということである。選択はあらたな存在を創造したのではなく、われわれ類人猿の祖先の遺産の半分だけを新しいものに取り替えたのである。だからその遺産はわれわれとともにあり、それが消えてなくなる可能性は低い。

したがって人間は連帯を追求する熱狂的なマニアではない。彼らは、《必要なときだけ》、結合を動員するために儀礼を利用することのできる動物になったのである。」


(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第2章 選択力と感情の進化、pp.64-65、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
(索引:選択力,感情の進化,儀礼,感情エネルギー)

感情の起源 ジョナサン・ターナー 感情の社会学


(出典:Evolution Institute
ジョナサン・H・ターナー(1942-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「実のところ、正面切っていう社会学者はいないが、しかしすべての社会学の理論が、人間は生来的に(すなわち生物学的という意味で)《社会的》であるとする暗黙の前提に基づいている。事実、草創期の社会学者を大いに悩ませた難問――疎外、利己主義、共同体の喪失のような病理状態をめぐる問題――は、人間が集団構造への組み込みを強く求める欲求によって動かされている、高度に社会的な被造物であるとする仮定に準拠してきた。パーソンズ後の時代における社会学者たちの、不平等、権力、強制などへの関心にもかかわらず、現代の理論も強い社会性の前提を頑なに保持している。もちろんこの社会性については、さまざまに概念化される。たとえば存在論的安全と信頼(Giddens,1984)、出会いにおける肯定的な感情エネルギー(Collins,1984,1988)、アイデンティティを維持すること(Stryker,1980)、役割への自己係留(R. Turner,1978)、コミュニケーション的行為(Habermas,1984)、たとえ幻想であれ、存在感を保持すること(Garfinkel,1967)、モノでないものの交換に付随しているもの(Homans,1961;Blau,1964)、社会結合を維持すること(Scheff,1990)、等々に対する欲求だとされている。」(中略)「しかしわれわれの分析から帰結する一つの結論は、巨大化した脳をもつヒト上科の一員であるわれわれは、われわれの遠いイトコである猿と比べた場合にとくに、生まれつき少々個体主義的であり、自由に空間移動をし、また階統制と厳格な集団構造に抵抗しがちであるということだ。集団の組織化に向けた選択圧は、ヒト科――アウストラロピテクス、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトゥス、そしてホモ・サビエンス――が広く開けた生態系に適応したとき明らかに強まったが、しかしこのとき、これらのヒト科は類人猿の生物学的特徴を携えていた。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『社会という檻』第8章 人間は社会的である、と考えすぎることの誤謬、pp.276-277、明石書店 (2009)、正岡寛司(訳))

ジョナサン・H・ターナー(1942-)
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1960年代から80年代にかけての国際的な通貨規制の緩和により、資産家は、資産に最も有利な税制や規制を、世界中から物色できるようになった。その代理人が、ウェルス・マネジャーである。(ブルック・ハリントン(1968-))

ウェルス・マネジャーという仕事

【1960年代から80年代にかけての国際的な通貨規制の緩和により、資産家は、資産に最も有利な税制や規制を、世界中から物色できるようになった。その代理人が、ウェルス・マネジャーである。(ブルック・ハリントン(1968-))】

ウェルス・マネジャーという仕事の誕生
 (1)国際的な通貨規制の緩和
  1960年代から80年代にかけて、オフショア金融の発展と国際的な通貨規制の緩和が徐々に進んだ。
 (2)資産に最も有利な税制、規制を物色できる
  この変化のおかげで、国民国家の境界を通過することが以前にも増して容易になり、裕福な一家や金持ちは、資産に最も有利な税制や規制、または政治情勢を、世界各地で自由に物色できるようになった。
 (3)各国は、個人の資産を呼び込もうとする
  個人の富を、自国の法域に呼び込もうと各国が競い合うので、税制や規制は絶えず変化している。
 (4)ウェルス・マネジャーの誕生
  一番のお買い得を探し出す業務は複雑化し、通常はウェルス・マネジャーに外部委託されるようにまる。法的、組織的、金融的に、どのような構造で資産を保有するのが最適か、その資産の拠点をどの地域に置くべきか、ウェルス・マネジャーに判断が任されるのだ。

「信託と財産のプラニングが職業となった第二のきっかけは、1960年代から80年代にかけて徐々に進んだ、オフショア金融の発展と国際的な通貨規制の緩和であった。こうした変化が、資本の国際移動に課されていた数々の規制を解き放った。金融的観点からすると、この変化のおかげで国民国家の境界を通過することが以前にも増して容易になり、裕福な一家や金持ちは、資産にもっとも有利な税制や規制、または政治情勢を、世界各地で自由に物色できるようになった。個人の富を自国の法域に呼び込もうと各国が競い合うので、こうした条件は絶えず変化している。そのため、一番のお買い得を探し出す業務は複雑化し、通常はウェルス・マネジャーに外部委託されるようにまる。法的、組織的、金融的に、どのような構造で資産を保有するのが最適か、その資産の拠点をどの地域に置くべきか、ウェルス・マネジャーに判断が任されるのだ。対象となる資産の種類(ヨットなのか、美術品のコレクションなのか、株式のポートフォリオなのか)と、顧客の目的にしたがい、ウェルス・マネジャーはその判断をくだす。」
(ブルック・ハリントン(1968-)『国境なき資本』(日本語名『ウェルス・マネジャー 富裕層の金庫番』)第1章 はじめに、p.5、みすず書房(2018)、庭田よう子(訳))
(索引:ウェルス・マネジャー,規制緩和,税制,規制)

ウェルス・マネジャー 富裕層の金庫番――世界トップ1%の資産防衛


(出典:CBS - Copenhagen Business School
ブルック・ハリントン(1968-)の命題集(Propositions of great philosophers) 「要するに、筆者の研究が示す理論モデルは、制度変化の源泉としての、状況に埋め込まれた即興の役割を強調することにより、専門家がグローバリゼーションに与える影響の理解を広げるものである。これは、制度理論において無視されてきたエージェンシーという側面に取り組むものである。制度理論においては、意図性予見性がとりわけ重要視され、不確実性発明性は排除されてきたからだ。現代の専門サービスの文脈で必要になるのは、「実践価値的な即興」であり、その中で「当事者は自身の利益を開発し実現する」のである。つまり計画ではなく実践を通してなのだ。これは国際的な舞台でとくに当てはまる。この舞台で知的専門家は、法律や職業規律、文化、規範などの新たな制度的構造に各法域で直面するからだ。このような場合、制度的エージェンシーを狭く構築し、「標準化された相互作用系列」や「確立された手続き」に基づくものととらえると、知的専門家の活動の重要領域を除外してしまうことになるのである。」
(ブルック・ハリントン(1968-)『国境なき資本』(日本語名『ウェルス・マネジャー 富裕層の金庫番』)第7章 結び、p.250、みすず書房(2018)、庭田よう子(訳))
(索引:)
ブルック・ハリントン(1968-)
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2020年5月10日日曜日

道徳の要請は、情況が課してくる。捉えられた情況は、事実かどうかの問題であり、特定の欲求には依存しない。しかし、その人の在り方には依存する。徳とは、情況が課してくる要求への、信頼できる感受性である。(ジョン・マクダウェル(1942-))

認知主義

【道徳の要請は、情況が課してくる。捉えられた情況は、事実かどうかの問題であり、特定の欲求には依存しない。しかし、その人の在り方には依存する。徳とは、情況が課してくる要求への、信頼できる感受性である。(ジョン・マクダウェル(1942-))】
(出典:wikipedia


(出典:古書店三月兎之杜
大庭健(1946-2018)の命題集

「このようにマクダウェルは、根本的には“事態をどう捉えるか”というところに、人の道徳性を見る。マクダウェルの当初の言い方によれば、「道徳の要請は、状況が課してくる」のであって、そうした「状況のとらえ方」は、特定の欲求に依存しない。あるいは、「徳とは、知」すなわち「状況が課してくる要求への信頼できる感受性である」。このように彼は、“道徳判断は、状況の特徴の認知から成る”とする認知主義(cognitivism)の立場に立つ。」
(大庭健(1946-)、以下の著作の解説:ジョン・マクダウェル(1942-)『徳と理性』、p.268、勁草書房(2016)、大庭健(監訳)・(訳))
(索引:認知主義)

徳と理性: マクダウェル倫理学論文集 (双書現代倫理学)



(出典:wikipedia


ジョン・マクダウェル(1942-)
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行為の理由は、欲求だけでなく情況の捉え方にも依存する。その人の在り方に応じて情況の捉え方は異なり、捉えられた情況から、ある特定の行為が好ましく思えてくる。(ジョン・マクダウェル(1942-))

認知主義

【行為の理由は、欲求だけでなく情況の捉え方にも依存する。その人の在り方に応じて情況の捉え方は異なり、捉えられた情況から、ある特定の行為が好ましく思えてくる。(ジョン・マクダウェル(1942-))】

(1)あらゆる理由が欲求から動機づけの力を得ている
 (a)情況
 (b)欲求
 (c)行為の理由の判断
  (b)が(c)を決定する。
(2)行為の理由は、欲求だけでなく情況の捉え方にも依存する
 (a)情況
  情況は、その人の在り方に応じて、異なって捉えられる。
  捉えられた情況から、ある特定の特徴がせり出して知覚される。
 (b)欲求
 (c)行為の理由の判断
  (a)と(b)とが、(c)を誘導する。

(出典:wikipedia


(出典:古書店三月兎之杜
大庭健(1946-2018)の命題集

「同じ情況においても、行為の理由の判断は、人によって異なりうる。もちろん、その違いがそのときの欲求の違いから生じている、というケースは多々ある。同じ大好物を前にしても、そのときの食欲しだいでは注文の仕方は違ってくる。こうした事実をマクダウェルは無視しない。しかし、だからと言って、「あらゆる理由が、そこに含まれた欲求から動機づけの力を得ている、というのは間違っている」。
 一般的にはむしろ、①その人の在り方に応じて一定の「情況の捉え方」が働き出し、②情況がそう捉えられると、事実のある特徴が「せり出して(salient)」知覚されあるいは「そのときの欲求によって曇らされることなく」理解され、③そのおかげで特定の行為が「好ましく見えて」くる。このように行為の理由は、「情況の捉え方」に誘導された世界への感受性による知的な成果である。」
(大庭健(1946-)、以下の著作の解説:ジョン・マクダウェル(1942-)『徳と理性』、p.267、勁草書房(2016)、大庭健(監訳)・(訳))
(索引:認知主義)

徳と理性: マクダウェル倫理学論文集 (双書現代倫理学)



(出典:wikipedia


ジョン・マクダウェル(1942-)
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事実に関する信念のみでは人は動機づけられず、事実とは独立の外在的な欲求が必要だとする外在主義に対して、フィリッパ・フット(1920-2010)は、究極的で普遍的な欲求を基礎とした道徳判断は、真偽値を持つと主張した。(大庭健(1946-2018))

フィリッパ・フットの欲求基底的な倫理学

【事実に関する信念のみでは人は動機づけられず、事実とは独立の外在的な欲求が必要だとする外在主義に対して、フィリッパ・フット(1920-2010)は、究極的で普遍的な欲求を基礎とした道徳判断は、真偽値を持つと主張した。(大庭健(1946-2018))】
(出典:wikipedia
フィリッパ・フット(1920-2010)の命題集

(出典:古書店三月兎之杜
大庭健(1946-2018)の命題集

「“事実にかんする信念は、それだけではひとを行為へと動機づけることができず、動機づけうる理由が生成するには、信念と独立の・信念にとっては外在的な、欲求が必要だ”とする考え方――(動機づけについての)外在主義――である。
 こうした見方に棹さしてフットは、「道徳的信念」(1959)という初期の論文で、“痛みを和らげたい”という欲求のように、「なぜそう欲するのか」と問うことが無意味な欲求を「究極的」「普遍的な」欲求と名付け、そうした「究極的で普遍的」な欲求に根差した道徳判断なら定言命法たりうる、と示唆した。」
(大庭健(1946-)、以下の著作の解説:ジョン・マクダウェル(1942-)『徳と理性』、p.262、勁草書房(2016)、大庭健(監訳)・(訳))
(索引:フィリッパ・フット(1920-2010),欲求基底的な倫理学)

徳と理性: マクダウェル倫理学論文集 (双書現代倫理学)


"道徳言明に特有の意味は、情動を表出するために言明されるところから生じる"とする情動主義は、道徳言明の真偽を問うことはできず、道徳的議論は単に効果的に相手の情動を喚起する心理戦とみなしてしまう。(大庭健(1946-2018))

道徳の情動主義

【"道徳言明に特有の意味は、情動を表出するために言明されるところから生じる"とする情動主義は、道徳言明の真偽を問うことはできず、道徳的議論は単に効果的に相手の情動を喚起する心理戦とみなしてしまう。(大庭健(1946-2018))】
(出典:古書店三月兎之杜
大庭健(1946-2018)の命題集

「“道徳言明に特有の意味は、情動を表出するために言明されるところから生じる”とするスチーヴンソン(Stevenson,C.)の理論であった。この考えは、情動主義(emotivism)と呼ばれ、多くの理論家によって彫琢が加えられたが、やはり大きな欠陥をかかえていた。すなわち、言明の意味が「情動の表出」に尽きるのなら、言明の真偽を問うことはできず、したがって道徳言明を用いた議論は、より効果的に情動を表出して相手を動かそうとする「心理戦」にすぎなくなる、という危惧である。」
(大庭健(1946-)、以下の著作の解説:ジョン・マクダウェル(1942-)『徳と理性』、p.259、勁草書房(2016)、大庭健(監訳)・(訳))
(索引:道徳の情動主義,情動,道徳)

徳と理性: マクダウェル倫理学論文集 (双書現代倫理学)


生命とは、その実体を特徴づける諸条件で決まる頑強な反復パターン、すなわち"宿命を帯びた物質系"である。やがて、過去の痕跡が過去の表象としての意味を創発し、未来に影響を与える記憶システムを獲得する。(丸山隆一(1987-))

宿命を帯びた物質系

【生命とは、その実体を特徴づける諸条件で決まる頑強な反復パターン、すなわち"宿命を帯びた物質系"である。やがて、過去の痕跡が過去の表象としての意味を創発し、未来に影響を与える記憶システムを獲得する。(丸山隆一(1987-))】
「森羅万象が例外なく物質の離合集散だとするならば、生物とは「宿命を帯びた物質系」であると言えないだろうか。

物には寿命がある。原子から星にいたるまで、いずれは壊れ、そのアイデンティティを喪失するときがくる。その寿命を決めるのは、純粋な確率であったり(原子核崩壊におけるように)、初期条件や他の物質との相互作用の関数であったりする(恒星の寿命におけるように)。ある意味ではどんな物質系でも、確率的にせよ物理法則によってその運命が決まっているとは言える。

しかし、生物の体はほかの物質系とは異なる強度の「宿命」をもっているように思われる。たとえば、人間の寿命はほぼ100%の確率で10^2年のオーダーに収まる。生まれたばかりの赤ちゃんを見ると、「この子には無限の可能性がある」と言いたくなり、それはあるスケールでは正しいのだが、人間の大人に成長してやがて死ぬという意味では、他の個体とそっくりな命運をたどる。

普通の物質系では、その未来の状態は、現在までのその系の履歴と、その系が外部から受ける摂動と、偶然によって決まる。対して、例えば人間である私の未来は、「人間であるという条件」によって大方決まっている(死に抗う試みも、背景にそうしたロバストな宿命があってこそのものだろう)。宇宙開闢以来、物理法則が織りなしてきた物質の位置取りの時間発展(time evolution)のなかで、生命ほどのロバストな反復パターンをもった現象が進化(evolve)してくるなどということは、まったく非自明なことに思える。

宇宙の時間発展のなかで、「宿命を帯びた物質系」として誕生した生物。しかしさらに特筆すべきは、その進化の過程で、生物の体内に「記憶のシステム」が出現したことだろう。

ある物質系のなかに、過去の出来事が痕跡として残り、その痕跡が系の未来を左右する。このこと自体はありふれており、生物に限らず、非生物でも見られる。しかし、こうしたパッシブな「痕跡としての記憶」とは質的に異なるものとして、生物進化のどこかの時点で、「過去を思い出す能力」が生まれた。神経系の状態あるいは活動という「現在の物質系の状態」が、どういうわけだか、その神経系が経験した「過去」を「表象」する。これは、非自明どころか、理解の端緒すらつかめない(この文章で展開してきた自然主義的世界観に収まるかもわからない)謎である。

ともかくも、動物の神経系という、ある種の物質の系に、「過去を思い出す」能力が備わった。そのことの意味は甚大だった。5分前のことを思いだせるからこそ、5分先のことを考えられる。通時的に存在する「自分」という概念を持つこともできる。ありとあらゆる「意味」が創発する。その最たるものである「人生の意味」をめぐる問いも、死すべき定めの自分を理解できてこそ、浮上する。

無慈悲に物質が離合集散するだけの宇宙で、宿命を帯びた生を与えられていること。これは奇跡に思える。その都度の「現在」のなかで離合集散するだけのはずのある種の物質系が、どういうわけだか「過去を表象」し、その系を携えて生きる私たちは自らの生を通時的に捉えて意味づけることができる。これはさらに大きな奇跡に思える。」
(出典:生命と記憶:眠れない夜の自然主義的断想(丸山隆一(1987-))note 丸山隆一
(索引:宿命を帯びた物質系)

2020年5月9日土曜日

「xが必要である」という言明は,もしxが奪われれば,互恵性や協調を支える規範遵守の再検討が公言可能で,しかも道徳的なことであると感受されるような社会道徳の存在を前提に,xに対する要求権や権原を生み出す。(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-))

「xが必要である」という言明

【「xが必要である」という言明は,もしxが奪われれば,互恵性や協調を支える規範遵守の再検討が公言可能で,しかも道徳的なことであると感受されるような社会道徳の存在を前提に,xに対する要求権や権原を生み出す。(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-))】

「xが必要である」という言明
(1)要求権、権原
 xに対する抽象的な要求権や権原を生み出す。
(2)社会道徳Sの存在
 (1.1)社会道徳Sの目的
  (a)人々は、自ら身を立てることができる。
 (1.2)社会道徳S
  (a)Sによって維持されている互恵性や協調という規範が存在する。
  (b)Sが社会道徳であるとは、コンセンサスの取り消しが、Sの内部ですら理解可能で自然なことであるということが判明するような、何らかの条件が確かに存在するということである。
  (c)規範遵守の再検討を公言可能にする理由
   (i)規範に対するその当該人物の遵守を再検討するために、Sの内部で公言可能かつ公的に持続可能であるような理由が存在する。
   (ii)規範遵守の再検討の公言は、協調への期待に依拠する共有された感受性の内側で、道徳的に理解され得るものとみなされる。


「あるニーズ言明の場合、それらの言明は、あるものに対するニーズを伝えるのだが、そのものが必要となるということは、そのものに対する抽象的な権利や権原をまさに生み出すものの一部である。ここで示唆されているのは次のことである。すなわち、実際に存続しており、自ら身を立てるという共有された関心事を行為者に提案することに成功しているような、そうしたある社会道徳Sの目的のために、《条件Cのもとでのxに対する抽象的な要求権や権原》が存在する。そう言えるのはまさに以下の場合である。すなわち、《xは、それが条件Cのもとで否定されたり奪われたりすることで、否定され奪われた当該人物に、ある理由の部分ないしはすべてが与えられる(また、与えていると思われうる)ような何かであり、その理由とは、Sによって維持されている互恵性や協調という規範に対するその当該人物の遵守を再検討するために、Sの内部で公言可能かつ公的に持続可能であるような理由である》、という場合である。要するに、もしそのような場合にxを奪われた犠牲者が、口にされたか前もって口にされなかったかする協調への期待のなかで、われわれを失望させるのならば、そのことは、この期待に依拠する共有された感受性の内側で道徳的に理解されうるものとみなされる、ということである。
 ある権利の存在のためのこうしたきわめて差し迫った条件がもつ完全な意味合いをつかむためには、それが依拠する想定を述べることが役立つであろう。それは、以下のような想定である。すなわち、コンセンサスの取り消しがS《の内部ですら》理解可能で自然なことであるということが判明するような《何らかの》条件――言い換えれば、Sに属する誰かが自らを不正に(それどころか正当化不可能な仕方で)犠牲になってきた者だと考えることをSが少なくとも許容するような何らかの条件――が確かに存在していたのでない限り、Sが社会道徳とみなされることはほとんどありえない、という想定である。」
(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)『ニーズ・価値・真理』第1章 ニーズの要求、17、pp.41-42、勁草書房(2014)、大庭健(監訳)・奥田太郎(訳))
(索引:ニーズ,ニーズの要求,社会道徳,要求権,権原,規範遵守の再検討)

ニーズ・価値・真理: ウィギンズ倫理学論文集 (双書現代倫理学)



(出典:Faculty of Philosophy -- University of Oxford
デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)の命題集(Propositions of great philosophers)

デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)
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メタ倫理学は,特定の道徳的立場には拠らず,道徳的判断における真偽値の存在を疑い,あるいは真偽値の意味,道徳的表現の規則,機能を解明しようとする。これは,個別具体的な道徳的判断のための第一歩に過ぎない。(アンゼルム・W・ミュラー(1942-))

メタ倫理学と倫理学

【メタ倫理学は,特定の道徳的立場には拠らず,道徳的判断における真偽値の存在を疑い,あるいは真偽値の意味,道徳的表現の規則,機能を解明しようとする。これは,個別具体的な道徳的判断のための第一歩に過ぎない。(アンゼルム・W・ミュラー(1942-))】

(1)メタ倫理学的な問い、道徳的に中立な道徳哲学
 人はいかに生きるべきかをどのように反省し、それを言葉にしているのか
 (a)道徳的判断における真偽値の存在
  そもそも道徳的発言について、正しいとか誤っていると語ることはできるのか。
 (b)道徳的判断における真偽値の意味
  どのような意味でなら、道徳的発言について正しいとか誤っていると語ることができるのか。
 (c)道徳的表現の規則、機能
  概念分析の目的は、道徳的表現が用いられる際の規則と機能、およびそれらが言語的および非-言語的文脈で担っている役割を明らかにすることによって、そうした表現を理解するための手助けとすることにある。 (d)特定の道徳的立場は前提にしない
  特定の道徳的な立場をとることを避け、中立的な距離を保ちつつ判断する。
(2)倫理的判断、道徳的判断
 人はいかに生きるべきか。それぞれのケースでどの判断が正しくどの判断が誤っているのか、それゆえどの振舞いはよくてどの振舞いは悪いのかという問いに答えること。

「メタ倫理学者は、人はいかに生きるべきかについて考察し、それについて言明する代わりに、人はいかに生きるべきかをどのように反省し、それを言葉にしているのかについて考察する。メタ倫理学者たちの言明は、人間の振舞いについての倫理〔学〕的判断、つまり道徳的判断とは別のレベルにある。彼らは、《これらの判断》についてだけ、しかも特定の道徳的な立場をとることを避け、中立的な距離を保ちつつ判断する。彼らによれば、概念分析の目的は、道徳的表現が用いられる際の規則と機能およびそれらが言語的および非-言語的文脈で担っている役割を明らかにすることによって、そうした表現を理解するための手助けとすることにある。また、メタ倫理学者は、どのような意味でなら道徳的発言について正しいとか誤っていると語ることが《できる》のか、いや、そもそも道徳的発言について正しいとか誤っていると語ることは《できる》のかについて研究する。これに対して、それぞれのケースでどの判断が正しくどの判断が誤っているのか、それゆえどの振舞いはよくてどの振舞いは悪いのかという問いは、この倫理学観に従う限り、哲学の主題ではないことになる。
 たしかに、メタ倫理学者が考えているような道徳的に中立な哲学は可能かもしれない。道徳的な考えに関する概念分析と人間学的な理解が哲学にとって重要な課題であることは、いずれにせよまちがってはいない。にもかかわらず、この課題に《とどまりつづけようとする》道徳哲学には何かが欠けているように思われる。つまり、道徳的に中立な道徳哲学は、道徳が掲げる要求、すなわち自分が下した道徳的判断の真理性、自分とは異なる道徳的考え方の締め出し、これと真剣に取りくんでいないように思われるのである。もし道徳哲学が、哲学としてこれらの要求と真剣に取りくもうとするなら、これらの要求は受け入れられないとして拒否するか、さもなくば、少なくとも原則としては、どうしたら道徳的問いにおける真・偽を決定することができるかという問題を解明するかのどちらかを選ばなければならないだろう。」 (アンゼルム・W・ミュラー(1942-)『徳は何の役に立つのか?』第1章 徳倫理学への道、p.23、晃洋書房(2017)、越智貢(監修)・後藤弘志(編訳)・上野哲(訳))
(索引:メタ倫理学,倫理学,道徳哲学,倫理的判断,道徳的判断)

徳は何の役に立つのか?


(出典:philosophy.uchicago.edu
アンゼルム・W・ミュラー(1942-)の命題集(Propositions of great philosophers)
「私たちが彼に期待しているのは、むしろ、「幸福は価値あるもののすべてではない」という回答である。この言葉には《不合理なもの》は何もない。私たちが幸福を理性的な努力における比類のない究極の理由として《定義づけ》ようとするのなら別だが、それにもかかわらず、この回答ではまだ答えきれていない問題がもう一つある。
 有罪の判決を下された者の多くは、自らの手紙の中で揺れる気持ちを表現している。一方で彼らは、自分の家族や友人たちとそのまま生き続けたかったに違いない。他方で、彼らは、国家の不正に抵抗すれば死刑判決は免れないという《変更不可能な条件の下で》、つかみ損ねた自らの幸福よりも実際に自らが歩んだ道を、後になってさえ選ぶのである。その際、彼らは、自らが歩んだ道の方が、(上の第2の論点の意味で)《一層深い》幸福を自らに与える見込みがあったのだ、などと自分に言い聞かせることはでき《ない》。
 徳の「独自のダイナミズム」が、仲間のために身を捧げるという振舞いに、道徳的に中立な動機や観点よりも優位を与えることは間違いない。その限りでは、《有罪判決を下されたレジスタンスの闘志たちは》、自らが取った道を(たとえ後になってからでも)肯定《する以外はできなかった》のである。ただし、彼らだけでなく私たち自身も、徳が彼らの「ためになった」のであり、彼らに不利益をもたらしたわけではないことを《確信》していない場合には、この主張はシニカルな印象を与える。しかしながら、本章の考察も、そうした確信のための足場を提供できたわけではない。ひっとしたら、よい人間が手にしている信念には、いまだ神秘のベールに包まれた部分が残されており、哲学はそれをただ尊重し得るだけなのかもしれない。
(アンゼルム・W・ミュラー(1942-)『徳は何の役に立つのか?』第8章 理由がなくともよくあるべき理由、pp.236-237、晃洋書房(2017)、越智貢(監修)・後藤弘志(編訳)・衛藤吉則(訳))
(索引:)

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