社会理論と社会の相互作用
社会理論は、それが言及する対象に影響を及ぼす(オイディプス効果)。認識者がこの影響を意識したとき、対象の状況が理論に逆向きの影響を及ぼす。その結果、理論には特定の時代に支配的 な嗜好や、政治的、経済的、階級的利害が反映される。そうだとすると、社会理論の客観性とはいったい何なのかが問題となる。(カール・ポパー(1902-1994))
【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良
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【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良
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(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第1章 歴史主義の反自然主義的な見 解,1 一般化,pp.26-30,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))
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(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第1章 歴史主義の反自然主義的な見 解,5 正確な予測の不可能性,pp.37-38,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))
【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良
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物理学者が社会科学的問題を自分の分野からの類推で理解しようとするなら、次のような世 界を想像せざるをえないだろう。そこでは原子〔個々の人間〕の内部を直接観察して知ること ができるが、多くの材料を集めて実験をすることはできず、ごくわずかな原子の相互作用を限 られた期間しか観察できない。物理学者は、さまざまな種類の原子についての知識から、原子 が集まって大きな単位となるような、さまざまな仕方でモデルを構築できるだろう。そしてこ れらのモデルを、より複雑な現象をそこに観察できるようないくつかの事例のすべての特徴 を、ますます厳密に再現できるようにしていくこともできるだろう。しかし、物理学者はマク ロの世界の法則を、ミクロの世界について自分が持っている知識から引き出すのであり、その 法則は常に「演繹的」なものになる。複雑な状況のデータについての知識が限られているた め、その法則から個々の状況の結果を正確に予測することはほとんどできない。また、対照実 験により法則を確認することもできない。もっとも、自説によればありえないはずのできごと を観察したときには、その法則は《反証》されるのではあるが。」
(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第4章 親自然主義的な見解への批判,29 方法の単一性,pp.220-222,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))
【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良
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右に展開してきた歴史主義者の議論からは、以下の結論が導ける。
社会の発展をそのまま記述することは不可能である。あるいは、社会学的記述は単なる 唯名論的意味での記述ではありえない、と言った方がいいかもしれない。社会学的記述が本質 抜きではありえないとしたら、社会の発展の理論はなおさら本質を無視しては成り立たない。 社会的なある時代の特徴を、その時代の緊張状態やそこに内在する傾向やトレンドとともに確 認し、説明するという課題に対しては、唯名論的手法により一切の対処の努力が許されないと いうことは、誰も否定できないからである。
したがって、方法論的本質主義の基には、プラトンを実際に形而上学的本質主義に導いた議 論と同じ歴史主義的議論があると言うことができる。つまり、変化する事物だけでは合理的記 述は不可能だというヘラクレイトス的議論である。
科学や知識は、前提として、変化せずにそれ自体と同一であり続ける何ものか、すなわち本質を必要とする。 こうして見ると、《歴史》、すなわち変化の記述と、《本質》、すなわち変化の中で不変を 保つものとは、相関的な概念であると思われる。しかしこの相関には別の面もある。ある意味 で本質は変化を前提とし、それにより歴史を前提としているということである。なぜなら、事 物が変化するときに同一のまま変化しない原理が本質(あるいはイデア、形相、本質、実体) であるとするなら、その事物が被る変化こそが、事物の異なる側面、あるいは可能性を、した がってその本質を明るみに出すからである。つまり、本質とは事物に内在する可能性の総和、 または源泉と解釈することができ、変化(あるいは運動)とは、事物の本質の潜在的可能性の 現実化、具現化と解釈できる(この説はアリストテレスに由来する)。したがって、事物、す なわちその不変の本質は、《変化を通して》のみ知ることができると言える。 たとえば、あるものが金でできているかどうかを知りたければ、叩いたり、化学的に検査し たりして、つまりそれを変化させて潜在的可能性を引き出さなければならない。同様に、人間 の本質――性格――は、その本質が人生の展開の中で現われてくるときにのみ知ることができる。 この原理を社会学に適用すると、以下のような結論が導かれる。ある社会集団の本質、すなわ ち本当の性格は、その歴史を通じてのみ自ら現われ、知られることができる。 しかし、社会集団がその歴史を通じてのみ知られうるとしたら、その集団を記述する概念は 歴史的概念でなければならない。実際、日本《国家》であるとかイタリア《国民》、アーリア 《民族》といった社会学的概念は、歴史研究に基づいた概念であるとしか考えられない。社会 《階級》についても同じことが言える。たとえば《ブルジョワ》というのは、歴史によっての み――産業革命により権力を得て、地主を押しのけ、プロレタリアートと闘っている階級として ――定義される概念である。
本質主義は、変化する事物の中で同一性を見出せるのは本質あってのことであるという根拠 に基づいて考えられたものかもしれないが、結局は、社会科学は歴史的方法を採用しなければ ならないとする見解、言い換えれば歴史主義を支える最も強力な議論の一部を用意するものと なったのである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第1章 歴史主義の反自然主義的な見 解,10 本質主義と唯名論,pp.61-65,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))
【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良
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【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良
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【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良
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【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良
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(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第3章 反自然主義的な見解への批判,24 社会実験の全体論,pp.148-151,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))
現実的に価値を持つ実験など一切ありえないとまで論じられる。
社会学における大規模実験は、物理学的意味での実験ではない。それは知識を深めるた めに行なわれるのではなく、政治的な成果を達成するために行なわれる。外界から切り離され た実験室の中で実施されるのではなく、実験を行うこと自体が社会の条件を変化させる。最初 の実験で条件が変化してしまう以上、全く同じ条件の下で実験を繰り返すことはできない。 」
(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第1章 歴史主義の反自然主義的な見 解,2 実験,pp.30-31,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))
【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良
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「1 ここで詳しく検討できませんが、議論の前提の一つは、政治では、次の二つの違った 問いを区別すべきだということです。つまり、次の二つについての問いです。 (a)社会科学(たとえば、権力の社会学)によって扱われる、社会学的な事実。 (b)倫理的な考察に基づいているか、他の意思決定に基づいているかのいずれにせよ、政治 的な目標。 われわれの最初の命題は、目標や意思決定は事実と関係はするが事実から導き出すことは不 可能だ、ということです。目標や意思決定を事実から導き出そうとするどのような試みも誤り です。たとえば、何人も奴隷となってはならないと、意思決定したり、このことが実現した社 会を目標としたりすることはできます。しかし、この決定や目標は、すべての人は自由に生ま れるという事実と称されるものからは導き出せません。というのも、もしすべての人が自由に 生まれるということが事実だとしてさえも、なお人々を奴隷にすることを目標にできるからで す。また、もしすべての人が鎖につながれて生まれてくるとしてさえも、なお、人々を解放すべきと要求できるのだからです。言い換えると、どのような一連の事実を考慮に入れても、つねに 多くの目標や意思決定、たとえば、それらの事実を変更するとか、そのままにしておくとか、 そういった目標や意思決定が可能なのです(もし問題となる事実が変更不可能なら、そのとき これらの特定の事実に関してはいかなる目標も設定できません)。 目標や意思決定は事実に還元できないという主張は、しばしば異議を唱えられてきました。 たとえば、意思決定の仕方は、事実に、つまり、教育やそれと同じような影響に依存してい る。あるいはまた、目標や意思決定もそれ自体が事実である。したがって、目標や意思決定と 事実が、このように厳格で揺るぎない区分だとするのはばかげている、などと言われてきまし た。この場でこれらの反論に答えることは不可能ですが、私の本の中で、これらの反論には十 分に答えていると考えます。ここではこの目標や意思決定は事実に還元できないという主張を 当然としていただくようお願いしなければなりません。
2 目標や意思決定は還元不可能だという主張を受け入れるなら、政治とは、政治目標とその 実現方法の選択であると見なさねばなりません。われわれは、そのような目標を実現可能なも のとして選択するでしょう。それらの目標が実現可能かどうかは事実の問題であり、社会科学 によって探究されるべきことです。そしてそれらの目標を実現する方法もまた、社会科学に よって探究されるでしょう。しかし、可能かつ実際に実現可能だという制約の中で、われわれ は自由な選択をする、つまりわれわれが自分たちの目標を自ら決定するのです。 この見方は、われわれの目標は歴史的ないし経済的必然性によって決定されると信じるすべ ての見方、ここでは論ずるつもりのない見方に反対しているのです。
3 ここで私が描き出した政治の考え方は、実は私がしりぞけようとする一つの帰結に結び付 いているように見えます。しかし、そうだとしても、私はこの考え方を固く維持するつもりで す。その見かけ上の帰結とは次のことです。 もし政治が自由に選択された目標の実現なら、政治が取りうる唯一の合理的方法は以下のも のです。すなわち、最初にわれわれは自分たちの究極目的を決定しようとする、つまり、最初 にわれわれが(可能で実際に実現可能な社会のうちで)どのような種類の社会を最も好むかに ついて合意に辿り着こうとします。そして次に、この社会を実現する最上の方法を見つけよう とする、というものです。 ここで描き出した見方に、「空想主義」と名前を付けることにしましょう。理想社会が不可 能だとか、実行不可能だということは、この種の空想主義に対する妥当な反論ではないことを 理解することが重要です。不可能なあるいは実行不可能な社会を夢見ることは、ここでは関係 のないことです。というのも、そのような社会は不可能だ、あるいは実行委不可能だと容易に 批判できるからです。私が批判を試みるのは、はるかに重大なことなのです。つまり(その選 択が可能性と実行可能性の制約に制限されることは理解されているとしても)、「どんな種類 の社会をもちたいかをまず最初に決めましょう」などと言って政治問題にアプローチする、見 かけは合理的な方法、そのような方法の批判を私は試みるのです。 〔この箇所で草稿は終わっているが、以下のいくつかのメモ書き、及び構想も存在す る。〕
社会問題の改革:人生の展望と生き方の相互調整の問題 われわれは事実から始めねばならない 目標は事実に還元不可能 われわれは事実の評価から始めねばならない 目標は事実に還元可能 われわれは目標から始めねばならない
4 自由・正義・平等といった形式的原理ではなく、具体的社会、一連の新しい制度、社会生 活の様式。ん一連の新しい制度、社会生活の様式は......
5 実行不可能性が問題ではなく、そのアプローチが全体主義的であり、そして全体主義は怪 物キマイラである。一連の新しい社会制度の帰結を《すべて》思い描くことはできない。空想 主義的計画に対立するのは......
6 (本からの)さらなる批判。変数を定数にする。変化の抑制や変化の制御
7 悪に対する漸次的(Piecemeal)闘い
同意
8 功利主義
9 なぜ最小限の要求か
10 開かれた社会の考え方は......であるのか〔削除された項目〕 空想主義と開かれた社会〔削除された項目〕
11 いわゆる「人間を変質させる問題(Problem of Transforming Man)〔削除された項 目〕
12 空想主義と歴史主義と閉じた......〔削除された項目〕
13 空想主義の出自
閉じた社会の崩壊
改革の問題。完全改革(Complete adaptation)は不可能であろう。大規模な一括改革 (Wholesale adaptations)は《事実》不可能である。」
(カール・ポパー(1902-1994),『社会と政治』,第3部「開かれた社会」について,第5章 公 的価値と私的価値――1946年?,補遺 空想主義と「開かれた社会」,pp.145-148,ミネルヴァ 書房(2014),吉川泰生(訳),神野慧一郎(監訳),中才敏郎(監訳),戸田剛文(監訳))
カール・ポパー社会と政治 「開かれた社会」以後 [ カルル・ライムント・ポッパー ]
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カール・ポパー社会と政治 「開かれた社会」以後 [ カルル・ライムント・ポッパー ]
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(カール・ポパー(1902-1994),『社会と政治』,第4部 冷戦とその後,第8章 開かれた社会と 民主国家――1963年,pp.199-200,ミネルヴァ書房(2014),戸田剛文(訳),神野慧一郎(監 訳),中才敏郎(監訳),戸田剛文(監訳))
カール・ポパー社会と政治 「開かれた社会」以後 [ カルル・ライムント・ポッパー ]
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(カール・ポパー(1902-1994),『社会と政治』,第3部「開かれた社会」について,第5章 公 的価値と私的価値――1946年?,II,pp.134-135,ミネルヴァ書房(2014),吉川泰生(訳),神 野慧一郎(監訳),中才敏郎(監訳),戸田剛文(監訳))
カール・ポパー社会と政治 「開かれた社会」以後 [ カルル・ライムント・ポッパー ]
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「さて、4つの用語(a)、(a')、(b)、(b')は、ある態度・要求・道徳的決定・道徳律を記 述する。これらの用語は事例を挙げれば容易に説明できる。集団主義から始めよう。集団主義 が最もよく例示されるのは、個人はつねに集団全体や共同体、たとえば、都市・国家・部族・ あるいは他の集合体の利益に役立たねばならないというプラトンの要求である。「部分は全体 のために存在するが、全体は部分のためには存在しない......。あなた自身も全体のために創られ たのであり、あなたのために全体が創られたのではない」とプラトンは書いている。この引用 は、集団主義の例示というだけでなく、感情に強く訴えるものももっている。それは、たとえ ば、集団や部族への帰属願望といった様々な感情に訴えるのである。そして、このように訴え る要因の一つは、疑いもなく、利己主義や自分本位(b)に反対するという道徳的に訴える力で ある。プラトンが示唆し、後の集団主義者すべてがプラトンに従った点は、もし全体のために 自己利益を犠牲にできないのなら、その人は自己本位な人物であり、道徳的に堕落していると いうことである。 しかしながら、上述の小さな表を少し眺めれば分かるように、そうではないのである。集団 主義は利己主義と対立しないし、利他主義や自分本位でないことと同一でもないのである。集 団主義者は集団利己主義者でありうる。集団主義者は、他のすべての集団と対立して、自分自 身の集団の利益を自己本位に守るかもしれない。集合的利己主義ないし集団利己主義(たとえ ば、国家利己主義や階級利己主義)は非常にありふれたものだ。そのようなものの存在によっ て、集団主義が自分本位と対立しないことが申し分なく明確に示される。 他方、個人主義者たる反集団主義者は、同時に利他主義者でありうる。つまり他の個人を助 けるために進んで犠牲になれるのである。人は他人すなわち他の個人に、その人たちの喜びや 悲しみに、そしてその希望と涙に関心をもちうるのである。このように他の個人に直接関心を もつことは、共同体や集団への関心を必要としない。個人主義者だということが意味するの は、すべての人間個人のうちに見い出すのが、たとえば国家の利益といった、さらに別の利益 にとっての単なる手段でなく、目的そのものだということである。《個人主義者だということ は、自分自身の個人性を取り立てて深刻に考えることを意味しないし》、他人の利益より自分 自身の利益をより(あるいは同程度にですら)強調することも意味しないのである。 さて、われわれの小さな表をもう一度見ると、4つの立場の組み合わせのうち、2つが不可能 だと分かる。つまり、(a)と(a')の組み合わせと、(b)と(b')の組み合わせである。この組み 合わせが不可能なのは、個人主義を反集団主義として、集団主義を反個人主義として定義した からだ。そして、同じように、利己主義を自分本位として、利他主義を非自分本位として定義 できるだろう。《しかし、他の組み合わせはすべて成り立つのでる》。 つまり、(a)と(b)を結び付けて利己主義的な個人主義が作れ、あるいは、(a)と(b')を結 び付けて利他主義的な個人主義を作れるのである。そして、同じようにして、(a')と(b)を結 び付けて利己主義的な集団主義を作れ、さらに、(a')と(b')を結び付けて利己主義的な集団 主義を作れるのである。 ここに4つの立場があり、その一つを選ばねばならない、このことを理解するのが非常に重 要である。プラトン、そしてほとんどの集団主義者たちはプラトンと同じく、つねにこの事実 を曖昧なままにしておこうとした。つまり、個人主義と集団主義という二つの可能性しか存在 しないかのように語ったのである。しかも、(a)かつ(b')という立場を無視し、集団主義を唯 一の利他主義的態度、したがって唯一の道徳的態度だとして褒めたたえ、個人主義を利己主義 とつねに同一視したのである。しかし、集団主義について語るとき集団主義者たちが念頭にし ているのは、利他主義的集団主義(つまり、自分自身の共同体ではない他の共同体の権利の承 認)ではなく、利己主義的集団主義、つまり、自分たち自身の共同体の重視であった。このよ うにして、利他主義へ向う道徳的衝動は、集団主義へと向かう衝動へとねじ曲げられたのであ る。集団主義者はわれわれのもつ道徳的利他主義に訴えるのだが、それを自らの集団利己主義 的な目的のために使ったのである(そして同じことが、ファシストと共産主義者によってなさ れた)。 これまで話したことから明らかであろうが、私は個人的にはこれら4つの可能性のうち、(a) かつ(b')、つまり個人主義と利他主義の組合せを採用すべきだと、つまり、利他主義的個人主 義を採用すべきだと信じている。実際のところ、ソクラテスの時代よりこの方、この利他主義 的個人主義は多くの人の信条であった。思うに、これはまたキリスト教徒の態度でもあり、こ こで、キリスト教がもつ個人主義を例証する一節を、マーリン・デイヴィス卿の講演から引用 してもよかろう。マーリン・デイヴィス師はこう書いている。「まず第一に、神によって創られ、キリストによって贖われたのだから、人間の人格は永遠の価値をもつものだという確信を もって、キリスト教徒は政治に携わらなければならない」と。 このことが意味するのは、政治や社会へのわれわれの関心が、人間個々人に対するわれわれ の関心に、彼らを助けようと案じることに、そして彼らに対するわれわれの責任に、完全に基 づいていることである。これは、明確な個人主義――もちろん利他主義的個人主義――である。こ れは、(プラトンが、ファシストと同じく要求したように)《国家のために個人が存在すべ き》というのではなく、《国家は個人のために存在すべき》という要求につながるのであ る。」
(カール・ポパー(1902-1994),『社会と政治』,第2部 ニュージーランドでの講義,第4章 道 徳的な人間と不道徳な社会――1940年,pp.118-120,ミネルヴァ書房(2014),吉川泰生(訳), 神野慧一郎(監訳),中才敏郎(監訳),戸田剛文(監訳))
カール・ポパー社会と政治 「開かれた社会」以後 [ カルル・ライムント・ポッパー ]
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「もちろん生物といっても、物理と化学の法則には従わなければならない。しかし、それらの諸法 則は生物学にとっては付随的なものでしかなく、法則の主な役割は、適切な論理的かつ情報的な体 系が形成されるその場を規定することにある。
普通の化学反応と普通の熱力学で間に合う場合、生命は進んでそれを受け入れる。 しかし、化学 として「不自然な」ことでも、生命はその抜け道を見つける。 生命は必要な触媒を編み出して異例 の反応を強行し、エネルギーを付加された適切な分子をつくって、ときには化学を複雑に重ね合わ せ、熱力学の勾配に逆らって進む。
そこで、生命の発生へと向かう道の主要な一歩は、分子がただ受動的に普通の化学の道に従って いた状態から、自分自身の通り道を自分でつくるようになった、という変容であろう。その巨大 な一歩は、遺伝子の暗号を使ったソフトウェアによる操作を導入することによって、この相反する 「自然な」反応と「不自然な」 反応の二つを結び合わせることを可能にしたのである。生命は、情 報を通した反応操作を使うことで、化学の規制から抜け出すことができ、ぎこちない原子の相互反 応を脱して、自律の能力をもつ新しい世界に舞い上がることが可能になったのである。
この肝心なところを理解すると、生物起源の真の問題が明らかになる。 分子生物学が急速に進展して以来、研究者たちは生命の秘密について物理学と分子化学の方面に目を向けてきた。しかし、 うまく行かなかった。その理由は、彼らが従来の物理学と化学で、 生命を説明しようとしたからで ある。
それは媒体と伝言を取り違える古典的な例だったということができる。生命の秘密は、その化 学的な基盤にあるのではなく、生命が利用している論理と情報の諸規則のなかに求めなければなら ない。生命は、化学の命令を「回避」することによって成功しているのである。」
(ポール・デイヴィス(1946-),『5番目の奇跡』(日本語書籍名『生命の起源』),第10章 宇宙は生命を育むか,pp.374-375,明石書店,2014,木山英明)