2021年12月7日火曜日

規範を事実の上に基礎づけることは不可能である。これに対する反論として、規範が人間の心理学的、精神的本性、人間社会の本性から導出できると主張する心理学的ないし精神的自然主義がある。しかし、およそ人間の心に浮んだ事柄で "自然的"でないものなどあるだろうか。(カール・ポパー(1902-1994))

心理学的ないし精神的自然主義への批判

規範を事実の上に基礎づけることは不可能である。これに対する反論として、規範が人間の心理学的、精神的本性、人間社会の本性から導出できると主張する心理学的ないし精神的自然主義がある。しかし、およそ人間の心に浮んだ事柄で "自然的"でないものなどあるだろうか。(カール・ポパー(1902-1994))


「(3)心理学的ないし精神的自然主義はある意味で前の二つの見解の結合であり、これらの 見解の一面性に対する反論の形で説明するのが最も適当である。倫理的実定主義者がすべての 規範は規約的であること、すなわち人間と人間社会の所産であることを強調する限り正しい、 とこの議論は始まる。だが彼は、規範がそれゆえに人間の心理学的ないし精神的本性の表現で あるという事実、人間社会の本性の表現であるという事実を見過ごしている。生物学的自然主 義者は一定の自然の目標ないし目的があって、そこから自然規範を導き出すことができると仮 定する点において正しい。だが彼は、われわれの自然の目標が必ずしも健康、快楽、食物、保 護や繁殖のようなものとは限らないという事実を見過ごしている。人間、少なくともある人々 はパンのみにて生きることを欲せず、より高次の目標、精神的な目標を求める、というのが人 間本性である。こうしてわれわれは人間の真の自然目標を、精神的で社会的である人間の真の 本性から導き出せるのである。更にまた、われわれは生活の自然な規範を人間の自然な目的か ら導き出すことができるのである。」(中略)「精神的自然主義がどんな「実定的な」すなわ ち現存の規範を擁護するためにも利用できるということは明らかである。というのは、これら の規範が人間本性の何らかの特性を表現するのでないならばそれらは実施されることはないで あろうというふうに、常に論じることができるからである。このようにして精神的自然主義 は、実践的諸問題においては、伝統的な対立があるにもかかわらず実定主義と合一することが できるのである。実際にこの形態の自然主義は非常に包括的でかつ漠然としているので、どん なものを擁護するためにも利用できるほどである。およそ人間の心に浮んだことのある事柄で 「自然的」であると主張できないようなものは存在しない。というのはもしそれが本性の中に あるのでないとすれば、いかにしてそれが人間の心に浮びえたであろうか。」 
 (カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第5章 自 然と規約,第5節,pp.84-85,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠(訳))


カール・ポパー
(1902-1994)









規範を事実の上に基礎づけることは不可能である。これに対する反論として、倫理的、道徳的ないし法的な規範が現存するかどうかは社会学的な事実問題であると主張する倫理的実定主義がある。しかし、事実として存在しても、それをもって基礎づけられたと言えるだろうか。(カール・ポパー(1902-1994))

倫理的実定主義への批判

規範を事実の上に基礎づけることは不可能である。これに対する反論として、倫理的、道徳的ないし法的な規範が現存するかどうかは社会学的な事実問題であると主張する倫理的実定主義がある。しかし、事実として存在しても、それをもって基礎づけられたと言えるだろうか。(カール・ポパー(1902-1994))




「(2)倫理的実定主義は、われわれは規範を事実に還元するように試みなければならないと いう信念を倫理的自然主義の生物学的形態のものと共有している。だが今度は、事実とは社会 学的事実すなわち現存する規範のことである。実定主義 positivism は現実に設定されてき た(あるいは「置かれた posited」)、それゆえ確実な positive 存在をもっている法律 以外の規範は存在しないと主張する。現存する法律は 善の唯一可能な基準である。すなわち存在するものが善である(力は正義である)。この理論 のある形態のものによれば、個人が社会の規範を判定できると信じることは途方もない誤解で あり、むしろ個人が判定されねばならない掟を与えるのが社会なのである。  歴史的事実としては、倫理的(ないし道徳的ないし法的)実定主義は通常保守的であり、権 威主義的でさえあった。またしばしば神の権威を持ち出しもした。その論拠はいわゆる規範の 恣意性に依存するものと私は信じる。それが主張するのは、われわれが自ら発見できるような より良い規範など存在しないのだから、現存する規範を信じなければならないということであ る。」

 

(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第5章 自 然と規約,第5節,p.83,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠(訳))

カール・ポパー
(1902-1994)










規範を事実の上に基礎づけることは不可能である。しかし、規範の恣意性に対する反論として、それらの規範を導出できる自然法則があるのではないかと主張する生物学的自然主義がある。確かに"自然な"行為はあるかもしれない。では、我々の文明や文化は自然なのか不自然なのか。(カール・ポパー(1902-1994))

生物学的自然主義への批判

規範を事実の上に基礎づけることは不可能である。しかし、規範の恣意性に対する反論として、それらの規範を導出できる自然法則があるのではないかと主張する生物学的自然主義がある。確かに"自然な"行為はあるかもしれない。では、我々の文明や文化は自然なのか不自然なのか。(カール・ポパー(1902-1994))


「以前に指摘したように、素朴ないし呪術的一元論から規範と自然法則の間の区別を明確に 自覚する批判的二元論に至るまでの発展には、多くの中間段階がある。これらの中間的な立場 は大抵、もし規範が規約的ないし人工的であるならば、それは全く恣意的でなければならない という考え違いから生じる。それらの要素をすべて結合しているプラトンの立場を理解するた めには、これらの中間的な立場の中で最も重要な三つの立場を調査することが必要である。そ れは(1)生物学的自然主義、(2)倫理的ないし法的実定主義、(3)心理学的ないし精神的自然主 義である。これらの立場のどれもが互いに根本的に対立する倫理的見解を擁護するために用い られてきたこと、より詳しく言えば、力の礼讃のためにも弱者の権利の擁護のためにも用いら れてきたということは興味深い。  (1)生物学的自然主義、あるいはもっと精密に言えば倫理的自然主義の生物学的形態とは、 道徳法則や国家の法律が恣意的であるという事実にもかかわらず、それらの規範を導き出すこ とのできるある種の永遠不変の自然法則が存在するという理論である。食習慣、すなわち食事 の回数や摂取する食物の種類などは規約の恣意性の一例であるが、この分野には疑いもなく一 定の自然法則が存在する、と生物学的自然主義者は論じるであろう。例えば、人間は食物を不 十分に摂取したり過剰に摂取したりすれば死ぬであろう。こうして現象の背後に実在があるの と同様に、われわれの恣意的規約の背後には何らかの不変の自然法則、とりわけ生物学上の法 則があるように思われる。」(中略)「私はこれらの教説を後にもっと詳しく論じよう。現在 のところは生物学的自然主義がいかにして最も離れた倫理的諸教説を支持するために用いられ うるかを示すのに役立つであろう。規範を事実の上に基礎づけることは不可能だというわれわ れの以前の分析に照らしてみれば、この結果は予期されないことではない。  しかしながらこのような考察は、生物学的自然主義ほどに人気のある理論を打ち負かすには おそらく十分ではないであろう。そこで私は二つの一層直接的な批判を提案する。第一に、あ る種の行動形態が他のものより「自然だ」として記述できることは認めなければならない。例 えば裸で歩くことや生の食物のみを食べることがそうであり、ある人々はこのこと自体がこれ らの形態を選択することを正当化するものと考える。だがこの意味では、芸術や科学や、あるいは自然主義的支持の議論に興味をもつことさえも、確かに自然ではないことになる。至高の 基準として「自然」との一致を選ぶことは、究極的にはほとんどの人が直視する覚悟をもたな いような結果へ通じる。これはより自然な形態の文明へと導くのではなく獣性へと導くのであ る。第二の批判はより重要である。生物学的自然主義者は、もし素朴にもわれわれはいかなる 規範をも採用する必要などなく単純に「自然の法則」に従って生きればよいのだと信じている のでないとすれば、自分の規範を健康の条件等を決定する自然法則から導き出せると仮定して いるのである。彼は自分が一つの選択、決定をしているのだという事実、また他のある人々 (例えば医学研究のために意識的に自分の生命の危険を冒した多くの人々)は自分の健康以上 にあるものを大事にするということがありうるという事実を見過ごしているのである。それゆ え彼が、自分は何ら決定を下してはいないとか、自分の規範を生物学的法則から導き出したの だとか信じるならば、彼は誤っているのである。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第5章 自 然と規約,第5節,pp.80-83,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠(訳))
カール・ポパー
(1902-1994)










2021年12月5日日曜日

社会科学はもともと、社会を改善する提案に対する批判を通じて発展してきたが、技術的社会科学は、これを継承する。それは、(a)有意義な理論の源泉であり、(b)科学的な基準に準拠しているがゆえに、(c) 形而上学的思弁への歯止めにもなっている。(カール・ポパー(1902-1994))

技術的社会科学の効用

社会科学はもともと、社会を改善する提案に対する批判を通じて発展してきたが、技術的社会科学は、これを継承する。それは、(a)有意義な理論の源泉であり、(b)科学的な基準に準拠しているがゆえに、(c) 形而上学的思弁への歯止めにもなっている。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)社会の改善提案への批判的研究
 社会科学は、ごく一般的に言うなら社会を改善する提案に対する批判を通じて、より厳密 に言うなら、経済的あるいは政治的なある特定の行為が期待された望ましい結果を生み出す可 能性が高いかどうかを知る試みを通じて、発展してきた。
(b)有意義な理論の源泉
 技術 的アプローチは、そこから純粋に理論的で有意義な問題が生まれるという点で実りあるものと なるだろう。
(c)科学的な基準への準拠
 技術的にアプ ローチすることで、私たちは、明晰性の基準や実践的検証可能性など、ある決まった基準に 従って理論を立てざるをえなくなる。
(d)形而上学的思弁への歯止め
 とくに本来的な社会学の分野では、思弁的 傾向から形而上学の領域に足を踏み入れがちであるが、この歯止めになる。

「社会科学は、ごく一般的に言うなら社会を改善する提案に対する批判を通じて、より厳密 に言うなら、経済的あるいは政治的なある特定の行為が期待された望ましい結果を生み出す可 能性が高いかどうかを知る試みを通じて、発展してきた。私が社会科学への技術的アプロー チ、あるいは「ピースミール社会技術」と言うとき念頭に置いているのは、このようなアプ ローチなのである(古典的アプローチと呼んでいいだろう)。  社会科学分野における技術的問題は、「民間」的性格を持つこともあれば「公共」的な性格 を持つこともある。たとえば企業経営の技法や、労働条件の改善が生産高に及ぼす効果などを 研究するのは前者の問題である。刑務所の改革や国民皆健康保険、裁判所を用いた物価の安定 化、新関税の導入などが所得の平等化にどう影響するかを研究するのは第二のカテゴリーに属 する。今日とくに緊急度が高いいくつかの実践的問題も公共的問題である。景気循環はコント ロールできるか、生産の国家管理という意味での中央集権的「計画」は、民主的で効果的な行 政管理と共存できるか、どのように中東に民主主義を輸出するか、などである。  実践的で技術的なアプローチを強調するからといって、実践的問題の分析から生じるかもし れないあらゆる理論的問題を除外すべきだと主張しているわけではない。それどころか、技術 的アプローチは、そこから純粋に理論的で有意義な問題が生まれるという点で実りあるものと なるだろうというのが、私の主要な論点の一つなのである。  しかし、技術的アプローチには、問題を選別するという基本的課題で有用であることに加え て、私たちの思弁的傾向を律する働きもある(とくに本来的な社会学の分野では、この思弁的 傾向から、私たちは形而上学の領域に足を踏み入れがちである)。なぜなら、技術的にアプ ローチすることで、私たちは、明晰性の基準や実践的検証可能性など、ある決まった基準に 従って理論を立てざるをえなくなるからである。技術的アプローチに関する私の主張のポイン トは、こう言えばはっきりするかもしれない。社会学は(おそらく社会科学一般でさえ)「そ れ自身のニュートンあるいはダーウィン」を見つけようとするのでなく、自身のガリレオある いはパスツールを見つけようとすべきである。  以上の議論、そしてまた社会科学の方法と自然科学の方法の間のアナロジーについて私がこ れまで述べてきたことは、多くの反論を引き起こすだろう。「社会技術」、「社会工学」とい う言葉の選び方が(「ピースミール」という単語で表現される重要な限定にもかかわらず)反 論を呼び覚ますのと同じである。私はただ、こう言っておけばよかったのかもしれない――私は 教条的な方法論的自然主義、あるいは(ハイエク教授の用語を使えば)「科学主義」に反対す る闘いの重要性を全面的に認めている、と。  たしかにこのアナロジーはある分野でひどく誤解され、誤った使い方をされていることはわ かっているが、それでも私には、実りの多いこのアナロジーを利用すべきでない理由が思い当 たらない。加えて、これら教条的自然主義者に対して、彼ら自身が攻撃している方法論の一部 が、自然科学で使われる方法と基本的に同じであることを示してみせることこそが、最も強 力な反論になると言える。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第3章 反自然主義的な見解への批判,20 社会学への技術的アプローチ,pp.108-110,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰 (訳))

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良




カール・ポパー
(1902-1994)







技術的社会科学は、社会制度改革を目指す者全員の仕事の基盤として不可欠となるはずの事実を、すべて見つけ出すことを目標とする。それは、制度設計に制約を課すような各種法則であり、社会生活の一般法則の研究へとつながるだろう。 (カール・ポパー(1902-1994))

技術的社会科学

技術的社会科学は、社会制度改革を目指す者全員の仕事の基盤として不可欠となるはずの事実を、すべて見つけ出すことを目標とする。それは、制度設計に制約を課すような各種法則であり、社会生活の一般法則の研究へとつながるだろう。 (カール・ポパー(1902-1994))


「歴史主義者によれば、社会学者の務めは、社会構造がそれに沿って変化するような《広範 なトレンド》についての一般的な観念を得るべく努力することであるという。それだけでな く、社会学者はこのプロセスの原因、変化をもたらす力の働きを理解すべく努めなければなら ない。社会の発展の底に流れる一般的トレンドについて仮説を形成する努力が必要である。そ うした法則から予言を導き出すことにより、差し迫った変化に自身を適応させられるというの である。  先に、二種類の予測と、それに関連する二種類の科学を区別したが、この区別をさらに深く 考察すれば、社会学についての歴史主義者の考え方をより明確にできる。  歴史主義者の方法論に対して、私たちは《技術的社会科学》を目的とする別の方法論を考え ることができる。この方法論は、社会制度改革を目指す者全員の仕事の基盤として不可欠とな るはずの事実をすべて見つけ出すことを目標とする、社会生活の一般法則の研究へとつながる だろう。  そうした事実が存在することに疑いの余地はない。私たちは実際、単純にこれらの事実を十 分に考慮していないがゆえに実践不可能となっているユートピア主義的システムを数多く知っ ている。私たちが考えている技術的方法論は、このような非現実的構想を避ける手段をもたら すことを目指すものだ。それは反歴史主義的ではあるが、けっして反歴史的ではない。歴史的 経験は、この種の情報の最も重要な源泉となるはずである。ただ、技術的方法論は社会発展の 法則を見出そうとするのでなく、社会制度の構築に制約を課すような各種法則を探そうとす る。別の種類の一様性(歴史主義者は、そのようなものは存在しないというが)を探究するの である。」

(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第2章 歴史主義の親自然主義的な見 解,16 歴史的発展の理論,pp.86-88,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳)) 

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良




カール・ポパー
(1902-1994)







予測対象に干渉してしまう予測があるのは、事実である。しかし、科学的予測は、社会現象に対しても意味があるし重要である。まず、理論の検証・反証のための予測と、実践的価値を持つ予測がある。例えば、介入困難な対象の予測(予言と呼ぶ)や、ある目的を持って介入するための予測(技術的予測、設計)などである。(カール・ポパー(1902-1994))

予言と技術的予測

予測対象に干渉してしまう予測があるのは、事実である。しかし、科学的予測は、社会現象に対しても意味があるし重要である。まず、理論の検証・反証のための予測と、実践的価値を持つ予測がある。例えば、介入困難な対象の予測(予言と呼ぶ)や、ある目的を持って介入するための予測(技術的予測、設計)などである。(カール・ポパー(1902-1994))




「たしかに一部の歴史主義者は、人類の遍歴のすぐ次の段階を、しかも非常に慎重な言葉遣 いで予測するだけで満足している。それでも、〈社会学的研究は政治的未来を見通す助けにな るべきであり、そのことで社会学は長期的視野を持つ実践的政治の第一の主要な道具となりう る〉という認識は、歴史主義者全員に共通している。  科学的予測の重要性は、科学の実践的価値という観点から十分に明らかである。しかし、科 学における予測には二種類あるということ、それに応じて実践的なあり方にも二種類あるとい うことは、常に認識されてきたわけではない。予測には、まず(a)台風の接近予報のようなも のがある。これのおかげであらかじめ安全な建物に避難できるなど、非常に大きな実践的価値 がある。次に(b)ある避難施設を台風に耐えられるようにするには、たとえば北側に鉄筋コン クリートの支えを入れるなど、ある決まったやり方で建てる必要があるというような予測もあ るだろう。  この二種類の予測は共に重要で、古来の願いを実現するものではあるが、明らかに大きく異 なる。片方は、そのできごと自体を防ぐ手段がないことの予測で、私はこの種の予測を「予 言」と呼ぶ。その現実的価値は、予測されたできごとについて警告を受け取り、それを避けた り、それに備えたりできるという点にある(その対応には、もう一方の種類の予測も助けにな るだろう。)  これと反対の第二の予測は「技術的」な予測と呼ぶことができる。この種の予測は工学技術 に基づくからである。それはいわば建設的な予測であり、ある結果を得ようとするときに私た ちに採用できるステップを暗示するものである。物理的科学の大部分(天文学と気象学を除く ほぼすべて)が行なう予測はこの種のものであり、実践的見地からして、技術的予測と言って 差し支えない。  これら二種類の予測の区別は、ほぼ次の点に対応する。すなわち、その科学の分野で、単な る忍耐強い観察ではなく、設計された実験がどの程度重要な役割を演じているか、である。典 型的な実験科学は技術的予測をすることができ、おもに非実験的な観察を行なう科学は予言を 行なう。  こう言ったからといって、すべての科学、あるいはすべての科学的予測が基本的に実践的な ものだと示唆していると誤解しないでほしい。あるいはすべての科学的予測は必ず予言的であ るか技術的であって、ほかの予測はありえないと示唆しているわけでもない。私はただ、二種 類の異なる予測があって、それに対応する二種類の科学のあり方があるという点に注意を向け たいだけである。  「予言的」「技術的」という言葉遣いを選んだ点について言えば、たしかに実践的観点から 見た場合のそれれの予測の特徴を暗示しようと考えた。しかしこの言葉遣いは、実践的な観点 がほかの観点より優れているとか、科学の関心が実践的に重要な予言と技術的性格を持つ予測 とに限定されているとかいうつもりで選んだわけではない。たとえば天文学を考えるとき、そ の発見には実践的な観点から無価値とは言えない面があるとはいえ、やはりおもに理論的な関 心事であることは認めざるをえない。それでも「予言」としての天文学的予測は、気象学的予 測にごく近いものであり、実践活動に対して持つ価値はきわめて明白なのである。  科学の持つ予言的性格と工学的性格とのこの違いは、長期的予測と短期的予測の違いに対応 するものではないという点は指摘しておく価値がある。大半の工学的予測は短期的だが、長期 的な技術的予測というものも存在する(発動機の寿命など)。天文学的予言にも、短期的なも の、長期的なものがあるだろう。気象学的予言の多くは比較的短期のものである。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第2章 歴史主義の親自然主義的な見 解,15 歴史的予言と社会工学,pp.82-85,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰 (訳)

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良




カール・ポパー
(1902-1994)







生物や人間、社会の歴史性、新奇性とは、現在の状態の中に埋め込まれている過去の記憶が、情報として、系の変化と未来の状態に大きな作用を及ぼすという特性の別名である。現在の状態の中にその情報を読み取るのが困難な場合、過去を知ることが、その情報を読み解く代替策となる。(カール・ポパー(1902-1994))

状態の歴史性、新奇性

生物や人間、社会の歴史性、新奇性とは、現在の状態の中に埋め込まれている過去の記憶が、情報として、系の変化と未来の状態に大きな作用を及ぼすという特性の別名である。現在の状態の中にその情報を読み取るのが困難な場合、過去を知ることが、その情報を読み解く代替策となる。(カール・ポパー(1902-1994))

(a)歴史性
 歴史主義は、集団の現 在を理解して説明し、さらには集団の未来の進展を理解し、おそらくは見通したいと願うな ら、その集団の歴史を、その伝統と制度を研究する必要があると主張する。
(b)新奇性
 物理学の新奇性は、それ自体は新しくはない要素や要因の組み合わせや配 置の新しさにすぎない。それに対して社会生活の新奇性は本当の新しさであり、配置の新奇性 には還元できない。
(c)対象系の現在の状態
 物理系だけでなく、生物や人間、社会も、現在の状態が分かれば、対象系そのものについては、全ての情報が知られているという直感があるが、これは正しいだろうか。正しい。
(d)現在の状態としての過去の記憶
 問題は、対象系の現在の状態は、どのようにして知られるのかということだ。生物や人間、社会においては、過去の記憶が現在と未来の系の状態に影響を及ぼす。もし、系の現在の状態の中に、この過去の記憶を情報として読み出すことが可能なら、現在の状態だけで必要な全ての情報が得られる。
(e)歴史性、新奇性とは?
 生物や人間、社会の歴史性、新奇性とは、現在の状態の中に埋め込まれている過去の記憶が、情報として、系の変化と未来の状態に大きな作用を及ぼすという特性の別名である。現在の状態の中にその情報を読み取るのが困難な場合、過去を知ることが、その情報を読み解く代替策となる。

「物理的科学の方法を社会科学に適用できないことについては、さらに深い理由があると、 多くの歴史主義者は考えている。    
 すべての「生物学的」科学、すなわち生きている対象を扱うすべての学問と同様に、社 会学は原子論的にではなく、現在では「全体論的」と呼ばれている方法で考えを進めなければ ならない。なぜなら、社会学の対象である社会集団は、単に個人の総計と見なしてはならない からである。  社会集団はメンバーの単純な合計《以上》のものであり、また、いずれかの時点に存在する いずれかのメンバー間の個人的関係の合計《以上》のものだからである。このことは、三人の メンバーからなる単純な集団においてすら容易に見て取れる。同じ三人からなる集団であって も、最初に組織を作ったのがメンバーAとメンバーBであった場合と、メンバーBとメンバーCで あった場合とでは、集団の性格が異なる。この事例は、集団には独自の《歴史》があり、集団 の構造はその歴史に大きく依存するという主張(第3節「新奇性」も参照)の意図するところ をわかりやすく示していると言えよう。主要メンバー以外の一部のメンバーが抜けても集団の 性格を維持することは容易である。創設当初のメンバーが《全員》いなくなり、新しいメン バーに入れ替わっても、元の集団の性格の多くが保たれていることさえ考えられる。しかし、 メンバーの入れ替わりが徐々に進むのではなく、新しいメンバーがまとまって新しい集団を 作ったとしたら、徐々に入れ替わったときと同じメンバーの集団であっても、まったく異なる 集団になっていた可能性がある。  各メンバーのパーソナリティは集団の歴史と構造に大きく影響するが、集団自身が独自の歴 史と構造を持つことはできる。集団が構成メンバーのパーソナリティに強く影響を及ぼすこと もありうる。
 すべての社会集団には独自の伝統と独自の制度、独自の習慣がある。歴史主義は、集団の現 在を理解して説明し、さらには集団の未来の進展を理解し、おそらくは見通したいと願うな ら、その集団の歴史を、その伝統と制度を研究する必要があると主張する。社会集団は全体論的な性格を持ち、構成メンバーの単なる総和から余すことなく説明できる わけではないという事実は、物理学の新奇性と社会生活の新奇性を区別する歴史主義の主張に 光を投げかける。〈物理学の新奇性は、それ自体は新しくはない要素や要因の組み合わせや配 置の新しさにすぎない。それに対して社会生活の新奇性は本当の新しさであり、配置の新奇性 には還元できない〉というのが、歴史主義の主張だった。社会構造が一般にその部分や成員の 組み合わせとして説明できないとしたら、この方法で《新しい》社会構造を説明することは明 らかに不可能なのである。  一方、物理学的な構造は、部分の単なる「配列」つまり総計と、その幾何学的配置とによっ て説明できると、歴史主義は主張する。  
 太陽系を例に取ると、太陽系の歴史は興味深い研究対象であろうし、その研究が現在の 太陽系の状態の理解に光を投げかけることはあるかもしれないが、ある意味で、太陽系の現状 はその歴史から独立しているということを私たちは知っている。  太陽系の構造や、将来の運動、発展は、太陽系を構成する天体の現在の配列により確定して いる。ある瞬間の各天体の相対的位置、質量、運動量が与えられれば、太陽系の将来の運動は 完全に決まる。どの惑星が古いとか、どの天体が太陽系外からやってきたといった付加的な知 識は必要ないのである。構造の歴史は、それ自体興味深いものではあるかもしれないが、太陽 系の振る舞いやメカニズム、将来の進展についての理解には何も寄与しない。  この点で、物理学的構造が社会構造と大きく異なることは明らかである。社会構造は、一瞬 の「配列」が完全にわかったとしても、歴史について細心の研究なしには理解できず、その将 来を予測することはできない。  
 こうした考察は、歴史主義と、いわゆる社会構造の《生物学的》あるいは《有機体的理論》 と呼ばれるものとの密接な関係を強く示唆する。社会構造の生物学的あるいは有機体的理論と は、社会集団を生命体のアナロジーで解釈する理論である。実際全体論は生物学的現象一般を 特徴づけるものとされているし、さまざまな生命体の歴史がその行動にどのように影響するか を考察する際には、全体論的アプローチが欠かせないものと見なされている。  このように、歴史主義の全体論的な議論は、社会集団と有機体との類似性を強調する傾向を 持つ。ただし、歴史主義が必ず社会構造の生物学的理論を受け入れるとは限らない。同様に、 《集団的伝統》の担い手として《集団精神》が存在するというよく知られた理論も、それ自体 が必ずしも歴史主義的議論の一部であるわけではないが、全体論的な見解と密接に関連してい る。」

(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第1章 歴史主義の反自然主義的な見 解,7 全体論,pp.44-48,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良



カール・ポパー
(1902-1994)








制度や団体などの社会的存在は、個々人の抽象的関係の中のある選択された側面を解釈するために構成された抽象的なモデルである。第0次近似モデルとして、完全に合理的な個人の集合モデルを構築し、これからの乖離で現実社会の評価をする等の手法もあり得る。(カール・ポパー(1902-1994))

仮説モデルとしての社会的存在

制度や団体などの社会的存在は、個々人の抽象的関係の中のある選択された側面を解釈するために構成された抽象的なモデルである。第0次近似モデルとして、完全に合理的な個人の集合モデルを構築し、これからの乖離で現実社会の評価をする等の手法もあり得る。(カール・ポパー(1902-1994))



()仮説モデルとしての社会的存在
 制度や団体などの社会的存在は、個々人の抽象的関係の中のある選択さ れた側面を解釈するために構成された抽象的なモデルである。
()第0次近似モデル
 人間は、ある程度は合理的に振る舞うものである。それゆえ、人間の行為や 相互の交流について比較的単純なモデルを構築し、そのモデルを近似として用いることは可能である。例として、関係するすべての個人が完全に合理性 を備えていると仮定し、モデル化する。そして、実際の人々の行動は、この第0次近似モデルからの乖離として評価する。



「ここで、複雑性の問題(第4節参照)について、ごく簡単に付け加えておこう。個々の具 体的な社会状況が、その複雑性ゆえに分析困難であることに疑いの余地はない。しかし同じことは個々の具体的な物理的状況についても言えるのである。  社会的状況は物理学的状況よりも複雑だという先入観は広く見られるが、そこには二つの由 来があるように思える。一つは、私たちが比較すべきでないものを比較しがちだということ、 つまり、片方は具体的な社会状況であるのに、それに対するのは人為的に隔離された実験的物 理状況だということである(後者と比較するのならば、人為的に隔離された社会状況、たとえ ば刑務所や、実験的な共同体のほうがいいだろう)。もう一つは、社会的状況の記述は関係す る万人の精神的状況を、そしておそらくは身体的状況をも含んでいなければならない(場合に よってはそこに還元されるべきである)という古くからの信念である。  しかしこの信念は正当化されない。個々の化学反応の記述が、関係するすべての元素の原子 の状態や原子内部の状態の記述を含んでいなければならないという要請は(化学が物理学に還 元可能だとしても)実行不可能なものだが、右の信念はその要請よりもさらに正当化されな い。この信念はまた、制度や団体などの社会的存在が、個々人の抽象的関係の中のある選択さ れた側面を解釈するために構成された抽象的なモデルではなく、人間の群衆のような具体的な 自然的存在であるという、一般に流布しているものの見方の痕跡を示している。  しかし実際、社会科学が物理学より複雑でないというだけでなく、個々の社会状況は一般に 個々の物理的状況ほど複雑でないと考えてしかるべき十分な理由がある。すべてとは言わない までも大半の社会状況では、《合理性》という要素がある。もちろん人間がまったく合理的に 振る舞う(すなわち、どのような目的があるにせよ、あらゆる入手可能な情報をその目的の達 成のために最適な使い方ができる場合にするように振る舞う)ということがほとんどないこと は明らかだが、それでも、ある程度は合理的に振る舞うものである。それゆえ、人間の行為や 相互の交流について比較的単純なモデルを構築し、そのモデルを近似として用いることは可能 なのである。  実は、この最後の点が、自然科学と社会科学の大きな相違――それもおそらく《方法上の最も 重要な相違》――を示しているように私には思える。というのは、実験の実施に伴う特定の難点 (第24節末尾を参照)や、定量的方法を適用する際の難点(後の記述を参照)といったほかの 重要な相違点は、質的な違いではなく程度の違いだからである。  私が可能であると示唆しているのは、論理的構築または合理的構築の方法と言えるもの、す なわち「ゼロ方法」を社会科学に適用することである。  私の言う「ゼロ方法」とは、次のようなものである。関係するすべての個人が完全に合理性 を備えていると仮定し(またおそらく完全な情報を持つことも仮定し)、そのモデル的行動を ある種の座標原点(座標ゼロの点)として、そこからの実際の人々の行動の乖離を評価する。 例を挙げるなら、実際の行動(たとえば伝統的な先入観などの影響のもとにある)と、経済学 の方程式で記述されるような「純粋な選択論理」に基づいて期待されるモデル的行動とを比較 するのである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第4章 親自然主義的な見解への批判,29 方法の単一性,pp.226-230,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良

カール・ポパー
(1902-1994)









明確な悪事、具体的な形の不正や搾取、貧困や失業 のような回避可能な苦難と一つ一つ闘っていく手法は、成否の評価が容易であり、大多数の人々の支持も得やすい。(カール・ポパー(1902-1994))

悪に対する漸次的闘い

明確な悪事、具体的な形の不正や搾取、貧困や失業 のような回避可能な苦難と一つ一つ闘っていく手法は、成否の評価が容易であり、大多数の人々の支持も得やすい。(カール・ポパー(1902-1994))

(a)評価の容易性
 明確な悪事、具体的な形の不正や搾取、貧困や失業 のような回避可能な苦難と一つ一つ闘っていく手法は、成否の評価がずっと容 易であり、本来的に権力の集中や批判の抑圧につながるべき理由を持たない。
(b)合意の得やすさ
 具体的な 悪や危険に対するこうした闘いは、大多数の人々の支持を得やすい。  

「ピースミール的手法は、(全体論者がしがちなように)何らかの究極の善を求め、そのた めに闘うのではなく、社会の中で最も大きく最も差し迫った害悪を探し求め、それに対して闘 うために用いることができる。ところが、明確な悪事、具体的な形の不正や搾取、貧困や失業 のような回避可能な苦難と一つ一つ闘っていくことは、遠大で理想的な社会の青写真を実現し ようとすることとはまったくの別物である。そのような闘いの手法は、成否の評価がずっと容 易であり、本来的に権力の集中や批判の抑圧につながるべき理由を持たない。また、具体的な 悪や危険に対するこうした闘いは、計画者には理想と見えているであろうユートピアを建設す る闘いよりも、大多数の人々の支持を得やすい。  このことは、以下の事実になにがしかの光を投げかけるだろう。すなわち、攻撃にさらされ 防衛に回っている民主主義国家では、そのために欠かせない大規模な施策(その施策は、全体 論的計画のような性格を帯びることさえあるかもしれない)への十分な支持が、《民衆の批判 を抑圧しなくても》いずれ得られるだろうが、攻撃を準備したり侵略戦争を行なっていたりす る国家では、侵略を自衛であると見せて民衆の支持を動員するために、基本的に民衆の批判を 抑圧しなければならない、という事実である。」
(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第3章 反自然主義的な見解への批判,24 社会実験の全体論,pp.156-157,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良



カール・ポパー
(1902-1994)







政治権力と社会的知識は相補的である。権力が強くなるほど、自由で批判的な思想とその表明は抑制され、最終的には知識が破壊される。たとえ善意であっても、集権化が必要な政治改革の企ては、個人の違いを無視することで問題を単純化し人々の関心や信念を統制しようとする。(カール・ポパー(1902-1994))

政治権力と社会的知識の相補性

政治権力と社会的知識は相補的である。権力が強くなるほど、自由で批判的な思想とその表明は抑制され、最終的には知識が破壊される。たとえ善意であっても、集権化が必要な政治改革の企ては、個人の違いを無視することで問題を単純化し人々の関心や信念を統制しようとする。(カール・ポパー(1902-1994))



「全体論的計画に科学的方法を取り込むことには、これまで示してきた以上に根本的な部分 で難点がある。全体論的な計画を立てる者は、権力を集中することは容易であっても、多くの 人々の頭の中に散らばった知識を集積することは不可能であるという事実を見逃している。し かし、集権化した権力を賢明に行使するには、こうした知識の集積が不可欠なのである。  この事実は重大な帰結をもたらす。全体論的計画者は、これほど大人数の頭の中を確認でき ないため、個々の違いを無視することで問題を単純化しようとせざるをえない。教育やプロパ ガンダを通じて、人々の関心や信念を統制し、ステレオタイプ化しようと努力するしかないの である。しかし、人の心に権力を振るおうとするこの試みは、人々の本当の考えを見出す最後 の可能性も、必ず潰すことになる。そうした試みは、思考の、とりわけ批判的な思考の自由な 表明とは明らかに相容れないからである。最終的に、それは知識を破壊する。手にする権力が 大きくなればなるほど、失われる知識も大きくなる(つまり、政治権力と社会的知識は、ボー ア的な意味で「相補的」に見える――最近よく使われるけれども意味のつかみにくいこの「相補 的」という言葉を、これほどわかりやすく説明する例はほかにないかもしれない)。  以上述べてきたことはすべて、科学的方法の問題に限定した話である。そこには暗黙のうち に、計画を立てるユートピア主義的工学者――少なくとも独裁権力に近い権威が与えられている ――の基本的な善意に疑問を呈する必要はないという途方もない前提がある。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第3章 反自然主義的な見解への批判,24 社会実験の全体論,pp.154-156,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良




カール・ポパー
(1902-1994)








2021年12月4日土曜日

社会理論は、それが言及する対象に影響を及ぼす(オイディプス効果)。認識者がこの影響を意識したとき、対象の状況が理論に逆向きの影響を及ぼす。その結果、理論には特定の時代に支配的 な嗜好や、政治的、経済的、階級的利害が反映される。そうだとすると、社会理論の客観性とはいったい何なのかが問題となる。(カール・ポパー(1902-1994))

社会理論と社会の相互作用

社会理論は、それが言及する対象に影響を及ぼす(オイディプス効果)。認識者がこの影響を意識したとき、対象の状況が理論に逆向きの影響を及ぼす。その結果、理論には特定の時代に支配的 な嗜好や、政治的、経済的、階級的利害が反映される。そうだとすると、社会理論の客観性とはいったい何なのかが問題となる。(カール・ポパー(1902-1994))


(1)情報から社会への影響(オイディプス効果)
 (a)予測というのは一つの社会的なできごとであり、ほかの社会的できごとと相互作用する可能 性がある。そのほかのできごとには、当の予測の対象も含まれる。
 (b)極端な場合、予測自体が《原因》となってそのできごとが起こるということもあるかもしれ ない。
 (c)何かを予測することも、予測を控えることも、さまざまな結果をもたらしうる。

(2)社会から情報への反作用
 (a)予測自体が予測したできごとに影響を及ぼすかもしれないということも 意識すると、予測の中身にも逆の影響が及ぶ可能性がある。
 (b)ある状況においては、予測の影響が、予測をする観察者にも逆向きの重大な影響を返 すことがありうる。

(3)社会に関する理論と社会との相互作用
 (a)社会の発展のある一時期にある種の傾向が内在する場合は必ず、その発展に影響を及ぼ すよう な社会学理論があると考えていい。その場合、社会科学は新しい時代を生み出すのに手 を貸す助産婦の役割を果たすかもしれないが、保守的な利益のために、起ころうとしている社 会の変化を遅らせる働きをする可能性もある。
 (b)ヒストリズム
  各学説や学派を、特定の時代に支配的 だった嗜好や利害に関係づけて説明する。
 (c)知識社会学
  各学説や学派を、政 治的、あるいは経済的、あるいは階級的利害に関係づけて説明する。

(4)問題:社会に関する理論の客観性とは何か
 社会科学者は懸命に真実を見出そうとしているのだろうが、同時に、必ず社会に確かな 影響を及ぼすことになる。社会科学者の言明が《実際に》影響を及ぼすという事実により、科 学者の客観性は失われる。

 「6 客観性と価値判断  ここまで見てきたように、社会科学の分野での予測の困難さを強調する際に、歴史主義は、 予測が予測されたことがらに与える影響の分析に基づいて議論を進める。しかし歴史主義者は 一方で、ある状況においては、予測の影響が、予測をする観察者にも逆向きの重大な影響を返 すことがありうると指摘する。
 物理学の分野でも、同様の考察が行なわれることがある。あらゆる観察は、観察者と観 察対象との間のエネルギー交換に基づくという考察である。このことから、物理学的予測の不 確実性――通常は無視できる程度だが――ということが言われる。その不確実性は「不確定性原 理」により記述される。それは、観察対象と観察主体の間の相互作用によるものであると主張 することができる。両者は作用や相互作用が生じる同一の物理世界に属しているからである。ボーアが指摘したように、物理学におけるこの状況と類似の状況は、ほかの科学、とくに生 物学と心理学にも存在する。しかし、社会科学では(これまで見てきたように)予測が不確実 となり、そのことが現実的に重大な意味を帯びることがある。  社会科学分野では、私たちの目の前に、観察者と観察対象、主体と客体の間に全面的に複雑 な相互作用が生じるという現実がある。将来のできごとを生み出すかもしれない傾向の存在に 気づき、加えて、その予測自体が予測したできごとに影響を及ぼすかもしれないということも 意識すると、予測の中身にも逆の影響が及ぶ可能性がある。その逆向きの影響は、社会科学に おける予測やその他の研究結果の客観性を大きく損なうかもしれない。  予測というのは一つの社会的なできごとであり、ほかの社会的できごとと相互作用する可能 性がある。そのほかのできごとには、当の予測の対象も含まれる。先に見たように、予測がそ のできごとを促すこともあるだろうが、ほかのしかたで影響するかもしれないということは、 容易に理解できるだろう。  極端な場合、予測自体が《原因》となってそのできごとが起こるということもあるかもしれ ない。つまり、予測がなければそのできごとは起こらなかったかもしれないということだ。逆 に、起こりかけているできごとを予測が《妨げる》ということもあるだろう(したがって、社 会科学者は、意図的あるいは怠慢により予測を控えることで、できごとを生じさせる、つまり 原因となることができるとも言えよう)。明らかに、この両極端なケースの間に、多くの中間 的な形態がある。何かを予測することも、予測を控えることも、さまざまな結果をもたらしう るということである。  さて、社会科学者がいずれはこうした可能性に思い至らざるをえないということは間違いの ないところである。たとえば、ある社会科学者は、自分の予測がそれを引き起こすことを予見 しながら予測をするということがあるだろう。あるいは、あるできごとが起こることを妨げよ うと、それは起こらないと予測することもあるだろう。どちらの場合も、その科学者は科学的 客観性を保証する原理――真実を語り、真実でないことを語らない――に従っているように見え る。たしかにその科学者は真実を述べているが、しかし科学的客観性に従っているとは言えな い。なぜなら予測をする(その予測は実際、後に的中するのだが)際に、自分が望む方向にも のごとが進むよう影響を及ぼしているかもしれないからである。
 歴史主義者は、この見方が少々図式的であることを認めるとしても、この指摘が社会科学の ほとんどあらゆる部分に見出される問題を明確に取り出して見せていると主張するはずだ。  科学者の言明と社会生活との相互作用は、ほとんど不可避的に、その言明の真実性だけでな く、将来のできごとの展開への実際の影響についても考慮する必要のある状況を生み出すので ある。社会科学者は懸命に真実を見出そうとしているのだろうが、同時に、必ず社会に確かな 影響を及ぼすことになる。社会科学者の言明が《実際に》影響を及ぼすという事実により、科 学者の客観性は失われる。  私たちは今まで、社会科学者は真実を、それも真実のみを見出すべく懸命に努力していると 想定してきた。しかし、歴史主義者は、ここまで述べてきた状況がその想定を難しくする、と 指摘するはずである。  
 嗜好や利害が科学理論や予測にこのような影響力を持つ以上、そのバイアスを見極め、 除外できるかどうかは、きわめて疑わしいと言わざるをえない。したがって社会科学分野で物 理学に見られるような客観的で理想的な真理の追究を表すようなものがほとんど見られないか らといって、驚くには当たらない。社会科学の分野では、社会生活に見られるのと同じだけの 数の偏り、利益の数と同じだけの数の見地があるものと考えておくべきである。  
 歴史主義者が展開するこのような議論が極端な相対主義に至るのではないか、という点は問 題になるかもしれない。極端な相対主義は、〈成功、それも政治的な成功のみが決定的要素と なる社会科学において、客観性と真理の理想を適用することはまったく不可能だ〉と考える。  ここまで挙げてきた議論を具体化して、歴史主義者は以下のことを指摘するかもしれない。  
 社会の発展のある一時期にある種の傾向が内在する場合は必ず、その発展に影響を及ぼ すような社会学理論があると考えていい。その場合、社会科学は新しい時代を生み出すのに手 を貸す助産婦の役割を果たすかもしれないが、保守的な利益のために、起ころうとしている社 会の変化を遅らせる働きをする可能性もある。
 このような見方は、さまざまな社会学説や学派間の相違を、以下のいずれかの見方で分析 し、説明する可能性を示唆するかもしれない。一つは、各学説や学派を、特定の時代に支配的 だった嗜好や利害に関係づける見方である(このアプローチは「ヒストリズム」と呼ばれるこ とがある。私の言う「歴史主義」と混同してはならない)。もう一つは、各学説や学派を、政 治的、あるいは経済的、あるいは階級的利害に関係づける見方である(このようなアプローチ は「知識社会学」と呼ばれることがある)。」
(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第1章 歴史主義の反自然主義的な見解,6 客観性と価値判断,pp.39-44,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良




カール・ポパー
(1902-1994)







2021年12月3日金曜日

自然科学における法則が破ることのできない普遍的なものであるのに対して、人間や社会に関する法則は、もし存在するとしてもそうではない。それは、人間が社会を作り、変えていくことができるからである。では、科学的方法は使えないのか?(カール・ポパー(1902-1994))

人間や社会に関する法則とは?

自然科学における法則が破ることのできない普遍的なものであるのに対して、人間や社会に関する法則は、もし存在するとしてもそうではない。それは、人間が社会を作り、変えていくことができるからである。では、科学的方法は使えないのか?(カール・ポパー(1902-1994))


 「1 一般化
 歴史主義は以下のように主張する。
 自然科学で一般化が可能で、実際にうまく一般化できるのは、自然に全般的な一様性 (斉一性)があるからである。つまり一般化は、同様の条件の下では同様のことが起こるとい う観察に基づく。観察というよりも想定といったほうがいいかもしれない。空間と時間を通じ て常に妥当するとみなされるこの原理が、物理学の方法の根底にある。  この原理を社会学で役立てることは、当然できない。「同様の状況」は、歴史上ひとつの時 代にしか生じない。別の時代まで同様の状況が持続するということはない。したがって社会に は、長期的な一般化を基礎づけられるような一様性は存在しない。あるとすれば、《ごくささ いな規則性》にすぎない。たとえば、〈人間は常に集団で暮らす〉とか、〈物質には有限なも のと無限なもの(空気など)があり、有限な物質のみが市場価値、つまり交換価値を持つ〉と いうような、わかりきった自明の規則性でしかない。  この限界に目をつむり、社会的一様性を一般化しようとする方法論は、その規則性が永続す ることを暗黙のうちに仮定している。物理学の一般化の方法を社会科学も採用できるとするこ の素朴な考え方からは、誤った、そして人を誤らせる危険な社会学理論が生じる。そのような 理論は、社会が発展するということを否定する。社会が重大な変化を起こすということも否定 する。社会の発展というものがあったとしても、それが社会生活の根本的な規則性に影響を及 ぼしうるということを否定する。
   歴史主義者は、こうした誤った理論の背後には弁明的な目的が隠れているものだと力説する ことが多い。たしかに不変の社会法則という仮定は、弁明のためには援用しやすいものであ る。  
 不変の社会法則という仮定は、さしあたり、不快なことや望ましくないことについて、 〈それは不変の自然法則により決まっていることだから受け入れねばならない〉という議論と して現れてくるかもしれない。例を挙げれば、経済学の「厳然たる法則」が、賃金交渉に法制 度が介入することの無益さを証明するものとして引き合いに出されることがある。  永続性を仮定することの弁明的誤用のもうひとつの例は、運命は避けがたいものだという雰 囲気を育むことである。現在あるものは永久にあり、できごとの流れに影響を与えようとする などとんでもないことで、その流れを評価しようとするだけでもおかしなことだ、という雰囲 気である。自然の法則に反論することはできず、法則を捨て去ろうと努めるならば、悲惨な事 態を招きかねないということになる。  これらの主張は、保守的で、弁明的で、ときには宿命論的でさえある。社会学でも自然主義 的方法を援用すべきであるという要請には、こうした主張が必然的に伴う。
 これに対して歴史主義は、社会の一様性は自然科学でいう一様性とは大きく異なると主張す る。     
 社会の一様性は、時代により変化する。その変化をもたらす力は《人間の》活動であ る。社会の一様性は自然の法則ではなく、人間により作られたものである。人間の自然な性質 に基づいていると言うことはできるかもしれない。しかしそれは、人間の自然な性質が社会の 一様性を変化させ、おそらくは制御する力をもつからにほかならない。  それゆえ、ものごとは良くなったり悪くなったりする。活動によりものごとを改変しようと しても無益なことだとは、必ずしも言えない。
  歴史主義が持つこうした傾向は、能動的であることに使命感を抱く人々の目に魅力的に映 る。能動的であるとは、現状を不可避のものとして受け入れることを良しとせず、特に人間の 営みに介入することである。能動性に傾き、あらゆる自己満足を忌避する傾向を、「能動主 義」(アクティビズム)と呼んでいいだろう。  歴史主義と能動主義との関係については第17章と第18章でさらに詳しく述べるが、ここでは 有名な歴史主義者、マルクスのよく知られた警句を引いておこう。この言葉は「能動主義的」 態度を見事に表現している。
   「哲学者は世界をさまざまに解釈してきたにすぎない。しかし問題は、世界を変えるこ とである。」」

(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第1章 歴史主義の反自然主義的な見 解,1 一般化,pp.26-30,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良




カール・ポパー
(1902-1994)







一般に、ある一つの情報が、その情報が言及する状況に及ぼす影響をオイディプス効果と名付けたい。予測は、予測したことがらの実現を促すかもしれないし、妨げるかもしれない。このため、社会的予測は極めて難しくなる。(カール・ポパー(1902-1994))

オイディプス効果

一般に、ある一つの情報が、その情報が言及する状況に及ぼす影響をオイディプス効果と名付けたい。予測は、予測したことがらの実現を促すかもしれないし、妨げるかもしれない。このため、社会的予測は極めて難しくなる。(カール・ポパー(1902-1994))



「後に歴史主義の親自然主義的見解を考察する中で明らかにするが、歴史主義は科学の務め の一つとして将来の予測ということを掲げ、その重要性を強調する傾向がある(この点につい ては私も完全に同意する。ただし、社会科学の任務の中に《歴史的予言》が含まれるとは考え 《ない》。しかし同時に歴史主義は、社会的予測はきわめて困難な作業にならざるをえないと 論じる。その理由は、社会の構造が複雑であるということだけでなく、予測と予測されること がらとが相互に関係することから、特別に複雑な状況が生じるからである。  予測が、予測されたことがらに影響を及ぼすことがあるという発想は非常に古くからあっ た。伝説のオイディプス王は知らずに父親を殺したが、これはオイディプスが父親を殺すとい う予言の結果だった。その予言ゆえに父親はオイディプスを捨てたのである。私は、この伝説 に基づいて、予測が予測されたことがらに及ぼす影響(より一般化するなら、「ある一つの情 報が、その情報が言及する状況に及ぼす影響」)を「オイディプス効果」と名付けたいと思 う。その予測は、予測したことがらの実現を促すかもしれないし、妨げるかもしれないが、い ずれの場合もオイディプス効果である。  歴史主義者は最近、この種の効果が社会科学にもあるのではないかと指摘するようになった。それにより正確な予測が難しくなり、客観性が損なわれるだろうというのである。
   社会科学の発展により、あらゆる社会的事象を科学的に《正確に》予測できるようにな ると仮定すると、非常におかしな帰結が生じ、それゆえこの仮定は純粋に論理的に棄却でき る。なぜなら、もし新種の科学的社会予測カレンダーが作られて世に知られるようになったと したら(そのようなものがあるとしたら原理的に誰にでも作れるはずなので、長く秘密にして おくことは不可能)、その予測を覆そうとする動きが必ず起こるからである。  たとえば、ある銘柄の株価が3日間上昇して、それから落ちると予測されたなら、市場参加 者は全員3日目に売りに出て、その日のうちに株価は暴落し、予測は外れる。つまり、社会的 なできごとに関して正確で詳細な予測カレンダーを作るという発想自体、自己矛盾なのであ る。したがって、社会科学的に《正確で詳細な》予測をすることは不可能である。」 

(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第1章 歴史主義の反自然主義的な見 解,5 正確な予測の不可能性,pp.37-38,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳)) 

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良




カール・ポパー
(1902-1994)







本質主義は、理論的モデルを具体的事物と誤認している。社会現象の解明においても、自然科学と同じような方法論的唯名論が科学的方法である。すなわち、社会学的モデルを、個人に関してその態度や期待や人間関係の観点から慎重に構築していく(方法論的個人主義)等の方法が必要だ。(カール・ポパー(1902-1994))

方法論的個人主義

本質主義は、理論的モデルを具体的事物と誤認している。社会現象の解明においても、自然科学と同じような方法論的唯名論が科学的方法である。すなわち、社会学的モデルを、個人に関してその態度や期待や人間関係の観点から慎重に構築していく(方法論的個人主義)等の方法が必要だ。(カール・ポパー(1902-1994))



「自分が仮説や理論を操作していることに気づかず、それゆえに理論的モデルを具体的事物 と誤認することは珍しくない。これは非常に一般的な誤りである。モデルがこのように使われ ることが多いという事実が、方法論的本質主義の見解を説明し、それにより方法論的本質主義 を無効にする(第10節参照)。説明するというのは、モデルというのがその性格上抽象的また は理論的であるため、私たちはそれを観察可能な変化するできごとのうちに、あるいはその背後に、一種の永続的な亡霊として、つまり本質として見ているような感覚をもちやすいからである。また、無効にするというのは、社会理論の課題は、社会学的モデルを記述的または唯名論的な観点から、つまり《個人に関して》その態度や期待や人間関係の観点から慎重に構築し、分析することにあるからである。社会理論の課題をこのように見る主張は、「方法論的個人主義」と呼んでいいだろう。
 自然科学と社会科学の方法の単一性については、ハイエク教授の「科学主義と社会の研究」から二つの部分を抜き出して分析してみればよくわかる。この分析により、両者の単一性を擁護できるだろう。まず、ハイエク教授はこのように書いている。

   物理学者が社会科学的問題を自分の分野からの類推で理解しようとするなら、次のような世 界を想像せざるをえないだろう。そこでは原子〔個々の人間〕の内部を直接観察して知ること ができるが、多くの材料を集めて実験をすることはできず、ごくわずかな原子の相互作用を限 られた期間しか観察できない。物理学者は、さまざまな種類の原子についての知識から、原子 が集まって大きな単位となるような、さまざまな仕方でモデルを構築できるだろう。そしてこ れらのモデルを、より複雑な現象をそこに観察できるようないくつかの事例のすべての特徴 を、ますます厳密に再現できるようにしていくこともできるだろう。しかし、物理学者はマク ロの世界の法則を、ミクロの世界について自分が持っている知識から引き出すのであり、その 法則は常に「演繹的」なものになる。複雑な状況のデータについての知識が限られているた め、その法則から個々の状況の結果を正確に予測することはほとんどできない。また、対照実 験により法則を確認することもできない。もっとも、自説によればありえないはずのできごと を観察したときには、その法則は《反証》されるのではあるが。」

 (カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第4章 親自然主義的な見解への批判,29 方法の単一性,pp.220-222,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良



カール・ポパー
(1902-1994)









例えば電子とは何か。物理学では、現象を記述する諸法則とモデルの便宜的な名称として、この言葉を使用する(方法論的唯名論)。これに対して社会科学では、定量的方法の困難さもあり、対象の本質を言葉で定義する(本質主義)。しかし、本質とは何なのか。(カール・ポパー(1902-1994))

方法論的唯名論と本質主義

例えば電子とは何か。物理学では、現象を記述する諸法則とモデルの便宜的な名称として、この言葉を使用する(方法論的唯名論)。これに対して社会科学では、定量的方法の困難さもあり、対象の本質を言葉で定義する(本質主義)。しかし、本質とは何なのか。(カール・ポパー(1902-1994))


「自然科学の分野で方法論的唯名論が支配的であることは、ほとんどの人が認めるはずであ る。たとえば、物理学は原子の本質や光の本質を問うことはなく、ただこれらの言葉を物理的 観察を説明し記述するために利用し、重要かつ複雑な物理構造の名称として用いているだけで ある。  生物学でも事情は同じである。哲学者は生物学者に対して、「生命とは何か」「進化とは何 か」といった問いの回答を求めるかもしれないし、生物学者の中にもときにはその要求に応え ようとする者が出てくる。しかし、科学としての生物学は全体としてそのような問題には対応 することなく、物理学にごく近い説明や記述の方法を採用している。  そうすると当然、社会科学の分野でも、方法論的自然主義者は唯名論を支持し、反自然主義 者は本質主義を支持することが予想される。ところが実際には、社会科学ではどうやら本質主 義が支配的なのである。しかも、それに対する積極的な反論は存在しない。本質主義の立場は 以下のように論じる。 
 《自然科学の方法が基本的に唯名論的であるのに対して、社会科学は方法論的に本質主 義を採用せざるをえない》。社会科学の任務は、国家、経済活動、社会集団など社会学的実体 を理解し、説明することであり、それは、それらの実体の本質を見抜くことによってのみ成し 遂げられる。重要な社会学的実体には必ずそれを指示する普遍名辞が前提として存在し、自然 科学で行なわれて成果を上げているように自由に新しい言葉を導入しても、意味がない。社会 科学の任務は、これらの実体を明確かつ適切に、すなわち本質的な部分と偶有的な部分を区別 して記述することだが、そのためには本質の知識が必要とされる。「国家とは何か」や「市民とは何か」(アリストテレスは『政治学』の中でこれらを根本問題と考えている)、あるいは 「信用とは何か」、「英国国教会教徒と分離派教徒(つまり教会とその分派)の本質的な違い は何か」といった問いは、完全に正当な問いであるのみならず、まさにそれに答えるために社 会学理論が構築されるような種類の問いなのである。
 歴史主義者はそれぞれ、形而上学的問題に対する姿勢や、自然科学の方法論に関する考え方 で互いに異なるが、社会科学の方法論に関する限りでは、唯名論より本質主義に傾くことは明 らかである。実際、私の知る歴史主義者はひとり残らず本質主義的態度を取る。しかし、その 理由が歴史主義が持つ一般的な反自然主義的傾向のみによるものか、あるいは本質主義の方法 を支持せざるをえないような特殊の歴史主義的議論が存在するのかという点は、考察に値す る。  第一に、社会科学で定量的方法を用いることに反対する議論は、明らかにこの問題に関連す る。社会的できごとの定性的性格を強調することと、(単なる記述ではない)直感的理解を強 調することは、本質主義にきわめて近い態度である。  しかし、もっと歴史主義に典型的で、すでに読者にはお馴染みになっている考え方の傾向に 沿った議論がある(偶然ではあるが、アリストテレスは、まさにこの議論により、プラトンは 最初の本質論を発展させたと指摘している)。  歴史主義は変化の重要性を強調する。すべての変化には、変化する何かが存在しなければな らないと、歴史主義者は論じるだろう。  
 不変のものが何もないとしても、変化について語るためには、〈変化したもの〉を同定 できなければならない。  物理学においてはこれは比較的容易である。たとえば力学においてあらゆる変化は物体の運 動、すなわち空間-時間的変化である。しかし、主に社会制度を考察対象とする社会学におい ては、変化した後の制度を同定することは容易ではないため、困難は大きい。記述的な意味の みで言うなら、変化《前》の社会制度を変化《後》の制度と同一と見なすことは不可能であ る。記述的な観点では、両者はまったくの別物かもしれない。  たとえば英国における現在の政治制度を自然主義的に記述するとしたら、4世紀前の制度と は完全に異なるものとして提示しなければならないかもしれない。しかし私たちは、《行政 府》がある限り、大きく変わっていようともそれは《本質的に》同じものだと言うことができ る。現代社会でその制度が果たす機能は、かつての制度が果たしていた機能と《本質的に》同 じである。両者の特徴を記述すればほとんど同じところは残っていないにもかかわらず、《本 質的》同一性は保たれており、一つの制度の形が変化したと見ることができる。社会科学にお いては、不変の本質を想定することなしに、つまり方法論的本質主義に沿うことなしに、変化 や発展を語ることはできないのである。  不況、インフレーション、デフレーションといった社会学的な用語のいくつかが、もともと 純粋に唯名論的に導入されたことは、言うまでもなく明らかである。しかしそうだとしても、 これらの用語はすでに唯名論的な性格を持ち合せていない。社会状況が変化すると、遠からず 社会科学者たちの間で、ある現象が本当にインフレーションであるかどうかを巡って意見の食 い違いが生じるのである。こうして、厳密を期すために、インフレーションの本質的な性質 (あるいは本質的な意味)を探究する必要が出てくるであろう。  したがって、いかなる社会的実体についても、「その《本質》に関する限り、ほかの何らか の場所、ほかの何らかの形で存在するかもしれないし、同様に実際には変わらないまま変化す るかもしれないし、実際の変化とは違う仕方で変化するかもしれない」(フッサール)と言う ことができる。起こりうる変化の幅は、アプリオリには限定されない。社会的実体がどのよう な種類の変化を受けて、なお同じでありつづけられるかは、けっしてわからない。ある観点か らは本質的に異なる現象が、別の観点からは本質的に同一であるということもあるかもしれな い。

 右に展開してきた歴史主義者の議論からは、以下の結論が導ける。 

 社会の発展をそのまま記述することは不可能である。あるいは、社会学的記述は単なる 唯名論的意味での記述ではありえない、と言った方がいいかもしれない。社会学的記述が本質 抜きではありえないとしたら、社会の発展の理論はなおさら本質を無視しては成り立たない。 社会的なある時代の特徴を、その時代の緊張状態やそこに内在する傾向やトレンドとともに確 認し、説明するという課題に対しては、唯名論的手法により一切の対処の努力が許されないと いうことは、誰も否定できないからである。

 したがって、方法論的本質主義の基には、プラトンを実際に形而上学的本質主義に導いた議 論と同じ歴史主義的議論があると言うことができる。つまり、変化する事物だけでは合理的記 述は不可能だというヘラクレイトス的議論である。 

 科学や知識は、前提として、変化せずにそれ自体と同一であり続ける何ものか、すなわち本質を必要とする。  こうして見ると、《歴史》、すなわち変化の記述と、《本質》、すなわち変化の中で不変を 保つものとは、相関的な概念であると思われる。しかしこの相関には別の面もある。ある意味 で本質は変化を前提とし、それにより歴史を前提としているということである。なぜなら、事 物が変化するときに同一のまま変化しない原理が本質(あるいはイデア、形相、本質、実体) であるとするなら、その事物が被る変化こそが、事物の異なる側面、あるいは可能性を、した がってその本質を明るみに出すからである。つまり、本質とは事物に内在する可能性の総和、 または源泉と解釈することができ、変化(あるいは運動)とは、事物の本質の潜在的可能性の 現実化、具現化と解釈できる(この説はアリストテレスに由来する)。したがって、事物、す なわちその不変の本質は、《変化を通して》のみ知ることができると言える。  たとえば、あるものが金でできているかどうかを知りたければ、叩いたり、化学的に検査し たりして、つまりそれを変化させて潜在的可能性を引き出さなければならない。同様に、人間 の本質――性格――は、その本質が人生の展開の中で現われてくるときにのみ知ることができる。 この原理を社会学に適用すると、以下のような結論が導かれる。ある社会集団の本質、すなわ ち本当の性格は、その歴史を通じてのみ自ら現われ、知られることができる。  しかし、社会集団がその歴史を通じてのみ知られうるとしたら、その集団を記述する概念は 歴史的概念でなければならない。実際、日本《国家》であるとかイタリア《国民》、アーリア 《民族》といった社会学的概念は、歴史研究に基づいた概念であるとしか考えられない。社会 《階級》についても同じことが言える。たとえば《ブルジョワ》というのは、歴史によっての み――産業革命により権力を得て、地主を押しのけ、プロレタリアートと闘っている階級として ――定義される概念である。  

 本質主義は、変化する事物の中で同一性を見出せるのは本質あってのことであるという根拠 に基づいて考えられたものかもしれないが、結局は、社会科学は歴史的方法を採用しなければ ならないとする見解、言い換えれば歴史主義を支える最も強力な議論の一部を用意するものと なったのである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第1章 歴史主義の反自然主義的な見 解,10 本質主義と唯名論,pp.61-65,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳)) 

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良




カール・ポパー
(1902-1994)







特定の出来事の因果的説明は、初期状態を仮定して、それと法則とからその出来事を演繹することで足りる。しかし、ある規則性の因果的説明には、主張されている規則性が成立する、ある種類の状況を特徴付ける条件自体も、一般法則から演繹する必要がある。(カール・ポパー(1902-1994))

規則性の因果的説明とは何か

特定の出来事の因果的説明は、初期状態を仮定して、それと法則とからその出来事を演繹することで足りる。しかし、ある規則性の因果的説明には、主張されている規則性が成立する、ある種類の状況を特徴付ける条件自体も、一般法則から演繹する必要がある。(カール・ポパー(1902-1994))


(1)特定の出来事の因果的説明
 (a)《普遍法則》
 (b)《特定的初期条件》
 これは、単称言明である。正確には、条件ではなく、状態である。原因と呼ばれる。
 (c)ある《特定の出来事》を、(a)と(b)とから演繹できるとき、因果的説明がなされたことになる。説明された特定の出来事は、結果と呼ばれる。

(2)規則性の因果的説明
 (a)《普遍法則》
 (b)ある種類の状況を特徴付ける条件
 (c)ある規則性
 (a)と(b)とから規則性を演繹できても、不十分である。規則性の因果的説明とは、主張されているその規則性が当てはまる条件(b)を含む法則を、すでに独立に検証、確認された普遍法則から演繹することにある。


「ある《特定のできごと》を因果的に説明するということは、そのできごとを叙述する言明 を二種類の前提から演繹することを意味する。二種類というのは、《普遍法則》と、単称言 明、つまり特定の言明である。この特定の言明は、《特定的初期条件》と呼べるだろう。」 (中略)  「このように二種類の要素、二種類の言明があり、両者が合わさって完全な因果的説明が成 立する。すなわち《自然法則の性格を持つ普遍言明と問題になっている具体的事例に関係す る、「初期条件」と呼ばれる特定的言明》である。  これで、普遍法則から初期条件の助けを借りて、特定的言明「この糸は切れる」を演繹する ことができる。この結論を、特定的《予測》と呼ぶこともできるだろう。初期条件(より正確 に言うなら、その条件により記述される状況)は通常、問題のできごとの《原因》として語ら れ、予測(あるいはその予測により記述されるできごと)は結果として語られる。たとえば1 ポンドにしか耐えられない糸に2ポンドの重りをつるすことが原因であり、糸が切れることが 結果であると言う。  当然、こうした因果的説明は、普遍法則が十分に検証され、裏づけられ、かつ、その原因、 すなわち初期条件を裏づける独立した証拠が存在する場合にのみ、科学的に認められる。」 (中略)  「普遍法則により記述される《規則性》の因果的説明は、特定のできごとの因果的説明の場 合とは少々異なる。一見したところ状況は似ていて、問題の法則は二つの要素から演繹される はずだと思えるかもしれない。すなわち、(1)それより一般的ないくつかの法則と、(2)初期条件に対応する特定の条件(ただしそれは単称的では《なく》、ある《種類》の状況を条件づ けている)である。しかし規則性の因果的説明は、そのようにはならない。なぜなら、(2)の 特定の条件は、まさに説明しようとしている法則の定式化の中に明示的に述べられなければな らないことだからである。そうでなければ、この法則は単純に(1)と矛盾する(たとえば ニュートンの理論を使ってあらゆる惑星が楕円軌道で運動することを説明しようとする場合、 その妥当性を主張できる条件を、当の法則の定式化の中で、まず明示的に述べなければならな い。おそらく次のような形である。「複数の惑星が、相互の引力が非常に小さくなる程度に互 いに十分に離れた状態で、それらの惑星より非常に重い太陽の周囲を回っているなら、《その ときは》各惑星は太陽を焦点の一つとする楕円に近い軌道を運動する」)。言い換えると、そ こで説明しようとしている自然法則の定式化は、それが妥当するすべての条件を組み込んでい なければならないのである。そうでなければ、その法則を普遍的に(ミルの言葉遣いでは無条 件に)主張することはできない。したがって、規則性の因果的説明とは、(主張されているそ の規則性が当てはまる条件を含む)法則を、すでに独立に検証、確認された、より一般的な一 群の法則から演繹することのうちにある。」
(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第4章 親自然主義的な見解への批判,28 還元の法則、因果的説明、予測と予言,pp.202-206,日経BPクラシックスシリーズ(2013), 岩坂彰(訳))

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カール・ポパー
(1902-1994)










進化の法則はあり得るのだろうか。「その答えはノーであるに違いないと私は信じている」。生命の進化、あるいは人間社会の進化は、あらゆる因果関係の連鎖によって織り合わされているとはいえ、プロセスの記述は法則ではなく、単称的な歴史的言明に過ぎない。(カール・ポパー(1902-1994))

進化の法則はあるのか

進化の法則はあり得るのだろうか。「その答えはノーであるに違いないと私は信じている」。生命の進化、あるいは人間社会の進化は、あらゆる因果関係の連鎖によって織り合わされているとはいえ、プロセスの記述は法則ではなく、単称的な歴史的言明に過ぎない。(カール・ポパー(1902-1994))



「しかし、進化の《法則》というものはありうるのだろうか。T・H・ハクスリーは「科学 が、遅かれ早かれ、有機的形態の進化の法則に傾倒するということを疑う哲学者は、まともな 哲学者ではありえない。その法則とは、古今を問わずあらゆる有機的形態がそのつなぎ目であ るような巨大な因果の鎖という不変の秩序である」と書いているが、このときハクスリーが意 図していた意味での科学的法則というものは、果たして存在しうるのだろうか。  その答えは「ノー」であるに違いないと私は信じている。私の考えでは、進化の中に「不変 の秩序」という法則を探し求めることは、生物学であろうと社会学であろうと、科学的方法の 範囲には収まりえないのである。私にとって理由は非常に単純だ。地上の生命の進化、あるい は人間社会の進化は、類例のない歴史的プロセスである。そのようなプロセスは、あらゆる種 類の因果法則、たとえば力学的法則や化学的法則、遺伝と分離の、あるいは自然選択の法則な どに従って進むと想定していいだろう。しかしそのプロセスの記述は法則ではなく、単称的な歴史的言明にすぎない。  普遍法則は、ハクスリーの言葉を借りるなら、不変の秩序に関わる、すなわち、特定の種類 のすべてのプロセスに関わる主張をなす。たしかに、単一の事例の観察をきっかけに普遍法則 の定式化に向かうということがあってはならない理由はないし、運が良ければそれで真理にた どり着くことがありえないと断じる理由もない。しかし、このようなあり方で(あるいはどの ようなあり方であれ)定式化された法則を科学でまともに取り上げるには、その前に新たな事 例で《検証》しなければならないことは明らかである。しかし、類例のない一回だけのプロセ スを観察しているかぎり、普遍的仮説を検証することも、科学的に認められる自然法則を見つ け出すことも期待できない。類例のない一回だけのプロセスの観察は、未来の展開の予測には 役立たない。《一匹の》芋虫の成長を細心の注意を払って観察しても、それが蝶へと変態する ことを予測する助けにはならないのである。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第4章 親自然主義的な見解への批判,27 進化の法則は存在するか:法則とトレンド,pp.180-182,日経BPクラシックスシリーズ (2013),岩坂彰(訳)

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カール・ポパー
(1902-1994)









社会的・経済的・政治的な現象においても、事実や真理の探究には自然科学と同じ科学的方法が必要である。社会的現象の歴史性と新奇性は事実であるが、科学的な仮説の全てが法則ではない。医学的な診断や進化論は単称言明であるが科学的な仮説である。(カール・ポパー(1902-1994))

単称言明である仮説

社会的・経済的・政治的な現象においても、事実や真理の探究には自然科学と同じ科学的方法が必要である。社会的現象の歴史性と新奇性は事実であるが、科学的な仮説の全てが法則ではない。医学的な診断や進化論は単称言明であるが科学的な仮説である。(カール・ポパー(1902-1994))



(a)医学的 な当座の診断は、普遍法則の性質は持たず、単称的で歴史的性格のものだが、これを仮説と表 現することはまったく正しい。
(b)進化論の仮説が普遍的自然法則ではなく、地上の多くの動植物の祖先に関する歴史的な特称(より正確に言うなら単称)言明である。

「進化論の仮説が普遍的自然法則ではなく、地上の多くの動植物の祖先に関する歴史的な特 称(より正確に言うなら単称)言明であるという事実は、「仮説」という用語が普遍的自然法 則の資格を特徴づけるために頻繁に使われるせいで、いくぶんわかりにくくなっている。しか し、仮説という言葉は別の意味でもよく使われることを忘れてはならない。たとえば、医学的 な当座の診断は、普遍法則の性質は持たず、単称的で歴史的性格のものだが、これを仮説と表 現することはまったく正しい。言い換えると、すべての自然法則が仮説であるという事実に 引っぱられて、すべての仮説が法則であるわけではないという事実から目を逸らせてはならな い。とくに歴史的な仮説となれば、それは基本的に全称言明ではなく、個々のできごとや多く のできごとについての単称言明なのである。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第4章 親自然主義的な見解への批判,27 進化の法則は存在するか:法則とトレンド,pp.179-180,日経BPクラシックスシリーズ (2013),岩坂彰(訳))

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カール・ポパー
(1902-1994)









自然科学における典型的な実験では、人為的な実験環境を準備し、理想的な条件の元で現象を再現させる。しかし社会には歴史があり、全ての出来事には新奇性があるため、科学的な方法が使えないのではないかという主張がある。これは事実だろうか。(カール・ポパー(1902-1994))

歴史に由来する出来事の新奇性

自然科学における典型的な実験では、人為的な実験環境を準備し、理想的な条件の元で現象を再現させる。しかし社会には歴史があり、全ての出来事には新奇性があるため、科学的な方法が使えないのではないかという主張がある。これは事実だろうか。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)自然科学における典型的な実験では、人為的な実験環境を準備し、理想的な条件の元で現象を再現させる。
(b)しかし社会には歴史があり、同じ条件での反復は不可能で、全ての出来事は1回だけしか起こらないかもしれない(新奇性)。
(c)社会現象の解明に、科学的な方法は使えるのだろうか。

「右の議論は一考に値する。右に述べたように、歴史主義は、大規模な社会実験を全く同じ 条件の下で繰り返すことは不可能だと断じる。二度目の実験の環境条件は、その前に実験が行 なわれているという事実の影響を被らざるをえないからである。この議論の基には、社会とい うのは、生物と同じように、ある種の記憶を有しているという考え方が存在する。私たちが通 常「歴史」と呼ぶものの記憶である。  生物学では、生物のライフヒストリーについて語ることができる。生物は過去のできごとに より特定の条件づけを受けている。できごとが繰り返されると、それを経験する生物にとって 新奇性が失われ、できごとは習慣的な色合いを帯びる。しかし、だからこそ、その経験は元の 経験とは同じでは《ない》。繰り返しという経験は《新しい》のである。それゆえ、観察して いるできごとが繰り返されるということは、観察者にとって新奇な体験が現れたことに対応す ると言える。それは新しい習慣を形成する。そのため、繰り返しは新しい習慣的条件を生み出 す。  したがって、ある生物個体に一定の実験を繰り返す際の内的、外的条件の総計は、真の意味 での反復と呼べるほど常に同じとは言えない。たとえ外的条件を完全に同じにしたところで、 それと関係する生物の内的条件は新しい。生物は経験から学んでしまっている。  歴史主義によれば、社会にも同じことが言える。社会も経験をするからである。社会は自身 の歴史を持つ。  
 社会は自身の歴史の〈部分的〉繰り返しから学ぶ。ゆっくりとしか学ばないかもしれな いが、過去により部分的に条件づけられている限り、学ぶことに疑いの余地はない。社会生活 において伝統と、伝統的忠誠と敵意、信用と不信が重要な役割を果たすのは、この学習を通じ てこそである。  ゆえに、社会の歴史の中で、本当の繰り返しは不可能である。つまり、本質的に新しい性質 のできごとが起こると考えざるをえないということだ。歴史は繰り返すかもしれないが、同じ レベルでは繰り返さない。とくにできごとが歴史的に重要で、その影響が社会に長く残るよう な場合は、繰り返しにはならない。  物理学が記述する世界においては、本質的に真に新しいことは何も起こりえない。新しい原 動機は発明されるかもしれないが、それを分析すれば、必ず既知の要素の組み替えと見ること ができる。物理学における新しさとは、配置または組み合わせの新しさにすぎない。  これとは逆に、社会的な新しさとは、生物学的な新しさのように、本質的な種類の新しさで ある。それは本当の新しさであり、配置の新奇性に還元できるものではない。社会生活におい ては、新しい配置の中の古い要素は、けっして同じ古い要素ではないからである。厳密な反復 が不可能な状態では、常に本当の新奇性が現れてくる。  互いに本質的に異なる歴史の新段階、あるいは新時代の発展について考察する際に、右のこ とは重要な意味を持つと考えられている。本当に新しい時代の出現以上に偉大な瞬間はない。しかし社会生活におけるその非常に重要 な側面を、私たちが物理学で新奇性を説明するときに従う議論の筋、つまり、既知の要素の組 み替えという議論に沿って追究することはできない。仮に物理学の通常の方法が社会に適用可 能だったとしても、社会の最も重要な特徴である《時代が区分されること》と《新奇性の出 現》に適用することはできない。ひとたび社会の新しさの意味をつかんだなら、〈物理学の通 常の方法を社会学的問題に適用することで社会的発展の問題の理解を深められる〉という考え は、捨てざるをえなくなる。  社会的な新しさにはほかの側面もある。ここまで、社会で起こる物事、社会生活における一 つ一つのできごとはすべて、ある意味で新しいと言えるということを見てきた。ほかのできご とと同種であると分類できたり、ある面で類似していたりすることはあるかもしれないが、社 会のできごとは常にきわめて厳密な意味で独特である。  ここから、社会学的な説明に関する限り、物理学とははっきりと異なる状況が生じる。社会 生活を分析することで、特定のできごとの生じ方や生じた理由を発見し、それを直感的に理解 できるかもしれないと考えることは、たしかにできる。その《原因と作用》、つまりそのでき ごとを引き起こした力と、ほかのできごとへの影響は明確に理解できるだろうという考え方で ある。しかしその場合でも、そのような因果関係の一般的記述として使えるような《一般法 則》を定式化することはできないだろう。というのは、発見した特定の力を用いて正確に説明 できるような社会学的状況はただ一回しか起こらないだろうからである。そのような力は独特 なものである可能性が高い。それはその特性の社会状況において一度しか生じず、二度と繰り 返さないかもしれない。
(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第1章 歴史主義の反自然主義的な見 解,3 新奇性,pp.32-35,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))

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カール・ポパー
(1902-1994)







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