2022年1月20日木曜日

社会が興起し、繁栄し、 衰退し、死滅する。これらを無意味な比喩と考えることはできない。歴史の規則性やパターンは、認識可能である。しかし、それらに原因としての性質や、能動的な力、超越的性質を付与するとき、誤りに陥る。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

歴史の規則性やパターン

社会が興起し、繁栄し、 衰退し、死滅する。これらを無意味な比喩と考えることはできない。歴史の規則性やパターンは、認識可能である。しかし、それらに原因としての性質や、能動的な力、超越的性質を付与するとき、誤りに陥る。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a)歴史の規則性やパターン
 歴史における規則性やパターンが見つかったからとて、それらに原因としての性質や、能動的な力、超越的性質、人間の犠牲を要求する渇望などを帰属せしめることが自然で当たりまえのことになっ てしまったら、それは神話によって決定的に欺かれることになる。
(b)文化のパターン
 文化にはそれぞれパターンがあり、時代には精神があるとしても、人間の行動をそ れらのパターンなり時代精神なりの「不可避的」な帰結ないし表現として説明することは、言 葉の誤用に陥ることである。


「もちろんわたくしは、そういう比喩なり形容なりが日常用語において、さらには科学にお いても、なしですませられるなどと言うつもりはない。ただ不法な「実体化」――言葉を事物 と、比喩を現実ととりちがえること――の危険が、この領域ではふつうに考えられているよりも はるかに大きいのだということを言っておきたいのである。いうまでもなく、もっとも有名な 事例は国家ないし国民の場合であり、まさしくその擬人化のために1世紀以上にもわたって哲 学者、さらには一般のひとびとが不安に、あるいは憤慨させられてきたのである。しかしなが ら、他の多くの言葉や語法にも同じような危険が伴う。歴史的運動は実在する。われわれはそ う言うことを許してもらわなければならない。集団的行動が起こり、社会が興起し、繁栄し、 衰退し、死滅する。パターンとか、「雰囲気」とか、人間ないし諸文化の複雑な相互関係とか はあるがままのもので、その原子的構成部分まで分析しつくすわけにはゆかない。けれども、 そうした表現をまったく文字通りにとって、それらに原因としての性質や、能動的な力、超越 的性質、人間の犠牲を要求する渇望などを帰属せしめることが自然で当たりまえのことになっ てしまったら、それは神話によって決定的に欺かれることになる。歴史に「リズム」が生ずる としても、それをなんとしても「動かしがたい」リズムであるということは、有害・不吉な兆 候である。文化にはそれぞれパターンがあり、時代には精神があるとしても、人間の行動をそ れらのパターンなり時代精神なりの「不可避的」な帰結ないし表現として説明することは、言 葉の誤用におちいることである。世界を想像上の権力や支配にまかせてしまう危険、一方すべ てのものを正確にそれと指示できる時・処における検証可能な男女の行為に還元してしまう危 険、このいずれの危険をもうまく逃れられることを保証する定式はひとつとしてない。われわ れのなしうることはせいぜい、この両方の危険のあることを指摘するということだけで、われ われはできるだけうまくこのスキュルラとカリブデスの間をきり抜けてゆかねばならないので ある。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,歴史の必然性,II,註 *,pp.191-192, みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




28.選択の必要、ある究極的な価値を他の価値 のために犠牲にせねばならないということは、人間がおかれている境遇の永遠の特徴である。なぜなら、価値判断にも真偽があるかどうかにかかわらず、諸価値は本質的に相拮抗しており、人は全ての価値を持ち得ないからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

選択の不可避性

選択の必要、ある究極的な価値を他の価値 のために犠牲にせねばならないということは、人間がおかれている境遇の永遠の特徴である。なぜなら、価値判断にも真偽があるかどうかにかかわらず、諸価値は本質的に相拮抗しており、人は全ての価値を持ち得ないからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)価値判断にも真偽があるとの考え
 ミルは、価値判断の領域にも、到達・伝達し得る客観的な真理が存在するが、それを発見 するための条件は、十分な個人の自由、とりわけ探究と討論の自由がある社会でなければ、存 在しない、と確信しているように思われる。

(b)諸価値は本質的に相拮抗している
 私の言うところは、全くそれとは異なっ ており、いくつかの価値は本質的に相拮抗しているのであるから、すべてが調和しているようなパターンが原則的に発見できるに違いないという考えは、それ自体、世界の実状についての 誤った先験的見解にもとづいている、というのである。

(c)選択は不可避である
 人間の条件として、人は選択をいつも避けていることはできない。選択の必要、ある究極的な価値を他の価値 のために犠牲にせねばならないということは、人間がおかれている境遇の永遠の特徴となる。
 (i)理性的で道徳的な選択
  多くの可能な行動の筋道や多くの生きるに値する生活形態があるから、従ってそれらのうちのどれかを選ぶことは、理性的であり道徳的判断ができるということの一証となる。
 (ii)人は全ての価値を持ち得ない
  諸目的が互いに衝突するものであり、 人はすべてを持ち得ないという核心的な理由のために、選択を避けることができない。


「ミルは、価値判断の領域にも、到達・伝達し得る客観的な真理が存在するが、それを発見 するための条件は、十分な個人の自由、とりわけ探究と討論の自由がある社会でなければ、存 在しない、と確信しているように思われる。彼の考えは、まさに、古くからある客観主義的命 題を経験論の形で表現したものであり、この最終目標に達するためには個人の自由が必要な条 件として欠かしえないという追加条項が添えてある。私の言うところは、全くそれとは異なっ ており、いくつかの価値は本質的に相拮抗しているのであるから、すべてが調和しているよう なパターンが原則的に発見できるに違いないという考えは、それ自体、世界の実状についての 誤った先験的見解にもとづいている、というのである。もしこの点で私が正しく、人間の条件 として人は選択をいつも避けていることはできない、のであるならば、その理由は、哲学者な らまず見逃さない明白な理由、即ち、多くの可能な行動の筋道や多くの生きるに値する生活形 態があるから、従ってそれらのうちのどれかを選ぶことは、理性的であり道徳的判断ができる ということの一証となる、というためばかりではなく、諸目的が互いに衝突するものであり、 人はすべてをもちえないという核心的な理由(それは普通の意味で概念的なものであって、経 験的なものではない)のために、選択を避けることができないということによるものである。 ここから次のような帰結が生じてくる。即ち、どのような価値も失ったり犠牲にしたりせずに すむような生活、すべての合理的な(あるいは有徳な、さもなければ正当性のある)欲求を真 に満足させうるような生活、こうした理想的な生活の概念、古典的理想像、これこそユートピ ア的であるのみならず、辻褄のあわぬものである。選択の必要、ある究極的な価値を他の価値 のために犠牲にせねばならないということは、人間がおかれている境遇の永遠の特徴となる。 もしそうとすれば、自由な選択の価値は、自由な選択なくしては完全な生活に到達しえないと いう事実からくるとしても、一たびそれが到達されるや二者択一の必要がなくなってしまう、 という含みをもつすべての理論はくつがえされてしまう。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,序論,II 積極的自由対消極的自 由,pp.77-78,みすず書房(2000),小川晃一(訳),小池銈(訳)

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年1月19日水曜日

27.法的自由は、搾取、蛮行、不正の極とも両立する。不干渉を弁護する社会的ダーウィニズムは、その極端な思想である。社会立法や福祉国家の基礎付けは、歴史的には積極的自由の概念を基礎としたが、消極的自由の概念でも基礎付けることができる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

消極的自由と積極的自由

法的自由は、搾取、蛮行、不正の極とも両立する。不干渉を弁護する社会的ダーウィニズムは、その極端な思想である。社会立法や福祉国家の基礎付けは、歴史的には積極的自由の概念を基礎としたが、消極的自由の概念でも基礎付けることができる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)不干渉を弁護する社会的ダーウィニズム
 社会的ダーウィニズムのように不干渉を弁護する議論は、人情家や弱きも のに対して、強気なもの野蛮なもの無鉄砲なものを、また能力のないもの不運なものに対して、 有能で情け容赦のないものを武装強化するような、政治的・社会的に破壊的な政策を支持する のに使われてきたことはいうまでもない。

(b)社会立法や福祉国家の基礎付けは消極的自由の概念でも可能
 社会立法や社会計画、福祉国家や 社会主義を擁護する立場は、消極的自由からの要求を考察することによっても、その兄弟である積極的自由からの要求の考察によるのと同じくらい妥当に、基礎づけうるのである。

(c)積極的自由による基礎付け
 歴史的 に消極的自由による福祉国家の基礎付けによることが少なかったのは、消極的自由の概念を武器として立ち向かうべき当の外敵 は、レッセ・フェールではなくて専制主義だったからである。

(d)双方の自由概念はそれぞれ重要
 統制と干渉が度を過ごすときには、消極的自由の概念が優勢となり、また逆に、野放図な市場経済がのさばるときには、積極的自由の概念が優勢となるのである。






「消極的自由の信条は、重大かつ持続的な害悪を生ぜしめることとも両立するし、また(観 念が行動に影響を与える限りでは)現にそうした害悪を生ぜしめるのに一役かってきたこと は、勿論忘れない方がよい。しかし、私が言いたいのは、消極的自由の信条は、最も陰険な形 をした《積極的》自由のチャンピョンたちが自分の信条を弁護するのによく使うような見せか けの議論や詐術によって、弁護されたり偽装されたりすることがはるかに少なかったというこ とである。(《社会的ダーウィニズム》のように)不干渉を弁護する議論は、人情家や弱きも のに対して、強気なもの野蛮なもの無鉄砲なものを、また能力のないもの不運なものに対して、 有能で情け容赦のないものを武装強化するような、政治的・社会的に破壊的な政策を支持する のにつかわれてきたことはいうまでもない。狼にとっての自由は、羊にとってしばしば死を意 味した。経済的個人主義や止まるところのない資本主義的競争についての血なまぐさい物語 は、今日ことさら強調する必要もないと思いたいところだ。にもかかわらず、私を批判する人 たちが私に着せた、おどろくべき濡れ衣を眺めてみると、私の議論のある部分をとくに気をま わして力説しておくべきであったようだ。無制限の《レッセ・フェール》の害悪、それを許す ばかりか更にそれを奨める社会・法体系の害悪は、《消極的》自由や基本的人権(これは抑圧 者に対する壁としてつねに《消極的な》観念である)、表現や結社の自由を含めた基本的人権 の、野蛮な侵害になってしまうのだということを、更に一層明らかにさえしておくべきであっ た。この基本的人権がなくても、正義、同胞愛、それにある種の幸福さえ、存在し得るかもし れないが、デモクラシーは在りえないのである。更にまた、私は、(言う必要もないほど明ら かであると思っていたのだが)つぎのようなことをおそらく強調しておくべきだったであろ う。即ち、個人や集団が、意義ある程度の《消極的》自由を行使できるための必要最小限の条 件、理論的には自由をもっている人にも、それなくしては自由がほとんど何の価値もなくなっ てしまうようなミニマムの条件、こうした条件を、この社会・法体系は提供しそこなっている ということを。というのは、権利を持っていたところで、それを実行に移すだけの力がなけれ ば何になるか。この問題に関心をもつ近代のまじめな著作家たちのほとんどすべてが、無制限 の経済的個人主義の体制下において、個人の自由がどんな運命を辿ったかについては十分に述 べている、と私は思っていた。とりわけ都市において、いたましい多くの人びとの境遇、子供 たちは鉱山や工場で損なわれ、両親たちは貧困、病い、無知のうちに過ごす、こうした境遇で は、貧乏なものも弱気ものも、好きなように金を使い欲するような教育を選べる法的権利があ るということなどは(コブデンやハーバート・スペンサー及び彼らの弟子たちが、全く大真面 目に説いてきかせたことだが)、おぞましい茶番となってしまったのである。こうしたことは すべて、まことに遺憾ながら事実であって、法的自由は、搾取、蛮行、不正の極とも両立する のである。国家やその他の実行機関が、積極的自由、および少なくとも最小限の消極的な自由 を個々人に保障するために介入することは、圧倒的に支持されている。トクヴィルやミル、そ れに(近代のいかなる著述家よりも強く消極的自由を支持した)パンジャマン・コンスタンの ような自由主義者さえ、このことを知らないではなかった。社会立法や社会計画、福祉国家や 社会主義を擁護する立場は、消極的自由からの要求を考察することによっても、その兄弟であ る積極的自由からの要求の考察によるのと同じくらい妥当に、基礎づけうるのである。歴史的 に前者によることが少なかったのは、消極的自由の概念を武器として立ち向かうべき当の外敵 は、レッセ・フェールではなくて専制主義だったからである。二つの概念の消長は、大抵、あ るグループや社会を一定の時点でもっともおびやかしている特定の危険に原因を求めうる。統 制と干渉が度をすごすときには、消極的自由の概念が優勢となり、また逆に、野放図な《市 場》経済がのさばるときには、積極的自由の概念が優勢となるのである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,序論,II 積極的自由対消極的自 由,pp.68-70,みすず書房(2000),小川晃一(訳),小池銈(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




26.人間の歴史も因果の法則には従っているに違いなく、歴史の規則性やパターンも認識できるだろう。しかし、それがあっても人間には、選択の自由がつねに残されている。また、科学的な知識は自由を増やし、無知は自由を削減する。 (アイザイア・バーリン(1909-1997))

因果の法則と自由意志

人間の歴史も因果の法則には従っているに違いなく、歴史の規則性やパターンも認識できるだろう。しかし、それがあっても人間には、選択の自由がつねに残されている。また、科学的な知識は自由を増やし、無知は自由を削減する。 (アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)人間の歴史も因果の法則には従う
 因果の法則は、人間の歴史に適用できる。自由な選択の範囲が、かつて人びとが考えたよりも、また恐らく現在もなお誤って考えているよりも、はるかに狭いことには、多くの経験的証拠がある。歴史における客観的なパターンは識別できるであろう。
(b)法則やパターンがあっても選択の自由は残されている
 それにもかかわらず、そのような法則やパターンでも、何らかの選択の自由を残しており、人間の行為は、先行する諸原因によってそれ自体完全に決定されているわけではない。
(c)科学的な知識は自由を増やし、無知は自由を削減する
 知識、とりわけ科学的に確立された法則の知識は、我々の活動をより効果的にし、我々の自由を拡張するのに役立つ。また、無知および無知のかもす幻想・恐怖・偏見は自由を削減する。


「ごく平凡ではあるが、私が一度も離れたことのない見方を、いくつかここで繰り返してお きたい。因果の法則は人間の歴史に適用できる(カー氏には失礼ながら、この命題を否定する のは狂気の沙汰と私は考えている)。歴史は、主として個人の意志間の《劇的な葛藤》ではな い。知識、とりわけ科学的に確立された法則の知識は、われわれの活動をより効果的にし、わ れわれの自由を拡張するのに役立つ。この自由は無知および無知のかもす幻想・恐怖・偏見に よって削減されやすい。自由な選択の範囲が、かつて人びとが考えたよりも、またおそらく現 在もなおあやまって考えているよりも、はるかに狭いことは、多くの経験的証拠がある。私の 知る限りでも、歴史における客観的なパターンは識別できるであろう。そして更に、私はただ つぎのことを主張しているだけだということを繰り返して言わねばならぬ。即ち、そうした法 則やパターンでも、何らかの選択の自由を残していると考えられるのでなければ――そして、行 動の自由が、先行する諸原因によってそれ自体完全に決定されている選択により、決定されて いるにすぎないような自由に止まらぬと考えるのでなければ――、われわれは現実についての見 方を、いままでとは違った方向で再建しなければならないだろう、そしてこの仕事は、決定論 者が考えているよりも、遥かに大変なものである、と。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,序論,I,pp.50-51,みすず書房(2000), 小川晃一(訳),小池銈(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)





25.人間の相互理解には、最小限度の価値観の共有が必要である。それは、人間道徳の基礎であり、正常な人間という概念に含まれ、多様な習慣・伝統・法・マナー・流行・エチケットとは、明確に区別される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

最小限度の共通価値

人間の相互理解には、最小限度の価値観の共有が必要である。それは、人間道徳の基礎であり、正常な人間という概念に含まれ、多様な習慣・伝統・法・マナー・流行・エチケットとは、明確に区別される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a)理解の前提としての共通の価値観
 同時代あるいは他の時代の 人びとを理解できる可能性、いってみれば人間同士のコミュニケーションの可能性は、何らか の《価値》の共通性にもとづいているのであって、単に何らかの《事実》の共通性にのみ基づいているわけではない。

(b)人間道徳の基礎
 ノーマルな人間という観念には、それ以上縮小できない最小限の共通な価値の承認というものが含まれている。
(c) 習慣・伝統・法・マナー・流行・エチケット
 人間道徳の基礎という観念と、習慣・伝統・法・マナー・流行・エチケットというような 観念とが区別される。後者の領域では、社会的・歴史的に、また全国的・地方的に、大幅な相違や変化があっても、べつにそのことが稀有であるとも異常であるとも思われない し、極端に突飛で狂っているとも、全く望ましからぬものとも思われない。




「確かに、この世の中には客観的な道徳的乃至社会的価値が存在し、それは恒久的かつ普遍 的で、歴史の変化の影響を受けず、いやしくも理性ある人が心を傾けて注目しさえすれば手に 入れうる、という見解にはさまざまな疑問の余地がある。しかし、同時代あるいは他の時代の 人びとを理解できる可能性、いってみれば人間同士のコミュニケーションの可能性は、何らか の《価値》の共通性にもとづいているのであって、単に何らかの《事実》の共通性にのみもと づいているわけではない。共通する《事実》の世界があるということは、人間の交際の必要条 件ではあるが十分条件ではない。外部の世界との接触が切れている人びとはアブノーマルとい われるし、極端な場合は気違いと言われるが、公共的な価値の世界をあまりにも逸脱している 人もやはりそうである(ここが問題なのだ)。正邪の区別をかつては知っていたが今は忘れて しまったなどと公言しても、まず誰にも信じてもらえないだろうが、もし信じられたら、御本 人は当然狂っているとされてしまう。だが、例えば、青い目の人間なら誰かれといわず何の理 由も示さずに殺してもよい、というようなルールを、認めたり共有したりあるいは大目に見た りするだけならとにかく、そうしたルールには誰だって何がしかの反対論をまず持っていると いうことが全くわからない人びと、こうした人びともやはり狂っているのである。そういう人 たちは、六までしか数えられない者や、自分がユリウス・カエサルかもしれないと考えている 者と、同じぐらいの正常さしかない人間の例、と見なされるだろう。狂気か否かを計るこうし た規範上の(非記述的)テストの拠って立つ基礎は、まさに、自然法の諸原理、特にそれらを 先験的に自明なものと規定していない形での自然法の諸原理に、現在もつような説得力を与え ているものにほかならない。ノーマルな人間という観念には、ある共通な価値(ともかくもそ れ以上縮小できない最小限の価値)の承認というものが含まれている。これが《めど》になっ て、人間道徳の基礎という観念と、習慣・伝統・法・マナー・流行・エチケットというような 観念とが区別されるのである。後者の領域では、社会的・歴史的に、また全国的・地方的に、 大幅な相違や変化があっても、べつにそのことが稀有であるとも異常であるとも思われない し、極端に突飛で狂っているとも、全く望ましからぬものとも思われない。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,序論,I,pp.45-46,みすず書房(2000), 小川晃一(訳),小池銈(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]

アイザイア・バーリン
(1909-1997)




24.積極的自由は、高次と低次、真正と経験的、理想的と心理学的な二つ自我という考えで歪曲され、やがて高次の自我は、制度、教会、国民、人種、国家、階級、文化、政党、一般意志、共通の福祉、天与の使命と同一視される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

二つの自我という歪曲

積極的自由は、高次と低次、真正と経験的、理想的と心理学的な二つ自我という考えで歪曲され、やがて高次の自我は、制度、教会、国民、人種、国家、階級、文化、政党、一般意志、共通の福祉、天与の使命と同一視される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a)独立した人格には不可侵の領域が必要
 他人と全面的に調和することは、自分が独立した人格であるということと相容れない。すべての点で他人に依存しようというのでない限り、他人が勝手に干渉しない、また干渉 しないと当てにできる若干の領域が必要である。
(b)高次と低次、真正と経験的、理想的と心理学的な二つ自我という歪曲
 歴史的にいえば、積極的自由の観念は、「誰が主人であるか」という問いに答える ものであって、「私はどれだけの領域で主人であるか」に答えるための消極的自由の観念 から離れている。両者の距離は、自我の観念が、一方では高次の、あるいは真正の、 あるいは理想的自我と、他方では低次の経験的な心理学的な自我ないし 本性とに、形而上学的に分裂し、前者が後者を統御するとしたり、最良の自我が劣った日常的 な自我の主人であるとしたり、コールリッジの大文字で書く《私の真存在 I AM》が、時間と空間のなかにとじこめられた超越的でない自我に君臨するとしたようなときに、この距離はま すます開いていった。
(c)制度、教会、国民、人種、国家、階級、文化、政党、一般意志、共通の福祉、天与の使命
 高次の自我は、制度、教会、国民、人種、国家、階級、文化、政党と同一視されるようになり、あるいは一般意志、共通の福祉、社会の変革勢力、最も進歩的な階級の前衛、天与の使命というような漠然としたもの と自然に同一視されてしまった。







「他人との摩擦や抵抗を超越しよう、水に流そうという右のような涙ぐましい努力にもかか わらず、もし、自己欺瞞を望まないなら、いずれは次の事実を認めざるをえないだろう。即 ち、他人と全面的に調和することは、自分が独立した人格であるということと相容れないこ と、すべての点で他人に依存しようというのでない限り、他人が勝手に干渉しない、また干渉 しないと当てにできる若干の領域が必要であることである。こうして、「自分が主人である領 域、主人であるべき領域はどれぐらい広いか」という問題が起こってくる。私の考えはこうで ある。歴史的にいえば、《積極的》自由の観念は、「誰が主人であるか」という問いに答える ものであって、「私はどれだけの領域で主人であるか」に答えるための《消極的》自由の観念 から離れている、両者の距離は、自我の観念が、一方では《高次の》、あるいは《真正の》、 あるいは《理想的》自我と、他方では《低次の》、《経験的な》、《心理学的な》自我ないし 本性とに、形而上学的に分裂し、前者が後者を統御するとしたり、最良の自我が劣った日常的 な自我の主人であるとしたり、コールリッジの大文字で書く《私の真存在 I AM》が、時間と 空間のなかにとじこめられた超越的でない自我に君臨するとしたようなときに、この距離はま すます開いていった。こうした二つの自我という広く普及した古くからの形而上学的イメージ の底には、真の内面的緊張の経験があろうし、またそのイメージの影響は言葉、思想、行動に 絶大なものがあった。それはともあれ、当然のごとく、《高次の》自我は、制度、教会、国 民、人種、国家、階級、文化、政党と同一視されるようになり、あるいは一般意志、共通の福 祉、社会の変革勢力、最も進歩的な階級の前衛、《天与の使命》というような漠然としたもの と自然に同一視されてしまった。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,序論,II 積極的自由対消極的自 由,pp.65-66,みすず書房(2000),小川晃一(訳),小池銈(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年1月17日月曜日

23.歴史研究においては、道徳的ないし心理的評価を最小限に抑止すべきだという要求は、最大かつ破壊的な誤謬のひとつである。なぜなら、歴史において人間を、目的や動機をそなえた存在として見ることに矛盾するからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

歴史研究のあり方

歴史研究においては、道徳的ないし心理的評価を最小限に抑止すべきだという要求は、最大かつ破壊的な誤謬のひとつである。なぜなら、歴史において人間を、目的や動機をそなえた存在として見ることに矛盾するからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



「歴史は想像的文学とはちがう。けれども、自然科学ではまさしく不当に主観的・個人的と して難ぜられるようなものから、歴史もやはり免れるわけにはゆかないことはたしかである。 歴史が人間をただ空間内の物質的対象として取扱わねばならぬ――つまり行動主義的でなければ ならぬ――という前提に立つのでなければ、歴史の方法は精密自然科学の規準にはほとんど合致 させえない。人間を目的や動機をそなえた存在として見る(たんに諸事件の継起における因果 的要素としては見ない)ことに必然的に含まれている道徳的ないし心理的評価の最小限をさえ 抑止せよという歴史家への訴えは、人間研究の目的と方法を自然科学のそれと混同することか らきているのではないかとわたくしには思われる。それはここ百年ばかりの間の最大、かつ もっとも破壊的な誤謬のひとつである。
 * 歴史がこの意味において物理学的記述とは異なるのだということは、はるか以前にヴィコ によって発見され、ヘルダーおよびその後継者たちによって想像力豊かに、またきわめて生き 生きと提示された真理である。19世紀の歴史哲学者たちによって誇張され、極端論にまでなっ たところはあるが、やはり依然としてそれはロマン主義運動がわれわれの知識に寄与した最大 のものである。そこで示されたことは、時としてきわめて誤解を招きやすい混乱した仕方にお いてではあったが、歴史を自然科学に還元することが、真理であるとわれわれの知っているも のをわざと無視すること、われわれにもっとも親しい内容的知識の大部分を諸科学および数学 的・科学的訓練との誤れるアナロジーの祭壇で圧殺してしまうことだということであった。オ リゲネスのごとく、罪(観察データの「中立的」な調書からのいかなる逸脱にも含まれている)を犯すあらゆる誘惑を免れるようにと人間性の研究者に、禁欲生活を行い、進んで自分を 苦しめさいなむようにせよとのこの勧告は、歴史記述を悲愴な、また同時に馬鹿げたものにし てしまうことになる。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『歴史の必然性』(収録書籍名『歴史の必然 性』),IV,pp.241-243,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





22. 歴史は、環境、風土、物理的、生理的、心理的過程といった自然的諸力だけから全てが説明できない。例外的な諸個人にせよ、不特定多数の大衆にせよ、個人の性格、 目的、動機が大きく関わり、道徳的、政治的な評価も含まれる。そのため、誤ったパターンや規則性の思想は、状況認識や道徳的・政治的評価に影響を与える。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

歴史のパターンや規則性

歴史は、環境、風土、物理的、生理的、心理的過程といった自然的諸力だけから全てが説明できない。例外的な諸個人にせよ、不特定多数の大衆にせよ、個人の性格、 目的、動機が大きく関わり、道徳的、政治的な評価も含まれる。そのため、誤ったパターンや規則性の思想は、状況認識や道徳的・政治的評価に影響を与える。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a)例外的な諸個人か
 民衆および社会全体の生活は、例外的な諸個人によって決定的に左右され ているのか。
(b)不特定多数の諸個人か
 生起するものは特定個人の願望や意図の結果としてではな く、不特定な多数の諸個人の願望や意図の結果として生じるのか。
(c) 個人の性格、 目的、動機が深く関係する
 いずれにしても、環境、風土、物理的、生理 的、心理的過程といった自然的諸力に関する知識だけからすべてが説明されるわけではない。そこには、個人の性格、 目的、動機が関わってくる。だれが、なにを、いつ、どこで、どの ような仕方で、要求したか、またどれほど多くの人間がどれほど烈しく、この目的を避け、あ の目的を追求したか、を究明し、さらにそうした要求なり恐れなりがいかなる環境のもとでど の程度までの効果をもったか、またそれがどういう結果になったか、を追求することが、歴史 家の仕事となる。

(d)道徳的、政治的な評価も関わる
 どうして、このような状況が生じたのか。誰が、また何が、戦争、革命、経済的崩壊、芸術・文学の復興、人間生活を変える発明発見や精神的変革、等々に対して責任をとるべきものであったのか、また責任があるのか、あるいはあるだろうか、ありうるのか。

(e)歴史にはパターン、規則性はあるのか
 歴史上の諸事件の継起に大きなパターンなり規則性を見出すことができるのではないかと いう考えは、分類や相互関連の発見や、とりわけ予言といった点における自然科学の成功から 強い印象を受けたひとびとには、当然魅力的なものとなる。

(f)歴史の規則性に関する注意
 パターンないし斉一性の認知ということが、過去あるいは 未来に関する特別な仮説に刺激を与えたり、それを立証したりするのに、どれほどの価値をも つにしても、それは一方では、現代のものの見方を決定するのにかなりいかがわしい役割を演 じてきたし、また現在ますます演じつつもあるのである。

(g)規則性の思想は状況認識や道徳的・政治 的評価に影響を与える
 歴史に規則性があるとする思想は、人間の活動や性格を 観察し記述する仕方に影響を及ぼしたばかりではなく、その活動や性格に対する道徳的・政治 的・宗教的な態度にも影響を与えた。

「歴史上の諸事件の継起に大きなパターンなり規則性を見出すことができるのではないかと いう考えは、分類や相互関連の発見や、とりわけ予言といった点における自然科学の成功から 強い印象を受けたひとびとには、当然魅力的なものとなる。

そこでかれらは、「科学的」方法 の適用によって――形而上学的あるいは経験的体系で武装を固め、かれらがもっていると主張す る確実な(あるいは実際上確実な)事実の知識を基点として出発することによって――過去にお ける空隙を満たす(時としては未来の際限もない空隙のなかへ構築をしていく)べく、歴史的知識の拡大を求める。

他の諸領域におけると同じく歴史の領域でも、既知なるものから未知な るものへ、あるいは少し知られているものからさらに少ししか知られていないものへと論を進 めてゆくことによって、多くのことがなされてきたし、またこれからもなされてゆくであろう ことは疑いえない。

しかしながら、パターンないし斉一性の認知ということが、過去あるいは 未来に関する特別な仮説に刺激を与えたり、それを立証したりするのに、どれほどの価値をも つにしても、それは一方では、現代のものの見方を決定するのにかなりいかがわしい役割を演 じてきたし、また現在ますます演じつつもあるのである。それはたんに、人間の活動や性格を 観察し記述する仕方に影響を及ぼしたばかりではなく、その活動や性格に対する道徳的・政治 的・宗教的な態度にも影響を与えた。

というのは、人間がいかに、またなぜ、現にそうである ように行動し生活しているのかを考察するときにどうしても生じてくる諸問題のなかには、人 間の動機と責任という問題が含まれているからだ。

人間の行為を記述するのに、個人の性格、 目的、動機という問題を排除したら、いつだってそれは作為的で、あまりに簡潔すぎるものと なってしまう。また人間の行為を考察するときには、だれだってたんにあれこれの動機なり性 格なりが生起するものに及ぼした影響の程度と種類だけを評価するのではなく、意識的あるい は半ば意識的にそれを自分の思想ないし行動のうちに受けいれる価値尺度はいかようにもあ れ、その道徳的ないし政治的な性質をもおのずから評価しているのである。

どうしてこのよう な、またあのような状況が生じたのか。だれが、またなにが、戦争、革命、経済的崩壊、芸 術・文学の復興、人間生活を変える発明発見や精神的変革、等々に対して責任をとるべきもの であったのか、またあるのか(あるいは、あるだろうか、ありうるのか)。今日、個人中心的 な歴史理論と、個人中心的でない歴史理論とが存在していることは、周知のところであろう。 一方の理論によれば、民衆および社会全体の生活は例外的な諸個人によって決定的に左右され ていることになる。これにはまた、生起するものは特定個人の願望や意図の結果としてではな く、不特定な多数の諸個人の願望や意図の結果として生じるとする学説もある。ただしこの場 合にも、その集団的な願望や目的は、人間的でない要因だけによって、または多くは人間的な らざる諸要因によって決定されているとは見られず、したがって環境、風土、物理的、生理 的、心理的過程といった自然的諸力に関する知識だけからすべてが、または大部分が引き出し うるとは考えられていない。どちらの見解についても、だれが、なにを、いつ、どこで、どの ような仕方で、要求したか、またどれほど多くの人間がどれほど烈しく、この目的を避け、あ の目的を追求したか、を究明し、さらにそうした要求なり恐れなりがいかなる環境のもとでど の程度までの効果をもったか、またそれがどういう結果になったか、を追求することが、歴史 家の仕事となる。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『歴史の必然性』(収録書籍名『歴史の必然 性』),II,pp.163-165,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





2022年1月16日日曜日

21.民主主義的な制度があっても、自由を抑圧することができるとしたら、社会を真 に自由にするものは何なのであろうか。(a)権力に対抗する権利の絶対性、(b)人間の思想の自由の不可侵性である。その際、介入が許される非人間性や狂気の概念は決して恣意的なものではない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自由のための原理

民主主義的な制度があっても、自由を抑圧することができるとしたら、社会を真 に自由にするものは何なのであろうか。(a)権力に対抗する権利の絶対性、(b)人間の思想の自由の不可侵性である。その際、介入が許される非人間性や狂気の概念は決して恣意的なものではない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)権力に対抗する権利の絶対性
 一つの原理は、権力ではなくしてただ権利 のみが絶対的なものと見なされうる、したがって、いかなる権力が支配〔統治〕していようとも、すべての人間には非人間的な行為をすることを拒否する絶対的な権利がある、ということ である。
(b)人間の思想の自由の不可侵性
 第二の原理は、人間がその内部を決して侵されてはならない境界線は、なんら人為的 に引かれたものなのではなく、歴史上長く受けいれられてきた規則によって定められたもので ある。
(b.1)介入が許される非人間性や狂気の概念は恣意的なものではない
 したがってこの境界線を守ることは、一個の正常な人間であるとはどういうことか、そ れゆえにまた、非人間的ないし狂気の行動とはどういうものかという概念そのもののうちに 入っているのであって、その諸規則が、たとえばある宮廷なり主権者なりの側での形式的な手 続きによって廃棄されうるなどということは、まったく不合理なことである、というにある。


「しかしながら、デモクラシーがデモクラティックであることをやめることなしにも、自由 を、少なくとも自由主義者たちがいうような自由を抑圧することができるとしたら、社会を真 に自由にするものはなんなのであろうか。

ミルやコンスタン、トックヴィルにとって、さらに かれらの属する自由主義的伝統にとっては、社会がとにかく二つの相関的な原理によって支配 〔統治〕されるのでなければ、自由ではない。

その一つの原理は、権力ではなくしてただ権利 のみが絶対的なものと見なされうる、したがって、いかなる権力が支配〔統治〕していようと も、すべての人間には非人間的な行為をすることを拒否する絶対的な権利がある、ということ である。

第二の原理は、人間がその内部を決して侵されてはならない境界線は、なんら人為的 に引かれたものなのではなく、歴史上長く受けいれられてきた規則によって定められたもので ある、

したがってこの境界線を守ることは、一個の正常な人間であるとはどういうことか、そ れゆえにまた、非人間的ないし狂気の行動とはどういうものかという概念そのもののうちに 入っているのであって、

その諸規則が、たとえばある宮廷なり主権者なりの側での形式的な手 続きによって廃棄されうるなどということは、まったく不合理なことである、というにある。 

ひとりの人間が正常であるという場合、わたくしの意味していることの一部には、そのひとが 激変のための眩暈を覚えることなしに、これらの諸規則を簡単に破ることはできないというこ とが含まれている。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然 性』),7 自由と主権,pp.85-86,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





人間には、自らの意志を主張する資格を持った行為者として承認されていることへの渇望がある。抑圧された階級、国民、皮膚の色、民族に属する人たちは、承認欲求と引き換えのグループ内での悪政や自由の制限を受け入れ、グループ全体の解放への強い欲求を持ち、温情的干渉主義は侮辱と考える。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

何のための自由なのか

人間には、自らの意志を主張する資格を持った行為者として承認されていることへの渇望がある。抑圧された階級、国民、皮膚の色、民族に属する人たちは、承認欲求と引き換えのグループ内での悪政や自由の制限を受け入れ、グループ全体の解放への強い欲求を持ち、温情的干渉主義は侮辱と考える。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)一人の人間として認められないこと
 無視されたり、恩人ぶられたり、軽蔑されたり、軽視されたり、一個人としての取扱いを受けないこと、自分の独自性がじゅうぶんに認められないこと、あるなんの特徴もない混合体の一員として、とくにきわ だった人間的特徴もなく独自の目的もない統計上の一単位として、類別されてしまうことを、私は恐れる。
(b)自らの意志を主張する資格を持った行為者として承認されていることへの渇望
 自分が一個の行為者として――たとえ自分がかくあり、かく選択したことによって攻撃され迫害されるにしても、その資格あるものとして自分の意志が考慮される、そういう行為者と して――取扱われるがゆえに、自分が存在することを感知できるという状態をこそ、私は 求めているのだ。
(c)抑圧された階級、国民、皮膚の色、民族に属する人たち
 抑圧された者が欲していることは、しばしば、人間の活動の独立 の一源泉として、自身の意志をもち、その意志に従って行為しようとする一個の実在として、かれらの階級、国 民、皮膚の色、民族を認めてほしいということ、ただそれだけなのである。
(d) 温情的干渉主義は独立した人格への侮辱である
 十分に自由でない者として、統治し、教育し、指導しようとする温情的干渉主義は、自分が一個の人間、すなわち自分の生活を自分自身の目的(それは必ずしも理性的なものでも博愛的なものでもないにせよ)にしたがって形成してゆくべ き人間、なかんずくそのような存在として他から認められる資格をもった人間であるという考えに対する侮辱である。
(e)グループ全体の解放の欲求
 自分の階級全体、国民全体、民族全体あるいは同業者全体が抑圧されていると感じる場合、その全体の解放を願い求めることになり、この願望・欲求はきわめて強大なものとなりうる。
(f)承認欲求と引き換えのグループ内での悪政や自由の制限
 抑圧された階級、国 民、皮膚の色、民族の人々は、自らの意志を主張する資格を持った行為者として承認されていることへの渇望から、グループ内で互いに理解し合い承認し合っていることと引き換えに、グループ内での悪政や自由の制限に甘んじている場合がある。



「わたくしが求めているのは、ミルによってわたくしが求めるであろうと期待されたもの、 つまり、強制を受けないこと、勝手な拘留とか虐待とか行動の機会の剥奪とかから免れるこ と、あるいは自分の動作に対してだれにも法的な責任を負う必要のない場所、などではないの かもしれない。

同様にまた、わたくしは社会生活の理性的な計画とか、情念に動かされない賢 者の自己完成といったものを求めているのではないかもしれない。

おそらくわたくしが避けよ うとするのは、たんに無視されたり、恩人ぶられたり、軽蔑されたり、あまりに当然と思われ たりすることにすぎないのだ。

要するに、一個人としての取扱いを受けないこと、自分の独自 性がじゅうぶんに認められないこと、あるなんの特徴もない混合体の一員として、とくにきわ だった人間的特徴もなく独自の目的もない統計上の一単位として、類別されてしまうことなの である。

わたくしが戦っているのは、このような人間としての品位の低減に対してである。

法 的な権利の平等とか、したいことをする自由とかではなく(これらをも欲しはするけれど も)、自分が一個の行為者として――たとえ自分がかくあり、かく選択したことによって攻撃さ れ迫害されるにしても、その資格あるものとして自分の意志が考慮される、そういう行為者と して――取扱われるがゆえに、自分が存在することを感知できるという状態をこそ、わたくしは 求めているのだ。これは地位と承認〔認知〕への渇望である。」(中略)

「一般に被抑圧階級 あるいは被抑圧国民が要求するものとは、たんにその成員の妨げられることなき行動の自由と いったものではなく、またなによりもまず社会的あるいは経済的な機会の平等であるわけでも ない。ましてや、理性的な立法者によって考え出された摩擦のない有機体的国家内に、ある地位が割り当てられることでもない。

かれらが欲していることは、しばしば、人間の活動の独立 の一源泉として、つまりそれ自身の意志をもち、その意志(善かろうと悪かろうと、正当であ ろうとなかろうと)にしたがって行為しようとする一個の実在として、(かれらの階級、国 民、皮膚の色、民族を)認めてほしいということ、ただそれだけなのである。

だからしてそれ はまた、いかに手際よくではあっても、まだじゅうぶんに人間的でないもの、したがってじゅ うぶんに自由でないものとして、統治されたり、教育されたり、指導されたりしたくないとい うことなのだ。」(中略)

「温情的干渉主義は、自分が一個の人間――自分の生活を自分自身の 目的(それは必ずしも理性的なものでも博愛的なものでもない)にしたがって形成してゆくべ き人間、なかんずくそのような存在として他から認められる資格をもった人間――であるという 考えに対する侮辱であるからなのだ。」(中略)

「自分がある認められていない集団、ないし はじゅうぶんな顧慮を払われていない集団の一員として自由でないと感ずることもあるであろ う。

その場合には、わたくしは自分の階級全体、国民全体、民族全体あるいは同業者全体の解 放を願い求めることになる。

この願望・欲求はきわめて強大なものとなりうるから、烈しく地 位を熱望するあまりわたくしは、とにかく自分を一個の人間として、競争相手として――つまり 同等のものとして――認めてくれるのであれば、自分の民族なり社会階級のうちのあるひとびと によっていじめられ悪政を施かれるのであっても、その方が、自分をそうありたいと願うよう なものとして認めてくれない上位の関係うすいグループのひとびとによって寛大に手あつく扱 われるよりもよいとするかもしれないのである。

これこそが、個人ならびに集団のいずれの側 からも発せられる承認〔認知〕要求の声、また現代では職業や階級、国民や民族から発せられ るその要素の核心をなすものである。

たとえ自分の社会の諸成員の手によって「消極的」自由 の獲得が妨げられたにしても、かれらがわたくしと同じ集団の成員であり、わたくしがかれら を理解するように、かれらがわたくしを理解してくれるというのであれば、この理解はわたく しのうちに、自分もこの世界においてなにものかであるのだという感覚を生み出すわけであ る。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然 性』),6 地位の追求,pp.67-71,みすず書房(1966),生松敬三(訳))

アイザイア・バーリン
(1909-1997)





20.人間の目的は全て、抑制し得ない究極的な価値である。しかし、目的が理性の名において区別されるとき歪曲が始まる。各個人の想像力による特異的なもの、審美的、非理性的な目的が抑圧され、理性による目的が真のものとされるが、それは恣意的な直感に過ぎない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

理性による解放という歪曲

人間の目的は全て、抑制し得ない究極的な価値である。しかし、目的が理性の名において区別されるとき歪曲が始まる。各個人の想像力による特異的なもの、審美的、非理性的な目的が抑圧され、理性による目的が真のものとされるが、それは恣意的な直感に過ぎない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)人間の目的は全て抑制し得ない究極的な価値である
 人 間の目的はすべてひとしく究極的で抑制しえぬ自己目的と見なされねばならないから、個人ないし集団の間に、ただそれらの諸目的の衝突を防ぐという観点からのみ境界線が引か れる。
(b)人間の目的が理性の名において区別されるとき歪曲が始まる
 合理主義者たちは、すべての目的が同等の価値のあるものとは考えない。かれらにとっては、自由の限界は「理性」の法則を適用することによってのみ決定される。理性は、万人において、また万人のための同一の一目的を創出ないし開示する能力である。
(c)各個人の想像力による特異的なもの、審美的、非理性的な目的が抑圧される
 理性的ならざるものは、理性の名において断罪されてよい。各個人の想像力や特異質によって与えられる様々な個人的目的、たとえば審美的その他の非理性的な種類の自己充足 は、少なくとも理論上は、理性の要求に道を開けるために容赦なく制圧されてよいのである。
(d)理性による真の自由という歪曲
 理性の権威および理性が人間に課する義務の権威は、理性的な目的のみが「自由」な人間 の「真実」の本性の「真」の対象たりうるという想定にもとづき、他人の自由と同一視されるわけである。
(e)しかしそれは恣意的な直感に過ぎない
 しかし「理性」とは何か。経験から得られた知識を基礎として判断するのでなく、「ア・プリオリ」に何が正しいとされる時点で、既に誤っている。


「カントは(その政治論のひとつで)次のように述べているが、そこでは自由の「消極的」 理念の主張とほとんどすれすれのところに到達している。

つまり、「人類が自然によってその 解決を迫られている最大の問題は、市民社会を普遍的に支配する法による正義の確立である。 それは最大の自由を有する社会にのみ存する......――そしてそこには――〔各個人の〕自由が他の ひとびとの自由と共存しうるため、自然の全能力の展開という自然の最高目的が人類において 達成されうるために、〔各個人の〕自由の限界のきわめて精確な確定と保証とが伴ってい る。」

目的論的な含意は論外としてみれば、この簡潔な論述は、一見したところ、正統的自由 主義とはほとんど異なるところはない。

しかし、決定的な点は、個人の自由の「限界の精確な 確定と保証」の規準をいかにして定めるかにある。

ミルおよび一般に自由主義者たちは、いち ばん首尾一貫したかたちでは、できるだけ多数の目的を実現しうるような状況を待望する。

人 間の目的はすべてひとしく究極的で抑制しえぬ自己目的と見なされねばならないから、かれら は個人ないし集団の間に、ただそれらの諸目的の衝突を防ぐという観点からのみ境界線が引か れることを願うわけである。

カントおよびこのタイプの合理主義者たちは、すべての目的が同 等の価値のあるものとは考えない。

かれらにとっては、自由の限界は「理性」の法則を適用す ることによってのみ決定される。理性はたんなる法則の一般性そのものより以上のものであ り、万人において、また万人のための同一の一目的を創出ないし開示する能力である。

理性的 ならざるものは、理性の名において断罪されてよい。したがって、各個人の想像力と特異質に よって与えられるさまざまな個人的目的――たとえば審美的その他の非理性的な種類の自己充足 ――は、少なくとも理論上は、理性の要求に道を開けるために容赦なく制圧されてよいのであ る。

理性の権威および理性が人間に課する義務の権威は、理性的な目的のみが「自由」な人間 の「真実」の本性の「真」の対象たりうるという想定にもとづき、他人の自由と同一視される わけである。

白状しておかなければならないが、わたくしは、この文脈において「理性」が何を意味する かをまったく理解しえなかった。

それでここではただ、この哲学的心理学の《ア・プリオリ》 な想定は経験論とは相容れないということだけを指摘しておきたい。経験論というのはつま り、人間がなんであり、なにを求めるかについての、経験からえられた知識を基礎とする学説 のことである。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然 性』),5 サラストロの神殿,pp.63-64,註 *,みすず書房(1966),生松敬三(訳))


19.外部的な要因は、自分では思い通りに支配できないというのは事実である。しかし、自分を傷つける可能性のあるものをすべてとり除いてゆくという過程の論理的な到達点は、自殺である。この世界に生存するかぎり、完全ということは決してありえないが、我々は現実を受け入れて進むのが、より自由である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

内なる砦への退却は自由ではない

外部的な要因は、自分では思い通りに支配できないというのは事実である。しかし、自分を傷つける可能性のあるものをすべてとり除いてゆくという過程の論理的な到達点は、自殺である。この世界に生存するかぎり、完全ということは決してありえないが、我々は現実を受け入れて進むのが、より自由である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))




「禁欲的な自己否定は誠実さや精神力の一源泉ではあるかもしれないが、どうしてこれが自 由の拡大と呼ばれうるのかは理解しがたい。

もしわたくしが室内に退却し、一切の出口・入口 の鍵をかけてしまうことで敵から免れたとした場合、その敵にわたくしが捕らえられてしまっ た場合よりはたしかにより自由であるだろう。

しかし、わたくしがその敵を打ち負かし、捕虜 にした場合よりも自由であるだろうか。

もしもそのやり方をもっと進めて、自分をあまりに狭 い場所に押しこめてしまうとしたら、わたくしは窒息して死んでしまうであろう。

自分を傷つ ける可能性のあるものをすべてとり除いてゆくという過程の論理的な到達点は、自殺である。 

わたくしが自然的世界に生存するかぎり、完全ということは決してありえないのだ。

この意味 における全面的な解放は(ショーペンハウアーが正しく認めていたように)ただ死によっての み与えられるのである。」


(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然 性』),3 内なる砦への退却,p.40,みすず書房(1966),生松敬三(訳))


2022年1月15日土曜日

18.非常に多くの国で、非常に長い期間にわたって非常に多くの人々が生きる基準にしてきた道徳律が存在する。これを認めると、それによって他の人々と一緒に生きることが可能になる。仮に、異なる文化、異なるものの見方、異なる直感を持った人々でも、理解することはできるだろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

普遍的な道徳律

非常に多くの国で、非常に長い期間にわたって非常に多くの人々が生きる基準にしてきた道徳律が存在する。これを認めると、それによって他の人々と一緒に生きることが可能になる。仮に、異なる文化、異なるものの見方、異なる直感を持った人々でも、理解することはできるだろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



 「―――しかし、あなたは普遍的な道徳的価値を信じるのですか。  
バーリン 
そうです、ある意味では。私は、非常に多くの国で非常に長い期間にわたって非 常に多くの人々が生きる基準にしてきた道徳律を信じています。この道徳律を認めること、そ れによって他の人々と一緒に生きることが可能になります。

しかし、あなたが「絶対的な道徳 律」と言われるなら、私は「どうしてそれが絶対的になっているのか」、「それは何を根拠に してか」と問い返さねばなりません。そして先験的なものに再び帰っていくことになります。 

普遍的というのが道徳律の直感的確実性という意味なら、私はある種の直感的確実性を感じて いると思います。しかし、誰か他の人はまったく違ったものの見方と直感の体系を持っている とあなたが言われるなら、私はそれが理解不可能なものでない限りは、その誰かがどのように してその価値を持つに至ったかを把握できるよう努めるでしょう。

その文化が私の文化に危険 をもたらすようなことがあるとすれば、その文化から我が身を守らねばならなくなるとして も、理解しようとするでしょう。

現実に人間と人間のものの見方はヘルダーの思っていたのよ りははるかによく似ており、文化は例えばシュペングラー、さらにはトインビーが主張してい たのよりもはるかに大きく互いに似かよっていると、私は信じています。

しかし文化はやはり 違っており、互いに和解できないものかもしれません。しかし私は、自分には絶対的な道徳律 を探知する能力はないことは、はっきり判っています。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハ ンベグロー,第3の対話 政治思想――時の試練,道徳と宗教,pp.162-163,みすず書房(1993), 河合秀和(訳))


17.権力の問題は、観察、歴史分析、社会学的調査によって解決される経験的な問題であるが、政治哲学の対象はこれだけではない。それは本質的には、社会状況に適用された道徳哲学であり、人生の目的、人間の社会的、集団的目的を検討する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治哲学とは

権力の問題は、観察、歴史分析、社会学的調査によって解決される経験的な問題であるが、政治哲学の対象はこれだけではない。それは本質的には、社会状況に適用された道徳哲学であり、人生の目的、人間の社会的、集団的目的を検討する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

 
 「―――何が政治哲学の課題であると思いますか。  
バーリン
 人生の目的を検討することです。政治哲学は本質的には社会状況に適用された道 徳哲学です。この社会状況には、もちろん政治組織、個人の共同体・国家に対する関係、共同 体と国家相互の関係などを含んでいます。

政治哲学は権力についての哲学だと、人は言いま す。私は反対です。権力は純粋に経験的な問題で、観察、歴史分析、社会学的調査によって解 決される問題です。

政治哲学は人生の目的、人間の社会的、集団的目的を検討します。政治哲 学の仕事は、さまざまな社会的目標のもとに打ち出されてくるさまざまな主張の有効性を、こ れらの目標を特定し達成するための方法の正当性を検討することです。

すべての哲学研究と同 様、これらの見解の枠組になっている言葉と概念を明確にして、人々が自分の信じているのは 何なのか、彼らの行動が何を表現しているのかを理解できるようにします。

それは、人間が追 求しているさまざまな目的にたいする賛成反対の議論を評価し、先に私がマクミランを回想し て引用した「馬鹿げたことを言」わせないようにします。

これが政治哲学の仕事であり、それ はいつもそうでした。真の政治哲学はこれをやらないで済ます訳にはいきません。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハ ンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,理想の追求,p.75,みすず書房(1993), 河合秀和(訳))


16.各個人の選択において、干渉や妨害を加えずに放任しておくという消極的自由と、その選択が各個人自らの統治すなわち自己支配を基礎とした自由な選択かを問う積極的自由との概念がある。弱者の積極的自由の保護のためには消極的自由の制限が必要となるが、積極的自由が歪曲され悪用されることが多かった。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

消極的自由と積極的自由

各個人の選択において、干渉や妨害を加えずに放任しておくという消極的自由と、その選択が各個人自らの統治すなわち自己支配を基礎とした自由な選択かを問う積極的自由との概念がある。弱者の積極的自由の保護のためには消極的自由の制限が必要となるが、積極的自由が歪曲され悪用されることが多かった。(アイザイア・バーリン(1909-1997))




 「―――自由について話すとなると、まずあなたが積極的自由と消極的自由の間に引いた区別 を、あなた自身の口から説明したいただけませんか。

バーリン
  二つの別々の問題があります。一つは、「私にはいくつのドアが開いているか」 もう一つは、「誰がここの責任者か、誰が管理しているのか」です。この二つの問題はからみ 合ってはいるが、同じ問題ではありません。別の答えを必要としているのです。

私にはいくつのドアが開いているのか。消極的自由の範囲という問題は、私の前にどのような障害があるか にかかっています。他の人々によって――故意にか間接的にか、意図的でなく制度的にか――私が 何をするのを妨害されているのかという問題です。

もう一つの問題は、「誰が私を統治してい るのか、他の人が私を統治しているのか、それとも私が自分を統治しているのか。もし他の人 が統治しているとすれば、いかなる権利、いかなる権威によってか。

もし私が自己支配、自治 の権利を持っているとすれば、私はこの権利を失うことができるのか、放棄できるのか。また 取り返せるのか。どのようにしてか。誰が法を作るのか、あるいは誰がそれを執行するのか。 私は協議に参加できるのか。多数が統治しているのか。何故そうなのか。それとも神が、聖職 者が、政党が統治しているのか。それとも世論の圧力なのか。伝統の圧力なのか。いかなる権 威によってなのか。」

それは別の問題です。両方の問題、それに付随する問題は、それぞれに 中心的な問題、正統な問題です。両方に答えねばなりません。

私は、積極的自由に反対して消 極的自由を擁護し、消極的自由の方が文明社会に相応しいと主張したという嫌疑をかけられて いますが、その理由は唯一つ、積極的自由という観念――もちろん、まともな生存のためには本 質的に必要なものです――の方が消極的自由の観念よりも悪用ないし歪曲されることが多かった からという理由です。

二つとも真の問題であり、避ける訳にはいきません。そして、この二つ の問題にたいする答えが社会の性質――それが自由主義的か権威主義的か、民主的か専制的か、 世俗的か神政的か、個人主義的か共同主義的か等々を規定します。

二つの自由概念は、政治 的、道徳的にねじ曲げられて逆のものに変えられてきました。

この点では、ジョージ・オー ウェルが見事です。「私があなたの真の願望を表明する。あなたは、自分が何を望んでいるか 自分で知っていると思っているかもしれないが、私、指導者、われわれ、共産党中央委員会 は、あなたが自分で知っているよりもあなたのことをよく知っており、あなたが自分の「真 の」必要を認識するならば、あなたの欲するものを与えよう。」

虎と羊にとって、自由は平等 でなければならぬ、虎が羊を喰うことができるようになっても、そこで国家の強制を発動して はならぬというのなら、これは避けられない事態なのだと言い出してしまうと、消極的自由が ねじ曲げられることになります。

もちろん、資本家にとっての無制限の自由は労働者の自由を 破壊し、鉱山所有者や親の無制限の自由は子供を鉱山労働に使うのを許すでしょう。弱者を強 者に対して守らねばならないし、その限りで自由を制限しなければならない、これは確実なこ とです。

積極的自由を充分に実現しなければならないとすれば、消極的自由を制限しなければ なりません。

この二つの間にバランスがなければなりませんが、このバランスについては何か 明確な原理を打ち出すことはできません。

積極的自由、消極的自由は、ともに完全に有効な概 念ですが、歴史的に見て現代世界ではインチキ積極的自由の方がインチキ消極的自由よりも大 きな損害をもたらしてきました。」

 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハ ンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,二つの自由概念,pp.66-68,みすず書房 (1993),河合秀和(訳))


2022年1月14日金曜日

倫理的独立への権利は、宗教的自由や宗教的寛容の最善の解釈である。それは、宗教的自由の歴史的核心を保護する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

倫理的独立への権利

倫理的独立への権利は、宗教的自由や宗教的寛容の最善の解釈である。それは、宗教的自由の歴史的核心を保護する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(1)倫理的独立への権利は宗教的自由や宗教的寛容の最善の解釈
 倫理的独立への権利が、歴史的に宗教領域に限って表明されていたのはなぜかを、我々は知っているが、その権利は 最善の今日的な意味で解さなければならない。そして宗教的寛容をもっと一般的な権 利の一例として理解することによって、倫理的独立への権利の可能な限り最善の正当化を与え る。

(2)倫理的独立への権利
 (a)倫理的独立への権利は、宗教的自由の歴史的核心を保護する。
 (b)倫理的独立への権利は、政府が市民の 自由をいくらかでも制約するためにもちだすことができる理由を限定する。 
 (c) 倫理的独立への権利の侵害の例
  (i) ある形態の信仰は真理あるいは美徳の点で他の信仰よりもすぐれている。
  (ii)政治的多数 派はある信仰を他の信仰より優遇する資格をもっている。
  (iii)無神論は不道徳を生む。
  (iv)国教会制度も、倫理的独立への権利は否定する。
 (d)暗黙の服従関係による拘束の排除
  倫理的独立は、表面上は中立だが、何らかの直接あるいは間接の服従関係を暗黙のうちに想定して 作られたいかなる拘束をも排除するという、もっと繊細な仕方でも宗教的信仰を保護する。

(3) 宗教的行為への特別の権利
 もしわれわれが宗教的実践の自由な行使への特別の権利を否定して、倫理的独立への一般的権利だけに頼るならば、諸宗教はそれらへの平等な配慮を示す、非差別的で理性的な法律に従うように、その実践を制限するように強いられるかもしれない。あなたはそのことをショッ キングだと思うだろうか? 

(4)宗教的行為への平等な配慮の要請
 平等な配慮の要請は、立法府が 禁止しようとしている、あるいは負担を課そうとしている活動を、何らかのグループが神聖な義 務とみなしているかどうかに立法府が注意を払うよう要求する。
 (a)平等な配慮の要請による免除や改善措置
  政策が禁止あるいは負担させようとしている活動が、自らの神聖な義務にかかわると考えるグループがあ れば、立法府はそのグループに対する平等な配慮からして、そのグループへの免除あるいは他の 改善措置をとる必要があるかどうかを考慮しなければならない。
 (b)例外が政策に顕著な害を及ぼさない場合
  もし問題の政策に顕著な害を 加えずに例外を認めることが可能ならば、その例外を認めないことは不合理かもしれない。

 (c)義務免除が深刻な危険を及ぼす場合
  法律の趣旨が回避しようとしているような深刻な危険を、義務免除が人びとに与えるならば、免除を拒むことは平等な配慮を否定するものでは ない。
 (d) 非差別的な集団的統治が優先する
  非差別的な集団的統治が私的な宗教の実行に優先することは、不可避で あり正しいことであると思われる。

 「ここで私はある示唆をすることができる。われわれが宗教の自由を定義する際に出くわし た諸問題は、宗教を神から切り離すとともにその権利を特別の権利として保持しようとしたこ とから来ている。われわれはその代わりに、〈保護のハードルが高くて、それゆえ厳格な制限 のためのやむにやまれぬ必要と注意深い定義がなければならない、宗教的自由への特別の権 利〉という観念を捨てることを考慮すべきだ。それに代えて、その想定された権利の伝統的な 主題に、倫理的独立へのもっと一般的な権利を適用すべきだ。この二つのアプローチ間の違い は重要だ。特別の権利は問題となっている主題に注意を固定させる。宗教的自由の特別の権利 は、並みはずれた緊急時でなければ宗教的活動を制限してはならないと宣言する。その反対に 倫理的独立への権利は、政府と市民との間の関係に注意を向ける。その権利は、政府が市民の 自由をいくらかでも制約するためにもちだすことができる理由を限定するのだ。  われわれは次のように問うべきだ。――われわれが保護しようと望む信念は倫理的独立への一 般的な権利によって十分に保護されるものなので、それだから厄介な特別の権利の必要はないのだろうか? そうだ、と答えるならば、われわれはすべての憲法、条約、人権規約を根本的 に再解釈するための強力な根拠をもつことになる。それらの文書が宣言している宗教的自由へ の道徳的権利を、われわれは倫理的独立への権利として理解しなければならない。われわれは その権利が歴史的に宗教領域に限って表明されていたのはなぜかを知っているが、その権利は 最善の今日的な意味で解さなければならないと主張し、そして宗教的寛容をもっと一般的な権 利の一例として理解することによって倫理的独立への権利の可能な限り最善の正当化を与え る。  たからふたたびこう問うてみよう。――倫理的独立への権利は、よく反省したあとで必要だと 信ずるような保護をわれわれに与えるだろうか? その一般的権利は宗教的自由の歴史的核心 を保護する。その権利はあらゆる明示的な差別を否定する。またいつでもそのような差別は、 〈ある形態の信仰は真理あるいは美徳の点で他の信仰よりもすぐれている〉とか〈政治的多数 派はある信仰を他の信仰より優遇する資格をもっている〉とか〈無神論は不道徳を生む〉とか 想定しているのだが、そのように想定する国教会制度も、倫理的独立への権利は否定する。倫 理的独立は、表面上は中立だが何らかの直接あるいは間接の服従関係を暗黙のうちに想定して 作られたいかなる拘束をも排除するという、もっと繊細な仕方でも宗教的信仰を保護する。そ のような保護で十分だろうか? われわれはいかなる拘束についても、単に中立的であるだけ でなくやむにやまれぬ正当化を要求するような、特別の権利を必要とするのだろうか?」(中 略)  「もしわれわれが宗教的実践の自由な行使への特別の権利を否定して、倫理的独立への一般 的権利だけに頼るならば、諸宗教はそれらへの平等な配慮を示す、非差別的で理性的な法律に 従うように、その実践を制限するように強いられるかもしれない。あなたはそのことをショッ キングだと思うだろうか? これらの要請の最後のものである平等な配慮の要請は、立法府が 禁止しようとしている、あるいは負担を課そうとしている活動を何らかのグループが神聖な義 務とみなしているかどうかに立法府が注意を払うよう要求する。もしそのようなグループがあ れば、立法府はそのグループに対する平等な配慮からしてそのグループへの免除あるいは他の 改善措置をとる必要があるかどうかを考慮しなければならない。もし問題の政策に顕著な害を 加えずに例外を認めることが可能ならば、その例外を認めないことは不合理かもしれない。」 (中略)「しかしもしペヨーテ事件のように、法律の趣旨が回避しようとしているような深刻 な危険を義務免除が人びとに与えるならば、免除を拒むことは平等な配慮を否定するものでは ない。そのようにして非差別的な集団的統治が私的な宗教の実行に優先することは、不可避で あり正しいことであると思われる。」

 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『神なき宗教』,第3章 宗教的自由,筑摩書房 (2014),pp.142-146,森村進(訳))

神なき宗教 「自由」と「平等」をいかに守るか [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

人間の生命には、自然的生命という意味でも、生涯という意味でも、内在的価値がある。各個人の生涯には、その人がどう考えるかにかかわらず客観的な意味と重要性が存在し、各個人には、自己の生涯に対する不可避的な倫理的責任が存在する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

人間の生命の価値

人間の生命には、自然的生命という意味でも、生涯という意味でも、内在的価値がある。各個人の生涯には、その人がどう考えるかにかかわらず客観的な意味と重要性が存在し、各個人には、自己の生涯に対する不可避的な倫理的責任が存在する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(a)各個人の生涯には客観的な意味と重要性が存在する
 他の人びとに対する道徳的責任 だけでなく自分自身に対する倫理的責任をも受け入れて善く生きること。なぜそうなのか というと、単にわれわれがたまたまこれを重要だと考えるからではなくて、われわれがどう考 えるかにかかわらず、それがそれ自体として重要だからだ。
 (a.1)自己の生涯に対する各個人の不可避的な倫理的責任
  人間の生は 客観的な意味あるいは重要性をもっている。各人は自分の生を成功したものとすべく努める、 内在的な不可避の責任を負っている。

(b)自然における生命の価値
 自然の中の生命は、全体としても、またあらゆる部分においても、単なる事実の問題ではなくて、それ自体が崇高なもの、つまり内在的な価値と驚異をもつものである。



「ではわれわれは、何を宗教的態度とみなすべきなのか? 私は十分に抽象的で、それゆえ 普遍的と言えそうな説明を与えたい。宗教的態度とは、価値の完全な、独立した実在性を受け 入れる態度だ。それは価値に関する次の二つの主要な判断を受け入れる。第一に、人間の生は 客観的な意味あるいは重要性をもっている。各人は自分の生を成功したものとすべく努める、 内在的な不可避の責任を負っている。それが意味することは、他の人びとに対する道徳的責任 だけでなく自分自身に対する倫理的責任をも受け入れてよく生きることだが、なぜそうなのか というと、単にわれわれがたまたまこれを重要だと考えるからではなくて、われわれがどう考 えるかにかかわらず、それがそれ自体として重要だからだ。第二に、われわれが「自然」と呼 ぶもの――全体として、またあらゆる部分において――は単なる事実の問題ではなくて、それ自体が崇高なもの、つまり内在的な価値と驚異をもつものである。この二つの包括的な価値判断は 一緒になって、〈生命という意味でも生涯という意味でも、人間の生(human life)には内 在的価値がある〉と宣言する。われわれは自然の一部である。なぜならわれわれは物理的な存 在として存続するからだ。自然はわれわれの物理的生の場であり栄養素である。われわれは自 然から離れてもいる。なぜならわれわれは自分自身を生涯を作り出すものとして意識してお り、そして自分が作る生を全体として決める決断を行わなければならないからだ。」

 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『神なき宗教』,第1章 宗教的無神論,筑摩書房 (2014),pp.20-21,森村進(訳))

神なき宗教 「自由」と「平等」をいかに守るか [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

生の不可侵性に対する最大の侮辱は、その 複雑性に直面した場合の無関心や怠慢である。人生には尊厳を喪失しないために、自己主張を求められる場合がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

生の不可侵性に対する最大の侮辱

生の不可侵性に対する最大の侮辱は、その 複雑性に直面した場合の無関心や怠慢である。人生には尊厳を喪失しないために、自己主張を求められる場合がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(a)人生には尊厳を喪失しないために、自己主張を求められる場合がある
 良い人生は、特別に思慮深い人生を必要とするものではなく、最善の人生の大半は、熟慮されたものではなくただ生きているだけのものである。しかし自己主 張を強く求められる場合に、服従と便宜のために運命に消極的に従ったり、機械的に決定したりすることは背信である。何故ならばそれは尊厳を安易に喪失するものだからである。
(b)生の不可侵性に対する最大の侮辱は、その 複雑性に直面した場合の無関心や怠慢である。


「我々が自由を実現することは、それを持つことと同様に重要なことなのである。良心の自 由は思想に関する個人的責任を前提としており、その責任が無視されるとき、その重要性の大 半は失われてしまうのである。良い人生は特別に思慮深い人生を必要とするものではなく、最 善の人生の大半は、熟慮されたものではなくただ生きているだけのものである。しかし自己主 張を強く求められる場合に、服従と便宜のために運命に消極的に従ったり、機械的に決定した りすることは背信である。何故ならばそれは尊厳を安易に喪失するものだからである。我々は 本書を通して、中絶と尊厳死に関して極めて多くの真剣な個人的信念に出会って来た。あるも のはリベラルな確信であり、あるものは保守的な確信であった。それらは尊敬すべき信念であ り、このような信念を持つ人々は自らの信念に従って生き、かつ死ぬに違いない。しかしこれ らの事柄の決定的な重要性を全く無視したり、浅薄な便宜から中絶を選択したりカウンセリン グを受けたり、あるいは無意識状態や痴呆状態になっている友人の運命を、たまたま彼に起こ る出来事はもはや重要なことではないという理由から、白衣の見知らぬ人々(=医療従事者 達)に委ねたりすることは許されることではない。生の不可侵性に対する最大の侮辱は、その 複雑性に直面した場合の無関心や怠慢なのである。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『ライフズ・ドミニオン』,第8章 生命と理性の限 界――アルツハイマー症,最終章――生の支配と死の支配,信山社(1998),pp.392-393,水谷英 夫,小島妙子(訳))

ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


尊厳死の問題は、生命の尊厳と他の価値との衝突ではなく、何が生命の尊厳かという問題である。自然的生命の挫折は必ず生命の尊厳を損なうのか、逆に、自然的生命の継続が、生命の尊厳を損なう場合も、存在するのかが、問題である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

尊厳死の問題

尊厳死の問題は、生命の尊厳と他の価値との衝突ではなく、何が生命の尊厳かという問題である。自然的生命の挫折は必ず生命の尊厳を損なうのか、逆に、自然的生命の継続が、生命の尊厳を損なう場合も、存在するのかが、問題である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(5.1)激しい苦痛がないなら損害もないというのは事実か
 尊厳死に反対する主張の多くは、激しい苦痛を患っていない患者――永続的 な無意識状態の患者も含めて――には、生存し続けることによって蒙る重大な損害はありえない という前提にたっている。
 (a)この前提は、意識のない患者は死ぬことを望んだかもしれないという親族による死の要請は、特に厳格な証明規準に合致しなければならないという手続的な主張の基礎をなす。
 (b)それは、法が尊厳死を許可すべきではないのは、それが死の許可の濫用を招くことになるという「滑り坂」論の主張の基礎をなす。
 (c)医者達が殺人を求められ、かつそれが許されるならば、彼らは堕落させられ人間性の意識が衰えることになるであろうという主張の基礎をなす。

(5.2)自然的生命の継続が、生命の尊厳を損なう場合も、存在するのか
 仮に死に瀕したときに1ダースもの機械をつけて数週間生き永らえたり、植物状態で数年間 生物学的に生き永らえたとしても、それは自らの人生をより悪いものにすると考えている人 は、それを回避する目的で事前の準備ができるならば、その方が自らの生命の尊厳への人間的 貢献に対してより多くの尊重を示すものであると考える。

(5.3)自然的生命の挫折は必ず生命の尊厳を損なうのか
 積極的安楽死(active euthanasia)――医者が死を懇願している患者を殺すこと――は、常に生命の尊厳という価値に 対する攻撃であり、したがってそれを理由として禁止されるべきである、と広く考えられてい る。

(5.4)生命の尊厳か他の価値かではなく、何が生命の尊厳かの問題
 尊厳死が提起している問題は、生命の尊厳が人間性や同情のような他の何らかの価 値に譲歩すべきであるか否かということではなく、生命の尊厳がどのようにしたら理解され尊重されるべきかということなのである。
 (a)権利と利益の問題と、生命の尊厳の問題
  中絶と尊厳死に関する重大なモラル上の問題は、どちらの問題 も、個々の人間の権利と利益に関する決定のみならず、人間の生命それ自体の本来的・宇宙的 価値に関する決定でもある。
 (b)何が生命の尊厳なのかが問題
  問題とされている価値は、全ての人の生命の中心的なものであり、それらの価値が意味することに関 して、誰もが、他の人々の命令を認めるほど軽々しいものと考えることができない。
 (c)生命の尊厳を損なわない死とは
  ある人を他の人々が許容する方法で死なせること――しかしその方法は、彼自身にとって は自らの生命に対する恐るべき否定と考える方法である――は、破壊的で忌むべき圧制の形態な のである。



「◇「慎みある社会」は強制と責任のどちらを選択すべきか  仮に死に瀕したときに1ダースもの機械をつけて数週間生き永らえたり、植物状態で数年間 生物学的に生き永らえたとしても、それは自らの人生をより悪いものにすると考えている人 は、それを回避する目的で事前の準備ができるならば、その方が自らの生命の尊厳への人間的 貢献に対してより多くの尊重を示すものであり、更に他の人々が彼のためにそれを回避してく れるならば、その方が彼の生命に対してより多くの尊重を示すものであると信じている。人間 の生命の不可侵性を尊重するためには自らの利益を犠牲にすべきである、という主張は分別の あるものとはなりえないのである――その主張は論点を回避するものである。何故ならば彼は、 死ぬことが彼自身の生命の価値を尊重する最善の方法と考えているからである。したがって生 命の不可侵性に訴えることは、中絶と同様にここでも深刻な政治上、憲法上の問題を生起する ことになる。再度述べるならば、深刻な問題というのは、「慎みのある社会(decent society)は強制(coercion)と責任(responsibility)のどちらを選択すべきなのであ ろうか?」ということである――そのような社会は、最も深刻な精神的・宗教的(spirtual) 性質の事柄に関する集団的判断を、個人に強制することをめざすべきなのであろうか? ある いは、市民が自らの生命についての最も中心的で個人的な決定の判断を、独力で決定すること を認め、かつそれを市民に求めるべきなのであろうか?
◇二つの誤解  私は死を望んでいることがはっきりとわかる患者や、そのような選択をすることができない 無意識状態の患者について、医者がその死を早めてよい時期を決定するための何らかの詳細な 法的枠組みについての擁護はしてこなかった。私の主たる関心は、人々は自らの死について、 何故明らかに神秘的な意見を持つのかということを理解することにあったのであり、更に尊厳 死に関する激しい公的な論争の中で、本当に問題とされているのは何なのかということを示す ことにあったのである。私が強調してきた通り、それらの議論の一部は、私が考慮することの なかった困難で重要な行政上の問題に集中している。しかしそれらの議論の多くはモラル上、 倫理上の問題に関わるものであり、かつその一部は我々が既に指摘してきた、二つの誤解に よって深刻な危機にさらされてきたものである。そこでこの点について、要約的に再度述べて おくことが我々にとっては賢明なことであろう。  ◇第一の誤解――人が生き続けることに重大な損害はあり得ないのか?  第一の誤解は、人々がいつ、どのようにして死ぬかということに関して持つ利益の性質につ いての混乱である。尊厳死に反対する主張の多くは、激しい苦痛を患っていない患者――永続的 な無意識状態の患者も含めて――には、生存し続けることによって蒙る重大な損害はありえない という前提にたっている。我々の理解によれば、この前提は、意識のない患者は死ぬことを望んだかもしれないという親族による死の要請は、特に厳格な証明規準に合致しなければならないという手続的な主張の基礎をなすものであり、更にそれは、法が尊厳死を許可すべきではないのは、それが死の許可の濫用を招くことになるという「滑り坂」論の主張の基礎をなすものであり、そして医者達が殺人を求められかつそれが許されるならば、彼らは堕落させられ人間性の意識が衰えることになるであろうという主張の基礎をなすものでもある。しかしながら我々には、人々がどのようにして、何故自らの死が気がかりなのかということが理解されるならば、これらの主張が基礎をおく前提がばかげたものであり、かつ危険なものであるということが理解されるのである。
◇第二の誤解――生命の尊厳は他の価値に譲歩すべきなのか?  第二の誤解は、我々が本書で検討を加えてきており、今正に再度検討を加えた一つの考え・ 思想――生命の尊厳に関する思想――に関する誤解に起因している。積極的安楽死(active euthanasia)――医者が死を懇願している患者を殺すこと――は、常に生命の尊厳という価値に 対する攻撃であり、したがってそれを理由として禁止されるべきである、と広く考えられてい る。しかし尊厳死が提起している問題は、生命の尊厳が人間性や同情のような他の何らかの価 値に譲歩すべきであるか否かということではなく、生命の尊厳がどのようにしたら理解され尊 重されるべきかということなのである。中絶と尊厳死に関する重大なモラル上の問題は、本格 的な生を一括して考えるものであり、それは同じ構造を持つものなのである。どちらの問題 も、個々の人間の権利と利益に関する決定のみならず、人間の生命それ自体の本来的・宇宙的 価値に関する決定でもある。どちらの問題も、人々の意見が分裂しているのは、一方の側の 人々が、他方の側の人々が大切と考えている価値を侮辱するからなのではなく、反対に、問題 とされている価値が全ての人の生命の中心的なものであり、それらの価値が意味することに関 して、誰もが、他の人々の命令を認めるほど軽々しいものと考えることができないからなので ある。ある人を他の人々が許容する方法で死なせること――しかしその方法は、彼自身にとって は自らの生命に対する恐るべき否定と考える方法である――は、破壊的で忌むべき圧制の形態な のである。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『ライフズ・ドミニオン』,第7章 生と死のはざま ――末期医療と尊厳死,生命の不可侵性と自己の利益,信山社(1998),pp.349-351,水谷英夫, 小島妙子(訳))

ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

2022年1月13日木曜日

生命に対する自然的投資と人間的投資の挫折の概念によって、生命の不可侵性に対する中絶の意味を理解できたが、尊厳死についてはどうだろう。それが、患者の最善の利益であると本人が考える場合でも、その利益を犠牲にして自然的生命を守ることが正しいとは思えない。しかし、それでもなお、意図的な死は生命の本質的価値に対する最大の侮辱であるという直感がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

人々の直感、生命の不可侵性

生命に対する自然的投資と人間的投資の挫折の概念によって、生命の不可侵性に対する中絶の意味を理解できたが、尊厳死についてはどうだろう。それが、患者の最善の利益であると本人が考える場合でも、その利益を犠牲にして自然的生命を守ることが正しいとは思えない。しかし、それでもなお、意図的な死は生命の本質的価値に対する最大の侮辱であるという直感がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(a)生命の不可侵性と挫折
 中絶の議論をする際に、私は生命の不可侵性という独特の解釈――ある人間の生命が開始された以 上、その生命に対する投資が破壊される場合、それは生命の抹殺・破壊(waste)という本来 的に悪い出来事が起こったのである――を擁護した。

(b)自然的投資と人間的投資の挫折
 私は死の決定が人間の生命に対する投資の 破壊と考えられる場合を、二つの別な次元の問題――私はこれを自然的投資と人間的投資の次元 の問題と名付けた――として区別し、その区別を用いて、中絶に関して明確に保守的な見解につ いての解釈を行なった。
 
(c)患者の最善の利益とされる場合でも悪なのか
 尊厳死はさまざま な形態、自殺、自殺幇助、治療中止や生命維持装置の除去をとるものであるが、仮にそれが 患者の最善の利益とされる場合であっても、悪とされることがあり得るのだろうか。

(d)意図的な死は生命の本質的価値に対する侮辱する
 意図的な死は、たとえそれが患者の利益とされる場合であって も、生命の本質的価値に対する最大の侮辱となるものであるという直感は、尊厳死に対して保守的な態度の人々が抱く嫌悪感の中でも、最も深く最も重要な部分なのである。


「◇人々の直感――生命の不可侵性  既に述べたことであるが、もう一つ別な問題に話を転じることにしよう。尊厳死はさまざま な形態――自殺、自殺幇助、治療中止や生命維持装置の除去――をとるものであるが、仮にそれが 患者の最善の利益と《される》場合であっても、悪とされることがありうるのだろうか? 中 絶の議論をする際に、私は生命の不可侵性という独特の解釈――ある人間の生命が開始された以 上、その生命に対する投資が破壊される場合、それは生命の抹殺・破壊(waste)という本来 的に悪い出来事が起こったのである――を擁護した。私は死の決定が人間の生命に対する投資の 破壊と考えられる場合を、二つの別な次元の問題――私はこれを自然的投資と人間的投資の次元 の問題と名付けた――として区別し、その区別を用いて、中絶に関して明確に保守的な見解につ いての解釈を行なった。この見解(=保守的見解)によると、人間の生命に対する自然的投資 は人間的投資よりも際立って一層重要なものなのであり、従って早死を選択することは、生命 という神聖な価値に対する最大の侮辱となる可能性をもつものなのである。  我々は尊厳死に関して明確な保守的見解についての解釈をする際にも、同じ区別を用いるこ とができる。仮に我々が多くの宗教的伝統に合致したこのような見解――技術的に延命可能で あった人が死ぬ場合はいつでも、人間の生命に対する自然的投資の挫折となる――を受け入れる ならば、人間の手による一切の介入――致死量の薬を末期ガンで苦しんでいる人に注射したり、 永続的植物状態の人から生命維持装置を撤去すること――は自然を欺くこととされよう。した がって、仮に自然の投資がそのような意味に理解されることによって、生命の不可侵性に対す る方向づけがなされるならば、尊厳死というものは常にその価値に対する侮辱とされることに なる。私の考えではこのような主張が、世界中で、あらゆる尊厳死の形態に対する強力な保守 的反対意見の最も強い基礎を形成しているものなのである。もちろんそれが唯一の論拠ではな いのであり、人々は実務的で行政的な問題についても懸念を示しており、(尊厳死を認めるこ とによって)万一生命が蘇生したかもしれない人に対して死の許可をすることになりはしない かと恐れている。しかしながら、意図的な死はたとえそれが患者の利益とされる場合であって も、生命の本質的価値に対する最大の侮辱となるものであるという直感は、尊厳死に対して保 守的な態度の人々が抱く嫌悪感の中でも、最も深く最も重要な部分なのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『ライフズ・ドミニオン』,第7章 生と死のはざま ――末期医療と尊厳死,生命の不可侵性と自己の利益,信山社(1998),pp.346-347,水谷英夫, 小島妙子(訳))

ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

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