「裁量」の3つの意味
【裁判官は、自らに課された義務に従いつつも、合理的な幾つか異なった判断の可能性に導かれる場合の裁量、裁定が最終的なものであるという意味での裁量をもつが、事実上いかなる義務も課されていない裁量はもたない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】(1)「裁量」の3つの意味
(a)ある人の特定の判断、裁定を規律している義務を規定している規準が、合理的に解釈しても幾つか異なった判断、裁定の可能性を導く場合、彼は裁量をもつ。
(b)ある人の特定の判断、裁定が最終的であり、上位の権威がそれを再検討したり無効にすることができない場合、彼は裁量をもつ。
(c)ある人の特定の判断、裁定を規律している義務を規定している規準が、特定の判断に関して事実上いかなる義務をも課していない場合、彼は裁量をもつ。
(2)裁判官は、(a)と(b)の意味での裁量を有し得るにもかかわらず、(c)の意味での裁量は持ちえない。すなわち彼は、当該事案に関連すると思われる様々な問題を考慮に入れ、自らに対し要求されていることを反省し、裁判官としての義務の何たるかが問題とされるようなものとして、自らの判決を受けとめる。
「私は前章でこの主張が実は裁量概念の一種の多義性に基づいていることを明らかにしようとした。我々は義務に関する議論においてこの概念を三つの異なった意味で使用する。第一に、ある人間の義務が、合理的に解釈しても幾つか異なった解釈の可能な規準により規定されている場合、その人間には裁量が認められると我々は考える。最も経験豊かな五人の人間を巡視に選ぶよう命じられた軍曹の例がこれにあたる。第二に、ある人間の裁定が最終的であり上位の権威がそれを再検討したり無効にすることができない場合、彼は裁量をもつと我々は考える。たとえば選手がオフサイドを犯したか否かの判定が線審の裁量に委されている場合がそうである。第三に、ある人間に義務を課する一連の規準がその趣旨からして特定の判断に関しては事実上いかなる義務をも課していない場合、その人間は裁量を有すると言われる。たとえば借家契約の条項が借家人に対し裁量により契約を更新する選択権を認めている場合がそうである。
特定の判決を一義的な仕方で要求するいかなる社会的ルールも存在せず、いかなる判決が事実上要求されているかにつき裁判実務が分裂していることが明らかな場合、裁判官には上記の第一の意味での裁量が認められることになる。というのもこの場合、裁判官は既存のルールの適用を超えてイニシャティヴを行使し判断を下さねばならないからである。またこれらの裁判官が最終審の裁判所の成員であるとき、彼らに第二の意味の裁量が認められることも明らかである。しかし我々が最も強い形態の社会的ルール理論を採用し、義務や責任は社会的ルールのみから生成すると考えないかぎり、これらの裁判官が第三の意味での裁量をもつと結論することはできない。これらの裁判官が第一と第二の意味での裁量をともに有していながら、それにもかかわらず、裁判官としての彼の義務の何たるかが問題とされるようなものとして、まさに自らの判決を受けとめるであろう。裁判官にとり判決とは、当該事案に関連すると思われる様々な問題を考慮に入れ、何が彼に対し要求されているかを反省することにより判断すべき問題と考えられているのである。もしそうであれば、裁判官は第三の意味での裁量はもたないことになる。しかし司法的義務が専らある単一の窮極的な社会的ルールや一群の社会的ルールにより規定されていることを実証主義者が論証しようとするならば、この第三の意味での裁量を裁判官が現実に有していることを実証主義者は立証しなければならない。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,4 裁判官は裁量を行使する必要があるか,木鐸社(2003),pp.80-81,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:裁量)
(出典:wikipedia)
「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
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