愛着、友愛、献身
【〈愛着〉〈友愛〉〈献身〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受。(ルネ・デカルト(1596-1650))】ある対象に「愛着」を感じるとき、それは、自分以下に評価されている、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈美〉〈広義の美〉〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。例として、一つの花、一羽の鳥、一頭の馬。
ある対象に「友愛」を感じるとき、それは、自分と同等に評価されている、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。例として、自分が真にけだかく高邁な精神を持つと考え、また仮に、相手が不完全であると考えても、その相手に対してきわめて完全な友愛を持ちえないことはない。
ある対象に「献身」を感じるとき、それは、自分よりも高く評価されている、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。例として、神に対して、ある国に対して、ある個人に対して、ある君主に対して、ある都市に対して。
「自分自身との比較で愛するものについてなす評価にもとづき愛を区別することは、いっそう理にかなっていると思われる。愛の対象を自分以下に評価するとき、その対象にはたんなる愛着を持つだけだ。対象を自分と同等に評価するとき、それは友愛とよばれる。対象を自分以上に評価するとき、ひとの持つ情念は献身とよべる。たとえば、一つの花、一羽の鳥、一頭の馬に対して愛着を持ちうる。しかし友愛は、きわめて乱れた精神の持ち主でもない限り、人間に対してしか持ちえない。そして人間たちはまさにこの情念の対象なのであり、いかに相手が不完全であっても、自分が愛され、また真にけだかく高邁な精神を持つと考えながら、しかもその人に対してきわめて完全な友愛を持ちえないことはないのだ。」(中略)「献身については、その主要な対象は疑いなく至高の神であり、神を正しく認識するならば神に対して献身的であらざるをえない。しかしひとはまた、その君主に対しても、その国に対しても、その都市に対しても、さらには一個人に対してさえも、自分よりもはるかに高く評価するとき、献身の情念を持ちうる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 八三、p.72、[谷川多佳子・2008])
(索引:愛着、友愛、献身)
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
2.私は存在する
3.私でないものが、存在する
4.精神と身体
5.私(精神)のなかに見出されるもの
(出典:wikipedia) |
「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」 (ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964]) |
ルネ・デカルト(1596-1650)
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