2022年1月23日日曜日

外部世界についての自然科学と、人間が自ら創造した世界についての知識である人文学は、その目標・方法・可知度が異なる。数学、言語、人間の歴史も「内部から」理解できる。人間が作者・演者・観察者を一身に兼ねているような人間の 諸活動すべての知識もまた然りである。(ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

自然科学と人文学

外部世界についての自然科学と、人間が自ら創造した世界についての知識である人文学は、その目標・方法・可知度が異なる。数学、言語、人間の歴史も「内部から」理解できる。人間が作者・演者・観察者を一身に兼ねているような人間の 諸活動すべての知識もまた然りである。(ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)















(1)外部世界についての知識
 人間が観察し、叙述し、分類し、考察し得て、時間的・空間的 規則性を記録し得る外部世界についての人間の知識である。
(2)人間が自ら創造した世界についての知識
 人間自身が創造した世界、人間自身が 自らの創造物に課した規則に従う世界についての知識である。
 (a)例えば、数学は人間の案出したものの知識であり、これについて人間は「内部か らの」観点をもっている。
 (b)人間が形成した言語の知識もそうである。
 (c)人間が作者・演者・観察者を一身に兼ねているような人間の 諸活動すべての知識もまた然り。
 (d)歴史は人間の行動に関するものであり、人間の努力・闘 争・目標・動機・希望・危惧・態度姿勢の物語であるがゆえに、この一段と勝った「内側か らの」形で知りうる。


「(3)それゆえに、われわれ人間が観察し、叙述し、分類し、考察し得て、時間的・空間的 規則性を記録し得る外部世界についての人間の知識は、人間自身が創造した世界、人間自身が 自らの創造物に課した規則に従う世界、この世界についての知識とは、原理的に異なる。後者 の知識は、例えば、数学――人間の案出したもの――の知識であり、これについて人間は「内部か らの」観点をもっている。また、言語、自然の諸力が作ったのではなく、人間が形成した言語 の知識もそうである。ひいては、人間が作者・演者・観察者を一身に兼ねているような人間の 諸活動すべての知識もまた然り。さて歴史は人間の行動に関するものであり、人間の努力・闘 争・目標・動機・希望・危惧・態度姿勢の物語であるがゆえに、この一段と勝った――「内側か らの」――形で知りうる。これについては外部世界の知識はおそらく範例となり得ないであろう ――それゆえ、この点については、自然に関する知識をモデルとしているデカルト一派は必然的 に誤っていることになる。これを土台としてヴィーコは、自然科学と人文学との間に、自己理 解と外的世界の観察との間に、またそれぞれの目標・方法・可知度について、明確な一線を画したのである。この二元論は爾来、絶えず熾烈な議論の主題となっている。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,p.14,みすず書房 (1981),小池銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





2022年1月22日土曜日

《もの》を作りまた創造する人は、単なる《もの》の観察者にはできぬような具合 に、その《もの》を理解し得る。人間はある意味で人間自身の歴史を作るのだから、人間は自分たち の歴史は理解できる。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

自ら創造したもの

《もの》を作りまた創造する人は、単なる《もの》の観察者にはできぬような具合 に、その《もの》を理解し得る。人間はある意味で人間自身の歴史を作るのだから、人間は自分たち の歴史は理解できる。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)














「(2)《もの》を作りまた創造する人は、単なる《もの》の観察者にはできぬような具合 に、その《もの》を理解し得る。人間はある意味で人間自身の歴史を作る(ただし、この種の 作りかたがどのようなものかは完全には明らかにされていないが)のだから、人間は自分たち の歴史は理解できるが、外部の自然の世界は、人間が作ったものではなく、単に観察し解釈し ているにすぎぬものである以上、人間自身の経験や活動を解し得るようには、人間には理解し得ぬものである。ただ神のみが、自然を作られたがゆえに、自然の世界を完全に、一から十ま で、理解し得るのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,p.13,みすず書房 (1981),小池銈(訳))


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




人間の本性は、静止的、不可変なものではない。様々な変化を通じても同一不変たり続けるような中心の核や精髄を含んでいるとさえ言えない。人間自身の努力は、不断に人間の 世界と、人間自身とを変化させてゆく。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

人間本性の可変性

人間の本性は、静止的、不可変なものではない。様々な変化を通じても同一不変たり続けるような中心の核や精髄を含んでいるとさえ言えない。人間自身の努力は、不断に人間の 世界と、人間自身とを変化させてゆく。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)





















 「では、その時間の浸蝕を退けた考えとは何か、と問われるであろう。ヴィーコの場合につ いては、わたくしの眼に最も刮目すべきところと思われるものを、7つの命題の形で要約させ て頂こう。  (1)人間の本性は、永らくそう思われてきたように、静止的、不可変なものではない、いや 外力によって変えられたことがなかったとさえいえない。さまざまな変化を通じても同一不変 たり続けるような中心の核や精髄を含んでいるとさえ云えない。自分をとりまく世界を理解 し、それを自らの物理的・精神的要求に適合させようとする人間自身の努力は、不断に人間の 世界と人間自身とを変化させてゆく。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,p.13,みすず書房 (1981),小池銈(訳))


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




課題の解決は人々を変え、新たな課題を生む。将来の課題は予知できない。人間の目的は創造されるのであって発見されるのではない。人は、自由への恐れから、客観的な道徳的原理や客観的権威を求めるが、それは幻想であるとする思想がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

客観的な価値は存在するのか

課題の解決は人々を変え、新たな課題を生む。将来の課題は予知できない。人間の目的は創造されるのであって発見されるのではない。人は、自由への恐れから、客観的な道徳的原理や客観的権威を求めるが、それは幻想である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)課題の解決は人々を変え、新たな課題を生む
 ある時代または文化の問題を解決しようとする努力そのものが、当の努力をしている人々および解決案が適用される人々をともに変えてしまい、それによって新しい人間、新しい諸問題が創り出されることになる。
(2)将来の課題は予知できない
 歴史的地平によって制約された人 間が、将来の人々の課題や諸問題を予知をすることはできず、まして分析や解決などはできない。
(3)目的は創造されるのであって発見されるのではない
 行為の目的は発見されるのではなく、芸術の仕事と同じように 個々人、または文化、または国民によって創造されるものなのであって、「何をなすべき か」という問いに対する答えは、発見されることはできない。(主観主義、非合理主義、ロマン主義)
 (a)解答は行動にある
  その問いがそもそも事実に関する問いではなく、解答が、命題あるいは定式、客観的な善、原理、客観的あるいは主観的な価値体系、心と心でないなにものかとの関係を発見することにはなくて、行動のうちにある。
 (b)意志、信仰、創造の行為
  発見されるのではなくて発明しかされえない何ものかのうちに、あらかじめ存在する規則や法則、事実などには従属しない意志あるいは信仰あるいは創造の行為のうちにあるからだ。

(4)客観的な価値論への批判
 (a)自由への恐怖
  客観的基準などというものは幻想の一形 態ないし「虚偽意識」の一形態であるとされ、そうしたこしらえごとを信ずるのは、心理学的 には自由の恐怖、ひとり放り出され、自分だけの工夫にまかされることへの恐怖に由来する。
 (b)道徳的原理、客観的権威、形而上学的宇宙論
  この恐怖によって、道徳的あるいは知的な規則とか原理とかの、永遠の真正性を保証する客観的権威を要求する諸体系、またはまがいものの神学的ないし形而上学的宇 宙論の無批判的容認へと導かれる。


「もう一方の側には、なんらかのかたちの原罪とか、人間の完成の不可能性を信じるひとた ち、それゆえ、いちばん根本的な人間の諸問題に対する最終的な解決の経験的達成の可能性に は懐疑的な傾向のひとたちがいる。そのなかには、懐疑論者、相対主義者がおり、また、ある 時代または文化の問題を解決しようとする努力そのものが、当の努力をしているひとびとおよ び解決案が適用されるひとびとをともに変えてしまい、それによって新しい人間、新しい諸問 題が創り出されることになるのだから、その性格をかれらの歴史的地平によって制約された人 間が今日予知することはできず、まして分析や解決などはできないと信ずるひとたちも入る。 さらにまたこれには、多くの党派の主観主義者や非合理主義者も、とりわけロマン主義的な思 想家たちが属する。かれらは、行為の目的は発見されるのではなく、芸術の仕事と同じように 個々人、または文化、または国民によって創造されるものなのであって、「なにをなすべき か」という問いに対する答えは発見されることはできない。それは、答えを発見することがわ れわれの能力を超えているからではなく、その問いがそもそも事実に関する問いではなく、発 見されるかどうかはともかく、解答が、現にあるなにものか――命題あるいは定式、客観的な 善、原理、客観的あるいは主観的な価値体系、心と心でないなにものかとの関係――を発見する ことにはなくて、行動のうちにある。つまり、発見されるのではなくて発明しかされえないな にものかのうちに、あらかじめ存在する規則や法則、事実などには従属しない意志あるいは信 仰あるいは創造の行為のうちにあるからだ、と考える。さらにここは、ロマン主義の20世紀に おける継承者である実存主義者たちも加わる。かれらは、行動に対する個人の自由な関与、あ るいは自由に選択する発動者によって決定される生活様式というものを信じ、そうした選択は 客観的基準を考慮に入れないと考える。というのは、客観的基準などというものは幻想の一形 態ないし「虚偽意識」の一形態であるとされ、そうしたこしらえごとを信ずるのは、心理学的 には自由の恐怖――ひとり放り出され、自分だけの工夫にまかされることへの恐怖――に由来する とされるからである。この恐怖によって、道徳的あるいは知的な規則とか原理とかの永遠の真 正性を保証する客観的権威を要求する諸体系、またはまがいものの神学的ないし形而上学的宇 宙論の無批判的容認へと導かれるのだというのである。それからまた、運命論者や神秘主義 者、ならびに偶然が歴史を支配すると信ずるひとびとや他の非合理主義者なども、これに近い ところにいるばかりでなく、非決定論者とか、不変的法則にしたがう固定的な人間本性を発見 することができるかどうかに疑問を抱く困惑せる合理主義者なども、これに近いわけである。とくに、人間の将来の必要なりその充足なりは予示しうるという命題は、新しい行動の道をた えずきり拓いてゆくという前提――これはわれわれが人間というときに意味されているものの定 義そのもののなかに入っている前提である――によって必然的に意志とか、選択とか、努力と か、目的とかの概念を含んでくるところの人間本性観には適合しないと考えるひとびとは、そ うである。これは、現代のマルクス主義者がとっている立場であるが、かれらはその学説のよ り粗野な通俗版に対して、自分たち自身の前提や原理の内包するものを理解するにいたったの である。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,III,pp.475-477,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




信念や価値の問題もまた理性の対象である。我々は何を信じているのか、信じている理由はなにか、その信念は、どのような価値と真理との規準を含んでいるか。人間と社会、政治を、動機と理由による正当化と説明を求める理性的な好奇心が存在する限 り、政治理論が展開される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

信念と価値の問題

信念や価値の問題もまた理性の対象である。我々は何を信じているのか、信じている理由はなにか、その信念は、どのような価値と真理との規準を含んでいるか。人間と社会、政治を、動機と理由による正当化と説明を求める理性的な好奇心が存在する限 り、政治理論が展開される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(1)信念や価値の問題もまた理性の対象である
 事実において我々の信念を因果的に決定しているものが何であれ、以下のことを知ろうと欲しないのは、我々の理性能力を理由なく放棄することである。
 (a)我々は何を信じているのか。
 (b)信じている理由はなにか。
 (c)その信念が形而上学的に含意するものはなにか。
 (d)その信念は、他のタ イプの信念といかなる関連をもつか。
 (e)その信念は、どのような価値と真理との規準を含んでいるか。
 (f)その信念が、真理であり妥当性をもつと考えるのにどんな理由があるか。

(2)目的と理由による正当化を求めること
 理性的な好奇心、すなわち単に因果関係、函数的相関関係、統計的蓋然性などによるのみではなく、動機と理由による正当化と説明を求める気持ちが存在する限 り、政治理論が完全にこの地上から消え失せることはないであろう。

(3)新しい予言不可能な未来 への展開
 新マルクス主義、新トマス 主義、国家主義、歴史主義、実存主義、反エッセンシャリスト的自由主義、社会主義、また自 然権・自然法学説の経験的用語への移しかえ、経済学からのモデルおよび関連技術の政治的行 動への巧みな適用による諸発見、これらの諸観念の行動における衝突・結合・影響、等々、それらは大きな一伝統の死を指示するのではなく、いずれかといえば、新しい予言不可能な未来 への展開をこそ示唆するものであろう。



「われわれは、たいていは制御できない、そしておそらくはわれわれの知識をも超えた環境 によって、非理性的に信じているものを信ずるように条件づけられているのであろう。しか し、事実においてわれわれの信念を因果的に決定しているものがなんであれ、われわれがなに を信ずるか、その理由はなにか、そうした信念が形而上学的に含意するものはなにか、他のタ イプの信念といかなる関連をもつか、それはどのような価値と真理との規準を含んでいるか、 またそれを真理であり妥当性をもつと考えるのにどんな理由があるか、といったことを知ろう と欲しないのは、われわれの論究する理性能力を理由なく放棄する――自然科学と哲学的研究の 混同に基づいて――ことであろう。理性的であるとは、ひとが考えることができ、また理解しう る理由によって行動することができる、しかもその理由はたんに、「イデオロギー」を生み出 す隠れた諸原因の産物として理解されるのではなく、その犠牲によってはどうあっても変えられない、という信念に基づく。理性的な好奇心――たんに因果関係、函数的相関関係、統計的蓋 然性などによるのみではなく、動機と理由による正当化と説明を求める気持ち――が存在する限 り、政治理論が完全にこの地上から消え失せることはないであろう、たとえ社会学、哲学的分 析、社会心理学、政治科学、経済学、法律学、意味論、等々の多くの競争相手がその空想的領 域を放逐し去ったと主張するにしても。  歴史上はじめて文字通り全人類が、まさにそれこそこの政治理論という研究部門の唯一の存 在理由であり、またつねにそうであったところの論点によって、烈しく対立させられている時 代に、政治理論がかくも日陰的生存を強いられているかに見えることは、まことに奇妙なパラ ドックスである。しかし、これで万事が終わるとは信じられない。新マルクス主義、新トマス 主義、国家主義、歴史主義、実存主義、反エッセンシャリスト的自由主義、社会主義、また自 然権・自然法学説の経験的用語への移しかえ、経済学からのモデルおよび関連技術の政治的行 動への巧みな適用による諸発見、これらの諸観念の行動における衝突・結合・影響、等々、そ れらは大きな一伝統の死を指示するのではなく、いずれかといえば、新しい予言不可能な未来 への展開をこそ示唆するものであろう。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由論』,IX,pp.511-512,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




過去の政治学説は、社会状況が課す問題、目標、価値観に基づく人間と社会の理論であり、人間や環境が根本的に変わらず現に今日ある通りのものである間は、現実の諸条件が人間のどの側面を際立たせるかに応じて、優勢になったり劣勢 になったりするであろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治理論の特質

過去の政治学説は、社会状況が課す問題、目標、価値観に基づく人間と社会の理論であり、人間や環境が根本的に変わらず現に今日ある通りのものである間は、現実の諸条件が人間のどの側面を際立たせるかに応じて、優勢になったり劣勢 になったりするであろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))




「その二、三の実例としては、カール・ポッパー教授のプラトンの政治理論に対する攻撃、 アーヴィング・バビットのルソーに対する痛烈な論難、シモーヌ・ヴェーユの旧約聖書の道徳 に対する烈しい嫌悪、今日しばしば行われている18世紀の実証主義ないし政治理論にける「科 学主義」に対する非難・攻撃、などを挙げることができよう。古典的な構成体のあるものは相 互に衝突し合うものであるけれども、それぞれが恒久的な人間の諸属性に関する生き生きとし たヴィジョンに基づき、各世代のある探究者たちの心を満たしうるものであるかぎり、いかに時間的・空間的環境が異なろうとも、プラトンやアリストテレスのつくったモデル、またユダ ヤ教、キリスト教、カント的自由主義、ロマン主義、歴史主義、等のモデルは、みな生きなが らえて、今日もさまざまな形で相争うているのである。  人間や環境が根本的な変化をとげるとか、われわれの人間観に革命的変化をもたらすような 新しい経験的知識が獲得されるとかしたならば、そのときにはきっと、これらのモデルのある ものは関連性を失い、エジプト人やインカ人の倫理や形而上学のように忘れ去れることであろ う。だが、人間が現に今日ある通りのものである間は、論争は、これらのヴィジョンなりそれ と同様の他のヴィジョンなりによって設定された用語でつづけられてゆくであろう。そしてそ のそれぞれは、現実の諸条件が人間のどの側面を際だたせるかに応じて、優勢になったり劣勢 になったりするであろう。ただひとつ確実なことは、哲学的問題とはなんであり、それは経験 的あるいは形式的問題とどのようにちがうか(もっともこの相違は必ずしも明確なものでなく てもよいので、重なり合ったり、あるいは境界線上にある問題は多々ある)を理解している、 また少なくとも感知しているひとびとにとってのほかは、その解答――いまここでの場合には西 洋の主要な政治学説――は、知的幻想、超然たる哲学的思弁、現実の行為ないし事件にたいして 関わりのない知的構成物と思われることであろう。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,VIII,pp.507-508,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




人間を定義するときに用いる基礎的カテゴリー、社会、自由、時間および変化の感覚、苦悩、幸福、生産性、善悪、正邪、選択、努力、真理、幻想、等々の観念は、記述的な概念だと考えられているが誤りである。人間観は、普遍的な諸価値を前提としている。そもそも、言語の意味はある意図(目的)を前提としているのである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

人間観を支持する諸価値

人間を定義するときに用いる基礎的カテゴリー、社会、自由、時間および変化の感覚、苦悩、幸福、生産性、善悪、正邪、選択、努力、真理、幻想、等々の観念は、記述的な概念だと考えられているが誤りである。人間観は、普遍的な諸価値を前提としている。そもそも、言語の意味はある意図(目的)を前提としているのである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



参考:意図と解釈


「われわれが人間を定義するときに用いる基礎的カテゴリー(およびそれに対応する概念) ――社会、自由、時間および変化の感覚、苦悩、幸福、生産性、善悪、正邪、選択、努力、真 理、幻想、等々(以上はまったくアット・ランダムに挙げただけだが)の観念――は、帰納の問 題でも、仮説の問題でもない。あるひとを人間として考えること、そのこと自体によって、こ れらすべての観念が働かされることになる。したがって、あるひとが人間であると言っておき ながら、そのひとに選択とか真理の観念とかがなんの意味ももたないというのは、奇妙であろ う。それは、たんに言葉の上だけの定義(それならば意のままに変えられる)としてではな く、われわれがものを考える仕方、また(ありのままの事実として)われわれが考えざるをえ ないその仕方に本質的なものとして、「人間」というときに意味しているものと衝突すること になろう。  これにはまた、それによって人間が定義される価値(とりわけ政治的価値)も保持されてい るであろう。だから、もしわたくしがあるひとについて、かれは親切だとか、残酷だとか、か れは真理を愛するとか、真理には無関心だとか言うならば、そのひとはいずれの場合にもやは り人間的ではあるのである。ところが、もしわたくしが、そのひとにとっては石をけとばすこ とも家族を殺すことも、いずれも倦怠ないし無為への反対であるがゆえに、文字通りなんの差 別もないようなひとを見出したとしたら、わたくしは首尾一貫した相対主義者のように、たん にわたくし自身ないし大多数のひとびとのそれとはちがった道徳がかれにあるからだと考えた り、われわれは肝心な点で意見がくいちがっていると言ったりしないで、かれは精神異常であ り、非人間的であると言おうとするであろう。自分はナポレオンだと考えるひとが気違いであると同様に、かれは気違いであると見なしたいと思う。つまり、それは、わたくしがそのよう な存在を完全に人間であるとは考えないということである。この種の事例によって、普遍的な ――ないしはほとんど普遍的な――諸価値を認知する能力が、「人間」、「合理的」、「正気 の」、「自然的」等々の基本的概念の分析には入りこんでくることが明らかにされるように思 われる。それらの概念はふつう価値評価にかかわるものでなく、記述的な概念だと考えられて おり、古いア・プリオリな自然法学説における真理の核心を今日経験的用語に翻訳する試みの 根底におかれているものである。記述的陳述と価値の陳述との間のまったく論理的な差別に対 する忠実な経験論者たちの確信をゆるがせ、ヒュームに由来するこの有名な区別に疑問を投じ たのは、新アリストテレス主義者やウィットゲンシュタインの後期学説の信奉者たちによるこ のような考察なのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,VIII,pp.500-501,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




政治哲学は、諸目的がたがいに衝突しあうような世界においてのみ、それは原理的に可能である。なぜなら、諸価値が対立せず一つの目標しか存在しなければ、手段についての議論は、技術的なもの、つまり科学的・経験的な性格のものとなるからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治哲学の成立条件

政治哲学は、諸目的がたがいに衝突しあうような世界においてのみ、それは原理的に可能である。なぜなら、諸価値が対立せず一つの目標しか存在しなければ、手段についての議論は、技術的なもの、つまり科学的・経験的な性格のものとなるからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)諸価値が対立せず一つの目標しか存在しなければ、政治哲学は不要となる
 ただ一つの目標によって支配されている社会においては、目的に到達する最上の手 段についての議論だけしかありえないはずであり、そうした手段についての議論は技術的なも の、つまり科学的・経験的な性格のものである。


「ところで、このことは、少なくともひとつ重要な問題が含まれている。もしも「いかなる 世界において政治哲学――それを存立せしめるような議論や論議――は原理的に可能であるか」と いうカント的な問題が提起されるならば、「諸目的がたがいに衝突しあうような世界において のみ、それは原理的に可能である」というのがそれに対する答えでなければならない。ただひ とつの目標によって支配されている社会においては、原理的にはこの目的に到達する最上の手 段についての議論だけしかありえないはずであり、そうした手段についての議論は技術的なも の、つまり科学的・経験的な性格のものである。それは経験と観察とによって確定され、その 他の方法を用いても原因や相関関係を発見することができる。それは、少なくとも原理的に は、実証科学に還元されうるものである。そのような社会にあっては、政治的目的とか価値と かについての深刻な問題は生じえないので、ただ目標に達するためのもっとも効果的な道はな にかという経験的な問題しかないわけである。」(中略)「以上のようなわけで、伝統的な意 味における政治哲学、すなわち、たんに諸概念の明瞭化ということだけではなく、前提とか暗 黙裡の想定とかの批判的検討、先後の順序や究極目的などの究明にたずさわる研究が可能であ るような唯一の社会は、あるひとつの目的が全体には受けいれられていない社会であるという ことになる。ただひとつの目的が全体に受けいれられないことの理由はさまざまありうるであ ろう。単一の目的がじゅうぶんなだけ多数のひとびとによって受けいれられなかったとか、他 の諸価値がいつかひとびとの理性なり感情なりを引きつけないという保証は、原理的には、あ りえないゆえに、あるひとつの目的を究極的と見なすわけにはゆかないからとか、いかなる終 局的な単独目的も発見しえない――ひとが多くのちがった目的を追求しうるものである限り、そ のうちのひとつ、あるいは一部が、そのひとたちお互いにとって終局的な単独目的の意味をも つことはないからとか、その他。これらの目的のうちのあるものは公共的ないし政治的な目的 であるかもしれない。それらのすべてが、原理的にも、相互に矛盾なく両立するものでなけれ ばならぬと考えるべき理由はない。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,II,pp.467-469,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




32.伝統的な政治理論の核心をなす諸問題のなかには、たとえば、平等の性質に関する問題、 権利、法、権威、規則などに関する問題がある。これらは、規範の正当化にかかわるため人間観、社会観、価値観を基礎とし、様々な見解が主張される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治理論と価値観の問題

伝統的な政治理論の核心をなす諸問題のなかには、たとえば、平等の性質に関する問題、 権利、法、権威、規則などに関する問題がある。これらは、規範の正当化にかかわるため人間観、社会観、価値観を基礎とし、様々な見解が主張される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)政治理論は規範の正当化にかかわるため人間観、社会観、価値観を基礎とする
「どうして人は服従するのか」という問題は経験的心理学、人類学、社会学の問題である。これに対して、「どうして人は、だれか他の人に服従しなければならないのか」という問題は、権威とか主権とか自由とかの観念における規範的なるものの説明、また政治的議論におけるそ れらの観念の妥当性の正当化を求めている。

(b)基礎となる価値観が異なると諸概念も根本的に異なる
 (i)いくつかの概念 の意味について広汎な意見の一致がない。
 (ii)諸問題を決定する公認の権威はだれなのか、または何なのか、等々に関しては大きな見解の相違がある。
 (iii)価値概念の分析に関する意見の不一致は、時としてさらに根本的な差異から生じてきていることは明らかであるように思われる。
 (iv)権利とか正義とか自由とかいう観念は、有神論者と無神論者とではまるきりちがったものになる だろうし、機械論的決定論者とクリスト教信者、ヘーゲル主義者と経験論者、ロマン主義的非合理主義者とマルクス主義者、等々でも根本的にちがうものになるであろう。



「伝統的な政治理論の核心をなす諸問題のなかには、たとえば、平等の性質に関する問題、 権利、法、権威、規則などに関する問題がある。われわれはこれらの概念を分析する必要があ り、またこれらの表現がわれわれの言語においてどのように機能するか、あるいはそれらがい かなるかたちの行為を命令し、禁止するか、またそれはどうしてか、あるいはそれらはどのよ うな価値体系ないし世界観に適合するか、またそれはどのようにしてか、といったことを追求 してゆく。おそらくあらゆる政治的問題のうちでもっとも基本的な問題は、「どうしてひと は、だれか他のひとに服従しなければならないのか」という問題であるが、この問いをわれわ れが発するとき、われわれが問うているのは「どうしてひとは服従するのか」という問題――こ れは経験的心理学、人類学、社会学が答えることができよう――ではないし、また「だれがだれ に服従するのか、いつまたどこで、それはいかなる原因によって決定されるか」という問題―― これもまたほぼ右の諸学の分野から引き出される証拠によっておそらく答えられるだろう――で もないのである。どうしてひとが服従しなければならないのかと問うときには、われわれは、 権威とか主権とか自由とかの観念における規範的なるものの説明、また政治的議論におけるそ れらの観念の妥当性の正当化を求めているわけなのだ。その名において命令が発せられ、ひと が強制され、戦争が行われ、新しい社会がつくられ、古い社会が破壊される、そういう言葉が ある。その言語表現は、今日のわれわれの生活において他のいかなるものにも劣らぬ大きな役 割を演じている。こうした問題が一見哲学的であるのは、そこに含まれているいくつかの概念 の意味について広汎な意見の一致がないという事実によるのである。それらの分野における行 動の真の理由はなんであるのか、どうしたら適切な諸命題が確立されうる、さらにはもっとも らしいものにされうるのか、それらの諸問題を決定する公認の権威はだれなのか、またはなん なのか、等々に関しては大きな見解の相違があり、したがって、真の公共的批判と転覆との境 界線、あるいは自由と抑圧との区別、等々についてもなんら意見の一致は見られない。こうい う問題に対して相容れることのない解答がさまざまな学派なり思想家なりによって提出されつ づけている限り、この分野における一科学――経験的にせよ形式的にせよ――の確立の見通しは、 前途ほど遠しの感がある。実際、価値概念の分析に関する意見の不一致は、時としてさらに根 本的な差異から生じてきていることは明らかであるように思われる。というのは、たとえば権 利とか正義とか自由とかいう観念は、有神論者と無神論者とではまるきりちがったものになる だろうし、機械論的決定論者とクリスト教信者、ヘーゲル主義者と経験論者、ロマン主義的非 合理主義者とマルクス主義者、等々でも根本的にちがうものになるであろうからである。さら にまた、これらの差異が、少なくも一見したところでは、論理的であるか経験的であるかとい うのではなく、ふつうは、いかんともしがたく哲学的なものとして類別される――そしてそれが 正当である――ようなものであったということも、同じく明らかなことのように思われる。」 

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,II,pp.466-467,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




31.過去の政治理論を理解するには、その理論を支えている基礎概念、範例、モデル、人間観、問題・課題を、想像的洞察力によって解明する必要がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治理論の理解

過去の政治理論を理解するには、その理論を支えている基礎概念、範例、モデル、人間観、問題・課題を、想像的洞察力によって解明する必要がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(1)基礎概念、範例、モデル、人間観、問題・課題
 想像的洞察力によって、以下を理解しなければ、政治理論を理解できない。
 (a)意識的あるいは無意識的に諸種の見解を支配しているモデル、範例、概念構成を理解すること。
 (b)いかなる人間観が織り込まれているか理解すること。あるいは、特定の要素が人間観から欠如しているかを理解すること。
 (c)人間の思想や行動を理解することは、人間がどんな問題、難問題と取り組んでいる かを理解することだ。
 (i)これらの諸問題が、古くから今日まで広く認められ た問題なら、その支配的なカテゴ リーにはっきりと言及しなくとも、理解することができるだろう。
 (ii)政治理論ではよくあるように、そうでない場合には、人間観、モデルの理解が必要となる。
 (iii)今日では廃棄され、すたれてしまったモデルに支配されていたひとびとの精神状態にわが身を置いてみる だけの想像力と知識がなければ、それを中心にしていた思想と行動とはわれわれには不分明な ままにとどまるだろう。

(2)道徳理論、社会理論、政治理論
 個人の問題だけに局限すれば道徳理論、集団の問題に限定すれば社会理論、あるいは政治的と分類される特別の人間配置の諸類型の問題に限定すれば政治理論である。

(3)例として国家とは何か
 (i)国家は我々の罪のためにのみ与えられたものだ。
 (ii)国家は我々が大人 になり自由になってそれなしで済ませるようになるために通過しなければならない学校のようなものだ。
 (iii)国家は一箇の芸術作品だ。
 (iv)功利的に考案された装置だ。
 (v)自然法の具体的現実化である。
 (vi)支配階級の委員会である。
 (vii)自己展開する人類の精神の最高の段階である。
 (viii)ひとつの犯罪的な愚行である。
 (ix)国家は神聖なものだ。

「意識的あるいは無意識的にそれら諸種の見解を支配しているモデル、範例、概念構成を検 討し、そこに含まれているさまざまな概念やカテゴリーを、たとえばその内的首尾一貫性とか 説明能力といった点について比較するならば、そこでやっていることは心理学でも、社会学で も、論理学でも、認識論でもなく、われわれが個人の問題だけに局限するか、あるいは集団の 問題に限定するか、あるいは政治的と分類される特別の人間配置の諸類型の問題に限定する か、またはそれら全部を同時に取り扱うかによって、道徳理論、あるいは社会理論、あるいは 政治理論、または同時にその全部であるわけである。いかに多くの綿密な経験的観察や大胆で 実り豊かな仮説を以てしても、国家を神聖な制度だとするひとびとがなにを見ているのか、か れらの言葉がなにを意味し、現実とどのように関係するのかを説明してはくれないだろう。ま た、国家はわれわれの罪のためにのみ与えられたのだというひとたち、国家はわれわれが大人 になり自由になって、それなしですませるようになるために通過しなければならない学校のよ うなものだというひとたち、あるいは国家は一箇の芸術作品だといい、いやそれは功利的に考 案された装置だといい、また自然法の具体的現実化であるといい、さらに支配階級の委員会で ある、自己展開する人類の精神の最高の段階である、ひとつの犯罪的な愚行である、等々というひとたちが、いったいそれでなにを考えているのかを説明してはくれないであろう。もしわ れわれが、これらの政治的見解のうちにいかなる人間観(あるいはその欠如)が織り込まれて いるか、またそれぞれにおいて支配的なモデルはなんであるかということを理解する(ふつう 小説家たちが論理学者たちよりも高度にもっているような想像的洞察力によって)のでなけれ ば、われわれは自分たちの社会、いやおよそいかなる人間社会をも理解することはないであろ う。またストア派やトマス主義者たちを支配していた、あるいは今日のヨーロッパのキリスト 教的民主主義者たちを支配している理性観や自然観、またアジア・アフリカにおける国家的・ マルクス主義的運動を前進させつつある、あるいはやがて前進せしめるであろうところの神聖 なる戦いの核心にあるまるきりちがったイメージ、また西洋の自由主義的・民主主義的妥協に 生命を吹きこんでいるこれまたちがったイメージ、そのいずれをも理解することはないであろ う。  人間の思想や行動を理解することは、大部分、人間がどんな問題、難問題と取り組んでいる かを理解することだとは、今日ではもう言うまでもないような陳腐な言である。経験的であれ 形式的であれ、これらの諸問題が、今日まで用いられているほどに、古くから、広く認められ た、安定した現実のモデルによって考えられているならば、われわれはその支配的なカテゴ リーにはっきりと言及しなくとも、その問題、難点、解決の試みを理解することができる。と いうのは、これらのカテゴリーはわれわれおよび過去の諸文化に共通のものであって、表面に 出しゃばってこず、いわば見えないところにひそんでいるからである。そうでない場合(そし てこれが政治についてとくに当てはまるのだが)、モデルはおとなしく引っ込んでいない。そ れを構成するいくつかの概念はもはやなじみのものではないからである。しかし、今日では廃 棄され、すたれてしまったモデルに支配されていたひとびとの精神状態にわが身を置いてみる だけの想像力と知識がなければ、それを中心にしていた思想と行動とはわれわれには不分明な ままにとどまるだろう。この困難な操作を行わないことが、多くの思想史の特色となってお り、思想史を表面的な文献的訓練か、あるいは奇妙な、時としてはほとんど理解しがたい誤謬 や混乱の死せるカタログか、のいずれかにしてしまっているのである。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,VIII,pp.503-505,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)







2022年1月20日木曜日

30.人間を他の自然物と区別するのは、理性的思考でも自然に対する支配でもなくて、選択し実験する自由である。人間は、真理、幸福、新奇、自由を絶えず求める不完全で誤ちを犯す予測不能で複雑な存在である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

ミルの人間観

人間を他の自然物と区別するのは、理性的思考でも自然に対する支配でもなくて、選択し実験する自由である。人間は、真理、幸福、新奇、自由を絶えず求める不完全で誤ちを犯す予測不能で複雑な存在である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)真理、幸福、新奇、自由を絶えず求める不完全で誤ちを犯す予測不能で複雑な存在
 創造的で、自己完成がありえず、従って完全な予測がつかないものであり、誤ちも犯すし、あるものは宥和できるが、あるものは解決も調和もありえないような反対物の複雑な結合体であ り、真理、幸福、新奇、自由を絶えず求めずにはいられないが、そうしたものに達するいかなる保障もなく、自分の理性や才能の発展に好適な環境では、自分自身の行くさきを決定できるところの、自由で、不完全な存 在、こういうイメージであります。

(b)選択し実験する自由な存在
 人間を他の自然物と区別するのは、理性的思考でも自然に対する支配でもなくて、選択し実験す る自由である、とミルは信じておりました。


「彼は、人間性が決定され限定されたものであるという古典世界や理性の時代から受けつい だ疑似科学的モデルとたもとを分かちました。それによりますと、人間性は、すべての時と所 において同一で不変の欲求・感情・動機をもち、反応が相違するのは環境や刺激が異なってい るにすぎず、進化はすべてある不変の型によっていることになるのです。こうしたモデルに対 し、(完全に意識的であるとはいえないが)彼はつぎのような人間のイメージを代えました。 創造的で、自己完成がありえず、従って完全な予測がつかないものであり、誤ちも犯すし、あ るものは宥和できるが、あるものは解決も調和もありえないような反対物の複雑な結合体であ り、真理、幸福、新奇、自由を絶えず求めずにはいられないが、そうしたものに達する――神学 的であろうと、論理的であろうと、科学的であろうと――いかなる保障もなく、自分の理性や才 能の発展に好適な環境では、自分自身の行くさきを決定できるところの、自由で、不完全な存 在、こういうイメージであります。彼は自由意志の問題に苦しみました。ときとしてそれを解 決したと思ったことはありましたが、他の誰よりもよき解答を彼が見出したとは言えません。 人間を他の自然物と区別するのは理性的思考でも自然に対する支配でもなくて、選択し実験す る自由である、と彼は信じておりました。彼の思想のうちで最も永続的な名誉を彼にさずけて いるものは、まさにこの見方であります。彼が意味した自由とは、自分の尊重の対象及び尊重 の仕方、この双方を選択するときに他の人びとからは妨げられないという状態であります。彼 にとっては、こうした条件が実現された社会のみが、十分に人間的な社会と言いうるものであ りました。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,ジョン・スチュアート・ミルと生の目 的,V,pp.449-450,みすず書房(2000),小川晃一(訳),小池銈(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




29.社会が興起し、繁栄し、 衰退し、死滅する。これらを無意味な比喩と考えることはできない。歴史の規則性やパターンは、認識可能である。しかし、それらに原因としての性質や、能動的な力、超越的性質を付与するとき、誤りに陥る。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

歴史の規則性やパターン

社会が興起し、繁栄し、 衰退し、死滅する。これらを無意味な比喩と考えることはできない。歴史の規則性やパターンは、認識可能である。しかし、それらに原因としての性質や、能動的な力、超越的性質を付与するとき、誤りに陥る。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a)歴史の規則性やパターン
 歴史における規則性やパターンが見つかったからとて、それらに原因としての性質や、能動的な力、超越的性質、人間の犠牲を要求する渇望などを帰属せしめることが自然で当たりまえのことになっ てしまったら、それは神話によって決定的に欺かれることになる。
(b)文化のパターン
 文化にはそれぞれパターンがあり、時代には精神があるとしても、人間の行動をそ れらのパターンなり時代精神なりの「不可避的」な帰結ないし表現として説明することは、言 葉の誤用に陥ることである。


「もちろんわたくしは、そういう比喩なり形容なりが日常用語において、さらには科学にお いても、なしですませられるなどと言うつもりはない。ただ不法な「実体化」――言葉を事物 と、比喩を現実ととりちがえること――の危険が、この領域ではふつうに考えられているよりも はるかに大きいのだということを言っておきたいのである。いうまでもなく、もっとも有名な 事例は国家ないし国民の場合であり、まさしくその擬人化のために1世紀以上にもわたって哲 学者、さらには一般のひとびとが不安に、あるいは憤慨させられてきたのである。しかしなが ら、他の多くの言葉や語法にも同じような危険が伴う。歴史的運動は実在する。われわれはそ う言うことを許してもらわなければならない。集団的行動が起こり、社会が興起し、繁栄し、 衰退し、死滅する。パターンとか、「雰囲気」とか、人間ないし諸文化の複雑な相互関係とか はあるがままのもので、その原子的構成部分まで分析しつくすわけにはゆかない。けれども、 そうした表現をまったく文字通りにとって、それらに原因としての性質や、能動的な力、超越 的性質、人間の犠牲を要求する渇望などを帰属せしめることが自然で当たりまえのことになっ てしまったら、それは神話によって決定的に欺かれることになる。歴史に「リズム」が生ずる としても、それをなんとしても「動かしがたい」リズムであるということは、有害・不吉な兆 候である。文化にはそれぞれパターンがあり、時代には精神があるとしても、人間の行動をそ れらのパターンなり時代精神なりの「不可避的」な帰結ないし表現として説明することは、言 葉の誤用におちいることである。世界を想像上の権力や支配にまかせてしまう危険、一方すべ てのものを正確にそれと指示できる時・処における検証可能な男女の行為に還元してしまう危 険、このいずれの危険をもうまく逃れられることを保証する定式はひとつとしてない。われわ れのなしうることはせいぜい、この両方の危険のあることを指摘するということだけで、われ われはできるだけうまくこのスキュルラとカリブデスの間をきり抜けてゆかねばならないので ある。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,歴史の必然性,II,註 *,pp.191-192, みすず書房(2000),生松敬三(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




28.選択の必要、ある究極的な価値を他の価値 のために犠牲にせねばならないということは、人間がおかれている境遇の永遠の特徴である。なぜなら、価値判断にも真偽があるかどうかにかかわらず、諸価値は本質的に相拮抗しており、人は全ての価値を持ち得ないからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

選択の不可避性

選択の必要、ある究極的な価値を他の価値 のために犠牲にせねばならないということは、人間がおかれている境遇の永遠の特徴である。なぜなら、価値判断にも真偽があるかどうかにかかわらず、諸価値は本質的に相拮抗しており、人は全ての価値を持ち得ないからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)価値判断にも真偽があるとの考え
 ミルは、価値判断の領域にも、到達・伝達し得る客観的な真理が存在するが、それを発見 するための条件は、十分な個人の自由、とりわけ探究と討論の自由がある社会でなければ、存 在しない、と確信しているように思われる。

(b)諸価値は本質的に相拮抗している
 私の言うところは、全くそれとは異なっ ており、いくつかの価値は本質的に相拮抗しているのであるから、すべてが調和しているようなパターンが原則的に発見できるに違いないという考えは、それ自体、世界の実状についての 誤った先験的見解にもとづいている、というのである。

(c)選択は不可避である
 人間の条件として、人は選択をいつも避けていることはできない。選択の必要、ある究極的な価値を他の価値 のために犠牲にせねばならないということは、人間がおかれている境遇の永遠の特徴となる。
 (i)理性的で道徳的な選択
  多くの可能な行動の筋道や多くの生きるに値する生活形態があるから、従ってそれらのうちのどれかを選ぶことは、理性的であり道徳的判断ができるということの一証となる。
 (ii)人は全ての価値を持ち得ない
  諸目的が互いに衝突するものであり、 人はすべてを持ち得ないという核心的な理由のために、選択を避けることができない。


「ミルは、価値判断の領域にも、到達・伝達し得る客観的な真理が存在するが、それを発見 するための条件は、十分な個人の自由、とりわけ探究と討論の自由がある社会でなければ、存 在しない、と確信しているように思われる。彼の考えは、まさに、古くからある客観主義的命 題を経験論の形で表現したものであり、この最終目標に達するためには個人の自由が必要な条 件として欠かしえないという追加条項が添えてある。私の言うところは、全くそれとは異なっ ており、いくつかの価値は本質的に相拮抗しているのであるから、すべてが調和しているよう なパターンが原則的に発見できるに違いないという考えは、それ自体、世界の実状についての 誤った先験的見解にもとづいている、というのである。もしこの点で私が正しく、人間の条件 として人は選択をいつも避けていることはできない、のであるならば、その理由は、哲学者な らまず見逃さない明白な理由、即ち、多くの可能な行動の筋道や多くの生きるに値する生活形 態があるから、従ってそれらのうちのどれかを選ぶことは、理性的であり道徳的判断ができる ということの一証となる、というためばかりではなく、諸目的が互いに衝突するものであり、 人はすべてをもちえないという核心的な理由(それは普通の意味で概念的なものであって、経 験的なものではない)のために、選択を避けることができないということによるものである。 ここから次のような帰結が生じてくる。即ち、どのような価値も失ったり犠牲にしたりせずに すむような生活、すべての合理的な(あるいは有徳な、さもなければ正当性のある)欲求を真 に満足させうるような生活、こうした理想的な生活の概念、古典的理想像、これこそユートピ ア的であるのみならず、辻褄のあわぬものである。選択の必要、ある究極的な価値を他の価値 のために犠牲にせねばならないということは、人間がおかれている境遇の永遠の特徴となる。 もしそうとすれば、自由な選択の価値は、自由な選択なくしては完全な生活に到達しえないと いう事実からくるとしても、一たびそれが到達されるや二者択一の必要がなくなってしまう、 という含みをもつすべての理論はくつがえされてしまう。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,序論,II 積極的自由対消極的自 由,pp.77-78,みすず書房(2000),小川晃一(訳),小池銈(訳)

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年1月19日水曜日

27.法的自由は、搾取、蛮行、不正の極とも両立する。不干渉を弁護する社会的ダーウィニズムは、その極端な思想である。社会立法や福祉国家の基礎付けは、歴史的には積極的自由の概念を基礎としたが、消極的自由の概念でも基礎付けることができる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

消極的自由と積極的自由

法的自由は、搾取、蛮行、不正の極とも両立する。不干渉を弁護する社会的ダーウィニズムは、その極端な思想である。社会立法や福祉国家の基礎付けは、歴史的には積極的自由の概念を基礎としたが、消極的自由の概念でも基礎付けることができる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)不干渉を弁護する社会的ダーウィニズム
 社会的ダーウィニズムのように不干渉を弁護する議論は、人情家や弱きも のに対して、強気なもの野蛮なもの無鉄砲なものを、また能力のないもの不運なものに対して、 有能で情け容赦のないものを武装強化するような、政治的・社会的に破壊的な政策を支持する のに使われてきたことはいうまでもない。

(b)社会立法や福祉国家の基礎付けは消極的自由の概念でも可能
 社会立法や社会計画、福祉国家や 社会主義を擁護する立場は、消極的自由からの要求を考察することによっても、その兄弟である積極的自由からの要求の考察によるのと同じくらい妥当に、基礎づけうるのである。

(c)積極的自由による基礎付け
 歴史的 に消極的自由による福祉国家の基礎付けによることが少なかったのは、消極的自由の概念を武器として立ち向かうべき当の外敵 は、レッセ・フェールではなくて専制主義だったからである。

(d)双方の自由概念はそれぞれ重要
 統制と干渉が度を過ごすときには、消極的自由の概念が優勢となり、また逆に、野放図な市場経済がのさばるときには、積極的自由の概念が優勢となるのである。






「消極的自由の信条は、重大かつ持続的な害悪を生ぜしめることとも両立するし、また(観 念が行動に影響を与える限りでは)現にそうした害悪を生ぜしめるのに一役かってきたこと は、勿論忘れない方がよい。しかし、私が言いたいのは、消極的自由の信条は、最も陰険な形 をした《積極的》自由のチャンピョンたちが自分の信条を弁護するのによく使うような見せか けの議論や詐術によって、弁護されたり偽装されたりすることがはるかに少なかったというこ とである。(《社会的ダーウィニズム》のように)不干渉を弁護する議論は、人情家や弱きも のに対して、強気なもの野蛮なもの無鉄砲なものを、また能力のないもの不運なものに対して、 有能で情け容赦のないものを武装強化するような、政治的・社会的に破壊的な政策を支持する のにつかわれてきたことはいうまでもない。狼にとっての自由は、羊にとってしばしば死を意 味した。経済的個人主義や止まるところのない資本主義的競争についての血なまぐさい物語 は、今日ことさら強調する必要もないと思いたいところだ。にもかかわらず、私を批判する人 たちが私に着せた、おどろくべき濡れ衣を眺めてみると、私の議論のある部分をとくに気をま わして力説しておくべきであったようだ。無制限の《レッセ・フェール》の害悪、それを許す ばかりか更にそれを奨める社会・法体系の害悪は、《消極的》自由や基本的人権(これは抑圧 者に対する壁としてつねに《消極的な》観念である)、表現や結社の自由を含めた基本的人権 の、野蛮な侵害になってしまうのだということを、更に一層明らかにさえしておくべきであっ た。この基本的人権がなくても、正義、同胞愛、それにある種の幸福さえ、存在し得るかもし れないが、デモクラシーは在りえないのである。更にまた、私は、(言う必要もないほど明ら かであると思っていたのだが)つぎのようなことをおそらく強調しておくべきだったであろ う。即ち、個人や集団が、意義ある程度の《消極的》自由を行使できるための必要最小限の条 件、理論的には自由をもっている人にも、それなくしては自由がほとんど何の価値もなくなっ てしまうようなミニマムの条件、こうした条件を、この社会・法体系は提供しそこなっている ということを。というのは、権利を持っていたところで、それを実行に移すだけの力がなけれ ば何になるか。この問題に関心をもつ近代のまじめな著作家たちのほとんどすべてが、無制限 の経済的個人主義の体制下において、個人の自由がどんな運命を辿ったかについては十分に述 べている、と私は思っていた。とりわけ都市において、いたましい多くの人びとの境遇、子供 たちは鉱山や工場で損なわれ、両親たちは貧困、病い、無知のうちに過ごす、こうした境遇で は、貧乏なものも弱気ものも、好きなように金を使い欲するような教育を選べる法的権利があ るということなどは(コブデンやハーバート・スペンサー及び彼らの弟子たちが、全く大真面 目に説いてきかせたことだが)、おぞましい茶番となってしまったのである。こうしたことは すべて、まことに遺憾ながら事実であって、法的自由は、搾取、蛮行、不正の極とも両立する のである。国家やその他の実行機関が、積極的自由、および少なくとも最小限の消極的な自由 を個々人に保障するために介入することは、圧倒的に支持されている。トクヴィルやミル、そ れに(近代のいかなる著述家よりも強く消極的自由を支持した)パンジャマン・コンスタンの ような自由主義者さえ、このことを知らないではなかった。社会立法や社会計画、福祉国家や 社会主義を擁護する立場は、消極的自由からの要求を考察することによっても、その兄弟であ る積極的自由からの要求の考察によるのと同じくらい妥当に、基礎づけうるのである。歴史的 に前者によることが少なかったのは、消極的自由の概念を武器として立ち向かうべき当の外敵 は、レッセ・フェールではなくて専制主義だったからである。二つの概念の消長は、大抵、あ るグループや社会を一定の時点でもっともおびやかしている特定の危険に原因を求めうる。統 制と干渉が度をすごすときには、消極的自由の概念が優勢となり、また逆に、野放図な《市 場》経済がのさばるときには、積極的自由の概念が優勢となるのである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,序論,II 積極的自由対消極的自 由,pp.68-70,みすず書房(2000),小川晃一(訳),小池銈(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




26.人間の歴史も因果の法則には従っているに違いなく、歴史の規則性やパターンも認識できるだろう。しかし、それがあっても人間には、選択の自由がつねに残されている。また、科学的な知識は自由を増やし、無知は自由を削減する。 (アイザイア・バーリン(1909-1997))

因果の法則と自由意志

人間の歴史も因果の法則には従っているに違いなく、歴史の規則性やパターンも認識できるだろう。しかし、それがあっても人間には、選択の自由がつねに残されている。また、科学的な知識は自由を増やし、無知は自由を削減する。 (アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)人間の歴史も因果の法則には従う
 因果の法則は、人間の歴史に適用できる。自由な選択の範囲が、かつて人びとが考えたよりも、また恐らく現在もなお誤って考えているよりも、はるかに狭いことには、多くの経験的証拠がある。歴史における客観的なパターンは識別できるであろう。
(b)法則やパターンがあっても選択の自由は残されている
 それにもかかわらず、そのような法則やパターンでも、何らかの選択の自由を残しており、人間の行為は、先行する諸原因によってそれ自体完全に決定されているわけではない。
(c)科学的な知識は自由を増やし、無知は自由を削減する
 知識、とりわけ科学的に確立された法則の知識は、我々の活動をより効果的にし、我々の自由を拡張するのに役立つ。また、無知および無知のかもす幻想・恐怖・偏見は自由を削減する。


「ごく平凡ではあるが、私が一度も離れたことのない見方を、いくつかここで繰り返してお きたい。因果の法則は人間の歴史に適用できる(カー氏には失礼ながら、この命題を否定する のは狂気の沙汰と私は考えている)。歴史は、主として個人の意志間の《劇的な葛藤》ではな い。知識、とりわけ科学的に確立された法則の知識は、われわれの活動をより効果的にし、わ れわれの自由を拡張するのに役立つ。この自由は無知および無知のかもす幻想・恐怖・偏見に よって削減されやすい。自由な選択の範囲が、かつて人びとが考えたよりも、またおそらく現 在もなおあやまって考えているよりも、はるかに狭いことは、多くの経験的証拠がある。私の 知る限りでも、歴史における客観的なパターンは識別できるであろう。そして更に、私はただ つぎのことを主張しているだけだということを繰り返して言わねばならぬ。即ち、そうした法 則やパターンでも、何らかの選択の自由を残していると考えられるのでなければ――そして、行 動の自由が、先行する諸原因によってそれ自体完全に決定されている選択により、決定されて いるにすぎないような自由に止まらぬと考えるのでなければ――、われわれは現実についての見 方を、いままでとは違った方向で再建しなければならないだろう、そしてこの仕事は、決定論 者が考えているよりも、遥かに大変なものである、と。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,序論,I,pp.50-51,みすず書房(2000), 小川晃一(訳),小池銈(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)





25.人間の相互理解には、最小限度の価値観の共有が必要である。それは、人間道徳の基礎であり、正常な人間という概念に含まれ、多様な習慣・伝統・法・マナー・流行・エチケットとは、明確に区別される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

最小限度の共通価値

人間の相互理解には、最小限度の価値観の共有が必要である。それは、人間道徳の基礎であり、正常な人間という概念に含まれ、多様な習慣・伝統・法・マナー・流行・エチケットとは、明確に区別される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a)理解の前提としての共通の価値観
 同時代あるいは他の時代の 人びとを理解できる可能性、いってみれば人間同士のコミュニケーションの可能性は、何らか の《価値》の共通性にもとづいているのであって、単に何らかの《事実》の共通性にのみ基づいているわけではない。

(b)人間道徳の基礎
 ノーマルな人間という観念には、それ以上縮小できない最小限の共通な価値の承認というものが含まれている。
(c) 習慣・伝統・法・マナー・流行・エチケット
 人間道徳の基礎という観念と、習慣・伝統・法・マナー・流行・エチケットというような 観念とが区別される。後者の領域では、社会的・歴史的に、また全国的・地方的に、大幅な相違や変化があっても、べつにそのことが稀有であるとも異常であるとも思われない し、極端に突飛で狂っているとも、全く望ましからぬものとも思われない。




「確かに、この世の中には客観的な道徳的乃至社会的価値が存在し、それは恒久的かつ普遍 的で、歴史の変化の影響を受けず、いやしくも理性ある人が心を傾けて注目しさえすれば手に 入れうる、という見解にはさまざまな疑問の余地がある。しかし、同時代あるいは他の時代の 人びとを理解できる可能性、いってみれば人間同士のコミュニケーションの可能性は、何らか の《価値》の共通性にもとづいているのであって、単に何らかの《事実》の共通性にのみもと づいているわけではない。共通する《事実》の世界があるということは、人間の交際の必要条 件ではあるが十分条件ではない。外部の世界との接触が切れている人びとはアブノーマルとい われるし、極端な場合は気違いと言われるが、公共的な価値の世界をあまりにも逸脱している 人もやはりそうである(ここが問題なのだ)。正邪の区別をかつては知っていたが今は忘れて しまったなどと公言しても、まず誰にも信じてもらえないだろうが、もし信じられたら、御本 人は当然狂っているとされてしまう。だが、例えば、青い目の人間なら誰かれといわず何の理 由も示さずに殺してもよい、というようなルールを、認めたり共有したりあるいは大目に見た りするだけならとにかく、そうしたルールには誰だって何がしかの反対論をまず持っていると いうことが全くわからない人びと、こうした人びともやはり狂っているのである。そういう人 たちは、六までしか数えられない者や、自分がユリウス・カエサルかもしれないと考えている 者と、同じぐらいの正常さしかない人間の例、と見なされるだろう。狂気か否かを計るこうし た規範上の(非記述的)テストの拠って立つ基礎は、まさに、自然法の諸原理、特にそれらを 先験的に自明なものと規定していない形での自然法の諸原理に、現在もつような説得力を与え ているものにほかならない。ノーマルな人間という観念には、ある共通な価値(ともかくもそ れ以上縮小できない最小限の価値)の承認というものが含まれている。これが《めど》になっ て、人間道徳の基礎という観念と、習慣・伝統・法・マナー・流行・エチケットというような 観念とが区別されるのである。後者の領域では、社会的・歴史的に、また全国的・地方的に、 大幅な相違や変化があっても、べつにそのことが稀有であるとも異常であるとも思われない し、極端に突飛で狂っているとも、全く望ましからぬものとも思われない。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,序論,I,pp.45-46,みすず書房(2000), 小川晃一(訳),小池銈(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]

アイザイア・バーリン
(1909-1997)




24.積極的自由は、高次と低次、真正と経験的、理想的と心理学的な二つ自我という考えで歪曲され、やがて高次の自我は、制度、教会、国民、人種、国家、階級、文化、政党、一般意志、共通の福祉、天与の使命と同一視される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

二つの自我という歪曲

積極的自由は、高次と低次、真正と経験的、理想的と心理学的な二つ自我という考えで歪曲され、やがて高次の自我は、制度、教会、国民、人種、国家、階級、文化、政党、一般意志、共通の福祉、天与の使命と同一視される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a)独立した人格には不可侵の領域が必要
 他人と全面的に調和することは、自分が独立した人格であるということと相容れない。すべての点で他人に依存しようというのでない限り、他人が勝手に干渉しない、また干渉 しないと当てにできる若干の領域が必要である。
(b)高次と低次、真正と経験的、理想的と心理学的な二つ自我という歪曲
 歴史的にいえば、積極的自由の観念は、「誰が主人であるか」という問いに答える ものであって、「私はどれだけの領域で主人であるか」に答えるための消極的自由の観念 から離れている。両者の距離は、自我の観念が、一方では高次の、あるいは真正の、 あるいは理想的自我と、他方では低次の経験的な心理学的な自我ないし 本性とに、形而上学的に分裂し、前者が後者を統御するとしたり、最良の自我が劣った日常的 な自我の主人であるとしたり、コールリッジの大文字で書く《私の真存在 I AM》が、時間と空間のなかにとじこめられた超越的でない自我に君臨するとしたようなときに、この距離はま すます開いていった。
(c)制度、教会、国民、人種、国家、階級、文化、政党、一般意志、共通の福祉、天与の使命
 高次の自我は、制度、教会、国民、人種、国家、階級、文化、政党と同一視されるようになり、あるいは一般意志、共通の福祉、社会の変革勢力、最も進歩的な階級の前衛、天与の使命というような漠然としたもの と自然に同一視されてしまった。







「他人との摩擦や抵抗を超越しよう、水に流そうという右のような涙ぐましい努力にもかか わらず、もし、自己欺瞞を望まないなら、いずれは次の事実を認めざるをえないだろう。即 ち、他人と全面的に調和することは、自分が独立した人格であるということと相容れないこ と、すべての点で他人に依存しようというのでない限り、他人が勝手に干渉しない、また干渉 しないと当てにできる若干の領域が必要であることである。こうして、「自分が主人である領 域、主人であるべき領域はどれぐらい広いか」という問題が起こってくる。私の考えはこうで ある。歴史的にいえば、《積極的》自由の観念は、「誰が主人であるか」という問いに答える ものであって、「私はどれだけの領域で主人であるか」に答えるための《消極的》自由の観念 から離れている、両者の距離は、自我の観念が、一方では《高次の》、あるいは《真正の》、 あるいは《理想的》自我と、他方では《低次の》、《経験的な》、《心理学的な》自我ないし 本性とに、形而上学的に分裂し、前者が後者を統御するとしたり、最良の自我が劣った日常的 な自我の主人であるとしたり、コールリッジの大文字で書く《私の真存在 I AM》が、時間と 空間のなかにとじこめられた超越的でない自我に君臨するとしたようなときに、この距離はま すます開いていった。こうした二つの自我という広く普及した古くからの形而上学的イメージ の底には、真の内面的緊張の経験があろうし、またそのイメージの影響は言葉、思想、行動に 絶大なものがあった。それはともあれ、当然のごとく、《高次の》自我は、制度、教会、国 民、人種、国家、階級、文化、政党と同一視されるようになり、あるいは一般意志、共通の福 祉、社会の変革勢力、最も進歩的な階級の前衛、《天与の使命》というような漠然としたもの と自然に同一視されてしまった。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,序論,II 積極的自由対消極的自 由,pp.65-66,みすず書房(2000),小川晃一(訳),小池銈(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年1月17日月曜日

23.歴史研究においては、道徳的ないし心理的評価を最小限に抑止すべきだという要求は、最大かつ破壊的な誤謬のひとつである。なぜなら、歴史において人間を、目的や動機をそなえた存在として見ることに矛盾するからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

歴史研究のあり方

歴史研究においては、道徳的ないし心理的評価を最小限に抑止すべきだという要求は、最大かつ破壊的な誤謬のひとつである。なぜなら、歴史において人間を、目的や動機をそなえた存在として見ることに矛盾するからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



「歴史は想像的文学とはちがう。けれども、自然科学ではまさしく不当に主観的・個人的と して難ぜられるようなものから、歴史もやはり免れるわけにはゆかないことはたしかである。 歴史が人間をただ空間内の物質的対象として取扱わねばならぬ――つまり行動主義的でなければ ならぬ――という前提に立つのでなければ、歴史の方法は精密自然科学の規準にはほとんど合致 させえない。人間を目的や動機をそなえた存在として見る(たんに諸事件の継起における因果 的要素としては見ない)ことに必然的に含まれている道徳的ないし心理的評価の最小限をさえ 抑止せよという歴史家への訴えは、人間研究の目的と方法を自然科学のそれと混同することか らきているのではないかとわたくしには思われる。それはここ百年ばかりの間の最大、かつ もっとも破壊的な誤謬のひとつである。
 * 歴史がこの意味において物理学的記述とは異なるのだということは、はるか以前にヴィコ によって発見され、ヘルダーおよびその後継者たちによって想像力豊かに、またきわめて生き 生きと提示された真理である。19世紀の歴史哲学者たちによって誇張され、極端論にまでなっ たところはあるが、やはり依然としてそれはロマン主義運動がわれわれの知識に寄与した最大 のものである。そこで示されたことは、時としてきわめて誤解を招きやすい混乱した仕方にお いてではあったが、歴史を自然科学に還元することが、真理であるとわれわれの知っているも のをわざと無視すること、われわれにもっとも親しい内容的知識の大部分を諸科学および数学 的・科学的訓練との誤れるアナロジーの祭壇で圧殺してしまうことだということであった。オ リゲネスのごとく、罪(観察データの「中立的」な調書からのいかなる逸脱にも含まれている)を犯すあらゆる誘惑を免れるようにと人間性の研究者に、禁欲生活を行い、進んで自分を 苦しめさいなむようにせよとのこの勧告は、歴史記述を悲愴な、また同時に馬鹿げたものにし てしまうことになる。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『歴史の必然性』(収録書籍名『歴史の必然 性』),IV,pp.241-243,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





22. 歴史は、環境、風土、物理的、生理的、心理的過程といった自然的諸力だけから全てが説明できない。例外的な諸個人にせよ、不特定多数の大衆にせよ、個人の性格、 目的、動機が大きく関わり、道徳的、政治的な評価も含まれる。そのため、誤ったパターンや規則性の思想は、状況認識や道徳的・政治的評価に影響を与える。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

歴史のパターンや規則性

歴史は、環境、風土、物理的、生理的、心理的過程といった自然的諸力だけから全てが説明できない。例外的な諸個人にせよ、不特定多数の大衆にせよ、個人の性格、 目的、動機が大きく関わり、道徳的、政治的な評価も含まれる。そのため、誤ったパターンや規則性の思想は、状況認識や道徳的・政治的評価に影響を与える。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a)例外的な諸個人か
 民衆および社会全体の生活は、例外的な諸個人によって決定的に左右され ているのか。
(b)不特定多数の諸個人か
 生起するものは特定個人の願望や意図の結果としてではな く、不特定な多数の諸個人の願望や意図の結果として生じるのか。
(c) 個人の性格、 目的、動機が深く関係する
 いずれにしても、環境、風土、物理的、生理 的、心理的過程といった自然的諸力に関する知識だけからすべてが説明されるわけではない。そこには、個人の性格、 目的、動機が関わってくる。だれが、なにを、いつ、どこで、どの ような仕方で、要求したか、またどれほど多くの人間がどれほど烈しく、この目的を避け、あ の目的を追求したか、を究明し、さらにそうした要求なり恐れなりがいかなる環境のもとでど の程度までの効果をもったか、またそれがどういう結果になったか、を追求することが、歴史 家の仕事となる。

(d)道徳的、政治的な評価も関わる
 どうして、このような状況が生じたのか。誰が、また何が、戦争、革命、経済的崩壊、芸術・文学の復興、人間生活を変える発明発見や精神的変革、等々に対して責任をとるべきものであったのか、また責任があるのか、あるいはあるだろうか、ありうるのか。

(e)歴史にはパターン、規則性はあるのか
 歴史上の諸事件の継起に大きなパターンなり規則性を見出すことができるのではないかと いう考えは、分類や相互関連の発見や、とりわけ予言といった点における自然科学の成功から 強い印象を受けたひとびとには、当然魅力的なものとなる。

(f)歴史の規則性に関する注意
 パターンないし斉一性の認知ということが、過去あるいは 未来に関する特別な仮説に刺激を与えたり、それを立証したりするのに、どれほどの価値をも つにしても、それは一方では、現代のものの見方を決定するのにかなりいかがわしい役割を演 じてきたし、また現在ますます演じつつもあるのである。

(g)規則性の思想は状況認識や道徳的・政治 的評価に影響を与える
 歴史に規則性があるとする思想は、人間の活動や性格を 観察し記述する仕方に影響を及ぼしたばかりではなく、その活動や性格に対する道徳的・政治 的・宗教的な態度にも影響を与えた。

「歴史上の諸事件の継起に大きなパターンなり規則性を見出すことができるのではないかと いう考えは、分類や相互関連の発見や、とりわけ予言といった点における自然科学の成功から 強い印象を受けたひとびとには、当然魅力的なものとなる。

そこでかれらは、「科学的」方法 の適用によって――形而上学的あるいは経験的体系で武装を固め、かれらがもっていると主張す る確実な(あるいは実際上確実な)事実の知識を基点として出発することによって――過去にお ける空隙を満たす(時としては未来の際限もない空隙のなかへ構築をしていく)べく、歴史的知識の拡大を求める。

他の諸領域におけると同じく歴史の領域でも、既知なるものから未知な るものへ、あるいは少し知られているものからさらに少ししか知られていないものへと論を進 めてゆくことによって、多くのことがなされてきたし、またこれからもなされてゆくであろう ことは疑いえない。

しかしながら、パターンないし斉一性の認知ということが、過去あるいは 未来に関する特別な仮説に刺激を与えたり、それを立証したりするのに、どれほどの価値をも つにしても、それは一方では、現代のものの見方を決定するのにかなりいかがわしい役割を演 じてきたし、また現在ますます演じつつもあるのである。それはたんに、人間の活動や性格を 観察し記述する仕方に影響を及ぼしたばかりではなく、その活動や性格に対する道徳的・政治 的・宗教的な態度にも影響を与えた。

というのは、人間がいかに、またなぜ、現にそうである ように行動し生活しているのかを考察するときにどうしても生じてくる諸問題のなかには、人 間の動機と責任という問題が含まれているからだ。

人間の行為を記述するのに、個人の性格、 目的、動機という問題を排除したら、いつだってそれは作為的で、あまりに簡潔すぎるものと なってしまう。また人間の行為を考察するときには、だれだってたんにあれこれの動機なり性 格なりが生起するものに及ぼした影響の程度と種類だけを評価するのではなく、意識的あるい は半ば意識的にそれを自分の思想ないし行動のうちに受けいれる価値尺度はいかようにもあ れ、その道徳的ないし政治的な性質をもおのずから評価しているのである。

どうしてこのよう な、またあのような状況が生じたのか。だれが、またなにが、戦争、革命、経済的崩壊、芸 術・文学の復興、人間生活を変える発明発見や精神的変革、等々に対して責任をとるべきもの であったのか、またあるのか(あるいは、あるだろうか、ありうるのか)。今日、個人中心的 な歴史理論と、個人中心的でない歴史理論とが存在していることは、周知のところであろう。 一方の理論によれば、民衆および社会全体の生活は例外的な諸個人によって決定的に左右され ていることになる。これにはまた、生起するものは特定個人の願望や意図の結果としてではな く、不特定な多数の諸個人の願望や意図の結果として生じるとする学説もある。ただしこの場 合にも、その集団的な願望や目的は、人間的でない要因だけによって、または多くは人間的な らざる諸要因によって決定されているとは見られず、したがって環境、風土、物理的、生理 的、心理的過程といった自然的諸力に関する知識だけからすべてが、または大部分が引き出し うるとは考えられていない。どちらの見解についても、だれが、なにを、いつ、どこで、どの ような仕方で、要求したか、またどれほど多くの人間がどれほど烈しく、この目的を避け、あ の目的を追求したか、を究明し、さらにそうした要求なり恐れなりがいかなる環境のもとでど の程度までの効果をもったか、またそれがどういう結果になったか、を追求することが、歴史 家の仕事となる。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『歴史の必然性』(収録書籍名『歴史の必然 性』),II,pp.163-165,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





2022年1月16日日曜日

21.民主主義的な制度があっても、自由を抑圧することができるとしたら、社会を真 に自由にするものは何なのであろうか。(a)権力に対抗する権利の絶対性、(b)人間の思想の自由の不可侵性である。その際、介入が許される非人間性や狂気の概念は決して恣意的なものではない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自由のための原理

民主主義的な制度があっても、自由を抑圧することができるとしたら、社会を真 に自由にするものは何なのであろうか。(a)権力に対抗する権利の絶対性、(b)人間の思想の自由の不可侵性である。その際、介入が許される非人間性や狂気の概念は決して恣意的なものではない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)権力に対抗する権利の絶対性
 一つの原理は、権力ではなくしてただ権利 のみが絶対的なものと見なされうる、したがって、いかなる権力が支配〔統治〕していようとも、すべての人間には非人間的な行為をすることを拒否する絶対的な権利がある、ということ である。
(b)人間の思想の自由の不可侵性
 第二の原理は、人間がその内部を決して侵されてはならない境界線は、なんら人為的 に引かれたものなのではなく、歴史上長く受けいれられてきた規則によって定められたもので ある。
(b.1)介入が許される非人間性や狂気の概念は恣意的なものではない
 したがってこの境界線を守ることは、一個の正常な人間であるとはどういうことか、そ れゆえにまた、非人間的ないし狂気の行動とはどういうものかという概念そのもののうちに 入っているのであって、その諸規則が、たとえばある宮廷なり主権者なりの側での形式的な手 続きによって廃棄されうるなどということは、まったく不合理なことである、というにある。


「しかしながら、デモクラシーがデモクラティックであることをやめることなしにも、自由 を、少なくとも自由主義者たちがいうような自由を抑圧することができるとしたら、社会を真 に自由にするものはなんなのであろうか。

ミルやコンスタン、トックヴィルにとって、さらに かれらの属する自由主義的伝統にとっては、社会がとにかく二つの相関的な原理によって支配 〔統治〕されるのでなければ、自由ではない。

その一つの原理は、権力ではなくしてただ権利 のみが絶対的なものと見なされうる、したがって、いかなる権力が支配〔統治〕していようと も、すべての人間には非人間的な行為をすることを拒否する絶対的な権利がある、ということ である。

第二の原理は、人間がその内部を決して侵されてはならない境界線は、なんら人為的 に引かれたものなのではなく、歴史上長く受けいれられてきた規則によって定められたもので ある、

したがってこの境界線を守ることは、一個の正常な人間であるとはどういうことか、そ れゆえにまた、非人間的ないし狂気の行動とはどういうものかという概念そのもののうちに 入っているのであって、

その諸規則が、たとえばある宮廷なり主権者なりの側での形式的な手 続きによって廃棄されうるなどということは、まったく不合理なことである、というにある。 

ひとりの人間が正常であるという場合、わたくしの意味していることの一部には、そのひとが 激変のための眩暈を覚えることなしに、これらの諸規則を簡単に破ることはできないというこ とが含まれている。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然 性』),7 自由と主権,pp.85-86,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





人間には、自らの意志を主張する資格を持った行為者として承認されていることへの渇望がある。抑圧された階級、国民、皮膚の色、民族に属する人たちは、承認欲求と引き換えのグループ内での悪政や自由の制限を受け入れ、グループ全体の解放への強い欲求を持ち、温情的干渉主義は侮辱と考える。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

何のための自由なのか

人間には、自らの意志を主張する資格を持った行為者として承認されていることへの渇望がある。抑圧された階級、国民、皮膚の色、民族に属する人たちは、承認欲求と引き換えのグループ内での悪政や自由の制限を受け入れ、グループ全体の解放への強い欲求を持ち、温情的干渉主義は侮辱と考える。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)一人の人間として認められないこと
 無視されたり、恩人ぶられたり、軽蔑されたり、軽視されたり、一個人としての取扱いを受けないこと、自分の独自性がじゅうぶんに認められないこと、あるなんの特徴もない混合体の一員として、とくにきわ だった人間的特徴もなく独自の目的もない統計上の一単位として、類別されてしまうことを、私は恐れる。
(b)自らの意志を主張する資格を持った行為者として承認されていることへの渇望
 自分が一個の行為者として――たとえ自分がかくあり、かく選択したことによって攻撃され迫害されるにしても、その資格あるものとして自分の意志が考慮される、そういう行為者と して――取扱われるがゆえに、自分が存在することを感知できるという状態をこそ、私は 求めているのだ。
(c)抑圧された階級、国民、皮膚の色、民族に属する人たち
 抑圧された者が欲していることは、しばしば、人間の活動の独立 の一源泉として、自身の意志をもち、その意志に従って行為しようとする一個の実在として、かれらの階級、国 民、皮膚の色、民族を認めてほしいということ、ただそれだけなのである。
(d) 温情的干渉主義は独立した人格への侮辱である
 十分に自由でない者として、統治し、教育し、指導しようとする温情的干渉主義は、自分が一個の人間、すなわち自分の生活を自分自身の目的(それは必ずしも理性的なものでも博愛的なものでもないにせよ)にしたがって形成してゆくべ き人間、なかんずくそのような存在として他から認められる資格をもった人間であるという考えに対する侮辱である。
(e)グループ全体の解放の欲求
 自分の階級全体、国民全体、民族全体あるいは同業者全体が抑圧されていると感じる場合、その全体の解放を願い求めることになり、この願望・欲求はきわめて強大なものとなりうる。
(f)承認欲求と引き換えのグループ内での悪政や自由の制限
 抑圧された階級、国 民、皮膚の色、民族の人々は、自らの意志を主張する資格を持った行為者として承認されていることへの渇望から、グループ内で互いに理解し合い承認し合っていることと引き換えに、グループ内での悪政や自由の制限に甘んじている場合がある。



「わたくしが求めているのは、ミルによってわたくしが求めるであろうと期待されたもの、 つまり、強制を受けないこと、勝手な拘留とか虐待とか行動の機会の剥奪とかから免れるこ と、あるいは自分の動作に対してだれにも法的な責任を負う必要のない場所、などではないの かもしれない。

同様にまた、わたくしは社会生活の理性的な計画とか、情念に動かされない賢 者の自己完成といったものを求めているのではないかもしれない。

おそらくわたくしが避けよ うとするのは、たんに無視されたり、恩人ぶられたり、軽蔑されたり、あまりに当然と思われ たりすることにすぎないのだ。

要するに、一個人としての取扱いを受けないこと、自分の独自 性がじゅうぶんに認められないこと、あるなんの特徴もない混合体の一員として、とくにきわ だった人間的特徴もなく独自の目的もない統計上の一単位として、類別されてしまうことなの である。

わたくしが戦っているのは、このような人間としての品位の低減に対してである。

法 的な権利の平等とか、したいことをする自由とかではなく(これらをも欲しはするけれど も)、自分が一個の行為者として――たとえ自分がかくあり、かく選択したことによって攻撃さ れ迫害されるにしても、その資格あるものとして自分の意志が考慮される、そういう行為者と して――取扱われるがゆえに、自分が存在することを感知できるという状態をこそ、わたくしは 求めているのだ。これは地位と承認〔認知〕への渇望である。」(中略)

「一般に被抑圧階級 あるいは被抑圧国民が要求するものとは、たんにその成員の妨げられることなき行動の自由と いったものではなく、またなによりもまず社会的あるいは経済的な機会の平等であるわけでも ない。ましてや、理性的な立法者によって考え出された摩擦のない有機体的国家内に、ある地位が割り当てられることでもない。

かれらが欲していることは、しばしば、人間の活動の独立 の一源泉として、つまりそれ自身の意志をもち、その意志(善かろうと悪かろうと、正当であ ろうとなかろうと)にしたがって行為しようとする一個の実在として、(かれらの階級、国 民、皮膚の色、民族を)認めてほしいということ、ただそれだけなのである。

だからしてそれ はまた、いかに手際よくではあっても、まだじゅうぶんに人間的でないもの、したがってじゅ うぶんに自由でないものとして、統治されたり、教育されたり、指導されたりしたくないとい うことなのだ。」(中略)

「温情的干渉主義は、自分が一個の人間――自分の生活を自分自身の 目的(それは必ずしも理性的なものでも博愛的なものでもない)にしたがって形成してゆくべ き人間、なかんずくそのような存在として他から認められる資格をもった人間――であるという 考えに対する侮辱であるからなのだ。」(中略)

「自分がある認められていない集団、ないし はじゅうぶんな顧慮を払われていない集団の一員として自由でないと感ずることもあるであろ う。

その場合には、わたくしは自分の階級全体、国民全体、民族全体あるいは同業者全体の解 放を願い求めることになる。

この願望・欲求はきわめて強大なものとなりうるから、烈しく地 位を熱望するあまりわたくしは、とにかく自分を一個の人間として、競争相手として――つまり 同等のものとして――認めてくれるのであれば、自分の民族なり社会階級のうちのあるひとびと によっていじめられ悪政を施かれるのであっても、その方が、自分をそうありたいと願うよう なものとして認めてくれない上位の関係うすいグループのひとびとによって寛大に手あつく扱 われるよりもよいとするかもしれないのである。

これこそが、個人ならびに集団のいずれの側 からも発せられる承認〔認知〕要求の声、また現代では職業や階級、国民や民族から発せられ るその要素の核心をなすものである。

たとえ自分の社会の諸成員の手によって「消極的」自由 の獲得が妨げられたにしても、かれらがわたくしと同じ集団の成員であり、わたくしがかれら を理解するように、かれらがわたくしを理解してくれるというのであれば、この理解はわたく しのうちに、自分もこの世界においてなにものかであるのだという感覚を生み出すわけであ る。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然 性』),6 地位の追求,pp.67-71,みすず書房(1966),生松敬三(訳))

アイザイア・バーリン
(1909-1997)





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