2022年1月30日日曜日

化学変化、生命現象、二人の人の対話、政治的過程、科学の発展、芸術の開花、あらゆる人間の文化の展開は、対立と矛盾を契機として、新たな組織的なもの全般的なものへと、不連続的に変貌を遂げる。これは内的論理に従い、より高次元の統一へと無限に続く過程である。(ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831)

ヘーゲルの発展概念

化学変化、生命現象、二人の人の対話、政治的過程、科学の発展、芸術の開花、あらゆる人間の文化の展開は、対立と矛盾を契機として、新たな組織的なもの全般的なものへと、不連続的に変貌を遂げる。これは内的論理に従い、より高次元の統一へと無限に続く過程である。(ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831))














(a)対立と矛盾を契機とした不連続的変化
 化学変化、生命現象、二人の人の対話、政治的過程、科学の発展、芸術の開花、あらゆる人間の文化の展開は、対立と矛盾を契機として、新たな組織的なもの全般的なものへと、不連続的に変貌を遂げ、これは無限に続く過程である。
(b)止揚(Aufhebung)の原理
 常により高次元の統一へと向かう包摂・吸収と分解・解決、止揚(Aufhebung)の 原理は、さまざまな思想においても自然においても見られるものである。
(c)内的論理の自己展開
 内的論理を有していてそれに沿ってますます大きな規模での自己実現を目指して進むもの である。絶対精神ないし普遍理念は完全な自己 認識へと一歩近づき、人類は一段階前進する。
(d)現実の自己認識としての思想
 思想とは、自己自身を意識するに至った現実に他ならないのであり、この現実が自己を意識 する過程とは、自然が最も明瞭な形態をとって現れる過程に他ならない。

「ヘーゲルの弁証法的発展概念  しかしながら、発展概念に関して、ヘーゲルにはライプニッツと鋭く食い違う点があった。 ライプニッツのい発展概念は、ある本質が可能性から現実性へと自己を展開する円滑な進歩と いうものであった。これに対してヘーゲルは、闘争と戦争と革命の、別言すれば世界の惨憺た る荒廃と破壊の現実性および必然性を主張したのである。彼は、フィヒテに従って、あらゆる 過程は対立する諸勢力間の必然的な緊張の過程であり、各勢力は互いに他に対して競い合いつ つ、この相互の闘争によって自己の発展を促進するのだ、と言明した。この闘争は時には蔭に 隠れて行われ、時には公然と表面化するのであるが、しかし意識的活動の全領域のうちに、敵 対する肉体的、道徳的、知性的諸態度および諸運動の間の衝突として検索されうるのである。 そして闘争するそれぞれの勢力はいずれも、われこそは完全な解決をもたらすものなりと主張 するのであるが、いずれも一面的に偏っているために常に新たな危機を醸成するのである。こ の闘争は次第に強さと鋭さを増してゆき、公然たる衝突に転じ、闘争の当事者すべてを破砕し てしまう決定的激突において絶頂に達する。この時点において、これまでの連続的発展は断絶 し、新たな段階への突然の飛躍が生まれる。そしてこの新たな段階において、一群の諸勢力間 の新たな緊張が再開されることになる。  これらの飛躍のうちで十分に大きくまた際だった規模で発生するものが、政治的革命と呼ば れる。しかし、より小さな規模での飛躍は、例えば、芸術や科学において、生物学者が研究す る身体組織のなかにおいても、化学者が研究する原始的運動のなかにも、最後に一例を付加す れば二人の対立者の間で交わされる通常の議論のなかにもという具合に、あらゆる活動領域に おいて生ずるのである。そしてこの場合、それぞれの部分的な誤謬をもつものの間の闘争に よって新しい真理が発見されるのであるが、その新しい真理そのものが相対的なものにすぎ ず、別の敵対する真理によって攻撃を受けることになり、もう一度新しい段階で相互破壊が行 われる。そこにおいて対立する契機は新たな組織的なもの全般的なものへと変貌を遂げること になる――これはまさしく無限に続く過程なのである。ヘーゲルが、弁証法的過程と呼んだの が、この過程である。この闘争と緊張の概念こそが、歴史のなかの運動を説明するものとして 求められたあの動態的原理を正に成立せしめるものなのである。  思想とは、自己自身を意識するに至った現実に他ならないのであり、この現実が自己を意識 する過程とは自然が最も明瞭な形態をとって現れる過程に他ならない。常により高次元の統一へと向かう包摂・吸収と分解・解決――これをヘーゲルは止揚(Aufhebung)と名づけた――の 原理は、さまざまな思想においても自然においても見られるものである。またこの原理に即し て考えると、その辿る過程は、唯物論が前提している機械的運動のような無目的のものではな く、内的論理を有していてそれに沿ってますます大きな規模での自己実現を目指して進むもの であることは、明らかである。主要な過渡期はいずれも、大規模な革命的な飛躍、例えばキリ スト教の発生、蛮族によるローマの破滅、フランス大革命とナポレオン的新世界というような ものによって画されるのである。それぞれのばあいに、絶対精神ないし普遍理念は完全な自己 認識へと一歩近づき、人類は一段階前進するわけである。だが、その前進の方向は、それを準 備した闘争に関与するいずれの側によっても予想されえなかったものであり、それだけに、自 らの努力によって世界を形成することができるのだ、そういう特別の才能を有しているのだと 確信していた側に、ますます深刻な、理由の不明な絶望感を残すことになるのだ。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『カール・マルクス――その生涯と環境』,日本語書籍 名『人間マルクス』,第3章 絶対精神の哲学,II,pp.59-61,サイエンス社(1984),福留久大 (訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





個人の生涯の行為と経験の総体が、個人の人格的特徴、思想、嗜好、意図、論理、性質の表現であるのと同じく、宇宙全体、人類、民族の特定の時代も、理念、精神の表現である。(ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831))

理念、精神の表現としての時代

個人の生涯の行為と経験の総体が、個人の人格的特徴、思想、嗜好、意図、論理、性質の表現であるのと同じく、宇宙全体、人類、民族の特定の時代も、理念、精神の表現である。(ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831))

















(a)個人の人格、思想、性質の表現としての行為と経験
 個人の人格的特徴、その思想および嗜好における意図・論理・性質が、その人の生涯を通じて展開される活動と経験との総体に表現されている。かくて、ある人についてよく知れば知るほど、その人の道徳的精神的活動を、その外界への現れを通してより良く理解できる。
(b)宇宙全体、人類、民族の特定の時代も理念、精神の表現である
 ヘーゲルは、理念Ideaあるいは精神 Spiritという呼称で、その進化の諸段階を検討して類別を設け、そしてそれを特定の民 族と文化との発展、さらには知覚力をもった宇宙全体の発展の原動力をなす動態的要因であると断言したのである。  
(c) 文化は時代的個性全体の表現
 これまでのすべての思想家の誤りは、ある特定の時代のさまざまの活動領域をそれぞれ相対的に独立したものと考えるところにある。一時代の文化的諸現象やその諸現象を構成している特定の種類の諸事項 は、その時代全体の、またその時代的個性全体の表現である。



「それぞれの時代は、何らかの新しいものをその前の時代から引き継ぎ付け加えるのであっ て、それゆえに先行するどの時代とも異なる面を含むことになる。こうして発展に関する原理 は、ガリレオやニュートンが依拠している画一的な反復に関する原理とは相異なったものにな る。もし歴史が法則を有するとするならば、それはこれまで科学的法則の唯一可能な範型とし て通用してきたものとは、明らかに種類を異にするに違いない。しかも現に在るものはすべて 時間的に持続しているものであり、何らかの歴史をもっているものである――まさにこのような 理由のゆえに、歴史の法則は、現存するあらゆるものの存在の法則と同一であるに相違いな い。  では、この歴史的運動を律する原理をどこに求めるべきであろうか。この動態的原理を、か の経験論者たちが嘲笑の的とした悪名高きもの、つまり人間が探究しえない神秘的超自然的な 力に求めるというのでは、人間の怠慢と理性の敗北を告白するに等しいことになる。われわれ にとって最も目に見え易く心に浮かび易いもの、他のいかなる経験にもましてわれわれが熟知 しているものが、人間の通常の生活を支配しているというのでなければ、不自然ということに なる。そこで、われわれは、自分自身の生活を、宇宙を映しだす小宇宙、宇宙の雛形であると 考えさえすればよい。われわれは人間の行動と思想を説明するものとして、その人の生活につ いて、気質について、意図や動機や目的についてよく語るが、その際、それらを、その人の行 動や思想から全く切り離された独立の事項としてではなく、その人の行動や思想を表現する通 常の形態として語るのである。かくて、ある人についてよく知れば知るほど、その人の道徳的 精神的活動をその外界への現れを通してより良く理解できると言って大過ないだろう。ヘーゲ ルは、個人の人格的特徴という概念、その思想および嗜好における意図・論理・性質を巡る概 念、その人の生涯を通じて展開される活動と経験との総体についての概念を、文化と民族との 全体に関わる事柄に振り向けたのである。彼は、それに場合に応じて理念Ideaあるいは精神 Spiritという呼称を与え、その進化の諸段階を検討して類別を設け、そしてそれを特定の民 族と文化との発展、さらには知覚力をもった宇宙全体の発展の原動力をなす動態的要因である と断言したのである。  ヘーゲルは、さらに歩を進める。これまでのすべての思想家の誤りは、ある特定の時代のさ まざまの活動領域をそれぞれ相対的に独立したものと考えるところにある、例えばある時代の 戦争をその時代の芸術から切り離して考え、ある時代の哲学をその時代の日常生活から分離し て考えるところにある、と説いた。当然のことであるが、われわれは個々人について考える時 には、この種の分離して考えるという方法はとらない。よく知っている人々の場合、われわれ は半ば無意識のうちに、その人々の全行動を、一連の目的意識的行為が異なった現れ方をした ものとして、相関連させて把握しようとする。彼らの生涯の事績のあれこれの局面から抽出さ れた無数の判断材料を統合して、彼らについてのわれわれの心像が形成されるのである。ヘー ゲルによれば、このような方法が、文化について、あるいは特定の歴史時代について考える場 合にも同様に適用されるのである。過去の歴史家はあれこれの都市や戦争の歴史、あれこれでの 国王や武将の行動の歴史を描く時、それらの事柄が当時の他の諸現象から孤立隔在して単独で 動いていたかの如く著述する傾向があった。しかし、ある個人の行為が個人全体の行為の反映 であるのと同様に、一時代の文化的諸現象やその諸現象を構成している特定の種類の諸事項 は、その時代全体の、またその時代的個性全体の表現であり、遭遇するものすべてを理解しか つ支配すること――すなわち完全な自己統制、ヘーゲル的意味での自由――を求める探究的存在と しての人間の特定の局面の表現なのである。われわれは、ある現象について、それが現代世界 よりは古代世界に典型的であるとか、安定した平和の時代よりは混沌の時代を代表するとか言 うことがあるが、その際われわれは、全体像を表現するものとしてのある時代の一元的性格の 存在を、暗黙のうちに承認しているのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『カール・マルクス──その生涯と環境』,日本語書籍 名『人間マルクス』,第3章 絶対精神の哲学,II,pp.54-56,サイエンス社(1984),福留久大 (訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





2022年1月27日木曜日

形而下的なものも精神的なものも、宗教的なまた法的な、経済的また政治的、天真なものも自意識的なものも、あらゆる活動と状態とが、恐怖、利害、愛、恥、畏れと正義感などに刺戟され、秩序や知識や自由や名声や権力や快楽を求めて有機的に組み合わされ、人類の歴史の諸段階を構成する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

摂理に導かれた諸個人の相互作用

形而下的なものも精神的なものも、宗教的なまた法的な、経済的また政治的、天真なものも自意識的なものも、あらゆる活動と状態とが、恐怖、利害、愛、恥、畏れと正義感などに刺戟され、秩序や知識や自由や名声や権力や快楽を求めて有機的に組み合わされ、人類の歴史の諸段階を構成する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

「ライプニッツ(その発展説とヴィーコの説は符合する場合もあるのだが)とは違って、 ヴィーコは、十分な洞察力を具えた理知なら、所与の人間の魂や「時代精神」の構造を見抜く だけで、それがどんなものであり、どんなことをするに違いないかを、先験的に推断し得る―― ひいては全人類の過去・現在・未来の総体を、経験的証拠の助けを借りずに、原則的には算出 できる、というような意味のことは一切言っていない。また17世紀の法理学者、18世紀の啓蒙 思想家の大多数のように、比較的簡単な一群の心理的法則さえあれば、人間の性格と行動とを 分析するのに十分である、とも言わなかった。ヴィーコが作業の基盤においたのはむしろ正反 対の想定である。即ち、現実に起こったことの経験的知識、時には難解で特異なものもある が、この知識に稀有の想像力をかけ合わせてのみ、人間の性格を形造る「永遠な」パターンの 働きや、時空を隔て人種・見解を異にする社会や個人の間にも見られる心理的・社会的構造の 相似・対応の源となっている法則を、明らかにすることができる――この対応ゆえに、幾多の社 会は、互いに異なるとはいえ、一つにまとまり、それぞれあの昇りまた降る大きな螺旋階段の 一環を成すのである。この螺旋形または円環状の構造の各段階が次の段階に移る変わり方は理 解し得る、というのは各段階いずれも、一つの実体――摂理に導かれた創造的人間精神 (mente)――の発達により要請されたものだからである。この「精神」――ヴィーコは往々にし てこの言葉を、摂理に導かれて各人の要求や効用を追いつつ互いに作用し合っている人びと、 と見ているらしい――は、記憶、想像力、理智、ヴィーコの史学観に基づく新方法、これらの力 を借りて、過去における「精神」の諸状態が、未だ完全には実現されたことのない単一究極の 目標に至る諸段階であることを理解し得る。つまり、「精神」の諸能力は、各段階が、適当な 時期に先行する段階の動きによって生じた要求に応えて、生まれ来て、新しい観点、制度、生 活形態、文化、精神と感情の百般の活動と状態との「有機的な」組合せ――形而下的なものも精 神的なものも、宗教的なまた法的な、経済的また政治的、天真なものも自意識的なものも、あ らゆる活動と状態とが、恐怖、利害、愛、恥、畏れと正義感などに刺戟され、秩序や知識や自 由や名声や権力や快楽を求めて組合されたもの――を発生させるのである。このような活動と状 態との総体が、つまり人類の歴史なのだ。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,ジャン・バッティスタ・ ヴィーコの哲学上の諸観念,第1部 全般にわたる理論,10,pp.158-159,みすず書房(1981), 小池銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





2022年1月26日水曜日

「全宇宙を含む壮大な理念が展開するのを見るとき(人間は)神のような喜びを覚える。」もし全人類が一人の人間のように語れるなら、恐らく全てを記憶し、全てを理解し、語るべきこと一切を語り得るであろう。人間の現在の在り方は、人間自らが作ったものである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自らの創造物である人間

「全宇宙を含む壮大な理念が展開するのを見るとき(人間は)神のような喜びを覚える。」もし全人類が一人の人間のように語れるなら、恐らく全てを記憶し、全てを理解し、語るべきこと一切を語り得るであろう。人間の現在の在り方は、人間自らが作ったものである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



「ヴィーコの有神論と人文主義的歴史主義との、摂理の巧智という考えと人間の創造的自己 改革的いとなみの力説との、その間の拮抗は『新しき学』の中では融けていない。それを弁証 法的と呼ぶのは、ただ意味深甚な言葉を使って事実を隠しているに過ぎない。カトリック系の 解説者は前者を強調し、ミシュレなど人文主義思想家は後者の筋を取上げているのだ。ただ彼 の最も熱烈な発言を喚起しているのは、確かに人文主義的展望の方だと思われる。「全宇宙を 含む壮大な理念が展開するのを見るとき(人間は)神のような喜びを覚える。」神のようなと は、われわれが自分たちの創造活動を見ているからである。「物事を創った人が自ら記述する とき以上に、確実な歴史はあり得ない」。そしてまた、奇妙で晦渋だが、読む人を愕然たらし める特徴的な一節で、彼はこう付記する、「人びとは論理によって言語を発明し、道徳によっ て英雄たちを創り、家政によって家族を起こし、政治によって都市を作り、自然学によって、 ある意味で、自分たちを創った。」この「ある意味で」とはどういうことか。ヴィーコは説明 していない。人間の現在の在り方、及び彼らの信ずるところ、それは人間自ら作ったものであ る、個人個人がやったのでなければ、集団として作ったのである。もし全人類が一人の人間の ように語れるなら、おそらくすべてを記憶し、すべてを理解し、語るべきことを一切語りうる であろう。だが人間各人が単独で人類史の全体を創り出したわけではないから、人間は、たと えば数学者が己の案出したものについて知るようには、真理を知り得ない。とはいえ、歴史の 主題は現実のものであり、仮構のものではないから、『新しき学』はたとえ数学より明晰さが 劣るとはいえ、現実世界の真理を告げることができるので、これは幾何学、算術、代数学など のできることではない。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,ジャン・バッティスタ・ ヴィーコの哲学上の諸観念,第1部 全般にわたる理論,10,pp.172-173,みすず書房(1981), 小池銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





言語形式が人びとの精神に至る鍵であり、様々な社会の精神的・社会的・文化的 な全生活への鍵である。ある特定の言い回し、ある言語の用法と構造とが、特定のタイプの政治・社会構造、宗教、法律、経済生活、道徳、神学、軍事組織 等々に、必然的、有機的な連関を持っている。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

言語と文化、社会、経済、政治構造

言語形式が人びとの精神に至る鍵であり、様々な社会の精神的・社会的・文化的 な全生活への鍵である。ある特定の言い回し、ある言語の用法と構造とが、特定のタイプの政治・社会構造、宗教、法律、経済生活、道徳、神学、軍事組織 等々に、必然的、有機的な連関を持っている。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


「アガメムノンもヤペテも(彼らは「神々の」時代に属している)、それぞれ娘を犠牲に献 げたのは、誓いの言葉を発すること自体が、自然の因果と等しい力を持ち、言葉は、まさにそ れが口から出たことによって現状を直接に変更した(また変更せずにはおかぬ行為と認められ た)が故である。ヴィーコの考えでは、言葉がこのように機能し得る社会は、言葉がただ叙述 し、説明し、表現し、祈り、命令し、若干の言葉遊びを行うなどの用途にしか使えない社会と は、全く異なった具合に、見、感じ、考え、行動するに違いない。  この説が――その他のヴィーコ独特の仮説のどれにしても――正しいかどうかはさして重要では ない。重要なのは、それらによって彼の成し遂げたところである。彼の発生論による語原説や 言語学は、大部分明らかに誤っていたり、ナイーヴであり、また奇想天外である。しかし、言 語形式が言葉を使う人びとの精神に至る鍵であり、さまざまな社会の精神的・社会的・文化的 な全生活への鍵であるという、含みの多い革命的真理を把握したのは、わたしの知る限り、 ヴィーコが最初であったことも同様に明らかである。ある特定の言い回し、ある言語の用法と 構造とが、特定のタイプの政治・社会構造、宗教、法律、経済生活、道徳、神学、軍事組織 等々に、必然的、「有機的」な連関を持っていることを、彼はそれまでの誰よりも、(1世紀 半前の)偉大なヴァルラやその弟子たちよりも、遥かに明らかに看取したのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,ジャン・バッティスタ・ ヴィーコの哲学上の諸観念,第1部 全般にわたる理論,5,pp.119-120,みすず書房(1981),小 池銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





「真なるもの(verum)と作られたもの(factum)とは言い換えられる」。数学は、甚だ明晰、厳密で、反駁の余地はないものの、それは我々の精神の自由な所産だからである。数学の命題が真実なのは、我々自身がそれを作ったからである。(ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

真なるもの、作られたもの

「真なるもの(verum)と作られたもの(factum)とは言い換えられる」。数学は、甚だ明晰、厳密で、反駁の余地はないものの、それは我々の精神の自由な所産だからである。数学の命題が真実なのは、我々自身がそれを作ったからである。(ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)














「この時代、ほとんどすべての人が、数学とは自然についての事実の知識の一形態であり、 あらゆる科学の中でも最も深遠・確実で啓示するところの大きいもの、粗野な五感にはとても 望めぬほどの能力を具えた形而上的洞察の対象、事物のしばしば曖昧で常に人を誤る外観を退 けて、その真の属性を明かす力を持った人間理性の誇り、と考えていたが、その時に、なるほ ど数学は甚だ明晰、厳密で、反駁の余地はないものの、それはわれわれの精神の自由な所産で あるからのこと、数学の命題が真実なのはわれわれ自身で作ったからである、と宣言するの は、まことに重大な一歩であった。ヴィーコの有名な一句「真なるもの(verum)と作られた もの(factum)とは言い換えられる」はこのような意味なのである。ヴィーコがこの原理を 表明した時に列席していた名士たち、ナポリ総督やグリマーニ枢機卿が、果たしてこの発言の重大性に気づいていたかどうかは、大いに疑ってよいであろう。この点では、彼らも当時の学 者、いやその後の知識人たちとも変わりはなかったのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,ジャン・バッティスタ・ ヴィーコの哲学上の諸観念,第1部 全般にわたる理論,2,pp.56-57,みすず書房(1981),小池 銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





人間の創造物には、創造の媒体自体が従う規則性の制限を受けつつ創造する場合から、ほとんど媒体の制限を受けずに、自由に創造する場合まで、いろいろなバリエーションがある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

人間が自ら創造した世界

人間の創造物には、創造の媒体自体が従う規則性の制限を受けつつ創造する場合から、ほとんど媒体の制限を受けずに、自由に創造する場合まで、いろいろなバリエーションがある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a)創造の媒体と創造の規則
 ある物の創造者には、特にその物を組立てている素材までも自分で創 り、更にそれを作る際の規則までも自分で案出しているとすれば、原則として不明瞭なものが あるはずはない。
(b)媒体の制限の影響を受けつつ自由に創造する場合
 作家や作曲家の場合は、すべて自分が作ったもの ではない。作家の使う単語、作曲家の用いる音は、大抵の場合、自分で作り出したものではな く、その点で、作者にとって「ままならぬ事実」である。
(c)ほとんど媒体の影響を受けないと考えられる場合
 芸術的創造が純粋な創造の要素が大きくなり、それ自体の「外的」法則に従う「ままならぬ」 素材が少なければ少ないほど我々は「原因を閲して」理解していると言えるし、本当に 知っていると言える。代数学や算術の場合は、実質上これなのだ。



「「原因を閲した」知識が他の知識より優れているという見解は古くからあり、スコラ哲学 の中にも再三見られるものである。神もそのように世界を知っておられる、何故ならば、神 は、神のみが知るやり方で、また理由から、世界を創られたのであるから。一方、われわれ人 間は、世界をそれほど十分には知り得ない、何故ならば、われわれがそれを作ったのではない ――いわば、「出来合い」として発見し、「ままならぬ事実」として与えられたのであるから。 ある物の創造者には、特に(神の場合のように)その物を組立てている素材までも自分で創 り、更にそれを作る際の規則までも自分で案出しているとすれば、原則として不明瞭なものが あるはずはない。彼はそれについて残らず答え得る。自分自身の意思に応じて、その存在と機 能のいわれを心得ている材料を使って作ったのだ。その材料にしても自分の意向にかなうよう に作ったのだから、(作者として)自分だけは十分わかっているわけである。これは例えば、 小説家が自作の小説の登場人物を十分理解し得る、画家や作曲家がその絵画や歌曲を十分解し 得るといえるのと同じ意味である。なるほど作家や作曲家の場合は、すべて自分が作ったもの ではない――作家の使う単語、作曲家の用いる音は、大抵の場合、自分で作り出したものではな く、その点で、作者にとって「ままならぬ事実」である――この与えられた媒体を、ある制限内 で、彼は自由に選べるが、いったん選んでしまえば、何故それがこれこれの性質を具えている か、その理由は必ずしも解さないまま――「原因を閲して」知ることなきまま――その媒体に従わ ざるを得ない。それゆえ、われわれが何ものかを文字通り無から作り構想したような理想的な 場合のみ、われわれはわれわれの作ったものを十分に理解しているといえる。というのは、そ ういう場合、創造することと何のために何を創造したかを知ることが単一の行為だからであ る。神が世界を創造されたのはこのような具合なのだ。芸術的創造がこの極限状況に近づけば近づくほど――純粋な創造の要素が大きくなり、それ自体の「外的」法則に従う「ままならぬ」 素材が少なければ少ないほど――われわれは「原因を閲して」理解していると言えるし、本当に 知っていると言える。代数学や算術の場合は、実質上これなのだ。そこで用いられる(耳で聴 き眼で見る)記号の形は、たしかに感覚にかかわる素材ではあるが、それらは全く恣意に選ん だもので、いわば勝手に考案したゲームの数取りとして使っているのである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,ジャン・バッティスタ・ ヴィーコの哲学上の諸観念,第1部 全般にわたる理論,2,pp.52-53,みすず書房(1981),小池 銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





2022年1月25日火曜日

学問には、(a)先験的=演繹的な学問、(b)帰納的=経験的な学問、(c)過去を再構成する想像力による学問がある。象徴体系、表現の手段、表現様式を理解し、その前提である変化する現実、人間の歴史を再構成する。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

過去を再構成する想像力による学問

学問には、(a)先験的=演繹的な学問、(b)帰納的=経験的な学問、(c)過去を再構成する想像力による学問がある。象徴体系、表現の手段、表現様式を理解し、その前提である変化する現実、人間の歴史を再構成する。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)













(a)先験的=演繹的な学問
(b)帰納的=経験的な学問
(c)過去を再構成する想像力による学問
 (i)社会の変化成長の過程は、人びとが その過程を表現しようとする象徴活動とは、並行する。
 (ii)象徴体系は、それ自体が象徴する現実の本質的部分であり、現実と共 に変化する。
 (iii)表現の手段を理解することに始まり、それら手段が前提しかつ表現する現実像を探究する。
 (iv)体系的に変化する表現様式を通じて変化する現実、人間の歴史を探究する。

目的(文化、時代)、現実
 ↓
象徴体系、表現の手段、表現様式
 ↓
芸術作品の   ⇔ 芸術作品
理解・解釈・評価



「(7)それゆえに、伝統的な知識の二つのカテゴリー――先験的=演繹的と帰納的=経験的、五 感の感知によるものと、啓示によって賜ったものと――に加えて、過去を再構成する想像力とい う新種を追加しなければならない。この種の知識は、他の文化の精神生活に、さまざまな物の 見方や生き方に、「参入する」ことによって生まれる。それは想像力 fantasia の始動に よってのみ可能なのである。ヴィーコの云う想像力とは、社会の変化成長の過程と、人びとが その過程を表現しようとする象徴活動の中にも並行しておこる変化発展と、この両者を相関さ せて、むしろ前者は後者によって伝えられると考えることにより、変化過程を看取する方法な のである。というのは、象徴体系は、それ自体が象徴する現実の本質的部分であり、現実と共 に変化するものなのだから。表現の手段を理解することに始まり、それら手段が前提しかつ表現する現実像に達せんことを求めるという発見法は、歴史的真実についての一種の超越的演繹 法(カント流の意味で)である。これは従前の如き、変化する外観を通じて不変の現実に到達 する方法ではない。体系的に変化する表現様式を通じて変化する現実――人間の歴史――に至らん とする方法である。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,pp.17-18,みすず書 房(1981),小池銈(訳))


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




芸術作品は、その製作者たちの時代や場所、彼らの社会の成長段階にのみ限られるような象徴記号の目的、つまりは記号の固有な用法を正確に把握することにより、理解・解釈・評価されるべきである。あらゆる学術、思想、芸術、文化の歴史的研究と比較研究も同様である。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

芸術作品の解釈・評価

芸術作品は、その製作者たちの時代や場所、彼らの社会の成長段階にのみ限られるような象徴記号の目的、つまりは記号の固有な用法を正確に把握することにより、理解・解釈・評価されるべきである。あらゆる学術、思想、芸術、文化の歴史的研究と比較研究も同様である。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)












(a)芸術の解釈は時代と文化に依存する
 芸術作品は、その製作者たちの時代や場所、彼らの社会の成長段階にのみ限られるような象徴記号の目的、つまりは記号の固有な用法を正確に把握することにより、理解・解釈・評価されるべきである。
目的(文化、時代)
 ↓
芸術作品の   ⇔ 芸術作品
理解・解釈・評価

(b)異なる文化の理解
 我々の時代の文化と全く異なった文化の持つさまざまな不思議な点も、その神秘を解明し得る。
(c)学術、思想、芸術、文化の歴史的研究と比較研究
 人類学、社会学、 法学、経済思想、政治哲学、言語学、宗教学、文学、あらゆる芸術、理念、あらゆる文化の、発展の歴史的な探究と、異なる人々のあいだの比較研究が、可能となる。



「(6)右の趣旨から次のこと(事実上、一つの新しい美学)が生まれる。即ち、芸術作品 は、あらゆる場所のすべての人に有効な久遠の原理ないし基準を尺度にしてではなく、その製 作者たちの時代や場所、彼らの社会の成長段階にのみ限られるような象徴記号(特に言語)の 目的、つまりは記号の固有な用法を正確に把握することにより、理解・解釈・評価されるべきである。われわれの時代の文化と全く異なっているために、あるいは野蛮な混乱として、ある いはあまりにかけ離れた異国的なものゆえ真面目に注目するに値しないと、それまで退けられ てきた文化の持つさまざまな不思議な点も、右のような尺度によれば始めてその神秘を解明し 得る。これは比較文化史の端緒であり、一群の新しい歴史の学問――比較人類学、比較社会学、 比較法学・言語学・人種学・宗教学、比較文学、芸術史学、理念史、法制史、文明史――即ち、 歴史的、つまり発生的に考えられた、最広義の社会科学と後に呼ばれるようになった知識の全 分野の緒を開くものである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,p.17,みすず書房 (1981),小池銈(訳))


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年1月24日月曜日

人間の創造したもの、法律・制度・宗教・祭儀・芸術作品・言語・歌謡・礼儀作法な どを理解するには、彼らの精神に入ってゆき、彼らの目指したものを見つけ、彼らの表現方法の規則と意義とを知ることが必要である。それは自然なものであって、人びとを操り支配するために故意に作り上げられたようなものではない。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

文化の理解

人間の創造したもの、法律・制度・宗教・祭儀・芸術作品・言語・歌謡・礼儀作法な どを理解するには、彼らの精神に入ってゆき、彼らの目指したものを見つけ、彼らの表現方法の規則と意義とを知ることが必要である。それは自然なものであって、人びとを操り支配するために故意に作り上げられたようなものではない。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)














「(5)人間の創造したもの――法律・制度・宗教・祭儀・芸術作品・言語・歌謡・礼儀作法な ど――は、人を喜ばせたり、昂揚したり、智慧を教えるための人工的産物でもなければ、人びと を操り支配し、社会の安寧を促すために故意に作り上げた武器でもなくて、自己表現、他の人びとと、あるいは神と、意志を通ずるための自然な形式である。古代人の神話や寓話、儀式や 記念碑は、ヴィーコの時代に横行していた見解によれば、手のつけようのない原始人の荒唐な 幻想ないしは大衆を瞞着して彼らを狡猾苛烈な支配者に服従させるための意図からデッチ上げ たもの、ということであった。この解釈を彼は全くの虚妄と見なす。すべてを人間になぞらえ る原始言語の比喩と同じく、神話・寓話・祭儀も、ヴィーコにとっては、それぞれ原始の人び とが世界を見、それを解釈した、それなりに一貫した見方を伝えるための自然な方策である。 このように考えると、太古の人びとや彼らの世界を理解する道は、彼らの精神に入ってゆくこ と、彼らの目指したものを見つけ、彼らの表現方法――その神話・歌謡・舞踏・言語形式や慣用 句・結婚や葬礼の祭儀――の規則と意義とを知ること、これに頼るほかないということになる。 彼らの歴史を理解するには、彼らが生きる《よすが》としたものを理解することが必要であ る。ひとり彼らの言語・芸術・祭儀の真意を明かす鍵を持つ者のみが、よくそれを発見し得る であろう――ヴィーコの『新しき学』が提供しようとしたのは、まさにこの鍵であった。」 
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,pp.16-17,みすず書 房(1981),小池銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





人間の歴史を正しく理解するには、ある社会なり民 族なりの変転する文化の諸相に一つの連続があることを認識しなければならない。要求・欲望・野心を持つ人間が、特定のパターンの文化の中でつくっていく歴史にはある順序があり、時代錯誤という考えも、有効な意味を持っている。(ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

歴史の理解

人間の歴史を正しく理解するには、ある社会なり民 族なりの変転する文化の諸相に一つの連続があることを認識しなければならない。要求・欲望・野心を持つ人間が、特定のパターンの文化の中でつくっていく歴史にはある順序があり、時代錯誤という考えも、有効な意味を持っている。(ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)














「(4)ある所与の社会での活動には、そのすべてを特徴づける普遍的なパターンが存在す る。一つの社会全体の思想・芸術・制度・言語・生き方・動き方には、一つの共通した様式の 反映が見られる。この考えは文化という概念と等しい。必ずしも単一の文化とは限らない、多 数の文化が存在するのだ。その系として、人間の歴史を正しく理解するには、ある社会なり民 族なりの変転する文化の諸相に一つの連続があることを認識しなければならぬということにな る。この系は更に延びて、この連続は、単に因果によるものではなく、人間の理解し得るもの であることを含む。というのは、ある文化の相と次の相との関係、あるいは歴史的発展は、機 械的な原因結果の関係ではなく、人間の活動は目的をもつものゆえに、その時点での要求・欲 望・野心を満足させるべく意図された関係であり(その意図が実現されれば更に新しい要素や 目標を生む)、それゆえ十分な自意識を具えた人なら誰でも理解し得るはずである。またこの 連続の起こる順序も、出鱈目なものでも機械的に決定されたものでもなく、生活の要素、生活 の形式から、人間の目標志向的活動の白土に照らしてのみ説明可能な具合に、流れ出てくるも のであるからなのである。この社会的過程およびその順序は他の人びと、後世の社会の成員た ちにも理解できるはずである。というのはこの人びとも同様の企てに参加しているのであり、そのことが段階の違いこそあれ精神的・物質的発展の他段階における先人たちの生活を解釈す る手段を与えてくれるのだから。時代錯誤という考え自体が、この種の史的理解や順序立ての 可能であることを意味している。つまり時代錯誤と云うからには、文明や生き方のある特定の 発展段階に属しうるものと属し得ないものとを識別する能力を前提としているわけだ。そして それはまた、これらの社会における物の見方や信ずるところ(露わになったものも裡に潜んで いるものも)に、想像力を働かせて入ってゆく能力に依存している――このような探究は人間外 の世界にあてはめては全く意味をなさないであろう。一つの社会・文化・時代が、その因子や 要素においてはあるいは他の文明や他の時代と共通のものを持つとしても、それを組立てるパ ターンはおのおのの特定の他と識別しうる型を持っているがゆえに、それぞれ独自な性格を具 えるという考え、更にその系として、時代錯誤とは、右のような諸文明が従う理解可能で必然 的な連続の順序についての意識の欠如であえるという考え、わたくしはヴィーコ以前に、この ような意味での文化や歴史的変化について明確な概念を持っていた人がいたかどうかを疑 う。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,pp.14-16,みすず書 房(1981),小池銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





2022年1月23日日曜日

外部世界についての自然科学と、人間が自ら創造した世界についての知識である人文学は、その目標・方法・可知度が異なる。数学、言語、人間の歴史も「内部から」理解できる。人間が作者・演者・観察者を一身に兼ねているような人間の 諸活動すべての知識もまた然りである。(ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

自然科学と人文学

外部世界についての自然科学と、人間が自ら創造した世界についての知識である人文学は、その目標・方法・可知度が異なる。数学、言語、人間の歴史も「内部から」理解できる。人間が作者・演者・観察者を一身に兼ねているような人間の 諸活動すべての知識もまた然りである。(ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)















(1)外部世界についての知識
 人間が観察し、叙述し、分類し、考察し得て、時間的・空間的 規則性を記録し得る外部世界についての人間の知識である。
(2)人間が自ら創造した世界についての知識
 人間自身が創造した世界、人間自身が 自らの創造物に課した規則に従う世界についての知識である。
 (a)例えば、数学は人間の案出したものの知識であり、これについて人間は「内部か らの」観点をもっている。
 (b)人間が形成した言語の知識もそうである。
 (c)人間が作者・演者・観察者を一身に兼ねているような人間の 諸活動すべての知識もまた然り。
 (d)歴史は人間の行動に関するものであり、人間の努力・闘 争・目標・動機・希望・危惧・態度姿勢の物語であるがゆえに、この一段と勝った「内側か らの」形で知りうる。


「(3)それゆえに、われわれ人間が観察し、叙述し、分類し、考察し得て、時間的・空間的 規則性を記録し得る外部世界についての人間の知識は、人間自身が創造した世界、人間自身が 自らの創造物に課した規則に従う世界、この世界についての知識とは、原理的に異なる。後者 の知識は、例えば、数学――人間の案出したもの――の知識であり、これについて人間は「内部か らの」観点をもっている。また、言語、自然の諸力が作ったのではなく、人間が形成した言語 の知識もそうである。ひいては、人間が作者・演者・観察者を一身に兼ねているような人間の 諸活動すべての知識もまた然り。さて歴史は人間の行動に関するものであり、人間の努力・闘 争・目標・動機・希望・危惧・態度姿勢の物語であるがゆえに、この一段と勝った――「内側か らの」――形で知りうる。これについては外部世界の知識はおそらく範例となり得ないであろう ――それゆえ、この点については、自然に関する知識をモデルとしているデカルト一派は必然的 に誤っていることになる。これを土台としてヴィーコは、自然科学と人文学との間に、自己理 解と外的世界の観察との間に、またそれぞれの目標・方法・可知度について、明確な一線を画したのである。この二元論は爾来、絶えず熾烈な議論の主題となっている。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,p.14,みすず書房 (1981),小池銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





2022年1月22日土曜日

《もの》を作りまた創造する人は、単なる《もの》の観察者にはできぬような具合 に、その《もの》を理解し得る。人間はある意味で人間自身の歴史を作るのだから、人間は自分たち の歴史は理解できる。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

自ら創造したもの

《もの》を作りまた創造する人は、単なる《もの》の観察者にはできぬような具合 に、その《もの》を理解し得る。人間はある意味で人間自身の歴史を作るのだから、人間は自分たち の歴史は理解できる。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)














「(2)《もの》を作りまた創造する人は、単なる《もの》の観察者にはできぬような具合 に、その《もの》を理解し得る。人間はある意味で人間自身の歴史を作る(ただし、この種の 作りかたがどのようなものかは完全には明らかにされていないが)のだから、人間は自分たち の歴史は理解できるが、外部の自然の世界は、人間が作ったものではなく、単に観察し解釈し ているにすぎぬものである以上、人間自身の経験や活動を解し得るようには、人間には理解し得ぬものである。ただ神のみが、自然を作られたがゆえに、自然の世界を完全に、一から十ま で、理解し得るのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,p.13,みすず書房 (1981),小池銈(訳))


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




人間の本性は、静止的、不可変なものではない。様々な変化を通じても同一不変たり続けるような中心の核や精髄を含んでいるとさえ言えない。人間自身の努力は、不断に人間の 世界と、人間自身とを変化させてゆく。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

人間本性の可変性

人間の本性は、静止的、不可変なものではない。様々な変化を通じても同一不変たり続けるような中心の核や精髄を含んでいるとさえ言えない。人間自身の努力は、不断に人間の 世界と、人間自身とを変化させてゆく。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)





















 「では、その時間の浸蝕を退けた考えとは何か、と問われるであろう。ヴィーコの場合につ いては、わたくしの眼に最も刮目すべきところと思われるものを、7つの命題の形で要約させ て頂こう。  (1)人間の本性は、永らくそう思われてきたように、静止的、不可変なものではない、いや 外力によって変えられたことがなかったとさえいえない。さまざまな変化を通じても同一不変 たり続けるような中心の核や精髄を含んでいるとさえ云えない。自分をとりまく世界を理解 し、それを自らの物理的・精神的要求に適合させようとする人間自身の努力は、不断に人間の 世界と人間自身とを変化させてゆく。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,p.13,みすず書房 (1981),小池銈(訳))


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




課題の解決は人々を変え、新たな課題を生む。将来の課題は予知できない。人間の目的は創造されるのであって発見されるのではない。人は、自由への恐れから、客観的な道徳的原理や客観的権威を求めるが、それは幻想であるとする思想がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

客観的な価値は存在するのか

課題の解決は人々を変え、新たな課題を生む。将来の課題は予知できない。人間の目的は創造されるのであって発見されるのではない。人は、自由への恐れから、客観的な道徳的原理や客観的権威を求めるが、それは幻想である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)課題の解決は人々を変え、新たな課題を生む
 ある時代または文化の問題を解決しようとする努力そのものが、当の努力をしている人々および解決案が適用される人々をともに変えてしまい、それによって新しい人間、新しい諸問題が創り出されることになる。
(2)将来の課題は予知できない
 歴史的地平によって制約された人 間が、将来の人々の課題や諸問題を予知をすることはできず、まして分析や解決などはできない。
(3)目的は創造されるのであって発見されるのではない
 行為の目的は発見されるのではなく、芸術の仕事と同じように 個々人、または文化、または国民によって創造されるものなのであって、「何をなすべき か」という問いに対する答えは、発見されることはできない。(主観主義、非合理主義、ロマン主義)
 (a)解答は行動にある
  その問いがそもそも事実に関する問いではなく、解答が、命題あるいは定式、客観的な善、原理、客観的あるいは主観的な価値体系、心と心でないなにものかとの関係を発見することにはなくて、行動のうちにある。
 (b)意志、信仰、創造の行為
  発見されるのではなくて発明しかされえない何ものかのうちに、あらかじめ存在する規則や法則、事実などには従属しない意志あるいは信仰あるいは創造の行為のうちにあるからだ。

(4)客観的な価値論への批判
 (a)自由への恐怖
  客観的基準などというものは幻想の一形 態ないし「虚偽意識」の一形態であるとされ、そうしたこしらえごとを信ずるのは、心理学的 には自由の恐怖、ひとり放り出され、自分だけの工夫にまかされることへの恐怖に由来する。
 (b)道徳的原理、客観的権威、形而上学的宇宙論
  この恐怖によって、道徳的あるいは知的な規則とか原理とかの、永遠の真正性を保証する客観的権威を要求する諸体系、またはまがいものの神学的ないし形而上学的宇 宙論の無批判的容認へと導かれる。


「もう一方の側には、なんらかのかたちの原罪とか、人間の完成の不可能性を信じるひとた ち、それゆえ、いちばん根本的な人間の諸問題に対する最終的な解決の経験的達成の可能性に は懐疑的な傾向のひとたちがいる。そのなかには、懐疑論者、相対主義者がおり、また、ある 時代または文化の問題を解決しようとする努力そのものが、当の努力をしているひとびとおよ び解決案が適用されるひとびとをともに変えてしまい、それによって新しい人間、新しい諸問 題が創り出されることになるのだから、その性格をかれらの歴史的地平によって制約された人 間が今日予知することはできず、まして分析や解決などはできないと信ずるひとたちも入る。 さらにまたこれには、多くの党派の主観主義者や非合理主義者も、とりわけロマン主義的な思 想家たちが属する。かれらは、行為の目的は発見されるのではなく、芸術の仕事と同じように 個々人、または文化、または国民によって創造されるものなのであって、「なにをなすべき か」という問いに対する答えは発見されることはできない。それは、答えを発見することがわ れわれの能力を超えているからではなく、その問いがそもそも事実に関する問いではなく、発 見されるかどうかはともかく、解答が、現にあるなにものか――命題あるいは定式、客観的な 善、原理、客観的あるいは主観的な価値体系、心と心でないなにものかとの関係――を発見する ことにはなくて、行動のうちにある。つまり、発見されるのではなくて発明しかされえないな にものかのうちに、あらかじめ存在する規則や法則、事実などには従属しない意志あるいは信 仰あるいは創造の行為のうちにあるからだ、と考える。さらにここは、ロマン主義の20世紀に おける継承者である実存主義者たちも加わる。かれらは、行動に対する個人の自由な関与、あ るいは自由に選択する発動者によって決定される生活様式というものを信じ、そうした選択は 客観的基準を考慮に入れないと考える。というのは、客観的基準などというものは幻想の一形 態ないし「虚偽意識」の一形態であるとされ、そうしたこしらえごとを信ずるのは、心理学的 には自由の恐怖――ひとり放り出され、自分だけの工夫にまかされることへの恐怖――に由来する とされるからである。この恐怖によって、道徳的あるいは知的な規則とか原理とかの永遠の真 正性を保証する客観的権威を要求する諸体系、またはまがいものの神学的ないし形而上学的宇 宙論の無批判的容認へと導かれるのだというのである。それからまた、運命論者や神秘主義 者、ならびに偶然が歴史を支配すると信ずるひとびとや他の非合理主義者なども、これに近い ところにいるばかりでなく、非決定論者とか、不変的法則にしたがう固定的な人間本性を発見 することができるかどうかに疑問を抱く困惑せる合理主義者なども、これに近いわけである。とくに、人間の将来の必要なりその充足なりは予示しうるという命題は、新しい行動の道をた えずきり拓いてゆくという前提――これはわれわれが人間というときに意味されているものの定 義そのもののなかに入っている前提である――によって必然的に意志とか、選択とか、努力と か、目的とかの概念を含んでくるところの人間本性観には適合しないと考えるひとびとは、そ うである。これは、現代のマルクス主義者がとっている立場であるが、かれらはその学説のよ り粗野な通俗版に対して、自分たち自身の前提や原理の内包するものを理解するにいたったの である。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,III,pp.475-477,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




信念や価値の問題もまた理性の対象である。我々は何を信じているのか、信じている理由はなにか、その信念は、どのような価値と真理との規準を含んでいるか。人間と社会、政治を、動機と理由による正当化と説明を求める理性的な好奇心が存在する限 り、政治理論が展開される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

信念と価値の問題

信念や価値の問題もまた理性の対象である。我々は何を信じているのか、信じている理由はなにか、その信念は、どのような価値と真理との規準を含んでいるか。人間と社会、政治を、動機と理由による正当化と説明を求める理性的な好奇心が存在する限 り、政治理論が展開される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(1)信念や価値の問題もまた理性の対象である
 事実において我々の信念を因果的に決定しているものが何であれ、以下のことを知ろうと欲しないのは、我々の理性能力を理由なく放棄することである。
 (a)我々は何を信じているのか。
 (b)信じている理由はなにか。
 (c)その信念が形而上学的に含意するものはなにか。
 (d)その信念は、他のタ イプの信念といかなる関連をもつか。
 (e)その信念は、どのような価値と真理との規準を含んでいるか。
 (f)その信念が、真理であり妥当性をもつと考えるのにどんな理由があるか。

(2)目的と理由による正当化を求めること
 理性的な好奇心、すなわち単に因果関係、函数的相関関係、統計的蓋然性などによるのみではなく、動機と理由による正当化と説明を求める気持ちが存在する限 り、政治理論が完全にこの地上から消え失せることはないであろう。

(3)新しい予言不可能な未来 への展開
 新マルクス主義、新トマス 主義、国家主義、歴史主義、実存主義、反エッセンシャリスト的自由主義、社会主義、また自 然権・自然法学説の経験的用語への移しかえ、経済学からのモデルおよび関連技術の政治的行 動への巧みな適用による諸発見、これらの諸観念の行動における衝突・結合・影響、等々、それらは大きな一伝統の死を指示するのではなく、いずれかといえば、新しい予言不可能な未来 への展開をこそ示唆するものであろう。



「われわれは、たいていは制御できない、そしておそらくはわれわれの知識をも超えた環境 によって、非理性的に信じているものを信ずるように条件づけられているのであろう。しか し、事実においてわれわれの信念を因果的に決定しているものがなんであれ、われわれがなに を信ずるか、その理由はなにか、そうした信念が形而上学的に含意するものはなにか、他のタ イプの信念といかなる関連をもつか、それはどのような価値と真理との規準を含んでいるか、 またそれを真理であり妥当性をもつと考えるのにどんな理由があるか、といったことを知ろう と欲しないのは、われわれの論究する理性能力を理由なく放棄する――自然科学と哲学的研究の 混同に基づいて――ことであろう。理性的であるとは、ひとが考えることができ、また理解しう る理由によって行動することができる、しかもその理由はたんに、「イデオロギー」を生み出 す隠れた諸原因の産物として理解されるのではなく、その犠牲によってはどうあっても変えられない、という信念に基づく。理性的な好奇心――たんに因果関係、函数的相関関係、統計的蓋 然性などによるのみではなく、動機と理由による正当化と説明を求める気持ち――が存在する限 り、政治理論が完全にこの地上から消え失せることはないであろう、たとえ社会学、哲学的分 析、社会心理学、政治科学、経済学、法律学、意味論、等々の多くの競争相手がその空想的領 域を放逐し去ったと主張するにしても。  歴史上はじめて文字通り全人類が、まさにそれこそこの政治理論という研究部門の唯一の存 在理由であり、またつねにそうであったところの論点によって、烈しく対立させられている時 代に、政治理論がかくも日陰的生存を強いられているかに見えることは、まことに奇妙なパラ ドックスである。しかし、これで万事が終わるとは信じられない。新マルクス主義、新トマス 主義、国家主義、歴史主義、実存主義、反エッセンシャリスト的自由主義、社会主義、また自 然権・自然法学説の経験的用語への移しかえ、経済学からのモデルおよび関連技術の政治的行 動への巧みな適用による諸発見、これらの諸観念の行動における衝突・結合・影響、等々、そ れらは大きな一伝統の死を指示するのではなく、いずれかといえば、新しい予言不可能な未来 への展開をこそ示唆するものであろう。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由論』,IX,pp.511-512,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




過去の政治学説は、社会状況が課す問題、目標、価値観に基づく人間と社会の理論であり、人間や環境が根本的に変わらず現に今日ある通りのものである間は、現実の諸条件が人間のどの側面を際立たせるかに応じて、優勢になったり劣勢 になったりするであろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治理論の特質

過去の政治学説は、社会状況が課す問題、目標、価値観に基づく人間と社会の理論であり、人間や環境が根本的に変わらず現に今日ある通りのものである間は、現実の諸条件が人間のどの側面を際立たせるかに応じて、優勢になったり劣勢 になったりするであろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))




「その二、三の実例としては、カール・ポッパー教授のプラトンの政治理論に対する攻撃、 アーヴィング・バビットのルソーに対する痛烈な論難、シモーヌ・ヴェーユの旧約聖書の道徳 に対する烈しい嫌悪、今日しばしば行われている18世紀の実証主義ないし政治理論にける「科 学主義」に対する非難・攻撃、などを挙げることができよう。古典的な構成体のあるものは相 互に衝突し合うものであるけれども、それぞれが恒久的な人間の諸属性に関する生き生きとし たヴィジョンに基づき、各世代のある探究者たちの心を満たしうるものであるかぎり、いかに時間的・空間的環境が異なろうとも、プラトンやアリストテレスのつくったモデル、またユダ ヤ教、キリスト教、カント的自由主義、ロマン主義、歴史主義、等のモデルは、みな生きなが らえて、今日もさまざまな形で相争うているのである。  人間や環境が根本的な変化をとげるとか、われわれの人間観に革命的変化をもたらすような 新しい経験的知識が獲得されるとかしたならば、そのときにはきっと、これらのモデルのある ものは関連性を失い、エジプト人やインカ人の倫理や形而上学のように忘れ去れることであろ う。だが、人間が現に今日ある通りのものである間は、論争は、これらのヴィジョンなりそれ と同様の他のヴィジョンなりによって設定された用語でつづけられてゆくであろう。そしてそ のそれぞれは、現実の諸条件が人間のどの側面を際だたせるかに応じて、優勢になったり劣勢 になったりするであろう。ただひとつ確実なことは、哲学的問題とはなんであり、それは経験 的あるいは形式的問題とどのようにちがうか(もっともこの相違は必ずしも明確なものでなく てもよいので、重なり合ったり、あるいは境界線上にある問題は多々ある)を理解している、 また少なくとも感知しているひとびとにとってのほかは、その解答――いまここでの場合には西 洋の主要な政治学説――は、知的幻想、超然たる哲学的思弁、現実の行為ないし事件にたいして 関わりのない知的構成物と思われることであろう。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,VIII,pp.507-508,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




人間を定義するときに用いる基礎的カテゴリー、社会、自由、時間および変化の感覚、苦悩、幸福、生産性、善悪、正邪、選択、努力、真理、幻想、等々の観念は、記述的な概念だと考えられているが誤りである。人間観は、普遍的な諸価値を前提としている。そもそも、言語の意味はある意図(目的)を前提としているのである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

人間観を支持する諸価値

人間を定義するときに用いる基礎的カテゴリー、社会、自由、時間および変化の感覚、苦悩、幸福、生産性、善悪、正邪、選択、努力、真理、幻想、等々の観念は、記述的な概念だと考えられているが誤りである。人間観は、普遍的な諸価値を前提としている。そもそも、言語の意味はある意図(目的)を前提としているのである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



参考:意図と解釈


「われわれが人間を定義するときに用いる基礎的カテゴリー(およびそれに対応する概念) ――社会、自由、時間および変化の感覚、苦悩、幸福、生産性、善悪、正邪、選択、努力、真 理、幻想、等々(以上はまったくアット・ランダムに挙げただけだが)の観念――は、帰納の問 題でも、仮説の問題でもない。あるひとを人間として考えること、そのこと自体によって、こ れらすべての観念が働かされることになる。したがって、あるひとが人間であると言っておき ながら、そのひとに選択とか真理の観念とかがなんの意味ももたないというのは、奇妙であろ う。それは、たんに言葉の上だけの定義(それならば意のままに変えられる)としてではな く、われわれがものを考える仕方、また(ありのままの事実として)われわれが考えざるをえ ないその仕方に本質的なものとして、「人間」というときに意味しているものと衝突すること になろう。  これにはまた、それによって人間が定義される価値(とりわけ政治的価値)も保持されてい るであろう。だから、もしわたくしがあるひとについて、かれは親切だとか、残酷だとか、か れは真理を愛するとか、真理には無関心だとか言うならば、そのひとはいずれの場合にもやは り人間的ではあるのである。ところが、もしわたくしが、そのひとにとっては石をけとばすこ とも家族を殺すことも、いずれも倦怠ないし無為への反対であるがゆえに、文字通りなんの差 別もないようなひとを見出したとしたら、わたくしは首尾一貫した相対主義者のように、たん にわたくし自身ないし大多数のひとびとのそれとはちがった道徳がかれにあるからだと考えた り、われわれは肝心な点で意見がくいちがっていると言ったりしないで、かれは精神異常であ り、非人間的であると言おうとするであろう。自分はナポレオンだと考えるひとが気違いであると同様に、かれは気違いであると見なしたいと思う。つまり、それは、わたくしがそのよう な存在を完全に人間であるとは考えないということである。この種の事例によって、普遍的な ――ないしはほとんど普遍的な――諸価値を認知する能力が、「人間」、「合理的」、「正気 の」、「自然的」等々の基本的概念の分析には入りこんでくることが明らかにされるように思 われる。それらの概念はふつう価値評価にかかわるものでなく、記述的な概念だと考えられて おり、古いア・プリオリな自然法学説における真理の核心を今日経験的用語に翻訳する試みの 根底におかれているものである。記述的陳述と価値の陳述との間のまったく論理的な差別に対 する忠実な経験論者たちの確信をゆるがせ、ヒュームに由来するこの有名な区別に疑問を投じ たのは、新アリストテレス主義者やウィットゲンシュタインの後期学説の信奉者たちによるこ のような考察なのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,VIII,pp.500-501,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




政治哲学は、諸目的がたがいに衝突しあうような世界においてのみ、それは原理的に可能である。なぜなら、諸価値が対立せず一つの目標しか存在しなければ、手段についての議論は、技術的なもの、つまり科学的・経験的な性格のものとなるからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治哲学の成立条件

政治哲学は、諸目的がたがいに衝突しあうような世界においてのみ、それは原理的に可能である。なぜなら、諸価値が対立せず一つの目標しか存在しなければ、手段についての議論は、技術的なもの、つまり科学的・経験的な性格のものとなるからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)諸価値が対立せず一つの目標しか存在しなければ、政治哲学は不要となる
 ただ一つの目標によって支配されている社会においては、目的に到達する最上の手 段についての議論だけしかありえないはずであり、そうした手段についての議論は技術的なも の、つまり科学的・経験的な性格のものである。


「ところで、このことは、少なくともひとつ重要な問題が含まれている。もしも「いかなる 世界において政治哲学――それを存立せしめるような議論や論議――は原理的に可能であるか」と いうカント的な問題が提起されるならば、「諸目的がたがいに衝突しあうような世界において のみ、それは原理的に可能である」というのがそれに対する答えでなければならない。ただひ とつの目標によって支配されている社会においては、原理的にはこの目的に到達する最上の手 段についての議論だけしかありえないはずであり、そうした手段についての議論は技術的なも の、つまり科学的・経験的な性格のものである。それは経験と観察とによって確定され、その 他の方法を用いても原因や相関関係を発見することができる。それは、少なくとも原理的に は、実証科学に還元されうるものである。そのような社会にあっては、政治的目的とか価値と かについての深刻な問題は生じえないので、ただ目標に達するためのもっとも効果的な道はな にかという経験的な問題しかないわけである。」(中略)「以上のようなわけで、伝統的な意 味における政治哲学、すなわち、たんに諸概念の明瞭化ということだけではなく、前提とか暗 黙裡の想定とかの批判的検討、先後の順序や究極目的などの究明にたずさわる研究が可能であ るような唯一の社会は、あるひとつの目的が全体には受けいれられていない社会であるという ことになる。ただひとつの目的が全体に受けいれられないことの理由はさまざまありうるであ ろう。単一の目的がじゅうぶんなだけ多数のひとびとによって受けいれられなかったとか、他 の諸価値がいつかひとびとの理性なり感情なりを引きつけないという保証は、原理的には、あ りえないゆえに、あるひとつの目的を究極的と見なすわけにはゆかないからとか、いかなる終 局的な単独目的も発見しえない――ひとが多くのちがった目的を追求しうるものである限り、そ のうちのひとつ、あるいは一部が、そのひとたちお互いにとって終局的な単独目的の意味をも つことはないからとか、その他。これらの目的のうちのあるものは公共的ないし政治的な目的 であるかもしれない。それらのすべてが、原理的にも、相互に矛盾なく両立するものでなけれ ばならぬと考えるべき理由はない。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,II,pp.467-469,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




伝統的な政治理論の核心をなす諸問題のなかには、たとえば、平等の性質に関する問題、 権利、法、権威、規則などに関する問題がある。これらは、規範の正当化にかかわるため人間観、社会観、価値観を基礎とし、様々な見解が主張される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治理論と価値観の問題

伝統的な政治理論の核心をなす諸問題のなかには、たとえば、平等の性質に関する問題、 権利、法、権威、規則などに関する問題がある。これらは、規範の正当化にかかわるため人間観、社会観、価値観を基礎とし、様々な見解が主張される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)政治理論は規範の正当化にかかわるため人間観、社会観、価値観を基礎とする
「どうして人は服従するのか」という問題は経験的心理学、人類学、社会学の問題である。これに対して、「どうして人は、だれか他の人に服従しなければならないのか」という問題は、権威とか主権とか自由とかの観念における規範的なるものの説明、また政治的議論におけるそ れらの観念の妥当性の正当化を求めている。

(b)基礎となる価値観が異なると諸概念も根本的に異なる
 (i)いくつかの概念 の意味について広汎な意見の一致がない。
 (ii)諸問題を決定する公認の権威はだれなのか、または何なのか、等々に関しては大きな見解の相違がある。
 (iii)価値概念の分析に関する意見の不一致は、時としてさらに根本的な差異から生じてきていることは明らかであるように思われる。
 (iv)権利とか正義とか自由とかいう観念は、有神論者と無神論者とではまるきりちがったものになる だろうし、機械論的決定論者とクリスト教信者、ヘーゲル主義者と経験論者、ロマン主義的非合理主義者とマルクス主義者、等々でも根本的にちがうものになるであろう。



「伝統的な政治理論の核心をなす諸問題のなかには、たとえば、平等の性質に関する問題、 権利、法、権威、規則などに関する問題がある。われわれはこれらの概念を分析する必要があ り、またこれらの表現がわれわれの言語においてどのように機能するか、あるいはそれらがい かなるかたちの行為を命令し、禁止するか、またそれはどうしてか、あるいはそれらはどのよ うな価値体系ないし世界観に適合するか、またそれはどのようにしてか、といったことを追求 してゆく。おそらくあらゆる政治的問題のうちでもっとも基本的な問題は、「どうしてひと は、だれか他のひとに服従しなければならないのか」という問題であるが、この問いをわれわ れが発するとき、われわれが問うているのは「どうしてひとは服従するのか」という問題――こ れは経験的心理学、人類学、社会学が答えることができよう――ではないし、また「だれがだれ に服従するのか、いつまたどこで、それはいかなる原因によって決定されるか」という問題―― これもまたほぼ右の諸学の分野から引き出される証拠によっておそらく答えられるだろう――で もないのである。どうしてひとが服従しなければならないのかと問うときには、われわれは、 権威とか主権とか自由とかの観念における規範的なるものの説明、また政治的議論におけるそ れらの観念の妥当性の正当化を求めているわけなのだ。その名において命令が発せられ、ひと が強制され、戦争が行われ、新しい社会がつくられ、古い社会が破壊される、そういう言葉が ある。その言語表現は、今日のわれわれの生活において他のいかなるものにも劣らぬ大きな役 割を演じている。こうした問題が一見哲学的であるのは、そこに含まれているいくつかの概念 の意味について広汎な意見の一致がないという事実によるのである。それらの分野における行 動の真の理由はなんであるのか、どうしたら適切な諸命題が確立されうる、さらにはもっとも らしいものにされうるのか、それらの諸問題を決定する公認の権威はだれなのか、またはなん なのか、等々に関しては大きな見解の相違があり、したがって、真の公共的批判と転覆との境 界線、あるいは自由と抑圧との区別、等々についてもなんら意見の一致は見られない。こうい う問題に対して相容れることのない解答がさまざまな学派なり思想家なりによって提出されつ づけている限り、この分野における一科学――経験的にせよ形式的にせよ――の確立の見通しは、 前途ほど遠しの感がある。実際、価値概念の分析に関する意見の不一致は、時としてさらに根 本的な差異から生じてきていることは明らかであるように思われる。というのは、たとえば権 利とか正義とか自由とかいう観念は、有神論者と無神論者とではまるきりちがったものになる だろうし、機械論的決定論者とクリスト教信者、ヘーゲル主義者と経験論者、ロマン主義的非 合理主義者とマルクス主義者、等々でも根本的にちがうものになるであろうからである。さら にまた、これらの差異が、少なくも一見したところでは、論理的であるか経験的であるかとい うのではなく、ふつうは、いかんともしがたく哲学的なものとして類別される――そしてそれが 正当である――ようなものであったということも、同じく明らかなことのように思われる。」 

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,II,pp.466-467,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




31.過去の政治理論を理解するには、その理論を支えている基礎概念、範例、モデル、人間観、問題・課題を、想像的洞察力によって解明する必要がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治理論の理解

過去の政治理論を理解するには、その理論を支えている基礎概念、範例、モデル、人間観、問題・課題を、想像的洞察力によって解明する必要がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(1)基礎概念、範例、モデル、人間観、問題・課題
 想像的洞察力によって、以下を理解しなければ、政治理論を理解できない。
 (a)意識的あるいは無意識的に諸種の見解を支配しているモデル、範例、概念構成を理解すること。
 (b)いかなる人間観が織り込まれているか理解すること。あるいは、特定の要素が人間観から欠如しているかを理解すること。
 (c)人間の思想や行動を理解することは、人間がどんな問題、難問題と取り組んでいる かを理解することだ。
 (i)これらの諸問題が、古くから今日まで広く認められ た問題なら、その支配的なカテゴ リーにはっきりと言及しなくとも、理解することができるだろう。
 (ii)政治理論ではよくあるように、そうでない場合には、人間観、モデルの理解が必要となる。
 (iii)今日では廃棄され、すたれてしまったモデルに支配されていたひとびとの精神状態にわが身を置いてみる だけの想像力と知識がなければ、それを中心にしていた思想と行動とはわれわれには不分明な ままにとどまるだろう。

(2)道徳理論、社会理論、政治理論
 個人の問題だけに局限すれば道徳理論、集団の問題に限定すれば社会理論、あるいは政治的と分類される特別の人間配置の諸類型の問題に限定すれば政治理論である。

(3)例として国家とは何か
 (i)国家は我々の罪のためにのみ与えられたものだ。
 (ii)国家は我々が大人 になり自由になってそれなしで済ませるようになるために通過しなければならない学校のようなものだ。
 (iii)国家は一箇の芸術作品だ。
 (iv)功利的に考案された装置だ。
 (v)自然法の具体的現実化である。
 (vi)支配階級の委員会である。
 (vii)自己展開する人類の精神の最高の段階である。
 (viii)ひとつの犯罪的な愚行である。
 (ix)国家は神聖なものだ。

「意識的あるいは無意識的にそれら諸種の見解を支配しているモデル、範例、概念構成を検 討し、そこに含まれているさまざまな概念やカテゴリーを、たとえばその内的首尾一貫性とか 説明能力といった点について比較するならば、そこでやっていることは心理学でも、社会学で も、論理学でも、認識論でもなく、われわれが個人の問題だけに局限するか、あるいは集団の 問題に限定するか、あるいは政治的と分類される特別の人間配置の諸類型の問題に限定する か、またはそれら全部を同時に取り扱うかによって、道徳理論、あるいは社会理論、あるいは 政治理論、または同時にその全部であるわけである。いかに多くの綿密な経験的観察や大胆で 実り豊かな仮説を以てしても、国家を神聖な制度だとするひとびとがなにを見ているのか、か れらの言葉がなにを意味し、現実とどのように関係するのかを説明してはくれないだろう。ま た、国家はわれわれの罪のためにのみ与えられたのだというひとたち、国家はわれわれが大人 になり自由になって、それなしですませるようになるために通過しなければならない学校のよ うなものだというひとたち、あるいは国家は一箇の芸術作品だといい、いやそれは功利的に考 案された装置だといい、また自然法の具体的現実化であるといい、さらに支配階級の委員会で ある、自己展開する人類の精神の最高の段階である、ひとつの犯罪的な愚行である、等々というひとたちが、いったいそれでなにを考えているのかを説明してはくれないであろう。もしわ れわれが、これらの政治的見解のうちにいかなる人間観(あるいはその欠如)が織り込まれて いるか、またそれぞれにおいて支配的なモデルはなんであるかということを理解する(ふつう 小説家たちが論理学者たちよりも高度にもっているような想像的洞察力によって)のでなけれ ば、われわれは自分たちの社会、いやおよそいかなる人間社会をも理解することはないであろ う。またストア派やトマス主義者たちを支配していた、あるいは今日のヨーロッパのキリスト 教的民主主義者たちを支配している理性観や自然観、またアジア・アフリカにおける国家的・ マルクス主義的運動を前進させつつある、あるいはやがて前進せしめるであろうところの神聖 なる戦いの核心にあるまるきりちがったイメージ、また西洋の自由主義的・民主主義的妥協に 生命を吹きこんでいるこれまたちがったイメージ、そのいずれをも理解することはないであろ う。  人間の思想や行動を理解することは、大部分、人間がどんな問題、難問題と取り組んでいる かを理解することだとは、今日ではもう言うまでもないような陳腐な言である。経験的であれ 形式的であれ、これらの諸問題が、今日まで用いられているほどに、古くから、広く認められ た、安定した現実のモデルによって考えられているならば、われわれはその支配的なカテゴ リーにはっきりと言及しなくとも、その問題、難点、解決の試みを理解することができる。と いうのは、これらのカテゴリーはわれわれおよび過去の諸文化に共通のものであって、表面に 出しゃばってこず、いわば見えないところにひそんでいるからである。そうでない場合(そし てこれが政治についてとくに当てはまるのだが)、モデルはおとなしく引っ込んでいない。そ れを構成するいくつかの概念はもはやなじみのものではないからである。しかし、今日では廃 棄され、すたれてしまったモデルに支配されていたひとびとの精神状態にわが身を置いてみる だけの想像力と知識がなければ、それを中心にしていた思想と行動とはわれわれには不分明な ままにとどまるだろう。この困難な操作を行わないことが、多くの思想史の特色となってお り、思想史を表面的な文献的訓練か、あるいは奇妙な、時としてはほとんど理解しがたい誤謬 や混乱の死せるカタログか、のいずれかにしてしまっているのである。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,VIII,pp.503-505,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)







2022年1月20日木曜日

30.人間を他の自然物と区別するのは、理性的思考でも自然に対する支配でもなくて、選択し実験する自由である。人間は、真理、幸福、新奇、自由を絶えず求める不完全で誤ちを犯す予測不能で複雑な存在である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

ミルの人間観

人間を他の自然物と区別するのは、理性的思考でも自然に対する支配でもなくて、選択し実験する自由である。人間は、真理、幸福、新奇、自由を絶えず求める不完全で誤ちを犯す予測不能で複雑な存在である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)真理、幸福、新奇、自由を絶えず求める不完全で誤ちを犯す予測不能で複雑な存在
 創造的で、自己完成がありえず、従って完全な予測がつかないものであり、誤ちも犯すし、あるものは宥和できるが、あるものは解決も調和もありえないような反対物の複雑な結合体であ り、真理、幸福、新奇、自由を絶えず求めずにはいられないが、そうしたものに達するいかなる保障もなく、自分の理性や才能の発展に好適な環境では、自分自身の行くさきを決定できるところの、自由で、不完全な存 在、こういうイメージであります。

(b)選択し実験する自由な存在
 人間を他の自然物と区別するのは、理性的思考でも自然に対する支配でもなくて、選択し実験す る自由である、とミルは信じておりました。


「彼は、人間性が決定され限定されたものであるという古典世界や理性の時代から受けつい だ疑似科学的モデルとたもとを分かちました。それによりますと、人間性は、すべての時と所 において同一で不変の欲求・感情・動機をもち、反応が相違するのは環境や刺激が異なってい るにすぎず、進化はすべてある不変の型によっていることになるのです。こうしたモデルに対 し、(完全に意識的であるとはいえないが)彼はつぎのような人間のイメージを代えました。 創造的で、自己完成がありえず、従って完全な予測がつかないものであり、誤ちも犯すし、あ るものは宥和できるが、あるものは解決も調和もありえないような反対物の複雑な結合体であ り、真理、幸福、新奇、自由を絶えず求めずにはいられないが、そうしたものに達する――神学 的であろうと、論理的であろうと、科学的であろうと――いかなる保障もなく、自分の理性や才 能の発展に好適な環境では、自分自身の行くさきを決定できるところの、自由で、不完全な存 在、こういうイメージであります。彼は自由意志の問題に苦しみました。ときとしてそれを解 決したと思ったことはありましたが、他の誰よりもよき解答を彼が見出したとは言えません。 人間を他の自然物と区別するのは理性的思考でも自然に対する支配でもなくて、選択し実験す る自由である、と彼は信じておりました。彼の思想のうちで最も永続的な名誉を彼にさずけて いるものは、まさにこの見方であります。彼が意味した自由とは、自分の尊重の対象及び尊重 の仕方、この双方を選択するときに他の人びとからは妨げられないという状態であります。彼 にとっては、こうした条件が実現された社会のみが、十分に人間的な社会と言いうるものであ りました。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,ジョン・スチュアート・ミルと生の目 的,V,pp.449-450,みすず書房(2000),小川晃一(訳),小池銈(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




29.社会が興起し、繁栄し、 衰退し、死滅する。これらを無意味な比喩と考えることはできない。歴史の規則性やパターンは、認識可能である。しかし、それらに原因としての性質や、能動的な力、超越的性質を付与するとき、誤りに陥る。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

歴史の規則性やパターン

社会が興起し、繁栄し、 衰退し、死滅する。これらを無意味な比喩と考えることはできない。歴史の規則性やパターンは、認識可能である。しかし、それらに原因としての性質や、能動的な力、超越的性質を付与するとき、誤りに陥る。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a)歴史の規則性やパターン
 歴史における規則性やパターンが見つかったからとて、それらに原因としての性質や、能動的な力、超越的性質、人間の犠牲を要求する渇望などを帰属せしめることが自然で当たりまえのことになっ てしまったら、それは神話によって決定的に欺かれることになる。
(b)文化のパターン
 文化にはそれぞれパターンがあり、時代には精神があるとしても、人間の行動をそ れらのパターンなり時代精神なりの「不可避的」な帰結ないし表現として説明することは、言 葉の誤用に陥ることである。


「もちろんわたくしは、そういう比喩なり形容なりが日常用語において、さらには科学にお いても、なしですませられるなどと言うつもりはない。ただ不法な「実体化」――言葉を事物 と、比喩を現実ととりちがえること――の危険が、この領域ではふつうに考えられているよりも はるかに大きいのだということを言っておきたいのである。いうまでもなく、もっとも有名な 事例は国家ないし国民の場合であり、まさしくその擬人化のために1世紀以上にもわたって哲 学者、さらには一般のひとびとが不安に、あるいは憤慨させられてきたのである。しかしなが ら、他の多くの言葉や語法にも同じような危険が伴う。歴史的運動は実在する。われわれはそ う言うことを許してもらわなければならない。集団的行動が起こり、社会が興起し、繁栄し、 衰退し、死滅する。パターンとか、「雰囲気」とか、人間ないし諸文化の複雑な相互関係とか はあるがままのもので、その原子的構成部分まで分析しつくすわけにはゆかない。けれども、 そうした表現をまったく文字通りにとって、それらに原因としての性質や、能動的な力、超越 的性質、人間の犠牲を要求する渇望などを帰属せしめることが自然で当たりまえのことになっ てしまったら、それは神話によって決定的に欺かれることになる。歴史に「リズム」が生ずる としても、それをなんとしても「動かしがたい」リズムであるということは、有害・不吉な兆 候である。文化にはそれぞれパターンがあり、時代には精神があるとしても、人間の行動をそ れらのパターンなり時代精神なりの「不可避的」な帰結ないし表現として説明することは、言 葉の誤用におちいることである。世界を想像上の権力や支配にまかせてしまう危険、一方すべ てのものを正確にそれと指示できる時・処における検証可能な男女の行為に還元してしまう危 険、このいずれの危険をもうまく逃れられることを保証する定式はひとつとしてない。われわ れのなしうることはせいぜい、この両方の危険のあることを指摘するということだけで、われ われはできるだけうまくこのスキュルラとカリブデスの間をきり抜けてゆかねばならないので ある。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,歴史の必然性,II,註 *,pp.191-192, みすず書房(2000),生松敬三(訳))

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