2018年6月7日木曜日

人君としての災害は、人を信用することから起こる。なぜなら、臣下は愛情からではなく権勢に縛られてやむを得ず仕えており、いつでも隙を狙っている。仮に信用し、依存するなら、どうなるか。(韓非(B.C.280頃-B.C.233))

人を信ずるということ

【人君としての災害は、人を信用することから起こる。なぜなら、臣下は愛情からではなく権勢に縛られてやむを得ず仕えており、いつでも隙を狙っている。仮に信用し、依存するなら、どうなるか。(韓非(B.C.280頃-B.C.233))】
 人君としての災害は、人を信用することから起こる。なぜか。
(a) 人を信用すると、その人に事を委任するようになって、このことで制約されることになる。
(b) また、臣下はその主君に対して、肉親の愛情を持っているわけではなく、権勢に縛られてやむを得ず仕えているのである。
(c) しかも、人の臣下というものは、その君の心を探ろうとしてしばらくも休まないでいる。
(d) 一方、君主の方は何もせずに怠けて、臣下の頭の上で威張っているとしたら、どうだろう。君主が脅かされるのは、当然ではないか。
 「人君としての災害は、人を信用することから起こる。人を信用すると〔事を委任するようになって〕その人物に制約されることになる。臣下はその主君に対して肉親の愛情を持っているわけではなく、権勢にしばられてやむをえず仕えているのである。だから、人の臣下というものは、その君の心をさぐろうとしてしばらくも休まないでいるものだが、君主の方は何もせずに怠けて臣下の頭の上で威張っている。それこそ、世間で君主を脅かしたり殺したりする事件が起こる理由である。」(後略)
(韓非(B.C.280頃-B.C.233)『韓非子』備内 第十七、(第1冊)pp.312-313、岩波文庫(1994)、金谷治(訳))
(索引:人を信ずるということ)
(原文:17.備内韓非子法家先秦兩漢中國哲學書電子化計劃

韓非子 (第1冊) (岩波文庫)




(出典:twwiki
韓非(B.C.280頃-B.C.233)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「国を安泰にする方策として七つのことがあり、国を危険にするやり方として六つのことがある。
安泰にする方策。第一は、賞罰は必ず事の是非に従って行うこと、第二は、禍福は必ず事の善悪に従ってくだすこと、第三は、殺すも生かすも法のきまりどおりに行うこと、第四は、優秀か否かの判別はするが、愛憎による差別はしないこと、第五は、愚か者と知恵者との判別はするが、謗ったり誉めたりはしないこと、第六は、客観的な規準で事を考え、かってな推量はしないこと、第七は、信義が行われて、だましあいのないこと、以上である。
 危険にするやり方。第一は、規則があるのにそのなかでかってな裁量をすること、第二は、法規をはみ出してその外でかってな裁断をくだすこと、第三は、人が受けた損害を自分の利益とすること、第四は、人が受けた禍いを自分の楽しみとすること、第五は、人が安楽にしているのを怯かして危うくすること、第六は、愛すべき者に親しまず、憎むべき者を遠ざけないこと、以上である。こんなことをしていると、人々には人生の楽しさがわからなくなり、死ぬことがなぜいやなのかもわからなくなってしまう。人々が人生を楽しいと思わなくなれば、君主は尊重されないし、死ぬことをいやがらなくなれば、お上の命令は行われない。」
(韓非(B.C.280頃-B.C.233)『韓非子』安危 第二十五、(第2冊)pp.184-185、岩波文庫(1994)、金谷治(訳))
(原文:25.安危韓非子法家先秦兩漢中國哲學書電子化計劃

韓非(B.C.280頃-B.C.233)
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2018年6月6日水曜日

6.どんな相手に対しても、丁寧な仕草や耳触りのいい言葉など、社交上の儀礼には十分に注意せよ。誰でも自分自身をそれなりの人物だと思っているものなので、その誇りを傷つけ怒らせないこと。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))

誇り

【どんな相手に対しても、丁寧な仕草や耳触りのいい言葉など、社交上の儀礼には十分に注意せよ。誰でも自分自身をそれなりの人物だと思っているものなので、その誇りを傷つけ怒らせないこと。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))】
(1) どんな相手に対しても、丁寧な仕草や耳触りのいい言葉など、社交上の儀礼には十分に注意せよ。
(2) もちろん本来ならば、ものごとの実体や真実を重んずるように心掛けねばならない。
(3) しかし現実には、誰でも、丁寧なしぐさや耳ざわりにいい言葉に惑わされてしまう。
(4) なぜ、このようなことが起こるのか。それは、すべての人々は自分は高く評価されるに足る存在だと考えているので、自分が当然受けるべきだと思い込んでいるような取り扱いを相手が気にも留めていないと感じると憤激するものなのである。


 「人間は社交上の儀礼よりは、ものごとの実体や真実を重んずるように心掛けねばならない。にもかかわらず人間が、だれかれの区別なく丁寧なしぐさや耳ざわりにいい言葉にまどわされてしまうのは、信じられないくらいである。このことは以下のことに由来する。すなわち、すべての人々は自分は高く評価されるに足る存在だと考えているので、自分が当然受けるべきだと思いこんでいるような取りあつかいを相手が気にもとめていないと感じると憤激するものなのである。」
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)C、26 外見で惑わされる、pp.63-64、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))
(索引:誇り)

フィレンツェ名門貴族の処世術―リコルディ (講談社学術文庫)



フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「この書物の各断章を考えつくのはたやすいことではないけれども、それを実行に移すのはいっそうむずかしい。それというのも、人間は自分の知っていることにもとづいて行動をおこすことはきわめて少ないからである。したがって君がこの書物を利用しようと思えば、心にいいきかせてそれを良い習慣にそだてあげなければならない。こうすることによって、君はこの書物を利用できるようになるばかりでなく、理性が命ずることをなんの抵抗もなしに実行できるようになるだろう。」
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)B、100 本書の利用のし方、p.227、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))

フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)
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自己の軍備に基礎を置かない政体は、不確か不安定で、運命に翻弄されるだろう。特に強大な外国の軍備に頼ることは危険である。そこには謀略が組み込まれており、常に他者の命令に屈することとなる。(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527))

自らの軍備の必要性

【自己の軍備に基礎を置かない政体は、不確か不安定で、運命に翻弄されるだろう。特に強大な外国の軍備に頼ることは危険である。そこには謀略が組み込まれており、常に他者の命令に屈することとなる。(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527))】
(1) 自己の軍備を持たなければ、いかなる政体も安泰ではない。それどころか、逆境のさいに自信をもってこれを防衛する力量を持たない以上、すべては運命に委ねることになってしまう。「自己の戦力に基礎を置かない権力の名声ほど不確かで不安定なものはない」。
(2) では、どのような軍備が最善か。賢明な君主はつねに外国の軍備に頼ることを避けて自軍に頼ってきた。そして、他者の力で勝利するよりはむしろ自己の力で敗北することを望み、他者の軍備によって獲得した勝利などは真のものではないと判断していた。
(3) なぜか。それは、自国の防衛のために、強大な勢力を持つ外国の軍備を呼び入れた者には、ほとんどつねに害をもたらすからである。外国の軍備に頼ることは、傭兵軍よりもはるかに危険である。
(3.1) なぜならば、彼らが敗北すれば、自分も滅亡してしまう。
(3.2) 彼らが勝利すれば、自分は彼らの虜になってしまう。すなわち、「この軍備のなかには謀略が組み込まれている」ものであり、「いついかなるときにも他者の命令に屈している」ものだから。
 「援軍というのは、役に立たない別の軍備であって、それは強大な勢力が軍備によってあなたを援助に来て防衛するように呼び入れられたときのものである。たとえば、ごく最近では、教皇ユリウスがそれをしたごとくに。教皇は、フェッラーラ攻略のさいに、傭兵軍がはかばかしい成果をあげないのを見て取るや、援軍の方策へ転じて、スペイン王フェッランドと同盟を結び、その麾下と軍隊によって援助してくれるように要請した。この種の軍備は、それ自体としては、役に立ち秀れたものであるが、これを呼び入れた者には、ほとんどつねに害をもたらす。なぜならば、彼らが敗北すれば、自分も滅亡してしまうし、勝利すれば、自分は彼らの虜になってしまうから。」(中略)
 「したがって、勝てないことを望む者は、この種の軍備を役立ててみるがよい。なぜならばこれは傭兵軍よりもはるかに危険なものであるから。なぜならばこの軍備のなかには謀略が組み込まれているので、それらは一体化していて、いついかなるときにも他者の命令に屈しているから。」(中略)「要するに、傭兵軍において最も危険なのは無気力であり、援軍においてはそれが力量である。それゆえ賢明な君主はつねにこの軍備を避けて自軍に頼ってきた。そして他者の力で勝利するよりはむしろ自己の力で敗北することを望み、他者の軍備によって獲得した勝利などは真のものではないと判断していた。」(中略)
 「したがって、私の結論を述べるならば、自己の軍備を持たなければ、いかなる君主政体も安泰ではない。それどころか、逆境のさいに自信をもってこれを防衛する力量を持たない以上、すべては運命に委ねることになってしまう。そして賢明な人間の抱く見解にして金言はつねに同じであった。すなわち「自己の戦力に基礎を置かない権力の名声ほど不確かで不安定なものはない」。そして自軍とは、臣民か市民かあなたの養成者たちから構成され、それ以外のすべては傭兵軍か援軍である。」
(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)『君主論』第13章 援軍、混成軍、および自軍について、pp.101,202-203,106-107、岩波文庫(1998)、河島英昭(訳))
(索引:)

君主論 (岩波文庫)



(出典:wikipedia
ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「私の意図は一貫して、耳を傾ける者には役立ちそうな事態を書き記すことであったから、事態をめぐる想像よりも、その実際の真実に則して書き進めてゆくほうが、より適切であろうと私には思われた。そして多数の人びとがいままでに見た例もなく真に存在すると知っていたわけでもない共和政体や君主政体のことを、想像して論じてきた。なぜならば、いかに人がいま生きているのかと、いかに人が生きるべきなのかとのあいだには、非常な隔たりがあるので、なすべきことを重んずるあまりに、いまなされていることを軽んずる者は、みずからの存続よりも、むしろ破滅を学んでいるのだから。なぜならば、すべての面において善い活動をしたいと願う人間は、たくさんの善からぬ者たちのあいだにあって破滅するしかないのだから。そこで必要なのは、君主がみずからの地位を保持したければ、善からぬ者にもなり得るわざを身につけ、必要に応じてそれを使ったり使わなかったりすることだ。」
(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)『君主論』第15章 人間が、とりわけ君主が、褒められたり貶されたりすることについて、pp.115-116、岩波文庫(1998)、河島英昭(訳))

ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)
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現存するものを見た者は、なべて永遠の昔から存在したものを見たのであり、また永遠に存在するであろうものを見たのである。なぜならば万物は同じ起源を持ち、同じ外観を呈しているのである。(マルクス・アウレーリウス(121-180))

現存するもの

【現存するものを見た者は、なべて永遠の昔から存在したものを見たのであり、また永遠に存在するであろうものを見たのである。なぜならば万物は同じ起源を持ち、同じ外観を呈しているのである。(マルクス・アウレーリウス(121-180))】
 「現存するものを見た者は、なべて永遠の昔から存在したものを見たのであり、また永遠に存在するであろうものを見たのである。なぜならば万物は同じ起源を持ち、同じ外観を呈しているのである。」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第六巻、三七、p.107、[神谷美恵子・2007])
(索引:現存するもの)

自省録 (岩波文庫)



(出典:wikipedia
マルクス・アウレーリウス(121-180)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている、その周囲に水のうねりはしずかにやすらう。『なんて私は運が悪いんだろう、こんな目にあうとは!』否、その反対だ、むしろ『なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても、私はなお悲しみもせず、現在におしつぶされもせず、未来を恐れもしていない』である。なぜなら同じようなことは万人に起りうるが、それでもなお悲しまずに誰でもいられるわけではない。それならなぜあのことが不運で、このことが幸運なのであろうか。いずれにしても人間の本性の失敗でないものを人間の不幸と君は呼ぶのか。そして君は人間の本性の意志に反することでないことを人間の本性の失敗であると思うのか。いやその意志というのは君も学んだはずだ。君に起ったことが君の正しくあるのを妨げるだろうか。またひろやかな心を持ち、自制心を持ち、賢く、考え深く、率直であり、謙虚であり、自由であること、その他同様のことを妨げるか。これらの徳が備わると人間の本性は自己の分を全うすることができるのだ。今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな。曰く『これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。』」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第四巻、四九、p.69、[神谷美恵子・2007])
(索引:波の絶えず砕ける岩頭の喩え)

マルクス・アウレーリウス(121-180)
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2018年6月5日火曜日

行動の傾向性や慣習、情念は、必ずしも意識されない微小表象に由来し、それは意志決定においても「強いずに傾ける」。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

微小表象

【行動の傾向性や慣習、情念は、必ずしも意識されない微小表象に由来し、それは意志決定においても「強いずに傾ける」。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
(a) 熟慮を経ないで、私が、一方の行動よりも他方へ傾くとき、それは必ずしも意識されているとは限らない微小表象の連鎖と協働の結果である。
(b) 私たちの熟慮において、多くの感応力を与える慣習や情念でさえ、必ずしも意識されているとは限らない微小な刻印の連鎖に由来している。
(c) 自由意志論における「ビュリダンのロバ」の非決定は、これら必ずしも感じとれない微小表象の刻印を忘れている結果である。しかし、これらの刻印は、「強いずに傾ける」のである。
 「あらゆる刻印が結果をもっていますが、すべての結果が常に目立つとはかぎりません。私が一方よりも他方を向くとき、それはしばしば微小な刻印の連鎖によるのです。そうした微小な刻印を、私は意識しているわけではありませんが、これらの刻印はひとつの運動を他の運動より少しだけ起りにくくするのです。熟慮を経ない私たちの行動はすべて、微小表象の協働の結果です。私たちの熟慮において多くの感応力を与える慣習や情念でさえ、それに由来しています。というのも、こうした習慣は少しずつ生まれるものですし、したがって微小表象なくして、私たちはそういう目立つ態勢に到ることはないからです。すでに指摘したように、そうした微小表象のもたらす結果を道徳において否定する者は、自然学において、感じとれない微粒子を否定するようなひどい教育を受けた人々の轍を踏むことになります。しかしながら、自由について語る人々のなかには、均衡を破りうるこれら感じとれない刻印に注意を払わず、道徳的行為におけるまったき非決定を思い描く人を見かけます。これではまるで、二つの牧草地の真中に置かれた「ビュリダンのロバ」の非決定と同じです。これについては後にもっと詳しく話し合いましょう。でもこれらの刻印が、強いずに傾けるものであることは認めておきます。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』第二部・第一章[一五]、ライプニッツ著作集4、p.120、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1993])
(索引:微小表象)

認識論『人間知性新論』 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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記憶せよ。各人はただ現在、この一瞬間にすぎない現在のみを生きるのだ。(マルクス・アウレーリウス(121-180))

生きているこの瞬間

【記憶せよ。各人はただ現在、この一瞬間にすぎない現在のみを生きるのだ。(マルクス・アウレーリウス(121-180))】
 「ほかのものは全部投げ捨ててただこれら少数のことを守れ。それと同時に記憶せよ、各人はただ現在、この一瞬間にすぎない現在のみを生きるのだということを。その他はすでに生きられてしまったか、もしくはまだ未知のものに属する。ゆえに各人の一生は小さく、彼の生きる地上の片隅も小さい。またもっとも長く続く死後の名声といえども小さく、それもすみやかに死に行く小人どもが次々とこれを受けついで行くことによるすぎない。その小人どもは自己を知らず、まして大昔に死んでしまった人間のことなど知る由もないのである。」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第三巻、一〇、pp.43-44、[神谷美恵子・2007])
(索引:生きているこの瞬間)

自省録 (岩波文庫)



(出典:wikipedia
マルクス・アウレーリウス(121-180)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている、その周囲に水のうねりはしずかにやすらう。『なんて私は運が悪いんだろう、こんな目にあうとは!』否、その反対だ、むしろ『なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても、私はなお悲しみもせず、現在におしつぶされもせず、未来を恐れもしていない』である。なぜなら同じようなことは万人に起りうるが、それでもなお悲しまずに誰でもいられるわけではない。それならなぜあのことが不運で、このことが幸運なのであろうか。いずれにしても人間の本性の失敗でないものを人間の不幸と君は呼ぶのか。そして君は人間の本性の意志に反することでないことを人間の本性の失敗であると思うのか。いやその意志というのは君も学んだはずだ。君に起ったことが君の正しくあるのを妨げるだろうか。またひろやかな心を持ち、自制心を持ち、賢く、考え深く、率直であり、謙虚であり、自由であること、その他同様のことを妨げるか。これらの徳が備わると人間の本性は自己の分を全うすることができるのだ。今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな。曰く『これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。』」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第四巻、四九、p.69、[神谷美恵子・2007])
(索引:波の絶えず砕ける岩頭の喩え)

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2018年6月4日月曜日

我々の魂の内には、意識表象も反省もされていない無数の表象と、その諸変化が絶えずある。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

意識されない無数の表象

【我々の魂の内には、意識表象も反省もされていない無数の表象と、その諸変化が絶えずある。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 我々の魂の内には、意識表象も反省もされていない無数の表象と、その諸変化が絶えずある。
(a) 個々の印象があまりに微小で、多数であり、あるいはあまりに単調で、個別には十分識別できないが、他のものと結びついたときには、印象の効果を発揮して感覚されることがある。
(b) 慣れによって、その印象に新鮮な魅力がなくなって、我々の注意力や記憶力を喚起するほど十分強力ではなくなり、感覚されなくなることがある。
(c) 注意力が気づくことなく見過ごしていたある表象が、誰かが直ちにその表象について告げ知らせ、例えば今聞いたばかりの音に注意を向けさせるならば、我々はそれを思い起こし、まもなくそれについてある感覚を持っていたことに気づくことがある。
 「次のように判断させる多数の標示がある。すなわち、われわれの内には、意識表象も反省もされていない無数の表象が絶えずあり、それは、魂そのものの内にある、われわれが意識表象していない諸変化である。それらの印象があまりに微小でありしかも多数であるか、あるいはあまりに単調で、その結果、それぞれ別々に十分識別できないが、それでも他のものと結びついたときには印象の効果を発揮して、少なくとも集合的には錯然と感覚されるからである。たとえば、水車の回転や滝のすぐそばに暫くとどまっていると、慣れによってそれらの音に気をつけなくなる。それは、これらの運動がわれわれの感覚器官に印象を与えつづけていないからではないし、また、魂と身体の調和によって、これに対応する何ものもまだ魂のなかに生起していないからでもない。そうではなくて、魂や身体の受けている印象が、新鮮な魅力がなくなって、われわれの注意力や記憶力を喚起するほど十分強力ではなくなり、われわれの注意や記憶はもっと関心をよびおこす対象にだけ注がれるのである。あらゆる注意力は、いくらかの記憶を必要とし、われわれ自身の現前する諸表象のいくつかについて注意するようにと、いわば警告されないと、それらの表象を反省なしに、気づくことさえなく看過してしまうのである。けれども誰かが直ちにその表象について告げ知らせ、たとえば今聞いたばかりの音に注意を向けさせるならば、われわれはそれを思い起こし、まもなくそれについてある感覚をもっていたことに気づく。このようにそれらは、われわれがすぐには意識することのない表象であり、意識表象はこの場合、どんなに小さな間であろうと少しの間をおいた後に知らされて生じるのである。そして、密集していて区別できない微小表象をもっとよく識別するために私は、海岸で聞こえる海の轟やざわめきの例を用いることにしている。通常このざわめきを聞くには、全体のざわめきを構成している各部分、つまりひとつひとつの波のざわめきを聞いているにちがいない。これら微小なざわめきのひとつひとつは、すべてが同時に錯然と生起している集合のなかでしか知られないし、ざわめきをなしている波がたったひとつであるなら気づかれもしないであろうけれど。というのも、その波の運動によってわれわれは少しは作用を受けているはずであり、そうでなければ、十万の波の表象はもち得ないであろうから。ゼロが十万集まっても何ものもできないのである。微弱で錯然としたいかなる感覚ももたないほどに深く眠ることなど決してない。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』序文、ライプニッツ著作集4、pp.21-22、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1993])
(索引:意識されない無数の表象)

認識論『人間知性新論』 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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魂には、生得的な傾向、態勢、習慣、自然的潜在力があり、大理石の中の石理が現実的な彫像になるように、現実態となって現れる。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

大理石の中に石理の喩え

【魂には、生得的な傾向、態勢、習慣、自然的潜在力があり、大理石の中の石理が現実的な彫像になるように、現実態となって現れる。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
(再掲)
 魂についての、二つの考え方。私は(b)の立場をとる。なぜなら、数学者たちの言う「共通概念」や必然的真理など、何かしら神的で永遠なものの由来が、外的な感覚や経験のみであるとは思われないからである。
(a) まだ何も書かれていない書字板(tabula rasa)のように、まったく空白で、魂に記される一切のものは感覚と経験のみに由来する。
(b) 魂は、もともと多くの概念や知識の諸原理を有しており、外界の対象が機会に応じてのみ、それらを呼び起こす。
 魂の中の「諸原理」とは何かについての、補足説明である。
 傾向、態勢、習慣、自然的潜在力としてわれわれに生得的なのであって、現実態としてではない。喩えとして、大理石の中に石理(いしめ)を見出し、それが現われるのを妨げているものを削りとり、磨きをかけて仕上げる作業が必要である。こうして、潜在力は、それに対応する何らかの現実態となる。
 感覚に起源をもたない生得的な観念の例。存在、一性、実体、持続、変化、活動、表象、快楽、およびわれわれの知的観念の他の多くの対象。
 「おそらくこの優れた英国の著者は、私の考えから、全面的に離れているのではないだろう。なぜなら、彼はその第一部全部を生得的知性を斥けるのに費やしたが、それはある限定された意味においてであり、第二部の初めとその後で感覚に起源をもたない観念が反省に由来することを認めているからだ。反省とは、われわれの内にあるものへ注意を向けることにほかならず、感覚は、われわれがすでに内にもっているものをわれわれに与えたりはしない。そうだとすれば、われわれの精神のうちに多くの生得的なものがあることをどうして否定できようか。われわれはいわば自らにとって生得的であり、われわれの内には、存在、一性、実体、持続、変化、活動、表象、快楽、およびわれわれの知的観念の他の多くの対象があるのだから。しかも、これらの対象はわれわれの知性に直接に属し常に現前しているのだから(われわれの不注意や欲求のために、常に意識表象されるわけではないが)、これらの観念がそれに依存するすべてのものと共にわれわれの内に生得的であるといっても、驚くことはないだろう。それゆえ私は、まったく均質な大理石やあるいは何も書かれていない板つまり哲学者たちがタブラ・ラサとよぶものよりも、石理(いしめ)のある大理石の喩えを用いたのだった。なぜなら、もし魂がそうした何も書かれていない板に似ているならば、大理石のなかにあるのがヘラクレスの形かあるいは何か別の形像かをまったく決められないのに、この大理石のなかにあるのはヘラクレスの形像だ、というように真理がわれわれの内にあることになろう。けれども、石理が他の形像よりもヘラクレスの形像を刻むのに適しているのであれば、この石は他の像よりヘラクレスの像を刻むように向いているのであり、ある意味でそこではヘラクレスが生得的ということになろう。ただし、石理を見出し、それが現われるのを妨げているものを削りとり、磨きをかけて仕上げる作業が必要ではある。観念や真理はこのように、傾向、態勢、習慣、自然的潜在力としてわれわれに生得的なのであって、現実態としてではない。これらの潜在力は、それに対応する何らかの現実態を常に伴っているが、たいていは感覚できないのである。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』序文、ライプニッツ著作集4、pp.18-19、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1993])
(索引:大理石の中に石理の喩え)

認識論『人間知性新論』 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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生きているこの今という瞬間だけが存在し、君には、唯一これだけが与えられている。君は、いかにそれを大切にし、いつくしまなければならないことか。(マルクス・アウレーリウス(121-180))

生きているこの瞬間

【生きているこの今という瞬間だけが存在し、君には、唯一これだけが与えられている。君は、いかにそれを大切にし、いつくしまなければならないことか。(マルクス・アウレーリウス(121-180))】
 生きているこの今という瞬間を、よくよく考えてみること。君は、いかにそれを大切にし、いつくしまなければならないことか分かるだろう。
(a) 誰であっても、現在生きているこの瞬間、この現在以外の何物をも与えられていない。たとえ君が三千年生きるとしても、いや三万年生きるとしても、現在生きている生涯以外の何物をも失うことはない。
(b) 誰であっても、この今生きている生涯以外の、他のどんな何物をも生きることはない。
(c) この今という瞬間に存在の真実があり、何ものも隠されてはいない。万物は永遠の昔から同じ形をなし、今ここにこうして存在している。したがって、君がこれを百年見ていようと、二百年見ていようと、無限にわたって見ていようと、何の違いもない。
 「たとえ君が三千年生きるとしても、いや三万年生きるとしても、記憶すべきはなんぴとも現在生きている生涯以外の何物をも失うことはないということ、またなんぴとも今失おうとしている生涯以外の何物をも生きることはない、ということである。したがって、もっとも長い一生ももっとも短い一生と同じことになる。なぜなら現在は万人にとって同じものであり、〔したがって我々の失うものも同じである。〕ゆえに失われる時は瞬時にすぎぬように見える。なんぴとも過去や未来を失うことはできない。自分の持っていないものを、どうして奪われることがありえようか。であるから次の二つのことをおぼえていなくてはならない。第一に、万物は永遠の昔から同じ形をなし、同じ周期を反復している、したがってこれを百年見ていようと、二百年見ていようと、無限にわたって見ていようと、なんのちがいもないということ。第二に、もっとも長命のものも、もっとも早死するものも、失うものは同じであるということ。なぜならば人が失いうるものは現在だけなのである。というのは彼が持っているのはこれのみであり、なんぴとも自分の持っていないものを失うことはできないからである。」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第二巻、一四、pp.31-32、[神谷美恵子・2007])
(索引:生きているこの瞬間、現在、過去、未来)

自省録 (岩波文庫)



(出典:wikipedia
マルクス・アウレーリウス(121-180)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている、その周囲に水のうねりはしずかにやすらう。『なんて私は運が悪いんだろう、こんな目にあうとは!』否、その反対だ、むしろ『なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても、私はなお悲しみもせず、現在におしつぶされもせず、未来を恐れもしていない』である。なぜなら同じようなことは万人に起りうるが、それでもなお悲しまずに誰でもいられるわけではない。それならなぜあのことが不運で、このことが幸運なのであろうか。いずれにしても人間の本性の失敗でないものを人間の不幸と君は呼ぶのか。そして君は人間の本性の意志に反することでないことを人間の本性の失敗であると思うのか。いやその意志というのは君も学んだはずだ。君に起ったことが君の正しくあるのを妨げるだろうか。またひろやかな心を持ち、自制心を持ち、賢く、考え深く、率直であり、謙虚であり、自由であること、その他同様のことを妨げるか。これらの徳が備わると人間の本性は自己の分を全うすることができるのだ。今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな。曰く『これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。』」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第四巻、四九、p.69、[神谷美恵子・2007])
(索引:波の絶えず砕ける岩頭の喩え)

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