法解釈への道徳的原則の影響
【半影的問題における司法的決定を導く法以外の「べき」観点の一つは、道徳的原則と考えられる。なぜなら、法解釈がそれらの原則と矛盾しないと前提され、また制定法か否かにかかわらず同じ原則が存在するからである。(ハーバート・ハート(1907-1992))】(1.3)を書き換えた。
(1)何らかの「べき」観点の必要性
半影的問題における司法的決定が合理的であるためには、何らかの観点による「在るべきもの」が、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられるかもしれない。
(1.1)在る法と「在るべき」ものとの区別
在る法と、様々な観点からの「在るべき」ものとの間に、区別がなければならない。
(1.2)批判の基準の存在
「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映している。
たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。その体系のルールの中核は、難解な事案における司法的決定が合理的であるかどうかの基準を提供できる程度に、十分確定している。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)この基準は、司法的決定がそれを逸脱すれば、もはや合理的とは言えなくなるような限界があることを示している。
(b)司法的決定が合理的であるかどうかの限界を定めるルールは、「在る法」として保証されていなくとも、また逸脱や拒否の可能性が常にあるとしても、存在するかどうかは、事実問題として決定できる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(i)ルールは、「在る法」として保証されていなくとも、ルールとして存在し得る。
(ii)ルールから逸脱する可能性が常にあるからといって、ルールが存在しないとは言えない。何故なら、いかなるルールも、違反や拒否がなされ得る。人間は、あらゆる約束を破ることができるということは、論理的に可能なことであり、自然法則と人間が作ったルールの違いである。
(iii)そのルールは、一般的には従われており、逸脱したり拒否したりするのは稀である。
(iv)そのルールからの逸脱や拒否が生じたとき、圧倒的な多数により厳しい批判の対象として、しかも悪として扱われる。
(c)すなわち裁判官は、たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。そして、その体系のルールの中核は、合理的な判決の基準を提供できる程度に、十分確定しているのである。
(1.3)基準は、どのようなものか
(a)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。従って、実質的な内容を伴うと思われる。
(b)目標や、社会的な政策や目的が含まれるかもしれないが、これは恐らく違うだろう。
(c)基準は、道徳とは異なると考えたこともあるが、「道徳的」と呼んで差し支えないようなものである。理由は、以下の通りである。
(i)開かれた構造を持つ法を解釈する際、ルールの目的は合理的なものであり、そのルールが不正な働きをしたり、確定した道徳的原則に反するはずがないという前提に基づいて行なわれる。
(ii)法に従わないときも、法に従うときとほとんど同様、同じ原理が尊重されてきた。
(d)高度に憲法的な意味をもつ事項に関する司法的決定は、しばしば道徳的価値の間の選択を伴うのであり、単に一つの卓越した道徳的原則を適用しているわけではない。
(e)立法的と呼ぶのに躊躇を感じるような司法的活動は、次のような特徴を持つ。
(i)選択肢を考慮するさいの不偏性と中立性
(ii)影響されるであろうすべての者の利益の考慮
(iii)決定の合理的な基礎として何らかの受けいれうる一般的な原則を展開しようとする関心
「(iii)解釈 法は、具体的なケースに適用しようとすれば解釈されなければならない。そして司法過程の性質を曖昧にしている神話が、リアリスティックな研究によって追い払われてからは、第7章で示したように、法の開かれた構造のために、立法的とも言われる創造的活動をする広大な余地が残されているということは明らかである。制定法または先例のどちらを解釈する場合にも、裁判官は、無分別の恣意的な選択をするか、あらかじめ決められた意味をもつルールからの「機械的な」演繹をするかの二者択一だけを行なうわけではない。彼らの選択は、よくあることだが、ある前提、つまり彼らが解釈しているルールの目的は合理的なものなので、そのルールが不正な働きをしたり確定した道徳的原則に反するはずがないという前提にもとづいて行なわれる。司法的決定、とくに、高度に憲法的な意味をもつ事項に関する司法的決定は、しばしば道徳的価値の間の選択を伴うのであり、単に一つの卓越した道徳的原則を適用しているわけではない。というのは、法の意味に疑問がある場合、道徳が常に一つの明確な答えを出すと考えることは馬鹿げているからである。ここでもまた裁判官は、恣意的でも機械的でもない選択を行なうであろう。そしてこの点において、しばしば司法に特徴的な長所が発揮されるのであって、それが法的決定に特に適しているため、そのような司法的活動を立法的と呼ぶのに躊躇を感じる者もいるのである。その長所とは、選択肢を考慮するさいの不偏性と中立性、影響されるであろうすべての者の利益の考慮であり、また、決定の合理的な基礎として何らかの受けいれうる一般的な原則を展開しようとする関心である。明らかにそのような原則はいつも複数あるので、ある決定だけが正しいと論証することはできない。しかしそれは、広い知識にもとづいた偏らない選択の所産であるから、合理的なものとして受けいれることも可能であろう。このようにしてわれわれは、あい争う利益を正しく扱うための努力に特徴的な「秤重」および「衡量」をもつことになるのである。
決定を容認できるものとするさい、「道徳的」と呼んでもさしつかえないようなこれらの要素が重要であることを否定する者は、ほとんどいないであろう。そして、たいていの体系において解釈の支えとなっている、ゆるやかで変わりやすい伝統と標準のなかには、しばしばこれらの要素が、漠然とした形で含まれている。しかしこれらの事実を、法と道徳とが《必然的》に関連する証拠として提出する場合、法に従わないときも従うときとほとんど同様、同じ原理が尊重されてきたということを思い起こす必要がある。というのは、オースティンから現在にいたるまで、司法的な法創造が社会的価値にしばしば目を向けず、「自動的」で、また十分に推論されていないことを批判した人のなかから、主としてそのような要素こそ決定を導く《べきである》と思い出させる人々があらわれているからである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第3節 法的妥当性と道徳的価値,pp.222-223,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:法解釈と道徳的原則,法解釈,道徳的原則)
(出典:wikipedia)
「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)
ハーバート・ハート(1907-1992)
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