連続した意識の流れ
【内発的な意識過程には、発生時刻への主観的な遡及を可能にする脳活動がないのに、遅延のない連続的でなめらかな流れが意識される。これは、異なる複数の現象がオーバーラップして実現していると思われる。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】(e)継続した意識の流れは、どのように生じているのか。
(i)意識的な感覚の、時間的に逆行する主観的な遡及
意識的な感覚は、刺激を受けた時刻より約0.5秒遅れて発生するが、意識の内容は、刺激の発生時刻を指し示す。もしこれが、初期EP反応だけで実現されていたとしても、「適切な脳機能の創発特性」として十分あり得ることだ。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))
(ii)自発的な行為への意識を伴う意図
自発的な行為への意識を伴う意図が、内発的に立ち現れる場合、その体験の主観的なタイミングは、自発的な行為を導き出す脳活動の始動後400ミリ秒間かそれ以上、事実上遅延することが、実験によって示されている。
(iii)内発的な意識過程には、遅延が発生すると思われるが、実際は違う
遡及に必要な初期EP反応がない内発的な過程においては、500ミリ秒間の神経活動によって初めて、意識事象が始まるとしたら、一連の意識事象は継続した流れとしては現れず、非連続的なものになると思われる。ところが、私たちの意識を伴う日常生活の中で、断続性は感じられない。
(iv)仮説:非連続的である異なる精神現象がオーバーラップしている。
私たちの一連の思考のスムーズな流れという主観的な感情は、異なる精神現象がオーバーラップしているということで、説明できると思われる。内在している事象が非連続的であるにもかかわらず、全体としてなめらかで連続性のある産物を生み出している。
「(7) 継続した意識の流れについて人々がよく知っている概念というのは、意識的なアウェアネスのタイム-オン(持続時間)の必要条件と矛盾しています。意識の流れについての概念は、偉大な心理学者であるウィリアム・ジェームズが、彼自身が意識を伴う思念について直感的に理解したことに基づいて提唱したものです。多くの心理学者や、フィクション作家たちが、被験者または登場人物の精神活動の真の特質に、意識の流れについての考え方を取り入れてきました。しかし、《意識を伴う思考プロセスには非連続的な独立した事象》が含まれていなければならないことを、私たちの証拠は示しています。もし、必要条件である500ミリ秒間の神経活動によって引き起こされる大幅な遅延の後に初めてそれぞれの意識事象が始まるとしたら、一連の意識事象は継続した流れとしては現れません。それぞれの意識事象においてのアウェアネスは、最初の500ミリ秒付近には存在しないのです。
一連の意識事象の非連続性には、直感に反した特徴があります。それは人々が経験しているものとは異なります。私たちの意識を伴う日常生活の中で、断続性は感じられません。感覚経験の場合、私たちの連続性の感覚は、次のように説明できます。すなわち、それぞれの経験が、感覚刺激から10~20ミリ秒以内の速さで誘発された感覚皮質の反応へと時間的には逆向きに、そして自動的かつ主観的に遡及される、ということです。主観的には、感覚事象に対するアウェアネスの中で、感知できるほどの遅延を人はまったく知覚していません。私たちの実験では、刺激に気づき始めることが可能になる時点よりも500ミリ秒も前に、人は感覚刺激に気づいていたと思っていることが示されています。この矛盾は事実に基づいて理解できるようになりました。したがってもはや、理論上の推測などではありません。この現象を私たちは「意識を伴う感覚的なアウェアネスについての、時間的に逆行する主観的な遡及」と名づけました。
しかし、この特性は、行為への意識を伴う意図や、思考事象を含めたすべての種類の意識経験にも一般的に適用できるわけではありません。私たち(リベット他(1979年))は、感覚経験だけを考えて、主観的な遡及(時間的な前戻し)を提案しました。その場合においてさえ、感覚入力によって早いタイミングの信号である初期誘発電位反応が感覚皮質から引き出されたときにだけ、前戻しが起こります。自発的な行為への意識を伴う意図が、内発的に立ち現れる場合、その体験の主観的なタイミングは、自発的な行為を導き出す脳活動の始動後400ミリ秒間かそれ以上、事実上遅延することを私たちは実験によって示してきました(第4章)。外部から後押しする手がかりがない場合の意識を伴う行為を促す意図は、脳内で生じる(つまり、内発的である)意識経験の一例です。ここには、元来内発的ではない感覚システムの刺激への反応がないため、初期誘発電位反応は存在しません。
私たちの一連の思考のスムーズな流れという主観的な感情は、異なる精神現象が《オーバーラップ》しているということで、おそらく説明がつくでしょう。脳は、ほとんど同時に複数の意識事象を、時間的にオーバーラップさせて起こすことができるようです。内在している事象が非連続的であるにもかかわらず、全体としてなめらかで連続性のある産物をどのように生み出しているかを理解するために、筋肉の動きの生理機能を考えてみましょう。上腕二頭筋のような骨格筋は、それぞれが多数の筋肉細胞や繊維を含む多くの運動ユニットから成り立っています。肘を屈曲させるように、二頭筋をなめらかに収縮すると、どの単独の運動ユニットの動きにおいても1秒間につきおよそ10回という比較的低い割合で「収縮活動している」ことが電気記録で見られるでしょう。個々の運動反応についての直接研究によると、1秒間につき10回の筋収縮は、なめらかに維持している収縮とは違って、小刻みに変化し、波状に動きます。このように、二頭筋の全体としてはなめらかな運動ユニットと活性化する神経細胞の発火活動に《ずれ》が生じた結果として説明がつきます。さまざまな個々の運動ユニットにおける波状の収縮は、こうして時間的にオーバーラップします。」(後略)
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第3章 無意識的/意識的な精神機能,岩波書店(2005),pp.131-134,下條信輔(訳))
(索引:)
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(出典:wikipedia)
私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)
ベンジャミン・リベット(1916-2007)
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「私は国家の役割について考えている。ニナが福祉国家の恩恵を受けて最後まで尊厳をもって過ごせたように、国家というのは一人の尊厳を守ることのできる力をもつ。それと同時に、今回の難民危機に見るように多くの人の命を奪うことができる力ももっている。

「批判的思考の課題は「過去を保存することではなく、過去の希望を救済することである」というアドルノの教えは、その今日的な問題性をいささかなりとも失ってはいない。しかしまさしくその教えが今日的な問題性を持つのが急激に変化した状況においてであるがゆえに、批判的思考は、その課題を遂行するために、絶え間ない再考を必要とするものとなる。その再考の検討課題として、二つの主題が最高位に置かれなければならない。
「実のところ、正面切っていう社会学者はいないが、しかしすべての社会学の理論が、人間は生来的に(すなわち生物学的という意味で)《社会的》であるとする暗黙の前提に基づいている。事実、草創期の社会学者を大いに悩ませた難問――疎外、利己主義、共同体の喪失のような病理状態をめぐる問題――は、人間が集団構造への組み込みを強く求める欲求によって動かされている、高度に社会的な被造物であるとする仮定に準拠してきた。パーソンズ後の時代における社会学者たちの、不平等、権力、強制などへの関心にもかかわらず、現代の理論も強い社会性の前提を頑なに保持している。もちろんこの社会性については、さまざまに概念化される。たとえば存在論的安全と信頼(Giddens,1984)、出会いにおける肯定的な感情エネルギー(Collins,1984,1988)、アイデンティティを維持すること(Stryker,1980)、役割への自己係留(R. Turner,1978)、コミュニケーション的行為(Habermas,1984)、たとえ幻想であれ、存在感を保持すること(Garfinkel,1967)、モノでないものの交換に付随しているもの(Homans,1961;Blau,1964)、社会結合を維持すること(Scheff,1990)、等々に対する欲求だとされている。」(中略)「しかしわれわれの分析から帰結する一つの結論は、巨大化した脳をもつヒト上科の一員であるわれわれは、われわれの遠いイトコである猿と比べた場合にとくに、生まれつき少々個体主義的であり、自由に空間移動をし、また階統制と厳格な集団構造に抵抗しがちであるということだ。集団の組織化に向けた選択圧は、ヒト科――アウストラロピテクス、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトゥス、そしてホモ・サビエンス――が広く開けた生態系に適応したとき明らかに強まったが、しかしこのとき、これらのヒト科は類人猿の生物学的特徴を携えていた。」





