2019年4月3日水曜日

01.人は、多くの種類の苦しみに見舞われやすい傷つきやすい存在であり、他者たちの保護と支援に依存しているので、生き続けることができ開花し得る。この事実の理解は、真の道徳哲学の要件の一つである。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

人間の傷つきやすさと他者への依存性

【人は、多くの種類の苦しみに見舞われやすい傷つきやすい存在であり、他者たちの保護と支援に依存しているので、生き続けることができ開花し得る。この事実の理解は、真の道徳哲学の要件の一つである。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(1)人間に関する一つの重要な事実
 (a)傷つきやすさ
  人は、多くの種類の苦しみに見舞われやすい存在である。
  (a.1)幼年時代の初期
  (a.2)病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクト
  (a.3)一生の間、障碍を負い続ける場合
  (a.4)老年期
 (b)他者への依存性
  人は、他者に依存して生きる存在である。私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちの保護と支援を受けるからである。
(2)道徳哲学への影響
 (2.1)しばしば考えられてきた道徳哲学
  病気やけがを負った者、障碍者、幼児、老年者は、健康で理性的な道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。道徳の問題は、私たちと「彼ら」の問題である。
 (2.2)事実に基づく真の道徳哲学の要件
  病気やけがを負った者、障碍者、幼児、老年者は、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身であり、道徳の問題は私たち自身の問題である。

 「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ affliction[受苦]に見舞われやすい vulnerable[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花 flourishing しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。
 これら二つの関連する事実、すなわち、私たちの〈傷つきやすさ〉と受苦に関する事実と、私たちがいかに特定の他者たちに依存しているかに関する事実が特別な重要性を帯びていることはあまりに明白なので、人の〔生の〕条件に関するどんな説明も、その説明を与えようとする者が信用を得たいと望むかぎり、それらの事実に中心的な位置を与えることは避けられないように思われる。とはいえ、西洋の道徳哲学の歴史は、そうではないことを示唆している。プラトンからムーアにいたるまで、さらにはそれ以後も、いくつかのまれなケースを除いて、たいていの場合、ヒトの〈傷つきやすさ〉と受苦については、また、その両者のつながりと私たちの他者への依存については、ほんのついでにしか言及されていない。人の〔力の〕限界と、そこから帰結する他者との協力の必要性に関するいくつかの事実は、より一般的なしかたでは承認されている。しかし、たいていの場合、そいうした諸事実を承認するのは、たんにその後それらを脇に置くためにすぎない。そして、道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍 disability について考える場合、「障碍者 the disabled 〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:人間の傷つきやすさ,他者への依存性,道徳哲学)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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依存的な理性的動物叢書・ウニベルシタス法政大学出版局

2019年4月2日火曜日

08.発話という行為の構造:(A)発語行為(音声行為、用語行為、意味行為)、(B)発語内行為、(C・a)発語内行為と間接的に関連する発語媒介行為、(C・b)発語内行為とは関係のない発語媒介行為。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

発話という行為の構造

【発話という行為の構造:(A)発語行為(音声行為、用語行為、意味行為)、(B)発語内行為、(C・a)発語内行為と間接的に関連する発語媒介行為、(C・b)発語内行為とは関係のない発語媒介行為。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(1)行為(A)発語行為
 (1.1) 「何かを言う」とは、(a)物理的な音声を発する音声行為、(b)ある構文に従い単語を発する用語行為、(c)連続する複数の単語を使用し、ある言及対象と一定の意味を発する意味行為の、3つの側面から理解できる。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

(2)行為(B)発語内行為
 (2.1) 適当な状況のもとにおいて、ある発言が、当の行為を実際に行なうことに他ならないような発言が存在する。妻と認めますか?「認めます」、「……と命名する」、「……を遺産として与える」、「……を賭ける」(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
 (2.2)(A1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在、(A2)発言者、状況の手続的適合性、(B1)手続きの適正な実行、(B2)完全な実行、(Γ1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性、(Γ2)参与者の行為の適合性。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

(3)行為(C・a)発語内行為と間接的に関連する発語媒介行為
 (3.1)何かを言うことは、通常の場合、聴き手、話し手、またはそれ以外の人物の感情、思考、行為に対して、結果としての何らかの効果を生ずることがある。
 (3.2)上記のような効果を生ぜしめるという計画、意図、目的を伴って、発言を行うことも可能である。
(4)行為(C・b)発語内行為とは関係のない発語媒介行為

 「発語内行為というこの概念をさらに研磨する作業に取りかかるのに先立って、発語行為、《および》発語内行為の両者を、さらに第三番目の種類に属する行為と比較してみることにしよう。
 すなわち、発語行為を遂行し、それに伴って発語内行為を遂行するということがさらに、いま一つ別種の意味の行為を遂行することであるというような言葉の使用の第三の意味(C)が存在する。何かを言うことは、多くの場合というよりは、むしろ通常の場合、聴き手、話し手、またはそれ以外の人物の感情、思考、行為に対して結果としての効果を生ずることがある。さらに、その効果を生ぜしめるという計画(design)、意図(intention)、目的(purpose)を伴って発言を行うことも可能である。したがって、以上の点に留意するならば、話し手は目下の分類法における発語行為、もしくは発語内行為の遂行に対して、(C・a)間接的に(obliquely)のみ関連する、あるいは、(C・b)全然関連を持たないような、ある行為を遂行したのだと言うことができるであろう。この種の行為の遂行を《発語媒介的行為》(perlocutionary act, perlocution)の遂行と呼ぶ。しかし、当面はさしあたりこの概念について、これ以上の細心な定義を与えることは控え――もちろん、必要なことではあるが――単に例を掲げるにとどめておこう。
(例1)
 行為(A)発語行為
  彼は私に「彼女を射て」で射つことを意味し(mean)、「彼女」で彼女に言及していた。
 行為(B)発語内行為
  彼は私に、彼女を射つように促した。(あるいは助言した。命令した等々)
 行為(C・a)すなわち、発語媒介行為
  彼は私に対して、彼女を射つことを説得した。
 行為(C・b)
  彼は私に彼女を射たせた。
(例2)
 行為(A)発語行為
  彼は私に「君はそれをすることができない。」(You can't do that.)と言った。
 行為(B)発語内行為
  彼は、私がそれを行うことに抗議した。
 行為(C・a)発語媒介行為
  彼は私を制止した(pull up, check)。
 行為(C・b)
  彼は私を制止した。彼は私を正気に戻した等々。
  彼は私を悩ませた。
 さらに同様に、次のように区別することができるだろう。すなわち、「彼は………と言った」は発語行為であり、「彼は………と論じた」は発語内行為であり、また、「彼は、私に………と納得させた」は発語媒介行為である。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第8講 言語行為の一般理論Ⅱ,pp.174-176,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:発語行為,発語内行為,発語媒介行為)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
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26.主権的立法権の本質は、最高の承認のルールの存在である。最高の概念を、無制限と取り違えてはならず、無制限な主権的立法権の存在を前提とする理論は、誤りである。(ハーバート・ハート(1907-1992))

主権的立法権の存在と最高の承認のルール

【主権的立法権の本質は、最高の承認のルールの存在である。最高の概念を、無制限と取り違えてはならず、無制限な主権的立法権の存在を前提とする理論は、誤りである。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

最高の承認のルールとは何か。
(1)法的妥当性の基準、法源が「最高」であるとは、
 (a)ある承認のルール:最高の承認のルール、究極のルール
 (b)別の承認のルール
 (a)の基準に照らして確認されたルールが、他の諸基準(b)に照らして確認されたルールと衝突するとしても、依然その体系のルールとして承認される。逆に、(a)以外の諸基準に照らして確認されたルールは、(a)の基準に照らして確認されたルールと衝突すれば、承認されない。
(2)「最高」と「無制限」は混同されやすいが、別の概念である。
 (2.1)憲法の条項のなかに、法の妥当性に関する最高の基準を含んでいても、その最高性が直ちに無制限な立法権を意味するものではない。
 (2.2)憲法が、法の妥当性に関する最高の基準を含んでいても、特定の条項を改正権の範囲外におくことによって、明示的に、立法権限を制限している場合もある。
 (2.3)従って、「すべての法体系は、法的に無制限な主権的立法権の存在を前提としている」という理論は、誤りである。

 「体系の他のルールの妥当性の評価基準を与えている承認のルールはわれわれが明らかにしようと試みる重要な意味をもっており、《究極の》ルール the ultimate rule である。

そして普通見られるように、いくつかの基準が相対的な従属と優越という順序に位置づけられているところではそのうちの一つが《最高》supreme なのである。承認のルールの究極性とその基準のうちの一つがもつ最高性というこれらの観念は注目に値する。

われわれが拒否した理論から、つまりすべての法体系のどこかに、たとえそれが法的形式の背後にあっても、法的に無制限な主権的立法権が存在しなければならないという理論から、これらの観念を解き放すことは重要である。

 最高の基準と究極のルールというこれら二つの観念のうち、第一のものは非常に容易に定義できるものである。

法的妥当性の基準あるいは法源が最高であると言ってよいのは、その基準に照らして確認されたルールが、たとえその他の諸基準に照らして確認されたルールと衝突するとしても、依然その体系のルールとして承認されるのであるが、それにひきかえ他の諸基準に照らして確認されたルールは最高の基準に照らして確認されたルールと衝突すればそのようには承認されないという場合である。

比較の観点から、われわれがすでに用いた「優越的」基準や「従属的」基準という概念について、同じような説明をすることができる。

優越的基準や最高の基準という観念は単に尺度上の《相対的》位置に関係しているだけで、法的に《無制限》な立法権というどんな観念をも意味していないことは明らかである。

しかし、「最高」と「無制限」ということは少なくとも法理論上では容易に混同されるものである。その一つの理由は、より単純な形態の法体系において究極の承認のルール、最高の基準、法的に無制限な立法府という諸観念が一致してくるように思えることである。 

というのは、立法府が何ら憲法的制限に服さず、みずからの制定法によって自己以外の源から生じるその他の法のルールすべてから法としての地位を取り去る権限をもっているところでは、その立法府の制定法は妥当性の最高の基準であるということが、その体系の承認のルールの一部になっているからである。

憲法理論によれば、これがイギリスにおける立場なのである。

しかし立法府がそのように無制限ではないアメリカ合衆国の体系のような諸体系においてさえ、妥当性に関して一つの最高の基準を含む一組の諸基準を与える究極の承認のルールが完全にとりこまれているだろう。

改正権を規定していないかあるいはいくつかの条項を改正権の範囲外におく憲法によって通常の立法府の立法権限が制限されているところでも、そのとおりの状況であろう。

「立法」という言葉をもっとも広く解釈したとしても、ここでは法的に無制限な立法府は存在していないのであるが、その体系はもちろん究極の承認のルールを含んでいるし、憲法の条項のなかに妥当性に関する最高の基準を含んでいるのである。」

(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第6章 法体系の基礎,第1節 承認のルールと法の妥当性,pp.115-116,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),松浦好治(訳))

(索引:主権的立法権の存在,最高の承認のルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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4.(a)行為の望ましさは、外面的利害だけでなく、感情や意志の陶冶にもかかわる、(b)理性に基づく道徳的判断を推進する諸動機は、快・不快と利害に関する欲求だけでなく、自らの精神のあり方を対象とする諸感情を含む。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

ベンサム道徳論の限界を超える

【(a)行為の望ましさは、外面的利害だけでなく、感情や意志の陶冶にもかかわる、(b)理性に基づく道徳的判断を推進する諸動機は、快・不快と利害に関する欲求だけでなく、自らの精神のあり方を対象とする諸感情を含む。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(b.3)、(b.4)追記。
(2.5.1)~(2.5.3)追記。
(3.2.1)、(3.2.2)追記。


(1)人間が持つ欲求、感情、傾向性
 (a)有害なものを避け、幸福を願う欲求
 (b)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情
  (b.1)完全性への欲求:あらゆる理想的目的をそれ自体として追求すること
  (b.2)あらゆる事物における秩序、適合、調和や、それらが目的にかなっていることへの愛
  (b.3)共感
  (b.4)一般的博愛:義務の感情や個人的利害からではなく、誰でもが抱く博愛の感情
  (b.5)愛することへの愛:同情的な支持を必要とすること。
    また賞賛、崇敬する対象を必要とすること。
  (b.6)良心の感情:是認したり非難したりする感情
  (b.7)個人の尊厳:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる高揚の感情
  (b.8)廉恥心:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる堕落の感情
  (b.9)芸術家の情熱である美への愛
  (b.10)私たちの意思を実現させる力への愛
  (b.11)運動や活動、行為への愛
(2)ベンサムの考え
 (2.1)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)は、それ自体として望ましい唯一のものである。
 (2.2)上記の目的を実現するものが、望ましい、正しいものである。
 (2.3)これらは、人類だけでなく、感覚を持つあらゆる存在についても当てはまる。
 (2.4)社会は、個々の利益や快をそれぞれに追求している個々人からなっている。
  (2.4.1)社会は、以下の3つの強制力によって、人々がやむをえない程度を超えて互いに争いあうことが防止されている。
   (i)民衆的強制力(道徳的強制力)
    同胞の好意や反感から生じてくる苦と快を通じて作用する。
   (ii)政治的強制力
    法律の与える賞罰によって作用する。
   (iii)宗教的強制力
    宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する。
 (2.5)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)は、それ自体としては善でも悪でもなく、それらが有害な行為を引き起こす限りにおいて、道徳論者や立法者の関心の対象となる。
  (i)共感は、有徳な行為を保証するものとしては不十分なものである。
  (ii)個人的愛情は、第三者に危害をもたらしがちであり、抑制される必要がある。
  (iii)博愛は大切な感情であるが、あらゆる感情のなかで最も弱く、不安定なものである。
 (2.6)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)に対して、人があるものに対して快や不快を感じるべきだとか、感じるべきでないとか言ったりすることは、他人が侵害できない個々人独自の感性に対する不当で専制的な干渉である。
(3)ミルの考え
 (3.1) 義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.2)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)だけでなく、その他の欲求や感情(b)も、何が望ましいのかに関する理性による判断の要素ともなり得るし、経験や理論に基づく理性による判断を推進させている人間の諸動機の一つともなっている。
  (3.2.1)何が望ましいのかに関する理性による判断:道徳は2つの部分から構成されている。
   (i)人間の外面的な行為の規制に関するもの。
    ある行為が、私たち自身や他の人々の世俗的利益に対してどのような影響を及ぼすか。
   (ii)自己教育:人間が自分で自分の感情や意志を鍛練すること。
    ある行為が、私たち自身や他の人々の感情や欲求に対してどのような影響を及ぼすか。
  (3.2.2)経験や理論に基づく理性による判断を推進させている人間の諸動機。
   (i)自己涵養への願望のようなもの。
   (ii)自らの精神のあり方を直接の対象とするあらゆる精神的感情。
   (再掲)
    (b.1)完全性への欲求:あらゆる理想的目的をそれ自体として追求すること
    (b.2)あらゆる事物における秩序、適合、調和や、それらが目的にかなっていることへの愛
    (b.7)個人の尊厳:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる高揚の感情
    (b.8)廉恥心:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる堕落の感情
    (b.10)私たちの意思を実現させる力への愛
    (b.11)運動や活動、行為への愛

 「共感はベンサムが私欲によらない動機として認めていた唯一のものであるが、それはある限定的な場合を除けば有徳な行為を保証するものとしては不十分なものであると彼は思っていた。

他のあらゆる感情と同じように、個人的愛情は第三者に危害をもたらしがちであり、したがってつねに抑制される必要があるということを彼はよく理解していた。

人類全体に作用する動機と考えられている一般的博愛については、それが義務の感情と切り離されたときに現われる本当の価値を評価し、あらゆる感情のなかでもっとも弱くもっとも不安定なものとした。

人類が影響を受け、彼らを善に導くかもしれない一つの動機として、個人的利益だけが残された。したがって、ベンサムの世界観は、個々の利益や快をそれぞれに追求している個々人からなっている集合体というものであり、人々がやむをえない程度を超えて互いに争いあうことは3つの源泉――法律、宗教および世論――から生じる希望と恐怖によって防止されなければならないというものである。

人間の行為を拘束するものとみなされたこれらの3つの力に対して、彼は《強制力》(sanction)という名称を与えた。すなわち、法律の与える賞罰によって作用する政治的強制力、宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する宗教的強制力、彼が特徴的に《道徳的》強制力とも呼んでいる、私たちの同胞の好意や反感から生じてくる苦と快を通じて作用する《民衆的》強制力である。


 このようなものが世界についてのベンサムの見解である。これから私たちは、弁明しようという精神でも非難しようという精神でもなく、冷静に評価しようという精神をもって、人間本性や人間の生についてのこのような見方がどの程度まで通用するのか――すなわち、それは道徳においてどれほどのことを成し遂げるのか、また、政治・社会哲学においてどれほどのことを成し遂げるのか、さらに、個人にとってどのように役に立ち、社会にとってどのように役に立つのか――を検討することになる。

 これは個人の行為については、世俗的な慎慮と表面的な誠実さや慈愛についてもっとも明白な指示をいくつか示すこと以上には何の役にも立たないだろう。

個人の性格形成に際して助けになろうとしないような、また自己涵養への願望のようなもの、さらにはそのような能力と言ってもよいだろうが、そのようなものが人間本性に存在していることを認識しないような倫理学体系のもつ欠陥については詳述する必要はない。

そして、仮に認識していたとしても、自らの精神のあり方を直接の対象とするあらゆる精神的感情を含めた、人間が抱きうる精神的感情の約半数の存在を見落としているために、人間のこの重要な義務にとってほとんど助力を与えることができていないようなものについても同様である。

 道徳は2つの部分から構成されている。そのひとつは自己教育、すなわち人間が自分で自分の感情や意志を鍛練することである。この領域はベンサムの体系においては空白である。

もうひとつの同等の部分は、人間の外面的な行為の規制に関するものであるが、第一のものがなければ、まったく不十分で不完全なものであるに違いない。

というのも、ある行為が私たち、あるいは他の人々の感情や欲求を規定する際にどのような影響を及ぼすかということを問題の一部として考慮しないとしたら、ある行為が私たち自身、あるいは他の人々の世俗的利益に対してどのような仕方で多くの影響を与えるかを、私たちはどのようにして判断できるだろうか。

ベンサムの原理に立脚している道徳論者も、殺すなかれ、放火するなかれ、盗むなかれという程度のことには到達できるだろう。

しかし、人間の行為のより微妙な違いを規定したり、この世界の状況に影響を及ぼすこととはまったく別に、性格の深みに影響するような人間の生についての事実――たとえば、男女間の関係、家族一般の関係、その他の何らかの親密な社会的・共感的関係など――に対して、より重要な道徳性を認める能力があるだろうか。

これらの問題の道徳性は、ベンサムがその適格な判定者でもなく、彼が決して考慮することのなかったような事柄を考察することに左右されるのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.130-132,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:道徳論,自らの精神のあり方を対象とする諸感情)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年3月31日日曜日

3.有害なものを避け幸福を願う欲求だけでなく、他の諸欲求や感情も道徳論にかかわっている:完全性への欲求、秩序と調和への愛、良心の感情、愛することへの愛、個人の尊厳の感情、廉恥心など。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

道徳と人間の諸欲求、諸感情

【有害なものを避け幸福を願う欲求だけでなく、他の諸欲求や感情も道徳論にかかわっている:完全性への欲求、秩序と調和への愛、良心の感情、愛することへの愛、個人の尊厳の感情、廉恥心など。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)人間が持つ欲求、感情、傾向性
 (a)有害なものを避け、幸福を願う欲求
 (b)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情
  (b.1)完全性への欲求:あらゆる理想的目的をそれ自体として追求すること
  (b.2)あらゆる事物における秩序、適合、調和や、それらが目的にかなっていることへの愛
  (b.3)良心の感情:是認したり非難したりする感情
  (b.4)愛することへの愛:同情的な支持を必要とすること、また賞賛、崇敬する対象を必要とすること
  (b.5)個人の尊厳:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる高揚の感情
  (b.6)廉恥心:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる堕落の感情
  (b.7)芸術家の情熱である美への愛
  (b.8)私たちの意思を実現させる力への愛
  (b.9)運動や活動、行為への愛
(2)ベンサムの考え
 (2.1)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)は、それ自体として望ましい唯一のものである。
 (2.2)上記の目的を実現するものが、望ましい、正しいものである。
 (2.3)これらは、人類だけでなく、感覚を持つあらゆる存在についても当てはまる。
 (2.4)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)は、それ自体としては善でも悪でもなく、それらが有害な行為を引き起こす限りにおいて、道徳論者や立法者の関心の対象となる。
 (2.5)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)に対して、人があるものに対して快や不快を感じるべきだとか、感じるべきでないとか言ったりすることは、他人が侵害できない個々人独自の感性に対する不当で専制的な干渉である。
(3)ミルの考え
 (3.1) 義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.2)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)だけでなく、その他の欲求や感情(b)も、何が望ましいのかに関する理性による判断の要素ともなり得るし、経験や理論に基づく理性による判断を推進させている人間の諸動機の一つともなっている。

 「彼が見落としているのは、厳密な意味での人間本性の道徳的部分――完全性への欲求や是認したり非難したりする良心という感情――だけではない。彼は他のあらゆる理想的目的をそれ自体として追求することを人間本性に関する事実としてほとんど認識していない。

廉恥心や個人の尊厳――すなわち他者の意見とは無関係に、あるいはそれに反抗して作用する個人の高揚や堕落の感情、芸術家の情熱である《美》への愛、あらゆる事物における《秩序》、適合、調和やそれらが目的にかなっていることへの愛、他の人間に対する力という狭い意味の力ではなく、私たちの意思を実現させる力である抽象的な《力》への愛、運動や活動に対する渇望であって、それと反対のものである安楽への愛にほとんど劣らない影響を人間の生に及ぼす信条である《行為》への愛。

これらの人間本性の有力な構成要素のうちどれも「行為の動機」の中に位置を占める価値があると考えられていないし、これらのうちベンサムの著作のどこかでその存在を認知されていないものはおそらくひとつもないだろうが、そうした認知に立脚している結論はひとつもない。

もっとも複雑な存在である人間も彼の目にはきわめて単純な存在に映っている。

共感という項目においてすら、彼の理解はより複雑な形態をとっているその感情――《愛すること》への愛、すなわち同情的な支持や賞賛したり崇敬したりする対象を必要とすること――までは及んでいない。

仮に彼が人間本性のうちのより深遠な感情のいずれかについて熟考したとしても、それは単に奇特な趣向とみなされ、それが引き起こすかもしれない行為のうち有害なものを禁じる以外には、道徳論者も立法者も関心を示すことがないようなものとみなされた。

人があるものに対して快を感じるべきだとか感じるべきでないとか、別のものに対して不快に思うべきだと言ったりすることは、政治的支配者の場合と同じように、道徳論者の場合にも専制的行為であると彼には思われた。

 (偏狭で感情的な敵対者がこのような場合にしがちなように)人間本性に関するこの描写がベンサム自身を模写したものであると推測するとしたら、また、彼が動機表から除いた人間性の構成要素のすべてが彼の脳中に欠けていたと推定するとしたら、それは彼に対してきわめて不当であろう。

徳に対して彼が若い頃に抱いていた感情の並外れた強さは、すでにみたように、彼のあらゆる思索の発端となったものであったし、道徳、とりわけ正義に関する気高い感覚が彼のあらゆる思索を導き、そこに浸透している。

しかし、人類(というよりむしろ感覚をもつあらゆる存在)の幸福を、それ自体として望ましい唯一のものとして、あるいはそれ以外のあらゆるものを望ましいものにする唯一のものとして想定することを若い頃から習慣としてきたために、彼は自分の中に見出したあらゆる私欲のない感情を人類の幸福を願う感情と混同していた。

それは、宗教的著述家たちの幾人かが、おそらく人間にはこれ以上できないほどの強さで徳をそれ自体として愛していたが、習慣的にその徳に対する愛を地獄に対する恐怖心と混同したのと同じであった。

しかし、長い間にわたる慣習によっていつも同じ方向に作用するようになっている感情を相互に区別するためには、ベンサムがもっていた以上の繊細さが必要とされただろう。彼は想像力を欠いていたので、この区別が十分に分かりやすい場合でも、他者の心の中にあるこの区別を読み取ることができなかった。

 それゆえに、このような重大な見落としをしているという点に関しては、彼から受けた知的恩恵の大きさゆえに彼の弟子とみなされてきている才能ある人々のうちで、彼にしたがう人は誰もいなかった。

彼らは功利性の理論について、また正・不正の一つの判断基準として道徳感覚を認めることを拒否するということについては、彼に従っていたかもしれない。しかし、そのようなものとしての道徳感覚は否定しながら、彼らはハートリとともにそれを人間本性における一つの事実として是認し、それに説明を与え、その法則を確定しようと努めてきた。

私たちの本性のこの部分を過小評価していたとして彼らを非難することも、それを思索の後方へ押しやりがちであるとして彼らを非難することも正当ではない。この基本的な誤りの何らかの影響が彼らにまで及んでいるとしても、それは迂回的に、ベンサムの理論の他の部分が彼らの精神に与えた結果としてである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.128-130,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:完全性への欲求,秩序と調和への愛,良心の感情,愛することへの愛,個人の尊厳の感情,廉恥心)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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3.社会に対する貢献以上の報酬を得る方法:(a)公正さや社会的正義より自分の利益を最優先する、(b)レントシーキング、(c)都合の悪い法律が作られないための政治的対策、(d)都合のよい税制、労働法、会社法、その他の経済政策。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

社会に対する貢献以上の報酬を獲得する方法

【社会に対する貢献以上の報酬を得る方法:(a)公正さや社会的正義より自分の利益を最優先する、(b)レントシーキング、(c)都合の悪い法律が作られないための政治的対策、(d)都合のよい税制、労働法、会社法、その他の経済政策。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))】

(4.2)追記。

(4.2)社会に対する貢献以上の報酬を獲得するための方法
 (4.2.1)基本的な考え方
  (a)公正なルールに従ったフェアプレイは問題ではなく、重要なのは勝つか負けるかだ。市場は勝ち負けの基準をはっきりと示してくれる。持っている金の量である。
  (b)必要とあれば“アンフェア”なプレーをする意志もなければならない。例えば、
   (b.1)法律をかいくぐる能力や、法律を都合よくねじ曲げる能力。
   (b.2)貧困者をふくむ他人の弱味につけ込む意志。
 (4.2.2)レントシーキング
  (a)市場の競争性を低下させ、独占力を確保する。
   (a.1)参入障壁や、競争の障壁を構築する。
  (b)市場の透明性を低下させ、情報の非対称性を利用する。
   (b.1)公開市場ではなく店頭市場を利用し、買い手に必要な情報を与えず、取引を有利に進める。
   (b.2)略奪的貸付や濫用的クレジットカード業務。
  (c)自分にとって都合のいい制度を利用して、過剰なリスクを取る。
 (4.2.3)レントシーキングに都合の悪い法律が作られないようにする。政府の規制は少ない方がいい。
  (a)ロビー活動と選挙支援に巨額の資金を投資することで、政策決定に影響力を行使する。
  (b)反競争的行為が法律で禁止されないようにする。
  (c)仮に法律が存在する場合は、実効的な取り締まりが行なわれないようする。
 (4.2.4)税制を、自分に都合のよいものに変える。
  (a)ロビー活動と選挙支援に巨額の資金を投資することで、税制の設計に影響力を行使する。
  (b)実態が隠蔽できるような複雑さを持った“逆累進課税制度”を実現させる。
 (4.2.5)労働法や会社法を、自分に都合のよいものに誘導する。
 (4.2.6)政府のマクロ経済政策を、自分に都合のよいものに誘導する。

 「ピラミッドの下から上へ金を移動させる
 上流階層の人々が金を稼ぎ出す方法のひとつは、市場と政治に対する影響力を、自分たちに都合よく利用し、残りの人々を犠牲にして収益を得ることだ。

 金融業界はさまざまな形態のレントシーキングについて腕をみがいてきた。すでにいくつかは紹介したが、レントシーキングの手法はほかにもまだまだある。

情報の非対称性を利用する方法(買い手が絶対に気づかないと知りながら、破綻するよう仕組んだ証券化商品を売りつける)。

過剰なリスクをとる方法(政府が命綱を握ってくれて、窮地から救い出してくれて、損失を肩代わりしてくれるという知識を利用する。この知識を使えば、通常より低い金利で金を借りることも可能になる)。FRBから低金利で資金を調達する方法(現在の金利はほぼ0パーセント)などである。

 しかし、最も悪名高いレントシーキングの形態――近年になって最もみがきのかかった手法――は、金融界が略奪的貸付や濫用的クレジットカード業務を通じて、貧困者層と情報弱者層から大金を搾り取るというものだ。

貧困者のひとりひとりはそれほど金を持っていなくても、大勢の貧困者から少しずつ巻き上げれば、莫大な儲けを手に入れることができる。

政府に社会正義の感覚――もしくは経済全体の効率性に対する懸念――が少しでもあれば、これらの活動を禁止するための措置が施されただろう。貧困層から富裕層へ金が移動するプロセスでは、かなりの量の資源が失われる。だからこそ、これはマイナスサム・ゲームと呼ばれるのだ。

しかし、実態がどんどんあきらかになってきた2007年ごろでさえ、政府は金融界の行為を禁止しようとはしなかった。理由は明快。金融界はロビー活動と選挙支援に巨額の資金を投じてきており、その投資が実を結んだのだ。

 ここで金融界をとりあげる理由のひとつは、現在のアメリカ社会で見られる不平等が、金融界から強い影響を受けてきたことにある。今回の世界金融危機の発生に金融界が果たした役割は、誰の目にもあきらかだ。

金融界で働く人々でさえ責任を否定していない。内心では、業界内の別部門に責任があると思っているのかもしれないが……。とはいえ、わたしがこれまで金融界について述べてきたことは、現在の不平等を創り出してきたほかの経済主体にもあてはまる。

 近代資本主義は複雑なゲームと化しており、少し頭が切れるくらいでは勝者になれないが、多くの場合、勝者は感心できない特性を持ち合せている。

法律をかいくぐる能力や、法律を都合よくねじ曲げる能力や、貧困者をふくむ他人の弱味につけ込む意志や、必要とあれば”アンフェア”なプレーをする意志だ。

このゲームで成功している達人のひとりは、「勝負は問題ではない。重要なのはどうプレーするかだ」という昔の金言をたわごとと切り捨てる。重要なのは勝つか負けるかだけなのだ。市場は勝ち負けの基準をはっきりと示してくれる。持っている金の量だ。

 レントシーキングのゲームに勝利して、アメリカ最上層の多くの人々は財を築いてきた。しかし、富を獲得する方法はレントシーキングだけではない。

あとでくわしく説明するが、税制も重要な役割を担っている。最上層の人々は、税制の設計に影響力を行使し、払うべき税金を払わずにすませてきた。彼らの所得に占める税金の割合は、貧困層の人々より低いのである。わたしたちはこのような税制を“逆累進課税制度”と呼ぶ。

 この逆累進課税とレントシーキングが中心となって、とりわけ最上層における格差を拡大させてきた。

いっぽう、アメリカの不平等をめぐる二つの側面――中間層の空洞化と貧困層の増加――には、幅広い分野から強い影響力が加えられている。企業を律する法規は、企業内の規範と相互作用を起こし、経営者の行動を誘導するとともに、経営陣とほかの利害関係者(労働者と株主と社債保有者)の利益配分を決定する。

また、政府のマクロ経済政策は、労働市場の需給――失業率の水準――を決定する。つまり、労働者の取り分を変化させる市場の仕組みに、政府の政策が影響を与えているわけだ。もしもインフレを恐れる金融当局の行動が、失業率の高止まりを招いた場合、労働者の賃金は抑制されるだろう。

これまで、強い労働組合は不平等の縮小をうながしてきたが、組合が弱い企業のCEOは、やすやすと不平等を拡大してきた。CEOたちが市場の力の形成に手を貸し、その力を不平等の拡大に利用することもあった。

ともあれ、組合の強弱にしても、企業統治の実効性にしても、金融政策の舵取りにしても、決定に中心的役割を果たすのは政治だ。

 形成時に政治からの影響を一部受けるとはいえ、市場の力も重要な役割を果たしている。たとえば、熟練労働者の需給は、技術と教育の変化を反映しつつ、市場がバランスをとっているのだ。

しかし、市場の力と政治はたがいに均衡を働かせようとはしない。市場の力が格差を悪化させそうなときでも、政治は不平等の拡大を抑え込もうとはしないし、市場の行き過ぎを政府が“調整”するようなこともない。むしろ今日のアメリカでは、両者が手を取り合って、所得と富の格差を広げているのである。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第2章 レントシーキング経済と不平等な社会のつくり方,pp.82-85,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
(索引:レントシーキング)

世界の99%を貧困にする経済


(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。
 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。」(中略)「多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。
 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。」(中略)「こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。
 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。
 つまり、労働法コーポレートガバナンス金融規制貿易協定体系化された差別金融政策課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

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2019年3月30日土曜日

2.義務や正・不正を基礎づけるものとして、人々が考えついた様々な成句:道徳感覚、共通感覚、悟性、永久不変の正義の規則、事物の適性との調和、自然法、理性の法、自然的正義、公正、良い秩序、神の啓示。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

義務や正・不正を基礎づけるもの

【義務や正・不正を基礎づけるものとして、人々が考えついた様々な成句:道徳感覚、共通感覚、悟性、永久不変の正義の規則、事物の適性との調和、自然法、理性の法、自然的正義、公正、良い秩序、神の啓示。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))】

 何が正しく何が不正かを教えてくれるという「道徳感覚」と同じように、人々が考えついた様々な表現の仕方がある。
(a)何が正しく何が不正かは、私たちの「共通感覚」が教えてくれる。
 (a.1)共通感覚は、人間が持っている普遍的な感覚であり、すべての人が持っている。
 (a.2)特別の人だけが持てる特殊な感覚ではなく、私たちが共通に持っている。
 (a.3)それにもかかわらず、同じ感覚を持っていない人の感覚は、どのように扱われるのか。それは、考慮する価値のないものとして排除されることになる。
(b)何が正しく何が不正かは、私たちの「悟性」が教えてくれる。
 (b.1)しかし、悟性とは何なのか。
(c)何が正しく何が不正かは、「永久不変の正義の規則」が教えてくれる。
 (c.1)道徳感覚や共通感覚は、永久不変の正義の規則に由来して生じるものである。
 (c.2)しかし、永久不変の正義の規則とは何なのか。
(d)何が正しく何が不正かは、「事物の適性と調和するか、一致しないか」に由来する。
 (d.1)しかし、何が「調和的」であり、何が「一致しない」ことなのか。
(e)何が正しく何が不正かは、「自然法」が教えてくれる。
 (e.1)道徳感覚や共通感覚は、自然法に由来して生じるものである。
 (e.2)しかし、自然法とは何なのか。
(f)何が正しく何が不正かは、「理性の法」、「正しい理性」、「自然的正義」、「自然的公正」、「良い秩序」が教えてくれる。
 (f.1)いずれも、問題になっている事柄が、ある適切な基準に従っていることを表現している。
 (f.2)しかし、適切な基準は具体的には何なのか。
 (f.3)この基準は、多くの場合、功利性である。明確に言えば、快と苦痛による基準である。
(g)何が正しく何が不正かは、「私が知っている」と率直に言う人がいる。その人は、神に選ばれた人である。
 これらの成句は、それが根拠とする基準と、論拠として認められ得る意味と範囲が確定されない限りは、自己の主観的な感覚・感情に基づいた根拠の曖昧な主張を、世間と自己自身に隠し立てておくための表現にしかならない。

(出典:wikipedia
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)
検索(ベンサム)

 「以下の一節は彼の最初の体系的著作である『道徳と立法の原理序説』からのものであるが、彼の哲学体系の長所と短所をこれ以上にはっきりと示しているものを引用することはできないだろう。
 『きわめて一般的で、それゆえにきわめて許容されうる自己充足を世間から、そして可能なら自分自身からも隠し立てておくために、人々が考えついたさまざまな作り事や人々が持ちだしてきたさまざまな成句を調べてみることはなかなか興味深いことである。
 1、ある人が言うには、人が何が正しくて何が不正であるかを自分に教えることを目的として作られているものを持っており、それは「道徳感覚(moral sense)」と呼ばれている。彼は安心して仕事に取りかかり、これこれのことは正しく、これこれのことは不正であると述べ、なぜかと聞かれたならば「私の道徳感覚がそのように教えてくれているから」と答える。
 2、別の人はその成句を修正して、《道徳》という言葉を省いて、そこに《共通》という言葉を挿入する。そうして、その人は、自分の共通感覚(common sense)が、他の人の道徳感覚がそうしているのと同じくらい確実に、何が正しくて何が不正なのかを教えてくれると述べる。共通感覚とはすべての人間が持っている何らかの感情のことを意味していると述べる。そして、論者と同じ感覚をもっていない人の感覚は考慮する価値のないものとして排除される。この工夫は道徳感覚よりも優れている。というのも、道徳感覚は新奇なものなので、人にそれを見出すことがなくてもその人に好感をもつかもしれないが、共通感覚は人の創造と同じくらい古くからあるものなので、同胞と同じような共通感覚をもっていないと思われることを恥ずかしいと思わない人はいない。それはもうひとつ別の利点をもっており、それは権力を共有しているように見せかけることで妬みを小さくするというものである。というのは、ある人がこの根拠に基づいて自分と異なっている人を呪おうとするときには、「我かく欲し、かく命ず」とは言わずに、「汝の欲するごとく命ぜよ」と言うからである。
 3、また別の人は、道徳感覚なるものが実際にあるとは思えないけれども、私は《悟性》(understanding)をもっており、それもきわめて役立つものであると述べる。その人が言うには、この悟性が正・不正の基準であり、いろいろなことを教えてくれる。善良で賢明な人はみな、自分と同じように悟性を働かせている。他の人々の悟性がいずれかの点で自分と違っているとしたら、間違っているのは彼らであり、それは彼らに何かが欠けているか間違っているかの兆候なのである。
 4、また別の人は、永久不変の正義の規則があり、その正義の規則がいろいろなことを命じていると述べる。その上で、その人は真っ先に思い浮かぶものについての自らの感情を認めさせようとする。その感情は永久的な正義の規則から数多く派生したものである(と思うしかなくなるだろう)。
 5、他の人は、あるいは同じ人かもしれないが(それはどうでもよいことである)、事物の適性と調和する行為もあれば、それと一致しない行為もあると述べる。それから、その人は暇にまかせて、どのような行為が調和的であり、どのようなものが一致しないのか語るだろうが、その人が何となくその行為を好んでいるか嫌っているかに応じてそうするのである。
 6、大多数の人々が、自然法についてつねに語り、その上で彼らは何が正しくて何が不正なのかに関する自分たちの感情を表明しようとしており、人はその感情が自然法の数多くの章節を構成しているものであることを知ることになるだろう。
 7、自然法という成句の代わりに、時には理性の法、正しい理性、自然的正義、自然的公正、良い秩序という成句が用いられる。そのいずれもが同じように用いられる。最後のものは政治学においてもっとも用いられている。最後の3つのものは他のものにくらべたらましである。というのは、成句が意味している以上のものをそれほどはっきりとは主張していないからである。それらはそれ自体で多くの積極的基準とみなされることをごくわずかしか求めておらず、どのような基準であっても、問題になっている事柄が適切な基準に従っていることを表現している成句として時おり受け取られることで満足しているように思われる。しかし、多くの場合、[その基準は]《功利性》であるというのがよいだろう。《功利性》はより明確に快と苦痛に言及しており、より明快なものである。
 8、ある哲学者が言うには、嘘をつくということ以外にこの世界には有害なものはなく、たとえば、もし人が自分自身の父親を殺害しようとしているならば、これは彼がその人の父親ではないということを述べる一つの仕方にすぎないことになるだろう。もちろん、この哲学者は自分が好まないものを見たときには、それは嘘をつく一つの仕方であると述べるだろう。それは、《実際には》行為がなされるべきでないときに、その行為はなされるべきであり、なされてもよいと言っているようなものである。
 9、彼らすべてのなかでもっとも聡明でもっとも率直なひとははっきりと意見を述べるような人であり、自分は選ばれし人の一人であると述べている。今や神自らが選ばれし人に何が正しいかを知らせるように取り計らっており、それはよい効果をもっているので、選ばれし人は非常に努力するようになり、何が正しいかを知るだけでなく実践せずにはいられなくなる。それゆえ、何が正しくて何が不正なのかを知りたいと思うならば、人は選ばれし私のところに来る以外にない。』
 これらの成句やそれに類似したものが、ベンサムが理解していた程度のものにすぎないという見解をもっている人はほとんどいないように思われる。しかし、これらの成句が訴える基準が確かめられ、論拠として認められうる《意味》と《範囲》が的確に明らかにされるまでは、これらの成句の意味は完全に分析されており、より正確な言葉に言い換えられており、これらの成句は根拠として通用しうるということを、今日では思想家として権威ある人は誰もあえて主張しようとしないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.109-113,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:道徳感覚,共通感覚,悟性,永久不変の正義の規則,事物の適性との調和,自然法,理性の法,自然的正義,公正,良い秩序,神の啓示)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

(a)歳費(約129万円/月),(b)期末手当(約540万円/年),(c)文書・交通費(100万円/月),(d)立法調査費(65万円/月),(e)公設秘書2人と政策秘書1人分の給料(約2000万円/年),(f)議員宿舎,(g)帰省費用(新幹線無料パスまたは航空券4往復/月),(h)海外視察(約200万円)など。(池上彰(1950-))

国会議員1人当たり費用(2018年現在)

【(a)歳費(約129万円/月),(b)期末手当(約540万円/年),(c)文書・交通費(100万円/月),(d)立法調査費(65万円/月),(e)公設秘書2人と政策秘書1人分の給料(約2000万円/年),(f)議員宿舎,(g)帰省費用(新幹線無料パスまたは航空券4往復/月),(h)海外視察(約200万円)など。(池上彰(1950-))】
 「2018年現在、国会議員に支払われる「歳費」(給与)は月額129万4000円で、これにボーナスにあたる期末手当約540万円も加わるため、年間で約2100万円となります。これ以外に、文書・交通費として、毎月100万円ずつ支払われます。年間で1200万円です。これには税金がかからず、まるまる受け取ることができます。
 また、議員個人に対してではありませんが、議員が所属している党に、議員1人あたり月65万円の立法調査費が支払われます。これは、法案を作成したり、そのために調査をしたりするための費用です。
 さらに、議員1人につき公設秘書2人と政策秘書1人分の給料が支払われます。これは秘書の経験によって異なるのですが、合計すると2000万円程度は支払われます。これだけで、ざっと6000万円が税金から支払われていますね。
 これ以外にも、議員会館や議員宿舎の維持管理費がかかります。議員宿舎は地方選出の議員が東京で仕事をするために用意されたものです。緊急時にも国会に駆けつけられるように都心の一等地にあるのは当然といえます。ただし、東京に自宅を持つ地方選出の議員もいます。そうした人たちにまで議員宿舎が割りあてられていることに対しては、国民のあいだに批判的な声も少なくありません。
 ほかにも、はっきりとは見えないところで議員に税金が使われています。たとえば、国会と議員宿舎を結ぶ議員専用の無料バス。衆参両院で計200台の黒塗りの専用車も用意されています。議員が地元と東京を往復できるように新幹線グリーン車が乗り放題の無料パスか、月4往復分の航空券ももらえます。新幹線が走っていなくても、毎週無料で飛行機に乗って地元に帰ることができるわけですね。
 まだまだあります。国会議員の海外視察にも公費が出ます。年間一人あたり約200万円までなら議員の負担はないのです。飛行機はファーストクラスが使えます。
 細かい話をすれば、もっとあります。議員会館の各部屋には内線電話1回線と、外線電話2回線があります。東京都内だったら無料でかけ放題。外線電話の基本料金も公費です。
 もちろん、議員は国民の代表。必要なお金を税金で負担するのは当然のこと。たとえば、鉄道の無料パスなどがあることで、お金がない地方選出の議員でも国政に関わることができるわけです。
 でも、そうしたお金がはたして無駄づかいされていないのか、チェックしていく必要がありますね。」
(池上彰(1950-),『イラスト図解 社会人として必要な経済と政治のことが5時間でざっと学べる』PART2 政治,第1章 「国会議員」はどんなことをしている?,01 国会議員の給料はどれくらい?,pp.182-185,KADOKAWA(2018))
(索引:国会議員1人当たり費用(2018年現在))

イラスト図解 社会人として必要な経済と政治のことが5時間でざっと学べる


(出典:wikipedia
池上彰(1950-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あなたが同じ立場だったらどうするか?
 もし、あなた方があのときにそのチッソの水俣工場で働いている社員だったら、どうしますか、ということです。つまり熊本県でも有数の企業です。水俣にとってはいちばん大手の企業です。水俣で生まれ育って、学校を出て、チッソに就職するというのは地元の人にとってはいちばんのエリートコースですよね。それこそ、みなさんがもしチッソに就職が決まったと報告をすれば、家族はもちろん親戚もみんな、「いやあいいところに就職したね、よかったね」と祝福してくれるはずです。もちろん、プラスチックの可塑剤という、日本という国が豊かになるときに必要なものをつくっているわけですから、みんな誇りを持って働いていたはずです。ところがやがて、そこから出てくる廃水が原因で、地元の住民に健康被害が出る、という話が聞こえるようになってきた。さあ、みなさんは果たしてどんな行動をとりますか、ということです。当時のチッソの社員たち。たとえば病院の医師が、原因究明のために猫を使って実験をしていた。でも会社から、そんな実験はやめろ、と言われたからやめてしまった。あるいは多くの社員は気がついていたからこそ、排水口の場所を変えたわけです。それによってさらに被害を広めてしまった。労働組合が分裂をして、そこで初めて、企業の仕打ちに気がついた社員たちが声を上げるようになった。さあ、もしそういうことになったら、みなさんはどういう態度をとりますか。
 いまの日本は廃水の基準に厳しいですから、何かあればすぐわかるでしょう。でもいま、実は、まったく同じようなことが中国のあちこちで起きています。開発途上国で同じようなことが起きているのですね。みなさんが就職をしました。そこの会社が実は、東南アジアあるいはアフリカに、現地の工場を持っている。現地の工場に、要員として派遣されました。そこで働いていた。そうしたらその周辺で、健康被害が出ている住民たちがいることに気がついた。あなたはどういう態度をとるのか。まさにそれが問われている、ということなのですね。決して他人事ではないのだということがわかっていただけるのではないでしょうか。」
(池上彰(1950-),『「経済学」講義 歴史編』lecture5 高度経済成長の歪み,pp.228-229,KADOKAWA(2015))
(索引:)

池上彰(1950-)
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2.社会に対する貢献以上の報酬を得る方法:(a)参入障壁の構築と独占の維持、(b)競争障壁の構築、(c)市場の透明性を低下させること、(d)これら反競争的行為が規制されないための政治的対策。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

社会に対する貢献以上の報酬を獲得する方法

【社会に対する貢献以上の報酬を得る方法:(a)参入障壁の構築と独占の維持、(b)競争障壁の構築、(c)市場の透明性を低下させること、(d)これら反競争的行為が規制されないための政治的対策。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))】

(4.1.1)、(4.1.2)、(4.2.1)、(4.2.2)追記。

(4)2つの考え方
 (4.1)全体の社会的利益を最大化させようとするには、政府の適切な矯正作業が必要である。
  (4.1.1)市場における公正な競争を維持する。
   (i)市場に競争性があるとき、正常な資本収益率を上回る利潤は持続できなくなる。なぜなら、企業が商品の利幅を大きくすれば、ライバル会社が価格引き下げを武器に、顧客を奪い取ろうとしてくるからだ。
   (ii)複数の企業が活発な競争を繰り広げると、商品価格は利潤がゼロになるレベルまで下落していく。
  (4.1.2)市場における透明性が高まれば高まるほど、競争は激しくなりやすい。
 (4.2)社会に対する貢献以上の個人的報酬を獲得しようとするには、政府の規制は少ないほうが都合がいい。
  (4.2.1)儲けを大きくするために、市場の競争性を低下させ、独占力を確保すること。
   (i)参入障壁や、競争の障壁を構築する。
   (ii)反競争的行為が法律で禁止されないように対策する。
   (iii)仮に法律が存在する場合は、実効的な取り締まりが行なわれないよう対策する。
  (4.2.2)市場の透明性を低下させる。
   (i)例として、公開市場ではなく店頭市場を利用し、買い手には必要な情報を与えず、取引を有利に進める。

 「ここからは、市場を“うまく機能させない”ために、民間の金融機関が講じる手段をいくつか紹介していこう。

アダム・スミスが述べたように、企業には市場の競争性を低下させようとするインセンティブが働く。

さらに企業は、反競争的行為がきびしい法律で禁止されないように手を打ち、すでに法律が存在する場合は、実効的な取り締まりが行なわれないようにあらゆる手段を尽くす。

事業家たちが重視するのは、社会の繁栄とは何かを広く知らしめることでもなければ、市場の競争性を高めることでもない。彼らの目的は、“自分に都合よく”市場を機能させ、より大きな利潤を手にすることだけだ。

しかし、これらの行為はたいていの場合、経済の効率性を低下させ、不平等を拡大させる結果に終わる。

 ここではひとつの実例を挙げれば充分だろう。市場に競争性があるとき、正常な資本収益率を上回る利潤は持続できない。なぜなら、企業が商品の利幅を大きくすれば、ライバル会社が価格引き下げを武器に、顧客を奪い取ろうとしてくるからだ。複数の企業が活発な競争を繰り広げると、商品価格は利潤がゼロになるレベルまで下落し、大儲けをもくろむ者たちには不幸な結果が訪れる。

ビジネススクールで生徒たちが教わるのも、利潤が浸食されるのを防ぐために、どうやって競争の障壁――参入障壁をふくむ――を理解し、どうやって実際に障壁を構築するかという点だ。

過去30年の重大なビジネス・イノベーションの一部は、経済効率の向上に主眼を置いていなかった。重視されたのは、独占力を確保することと、個人的報酬と社会的利益を合致させるための政府規制をすりぬけることだった。

 好んで使われるのは、市場の透明性を低下させる手法だ。透明性が高まれば高まるほど、市場における競争は激しくなりやすい。

銀行家たちはこの事実を知っている。だからこそ銀行業界は、〈AIG〉の没落の中心的役割を果たした危険な金融商品、デリバティブの引き受け事業を展開するにあたって、不透明な“店頭市場”での取引を必死に守りつづけたのだ。

店頭市場では、良い取引と悪い取引を消費者が見極めるのは難しい。透明性の高い現代の公開市場とは対照的に、店頭市場ではすべてが交渉で決まる。売り手が絶え間なく取引を行なう一方、買い手はたまにしか市場を訪れないため、売り手は買い手よりも多くの情報を持ち、その情報を使って取引を有利に進める。要するに、おしなべて見ると、売り手〈デリバティブを引き受ける銀行〉は店頭市場でなら、顧客から多くの金を引き出せるわけだ。

 このような透明性の欠如は、銀行家たちの利益をふくらませる一方、経済全体を落ち込ませるという結果を招く。良い情報が入手できなければ、資本市場は本来の機能を発揮できない。最も収益率の高い事業に、もしくは、最も運用成績の高い銀行に、必ずしも資金が流れ込むとはかぎらないからだ。

現在、各金融機関が業界内でどんな位置を占めているかという実情を知る者はひとりとしていない。原因のひとつは、不透明なデリバティブ取引だ。

最近の世界金融危機を受けて、状況の変化を期待する向きもあるだろうが、銀行家たちはデリバティブ取引の透明化にも、反競争的行為を取り締まる規制にも抵抗した。このようなレントシーキング活動は、彼らにとって数百億ドル分の価値があった。

金融界がすべての抵抗活動に勝利を収めたわけではないが、彼らの通算成績は、問題を今日まで長らえさせるだけの効果を持っていた。たとえば、2011年10月末にアメリカの大手金融機関が破綻したが(負債総額は史上第8位)、原因のひとつは複雑なデリバティブ取引だった。あきらかに市場は、少なくとも問題が表面化するまで、デリバティブ取引の本質を見透かせなかったのである。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第2章 レントシーキング経済と不平等な社会のつくり方,pp.80-82,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
(索引:参入障壁,競争障壁,市場の透明性,反競争的行為)

世界の99%を貧困にする経済


(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。
 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。」(中略)「多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。
 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。」(中略)「こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。
 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。
 つまり、労働法コーポレートガバナンス金融規制貿易協定体系化された差別金融政策課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)
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2019年3月29日金曜日

1.(a)不完全な競争、(b)情報の不完全性、非対称性、(c)外部性の働き、(d)リスク市場の非存在によって、市場の失敗が発生する。高い効率性と繁栄のためには、政府による適切な矯正作業が必要である。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

市場の失敗と政府の役割

【(a)不完全な競争、(b)情報の不完全性、非対称性、(c)外部性の働き、(d)リスク市場の非存在によって、市場の失敗が発生する。高い効率性と繁栄のためには、政府による適切な矯正作業が必要である。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))】

(1)効率的な市場
 市場において個々人が自己利益を最大化させることで、全体の社会的利益を最大化させることができる。
(2)市場の失敗
 市場は、独力で効率的な結果を生み出せない。すなわち、以下の諸原因により、個々人が社会にもたらす利益と個人的報酬が等しくなくなり、全体の社会的利益を最大化させることができなくなる。
 市場の失敗の原因
 (2.1)競争が不完全なとき。
 (2.2)情報の不完全性や情報の非対称性が存在するとき。
  市場取引に関する情報を、誰かが持っている一方で、他の誰かが持っていない状況。
 (2.3)外部性が働いているとき。
  ひとつの集団の行動によって、正もしくは負の影響が他に及ぶ可能性があるものの、集団が正の影響から利益を得ることも、負の影響の代償を支払うこともない状況。
 (2.4)リスク市場が存在しないとき
  たとえば、直面する重大なリスクの多くに対して、保険をかけることができない状況。
(3)政府の役割
 (3.1)政府は、税金と規制にかんする制度設計を通じて、個人のインセンティブと、社会的利益を同調させる必要がある。
 (3.2)重大な市場の失敗に対して、納得できる矯正作業を政府が行なわないかぎり、経済の繁栄は望めないだろう。
(4)2つの考え方
 (4.1)全体の社会的利益を最大化させようとするには、政府の適切な矯正作業が必要である。
 (4.2)社会に対する貢献以上の個人的報酬を獲得しようとするには、政府の規制は少ないほうが都合がいい。
(5)歴史
 世界大恐慌以降の40年間、すぐれた金融規制によって、アメリカと世界は大きな危機を回避してきた。1980年代に規制が緩和されると、その後の30年間は、危機が立て続けに起きるようになった。

 「アダム・スミス自身も、貢献と報酬に差が出る事態を認識していた。「歓楽が目的であれ気晴らしが目的であれ、同業者たちが一堂に会することはまれだが、このような席では最終的に、一般大衆に対する謀議がまとまったり、価格つり上げの仕組みが案出されたりする」とスミスは述べている。

 多くの場合、市場は独力で望ましい効果的な結果を出せないため、政府は市場の失敗を正す役目を果たさなければならない。

具体的に言えば、税金と規制にかんする制度設計を通じて、個人のインセンティブと社会的利益を同調させるのだ(もちろん、何が最善の方法なのかについては、意見の一致が見られるとは言いがたいが、今日では、金融市場の放任を主張する者も、企業に無制限の略奪をゆるすべきだと信じている者も、ほとんどいない)。

政府がきちんと役目を果たせば、労働者や投資家が得る報酬は、彼らが社会にもたらす利益とひとしくなる。これがひとしくならない状態を、わたしたちは”市場の失敗”と呼ぶ。要するに、市場が効率的な結果を生み出せない状態だ。

 個人的報酬と社会的利益がうまく合致しないのは、次のような場合である。

競争が不完全なとき。

”外部性”が働いているとき(ひとつの集団の行動によって、プラスもしくはマイナスの影響がほかに及ぶ可能性があるものの、集団がプラスの影響から利益を得ることも、マイナスの影響の代償を支払うこともない状況)。

情報の不完全性や情報の非対称性が存在するとき(市場取引にかんする情報を、誰かが持っている一方で、ほかの誰かが持っていない状況)。

リスク市場が存在しないとき(たとえば、直面する重大なリスクの多くに対して、保険をかけることができない状況)。

事実上、すべての市場はこれらの条件を一つや二つは満たしており、市場がおおむね効率的であるという推定はほぼ成り立たない。つまり、このような市場の失敗に対して、政府が矯正を行なう余地はきわめて大きいわけだ。

 市場の失敗を政府が完璧に正すことは不可能だが、他国に比べてこの作業をうまくこなしている国もある。重大な市場の失敗に対して、納得できる矯正作業を政府が行なわないかぎり、経済の繁栄は望めないだろう。

世界大恐慌以降の40年間、すぐれた金融規制によって、アメリカと世界は大きな危機を回避してきた。しかし、1980年代に規制が緩和されると、その後の30年間は、危機が立て続けに起きるようになった。2008年から2009年にかけての世界金融危機は、多数の中のひとつがたまたま最悪になっただけだ。

しかし、このような政府の不首尾は偶然の産物ではない。金融界は持てる政治力を使って、市場の失敗が矯正”されない”ように、業界内の個人的報酬が社会的貢献を大きく上回るように、手段を講じてきたのである。これは、金融界に流れ込む利益をふくらませ、最上層のあいだで高水準の不平等を生じさせる一因となった。」
(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第2章 レントシーキング経済と不平等な社会のつくり方,pp.78-79,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
(索引:市場の失敗,政府の役割,効率的な市場)

世界の99%を貧困にする経済


(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。
 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。」(中略)「多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。
 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。」(中略)「こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。
 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。
 つまり、労働法コーポレートガバナンス金融規制貿易協定体系化された差別金融政策課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)
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2019年3月27日水曜日

1.義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

義務や正・不正を基礎づけるもの

【義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)利害関心がもたらす偏見や、情念が存在する。
(2)「義務」とは何か、何が「正しく」何が「不正」なのかに関する、私たちの考えが存在する。
(3)(1)偏見や情念と、(2)義務は一致しているとは限らない。
(4)義務の起源や性質に関する、以下の二つの考え方があるが、(a)は誤っており(b)が真実である。
 (a)私たちには、「道徳感情」と言いうるような感覚が存在し、この感覚によって何が正しく、何が不正なのかを判定することができる。
  (a.1)その感覚を私心なく抱いている人にとっては、それが感覚である限りにおいて真実であり、(1)の偏見や情念と区別できるものは何もない。
  (a.2)その感覚が自分の都合に合っている人は、その感覚を「普遍的な本性の法則」であると主張することができる。
 (b)何が正しく、何が不正なのかの問題は、議論に開かれている問題であり、他のあらゆる理論と同じように、証拠なしに受け入れられたり不注意に選別されたりするようなものではない。
  (b.1)ある見解が受け入れられるかどうかは、理性による判断である。
(5)以上から、どのように考えどのように感じる「べき」なのかという問題が生じ、人類の見解や感情を、教育や統治を通じて陶冶していくということが、意義を持つ。
 (5.1)道徳論は、不変なものではなく、人類の経験がより信頼に値するものとなり増大していくことで、知性とともに進歩していくものである。
 (5.2)倫理問題に取り組む唯一の方法は、既存の格率を是正したり、現に抱かれている感情の歪みを正したりすることを目的とした、教育や統治である。

 「道徳感情の教育を任されている人々にとって、道徳感情の起源や性質に関する正しい見解が重要性をもっていることは言うまでもない。道徳論が不変的な理論体系なのか進歩的な理論体系なのかは、道徳感覚の理論の真偽にかかっていると言えるだろう。

もし何が正しく何が不正であるのかを判定する感覚が人間に与えられているということが真実だとしたら、人間の道徳判断や道徳感情には改善の余地がなくなり、とどまるべきところにとどまっていることになる。

人類一般は自分たちの義務という主題についてどのように考えどのように感じる《べき》なのかという問題は、偏見をもたらす利害関心や情念がないとしたら、人間が今どのように考えどのように感じるかを観察することによって決定されなければならない。

それゆえ、教育や統治を通じて主に自分たちで人類の見解や感情を形成することを今まで行なってきた人々にとって、これは注目すべき理論である。この理論体系に基づけば、一般的な偏見はそれに私心なく囚われている人々によって、あるいはそれが自分の都合に合っている人々によって、どのような時にも私たちの普遍的な本性の法則にまで高められることになるだろう。

 それに対して、功利性の理論によれば、私たちの義務とは何かという問題は、他のあらゆる問題と同じく議論に開かれている問題である。道徳理論は他のあらゆる理論と同じように、証拠なしに受け入れられたり不注意に選別されたりするようなものではない。他のあらゆる問題と同じように、ある見解がどれほど受け入れられていても、その見解にではなく涵養された理性による判断に訴えるのである。

人間の知性の弱さや私たちの本性におけるその他の欠点は、他のあらゆる関心事の場合と同じように、私たちが道徳について正しく判断を下そうとする場合に障害になると考えられている。

他のあらゆる問題に関するのと同じように、この問題に関する私たちの見解では、経験がより信頼に値するものとなり増大していくことで知性が進歩し、人類の状態が変化していくことで行為の規則を変更することが必要となるにつれて、大きく変わっていくことが予想される。

 それゆえ、この問題はきわめて重要なものである。そして、既存の格率を是正したり現に抱かれている感情の歪みを正したりすることを《目的とした》、倫理問題に取り組む唯一の方法が抗議の声によってかき消されないようにすることは、人類のもっとも重要な利益に深く関係している。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『セジウィックの論説』,集録本:『功利主義論集』,pp.72-73,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))

(索引:義務,正・不正,情念,感情,道徳論)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年3月26日火曜日

25.世界1の中に符号化、具現化されているものだけが、世界3ではない。人間は、未だ世界1の中に具現化されていない世界3の対象を、把握したり理解したりすることができる。(カール・ポパー(1902-1994))

世界1に具現化されていない世界3の存在

【世界1の中に符号化、具現化されているものだけが、世界3ではない。人間は、未だ世界1の中に具現化されていない世界3の対象を、把握したり理解したりすることができる。(カール・ポパー(1902-1994))】
 「具現化されていない世界3の対象の存在が重要であると私が考える主要な理由はこうである。

もし具現化されていない世界3の対象が存在すれば、世界3の対象を把握したり、理解したりすることは常に、その対象の物質的に具現化されているものとの感覚的な結びつきに依存する、例えば書物の中の一つの理論の言明をわれわれが読むことに依存すると主張するのは正しい考えではない。

この考えに反対して、私は世界3の対象を把握する最も特徴的な仕方は、それらの具現化やわれわれの感覚の使用にほとんど依存しない方法によってであると主張する。

私のテーゼは、人間の心は、常に直接的にというのでなければ、間接的な方法(これは後に議論されることになる)によって世界3の対象を把握する、というものである。この間接的方法とは、対象の具現化とは独立した方法であり、そして(書物のような)世界1にも属する世界3の対象の場合には、それら対象の具現化された事実から抽象する方法である。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P2章 世界1・2・3、12――具現化されていない世界3の諸対象(上)p.72、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:世界3)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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