2019年9月3日火曜日

人はときには身体に攻撃を加える傾向があるし、また攻撃を受ければ普通、傷つきやすいという事実が存在する。生存するという目的のためには、殺人や暴力の行使を制限するルールが要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))

人間の傷つきやすさ

【人はときには身体に攻撃を加える傾向があるし、また攻撃を受ければ普通、傷つきやすいという事実が存在する。生存するという目的のためには、殺人や暴力の行使を制限するルールが要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(3)追記。

(1)目的と手段による説明
  人間に関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能である。これは、生存する目的を仮定することによる目的と手段による説明であり、原因と結果による因果的説明とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 (a)生存する目的を前提として仮定する。
 (b)自然的事実:人間に関する、ある単純で自明な諸事実が幾つか存在する。
 (c)法と道徳は、自然的事実に対応する、ある特定の内容を含まなければならない。
  その特定の内容を含まなければ、生存という目的を達成することができないため、そのルールに自発的に服従する人々が存在することになり、彼らは、自発的に服従しようとしない他の人にも、強制して服従させようとする。
(2)原因と結果による説明
 (a)心理学や社会学における説明のように、人間の成長過程において、身体的、心理的、経済的な条件のもとにおいて、どのようなルール体系が獲得されていくかを、原因と結果の関係として解明する。
 (b)因果的な説明は、人々がなぜ、そのような諸目的やルール体系を持つのかも、解明しようとする。
 (c)他の科学と同様、観察や実験と、一般化と理論という方式を用いて確立するものである。
(3)人間に関する自然的事実
 (3.1)人間の傷つきやすさ
  (a)人はときには身体に攻撃を加える傾向があるし、また攻撃を受ければ普通、傷つきやすいという事実が存在する。
  (b)法と道徳は、殺人とか身体的危害をもたらす暴力の行使を制限するルールを含まなければならない。
 「(i)人間の傷つきやすさ 法と道徳はともに、たいていは積極的な行為をするように要求するのではなく、行為を差し控えるように求めるのであって、それは普通禁止という消極的な形態であらわされる。これらのなかで社会生活にとってもっとも重要なものは、殺人とか身体的危害をもたらす暴力の行使を制限するものである。そのようなルールの基本的な特徴は、一つの質問ではっきり示すことができよう。もしこれらのルールがなかったら、いかなる他の種類のルールをもったからといって、われわれのような存在にどんな利点がありうるのだろうか。このレトリカルな質問の説得力は、人はときには身体に攻撃を加える傾向があるし、また攻撃を受ければ普通傷つきやすいという事実にもとづいている。しかしこれは自明の真理ではあるが、必然的な真理ではない。というのは、事態は過去において違っていたかもしれないし、将来変わるかもしれないからである。ある種の動物は、その物理的な構造(殻や甲羅を含めて)のためその種に属する他のものによる攻撃から実質上免れているし、また攻撃を可能にする器官をもたない動物もある。もし人々が互いにその傷つきやすさを失ったならば、《汝殺すなかれ》という法と道徳のもっとも特徴的な規定に対する一つの明白な理由がなくなることになろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第2節 自然法の最小限の内容,pp.212-213,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:人間の傷つきやすさ,殺人や暴力の制限)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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35.統治体制が、国民自身の徳と知性を育成する特性を持っていることが、最も重要である。この特性を持つ体制は、国民によって維持、発展させられ、国民を育成し、諸々の優れた資質を統治機構へと組織化する。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

良い統治とは何か

【統治体制が、国民自身の徳と知性を育成する特性を持っていることが、最も重要である。この特性を持つ体制は、国民によって維持、発展させられ、国民を育成し、諸々の優れた資質を統治機構へと組織化する。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

良い統治とは何か
(1)統治とは、人間の行う行為に他ならない。
 (a)統治担当者
 (b)統治担当者を選ぶ人々
 (c)統治担当者が責任を負っている人々
 (d)以上の人々すべてに、意見によって影響を与え牽制を加える人々
(2)統治体制が、国民自身の徳と知性を育成し、促進する特性を持っていること。
 (a)統治体制を維持できる基礎的な資質が、国民にあるという前提ではある。
 (b)この特性が満たされている統治体制は、他のあらゆる点でも最善である可能性が十分にある。
 (c)この特定は、統治体制とそれを支える国民の徳と知性との間に、良い循環を生み出す。
(3)社会を構成する人々に、徳と知性があること。
 (3.1)道徳的資質
  自分勝手な自己利益だけを各人が重要視して、社会全般の利益でもあるような自分の利益には注目したり関心を持ったりしないならば、よい統治は望みえない。
 (3.2)知的資質
  人々が、無知蒙昧や有害な偏見の寄せ集めに過ぎないならば、よい統治は望みえない。
 (3.3)活動的資質
  被治者の高い資質は、統治機構を動かす駆動力を与えるからである。
(4)統治機構それ自体が高い質を持っていること。
 統治機構が、一定時点に現存する諸々の優れた資質を活用し、それらの資質を正しい目的のための手段としている。

 「自分勝手な自己利益だけを各人が重要視して、社会全般の利益でもあるような自分の利益には注目したり関心を持ったりしない、というのが国民全般の気風である場合には、そのような状態でのよい統治はつねに不可能である。よい統治のあらゆる要素を阻害する点で知性上の欠陥が及ぼす影響については、例示の必要もない。統治とは人間の行う行為に他ならないのであり、統治を担当する行為者、その行為者を選ぶ人々、その行為者が責任を負っている人々、あるいは、以上の人々すべてに意見によって影響を与え牽制を加える人々が、無知蒙昧や有害な偏見の寄せ集めにすぎないならば、統治のあらゆる働きがうまくいかない。他方、これらの人々がこの水準を上回るのに比例して、統治体制の質は向上する。自分自身もすぐれた徳と知性をそなえている統治担当者が、有徳で開明された世論という雰囲気に包まれている場所でしか達成できない、卓越した水準にまで到達することになる。
 したがって、よい統治の第一の要素は、社会を構成する人々の徳と知性であるから、統治形態が持ちうる長所の中で最も重要なのは、国民自身の徳と知性を促進するという点である。政治制度に関する第一の問題は、さまざまな望ましい知的道徳的な資質を社会成員の中でどこまで育成することに役立つかである。いやむしろ(ベンサムのもっと完成度の高い分類に従えば)、道徳的資質、知的資質、活動的資質の育成に役立つかである。この点で最善の貢献をしている統治体制は、他のあらゆる点でも最善である可能性が十分にある。なぜなら、あくまでもこれらの資質が国民の中にあるという前提での話だが、統治体制が実際に良好に機能する可能性全体を左右するのは、これらの資質に他ならないからである。
 そこで、集団的にも個人的にも被治者のすぐれた資質の総量を増大させるのに役立っている度合いを、統治体制のよさを判断する基準の一つと考えてよいだろう。なぜなら、被治者の幸福は統治の唯一の目的であるけれども、さらに言えば、被治者の高い資質は統治機構を動かす駆動力を与えるからである。
 統治体制の長所のもう一つの構成要素としては、機構それ自体の質が残されている。つまり、機構が、一定時点に現存する諸々のすぐれた資質を活用し、それらの資質を正しい目的のための手段としている度合いである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第2章 よい統治形態の基準,pp.28-29,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:良い統治,国民の徳と知性,統治,統治体制)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年9月2日月曜日

34.制度や統治形態は、望むに値するものの創造力、信念、意志の力による選択の問題である。しかし、その実現、維持、発展のためには、人間と社会に関する諸法則を知り、社会的、政治的な諸力の利用が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

制度や統治形態は選択できる

【制度や統治形態は、望むに値するものの創造力、信念、意志の力による選択の問題である。しかし、その実現、維持、発展のためには、人間と社会に関する諸法則を知り、社会的、政治的な諸力の利用が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)国民は、統治形態や制度を選択できる。
 (a)政治的に言えば、すべての力の中で大きな役割を持つのは、意志の力である。
 (b)信念を持った一人の人間は、利害しか持たない99人に匹敵する社会的力である。
 (c)特定の統治形態なり、何らかの社会的事実なりが、望むに値するものだという見方を、社会全般に受け容れられる意見として創り出せる人は、最大の社会的力の一つである。
(2)「国民は、統治形態を選択できない」と考えるのは、誤りである。
 しかし、あらゆる事柄において、人間の力には極めて厳しい限界がある。
 (2.1)自然、人間、社会的な力の諸法則の利用が必要である。
  (a)ある目的、望まれている用途に適用できる力が存在していなければならない。
  (b)人間の力は、自然の力を一つ、あるいは幾つか動かすことによってしか作用しえない。
  (c)その力は、それ自体の法則に合うときにしか作用してくれない。
  (d)政治の技術も、他のあらゆる技術と同様の限界や条件の支配下にある。
 (2.2)国の統治は、その国における社会的力の諸要素の分布状況に大きく影響される。
  (a)社会的な力とは、物理的な強制力を発動する力のみではない。
  (b)財産と知性の力も、大きな影響力を持つ。
  (c)社会的な力は、組織化されたときに大きな力を持つ。
  (d)いったん政府を掌握した人々は、他の要素が弱くても、かなり優位となるし、またこれだけで長期的に優位を保つだろう。

 「これまでの議論の到達点は、何度も言及した三条件の枠内では制度や統治形態は選択の問題《である》、ということである。最善の統治形態を抽象的に探究すること(という言い方がされたりするが)は、科学的知性を妄想的にではなく、きわめて実践的に用いることである。どの国にせよ現状で相当程度に三条件を充足できる最善の統治形態をその国に導入することは、実践的努力がめざしうる最も合理的な目標の一つである。統治にかかわる問題で、人間の意志や目的の実効性を貶めて言えることのすべては、人間の意志や目的が適用される他の一切の事柄についても言えるだろう。あらゆる事柄において、人間の力にはきわめて厳しい限界がある。人間の力は、自然の力を一つあるいはいくつか動かすことによってしか作用しえない。したがって、望まれている用途に適用できる力が存在していなければならないし、その力はそれ自体の法則に合うときにしか作用してくれない。われわれは川を逆流させられないが、しかしだからといって、水車は「作られるものではなく、成長するものである」とも言わない。機械装置の場合と同様に政治においても、機構を動かし続ける力は、機構の《外部に》探し求めなければならない。そうした力が手近にない場合や、合理的に予測される障害を克服するのに不十分な場合、仕組みは動かない。これは何も政治の技術に特有のことではなく、政治の技術が他のあらゆる技術と同様の限界や条件の支配下にある、と言っているだけのことである。
 ここでわれわれは、別の反論、いや、別形式での同じ反論に出会うことになる。大規模の政治現象を左右している力は、政治家や哲学者の指図通りにはならない。一国の統治はすべての重要な点で、その国における社会的力の諸要素の分布状況によってあらかじめ固定され決定されている、という主張である。何であれ社会の中で最強の力となっているものが政治権力を獲得するのであり、政体の変化は、社会それ自体における力の分布の変化が先行あるいは並行しない限り持続しない。だから、国民は統治形態を選択できない。細目にすぎない点や実務的組織なら選択できるかもしれないが、全体の要、つまり最高権力の置かれる場所は、社会環境によって決定されるのだ、というのである。
 この説に部分的な真理があることは、私も即座に認める。しかし、これを何らかの形で応用するためには、明確な表現と適切な限界を与えなければならない。社会内の最強の力は統治体制においても最強の力になると論じるとき、その力は何を意味しているのか。腕力や筋力ではないだろう。そうした力ということであれば、純粋な民主政が唯一存在可能な統治形態になる。たんなる肉体的な力の他に、財産と知性という二つの要素を加えれば真理に近づくものの、まだ真理にはほど遠い。多数者が少数者に抑えられることもしばしばある。そればかりでなく、多数者が財産の点で優位にあり、それぞれ個人として知性の点でも優越していても、両者の点で劣位にある少数者が力ずくで、あるいはその他の仕方で多数者を従属させることもある。力のこれら多様な要素が政治的に有力になるには、組織化されねばならない。そして、組織化に際して有利な立場は当然のことながら、政府を掌握している人々の側にある。統治の諸権力が秤に加われば、他のすべての要素が弱くても、かなり優位となるし、またこれだけで長期的に優位を保つだろう。ただし、こうした状況にある政府は、尖端を下にして立ちながら均衡を保っている円錐形物体と同様に、力学では不安定的均衡と呼ばれる状態にあり、いったん均衡が乱されると均衡状態には復帰せず、均衡状態からますます離れていくことにはなる。
 しかし、統治のこの理論に対しては、通常この理論が論じられるときの観点の立て方であれば、さらに強力な反論がある。政治的な力へと転換しておくような社会的力は、静止した力、たんに受動的な力ではなく、能動的な力であり、言いかえれば実際に行使されている力である。それは、現存するすべての力の中では、ごく小さな部分でしかない。政治的に言えば、すべての力の中で大きな役割を持つのは意志の力である。とすれば、意志に対して作用するものを計算から除外しておいて、政治的力の諸要素を数え尽くすことなどできるだろうか。社会で力をふるう者が結局は政治でも力をふるうのだから、意見への働きかけによって統治の基本構造に影響を及ぼそうとする企ては無意味だという考えは、意見そのものが活力ある最大の社会的力の一つである点を忘れている。信念に持った一人の人間は、利害しか持たない99人に匹敵する社会的力である。特定の統治形態なり何らかの社会的事実なりが望むに値するものだという見方を、社会全般に受け容れられる意見として創り出せる人は、社会の諸力を味方につける可能性を持った最も重要な一歩をほぼ進めたことになる。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第1章 統治形態はどの程度まで選択の問題か,pp.11-13,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:制度や統治形態の選択,望むに値するものの創造,信念,意志の力,人間と社会に関する法則)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年9月1日日曜日

人間に関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能である。これは、生存する目的を仮定することによる目的と手段による説明であり、原因と結果による因果的説明とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

自然法とは何か

【人間に関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能である。これは、生存する目的を仮定することによる目的と手段による説明であり、原因と結果による因果的説明とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)目的と手段による説明
 (a)生存する目的を前提として仮定する。
 (b)自然的事実:人間に関する、ある単純で自明な諸事実が幾つか存在する。
 (c)法と道徳は、自然的事実に対応する、ある特定の内容を含まなければならない。
  その特定の内容を含まなければ、生存という目的を達成することができないため、そのルールに自発的に服従する人々が存在することになり、彼らは、自発的に服従しようとしない他の人にも、強制して服従させようとする。
(2)原因と結果による説明
 (a)心理学や社会学における説明のように、人間の成長過程において、身体的、心理的、経済的な条件のもとにおいて、どのようなルール体系が獲得されていくかを、原因と結果の関係として解明する。
 (b)因果的な説明は、人々がなぜ、そのような諸目的やルール体系を持つのかも、解明しようとする。
 (c)他の科学と同様、観察や実験と、一般化と理論という方式を用いて確立するものである。

 「われわれがここで提出する単純な自明の真理を考え、またそれらが法や道徳とどのような関係をもつかを考察するにあたって注意しなければならないのは、それぞれの場合についてそこにのべられた事実が、生存という目的が前提された場合、法と道徳はなぜ特定の内容を含まなければならないかの《理由》を示しているということである。この議論のたどる普通の形態は、簡単にいって、そのような内容がなければ、法と道徳は、人々が互いに結合するさいにもつ生存という最小限の目的をも推し進めることはできないであろうということである。この内容がない場合、人々はそのままでは、いかなるルールにも自発的に服従する理由をもたないことになろう。つまり、ルールに従いそれを維持するほうが有利であると思う人々が自発的に最小限の協力をしなければ、自発的に服従しようとはしない他の人を強制することは不可能である。とりわけ強調したいのは、このアプローチにおいては、自然的事実と法的ないし道徳的ルールの内容とが、とくに合理的な関係をもっていることである。というのは、自然的事実と法的ないしは道徳的ルールとがもつこれとはまったく異なった形の関連を探究することも可能であり重要だからである。たとえば、心理学や社会学のようなまだ若い科学は、一定の肉体的、心理的あるいは経済的条件が充足されなければ、たとえば、幼い子供が家族のなかで一定の仕方で食物を与えられ養育されることがなかったならば、法体系や道徳律などというものは、確定されえないということ、あるいは一定のタイプに一致する法だけがうまく機能しうるということを発見するかもしれないし、またすでに発見しているかもしれない。自然条件とルールの体系とがこの種の関係をもつのは《理由》によって媒介されるわけではない。というのは、この種の関係は、一定のルールの存在を、人々がそれを意識的な目的ないし目標にしていることに関連づけるものではないからである。幼年時代に一定の仕方で食物を与えられるということは、人々が道徳律あるいは法を発展あるいは維持させる必要条件であり、また《原因》でさえあるということは十分示されるだろうが、しかしそれは、人々がそうする《理由》ではない。そのような因果的な関係は、目標とか意識的目的にもとづく関係とはもちろん矛盾しない。因果的な関係は、実際、目的的関係よりも重要で基本的だと考えられるかもしれないが、それは、この因果的な関係が、自然法の出発点となっている意識的目的、目標を人々がなぜもつかを実際的に説明するからである。しかし、このタイプの因果的説明は、自明の真理にもとづいているのでもなければ、意識的な目的とか目標に媒介されているのでもない。それは、社会学や心理学が、他の科学と同様、観察に、また可能な場合には実験により、一般化と理論という方式を用いて確立するものである。したがってそのような関係は、一定の法的ないしは道徳的ルールの内容を、以下の自明の真理としてのべる事実に結びつける関係とは異なっている。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第2節 自然法の最小限の内容,pp.211-212,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:自然法,生存する目的,目的と手段による説明,原因と結果による説明,因果的説明)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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33..政治機構は、人々の能力や資質の現状に適合していなければ、その目的を実現することができない。(1)統治体制の受け容れ、(2)統治体制を守るための能力と行動、(3)統治目的を実現するための能力と行動(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

統治体制と国民の能力、資質

【政治機構は、人々の能力や資質の現状に適合していなければ、その目的を実現することができない。(1)統治体制の受け容れ、(2)統治体制を守るための能力と行動、(3)統治目的を実現するための能力と行動(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
 政治機構は、人々の能力や資質の現状に適合していなければ、その目的を実現することができない。以下の3条件の全てが満たされている必要がある。
(1)統治体制の受け容れ
 特定の統治形態の適用対象となる国民は、それを進んで受け容れていなければならない。あるいは少なくとも、その統治形態を確立するのに克服不可能な障害となる程度にまでは嫌がってはいないことが必要である。
(2)統治体制を守るための能力と行動
 国民は、その統治形態の存続に必要な事物を進んで行わなければならないし、かつ、行えなければならない。例えば、自由な統治に必要な能力と行動は次のようなものである。
 (2.1)公共精神、注意深さ、勇敢さ、勤勉さ
  不適切な例:怠惰、不注意、臆病、公共精神の欠如のために、自由な統治の維持に必要な努力を行えない。
 (2.2)自由の侵害に対する戦い
  不適切な例:自由な統治が直接攻撃されているときに、自由な統治のために戦わない。
 (2.3)欺瞞を見破る知性
  不適切な例:国民を自由な統治から逸脱させようとして使われる欺瞞に、国民がのせられてしまう。
 (2.4)専制や独裁から国民の主権を守る
  不適切な例:国民が、一時的な落胆やパニックのために、あるいは一個人に対する発作的熱狂のために、大人物の足下に自分たちの自由を投げだしてしまう。あるいは、制度を転覆できるような権力をその人物に委ねたりする。
(3)統治目的を実現するための能力と行動
 国民は、その統治形態の目的を達成するために国民に求められる物事を進んで行わなければならないし、かつ、行えなければならない。例えば、不適切な例は次のとおりである。
 (3.1)国民の義務の履行
  不適切な例:統治形態によって求められている義務を果たすのに消極的であり、その能力を欠いている。
 (3.2)法と統治への共感と法の遵守
  不適切な例:法に共感を持ち法の執行に進んで協力するのではなく、法に公然と背く人々よりも、法の執行者を邪悪な敵とみなす。
 (3.3)統治体制への関心と適切な投票
  不適切な例:選挙人の大半が、自分たち自身の統治体制に無関心なために投票しない。
 (3.4)公的な根拠に基づいた投票
  不適切な例:投票はするにしても、公的な根拠にもとづいて投票せずに、買収されて投票したり、自分を支配している人とか、私的な理由で機嫌をとりたいと思っている人の言いなりになって投票したりする。
 「他方、政治機構はひとりでには動かない、ということにも留意すべきである。最初に人間が作るのだから、人間が動かさねばならない。しかも、ふつうの人間がである。政治機構に必要なのは人々の服従だけではなく人々の活発な参加だから、政治機構は人々の能力や資質の現状に適合していなければならない。これは、三つの条件を含意している。〔第一に〕特定の統治形態の適用対象となる国民は、それを進んで受け容れていなければならない。あるいは少なくとも、その統治形態を確立するのに克服不可能な障害となる程度にまでは嫌がってはいないことが必要である。〔第二に〕国民は、その統治形態の存続に必要な事物を進んで行わなければならないし、かつ、行えなければならない。そして、〔第三に〕国民は、その統治形態の目的を達成するために国民に求められる物事を進んで行わなければならないし、かつ、行えなければならない。ここでの「行う」という語は、作為と不作為の双方を含むと解すべきである。すでに確立している政体を存続させるためには、あるいは、特定の政体を推奨する理由としてその政体ならば達成できるとされている目的を達成するためには、行為や自制の点で必要な条件を国民は満たせなければならない。
 これらの条件すべてが満たされるのであればどれほど望ましい見通しが得られる統治形態であっても、いずれかが満たされていない事例では適合性がない。
 特定の統治形態に対する国民の嫌悪という第一の障害は、理論上、見落としはありえないから、例解は不要だろう。こういう事態は絶えず生じている。」(中略)
 「しかし、ある統治形態を国民が嫌っていないにもかかわらず、おそらくは望んですらいるにもかかわらず、そのための条件〔第二の条件〕を積極的に満たそうとしない、あるいは満たせない、ということもある。統治体制を名目的にでも存続させるのに必要な物事ですら、国民が行えないこともあるだろう。国民が自由な統治を選好しているとしても、自由にまったく不向きなときがある。怠惰、不注意、臆病、公共精神の欠如のために、自由な統治の維持に必要な努力を行えない、自由な統治が直接攻撃されているときに自由な統治のために戦わない、あるいは、国民を自由な統治から逸脱させようとして使われる欺瞞に国民がのせられてしまう場合がそうである。国民が、一時的な落胆やパニックのために、あるいは一個人に対する発作的熱狂のために、大人物の足下に自分たちの自由を投げだしてしまったり、制度を転覆できるような権力をその人物に委ねたりする場合も同様である。こうした国民にとっても、たとえ短期間でも自由な統治を手にするのはよいことだろうが、しかし、彼らが長期にわたって自由な統治を享受する見込みはない。
 さらに、国民が自分たちの統治形態によって求められている義務を果たすのに消極的な場合や、能力を欠いている場合〔第三の条件を満たしていない場合〕もある。」(中略)「劣悪な統治が国民に、法は国民の善以外の目的のために作られていると教え、法に公然と背く人々よりも法の執行者を邪悪な敵とみなすように教えたのである。しかし、こうした精神の習慣がはびこってしまっている人々に責任はないとしても、また、よい統治によってこの習慣が最終的には克服可能だとしても、ともかくこの習慣が存在する限り、以上のような傾向のある国民は、法に共感を持ち法の執行に進んで協力する国民のように、わずかな権力行使で統治するのは不可能である。さらにまた、選挙人の大半が、自分たち自身の統治体制に無関心なために投票しない場合、あるいは、投票はするにしても、公的な根拠にもとづいて投票せずに、買収されて投票したり、自分を支配している人とか私的な理由で機嫌をとりたいと思っている人の言いなりになって投票したりする場合、代議制は無価値であり、暴政や陰謀のたんなる道具になってしまうだろう。そのようにして行われる民主的選挙は、悪政の防止策どころか、悪政の装置の追加部品でしかない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第1章 統治形態はどの程度まで選択の問題か,pp.4-7,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:統治体制,国民の能力・資質,統治体制の受容,統治体制維持能力,統治目的実現能力)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年8月31日土曜日

10.公共政策では、市場や国家や市民社会の役割のような、重要で基礎的な思想をめぐって論争される。なぜなら、この大きな枠組みが個別の認識と、特別な利害関係を考慮した現実的政策に影響を与えるからである。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

公共政策をめぐる戦い

【公共政策では、市場や国家や市民社会の役割のような、重要で基礎的な思想をめぐって論争される。なぜなら、この大きな枠組みが個別の認識と、特別な利害関係を考慮した現実的政策に影響を与えるからである。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))】

公共政策をめぐる戦い
(1)利害関係
 実際には、特別な利害関係を考慮した現実的政策が争われている。
(2)表向きの主張
 表向きの主張では、効率性や公平さに焦点があてられる。すなわち、あくまでも自分たちの利益ではなく、他の人々の利益にもなるという主張がなされる。
(3)枠組み思考の重要性
 市場や国家や市民社会の役割のような、重要で基礎的な思想が、大きな“枠組み作り”を行い、個別の認識は、この枠組みの影響を受ける。

 「不平等の政治学
 ここまで、どのようにしてわたしたちの認識が“枠組み作り”の影響を受けるか説明した。

だから、今日の戦いの多くが不平等の枠組み作りの戦いであることは驚くにあたらない。

美と同じく公平さも、少なくとも多少は見る人の見かたに左右されるし、最上層の人々は、いまのアメリカにおける不平等が公平なものに見えるような、少なくとも許容範囲内のものに見えるような枠組みになっていることを確信したいと思っている。

不公平だと認識されると、職場の生産性に響くおそれがあるだけでなく、不平等を緩和しようとする法律が制定されることにもなりかねないからだ。

 公共政策をめぐる戦いにおいては、特別な利害関係を考慮した現実的政策がどのようなものであろうとも、一般大衆の会話では、効率性や公平さに焦点があてられる。

わたしが政府の役職に就いていたころ、産業への助成金を求める嘆願者が、財源が豊かになるからという理由だけで助成金を求めるのを耳にしたことは一度もない。むしろ、嘆願者は公平という言葉を使って――そして、そうすることがほかの人々の利益にもなるという表現を使って――自分たちの要望を伝えてきた。

 同じことは、アメリカ
で不平等を拡大させた政策についても言える。

“枠組み作り”についての戦いは、まず、わたしたちが不平等をどう見るのか――不平等はどのくらい大きいのか、その原因は何か、どのように正当化できるのか――が焦点となる。

 それゆえ企業のCEO、特に金融部門のCEOは、自分たちの高給は社会に大きな貢献をした成果だから正当化できると主張してきた。このような貢献を続ける意欲を持つには高給が必要だということを、他人に(そして自分自身に)納得させようとしてきた。だからこそCEOの高給は報奨金と呼ばれているのだ。

しかし、金融危機が、そういうCEOの主張はごまかしだということを白日のもとにさらした。4章で触れたように、報奨金という名称の報酬は、とても報奨金と呼べる代物ではなかった。業績がよければ報酬は高くなったが、業績が悪くても報酬は高いままだった。変わったのは名称だけだ。業績が悪いと、報酬の名称は“慰留金”に変えられた。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第6章 大衆の認識はどのように操作されるか,pp.231-232,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
(索引:公共政策をめぐる戦い)

世界の99%を貧困にする経済


(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。
 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。」(中略)「多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。
 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。」(中略)「こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。
 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。
 つまり、労働法コーポレートガバナンス金融規制貿易協定体系化された差別金融政策課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)
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6.放射性廃棄物の管理を難しくする理由(a)毒性が非常に強い。(b)半減期が非常に長い。(c)熱を発生し続けるので、小さく集めて管理できない。(d)化学的性質が違う多くの元素を含むので、処理や保管が難しい。(高木仁三郎(1938-2000))

放射性廃棄物の管理を難しくする4つの理由

【放射性廃棄物の管理を難しくする理由(a)毒性が非常に強い。(b)半減期が非常に長い。(c)熱を発生し続けるので、小さく集めて管理できない。(d)化学的性質が違う多くの元素を含むので、処理や保管が難しい。(高木仁三郎(1938-2000))】

放射性廃棄物の管理を難しくする4つの理由
(a)毒性が非常に強い。
(b)半減期が非常に長い。
(c)熱を発生し続けるので、小さく固めて集めて管理できない。
(d)化学的性質が違う多くの元素を含むので、処理や保管が難しい。

 「放射性廃棄物の特徴は、まず第一に毒性がプルトニウムと同じように非常に強いことです。第二に非常に長生きです。第三に非常にやっかいな特徴として、熱を発生し続けるという、発熱性の問題があります。

廃棄物が熱を発生しなければもう少し処理がしやすいのです。一カ所に固めて置いておけばいいのですが、それができないのは発熱性があるからです。原発から出てくる廃棄物を一つにまとめたら小さくなるという話がありますが、一つにまとめられない。もしまとめたら、そのとたんに内部から溶けていきます。地中に埋める場合でもこの点が問題になります。

 さらに、成分が雑多という第四の特徴があります。成分が雑多というのは、化学的性質が違う多くの元素がからんでくるという意味です。セシウムという元素もあればルテニウム、プルトニウム、ストロンチウムなどの元素もある。

産業廃棄物もやっかいですが、たとえばクロムならクロムの性質をうまく理解してそれにあった器に入れたり化学処理を考えてやればいいのですから、クロムを閉じ込めたり処分することができます。

放射性廃棄物がやっかいなのは、化学的性質を単一に決めることができない点です。学校時代に習った元素の周期律表の端から端までの雑多な元素を含んでいますから、その全部にあった処理方法はなかなかないわけです。それがいろいろなトラブルを起こしてしまう原因です。」

(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第二巻 脱原発へ歩みだすⅡ』反原発、出前します! Ⅳ 核燃料サイクル、pp.387-388)
(索引:放射性廃棄物の管理の困難さ)

脱原発へ歩みだす〈2〉 (高木仁三郎著作集)

(出典:高木仁三郎の部屋
友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ
 「「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
 未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
 まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
 反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々とともにあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向って進めてくれました。幸いにして私は、ライト・ライブリフッド賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うものとしての受賞でした。
 残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期的症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
 後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
 私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。
 泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
 今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向っての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
 いつまでも皆さんとともに
 高木 仁三郎
 世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』未公刊資料 友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ、pp.672-674)

高木仁三郎(1938-2000、物理学、核化学)
原子力資料情報室(CNIC)
Citizens' Nuclear Information Center
認定NPO法人 高木仁三郎市民科学基金|THE TAKAGI FUND for CITIZEN SCIENCE
高木仁三郎の部屋
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ニュース(高木仁三郎)
高木仁三郎 略歴・業績Who's Whoarsvi.com立命館大学生存学研究センター
原子力市民委員会(2013-)
原子力市民委員会
Citizens' Commission on Nuclear Energy
原子力市民委員会 (@ccnejp) | Twitter
検索(原子力市民委員会)
ニュース(原子力市民委員会)

難解な事案を解決するとき、裁判官たちの感ずる拘束を表現する比喩の例:「法全体に内在する新たな法準則」「法の内在的論理に拘束力を持たせる」「法にはそれ固有のある種の生命が認められる」(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法全体に内在する拘束力

【難解な事案を解決するとき、裁判官たちの感ずる拘束を表現する比喩の例:「法全体に内在する新たな法準則」「法の内在的論理に拘束力を持たせる」「法にはそれ固有のある種の生命が認められる」(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(3.3.5)追記。

(3)立法趣旨とコモン・ローの原理
  裁判官は、制定法の立法趣旨、および判例法の基礎に存在するコモン・ローの原理、すなわち政治的権利を根拠に難解な事案を解決し、法的権利を確定する。法的権利は、政治的権利のある種の函数と言えよう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
 (3.1)立法趣旨
  ある特定の制定法ないしは制定法上の条項の「意図」ないし「趣旨」
  (3.1.1)権利は、制定法により創出される。
  (3.1.2)特定の制定法により、如何なる権利が創造されたかが問題となる難解な事案が発生する。
 (3.2)コモン・ローの原理
  判例法上の実定的法準則の「基礎に存し」、あるいはそれへと「埋め込まれた」原理
  (3.2.1)「同様の事例は、同様に判決されるべし」とする原理。
  (3.2.2)一般的法理が具体的に如何なる判決を要請するかが不明確な難解な事案が発生する。
 (3.3)難解な事案において、立法趣旨、コモン・ローの原理が果たしている機能
  (3.3.1)制定法は、法的権利を創出し消滅させる一般的な権能を有する。
  (3.3.2)裁判官は、判例法上の実定的法準則に従う義務が一般的に存在する。
  (3.3.3)政治的権利は、立法趣旨、コモン・ローの原理として表現される。
  (3.3.4)如何なる法的権利が存在するか、如何なる判決が要請されるかが不明確な、難解な事案が発生する。
  (3.3.5)裁判官は、立法趣旨およびコモン・ローの原理を拠り所として、自らに認められている自律性を受容し、難解な事案を解決する。
   (a)裁判官たちは、以前の判決の効力の内実につき意見を異にする場合でさえ、その判決に牽引力が認められることについては意見が一致している。
   (b)裁判官たちは、新たな法を創造していると自覚するときでさえ感ずる拘束を、次のような比喩で表現する。「法全体に内在する新たな法準則」「法の内在的論理に拘束力を持たせる」「裁判官は、法それ自体が純粋に作用するための機関である」「法にはそれ固有のある種の生命が認められる」。
  (3.3.6)したがって法的権利は、政治的権利のある種の函数として定義されることになる。

 立法趣旨  コモン・ローの原理……政治的権利
  ↓      ↓          │
 制定法   判例法上の        │
  │    実定的法準則       │
  ↓      ↓          ↓
 個別の権利 個別の判決………………法的権利


 「裁判官達は、以前の判決が解釈以外の何らかの仕方で、論争の対象となる新たな法準則の定式化に寄与することを認める点では同意しているように思われる。彼らは以前の判決の効力の内実につき意見を異にする場合でさえ、その判決に牽引力が認められることについては意見が一致している。これに対し、ある問題に関してどのような投票を行うべきかを決定する際、立法者はきわめてしばしば背景的倫理や政策上の諸問題にしか関心を払わない。立法者は、その投票が議会の同僚議員のそれと、あるいは過去の議会のそれと矛盾しないことを示す必要はない。しかし裁判官が、このような独立的な性格をもつことは非常に稀である。裁判官は、自己の法創造的判決に対して自ら与える正当化を他の裁判官や公務担当者が過去において下した判決と関連づけようと努めるのが常である。
 事実、有能な裁判官は、彼らの職務を一般的な方法で説明しようとする場合、彼らが新たな法を創造していると自覚するときでさえ感ずる拘束を、そして彼らが立法者であれば適切ではないような拘束を表現するために、何らかの比喩的表現を探そうとする。たとえば彼らは、法全体に内在する新たな法準則を見出したと述べてみたり、政治よりは哲学に属するような方法を通じて、法の内在的論理に拘束力をもたせるとか、裁判官は法それ自体が純粋に作用するための機関であるとか、あるいはたとえ法の生命は論理よりは経験に属するものであっても、法にはそれ固有のある種の生命が認められるなどと述べたりする。ハーキュリーズは、これら周知の比喩や擬人的表現に満足してはならないが、同時にこれらの表現に含まれた最良の法律家へと訴えかける含蓄ある内容を無視するようないかなる司法過程の記述にも満足してはならない。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,B コモン・ロー,木鐸社(2003),pp.139-140,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:法全体に内在する拘束力,法に固有の生命)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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06.a)権力の不平等性,(b)不平等を隠蔽する仕組み,(c)善の達成の手段,(d)支配と略奪の道具、これらの属性を持つ、一連の持続する制度化された諸関係の中で、人間は、自らの善と他者たちの善の双方を達成する。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

制度化された諸関係

【(a)権力の不平等性,(b)不平等を隠蔽する仕組み,(c)善の達成の手段,(d)支配と略奪の道具、これらの属性を持つ、一連の持続する制度化された諸関係の中で、人間は、自らの善と他者たちの善の双方を達成する。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(1)人間は、一連の持続する制度化された諸関係の中で、自己がある立場を占めているのを見出す。
 例えば、
 (a)家族や家庭
 (b)学校
 (c)ある実践における師弟関係
 (d)地域コミュニティ
 (e)より大きな社会
(2)制度化されたネットワークにおいて、自らの善と他者たちの善の双方を達成するためには、以下のことが必要である。
 (2.1)つねに、不当な差別や不当な搾取をこうむる可能性と結びついていることを認識する。
 (2.2)私たちは、権力の実情に即して生きる術と、それに抗して生きる術の双方を学ぶ必要がある。
 (2.3)制度化されたネットワークの諸特性
  (a)権力の不平等性
   権力は、つねに不平等なしかたで配分されている。
  (b)不平等を隠蔽する仕組み
   不平等な権力の配分を、隠蔽し保護する巧妙な仕組みを備えている。
  (c)善の達成の手段
   このネットワークなしには、私も他者たちも、自分たちの善を達成する力を獲得できない。すなわち、開花という私たちの目的を達成するうえで欠かせない手段である。
  (d)支配と略奪の道具
   同時に、支配と略奪の道具として機能することで、私たちの善の追求をしばしば妨げる。
  (e)最悪の状態
   与えることと受けとることに対して課せられる諸規則が、権力の諸目的に実質的に従属しているか、さもなければそれらに奉仕させられているような最悪の状態が存在する。
  (f)最善の状態
   最善の状態とは、与えることと受けとることを律する諸規則が、そこに向けて方向づけられている諸目的に、権力が奉仕しうるようなしかたで、権力の配分が達成された状態である。

 
 「フーコーは、私たちに次のことを気づかせてくれた思想家たちの長い系譜――アウグスティヌス、ホッブズ、およびマルクスは、もっとも著名な彼の先駆者たちである――に連なる最新の思想家にすぎなかった。すなわち、彼らが気づかせてくれたのは、制度化された〈与えることと受けとることのネットワーク〉とは、つねに、権力が不平等なしかたで配分されている社会組織であり、しかも、そのような不平等な権力の配分を隠蔽し保護する巧妙な仕組みを備えた社会組織である、ということである。そうである以上、そのようなネットワークへの参加は、つねに、不当な差別や不当な搾取をこうむる可能性と結びついており、現にしばしばそうした可能性は現実のものとなる。私たちがそのような事実をきちんと認識していない場合、私たちの実践的判断や推論はかなり的外れなものとなってしまうだろう。そうしたネットワークへの参加を通じて、みずからの善と他者たちの善の双方を達成するために私たちが必要とする諸徳は、〔当該社会における〕権力の配分のされかたや、権力の行使が陥りがちな腐敗の諸形態に関する認識を踏まえつつ発揮される場合にのみ、本物の徳として機能するのである。これは私たちの人生全般についていえることだが、この点においてもまた、私たちは権力の実情に即して生きる術と、それに抗して生きる術の双方を学ぶ必要があるのだ。
 そういうわけで、家族や家庭、学校やある実践における師弟関係、地域コミュニティやより大きな社会といった、一連の、持続する制度化された諸関係の中で自己がある立場を占めているのを見出すことが、また、ふつうは時の経過とともにその立場が移り変わっていくことが、ヒト〔の生〕に特有の条件である。そして、そのような制度化された諸関係は、二つの様相を呈して現れる。〔すなわち、一方で〕それらは、これまで私が描写してきたような、〈与えることと受けとること〉という種類の諸関係であるかぎりにおいて、それらなしには私も他者たちも自分たちの善を達成する力を獲得できなかったし、そうした力を維持することもできなかった、そうした諸関係である。つまり、それらは、開花という私たちの目的を達成するうえで欠かせない手段である。しかしながら〔他方で〕、それらはまた一般的に、支配と略奪の道具として機能することで私たちの善の追求をしばしば妨げる。そうした既存の権力のヒエラルキーや権力の用途を具体的に表現している諸関係でもあるだろう。
 その場合、私たちは概して、そうした二重の性格を備えた社会状況のうちに身を置いていることになる。そして、そのような二重の性格は、私たちの諸々の社会関係の構造を支配し、それらを作動させている諸規則や諸規範を、私たちがあまりにも安易に、「その諸規則」とか「その諸規範」などと呼ぶとき、私たちの目から覆い隠されてしまうものである。ときとして二種類の規則群〔私たちの善の達成に寄与する規則群と、私たちの善の達成を妨げる規則群〕は並存しているだろう。あるいは、同一の規則ないしは規則群が、あるときは一方のしかたで、またあるときは他方のしかたで機能するということもあるだろう。一方の規則群と他方の規則群が真っ向から対立しあっている生活様式もあるだろうし、一方の規則群が他方の規則群に従属させらている、もしくは、吸収されてしまっている生活様式もあるだろう。これら二種類の規則の間の、このように多様で、しばしば変化しつつある関係が反映しているのは、〔個々の規則間の〕大小さまざまな葛藤や闘争のその帰結である。〔その場合〕最悪の帰結とは、与えることと受けとることに対して課せられる諸規則が、権力の諸目的に実質的に従属しているか、さもなければそれらに奉仕させられている状態である。また、最善の帰結とは、与えることと受けとることを律する諸規則がそこにむけて方向づけられている諸目的に権力が奉仕しうるようなしかたで、権力の配分が達成された状態である。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第9章 社会関係、実践的推論、共通善、そして個人的な善,pp.141-143,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:制度化された諸関係,権力の不平等性,不平等を隠蔽する仕組み,善の達成の手段,支配と略奪の道具)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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依存的な理性的動物叢書・ウニベルシタス法政大学出版局

法や道徳、社会の理論の構築のためには、(a)生存するという目的を仮定する必要がある。この目的は、(b)社会により異なる恣意的、慣習的な諸目的や、(c)人によって異なる特定の諸目的とは、本質的に異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

生存するという目的

【法や道徳、社会の理論の構築のためには、(a)生存するという目的を仮定する必要がある。この目的は、(b)社会により異なる恣意的、慣習的な諸目的や、(c)人によって異なる特定の諸目的とは、本質的に異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(9)追記

 自然を支配している諸法則を考えると、そこには善いものと悪いものを基礎づける何らかの根拠があるようには思えない。このことから、どうあるべきかという言明(価値の言明)は、何が起こっているのかという言明(事実の言明)からは基礎づけられ得ないと考えられた。
 考察するための事例。
 (1)全ての出来事は、自然を支配している諸法則に従っている。
 (2)地球が、自然を支配している諸法則に従って、自転している。
 (3)地球が、自然を支配している諸法則に従って、温暖化している。
 (4)時計が、自然を支配している諸法則に従って、止まっている。
 (5)時計が、自然を支配している諸法則に従って、正確に動いている。
  (a)目的と機能
   時計の目的に従って、時計の諸構造の機能を説明することができる。
  (b)目的は人間が導入した
 (6)どんぐりが、自然を支配している諸法則に従って、腐ってしまう。
 (7)どんぐりが、自然を支配している諸法則に従って、樫の木になる。
   人間は、自然の中に目的を導入し、自然、生命、自らの身体と精神や社会を、目的と機能の言葉で説明する。この目的は、人間が創造できるにもかかわらず、また同時に、何らかの自然の諸法則に基礎を持つ。(ハーバート・ハート(1907-1992))

  (a)目的と機能
   成長して樫の木になることが「目的」だとしたら、この目的のために中間段階が「良い」とか「悪い」と記述することもできるし、どんぐりの諸構造とその変化を、目的のための「機能」として説明することもできる。
  (b)目的は人間が導入した
  (c)目的自体は何らかの自然の諸法則を基礎に持つ
   人間が、説明のために目的を導入したとしても、どんぐりは自ら、自然を支配している諸法則に従って、樫の木になる。目的自体も何らかの自然の諸法則を基礎に持つ。この意味において、目的は、どんぐり自身のなかに含まれていたとも言い得る。
 (8)人間が、自然を支配している諸法則に従って、滅亡する。
 (9)人間が、自然を支配している諸法則に従って、目的を創造し、それを実現する。
  (a)目的と機能
   人間は、自分自身の目的を創造し、それを実現しようとする。健康と病気の区別と、身体の機能および精神の諸機能。善と悪の区別と、社会の機能。
  (b)目的自体は何らかの自然の諸法則を基礎に持つ
   人間は、自ら意識的に目的を創造できるため、なお、目的自体が何らかの自然の諸法則に基礎を持っていることが信じられなかった。すなわち、何が良いか悪いかを決めるのは人間であり、自然を支配している諸法則からは独立しているのだと考えた。しかし、これは誤りである。
  (c)目的
   (c.1)生存すること
    (c.1.1)事実
     たいていの人間は、通常生き続けることを望むという事実がある。しかし、これは単なる偶然的な事実であると反論することができる。
    (c.1.2)仮定としての目的
     人間の法や道徳、すなわち人間が共同していかに生きるべきかを解明するためには、生存することを目的として仮定して理論を構築する。なぜなら、「ここでの問題は生き続けるための社会的取り決めであって、自殺クラブの取り決めではないからである」。
   (c.2)生存以外の諸目的
    生存すること以外の目的、人間にとっての善、人間にとっての特定の良き生き方といったものには、様々な意見があり、意見の深い不一致も存在する。
    (c.2.1)人間が作った、単なる慣習である規則や目的。
     個々の社会に特有のものや、恣意的もしくは単なる選択の問題にすぎないようなものがたくさん見られる。
    (c.2.2)人によって異なる特定の目的。
  (d)目的を実現する手段
   (d.1)危険と安全、危害と利益、病気と治療
    生存という目的を阻害するか、促進するか。生存することが、他の諸目的とは異なる特別な地位にあることは、生存することが、世界や人間相互のことを記述するのに用いる、思考や言語の構造全体に反映されていることから実証できる。
   (d.2)良い、悪い
    生存以外の目的に対しても、目的に役立つかどうかで良い、悪いと語ることができる。
   (d.3)必要と機能
    生存という目的のために「必要」なもの。例えば、食物や休息。目的を実現するための「機能」による説明が可能である。例えば、血液を循環させるのが心臓の機能である。これは、単なる因果的説明とは異なる。

 「さらに、この目的論的な見方の多くは、人間に関するわれわれの考え方ないしは話し方のいくつかに残っている。それは、われわれがある事柄を人間に《必要なもの》と認めて、それを満たすのが《良い》と判断し、また、人間《によって》加えられたり人間がこうむるある事柄を《害悪》であるとか《危害》であると認めるさいに潜在している。たとえば、死にたいという理由から食べたり休息したりするのを拒む人は、たしかにいるかもしれないが、われわれは、食事や休息を、人々が規則的にしたり、あるいは単にたまたま望んだりするよりも、もっとそれ以上のものであると考える。食物や休息は、必要なときにそれを拒む者がいるとしても、やはり人間に必要なものである。こうして、食べて眠ることは、すべての人間にとって自然であると言われるばかりでなく、すべての人間はときどき食べかつ休息すべきであるとか、そうすることは自然にかなった良いことであるとも言われるのである。「自然にかなった」という言葉は、このような人間の行動に関する判断に用いられるのであるが、それは、これらの判断と以下の二つの判断との違いを明示しうる力をもっている。すなわち、思考や反省によって発見されえない内容をもった単なる慣習もしくは人間のつくった規則(「あなたは帽子を脱ぐべきである」)をあらわすにすぎない判断、また、あるときある人が抱き、別の人なら抱かない何か特定の目的を達成するために必要とされるものを単に示すにすぎない判断との違いを明示しうるのである。同じような見方は、身体の器官の《機能》という観念のなかに、また、それと単なる因果的性質とを区別するさいにみられる。われわれは、血液を循環させるのが心臓の機能であるとは言うが、死をひき起こすのがガン腫の機能であるとは言わない。
 これらの粗雑な例は、人間行動に関する普通の考えのなかに、今もなお生きている目的論的な要素を明らかにするために挙げられたのであるが、それは、人間が他の動物と共有する生物学的事実という低い分野から引かれたものである。何がこの種の考え方や表わし方を意味あらしめるかは、まったく自明と言ってよいであろう。すなわちそれは、人間の活動の固有の目的は生き残ることであるという暗黙の前提である。そして、この前提がまた、たいていの人間は通常生き続けることを望むというきわめて偶然的な事実にもとづいている。そうするのが自然になかってよいといわれる行動は、生き残るために必要とされる行動である。人間に必要なもの、害悪、身体の器官あるいは変化の《機能》という観念も同様な単純な事実にもとづいている。もしここで止まるならば、われわれはたしかに、自然法についての非常に薄められた説明しかもたないことになろう。というのは、この見方の古典的な主張者達は、生き残ること(《自己存在の堅持》perseverare in esse suo)を、人間の目的とか人間にとっての善という、それよりずいぶん複雑でまた議論の余地ある概念の中で、もっとも低い次元のものにすぎないと考えたからである。アリストテレスはその概念に、人間知性の公平な要請を含めたし、アクィナスは神に関する知識を含めたが、そのどちらもが将来争われるかもしれないし、またこれまでにも争われてきたような価値を表明している。しかし他の思想家達、なかでもホッブズやヒュームは、すすんでその照準を一段低いところへすえた。つまり彼らは、生存というつつましい目的のなかに、自然法という用語に経験上妥当な意味を与えるところの明白な中心的要素を認めたのである。「人間本性は、個人の結合がなければ決して存在しえない。そしてその結合は、衡平と正義の法に考慮が払われなければ、決して見られなかったであろう。」
 この単純な思想は実際、法と道徳双方の特徴におおいに関係があるのである。しかもこの単純な思想をとり出し、一般的な目的論的見解のより議論の余地ある部分、つまり人間にとっての目的とか善が、ある特定の生き方としてあらわれ、それについて人々の間で事実上深い意見の不一致を招くような部分から、それを分離することが可能なのである。さらに、生存ということに関連して、それは、前もって決められたものであって、人間固有の目標であり目的であるから、人は必ずそれを欲するものであるという考えは、今日の考え方からみると形而上学的にすぎるとして放棄することができる。その代わり、一般に人間が生きたいと思うことは単なる偶然の事実であって、ひょっとするとそうでないかもしれないと考えることができるし、しかも、生存が人間の目標あるいは目的であるという意味は、人間が生存を単に望んでいるという以上に出ないのである。しかし、たとえこのように常識的に考えても、生存ということは、人間行為との関係においても人間行為に関するわれわれの思考においてもやはり特別の地位を占めるのであり、その地位は正当的な自然法理論において生存が重要でしかも必要であるとされていることと相応するのである。というのは、単に大多数の人間がどんな悲惨な目にあっても生きていたいと思うだけでなく、このことが世界や人間相互のことをのべるのに用いる思考や言語の構造全体に反映されているからである。生きたいという一般の人の願望を除外しては、危険と安全、危害と利益、必要と機能、病気と治療というような概念は意味をなさなくなるであろう。というのは、これらの概念は、目的として受けいれられている生存に役立つかどうかによって、ある事柄を同時に記述し、評価する手段であるからである。
 しかし、人間の法と道徳をめぐる議論にもっと直結したという意味では、生存を目的として受けいれることが必要であるという考えにくらべると、はるかに単純で、はるかに哲学的でない考え方が存在する。われわれは、この議論を進めていくさいに、生存を仮定されたものとして取り扱うことにしよう。というのは、ここでの問題は生き続けるための社会的取り決めであって、自殺クラブの取り決めではないからである。われわれは、これらの社会的取り決めのなかに、理性によって発見できる自然法であると位置づけられるようなものがあるかどうか、またそれは、人間の法や道徳とどのような関係をもつのかを知りたいと思う。人間が共同して《いかに》生きるべきかについて、このような、もしくは何かほかの問題を立てるためには、一般的にいって人間の目的は生きることであると仮定しなければならない。この点から出発すれば議論は簡単である。人間本性および人間の住む世界に関するいくつかの非常に明白な一般原則――まさに自明の真理――を熟慮してみると、それらが妥当するかぎり、いかなる社会組織でも、それが存続しようとする以上もたなければならない一定の行為のルールのあることがわかる。このようなルールは、法と慣習的道徳が社会的統制の個別の形態として区別される時点まで進んだあらゆる社会の法と慣習的道徳に、しかも実際には両者に共通の要素となるのである。そのほかに、法と道徳の双方に、個々の社会に特有のものや、恣意的もしくは単なる選択の問題にすぎないようなものがたくさん見られるのである。人間、その自然的環境、目的に関する基本的な真理に基礎をおくこのような普遍的に認められた行為の原則は、自然法の名の下にしばしば提出された、より大げさでより疑わしい理論と比べてみると、自然法の《最小限の内容》と考えられるであろう。次の節において、われわれは、この謙虚だが重要な最小限の内容が拠って立つ人間本性の目立った特徴を、5つの自明の真理といった形で考察しよう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第1節 自然法と法実証主義,pp.208-210,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:生存するという目的)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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32.政治的な主張においては、具体的な法的・制度的な保障を要求しない、単なる抵抗、蜂起、反乱、革命を求める主張の欺瞞に、注意すること。それは始まらず、始まっても成功せず、成功しても救済策ではない。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

欺瞞的な主張

【政治的な主張においては、具体的な法的・制度的な保障を要求しない、単なる抵抗、蜂起、反乱、革命を求める主張の欺瞞に、注意すること。それは始まらず、始まっても成功せず、成功しても救済策ではない。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(b)追加。

欺瞞的な主張
(a) 政治的な主張においては、結果を伴わない修辞的で一般的な主張の欺瞞に、注意すること。実際に何を得ることができるのか。法的、制度的に何を変更して、何が保障されることになるのかを問うこと。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

(b)政治的な主張においては、具体的な法的・制度的な保障を要求しない、単なる抵抗、蜂起、反乱、革命を求める主張の欺瞞に、注意すること。それは始まらず、始まっても成功せず、成功しても救済策ではない。

 「抵抗が必要であると想定するのは、悪政の存在を想定することであるが、抵抗の保障ということは、人民に抵抗をその弊害に対する救済策だと思わせて、悪政に満足させようともくろまれているに過ぎない。実は、抵抗は決して救済策ではない。その理由には、二つある。第一の理由は、すべての人々は自分の身体と財産を内乱の危険にさらすことを嫌うために、抵抗する以前に非常な悪政に進んで服従することである。しかし、その上、革命は、それが起こった時でさえ、それ自体として何らの利益を生み出しはしない。革命は、善政に対する永久的な保障を樹立するのに貢献する限りにおいてのみ有益なのである。このような効果がないならば、革命のすべての犠牲は、全くの害悪である。それなのに、善政に対する保証に常に懸命に抗議してきた『エディンバラ・レヴュー』は、抵抗の原理を抑圧に対するわれわれの唯一の保障として支持している。それは、なぜであろうか。それは、抵抗の原理が、原理のように思われるその他のすべてのものと同様に、本当は保障にはならないのに、人民の目先のきかない人々の好意を得るようにもくろまれており、しかも貴族階級の臆病な人々以外は驚かせないからである。貴族階級の中で恐怖の余り全く理性を失った人は別として、他の人々はすべて、彼らが恐れる理由のある唯一の抵抗である蜂起の成功が普通の政府の下ではめったに起こらないこと、また、彼らの側にごく普通の慎重さがあるならば大抵の場合起こるのを防ぐことができると知り抜いている。従って、彼らは、人民が効果的ではない救済策に注目を集中して、効果的な救済策から目をそらすことに満足しているのである。
 『エディンバラ・レヴュー』の筆者の政治に関するすべての言辞は、彼らが人民が悪政に対抗する保障を求めることを阻止しようと願っていることを立証している。彼らが或る法律または制度を称賛するのは、それが善政に貢献するからではなく、自由にとって有利だからである。彼らが政府の政策を非難するのは、それが圧政への扉を開くからではなく、それが非立憲的だからである。このような言辞は、すぐあとで明らかにするように、善政の問題をあいまいにしようと欲する人々にとって、極めて便利なのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『「エディンバラ・レビュー」批判』(集録本『ミル初期著作集』第1巻),1 若きベンサム主義者として(1821~26),4 「エディンバラ・レビュー」批判(1824),pp.144-146, 御茶の水書房(1979),杉原四郎(編集),山下重一(編集),山下重一(訳))
(索引:欺瞞的な主張)

J・S・ミル初期著作集〈第1巻〉1809~1829年 (1979年)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年8月30日金曜日

05.人間は、社会関係の中に組み込まれ他者に依存した状態から、共通善を理解し、めざすべき未来を他者と共有し、社会関係の形成や維持に寄与する自立した実践的推論者へと成長する。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

自立した実践的推論者

【人間は、社会関係の中に組み込まれ他者に依存した状態から、共通善を理解し、めざすべき未来を他者と共有し、社会関係の形成や維持に寄与する自立した実践的推論者へと成長する。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(1)子ども
 (a)ごく幼い子どもは、誕生する前から、自らが作り上げたわけではない一群の社会関係の中に、組み込まれている。
 (b)子どもは、大人に依存している。
(2)子どもが、自立した実践的推論者になるための諸条件
 (a)言語の獲得と、言語を幅広く多様なしかたで用いる能力を獲得する。
 (b)自らの行動の諸理由を比較衡量する能力を獲得する。
 (c)自分が現在抱いている諸々の要求から距離を置く能力を獲得する。
 (d)ただ現在だけを意識している状態から、想像上の未来をも見通している意識状態へと変化する。
(3)自立した実践的推論者
 (a)自らが参加する社会関係の形成や維持に寄与する。
 (b)自立した実践的推論者たちによる共通善を理解する。
 (c)現在および未来の可能な諸相に関して、ある程度共通の理解が存在する。
 (d)共通善の達成を可能にするような、他者との協力関係を形成・維持する技術を学ぶ。

 「ごく幼い子どもは、その誕生の瞬間から、いやそれどころか誕生する前から、みずからが作り上げたわけではない一群の社会関係の中に組み込まれているし、そうした諸関係によって自己のありようを規定されている。そのような子どもがいずれ到達しなければならない状態とは、一人の自立した実践的推論者たるその人間が、他の自立した実践的推論者たちとの間に、また、〔いまはその子どもが彼らに依存しているのだが〕やがては彼らのほうがその人間に依存するようになる人々との間に、諸々の社会関係をとり結んでいる状態である。自立した実践的推論者は、幼児とは異なり、彼らがそこに参加する社会関係の形成や維持に寄与する。そして、自立した実践的推論者になる術を学ぶということは、自立した実践的推論者たちによる共通善の達成を可能にするような、そうした関係を他者と協力して形成・維持する術を学ぶことである。しかるに、そのような他者と協力しあっておこなう活動は、〔その活動にたずさわる人々の間に〕現在および未来の可能な諸相に関して、ある程度共通の理解が存することを前提としている。
 ただ現在だけを意識している状態から想像上の未来をも見通している意識状態へと変化することが、幼児の状態から自立した実践的推論者の状態への移行に見出される第三の側面である。この能力も、みずからの行動の諸理由を比較衡量する能力や、自分が現在抱いている諸々の要求から距離を置く能力と同様に、言語の獲得と言語を幅広く多様なしかたで用いる力の双方をその要件とする能力である。言語を用いない知的な種のメンバーは、この能力をもちえない。ウィトゲンシュタインはこう述べている。「動物(Tier)が怒っていたり、おびえていたり、悲しんでいたり、喜んでいたり、びっくりしている状態というのは想像できる。だが、希望に満ちた状態というのはどうだろう。そして、そのような状態が想像できないのはなぜだろう」。そして、彼は続けてこう指摘している。イヌは自分の主人がいま玄関にいることは信じることはあっても、自分の主人があさって帰ってくると信じることはないだろう、と。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第7章 傷つきやすさ、開花、諸々の善、そして「善」,pp.100-101,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:自立した実践的推論者,社会関係,共通善)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

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人間は、自然の中に目的を導入し、自然、生命、自らの身体と精神や社会を、目的と機能の言葉で説明する。この目的は、人間が創造できるにもかかわらず、また同時に、何らかの自然の諸法則に基礎を持つ。 (ハーバート・ハート(1907-1992))

目的論的な自然観

【人間は、自然の中に目的を導入し、自然、生命、自らの身体と精神や社会を、目的と機能の言葉で説明する。この目的は、人間が創造できるにもかかわらず、また同時に、何らかの自然の諸法則に基礎を持つ。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

 自然を支配している諸法則を考えると、そこには善いものと悪いものを基礎づける何らかの根拠があるようには思えない。このことから、どうあるべきかという言明(価値の言明)は、何が起こっているのかという言明(事実の言明)からは基礎づけられ得ないと考えられた。
 考察するための事例。
 (1)全ての出来事は、自然を支配している諸法則に従っている。
 (2)地球が、自然を支配している諸法則に従って、自転している。
 (3)地球が、自然を支配している諸法則に従って、温暖化している。
 (4)時計が、自然を支配している諸法則に従って、止まっている。
 (5)時計が、自然を支配している諸法則に従って、正確に動いている。
  (a)目的と機能
   時計の目的に従って、時計の諸構造の機能を説明することができる。
  (b)目的は人間が導入した
 (6)どんぐりが、自然を支配している諸法則に従って、腐ってしまう。
 (7)どんぐりが、自然を支配している諸法則に従って、樫の木になる。
  (a)目的と機能
   成長して樫の木になることが「目的」だとしたら、この目的のために中間段階が「良い」とか「悪い」と記述することもできるし、どんぐりの諸構造とその変化を、目的のための「機能」として説明することもできる。
  (b)目的は人間が導入した
  (c)目的自体は何らかの自然の諸法則を基礎に持つ
   人間が、説明のために目的を導入したとしても、どんぐりは自ら、自然を支配している諸法則に従って、樫の木になる。目的自体も何らかの自然の諸法則を基礎に持つ。この意味において、目的は、どんぐり自身のなかに含まれていたとも言い得る。
 (8)人間が、自然を支配している諸法則に従って、滅亡する。
 (9)人間が、自然を支配している諸法則に従って、目的を創造し、それを実現する。
  (a)目的と機能
   人間は、自分自身の目的を創造し、それを実現しようとする。健康と病気の区別と、身体の機能および精神の諸機能。善と悪の区別と、社会の機能。
  (b)目的自体は何らかの自然の諸法則を基礎に持つ
   人間は、自ら意識的に目的を創造できるため、なお、目的自体が何らかの自然の諸法則に基礎を持っていることが信じられなかった。すなわち、何が良いか悪いかを決めるのは人間であり、自然を支配している諸法則からは独立しているのだと考えた。しかし、これは誤りである。

 「これが、事物はそれ自身のなかに実現すべき高いレベルを含んでいるという、目的論的な自然観である。いかなる種類の事物でも、それに特定ないしは固有の目的に向かって前進するときの諸段階は、規則的なものであり、したがって、その事物の変化、行動、あるいは発展の特徴的な態様を記述するものとして一般的に定式化されよう。そのかぎりで、目的論的な自然観は、近代的な思想と重なりあう。相違点は、目的論的な観点では、事物に対して規則的に起こる出来事が、《単に》規則的に起こると考えられず、また、出来事が《現に》規則的に《起こる》のかどいうかという問題と、起こる《べき》かどうか、つまり起こるのが《よい》のかどうかという問題とが、別々の問題であるとみなされないところにある。これに反して(「偶然」に帰しうるいくらかのまったく稀な場合を除いて)、一般的に起こるものは、その事物の固有の目的あるいは目標に向かう一歩であることを示すことによって、善あるいは起こるべきものと説明されるとともに評価されうるのである。したがってある事物の発展法則は、その事物がどのように規則的に行動あるいは変化すべきか、また現にするかの双方を示さなければならないということになる。
 自然に関するこの思考様式は、抽象的にのべると奇妙におもわれる。もし少なくとも生物に対していまでもわれわれが言及する仕方のいくつかを想い起こすならば、この思考様式は、それほど風変わりなものではないようにおもわれる。というのは、生物の成長を記述する普通の仕方には、今もなお、目的論的な見方がみられるからである。たとえばどんぐりの場合、成長して樫の木になることは、どんぐりによって単に規則的に達成されることであるだけではなく、どんぐりの腐る場合(これもまた規則的である)と違って、成熟という最適状態であるとも認められる。そしてこの最適状態に照らして、中間段階が良いとか悪いとか説明されるとともに、構造的な変化を伴うどんぐりのさまざまな部分の「働き」も確認されるのである。木の葉について言えば、もし「十分な」あるいは「適切な」発育に必要な水分が得られれば、それは正常に成長すべきものである。そしてこの水分を供給するのが木の葉の「働き」なのである。だからわれわれは、この成長を「当然起こるべき」ことであると考え、またそう言うのである。無生物の作用や運動の場合には、それが人間によってある目的のために作られた加工物である場合を除いて、そのような言い回しはどうみてももっともらしくない。石が地面に落ちるさいに、何か適切な「目的」を実現しているとか、馬屋へ駆けて帰る馬のように、その「しかるべき場所」へ帰っていると考えることは、いまでは少しこっけいである。
 実際、目的論的な自然観を理解する困難の一つは、それが、規則的に起こることの陳述と起こるべきことの陳述との相異を軽視したのとまったく同様に、近代的な思想にとって非常に重要な相異、すなわち、自分自身の目的を《もち》それを実現しようと意識的に努力する人間と他の生物もしくは無生物との相異を軽視することである。というのは、目的論的な世界観においては、人間は他の生物と同様、彼に設定された特有の最適状態あるいは目的へと向かう傾向があると考えられており、人間が他の物とは違って、これを意識的に実現するかもしれないという事実は、人間とその他の自然のものとの根本的な相異ではないと考えられているからである。この人間に特有の目的あるいは善は、部分的には他の生物のそれと同様、生物学的成熟および発達した物理的な力の状態である。しかしそれはまた、人間に特有な要素として思考や行動に表わされる知力や性格の発達と卓越さをも含むのである。他の事物と異なり、人間は、このすぐれた知力と性格を身につけることによってもたらされるものを、推論と反省によって発見できるし、また望むこともできる。しかしそれでも、この目的論的な見方によれば、この最適状態は、人間がそれを望んだから人間の善あるいは目的となるのではない。むしろそれがすでに人間の自然の目的であるから、人間はそれを望むのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第1節 自然法と法実証主義,pp.206-208,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:目的論的な自然観)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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