2018年9月9日日曜日

18.ある理論が真理であることを示す実証的理由は、決して与え得ない。合理的な批判と、妥当な批判的理由を示すことで先行の理論が真でないことを示し、新しい理論がより真理に近づいていることを信じることができるだけである。(カール・ポパー(1902-1994))

実証的理由と批判的理由

【ある理論が真理であることを示す実証的理由は、決して与え得ない。合理的な批判と、妥当な批判的理由を示すことで先行の理論が真でないことを示し、新しい理論がより真理に近づいていることを信じることができるだけである。(カール・ポパー(1902-1994))】

(1)真理の探究には、何ものにも勝る重要性があり、われわれの目的であり続ける。
(2)しかし、真理が実際に見出されたということを示す実証的理由は、決して与えることはできない。
(3)合理的な批判により、真であることに反対する妥当な批判的理由を示すことで、ある特定の理論が真でないことは、示すことができる。
(4)したがって、合理的な批判により、ある新しい理論が先行の理論よりも、真理により近づいていると信じる暫定的な理由を示すことができる。

 「わたくしの立場はこうである。真理――あるいは、われわれの問題を解くことのできる真なる理論――の探究には、なにものにも勝る重要性がある。 

すなわち、《合理的な批判というものはすべて、理論が真であるという主張に対する批判であり、また解こうとしていた問題を解くことができるという主張に対する批判である》。

わたくしは、このように主張しているのである。

したがって、ある理論が真であるかどうかという問題を、その理論がほかの理論よりもよいかどうかの問題に《置き換え》てはいない。むしろ、理論が真であることを支持する妥当な《理由》(実証的理由)をうみ出せるかどうかという問題を、理論が真であることに反対する、あるいは競争相手の理論が真であることに反対する妥当な《理由》(批判的理由)をうみ出せるかどうかの問題によって置き換えているに過ぎない。

さらに、ある理論をほかの理論よりも、よりよい、より優れているなどと記すことは、その理論が《真理により接近している》ように見えると示すことであるというのがわたくしの主張なのである。

 真理――絶対的真理――は、われわれの目的でありつづける。それはまた、批判の暗黙の規準でありつづける。

ほとんどすべての批判は、批判の対象となっている理論を反駁する試みである。すなわち、それが《真ではない》ということを示す試みなのである。

(例外として重要なのは、ある理論には意味がない――それは解こうとしていた問題を解いてはいない――ということを示そうとする批判である。)

したがって、いつでも、《真なる理論》(真にして意味ある理論)が追求されることになる。

もっとも、追求されていた真なる理論がじっさいに見出されたということを示す理由(実証的理由)は、決して与えることはできないが。

同時に、ある重要なことを学んだと、つまり、真理に向って前進したと考えられるよい理由――つまりよい《批判的理由》――は得られるかもしれない。

というのは、第一に、批判的討論の現状からすれば、ある特定の理論が真ではないということを学んだと言えるだろうし、第二に、ある新しい理論が先行の理論よりも、真理により近づいていると信じる(もちろん、信じるということでしかないが)暫定的な理由がいくつか見出されたとは言えるかもしれないからである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『実在論と科学の目的』,第1部 批判的アプローチ,第1章 帰納,2 批判的アプローチ、帰納問題の解決,(上),pp.34-35,岩波書店(2002),小河原誠,蔭山泰之,篠崎研二,(訳))
(索引:実証的理由, 批判的理由, 真理)

実在論と科学の目的 上


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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3.向かいあう存在がありありと体感され、ただ全身で受けとめられる関係事象が、最初に存在する。次に、関係における作用の担い手が対象化される。神秘的威力を持った、月、太陽、野獣、酋長、シャーマン、死者たち。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

最初に関係事象が存在する

【向かいあう存在がありありと体感され、ただ全身で受けとめられる関係事象が、最初に存在する。次に、関係における作用の担い手が対象化される。神秘的威力を持った、月、太陽、野獣、酋長、シャーマン、死者たち。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

(1)最初に、関係事象、関係状態が存在する。
 例えば月が、生きた肉体として迫って来て、魅惑する。体に触れて、不快な、あるいは甘美な何かをしかける。それは、体の中を貫き流れる、月の作用そのもののようである。向かいあう存在がありありと体感され、ただ全身で受けとめられる。
(2)関係における作用の不可解な存在が、作用の行為者、担い手として対象化され、表象が生じ、月という擬人像が徐々に分離する。
(3)この段階で、月に魂が宿っているという想像がされるかもしれない。いずれにしても、最初に、関係事象が存在しなければ、感覚されぬものの存在を認めるというようなことは、あり得ないだろう。
(4)さまざまな名辞や概念、人間や擬人物や事物に関するさまざまな表象は、関係事象や関係状態に関する諸表象から分離して生じたものだろう。
(5)人類の歴史の初期において、神秘的威力に帰された様々な現象の事例。
 (a)夜中に訪れて苦痛や歓喜を与える月や死者
 (b)焼きこがす太陽
 (c)こちらに向かって吠えたてる野獣
 (d)けわしい眼つきで無理を強いる酋長
 (e)歌によって狩りへの熱狂をかきたてるシャーマン

 「さまざまな名辞や概念、また、人間や擬人物や事物にかんするさまざまな表象は、関係事象や関係状態にかんする諸表象から分離して生じたものと推定してさしつかえない。
 
《自然人》をおそう根元的で、霊を揺すぶりおこすような印象や感動は、関係事象そのもの、つまり向かいあう存在をありありと体感すること、そして関係状態そのもの、つまり向かうあう存在とともに生きることからひき起こされるものである。

自然人は彼が夜毎に見る月のことで考えをわずらわしたりはしないのだ。その月が、眠りあるいは目覚めている彼に向って、生きた肉体としてせまってきて、身の動きによって彼を魅惑するとか、彼の体にふれて、不快なことにせよ甘美なことにせよ、何かをしかけるまでは。
 
しかもこのような出来事から彼は、月とは渡りあるく光の円盤だというような視覚的表象を得たり、その光の円盤にはデモーニッシュな存在が何らかの仕方でやどっているというような表象を得たりするのではない。

そうではなくて、ただあの月の作用そのものの動力的な、体のなかをつらぬき流れる《刺戟像》(Erregungsbild)だけが彼のうちに残り、この刺戟像からようやく、作用しかけてくる月という擬人像が徐々に分離するのだ。

すなわち、このときはじめて、夜毎におとずれてきた不可解な存在の記憶のなかから、それがあの作用の行為者にして担い手であるという表象がめざめてきて、そしてその不可解な存在の対象化、すなわち、本来は経験の対象ではなく、ただ全身で受けとめられるものである《汝》の《彼》=あるいは《彼女化》が可能になるのである。」(中略)

原始人の世界は身体的に体感されることに限られていて、たとえば死者の来訪というようなことも、まったく《自然に》彼の身体的体感の一部をなしているのだ。

感覚されぬものの存在を認めるというようなことは、原始人にとってはばかげたことと思われるに違いない。

原始人が《神秘的威力》に帰しているさまざまな現象は、すべて根元的な関係事象、つまり彼の身体を刺戟し、ひとつの《刺戟像》を彼のなかに残してゆくからこそ、彼が考えをわずらわすところの事象なのである。

だから、夜なかに彼のもとを訪れて苦痛や歓喜を与える月や死者が、また、彼を焼きこがす太陽が、彼にむかって吠えたてる野獣が、けわしい眼つきで無理を強いる酋長が、歌によって狩りへの熱狂をかきたてる巫者(シャーマン)が、そのような威力の持ち主なのだ。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)pp.28-30、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:関係事象,関係状態,擬人像)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

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5.知覚は、受動的なものではなく活動的なものであり、模写すること、ときには空想や、捏造に近いものである。このことで、多くの個別的な知覚をする苦労から免れる。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

知覚

【知覚は、受動的なものではなく活動的なものであり、模写すること、ときには空想や、捏造に近いものである。このことで、多くの個別的な知覚をする苦労から免れる。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

知覚とは何か。
(1)他の諸事物が私たちに影響を及ぼす際、私たちは受動的であるのではなく、むしろ即座に、私たちは私たちの力をそれに対抗させるような、活動的なものである。諸事物が私たちの琴線に触れるのだが、そこから旋律をつくり出すのは私たちなのだ。
(2)それは、模写すること、ときには空想や、捏造に近いものである。
(3)こうすることで、多くの個別的な知覚をする苦労を免れさせている。

 「模写すること(空想すること)は、私たちには、知覚すること、たんに知覚することよりも、いっそう容易になされる。

このゆえに、私たちが、たんに知覚している(たとえば運動を)と思っているいたるところで、すでに私たちの空想は助力し、捏造し、私たちが多くの個別的な知覚をする苦労を《免れさせ》ているのだ。

この《活動》は通常見のがされている。私たちは、他の諸事物が私たちに影響をおよぼすさい、《受動的》であるのでは《なく》、むしろ即座に私たちは私たちの力をそれに対抗させる。

《諸事物が私たちの琴線に触れるのだが、そこから旋律をつくり出すのは私たちなのだ》。」

(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅰ認識論/自然哲学/人間学 一九、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、p.21、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:知覚)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
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2018年9月8日土曜日

2.一本の樹木が、生身の存在として私と向き合い、相互的で直接的な関係が成立しているような瞬間が存在し得る。これは、私の全てがその樹に捉えられているような状態であり、単なる印象、想像、情緒によるものではない。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

汝としての樹木

【一本の樹木が、生身の存在として私と向き合い、相互的で直接的な関係が成立しているような瞬間が存在し得る。これは、私の全てがその樹に捉えられているような状態であり、単なる印象、想像、情緒によるものではない。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

一本の樹
(a)対象物としての樹、《それ》としての樹
 (a1)形象、色彩、運動
 (a2)分類学上のある種属、構造や生存様式
 (a3)化学的組成、物質の化合と分離とを支配する法則の表現
 (a4)純粋な数式
(b)生身の存在として私と向き合い私と関係する、一つの全体としての樹、《汝》としての樹
 (b1)(a)で知られる全てのことは、その樹のなかに存在し、ひとつの全体性のうちに包まれている。
 (b2)その樹と私の間に、相互的で直接的な関係が成立しているような瞬間が存在し得る。
 (b3)関係が成立しているとき、私の全てがその樹に捉えられているような状態にあり、その樹も何らかの仕方で私と関わりを持っている。
 (b4)もちろん、その樹に意識のようなものがあるわけではない。
 (b5)その樹が私に及ぼす印象は、この関係性とは別のものである。
 (b6)その樹についての私の想像力が、この関係性を作り上げているわけではない。
 (b7)その樹が私に引き起こした情緒が、この関係性そのものというわけではない。

 「私は一本の樹を観察する。

 私はそれを形象(Bild)として受けとることができる。陽光をはね返して屹立している柱として、あるいは青味がかった銀色のおだやかな輝きが背後から流れこんでくるゆたかな緑の噴出として。

 私はそれを運動として感じとることができる。固着した、しかも伸びあがってゆく髄を流れている脈管として、根の吸引として、葉の呼吸として、大地や大気との限りない交流として、――また幽暗な生長の運動そのものとして。

 私はそれを分類学上のある種属に組みいれ、一個の標本として、その構造や生存様式を観察することができる。

 私はその現在相や形態には目もくれずに、その樹をたんに法則の表現として、――すなわち、たえず対立的にはたらいている諸力を一定の均衡に保つ法則、あるいは物質の化合と分離とを支配する法則の表現としてのみ認識することができる。

 私はその樹を数へと、純粋な数式へと揮発させて恒久化することができる。

 これらすべての場合においてその樹は私の対象物であり、その場所と時点、性質と状態とを有する一個の客体である。

 しかし、私にその意志があり、また同時に恩寵のはたらきが受けられるなら、私がその樹を観察しながら、その樹との関係のなかへ引きいれられることも起こり得る。

このとき、その樹はもはや《それ》ではない。このとき私は、専一性(Ausschließlichkeit)の力にとらえられてしまっているのだから。しかも、その樹との専一的な関係にはいるために、私は私の観察のさまざまな方法のどれひとつとして断念する必要がない。

ひとつの全体としてその樹を見るために、その樹のことで私があえて無視せねばならぬようなものは何ひとつなく、また忘れねばならぬ知識も何ひとつなく、また忘れねばならぬ知識も何ひとつない。むしろ、形象も運動も、種属性も標本価も、法則も数も、すべてがその樹のなかで分かちがたく合一しているのだ。

 その樹に属しているすべては、その形相も機構も、色彩も化学的組成も、その諸原素との語らいも、星辰との語らいも、ともにその樹のなかに存在し、すべてがひとつの全体性のうちに包まれているのである。
その樹は印象ではない、私の想像力のたわむれでもなく、情緒的価値でもない。その樹は生身の存在として私に向いあい、私がその樹と関わりをもつように、その樹もまた――ただことなった仕方によってだか――私と関わりをもつのである。

 関係の意味からその力を殺ぐようなことをしてはならない。関係とは相互的なもの(Gegenseitigkeit)なのである。

 それでは、その樹にもわれわれの意識に似た何らかの意識があるのだろうか? 私はそんなものに出会いはしない。

だが、きみたちは、そのことにきみたちが成功しそうだからといって、またしても分析し得ぬものを分析しようとするのだろうか? 

私が出会うのは樹の魂や、樹の精ではなく、樹そのものなのだ。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)pp.11-12、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝としての樹木)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

マルティン・ブーバー(1878-1965)
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4.意識に現われる思想、感情、意志は、意識に登る前の互いに抵抗し合う諸衝動一切により決まる、その瞬間における、ある総体的状態である。意識は、無意識における出来事の最終項、その徴候、一つの記号である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

意識は無意識の徴候、記号

【意識に現われる思想、感情、意志は、意識に登る前の互いに抵抗し合う諸衝動一切により決まる、その瞬間における、ある総体的状態である。意識は、無意識における出来事の最終項、その徴候、一つの記号である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)ある思想が、直接ある思想の原因であるように見えるのは、見かけに過ぎない。すなわち「意志」を、何か単純な実体であると考えることは、一つの欺瞞的な具象化である。

時刻1 思想1⇒意志1
 │  │
 ↓  ↓
時刻2 思想2⇒意志2

(2)諸感情、諸思想等々の、意識に現われ出てくる諸系列や諸継起は、意識に登る前の本来的な出来事の連鎖の最終項であり、その徴候である。
(3)思想、感情、意志は、互いに抵抗し合う諸衝動一切の、支配と服従の瞬間的な権力確定の結果としての、ある総体的状態である。
(4)ある思想に引き続き現れる思想は、諸衝動の総体的な権力状況が転移した結果を示す、一つの記号である。

時刻1 衝動11⇔衝動12
 │  ↓↑  ↓↑ ⇒感情1⇒思想1⇒意志1
 ↓ 衝動13⇔衝動14
時刻2 衝動21⇔衝動22
    ↓↑  ↓↑ ⇒感情2⇒思想2⇒意志2
   衝動23⇔衝動24


 「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの終末である。

或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ! ―――あらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。

あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の情動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動一切の、―――それゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。

すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である。
「意志」―――一つの欺瞞的な具象化。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅰ認識論/自然哲学/人間学 二五〇、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、pp.148-149、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:意識,無意識,思想,感情,意志,衝動)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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2018年9月7日金曜日

17.意識的な感覚は、刺激を受けた時刻より約0.5秒遅れて発生するが、意識の内容は、刺激の発生時刻を指し示す。もしこれが、初期EP反応だけで実現されていたとしても、「適切な脳機能の創発特性」として十分あり得ることだ。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

適切な脳機能の創発特性

【意識的な感覚は、刺激を受けた時刻より約0.5秒遅れて発生するが、意識の内容は、刺激の発生時刻を指し示す。もしこれが、初期EP反応だけで実現されていたとしても、「適切な脳機能の創発特性」として十分あり得ることだ。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】

(一部再掲)

意識的な感覚は、刺激を受けた時刻より約0.5秒遅れて発生するが、意識の内容は、刺激の発生時刻を指し示す。これは、感覚皮質への直接刺激による感覚と、皮膚への刺激による感覚との比較により検証されている。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

意識的な皮膚感覚
 ↑↑
 ││刺激の正確な位置と、
 ││発生タイミングを決める
 │└──────────────┐
事象関連電位(ERP)と呼ばれる  │
皮質の一連の電気変化       │
 ↑意識感覚を生み出すために、  │
 │500ms以上の持続が必要である。│
 │               │
皮膚領域が「投射する」感覚皮質の特定の小さな領域で、初期EP(誘発電位)が局所的に発生する。
 ↑短い経路で14~20ms、長い経路で40~50ms後。
 │
 │
単発の有効な皮膚への刺激パルス

(1)意識の内容は、刺激の発生時刻を指し示す。これは、どのようにして実現されているのだろうか。
(2)「タイミングと空間位置に遡及する主観的なアウェアネスへの信号を与えているのは、初期EP反応だけであるようなのです。すると、初期EP反応にまで逆行する、この遅延した感覚経験の遡及性を媒介し得るような、追加の神経プロセスを考えることが難しくなります。もちろんそのようなメカニズムは実際にもまったく不可能というわけではないですが」。
(3)例えば、アントニオ・ダマシオ(1944-)が「中核自己」が発現する仕組みの中で仮定した、「原自己」の変化と感覚された対象の状態を時系列で再表象する「2次のニューラルマップ」のようなものへ、初期EPからの情報が接続されていれば、このような意識の時間遡及性を説明できるだろう。(未来のための哲学講座)
(参照: 2次のニューラルマップとは?(アントニオ・ダマシオ(1944-)))
(4)「他の未知の神経活動の媒介なしで時間の規定因となるのであれば、主観的な遡及は純粋に、脳内での対応神経基盤のない精神機能ということになります」。この場合、「精神の主観的機能は、適切な脳機能の創発特性であるというのが私の意見です」。すなわち、今の場合、初期EPの存在というタイミングを決めるのに必要な情報は不足していないので、一見して明白でないと思えるような精神現象を生み出していても、それは十分あり得ることでもあり、それが適切な脳のプロセスなのかもしれない。

 「主観的な遡及には、脳と心の関係の性質において根本的で重要な、また別の側面があります。遡及を直接媒介する、またはそれを説明するとみなし得る《神経メカニズム》がないようなのです!
 初期誘発電位反応が、感覚刺激の主観的な空間位置および主観的なタイミングが遡及する皮質反応とどのように作用するかを例にとりましょう。これはどのようにして起こるのでしょうか? 感覚刺激が、感覚が生じるために必要な閾値以下であっても、この初期EPは生じます。その場合には、後から誘発されるEPなしで、単発で発生します。後から発生するコンポーネントである0.5秒間以上継続するEPは、感覚が生じるために必要な刺激の強さが閾値以上である場合に発生します(リベット他(1967年)参照)。初期EPは、感覚皮質の極めて局所的な小さな部位にだけ発生します。しかし、遅れて発生するEPは、一次感覚皮質にだけ限定して発生するわけではありません。関連した反応が、皮質内に広く分散しています。おそらく閾値より上の強さにおける、単発の視覚事象に伴う活動の広範な分散については、他の研究者によっても記載されています(ブッフナー他(1977年)参照)。
 タイミングと空間位置に遡及する主観的なアウェアネスへの信号を与えているのは、初期EP反応だけであるようなのです。すると、初期EP反応にまで逆行する、この遅延した感覚経験の遡及性を媒介し得るような、追加の神経プロセスを考えることが難しくなります。もちろんそのようなメカニズムは実際にもまったく不可能というわけではないですが。もし初期EP反応が、他の未知の神経活動の媒介なしで時間の規定因となるのであれば、主観的な遡及は純粋に、脳内での対応神経基盤のない精神機能ということになります。
 しかし、神経機能に関連する精神機能の問題というのは、意識を伴う感覚経験の主観的な遡及、という特定の機能よりもずっと広範になります。主観的で意識を伴う経験(思想、意図、自己意識などを含む)を生じさせるすべての脳のプロセスは、そこから発生した経験「のように」は見えません。実際、原因である神経プロセスについて完全な知識があっても、それに付随する精神事象を《先験的に》は説明できていません(関連性を発見するには、この二つの現象を同時に研究しなければなりません)。ニューロンパターンから主観的な表象への変容が、神経パターンから発生した精神領域で展開しているように見えます。(つまり、感覚の遡及を導き出すために特定の神経信号を使っていることを解明しても、遡及の過程そのものを解明したことにはなりません。)
 それでは、主観的な感覚遡及や他の精神現象について直接の神経学的説明が《できない》というこの結論は、脳と心の関係についての特定の哲学的立場とどのように関係するのでしょうか。第一に、このような提案によって、デカルト的な意味での二元論の類いが引き合いに出されたり、またそういう二元論が構成されたりは《しません》。つまり、私のこの提案では、物質としての脳と精神的な現象について、それらを分離可能な、または独立した存在と考える必要はありません。精神の主観的機能は、適切な脳機能の創発特性であるというのが私の意見です。意識を伴う精神は、それを生み出す脳のプロセスなしには存在しません。しかし、その意識を伴う精神は、脳という物質的システムの独自の「特性」である神経活動から生じるため、それを生み出す神経脳の中では明白ではない現象を表出することができるのです。この意見は、ロジャー・スペリーが指示するシステムの創発特性とも一致します。
 心脳同一説はおそらく、「物資的なもの」と「精神的なもの」を関連づけた、最も一般的に支持されている哲学的理論です(フック(1960年)を参照)。心脳同一説の最も単純な説明は、外部から観察可能な脳の構造と機能の特徴、すなわち物質的に観察可能な側面が、システムの外部、または客観的な特性を説明するということです。意識的でも無意識でも、精神事象は、《同じシステム》または「実体」の「内的な特性」を説明します。すなわち、与えられた実体は、問題となっている外的・内的両方の特性の原因となっているというのです。心脳同一説では、主観的な経験にアクセス可能なのは(内的な特性として)それを実際に経験している個人のみであるとみなしています。しかしもし、精神事象に(空間と時間における主観的な遡及のように)対応する特定の神経(身体事象)がなければ、こうした外的・内的特性を特定する一般的な実体はないということになります。心脳同一説を早いうちに提唱していた一人が、カリフォルニア大学バークレー校の哲学の教授である、ステファン・ペッパー(1960年)です。ペッパー教授は私との議論の中で、私たちの発見である主観的な時間の遡及性が、心脳同一説に重大な困難を生ぜしめることに即座に気づきました。特に(主観的遡及という)この精神作用に神経対応が存在しなければ、彼の気づいた通り心脳同一性に困難が生じるのです。
 観察可能な特性と内的(精神)特性の間にある明らかな分離は、その共通する単一の実体の二つの側面(内的と外的)が単に表出しているだけである、と心脳同一説では説明するでしょう。しかしこれでは、共通の実体という言葉を当てはめることによって困難をうまく繕い、すべての特性を説明してしまっているかのようです。その上、いわゆる実体というものは、どのような検証をもってしても否定できない、思弁性によって構成されています。いずれにしても、内的な精神現象の特性は、物質的で観察可能な脳とは極めて異なるということは明らかで、その内的および外的な特性はそれぞれもう一方からは《先験的には》説明不能なのです。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第2章 意識を伴う感覚的なアウェアネスに生じる遅延,岩波書店(2005),pp.99-102,下條信輔(訳))
(索引:適切な脳機能の創発特性)

マインド・タイム 脳と意識の時間


(出典:wikipedia
ベンジャミン・リベット(1916-2007)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
 私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)

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17.相対論的な時空の全体が存在していると考える宇宙論は、「4次元のパルメニデス的な閉塞宇宙」であり、生命の進化とか、生物の行動様式を考えるとき、何かが間違っており、時間の本質を捉え損ねていると思われる。(カール・ポパー(1902-1994))

相対論的な時空と時間の流れ

【相対論的な時空の全体が存在していると考える宇宙論は、「4次元のパルメニデス的な閉塞宇宙」であり、生命の進化とか、生物の行動様式を考えるとき、何かが間違っており、時間の本質を捉え損ねていると思われる。(カール・ポパー(1902-1994))】

(a)時間と空間は独立に切り離せず、一つの時空として存在している。人間が経験する時間の意識は、ある意味では共存している時間薄片が、意識の中に継続的にのぼってくるようなものである。(アインシュタイン)
(b)時空の全体が存在しているとしたら、それは決定論ではないか。これは、「4次元のパルメニデス的な閉塞宇宙」である。真実は、異なると思われる。
 (b1)人間や、他の生物が、確かに時間の変化を経験できるとしたら、やはりそれは実在のはずである。
 (b2)時間の意識を、時間薄片が「意識にのぼってくること」として説明するのは、説明しようとするものを使っており、説明になっていない。
 (b3)生命の進化とか、生物の行動様式には、時間の流れの本質と関係があるように思われ、全体が存在している時空という宇宙像とは相容れないように思われる。

 「ポパーは1950年に、プリンストンでアインシュタインを訪問し、その時の(アインシュタインも出席していた)講演で、試論、'Indeterminism in Quantum Physics and in Classical Physics'(British Journal for the Philosophy of Science 1,pp.117-195)を発表したが、それが最終的に『ポストスクリプト』のこの巻の基礎になった。

ポパーは、自分の知的自伝において、このときアインシュタインと交わした三つの会話について、こう書いている。

『われわれの会話のテーマは、非決定論であった。わたくしは、彼に、その決定論を放棄するように説得しようとした。彼の決定論によれば、この世界は4次元のパルメニデス的な閉塞宇宙であって、そこでの変化は人間の幻想か、これに類するものに等しかったのである。(アインシュタインは、これが自分の見解であったと認めた。そして討論のあいだ、わたくしは彼を『パルメニデス』と呼んだ。)

わたくしはこう論じたのである。もし、人間や、あるいは他の生物が、時間の変化とか本物の継続を経験できるとしたら、それは実在である。

それは、ある意味では共存している時間薄片が意識の中に継続的にのぼってくるという理論をもちだせば、説明し去ることができるというようなものではない。

というのも、この種の『意識にのぼってくること』は、その理論が消し去ろうとしている変化の継続と正確に同じ性格のものだからである。

わたくしはまた、いくらかはっきりとした生物学的な議論をもち出した。つまり、生命の進化とか、生物、とりわけ高等動物の行動様式は、時間をもうひとつの(非等方性の)空間様式のようなものであるかのように解釈する理論によっては、本当には理解できないという理論である。

結局のところ、空間座標は経験され《ない》のである。というのは、そうしたものはまったく存在しないからである。空間座標は実体化されているだけだということに気づく必要がある。それは、まったく恣意的な構築物である。

なぜ、時間座標――これはたしかに、われわれの慣性系に適切な座標であるが――を実在としてだけでなく、絶対的なものとして、つまり、変更不可能で、(運動状態を変えることを除いて)人間にできるあらゆることから独立したものとして経験すべきだというのか。」
(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた宇宙―非決定論の擁護』,原注および訳注(第1章),(2),pp.232-234,岩波書店(1999),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:相対論的な時空と時間の流れ)

開かれた宇宙―非決定論の擁護


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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1.猫の眼を見つめているとき、猫との「関係」が実現していると思われる瞬間が存在する。その時、猫の眼は、精神の一触を受けて、生成の不安のなかに閉じこめられている存在の秘密を語っているかのように感じられる。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

猫の眼差し

【猫の眼を見つめているとき、猫との「関係」が実現していると思われる瞬間が存在する。その時、猫の眼は、精神の一触を受けて、生成の不安のなかに閉じこめられている存在の秘密を語っているかのように感じられる。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

 「動物の眼はひとつの偉大な言語を語る能力をそなえている。

動物の眼は、その見つめる眼指しのなかにすっかりやどっているときは、音声や身振りの助けなどは要することなく、ただそれ自体によって、いかなる言葉にもおとらず強力に、自然界に閉じこめられている存在の秘密、すなわち生成の不安のなかに閉じこめられている存在の秘密を語るのだ。

このような秘密の境位を知っているのは動物だけである。

ただ動物だけがそれをわれわれのまえに開くのである、――ただ開かれこそすれ、明かされることのないその秘密の境位を。

この場合その秘密をうかがわせる言語とは、不安そのもの、――すなわち植物的な安全界と精神的な冒険界とのあいだに揺れ動いている被造物の不安そのものが語る言語である。

この言語は、われわれが人間と呼ぶところの「宇宙の精神的な冒険」にまだゆだねられていない自然が、精神の最初の一触を受けて発する吃語なのである。だがこの吃語が伝えることができるものは、人間の言語によっては決して再現されないであろう。

 私は時おり猫の眼を見つめる。この飼いならされた動物は、われわれがときどきそんな想像をすることがあるように、あのほんとうに《もの言うような》眼指しで見つめる能力をわれわれからおくりあたえられたわけではなく、ただ、――原始的な無心さと引きかえに――われわれ人間という非動物(怪物)にそのような眼指しを向ける能力を受け取ったのである。

だがこのとき、その眼指しのなかには、その眼指しの夜明けないし日昇のなかには、驚きや問いかけに類するようなあるものもはいりこんだのだ、本来その眼指しには不安こそこもってはいても、そのような驚きや問いかけに類するものは、たぶんまったく欠けているものだろうに。

さてこのような動物である猫が、私に見つめられているうちに、その気配を察してほのかに輝いてきた眼指しでもって、疑いなく私に問いかけはじめたのである、

《あなたがわたしのことを想ってくださるようなことがあるのでしょうか? 

ほんとうはただ、わたしをなぐさみにしようとしているのではないでしょうか?

 わたしはあなたと関わりがあるのでしょうか? 

わたしはあなたにとって存在しているのでしょうか? 

わたしは存在しているのでしょうか? 

これは何なのですか、あなたのところからこちらにやってくるものは? 

これは何なのですか、わたしをとりまいているものは? 

これは何なのですか、このわたしにふれているものは? これは何なのです?!》。

(ここでの《わたし》とは、自我なき自己表示の言葉という、われわれのものではないひとつの言葉を仮りにこう言いかえてみたものであり、《これ》とは、関係の力が完全に実現しているときに人間の眼指しから流れ出てゆく作用と考えていただきたい。)

そのとき猫の眼指しは、あの不安そのものを語る言語は、大きく日昇していた――が、そうおもった瞬間にもう没してしまっていた。

私の眼指しはむろんそれよりも長続きした。しかし、それもやがて関係力の流れ出る眼指しではなくなってしまっていた。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第3部(集録本『我と汝・対話』)pp.128-129、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:猫の眼差し)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

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3.意識無しに多くの驚異的なことが成就されていること、また精神的なものの狭量さ、不充分さ、誤謬とを考えると、精神的なものは身体の道具、身体の記号であることがわかる。価値判断や道徳も、再考が必要だ。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

身体の記号としての精神

【意識無しに多くの驚異的なことが成就されていること、また精神的なものの狭量さ、不充分さ、誤謬とを考えると、精神的なものは身体の道具、身体の記号であることがわかる。価値判断や道徳も、再考が必要だ。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)意識
 (1.1)意識は、私たちに最も近いもので、最も親密なものである。
(2)身体
 (2.1)多くの組織が同時に働いており、この働きにおける諸々の義務や権利の戦いの調停には、実に多くの繊細さが存在している。
 (2.2)偉大なことや驚異的な多くのことが、意識なしで成就されている。
(3)疑問
 (3.1)なんと僅かのものしか、私たちには意識されないことか。
 (3.2)精神は、何か貧しくて狭いもの、近似的にしか充分でない。また、この僅かのものが、誤謬へと、また取り違えへと導き、しばしば欠陥のある仕事をする。
 (3.3)私たちが、最も親密な精神を、身体より重要なものとみなすのは、古い先入観なのではないか。
(4)結論。
 (4.1)精神は、最後に発生した器官であって、最も必要な道具でも、最も感嘆すべき道具でもない。まだ子供なのだ。一切の「意識されたもの」は、二番目に重要なものにすぎない。
 (4.2)精神的なものは、まさに一つの道具であり、身体の記号とみなされるべきものである。
 (4.3)人間の精神と行為に関する価値判断や道徳も、この事実に基づいて再考されねばなららない。

 「いくらかでも身体について―――いかに多くの組織がそこでは同時に働いているか、いかに多くのことがたがいに助けあったり背きあったりするかたちで行なわれているか、いかに多くの繊細さが調停等々のはたらきのうちに現存するかを―――思い浮かべた者は、一切の意識が、これに比較すれば、何か貧しくて狭いものであり、いかなる精神も、ここで成就されうるでもあろう精神的なことには、近似的にしか充分ではなく、そしておそらくはまた、最も賢明な道徳の教師や立法者も、もろもろの義務や権利の戦いのこの活発な営みのただなかでは、おのれが無骨で初心者めいていると感じざるをえないことだろうと、判断するであろう。

なんとわずかしか私たちには意識されないことか! なんとはなはだしくこのわずかのものが、誤謬へと、また取り違えへと導くことか! 意識はまさに一つの《道具》なのである。

そして、なんと多くのことや偉大なことが意識なしで成就されるかを考慮すれば、それは最も必要な道具でも、最も感嘆すべき道具でもないのだ、―――反対に、それほど発達しそこねた器官は、それほどしばしば欠陥のある仕事をする器官は、おそらくないであろう。

意識はまさに最後に発生した器官なのであって、それゆえまだ子供なのだ、―――私たちは意識にその《児戯》を赦してやろうじゃないか! こうした児戯には、多くの他のもののほかに、人間たちの行為と心術とに関するこれまでの価値判断の総計としての、《道徳》が属する。

 それゆえ私たちは位階を逆転させなくてはならない。一切の「意識されたもの」は《第二の重要なもの》にすぎないのだ。それが私たちに《いっそう近くいっそう親密で》あるということは、それを別様に査定するためのいかなる根拠、少なくともいかなる道徳的な根拠でもないであろう。

私たちが《最も近いもの》を《最も重要なもの》とみなすのは、まさに《古い先入見》なのだ。―――それゆえ《学び直す》ことだ! つまり主要な評価において! 精神的なものはあくまで《身体》の記号とみなされるべきなのだ!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅱ道徳哲学 七二九、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、pp.358-359、[原佑・吉沢伝三郎・1994]
) (索引:意識,身体,身体の記号としての精神)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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