2018年10月26日金曜日

7.12.在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

在る法と在るべき法の区別

【在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))】

在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))

(3.1)~(3.4)追記

(3)在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。
 (3.1)法の支配の下での生活の一般的な処方は、「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明すること」であるが、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは、この処方を切り崩してしまう。
 (3.2)在る法と在るべき法の区別は、法秩序の権威の持つ特別の性格を理解するのに必要である。
  (3.2.1)各人が抱く在るべき法についての見解と、法とその権威とを同一視してしまう危険がある。すなわち、「これは法であるべきではない。従って法ではなく、それに不同意を表明するだけではなく、それを無視するのも自由だ」と論じるアナーキストの考えに通ずる。
 (3.3)在る法と在るべき法の区別は、道徳的悪法の引き起こす問題の正確な分析に必要である。
  (3.3.1)存在する法が、行為の最終的なテストとして道徳にとって代わり、批判を受けつけなくなる危険がある。すなわち、「これは法である。従ってこれは在るべき法である」と言い、法に対する批判が提起される前にそれを潰してしまう反動家の考えに通ずる。
 (3.4)法の命令があまりに悪いために、(3.1)の処方を超えて、抵抗の問題に直面せざるを得ない時が来るかも知れない。このような問題を解明するためにも、(3.2)のように余りに単純化してしまうことは誤りである。

(出典:wikipedia
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)
検索(ベンサム)

 「ベンサムはこの区別を主張するのに、道徳を神と関連させて特徴づけるのではなく、言うまでもなく、功利の原則のみに関連させて議論した。

二人がこの区別を主張した主要な理由は、道徳的悪法の存在の引き起こす問題の正確な論点をしっかりと把握するためであり、また、法秩序の権威の持つ特別の性格を理解するためであった。

ベンサムの言う法の支配の下での生活の一般的な処方は簡単で、「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明すること」であった。

しかし、ベンサムは、フランス革命を心配しながら観察しており、この処方では十分ではないということを非常にはっきりと意識していた。どのような社会においても、法の命令があまりに悪いために、抵抗の問題に直面せざるを得ない時が来るかもしれず、そして、その時点で直面する問題をあまりに単純化したり曖昧にしたりしないことが大切であることを意識していた。

法と道徳を混同することで、このしてはならないことがまさになされてきたのであった。ベンサムは、この混同が人をまったく向きの異なる二つの方向に進ませると考えた。

一方でベンサムの念頭にあるのは、「これは法であるべきではない。したがって法ではなく、それに不同意を表明するだけではなく、それを無視するのも自由だ」と論じるアナーキストであり、他方で彼が考えているのは、「これは法である。したがってこれは在るべき法である」と言い、それでもって提起される前に批判を潰してしまう反動家である。

ベンサムは、このどちらの誤りもブラックストーンに見付けられると考えていた。ブラックストーンには、人の法は神の法に反するならば無効であるという不注意な語り方が見られる一方、「我らが著者〔ブラックストーン〕に基本的に見られる追従的な《キエティスム》の精神」が在ると在るべきの「違いを彼にほとんど認識できなくさせている」のである。 

これはまさにベンサムにしてみれば、法律家の職業的宿痾であった。「法律家にだまされやすい人すなわち非法律家の大多数はもちろん、法律家の目にも、《在る》と在る《べき》とは一にして不可分なものである。」だからこそ、在ると在るべきとの区別にこだわることが二つの危険の間隙をぬって進む助けになるのである。

一つの危険は、法とその権威を各人が抱く在るべき法についての見解と同一化してしまう危険であり、もう一つの危険は、存在する法が行為の最終的なテストとして道徳にとってかわり、その結果批判を受けつけなくなる危険である。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.63-64,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:在る法,在るべき法)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2018年10月25日木曜日

人間には、集団の成員であることを示す恣意的な目印を基に、簡単に人を社会的に分類し、社会的選好を形成する傾向が存在する。仮に、何の根拠もない無作為のグループにも、内集団の成員をひいきにする傾向がある。(ヘンリー・タジフェル(1919-1982))

恣意的な目印による社会的分類

【人間には、集団の成員であることを示す恣意的な目印を基に、簡単に人を社会的に分類し、社会的選好を形成する傾向が存在する。仮に、何の根拠もない無作為のグループにも、内集団の成員をひいきにする傾向がある。(ヘンリー・タジフェル(1919-1982))】

(出典:wikipedia
ヘンリー・タジフェル(1919-1982)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ヘンリー・タジフェル(1919-1982)
検索(Henri Tajfel)
 「この実験から、私たちが、集団の成員であることを示す恣意的な目印を基に簡単に人を特徴づけることがわかる。しかし、そのこと自体は、私たちがこうした社会的分類をどう利用しているかについて何もあきらかにしない。ヘンリー・タジフェルらが行った有名な研究は、社会的分類がじつに簡単に社会的選好の土台になることをあきらかにしている。タジフェルは、被験者を偶発的な違いに基づいて二つのグループに分けた。たとえばある実験では、あらかじめ行われた評価課題で、点数を高くつける傾向があった(もしくは点数を低くつける傾向があった)かどうかで二つのグループに分けるふりをした(実際には無作為に分けた)。それから被験者たちに、実験の別の参加者に匿名でお金を分配するように指示した。実験グループはその場かぎりのもので、グループ分けには何の根拠もなかったにもかかわらず、人には内集団の成員をひいきにする傾向があることがわかった。実際、タジフェルは、グループ分けがあきらかに無作為になされている場合でも、人は内集団の成員をひいきにすることを発見した。内集団びいきは、たんに均衡を破るための戦略ではなかった。人々は、外集団のメンバーにより多くお金を与えるくらいなら、内集団のメンバーにより少ないお金を与える場合が多かったのだ。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第1部 道徳の問題,第2章 道徳マシン,岩波書店(2015),(上),p.71,竹田円(訳))
(索引:社会的分類)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)


(出典:Joshua Greene
ジョシュア・グリーン(19xx-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あなたが宇宙を任されていて、知性と感覚を備えたあらたな種を創造しようと決意したとする。この種はこれから、地球のように資源が乏しい世界で暮らす。そこは、資源を「持てる者」に分配するのではなく「持たざる者」へ分配することによって、より多くの苦しみが取り除かれ、より多くの幸福が生み出される世界だ。あなたはあらたな生物の心の設計にとりかかる。そして、その生物が互いをどう扱うかを選択する。あなたはあらたな種の選択肢を次の三つに絞った。
 種1 ホモ・セルフィッシュス
 この生物は互いをまったく思いやらない。自分ができるだけ幸福になるためには何でもするが、他者の幸福には関心がない。ホモ・セルフィッシュスの世界はかなり悲惨で、誰も他者を信用しないし、みんなが乏しい資源をめぐってつねに争っている。
 種2 ホモ・ジャストライクアス
 この種の成員はかなり利己的ではあるが、比較的少数の特定の個体を深く気づかい、そこまでではないものの、特定の集団に属する個体も思いやる。他の条件がすべて等しければ、他者が不幸であるよりは幸福であることを好む。しかし、彼らはほとんどの場合、見ず知らずの他者のために、とくに他集団に属する他者のためには、ほとんど何もしようとはしない。愛情深い種ではあるが、彼らの愛情はとても限定的だ。多くの成員は非常に幸福だが、種全体としては、本来可能であるよりはるかに幸福ではない。それというのも、ホモ・ジャストライクアスは、資源を、自分自身と、身近な仲間のためにできるだけ溜め込む傾向があるからだ。そのためい、ホモ・ジャストライクアスの多くの成員(半数を少し下回るくらい)が、幸福になるために必要な資源を手に入れられないでいる。
 種3 ホモ・ユーティリトゥス
 この種の成員は、すべての成員の幸福を等しく尊重する。この種はこれ以上ありえないほど幸福だ。それは互いを最大限に思いやっているからだ。この種は、普遍的な愛の精神に満たされている。すなわち、ホモ・ユーティリトゥスの成員たちは、ホモ・ジャストライクアスの成員たちが自分たちの家族や親しい友人を大切にするときと同じ愛情をもって、互いを大切にしている。その結果、彼らはこの上なく幸福である。
 私が宇宙を任されたならば、普遍的な愛に満たされている幸福度の高い種、ホモ・ユーティリトゥスを選ぶだろう。」(中略)「私が言いたいのはこういうことだ。生身の人間に対して、より大きな善のために、その人が大切にしているものをほぼすべて脇に置くことを期待するのは合理的ではない。私自身、遠くでお腹をすかせている子供たちのために使った方がよいお金を、自分の子供たちのために使っている。そして、改めるつもりもない。だって、私はただの人間なのだから! しかし、私は、自分が偽善者だと自覚している人間でありたい、そして偽善者の度合いを減らそうとする人間でありたい。自分の種に固有の道徳的限界を理想的な価値観だと勘違いしている人であるよりも。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第4部 道徳の断罪,第10章 正義と公正,岩波書店(2015),(下),pp.357-358,竹田円(訳))
(索引:)

ジョシュア・グリーン(19xx-)
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06.a)従来顧慮されてきた原理の無視は単なる「慣行の無視」か? (b)道徳的な職業倫理上の義務には拘束力がないか? (c)判断に異議があり得れば拘束力がないか? (d)承認ルールが無ければ拘束力がないか? (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

諸原理は「法」か?

【(a)従来顧慮されてきた原理の無視は単なる「慣行の無視」か? (b)道徳的な職業倫理上の義務には拘束力がないか? (c)判断に異議があり得れば拘束力がないか? (d)承認ルールが無ければ拘束力がないか? (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

諸原理が「法」かどうかは以下の違いを導く。(a)法である諸原理の顧慮が裁判官の義務か単なる慣行か、(b)顧慮すべき諸原理の無視が不正か否か、(c)判決は既存の法的権利義務の解明か裁量か、(d)「誤った」判決ということの意味の有無。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

(1.b.1)~(1.b.4)追記

 (1.a)原理は、法としての拘束力を有する。法的義務について判断を下す裁判官や弁護士にとって、この原理は顧慮されるべきである。
 (1.b)したがって、ある原理が当該事案に関連のあるものであれば、これを適用しない裁判官は不正を行なっていることになる。
  (1.b.1)例えば、他の裁判官達がある期間顧慮してきた慣行が、当該事案の裁判官により無視された場合、「慣行が無視された」と指摘することが妥当であろうか。
  (1.b.2)特定の原理の顧慮は単に「道徳的」な義務にすぎないとか、司法の「職業倫理上」の拘束であり、法としての拘束力は有しないなど言えるだろうか。
  (1.b.3)原理の権威や、原理の重みといった観念は元来「議論の余地ある」ものであり、これは判断を必要とする問題であり、他の理性的人間がこの判断に異議を唱えることも十分にありうる。このことをもって、原理は法としての拘束力は有しないと言えるだろうか。
  (1.b.4)拘束力のある法には、承認のルールのような「テスト」するルールがあり、原理にはこのようなテストが存在しないので、法としての拘束力は有しないと言えるだろうか。

 「(1)まず実証主義者は、原理というものはそもそも拘束したり義務づけることはありえない、と主張するかもしれない。しかしこれは間違いだろう。特定の原理が「事実として」法適用の任務に当たる人々を拘束しているかという問題はもちろん常に提起しうる。しかし原理の論理的性格の中には、それが裁判官を拘束することを不可能にするようなものは含まれていない。ヘニングセン事件において、自動車製造業者は消費者に対し特別の義務を負うという原理や、裁判所は取り引き上弱い立場にある者を保護するという原理を裁判官が顧慮せずに、ただ契約自由の原理のみを援用し被告に有利な判決を下した場合を想定してみよう。これを批判する者は、他の裁判官達がある期間顧慮してきた慣行が当該事案の裁判官により無視された事実を指摘するだけでは満足しないだろう。ほとんどの批判者は、上記の原理を顧慮することは当該裁判官の義務であり、原告は裁判官に対しこれを要求する権利があると答えるだろう。ある「ルール」が裁判官を拘束すると言われる場合、その意味するところは、ルールが当該事案に適用可能であれば裁判官はこれに従う義務があり、従わなければこのことにより誤りを犯したことになる、ということに他ならない。
 ヘニングセン事件のごとき事案では、裁判所は特定の原理を顧慮すべく単に「道徳的」に義務づけられるにすぎないとか、「制度的に」義務づけられるにすぎないとか、あるいは司法の「職業倫理上」拘束されるとか、その他この種の主張を行なっても問題の解決にはならない。というのも、何故この種の義務(この義務を何と呼ぼうと)と、法準則が裁判官に課する義務とを相互に異質のものと考えねばならないのか、そして何故原理や政策が法の一部分ではなく、単に「裁判所が特徴的な仕方で用いている」法外在的な規準にすぎないと断言しうるのか、といった問題が以前として未解決のまま残るからである。
 (2)次に実証主義者は、ある種の原理は、裁判官がこれを顧慮すべきだという意味で拘束力をもつことを認めた上で、原理が特定の結論へと裁判官を決定づけることはありえない、と主張する。」(中略)「これは原理が法準則ではないことを別の表現で述べているにすぎない。結論が何であろうと、特定の結論を導出すべく適用者に命令するのは法準則だけである。法準則が指示するものと反対の結論が導出されれば、これは法準則が放棄されたか修正されたからである。しかし原理はこのようには作用しない。」(中略)「
 (3)更にある実証主義者は次のように論じるだろう。すなわち原理の権威や、ましてや原理の重みといった観念は元来「議論の余地ある」ものであり、したがって原理を法とみなすことはできない、と。確かにしばしば我々は国会の決議や権威ある裁判所の意見の中に法準則を位置づけることにより、その妥当性を証明するが、これと同様の仕方で特定の原理の権威や重みを「証明」することは一般的にいって不可能である。むしろ、原理や原理の重みの根拠を提示しようとする場合、我々が援用するのは、立法過程や司法過程において以前から暗黙裡に前提されてきた慣行や他の原理の複合体、及び社会一般の慣行や了解などである。この種の事柄においては、ことの是非を確証するようなリトマス試験紙は存在しない――これは判断を必要とする問題であり、他の理性的人間がこの判断に異議を唱えることも十分にありうる。しかし繰り返しになるが、このような実証主義者の主張が正しいからといって、裁判官が裁量をもたない他のタイプの裁定者と異なっていることにはならない。」(中略)
 「もちろん、法実証主義にはもう一つ別の理論――すなわち各々の法体系にはハート教授のいう承認のルールのごとき、拘束力のある法を窮極的に「テスト」するルールがあるという理論――が存在し、もし実証主義者のこの理論が正しいとすれば、原理は拘束力のある法ではないことになる。しかし原理が実証主義理論と両立しないからといって、原理を法とは異なる何か特別なものと考えるべき理由にはならない。これは問題とされていることを既に真と仮定しての議論に過ぎない。我々は実証主義的な法モデルが果たして適切か否かを評価しようとしているのであり、それ故にこそ原理の性格に関心を向けているのである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,5 裁量,木鐸社(2003),pp.31-34,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:原理,法)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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6.11.在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))

在る法と在るべき法

【在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))】

(1)在る法
 法が存在しているか存在していないかが問題である。好きか嫌いか、是認するか否認するかにかかわらず、現実に存在していれば、それは法である。
(2)在るべき法
 例えば、
 (2.1)道徳の根本的な原則が要求する命令
 (2.2)あるいは、その命令の「指標」である「功利」
 (2.3)あるいは、社会集団によって現実に受け入れられている道徳
(3)在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。
 この区別を曖昧にする人は、在るべき法と対立する人の法は、義務ではないし拘束力を持たないという誤った考えに導かれてゆく傾向がある。
(出典:wikipedia
ジョン・オースティン(1790-1859)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ジョン・オースティン(1790-1859)
検索(ジョン・オースティン)

 「ベンサムとオースティンは、街が燃えているのに言葉の区別をいじっている薄情な分析家ではなく、情熱的な勢いで活動し、より良い社会やより良い法をもたらすことに功績のあった運動の先鋒であった。

では、なぜ、彼らは在る法と在るべき法の分離を主張したのであろうか。何を彼らは言うつもりであったのか。まず彼らの言葉を見てみよう。

オースティンは次のようにこの原理を定式化している。

 『法の存在と、法の持つメリット、デメリットとは別のことである。法が存在しているか存在していないかを探るのは一つの探究であり、法がある基準に適合しているか否かを探るのは別の探究である。

法は、私たちがそれを嫌いに思おうが、また、私たちが是認するか否認するかを決める典拠にしているものと合致しまいが、現実に存在していれば、法である。

この真理は、抽象的命題として形式的に表明されてみれば、あえてそれを主張する理由もないことのように思われるほど単純で明白である。

しかし、単純で明白なものだから、抽象的な表現の中でそれが落ちてしまっている場合を数えあげたら一巻の書物になるほどの量である。

 たとえば、ブラックストーン卿は彼の『釈義』の中で次のように述べている。

神の法は他のどの法よりも優先的に遵守されなければならない。どのような人の法も神の法と矛盾することは認められない。人の法は神の法に矛盾するならば妥当性を持たない。すべての妥当する法はその力を神的な源から引き出している。

 ここで、彼が言いたいのは、すべての人の法は神的な法に合致していなければならないということ《かも》しれない。
もしこれが彼の意味するところならば、私は躊躇なくこれに同意する……。

おそらく、また、彼が言いたいのは、人の法を定める者たちは、神的な法によって、彼らが強制する法をかの究極の基準に適合させるように自ら拘束されているが、それはもしそうしなければ神が彼らを罰するからである、ということであろう。これに対しても私は完全に同意する……。

 しかし、このブラックストーンからの引用文の意味するところは、そもそも意味を持っているとすれば、むしろ次のようになると思われる。

神的な法と対立する人の法は義務ではないし拘束力を持たない。言い換えれば、神的な法と対立する人の法は《法ではない》……。』

 在る法と在るべき法との区別を曖昧にすることに対するオースティンの抗議は非常に一般的なものである。

彼は、在るべきものについての基準が何であれ、この区別を曖昧にすることは誤りであると説く。

ただし、彼の挙げている例は常に、在る法と道徳が要求する法とを混同している例である。

彼にとっては、道徳の根本的な原則は神の命令であり、功利はこの「指標」であったこと、さらに、これに加えて、社会集団によって現実に受け入れられている道徳、すなわち「実定」道徳の存在が考えられていた、ということが思い起こされなければならない。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.61-63,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:在る法,在るべき法)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年10月22日月曜日

5.「外的視点」によって観察可能な行動の規則性、ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が記録、理論化されても、「内的視点」を解明しない限り「法」の現象は真に理解できない。(ハーバート・ハート(1907-1992))

外的視点、内的視点

【「外的視点」によって観察可能な行動の規則性、ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が記録、理論化されても、「内的視点」を解明しない限り「法」の現象は真に理解できない。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

 「さらに、ルールの「内的」側面および「外的」側面から以下のような対比をしてみると、これによって法だけでなくどんな社会の構造の理解にとっても、何がこの区別を非常に重要にしているかが明らかにされるであろう。

社会集団に一定の行為のルールがあるという事実は、密接に関係しているが異なった多くの種類の主張をなす機会を与えている。

というのは、ルールにかかわる場合として、自分自身はルールを受けいれないような単なる観察者の場合か、あるいは行為の指針としてルールを受けいれ用いる集団の一員の場合かがありうるからである。そして、これらをそれぞれ「外的視点」、「内的視点」と呼ぶことにしよう。

外的視点からの陳述にはそれ自体さまざまな種類がある。なぜならば、観察者は彼自身ルールを受けいれないでいながら、集団がそれを受けいれていることをのべ、そうして《彼ら》が内的視点に立ってどのようなしかたでルールにかかわるかに外側から言及するだろうからである。

しかし、ルールが、たとえばチェスやクリケットのようなゲームのルールまたは道徳のルールや法のルールのように、どんなものであっても、われわれはもし望むなら集団の内的視点に外側からさえ言及しない観察者という立場もとりうるのである。

このような観察者は、部分的にはルールへの一致が見られる観察可能な行動の規則性、そしてそれに続くルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰という形での規則性を記録するだけで満足する。 
その後、外的観察者は観察された規則性をもとにして、逸脱と敵対的な反作用を関連づけ、そして集団の正常な行動からの逸脱は敵対的な反作用や処罰にあうかもしれない可能性をかなりの成功度で予測し、その可能性を算定できるだろう。そのような知識によって集団について多くの事が明らかにされるだけでなく、観察者はその知識なしに集団のなかで生活しようとすればおそらくこうむるだろう不快な結果を避けて生活できるだろう。

 しかし、もし観察者がこの極端な外的視点を本当に固執して、ルールを受けいれている集団の構成員がどのように彼ら自身の規則だった行動を見ているかについてまったく説明しないならば、彼らの生活についての彼の記述は決してルールに関するものでありえないし、したがってルールに依拠している責務や義務の概念に関するものでありえない。

そうではなくて、彼の記述は行為の観察可能な規則性、予測、蓋然性、しるしに関するものであろう。そのような観察者にとっては、集団の一員が正常な行為から逸脱したことは、敵対的な反作用がおそらく生じるだろうというしるしであってそれ以上のものでないだろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第5章 第1次的ルールと第2次的ルールの結合としての法,第2節 責務の観念,pp.98-99,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),石井幸三(訳))
(索引:外的視点,内的視点)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年10月21日日曜日

14.思想は、意識に登る前の本来的な出来事の連鎖の最終項である。感情、欲求、反感を伴った多義的な思想が刺激剤となり、あたかも多数の諸人格が関与しているかのように、諸思想が比較、吟味、解釈、限定され一義的となる。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

思想

【思想は、意識に登る前の本来的な出来事の連鎖の最終項である。感情、欲求、反感を伴った多義的な思想が刺激剤となり、あたかも多数の諸人格が関与しているかのように、諸思想が比較、吟味、解釈、限定され一義的となる。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(再掲)(3.1)~(3.5)追記
意識に現われる思想、感情、意志は、意識に登る前の互いに抵抗し合う諸衝動一切により決まる、その瞬間における、ある総体的状態である。意識は、無意識における出来事の最終項、その徴候、一つの記号である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
(1)ある思想が、直接ある思想の原因であるように見えるのは、見かけに過ぎない。すなわち「意志」を、何か単純な実体であると考えることは、一つの欺瞞的な具象化である。

時刻1 思想1⇒意志1
 │  │
 ↓  ↓
時刻2 思想2⇒意志2

(2)諸感情、諸思想等々の、意識に現われ出てくる諸系列や諸継起は、意識に登る前の本来的な出来事の連鎖の最終項であり、その徴候である。
(3)思想、感情、意志は、互いに抵抗し合う諸衝動一切の、支配と服従の瞬間的な権力確定の結果としての、ある総体的状態である。
 (3.1)思想が私の念頭に浮ぶ。意識にとって、あらゆる思想は一つの刺激剤のような作用をする。
  (3.1.1)一群の感情、欲求、反感によって取りまかれている。
  (3.1.2)一群の他の思想によって取りまかれている。
 (3.2)一切の思考には、ある多数の諸人格が関与しているように見える。
  (3.2.1)多義的な思想を純化し、それが何を意味しているのかが問われる。
  (3.2.2)それが何を意味してもよいのかが問われる。
  (3.2.3)それは正しいのか、それとも正しくないのかが問われる。
  (3.2.4)他の諸思想の助けを求め、その思想と比較される。
 (3.3)かくして、思想は解釈が試みられ、限定され、確定されて一義的となる。
 (3.4)これら一切が、急速に、しかも急ぎの感情なしでなされる。このとき私は確かに、事象の創始者であるよりもむしろ傍観者である。
 (3.5)あらゆる感情に関しても事情は同様である。
  (3.5.1)内蔵の窮状、血圧、交感神経の病的な諸状態、不確実な不快感、苦痛が刺激剤となる。
  (3.5.2)私たちは、何らかの心的・道徳的な説明を探し求め、それを解釈する。
(4)ある思想に引き続き現れる思想は、諸衝動の総体的な権力状況が転移した結果を示す、一つの記号である。

時刻1 衝動11⇔衝動12
 │  ↓↑  ↓↑ ⇒感情1⇒思想1⇒意志1
 ↓ 衝動13⇔衝動14
時刻2 衝動21⇔衝動22
    ↓↑  ↓↑ ⇒感情2⇒思想2⇒意志2
   衝動23⇔衝動24

 「思想は、それが発生するさいの形態においては、それがついに一義的となるまで、解釈を、より正確には、或る任意の制限や限定を必要とする一つの多義的な記号である。

思想が私の念頭に浮ぶ―――どこから? 何によって? このことを私は知らない。

思想は、私の意志から独立的に、通常、一群の感情、欲求、反感によって、また一群の他の思想によって取りまかれ曖昧にされて発生し、かなりしばしば「意欲」あるいは「感情」の働きとほとんど区別されえない。

ひとは思想をこうした一群のもののうちから引き出し、それを純化し、それをひとり立ちさせて、いかにそれがそこに立っているか、いかにそれが歩むかを、見るのだが、これら一切はすばらしく急速に、それなのにまったく急ぎの感情なしでなされるのだ。

《何者が》これら一切をなすのか―――私はそれを知らず、そのさい私はたしかに、こうした事象の創始者であるよりもむしろ傍観者である。

次いでひとはその思想を裁く、ひとはこう問うのだ、「何をこの思想は意味するのか? 何をそれは意味してもよいのか? それは正しいのか、それとも正しくないのか?」と―――ひとは他の諸思想の助けを求め、その思想を比較する。

思考は、このように、ほとんど一種の公正な処置ないしは審理たるの実を示すのであり、そこには、裁く者、相手方がおり、そのうえ証人訊問さえもあるのであって、この証人訊問には私はいささか傾聴する必要がある―――もちろんただ《いささか》にすぎない。

私はたいていのことを聞き落とすように見える。

―――あらゆる思想は最初には多義的にぼんやりと発生し、それ自体としては解釈の試みや任意の確定のための誘因としてしか発生しないということ、一切の思考には或る多数の諸人格が関与しているように見えるということ―――、

これはそうやすやすとは観察できないことであって、私たちは、根本においては、これとは逆の訓練を、つまり、思考のさいに思考のことを思考しないという訓練を受けている。

思想の起原は隠されたままである。思想が或るずっと包括的な状態の徴候にすぎないということの蓋然性は、大きいのだ。

まさしく《この思想が》発生して他の思想が発生しないということ、この思想、多かれ少なかれまさしくこれだけの明るさをもって、ときとしては確実かつ高びしゃに、ときとしては弱々しく支えを必要として、総じてつねに刺激的に、物問いたげに発生するということ

―――つまり意識にとってあらゆる思想は一つの刺激剤のような作用をするのだが―――、

こうした一切のことのうちに私たちの総体的状態の幾分かが記号というかたちで表現されているのだ。

―――あらゆる感情に関しても事情は同様であって、感情はそれ自体として何かを意味するのではない。

感情は、それが発生するとき、私たちによってまず解釈されるのであり、そしてしばしば《なんと奇妙に》解釈されることか! 

私たちにはほとんど「無意識的な」、内蔵の窮状のことを、下腹部における血圧の緊張のことを、交感神経の病的な諸状態のことを、まあ考えてみるがよい―――、かくて私たちが共通感官によってはそれについてほとんど一抹の意識をももっていないものが、なんと多くあることか! 

―――解剖学に精通している者だけが、そうした不確実な不快感のさいに、諸原因の正しい種類や《部位》を推量する。

しかし、その他のすべての者たちは、それゆえ、人間が存在するかぎり、総じてほとんどすべての人間たちは、そうしたたぐいの苦痛のさいに、なんらの身体的な説明をも探し求めないで、なんらかの心的・道徳的な説明を探し求め、そして身体の事実上の不調に或る《偽りの根拠づけ》をなすりつけるのだが、これは、彼らが、彼らのもろもろの不快適な経験や危惧の圏内で、このようにぐあいがよくないことのなんらかの根拠を取り出してくることによってなのだ。

拷問にかけられるとほとんどあらゆるひとがおのれに罪のあることを告白する。

その身体的な原因がわからない苦痛のさいには、そういう苦痛の拷問にかけられた者は、この者がおのれか他人たちかに《罪のあることを認める》までずっと、しかもそのようにきびしく審問的にみずから尋問する、

―――これは、たとえば、不合理な生活法に付き物のおのれの不機嫌を、習慣上道徳的に、つまりおのれ自身の良心の呵責と解釈した清教徒が行なったのと、同様のことだ。―――」

(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅰ認識論/自然哲学/人間学 一九八、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、pp.119-121、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:思想,感情)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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人間には、偏狭な利他主義、部族主義の傾向がある。それは、自他の社会的位置を識別し、表示し、行動を調整する人間の能力を基礎とし、所属集団の利益を守るため、集団内部の協力を促し、外部に対抗する傾向である。(ジョシュア・グリーン(19xx-))

偏狭な利他主義、部族主義

【人間には、偏狭な利他主義、部族主義の傾向がある。それは、自他の社会的位置を識別し、表示し、行動を調整する人間の能力を基礎とし、所属集団の利益を守るため、集団内部の協力を促し、外部に対抗する傾向である。(ジョシュア・グリーン(19xx-))】

(1)人間には、偏狭な利他主義、部族主義の傾向がある。
 (1.1)協力集団は、部外者による搾取から自分たちを守らなくてはならない。
 (1.2)そのために、協力できる集団内の他者と、そうでない集団外の他者を区別する。すなわち、《私たち》を《彼ら》から見分ける必要がある。
 (1.3)そして、《彼ら》より《私たち》をひいきにすること。
(2)人間は、自分を中心とする社会的宇宙の中で、人がどこに位置するかにきわめて鋭い注意を向け、自分たちにより近い人をひいきにする傾向がある。
 (2.1)私たちは、自分の社会的な位置を表現する能力を持っている。
 (2.2)私たちは、他者の社会的な位置を読み取る能力を持っている。
 (2.3)私たちは、読み取った内容に応じて行動を調整する能力を持っている。
 (2.4)私たちには、自分に近い人をひいきにする傾向がある。
(3)私たちはみな、同心円状に広がる複数の社会的な円の中心にいる。
 (3.1)もっとも近い血縁者や友人たち
 (3.2)遠い親戚や知人たち
 (3.3)種類や規模も様々な集団の一員となることで関係をもつ他人
  例えば、村、氏族、部族、民族集団、ご近所、街、州、地方、国。教会、宗派、宗教など
 (3.4)所属政党、出身校、社会階級、応援しているスポーツチームや好きなもの嫌いなもの

 「これはよくある問題だ。あらゆる協力集団は部外者による搾取から自分たちを守らなくてはならない。これを行うには、《私たち》を《彼ら》から見分ける能力と、《彼ら》より《私たち》をひいきにする傾向が必要だ。赤の他人を家族のように遇する人もまれにはいるが、それがあたりまえに行なわれている人間社会はないし、それには正当な理由がある。そんな社会は、自由にアクセスできる資源を潤沢に貯えていて、戸口に訪れた見ず知らずの人に、まるで彼らが長いあいだ音信不通だったきょうだいであるかのように、財宝を浴びせようと待ち構えているようなものだろう。このことと辻褄が合うのが、人類学者ドナルド・ブラウンの研究だ。彼は人類の文化の相違点と類似点を調査し、内集団バイアスと自民族中心主義が普遍的であることをつきとめた。
 私たちはみな、同心円状に広がる複数の社会的な円の中心にいる。私たちをまず囲んでいるのが、もっとも近い血縁者や友人たちであり、それをもっと遠い親戚や知人たちのより大きな円が取り囲む。知人や親戚の円の外側にいるのが、種類や規模も様々な集団(村、氏族、部族、民族集団、ご近所、街、州、地方、国。教会、宗派、宗教など)の一員となることで関係をもつ他人だ。こうした入れ子型の集団に加え、所属政党、出身校、社会階級、応援しているスポーツチームや好きなもの嫌いなもので自分を組織化する。社会的空間は複雑で多様な次元から成るが、常識と膨大な社会科学調査の両方から少なくともひとつのことがあきらかだ。人間は、自分を中心とする社会的宇宙の中で、人がどこに位置するかにきわめて鋭い注意を向け、自分たちにより近い人をひいきにする傾向がある。ときに《偏狭な利他主義》ともいわれるこの傾向を、部族主義と呼ぼう。
 もっとも内側の社会的円(家族、友人、知人)に属する人々を、自分の協力集団の成員と見なすのはたやすい。しかし、人間はもっと大きな集団の中でも、積極的にも(橋を建設する、戦争で戦うなど)、もっと消極的にも(不可侵であることによって)協力している。しかし、他人と協力するには、協力できる他者と、私たちにつけこむおそれのある他者を区別する手段が必要だ。言い換えると、私たちには社会的身分証(ID)を示す能力、読み取る能力、そして読み取った内容に応じて行動を調整する能力が必要なのだ。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第1部 道徳の問題,第2章 道徳マシン,岩波書店(2015),(上),pp.65-65,竹田円(訳))
(索引:偏狭な利他主義,部族主義)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)


(出典:Joshua Greene
ジョシュア・グリーン(19xx-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あなたが宇宙を任されていて、知性と感覚を備えたあらたな種を創造しようと決意したとする。この種はこれから、地球のように資源が乏しい世界で暮らす。そこは、資源を「持てる者」に分配するのではなく「持たざる者」へ分配することによって、より多くの苦しみが取り除かれ、より多くの幸福が生み出される世界だ。あなたはあらたな生物の心の設計にとりかかる。そして、その生物が互いをどう扱うかを選択する。あなたはあらたな種の選択肢を次の三つに絞った。
 種1 ホモ・セルフィッシュス
 この生物は互いをまったく思いやらない。自分ができるだけ幸福になるためには何でもするが、他者の幸福には関心がない。ホモ・セルフィッシュスの世界はかなり悲惨で、誰も他者を信用しないし、みんなが乏しい資源をめぐってつねに争っている。
 種2 ホモ・ジャストライクアス
 この種の成員はかなり利己的ではあるが、比較的少数の特定の個体を深く気づかい、そこまでではないものの、特定の集団に属する個体も思いやる。他の条件がすべて等しければ、他者が不幸であるよりは幸福であることを好む。しかし、彼らはほとんどの場合、見ず知らずの他者のために、とくに他集団に属する他者のためには、ほとんど何もしようとはしない。愛情深い種ではあるが、彼らの愛情はとても限定的だ。多くの成員は非常に幸福だが、種全体としては、本来可能であるよりはるかに幸福ではない。それというのも、ホモ・ジャストライクアスは、資源を、自分自身と、身近な仲間のためにできるだけ溜め込む傾向があるからだ。そのためい、ホモ・ジャストライクアスの多くの成員(半数を少し下回るくらい)が、幸福になるために必要な資源を手に入れられないでいる。
 種3 ホモ・ユーティリトゥス
 この種の成員は、すべての成員の幸福を等しく尊重する。この種はこれ以上ありえないほど幸福だ。それは互いを最大限に思いやっているからだ。この種は、普遍的な愛の精神に満たされている。すなわち、ホモ・ユーティリトゥスの成員たちは、ホモ・ジャストライクアスの成員たちが自分たちの家族や親しい友人を大切にするときと同じ愛情をもって、互いを大切にしている。その結果、彼らはこの上なく幸福である。
 私が宇宙を任されたならば、普遍的な愛に満たされている幸福度の高い種、ホモ・ユーティリトゥスを選ぶだろう。」(中略)「私が言いたいのはこういうことだ。生身の人間に対して、より大きな善のために、その人が大切にしているものをほぼすべて脇に置くことを期待するのは合理的ではない。私自身、遠くでお腹をすかせている子供たちのために使った方がよいお金を、自分の子供たちのために使っている。そして、改めるつもりもない。だって、私はただの人間なのだから! しかし、私は、自分が偽善者だと自覚している人間でありたい、そして偽善者の度合いを減らそうとする人間でありたい。自分の種に固有の道徳的限界を理想的な価値観だと勘違いしている人であるよりも。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第4部 道徳の断罪,第10章 正義と公正,岩波書店(2015),(下),pp.357-358,竹田円(訳))
(索引:)

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