歴史の「意味」は存在するか?
【歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。例えば、永遠平和の理念は国際政治上の目標として承認されている。たとえ未だ厳しい現実と課題解決の困難さが存在しても、目標設定の価値を過小評価してはならない。(カール・ポパー(1902-1994))】「ですから、わたくしの第一の主張はこうです。もしわれわれが歴史の意味ということで、歴史というドラマのなかに隠されている意味のことを考えるなら、あるいは、世界の政治史のうちに隠されているような、そして、おそらくは歴史家か哲学者によって発見されるような発展傾向とか発展法則のことを考えるなら、歴史の意味について語ることは拒否すべきである。
ですから、わたくしの第一の主張は否定的です。その趣旨は、歴史の隠された意味は存在しないということ、それを発見したと信ずる歴史家や哲学者はとんでもない自己欺瞞にとらわれているということです。
これは反して、わたくしの第二の主張はたいへん肯定的です。それは、われわれ自身が政治史にひとつの意味を、実現可能で人間にふさわしい意味を与えることができるというものです。とはいえ、わたくしはそれ以上のことを主張したいと思っています。なぜなら、わたくしの第三の主張は、われわれはそのような倫理的な意味付与あるいは目標設定が決して無益ではないことを歴史に対してもつ力が過小評価されるなら、歴史は決して理解されないことでしょう。こうした倫理的な目標は、疑いもなくしばしば恐るべき結果を生みだしたのですから。しかしわれわれは、過去のどの世代よりもカントが表現したような啓蒙の理念に多くの点で近づいています。とりわけ、知による自己解放の理念、多元的な社会秩序あるいは開かれた社会秩序の理念、および政治的な戦争の歴史に対して永遠平和という目標を告知するという理念に近づいています。われわれがこの目標設定に近づいたと言う場合、もちろんわたくしは、この目標が間もなく達成されるであろうとか、あるいはとにかく達成されるであろうという予言をしようとしているのではありません。挫折することもまたありうるのですから。わたくしの主張は次のような点にあります。ロッテルダムのエラスムス、イマヌエル・カント、フリードリヒ・シラー、ベルタ・フォン・ズットナー、フリードリヒ・ヴィルヘルム・フェルスター、およびその他多くの人が承認をかち取るべく闘ってきた平和の理念は、こんにちともかくも外交官や政治家によって、あらゆる文明国間の国際政治の意識的な目標として承認され、そのための努力がなされているということです。そしてこれは、平和の理念のために闘ったあの偉大な先駆者たちの期待をうわまわっていますし、また25年前に期待されていたことをもうわまわっています。
この法外なまでの成功にしても部分的な成功にすぎないこと、それはエラスムスやカントの理念からのみ生み出されたわけではなく、それ以上に、こんにち全人類を脅かしている戦争の危険の大きさへの洞察から生み出されたものであることをわたくしは認めます。しかしながら、そうであるからといって、こんにち平和を目標とすることが公に承認されているという事実が変わるわけではありませんし、また、この目標をどうすれば実現できるかを外交官や政治家が知らないという点に主としてわれわれの困難があるという事実が変わるわけでもありません。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第10章 知による自己解放,pp.218-220,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:歴史の意味,永遠平和,国際政治)
(出典:wikipedia)
「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる。
9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
カール・ポパー(1902-1994)
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