2020年5月6日水曜日

個人的な善と共通善とが共に実現可能な社会は、最も弱い人々を含む全ての人々の意見が反映可能な、合理的な熟議を通じた意思決定の制度を持ち、最も依存的な人々がニーズに応じて受け取るという格率を自明とみなす。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

個人的な善と共通善とが共に実現可能な社会

【個人的な善と共通善とが共に実現可能な社会は、最も弱い人々を含む全ての人々の意見が反映可能な、合理的な熟議を通じた意思決定の制度を持ち、最も依存的な人々がニーズに応じて受け取るという格率を自明とみなす。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(3)追加。

(1)人間に関する一つの重要な事実
  人は、多くの種類の苦しみに見舞われやすい傷つきやすい存在であり、他者たちの保護と支援に依存することによって、はじめて生き続けることができ開花し得る。この事実の理解は、真の道徳哲学の要件の一つである。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))
 (1.1)傷つきやすさ
  人は、多くの種類の苦しみに見舞われやすい存在である。
  (a)幼年時代の初期
  (b)病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクト
  (c)一生の間、障碍を負い続ける場合
  (d)老年期
 (1.2)他者への依存性
  人は、他者に依存して生きる存在である。私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちの保護と支援を受けるからである。
(2)道徳哲学への影響
 (2.1)しばしば考えられてきた道徳哲学
  病気やけがを負った者、障碍者、幼児、老年者は、健康で理性的な道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。道徳の問題は、私たちと「彼ら」の問題である。
 (2.2)事実に基づく真の道徳哲学の要件
  病気やけがを負った者、障碍者、幼児、老年者は、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身であり、道徳の問題は私たち自身の問題である。
  (a)障碍に見舞われ、他者に依存せざるをえない事態は、私たちの誰もがその人生の折々に体験することであり、一人ひとりの個人が、そのような事態をどの程度体験することになるかはあらかじめ予測不可能である。
  (b)従って、病気やけがを負った者、障碍者、幼児、老年者に対する利益は、特殊な利益ではなく、むしろ、社会全体にとっての利益であり、その社会で共通善とみなされているものの不可欠な要素をなす利益である。

(3)個人的な善と共通善とが共に達成される社会の条件
 個人的な善と、個人的な善を通じて達成される共通善とが共に、達成されるような、〈与えることと受けとること〉の諸関係を具現化しうる社会に要請されること。
 (3.1)合理的な熟議を通じた意思決定の手続き
  すべての者がアクセス可能で、全員の所産とみなし得るような、合理的な熟議を通じた意思決定の手続きが存在すること。
  (3.1.1)制度化された合理的な熟議の仕組み
   合理的な熟議を通じて、自立した実践的推論者たちの政治的意思決定に、表現を与えることが可能な、意思決定の手続きが存在すること。
  (3.1.2)すべての者がアクセス可能
   その意思決定の手続きには、訴えたい提案や反論や意見をもつ者すべてが、アクセスし得ること。
  (3.1.3)全員の所産とみなし得る意思決定
   熟議と、熟議を通じてもたらされる決定の双方が、コミュニティ全体の所産とみなされ得るような、一般的に受容可能な意思決定の手続きであること。
 (3.2)〈正しい気前のよさ〉という徳と矛盾しない諸格率
  (3.2.1)〈正しい気前のよさ〉という徳
   確立された正義の諸規範が、〈正しい気前のよさ〉という徳の実践と矛盾しないこと。
  (3.2.2)〈各人はその貢献に応じて受けとる〉という格率
   自立した実践的推論者同士の間の諸規範は、〈各人はその貢献に応じて受けとる〉という格率を満たすこと。
  (3.2.3)能力に応じて働き、できる限りニーズに応じて受けとるという格率
   ただし、他者に与え得る人々と、子どもや高齢者や障碍者といった最も依存的で、他者から受けとることを最も必要とする人々の間の諸規範は、「各人はその能力に応じて働き、かつまた、できる限りそのニーズに応じて受けとる」という格率を満たすこと。
 (3.3)様々な資質、能力を持つすべての人々の意見の反映
  (3.3.1)様々な資質、能力を持つすべての人々の意見
   自立した実践的推論能力を備えた人々と、そうした推論能力を限定的にしか備えていないか、まったく備えていない人々のいずれもが、コミュニティ内の熟議において、意見を表明し得ること。
  (3.3.2)意見表明が困難な人々の代理人の存在
   意見表明が困難な人々の代理人を務める能力と意志をもつ他者が存在するとともに、当該政治体制の中でそうした代理人の役割に公的な地位が付与されていること。

 「私たちの個人的な善と共通善がそれらを通じて達成されるような〈与えることと受けとること〉の諸関係を具現化しうる社会とは、政治的・社会的にみて、いかなるタイプの社会であろうか。そうした社会は次の三つの条件を満たしている必要があるだろう。すなわち、第一に、そうした社会は、特定のコミュニティのメンバーたちが共有された合理的な熟議を通じて共通の判断にいたることが重要な意義をもつすべてのことがらについて、〔まさにそのような手続きを通じて〕自立した〔実践的〕推論者たちがくだす政治的意思決定に表現を与える社会でなければならない。それゆえ、そうした社会には制度化された熟議の仕組みがなければならないし、そのような熟議の仕組みは、コミュニティのメンバーのうち、訴えたい提案や反論や意見をもつ者すべてがアクセスしうるようなものでなければならないだろう。また、熟議と熟議を通じてもたらされる決定の双方がコミュニティ全体の所産とみなされうるよう、意思決定の手続きは一般的に受容可能なものでなければならない。
 第二に、〈正しい気前のよさ〉が中心的な徳の一つとみなされる社会においては、確立された正義の諸規範がこの徳の実践と矛盾をきたさないことが必要であろう。さまざまな種類の〈正しい関係〉の維持に必要な、さまざまな種類の規範をそれ単独で包括的に説明しうる単純な公式など存在しない。自立した実践的推論者同士の間の諸規範は、マルクスが社会主義社会における正義の格率として提示した、〈各人はその貢献に応じて受けとる〉という格率を満たすものでなければならないだろう。また、〔一方における〕他者に与えうる人々と、〔他方における〕子どもや高齢者や障碍者といった、もっとも依存的で、他者から受けとることをもっとも必要とする人々の間の諸規範は、マルクスが共産主義社会における正義の格率として上記の格率を修正して提示した、「各人はその能力に応じて働き、かつまた、できるかぎりそのニーズに応じて受けとる」という格率を満たすものでなければならないだろう。もちろんマルクスは、彼が示した第二の格率は、いまだ実現不可能な未来の社会においてのみ適用可能であると考えていた。そして私たちも、経済的資源が無限に存在するわけではない社会では、この格率は不完全なしかたでしか適用されえないということ認識しておく必要がある。とはいえ、たとえ不完全な、あるいは、《ひどく》不完全なしかたであろうとも、ともかくこの格率が適用されないかぎり、私たちは次のような生活様式を維持することはできないだろう。すなわち、〔みずからの取り分を確保するうえで〕功績に訴えることとニーズに訴えることのいずれもが効果的である点に特徴をもつ生活様式を、それゆえ、自立した人々と依存的な人々の双方にとっての、また双方のための正義に特徴をもつ生活様式を維持することはできないだろう。
 第三に、そうした社会の政治機構は、自立した実践的推論能力を備えた人々と、そうした推論能力を限定的にしか備えていないか、まったく備えていない人々のいずれもが、右に述べたような正義の諸規範が要求していることは何かをめぐって交わされるコミュニティ内の熟議において、意見を表明しうるようなものでなければならない。そして、後者の人々についていえば、彼らがそのようなしかたで意見を表明しうるのは、彼らの代理人を務める能力と意志をもつ他者が存在するとともに、当該政治体制の中でそうした代理人の役割に公的な地位が付与されている場合だけである。
 それゆえ、ここで私が思い描いているのは、その社会の内部において次のことが当然視されているような政治社会である。すなわち、障碍に見舞われ、他者に依存せざるをえない事態は、私たちの誰もがその人生の折々に体験することであり、しかも一人ひとりの個人がそのような事態をどの程度体験することになるかはあらかじめ予測不可能であるということ。また、そうであるがゆえに、障碍をもつ人々が彼らのニーズを適切に表明できること、また、そうしたニーズが適切なしかたで満たされることは、ある特定の集団だけがその恩恵を受けるような特殊な利益ではなく、むしろ、その政治社会全体にとっての利益であり、その社会で共通善とみなされているものの不可欠な要素をなす利益であるということ。これらのことが当然視されているような政治社会である。だとすれば、そのようなしかたで理解された共通善を達成するために必要な諸々の構造を備えた社会とは、いかなる種類の社会であろうか。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第11章 共通善の政治的・社会的構造,pp.185-187,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:個人的な善,共通善,熟議を通じた意思決定)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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依存的な理性的動物叢書・ウニベルシタス法政大学出版局

陳述(事実確認的発言)は、様々な行為遂行的発言の一つであり、あらゆる状況、目的、聞き手、諸条件における適用を追求している。また、行為遂行的発言は、陳述の真偽値に相当する「値」、用語をそれぞれ持つ。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

陳述(事実確認的発言)と行為遂行的発言

【陳述(事実確認的発言)は、様々な行為遂行的発言の一つであり、あらゆる状況、目的、聞き手、諸条件における適用を追求している。また、行為遂行的発言は、陳述の真偽値に相当する「値」、用語をそれぞれ持つ。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(2)追記。

(1)真偽値を持つ陳述(事実確認的発言)には特別な発語媒介的な目的が存在しておらず「純粋」であると感じたり、行為遂行的発言には陳述が持つ真偽値は持たないように感じることがあるが、いずれも表面的な見方である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

(2)陳述(事実確認的発言)は、様々な行為遂行的発言の一つであり、あらゆる状況、目的、聞き手、諸条件における適用を追求している。また、行為遂行的発言は、陳述の真偽値に相当する「値」、用語をそれぞれ持つ。
 (a)陳述(事実確認的発言)は、様々な行為遂行的発言の一つである。
  事実確認的発言は、発語内行為の側面を取り去り、もっぱら発語行為に注目し、事実との対応という過度に単純化された概念を使用しているが、本質的に発語内行為の側面を持つ。あらゆる状況、あらゆる目的、いかなる聴き手に向かっても、条件においても述べて正しいと思われる表現の理想的形態を追求している。
 (b)様々な行為遂行的発言の「真偽値」
  様々な行為遂行的発言についても、陳述(事実確認的発言)と似たような、それが「正しい」ないし「間違い」とされるための特定の仕方が存在する。それが、いかなる用語で語られ、いかなることを意味するかを明らかにすることができる。

 「さて、行為遂行的発言と事実確認的発言との区別に関してさらに論ずるべきこととして最後に何がのこされているであろうか。実際のところ、この区別に関してわれわれが考えていたことは次のようなものであったと言うことができるであろう。
(a)事実確認的発言ということで、われわれは、言語行為における(発語媒介的なものは別として)発語内行為の側面を取り去り、もっぱら発語行為に注目している。さらに、われわれは、事実との対応という過度に単純化された概念を使用している。過度に単純化されたといえる理由は、この種の発語行為も、本質的に発語内行為の側面をもたらすものであるからである。われわれはむしろ、あらゆる状況において、あらゆる目的のために、いかなる聴き手に向かっても、等々のいかなる条件においても述べて正しいと思われる表現の理想的形態(ideal)を追求しているのである。そして、この理想的形態はときに実現されることもある。
(b)行為遂行的発言ということで、われわれは、発言のもつ発語内の力に可能なかぎり注意を向け、事実との合致という観点を無視して抽象化しているのである。
 おそらく、この抽象化のいずれもそれほどに適切なものではないであろう。実は、ここにはおそらく二つの極があるのではなく、むしろ、そこには一つの歴史的発展があるのみというべきであろう。そして、ある場合には事実確認的発言の例として物理学書中の数学公式を利用したり、また、ある場合には、たとえば行為遂行的発言の例として、単純な執行命令の布告や単純な名前の賦与を利用したりして、われわれは、現実の生活におけるこの二種の発言の発見に近づこうとしているのである。そして、まさにこの種の発言のさまざまな事例、たとえば「私は陳謝します」とか、さしたる理由もなく述べられたときの「猫がマットの上にいる」などの極端な事例によって、かの二種類の異なる発言があるという見解を導いたわけである。陳述は、発語内行為の種類に属するあまたある言語行為のなかの一つにすぎないしかし、真に結論すべきことが、(a)発語行為と発語内行為との区別の必要性と、(b)個々の種類の発語内行為に関して、すなわち、警告、推定、評決、陳述、記述などに関して、第一に、それらが適切ないし不適切とされるための、第二に、それが「正しい」ないし「間違い」とされるための特定の仕方が何であるかということ、すなわち、それらを肯定的あるいは否定的に評価するためにいかなる用語が用いられ、またそれらがいかなることを意味するかということを、それぞれの種類に応じて、批判的に確立することの必要性ということとの、(a)、(b)の二点であることは確実である。この問題は広汎な広がりをもち、「真」か「偽」かという単純な区別に落ち着くことはないであろう。またさらに、陳述をその他から区別するということで終わることもないであろう。なぜならば、陳述は、発語内行為の種類に属するあまたある言語行為のなかの一つにすぎないからである。
 さらに、発語内行為だけでなく、発語行為もまったくの抽象の産物である。すべての真正な言語行為は、同時にこの両者なのである。このことは、用語行為、意味行為等が単なる抽象の産物であるという事情に類似している。しかしもちろん、われわれは、さまざまな可能な言い誤り、すなわちこの場合では、それらの行為を遂行する際に生じ得るさまざまな型のナンセンスを利用して、このような抽象の結果であるさまざまな「行為」を区別しているのである。まさにこの点に関して、われわれが冒頭の講義においてナンセンスの種類の分類に関して述べたことを想い起こしてみることは有益なことであろう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第11講 言語行為の一般理論Ⅴ,pp.242-245,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:陳述,事実確認的発言,行為遂行的発言,真偽値)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
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14.欲望、情念、偏見、神話、幻想の心理学的・社会学的原因の理解はよい。しかし“合理的な”諸価値や事実が、それ以外ではあり得ない、必然的であるという誤謬が信じられたとき、まさに積極的自由が歪曲される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

積極的自由の歪曲、理性による解放

【欲望、情念、偏見、神話、幻想の心理学的・社会学的原因の理解はよい。しかし“合理的な”諸価値や事実が、それ以外ではあり得ない、必然的であるという誤謬が信じられたとき、まさに積極的自由が歪曲される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

追記。

 (2.5)積極的自由の歪曲4:理性による解放
  自分で目標を決め、方策を考え決定を下し、実現してゆくという積極的自由は、歪曲されてきた。欲望、情念、偏見、神話、幻想は、その心理学的・社会学的原因と必然性の理解によって解消し、自由になれる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)欲望、快楽の追求は、外的な法則への服従である。
   (ii)情念、偏見、恐怖、神経症等は、無知から生まれる。
   (iii)社会的な諸価値の体系も、外部の権威によって押しつけられるときは、異物として存在している。意識的で欺瞞的な空想からか、あるいは心理学的ないし社会学的な原因から生まれた神話、幻想は、他律の一形態である。
   (iv)知識は、非理性的な恐怖や欲望を除去することによって、ひとを自由にする。規則は、自分で自覚的にそれを自分に課し、それを理解して自由に受けとるのであるならば、自律である。
   (v)社会的な諸価値も、理性によってそれ以外ではあり得ないと理解できたとき、自律と考えられる。自分によって発案されたものであろうと他人の考案になるものであろうと、理性的なものである限り、つまり事物の必然性に合致するものである限り、抑圧し隷従させるものではない。
   (vi)理解を超えて、それ以外ではあり得ない、必然的であるという誤謬が信じられたとき、積極的自由が歪曲される。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
   (i)理性は、何が必然的で何が偶然的かを理解させてくれる。
   (ii)自由とは、選択し得るより多くの開かれた可能性を与えてくれるからというのではなく、不可能な企ての挫折からわれわれを免れさせてくれるからである。
   (iii)必然的でないものが、それ以外ではあり得ない、必然的であるという誤謬が信じられたとき、積極的自由が歪曲される。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。

 「われわれは専制君主――制度あるいは信仰あるいは神経症――によって奴隷とされている。

これをとり除くことのできるのは、分析と理解のみである。われわれは自分で――自覚的にではないにせよ――つくり出した悪霊によって繋縛されている。これをはらいのけることができるのは、ただそれを意識化し、それに応じた行動をとることによってのみである。

わたくしが自分自身の意志によって自分の生活を設計するならば、そのときにのみわたくしは自由である。この設計が規則をもたらす。

規則は、もしわたくしが自覚的にそれを自分に課し、それを理解して自由に受けとるのであるならば、それが自分によって発案されたものであろうと他人の考案になるものであろうと、理性的なものである限り、つまり事物の必然性に合致するものである限り、わたくしを抑圧し隷従させることはない。

なにゆえに事物がそうあらねばならぬごとくにあらねばならないのかを理解することは、自分がまさしくそのようにあることを意志することである。

知識がわれわれを自由にするのは、われわれの選択しうるより多くの開かれた可能性を与えてくれるからというのではなく、不可能な企ての挫折からわれわれを免れさせてくれるからなのだ。

必然的な法則が現にそうであるより以外のものであることを欲するのは、非理性的な欲求――XであらねばならぬものがまたXでもないことを欲する――の餌食となることである。

さらに進んで、これらの諸法則が必然的にそうあるより別のものだと信ずることは、狂気の沙汰である。

これこそが合理主義の形而上学的核心である。そこに含まれている自由概念は、障害物のない境域、自分のやりたいことのできる空虚な場所という「消極的」な自由の観念ではなくして、自己支配ないし自己統御という〔「積極的」な自由の〕観念である。

わたくしは自分自身の意志することを行うことができる。わたくしは理性的存在である。わたくしが自分自身に対して必然的であると証明できるもの、理性的な社会――つまり、理性的なひとびとによって、理性的存在が抱くであろうような目標へと向けられている社会――においてそうあるよりほかにありえないと証明できるものはいかなるものであれ、これをわたくしは、理性的存在であるがゆえに、自分の道から一掃してしまおうなどと欲することはできない。

わたくしはこれを自分の本体に同化させてしまう、ちょうど論理法則や数学・物理学の法則、芸術上の規則をそうするように。

またわたくしが理解し、それゆえに意志するすべてのものを支配している原則、またそれ以外であることを欲しえないがゆえに、決してわたくしがそれによって妨げられることのない理性的な目標などについてもそうするのと同じように。

これが、理性による解放という積極的学説である。これの社会的形態は、今日のナショナリズム、マルクス主義、権威主義、全体主義等々の信条の多くのものの核心をなしている。

その進展課程には、合理主義的な装備が置き忘れられてしまったというようなことがあるかもしれない。

けれども、今日地球上の数多の部分で、デモクラシーにおいてもまた専制政治においても、この自由をめぐって議論が交わされ、この自由のために戦いがなされているのである。

いまここでわたくしはこの自由の観念の歴史的展開を跡づけてみよいうというのではないが、その変遷の若干の諸点について評釈をくわえてみたいと思う。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),4 自己実現,pp.46-48,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:積極的自由の歪曲,理性による解放,必然性,積極的自由)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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科学における仮説的推理に類似している司法過程の解明のため区別すべき3観点:(a)思考過程とか習慣についての心理学的な事実、(b)司法的技術の諸原理、諸基準、使われるべき思考過程、(c)評価、正当化の諸基準(ハーバート・ハート(1907-1992))

心理学的な事実と諸原理、評価基準

【科学における仮説的推理に類似している司法過程の解明のため区別すべき3観点:(a)思考過程とか習慣についての心理学的な事実、(b)司法的技術の諸原理、諸基準、使われるべき思考過程、(c)評価、正当化の諸基準(ハーバート・ハート(1907-1992))】

 参考:正義に反する定式化を回避しながら、広範囲の様々な判例に矛盾しない一般的ルールを精密化していく裁判所の方法は、帰納的方法というよりむしろ、科学理論における仮説的推理、仮説-演繹法推理と類似している。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 参考:司法過程は、科学における仮説的推理に類似しているとはいえ、その方法の客観的な記述(記述的理論)とは別に、その方法がいかにあるべきかを指図する理論(指図的理論)も存在しており、別の評価が必要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 「発見の方法と評価の基準 司法的推論に関する記述的理論と指図的理論の両方を考察する場合に、次のものを区別することが重要である。つまり、
(1)裁判官が実際にその決定に到達する際の、通常の思考過程とか思考習慣についてなされる主張、
(2)従われるべき思考過程についての提言、
(3)司法的決定が評価されるべき基準、
である。これらのなかで、(1)は記述心理学の問題に関わっている。そしてこの分野の主張は、そられが検討されている事例の記述を超え出ている限りにおいて、心理学の経験的一般命題ないし法則なのである。(2)は司法判断の技法ないし技巧に関わっており、この分野の一般命題は司法的技術の諸原理である。(3)は決定の評価ないし正当化に関係している。
 これらの区別は重要である。なぜなら、裁判官はしばしば、法的ルールないし先例の関与するいかなる熟考ないし推理の過程も経ることなく決定に到達しているから、決定において法的ルールからの演繹が何らかの役割を果たしているとする主張は誤りである、と時折論じられてきたからである。この議論は混乱している。というのは、一般的にいって、そこで争われているのは、裁判官が実際にその決定に到達している仕方、あるいは到達すべき仕方に関わる問題ではないからである。それはむしろ、裁判官が決定――それがどのようにして到達されようとも――を正当化する際に考慮する諸基準に関わっているのである。決定が熟慮によって到達されようと、直感的なひらめきによって到達されようと、その決定の評価において論理が用いられているかどうかということこそが真の問題であろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,3 法哲学の諸問題,p.121,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳),古川彩二(訳))
(索引:仮説的推理,司法過程,思考過程,心理学的事実,原理,基準,評価)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2020年5月5日火曜日

直接影響を与えるのが本人のみであっても、社会が保護すべきという考えは間違っているのか? また、明らかに社会にとって不都合と思われることは、可能な範囲で最小限、禁止してもよいのではないか?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

本人を通じて間接的に受ける影響

【直接影響を与えるのが本人のみであっても、社会が保護すべきという考えは間違っているのか? また、明らかに社会にとって不都合と思われることは、可能な範囲で最小限、禁止してもよいのではないか?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(e)(f)追加。

  (2.3.3)本人を通じて間接的に受ける影響について
   直接影響を与えるのが本人のみであっても、一般的に、本人に影響があることは、間接的には本人を通じて他人に影響を与え得る。
   直接影響を与えるのが本人のみであっても、家族への被害は? 頼っている人への被害は? また、社会全体としてみると害悪があるのでは? 他の人が真似をしてしまうような悪影響は?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   (a)家族への被害は?
    誰でも、自分に深刻な害か、取り返しのつかない害のあることをすれば、少なくとも家族には被害が及ぶだろう。
   (b)頼っている人への被害は?
    自分の財産を減らせば、その財産に直接にか間接にか頼って生活している人が打撃を受けるだろう。
   (c)社会全体にとっての害悪は?
    自分の身体か頭の能力が低下すれば、幸せのある部分でその人に頼っている人たちに被害を与えるうえ、社会全体の役に立つ仕事をすべきなのにそれができなくなり、おそらくは逆に社会の愛情と慈悲に頼るようにすらなるだろう。
   (d)他の人が真似をしてしまうような悪影響は?
    悪徳や愚行によって他人に直接に被害を与えないとしても、悪い実例を示して社会に害悪を流すことになるので、その人の行動を見聞きした人が堕落か誤解をしないように、自制を強制されるのが当然である。
   (e)本人を社会が保護すべきではないのか?
    子供や成年に達していない若者は明らかに、本人の意思を無視しても社会が保護すべきだというのであれば、大人になって自分を律することができない人も、社会が保護すべきではないのだろうか。
   (f)明らかに社会にとって不都合と思われること
    賭博や飲み過ぎ、淫乱、怠惰、不潔が、法律で禁止されている行為の多くと変わらないほど不幸をもたらし、進歩を妨げるのであれば、実行が可能な範囲で、そして社会にとって不都合にならない範囲で、法律でこれらを抑制してはならないという理由があるのだろうか。
  (2.3.4)周囲の人たちのために自分自身に配慮すべきなのに、そうしなかったことで周囲の人たちへの義務を果たせなかったときには、道徳の問題になり非難の対象となる。

 「さらに、こうも主張されるだろう。間違った行動で打撃を受けるのが身持ちが悪いか愚かな本人だけだとしても、自分を律する力が明らかにない人に、自由にふるまわせておくべきなのだろうか。子供や成年に達していない若者は明らかに、本人の意思を無視しても社会が保護すべきだというのであれば、大人になって自分を律することができない人も、社会が保護すべきではないのだろうか。賭博や飲み過ぎ、淫乱、怠惰、不潔が、法律で禁止されている行為の多くと変わらないほど不幸をもたらし、進歩を妨げるのであれば、実行が可能な範囲で、そして社会にとって不都合にならない範囲で、法律でこれらを抑制してはならないという理由があるのだろうか。そして、法律にかならずある不完全さを補うために、少なくとも世論の力でこれらの害悪を抑制する仕組みを作り、これらの悪徳から抜け出せない人に社会が厳しい制裁をくわえるべきではないだろうか。そうしても、個性を抑圧することにはならないし、生活について独創的で新しい実験を行うのを妨げることにもならない。これで妨げようとしているのは、世界がはじまって以来、現在にいたるまで、繰り返し試され、非難されてきた点であり、誰にとっても有益でも適切でもないことが事実によって示されてきた点である。ある年数にわたって、ある量の事実が積み重なってこなければ、道徳上の真理や処世上の真理が確立したとは考えられないはずである。そこで当面は、過去のどの世代にとっても致命的であった失敗を、新しい世代がつぎつぎに繰り返すのを防ごうというだけだと。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第4章 個人に対する社会の権威の限界,pp.176-178,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:本人を通じて間接的に受ける影響)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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直接影響を与えるのが本人のみであっても、家族への被害は? 頼っている人への被害は? また、社会全体としてみると害悪があるのでは? 他の人が真似をしてしまうような悪影響は?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

本人を通じて間接的に受ける影響

【直接影響を与えるのが本人のみであっても、家族への被害は? 頼っている人への被害は? また、社会全体としてみると害悪があるのでは? 他の人が真似をしてしまうような悪影響は?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2.3.3)追記。

  (2.3.3)本人を通じて間接的に受ける影響について
   直接影響を与えるのが本人のみであっても、一般的に、本人に影響があることは、間接的には本人を通じて他人に影響を与え得る。
   (a)家族への被害は?
    誰でも、自分に深刻な害か、取り返しのつかない害のあることをすれば、少なくとも家族には被害が及ぶだろう。
   (b)頼っている人への被害は?
    自分の財産を減らせば、その財産に直接にか間接にか頼って生活している人が打撃を受けるだろう。
   (c)社会全体にとっての害悪は?
    自分の身体か頭の能力が低下すれば、幸せのある部分でその人に頼っている人たちに被害を与えるうえ、社会全体の役に立つ仕事をすべきなのにそれができなくなり、おそらくは逆に社会の愛情と慈悲に頼るようにすらなるだろう。
   (d)他の人が真似をしてしまうような悪影響は?
    悪徳や愚行によって他人に直接に被害を与えないとしても、悪い実例を示して社会に害悪を流すことになるので、その人の行動を見聞きした人が堕落か誤解をしないように、自制を強制されるのが当然である。
  (2.3.4)周囲の人たちのために自分自身に配慮すべきなのに、そうしなかったことで周囲の人たちへの義務を果たせなかったときには、道徳の問題になり非難の対象となる。

 「以上では、個人の生活のうち、本人のみに関係する部分と他人に関係する部分とを区別してきたが、この区別を認めない人が多い。そうした人は以下のように主張する。社会の一員の行動のうちどのような部分であっても、他の人たちにとって無関心ではいられないものがあるだろうか。まったく孤立して生きている人はいない。誰でも、自分に深刻な害か、取り返しのつかない害のあることをすれば、少なくとも家族には被害が及ぶし、さらに広く被害が及ぶこともある。自分の財産を減らせば、その財産に直接にか間接にか頼って生活している人が打撃を受けるし、社会全体の資源が多かれ少なかれ減少する。自分の身体か頭の能力が低下すれば、幸せのある部分でその人に頼っている人たちに被害を与えるうえ、社会全体の役に立つ仕事をすべきなのにそれができなくなり、おそらくは逆に社会の愛情と慈悲に頼るようにすらなるだろう。このような行動が多ければ、どのような犯罪にも劣らないほど、社会全体の幸福の量を減らすことになろう。最後に、悪徳や愚行によって他人に直接に被害を与えないとしても、悪い実例を示して社会に害悪を流すことになるので、その人の行動を見聞きした人が堕落か誤解をしないように、自制を強制されるのが当然ではないかと。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第4章 個人に対する社会の権威の限界,pp.175-176,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:本人を通じて間接的に受ける影響)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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国家は、諸個人の権利保護のための必要悪である。民主主義の本質は、流血なしの政府交代であり、害悪が最小の制度ではあるが、悪用もできる。制度は、善き伝統と市民に支えられ、改善されていく。(カール・ポパー(1902-1994))

自由主義の諸原則

【国家は、諸個人の権利保護のための必要悪である。民主主義の本質は、流血なしの政府交代であり、害悪が最小の制度ではあるが、悪用もできる。制度は、善き伝統と市民に支えられ、改善されていく。(カール・ポパー(1902-1994))】
自由主義の諸原則
(1)必要悪としての国家
 (a)人は人に対して狼であるか? 故に国家が必要であるか?
 (b)人は人に対して天使であるとしても、国家は必要である。
  依然として弱者と強者とが存在する。弱者が、強者の善良さに恩義をこうむりながら生きる。これを認めない場合は、国家の必要性が承認される。
 (c)国家は絶えざる脅威であり、たとえ必要悪であるとはいえ、悪であることに変わりはない。
  国家が自らの課題を果すためには、権力を持たねばならないが、その権力の濫用から生じる危険を完全に取り除くことはできない。また、権利の保護に対する代価が高すぎる場合もあろう。
(2)民主主義の本質は流血なしに政府を交換できること
 民主主義においては、政府は流血なしに倒されうる。専制政治においてはそうではない。
(3)何事かをなし得るのは市民
 民主主義は枠組みであり、何事かをなし得るのは市民である。
(4)民主主義は、最も害が少ない
 (a)多数派はいつでも正しいとは限らない。
 (b)民主主義の諸制度が、民主主義の伝統に根ざしている場合には、われわれの知る限りでもっとも害が少ない。
 (4.1)開かれた社会の必要性
  闘う勇気を支える真理を探究し、誤謬から解放されるためには、自身の理念を闘う理念と同様に、批判的に考察できることが必要だ。これは、自他の多くの誤りが寛容される開かれた社会においてのみ可能である。(カール・ポパー(1902-1994))

(5)制度は善用も悪用もできる
 (a)制度は、いつでも両価的である。善用もできれば、悪用もできる。
 (b)制度を支える良い伝統が必要である。伝統は、制度と個人の意図や価値観を結びつける一種の連結環を作り出すために必要である。
(6)制度を支える伝統の力
 (a)法はただ一般的な原理を書き記しているのみであり、その解釈や司法過程は、伝統的な正義や原則によって支えられ、発展させられる。これは、自由主義のもっとも抽象的で一般的な原則についても当てはまる。
 (b)個人の自由に加えられる制約は、それが社会的な共同生活によって不可避である場合、可能なかぎり等しく課せられ、そして可能なかぎり少なくされる。
(7)自由主義の諸原則は、改善のための原則
 (a)自由主義の諸原則は、現行の諸制度を評価し、必要とあれば、制限を加えたり改変できるようにするための補助的な原則である。自由主義の諸原則が、現行の諸制度にとって代わることはできません。
 (b)言葉を換えるならば、自由主義とは、専制政治への対抗という点を除けば、革命的であるというよりは、むしろ進化を目ざす信条である。
(8)伝統としての道徳的枠組み
 伝統のうちでも、もっとも重要なものは、制度化された法的枠組みに呼応する道徳的枠組みを形成している伝統である。この伝統により、道徳的感情が育成されている。


 「2 自由主義の諸原則、一群のテーゼ
1 《国家は必要悪です》。国家の権力は必要な範囲をこえて拡大されるべきではありません。この原則は「自由主義のカミソリ」と呼べるでしょう。(こう呼ぶのは、形而上学的実体は必要以上に増やされてはならないという有名な原則を述べているオッカム〔中世の哲学者〕のカミソリにならってのことです。)
 この悪――国家――の必要性を示すためには、《人は人に対して狼である》(Homo homini lupus)というホッブズの見解に訴える必要はありません。それどころか、《人は人に対して猫である》(Homo homini felis)、あるいは実に《人は人に対して天使である》(Homo homini angelus)――換言すれば、まったくの柔和さ、あるいはおそらく、天使のようなまったき善良さがあれば、どんな人であれ他人を害することはないという見解を受けいれたときでも、この国家の必然性を示すことはできるのです。つまり、そのような世界においても、依然として弱者と強者とが存在するでしょう。そして弱者は、強者によって許容してもらう《権利をもたない》のです。弱者は、ですから、彼ら自身を許容してくれる強者の善良さに恩義をこうむることになります。さて、こうした状態を不満足なものと考え、何ぴとも生きる《権利》をもつべきであり、そして強者の力から保護されるべきであると《要求》する者は、(強者であれ、弱者であれ)、万人の権利を保護する国家の必要性を承認することになります。
 しかしながら、国家が絶えざる脅威であり、そしてそのかぎりで、たとえ必要悪であるとはいえ、悪にかわりないことを示すことは困難ではありません。なぜなら、国家はその課題を果たすべきであるならば、個々のどんな市民よりも、あるいはどんな市民団体よりも、より多くの権力をもたねばならないからです。そうした権力の濫用から生じる危険を決して完全に取り除くことはできません。それどころか、われわれはいつでも国家によって権利を保護してもらうことに対して代価を払わねばならない、しかも税金というかたちにおいてばかりでなく、われわれが耐えねばならない品位の低下というかたちにおいても(「当局の高慢さ」)、と思われるのです。しかし、これらすべては程度問題です。要は、権利の保護に対してあまりにも高い代価を払う必要はないということです。
2 民主主義と専制政治(Despotie)との差は、《民主主義においては政府は流血なしに倒されうるが、専制政治においてはそうではない》という点にあります。
3 《民主主義は、市民にいかなる恩恵を示すこともできませんし(またそうすべきでもありません)》。事実として、「民主主義」そのものは、まったくもって何もできないのでして、何ごとかをなしうるのは、民主主義的国家(もちろん政府を含めて)の市民のみです。民主主義は、その内部で国民が行為しうるような枠組み以外の何ものでもありません。
4 《われわれが民主主義者であるのは、多数がいつでも正しいからではなく、民主主義の諸制度が、民主主義の伝統に根ざしている場合には、われわれの知るかぎりでもっとも害が少ないからです》。多数(「世論」)が専制政治を決定したときでも、民主主義者は、そのことをもって、自らの確信を放棄する必要はありません。もっとも、自国における民主主義の伝統が十分強固でなかったことを知らされることにはなりますが。
5 《伝統のなかに根づいていないならば、制度だけでは十分ではないのです》。制度というものは――強い伝統の助けがないならば――意図されていた目的とはしばしばまったく対立するような目的のために機能しうるという意味で、いつでも「両価的」です。たとえば、議会内の野党は――大雑把に言って――多数派が納税者のお金を盗むのを妨げるべきです。しかし、わたくしは、この制度の両価性を説明する、ヨーロッパ東南部の国での小さなスキャンダルを思い出します。それは、多額の賄賂がまさに多数党と野党とのあいだで分配された事例でした。
 《伝統は、〔一方における〕制度と〔他方における〕個人の意図や価値観を結びつける一種の連結環を作り出すために必要です》。
6 自由な「ユートピア」――つまり、伝統なき博士(tabula rasa)の上に合理的な仕方で設計された国家――などというものは、まったく不可能です。なぜなら、自由主義の原則は、《個人の自由に加えられる制約は、それが社会的な共同生活によって不可避である場合、可能なかぎり等しく課せられ》(カント)、そして可能なかぎり少なくされることを要求するからです。しかしながら、われわれはこうしたアプリオリな原則を実際にはどう適用できるのでしょうか。われわれはピアニストの練習を妨げるべきでしょうか。それともその隣人が静かな午後を楽しむことを妨げるべきでしょうか。こうした問題の一切は、すでにある伝統や習慣を引き合いに出して――伝統的な正義の感情、つまりイギリスでは慣習法と呼ばれているものを引き合いに出すことによって――そして、公正な裁判官が正しいと認めるところにしたがって、解決されることになるでしょう。《というのも、あらゆる法はただ一般的な原理を書き記しているのみであって、適用されるためには解釈されなければならないからです。しかしながら、解釈はふたたび日常的実践から得られるようなある種の原則を必要とするのであって、そうした原則は生きている伝統によってのみ発展させられます。これは、自由主義のもっとも抽象的で一般的な原則について、とくにあてはまることです》。
7 《自由主義の諸原則は、現行の諸制度を評価し、必要とあれば、制限を加えたり改変できるようにするための補助的な原則であると述べることができるでしょう。自由主義の諸原則が、現行の諸制度にとって代わることはできません。言葉を換えるならば、自由主義とは(専制政治への対抗という点を除けば)革命的である(revolutionär)というよりは、むしろ進化を目ざす(evolutionär)信条です》。
8 《伝統のうちでも、もっとも重要なものとして数え上げられねばならないのは、社会の(制度化された「法的枠組み」に呼応する)道徳的枠組みを形成している伝統、つまり、正しさや礼儀正しさについての伝統的感覚を体現している伝統、また、そうした伝統によって達成された道徳的感情の度合です》。こうした道徳的枠組みは、必要とあれば、衝突する利害を、正義にかなった仕方で、そして公正に調停するための土台です。こうした道徳的枠組みは、もちろん変わらないわけではありませんが、比較的ゆっくりと変わるものです。《こうした枠組み、こうした伝統の破壊ほど危険なことはありません》。(ナチズムは、そうした破壊を意図的に目ざしていたのです。)そうした破壊がなされるならば、結局のところ、冷笑的なニヒリズム――あらゆる人間的な価値に対する蔑視とそれらの解体――がひき起こされるにちがいありません。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第11章 自由主義の原則に照らしてみた世論,2 自由主義の諸原則、一群のテーゼ,pp.242-246,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:自由主義,民主主義,権利,伝統)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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16.ある一般名詞が指し示す対象の集合があっても、対象に共通な特徴や性質、共通のイメージが存在するとは限らない。哲学は純粋に記述的なものであり、数学や科学の方法を不用意に用いることは誤りである。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

一般的なるものへの渇望

【ある一般名詞が指し示す対象の集合があっても、対象に共通な特徴や性質、共通のイメージが存在するとは限らない。哲学は純粋に記述的なものであり、数学や科学の方法を不用意に用いることは誤りである。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】

一般的なるものへの渇望
(1)共通的な特徴や性質があるとは限らない
 (a)ある一般名詞があり、この言葉が指し示す対象の集合があるとする。
 (b)全ての対象は似てはいるかもしれないが、共通な特徴や性質があるとは限らない。
 (c)共通的な特徴や性質が必ず存在し、それが言葉の意味だと考えがちであるが、これは誤りである。
(2)視覚的なイメージがあるとは限らない
 (a)様々な個々の「葉」が存在する。
 (b)様々な「葉」に共通な、ある特徴や性質がある。
 (c)共通な特徴や性質だけを含んだ、視覚的イメージのようなものは、存在するとは限らない。
 (d)この共通的なイメージが存在し、それが「葉」の意味だと考えがちであるが、これは誤りである。
 (e)言葉の意味が、何らかの心的機構の状態ではあるとしても、それが視覚的イメージのような心的状態だと考えるのは、誤りである。
(3)哲学は、純粋に記述的なもの
 (a)科学においては、自然現象の説明を、できる限り少数の基礎的自然法則に帰着させる。
 (b)数学においては、異なる主題群を一つの一般化で統一する。
 (c)哲学の方法を、科学や数学の方法と同じであると考えることが、形而上学の真の源であり、哲学者を全たき闇へと導くのである。
 (d)何かを何かに帰着させる、またそれを説明するというのは、哲学の仕事ではない。哲学は事実として純粋に記述的なものである。

 「この一般的なるものの渇望は、それぞれ或る哲学的混乱と結びついている思考傾向が幾つか合わさったものである。

その思考傾向には次のようなものがある―――
 (a)普通、或る一般名詞に包摂される対象のすべてに共通した何かを探す傾向。―――例えば、すべてのゲームに共通なものがなければならない、この共通な性質こそ一般名詞「ゲーム」をさまざまなゲームに適用する根拠である、と我々は考えやすい。

しかしそうではなく、さまざまなゲームは一つの《家族》を形成しているのであり、その家族のメンバー達に家族的類似性( family likeness )があるのである。

家族の何人かは同じ鼻を、他の何人かは同じ眉を、また他の何人かは同じ歩き方をしている。

そしてこれらの類似性はダブっている。一般概念とはその個々の事例すべてに共通な性質だという考えは、言語構造についての他の素朴で単純すぎる考えとつながっている。

この考えは[例えば]《性質》はその性質を持っている物の《成分》だという考えと同じ類のものである。その考えでは、例えば美は、アルコールがビールやワインの成分であるように、美しい物の成分であり、したがって、何であれ美しい物で混ぜものにされさえしなければ、我々は純粋無垢の美をもちえたことになる。

 (b)また、我々の普通の表現形式に根ざした或る傾向がある。一般名詞、例えば「葉」という名詞を学び知った人なら、それにともなって[必ず]個々の葉の像とは別な、何か葉の一般像なるものを獲得している、と考える傾向である。

その人は「葉」という語の意味を学ぶときいろいろな葉を見せられるが、個々の葉を見せるのは単に、「彼の中に」或る種の一般的イメージと思われる観念を産みだすための一法だった、と。

我々は、[今や]彼はこれら個々の葉すべてに共通なものを見てとっている、と言うのだ。もしそれが、彼は尋ねられればそれらの葉に共通な或る特徴や性質をあげる、という意味なのならば誤りではない。

しかし、我々は、葉の一般観念とは何か視覚的イメージのようなもの、だがただすべての葉に共通なものだけを含んでいるもの、と考えがちなのである。(ゴールトンの重ね写真。)  

この考えは再び、語の意味とはイメージあるいは語に対応する事物であるという考えとつながっている。(簡単にいえば、語をすべて固有名のように考え、ついでその名の担い手を名の意味に取り違えることである。

 (c)また再び、「葉」「植物」等々の一般観念を把握するときに何がおきているのかについての我々の考えは、仮説的な[生理学的]心的機構の状態の意味での心的状態と、意識の状態(歯痛等)の意味での心的状態との混同に結びついている。

 (d)一般的なるものへの我々の渇望には今一つ大きな源がある。我々が科学の方法に呪縛されていること。自然現象の説明を、できる限り少数の基礎的自然法則に帰着させるという方法、また数学での、異なる主題群を一つの一般化で統一する方法のことである。

哲学者の目の前にはいつも科学の方法がぶらさがっていて、問題を科学と同じやり方で問い且つ答えようとする誘惑に抗し難いのである。この傾向こそ形而上学の真の源であり、哲学者を全たき闇へと導くのである。ここで私は言いたい。

それが何であれ、何かを何かに帰着させる、またそれを説明するというのは断じて我々の仕事ではない、と。哲学は事実として[もともと]「純粋に記述的」《である》のだ。

(「感覚与件( sense data )は存在するか」といった問を考えて見給え。そして、その問に決着をつける方法は何であるか、と問うて見給え。内観?)」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、pp.46-47、大森荘蔵)
(索引:一般的なるものへの渇望,哲学,数学,科学)

ウィトゲンシュタイン全集 6 青色本・茶色本


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)
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11.生存と認識にとって最重要なものが、身体との関係事象として最初に現われる。次に対象が出現するが、道具や玩具の事物に向き合うのは全体としての身体である。最後に、関係事象から我が客体化され分離する。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

我の意識の起源

【生存と認識にとって最重要なものが、身体との関係事象として最初に現われる。次に対象が出現するが、道具や玩具の事物に向き合うのは全体としての身体である。最後に、関係事象から我が客体化され分離する。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

我の意識の起源
(1)関係事象、作用しかけてくるもの
  向かいあう存在がありありと体感され、ただ全身で受けとめられる関係事象が、最初に存在する。次に、関係における作用の担い手が対象化される。神秘的威力を持った、月、太陽、野獣、酋長、シャーマン、死者たち。(マルティン・ブーバー(1878-1965))
 (a)生存本能にとってもっとも重要なもの、認識本能にとってもっとも顕著なものである、作用しかけてくるものが、最も強く前面に現われ、独立する。
 (b)生殖によって自己を保存しようとするのは、我ではなくて、我というものをまだ知らぬ身体である。
(2)対象の出現
 (a)重要ではないものは、後方に退き、徐々に対象化され、そして少しずつ相い集まってきわめて徐々に群や類をなしてゆく。
 (b)道具や玩具などの事物をつくろうとし、その創始者であろうとするのも、我ではなくて、まだ分たれぬ全体としての身体である。
(3)互いに作用しつつある我と汝の関係事象から我が客体化され分離する
 我は原初的体感の分裂によって浮びあがり、また、我に作用しつつある汝、汝に作用しつつある我という生命にみちた始原語の分裂によって、つまり、この作用しつつあるという分詞が名詞化され、客体化されてから、はじめて単独な要素として浮びあがってくるのである。

 「記憶は訓練されることによって、さまざまな重大な関係事件や根元的な震撼などを分類しはじめるが、そのときもっとも強度に前面にあらわれ、きわだち、ひとり立ちするのは、生存本能にとってもっとも重要なものや、認識本能にとってもっとも顕著なもの、ほかでもなくあの《作用しかけてくるもの》である。

一方、さまざまな体験のうちでも、たいして重要ではないもの、共通の事件ではなかったもの、次々と交代する《汝》は、後方にしりぞき、記憶のなかに離ればなれに残り、徐々に対象化し、そしてすこしずつ相い集まってきわめて徐々に群や類をなしてゆく。

そして第三のものとして、分離された場合には怖るべきものとなり、死者や月よりも時としては妖怪めいて、しかし次第にまがうことなく明らかに現れてくるのだ、もうひとつのものが、《つねに同一である》伴侶が、――《我》が。

 《自己》保存本能や、その他の諸本能の原初的な活動には、《我の意識》は付随していない。

本能がまだ自然のままに活動している段階では、生殖によって自己を保存しようとするのは《我》ではなくて、《我》というものをまだ知らぬ身体である。

そこでは道具や玩具などの事物をつくろうとし、その《創始者》(Urheber)であろうとするのも《我》ではなくて、まだ分たれぬ全体としての身体なのである。

また原始的な認識機能のなかには《われ識る、ゆえにわれあり》(Cognosco ergo sum)はいかに素朴なかたちにおいても見出されない。

およそ経験主体に関する擬人化はいかに子供っぽいかたちでもここには見出されない。

《我》は原初的体感の分裂によって浮びあがり、また、《我に作用しつつある汝》(Ich-wirkend-Du)、《汝に作用しつつある我》(Du-wirkend-Ich)という生命にみちた始原語の分裂によって、つまり、この《作用しつつある》という分詞が名詞化され、客体化されてから、はじめて単独な要素として浮びあがってくるのである。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)pp.30-31、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

マルティン・ブーバー(1878-1965)
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2020年5月4日月曜日

22.衝動の制御:(a)機会を避け、衝動を弱める,(b)厳しい規則を衝動に植えこむ,(c)衝動に身を任せ飽満と嫌悪を獲得する,(d)全身的な衰弱と虚脱で衝動を弱める,(e)苦痛を与える連想を衝動に結びつける,(f)力を他の衝動に転移する(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

衝動を制御する方法

【衝動の制御:(a)機会を避け、衝動を弱める,(b)厳しい規則を衝動に植えこむ,(c)衝動に身を任せ飽満と嫌悪を獲得する,(d)全身的な衰弱と虚脱で衝動を弱める,(e)苦痛を与える連想を衝動に結びつける,(f)力を他の衝動に転移する(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

衝動
(1)別の衝動の存在
 衝動の激しさに対して苦しみを認めるということは、さらに激しい別な衝動が存在することを示している。それは、安息への衝動、恥辱や別の悪い結果への恐怖、愛などである。
(2)知性の発動
  あるいは、また、われわれの知性が味方しなければならない、ひとつの戦いがさし迫っていることを示している。
(3)衝動の激しさを押さえるための、本質的に異なった6つの方法
 (a)機会を避け、衝動を弱める
  衝動を満足させる機会を避け、衝動を弱め、乾涸びるようにする。
 (b)厳しい規則を衝動に植えこむ
  衝動を満足させるときの厳しい規則的な秩序を法則にする。
 (c)衝動に身を任せ飽満と嫌悪を獲得する
  わざと衝動の荒々しい奔放な満足に身を委ね、それで嫌悪を収穫し、この嫌悪によって衝動に打ち勝つ力を手に入れる。
 (d)全身的な衰弱と虚脱で衝動を弱める
  肉体と精神の組織全体を、弱め抑制することに耐え、激しい衝動を弱める。
 (e)苦痛を与える連想を衝動に結びつける
  知的な戦略がある。何らかの非常に苦痛を与える考え、たとえば恥辱や悪い結果などを、満足とかたく結びつける練習をし、連想を完成させる。たとえば、個々の興奮が全体的な態度と理性の秩序よりも優勢になることを、侮辱を感じるようにさせる。
 (f)力を他の衝動に転移する
  何らかのとくに骨の折れる仕事を自分に課すか、あるいはわざと新しい刺戟と楽しみに服従し、思想や肉体の力の働きを別な軌道に導く。すなわち、力の転位。知っている他のすべての衝動に、一時的な鼓舞と祝祭期を与える方法もある。

 「《自制と節制とその究極の動機》。―――衝動の激しさを押さえるのに、本質的に異なった六つの方法より以上は見つからない。 

第一に、衝動を満足させる機会を避け、不満足が長く、だんだん長く続くことによって、衝動を弱め、乾涸びるようにすることができる。

第二に、衝動を満足させるときの厳しい規則的な秩序を法則にすることができる。こういう風にして、衝動そのものの中に規則を持ち込み、衝動の干満を確実な時間的限界の中に閉じこめることによって、もはや衝動からわずらわされることのない中間時が獲得される。―――そしてそこからおそらく第一の方法に移ってゆくことができるであろう。

第三に、わざと衝動の荒々しい奔放な満足に身を委ね、それで嫌悪を収穫し、この嫌悪によって衝動に打ち勝つ力を手に入れることができる。馬を追いつめて殺し、そのとき自分も首の骨を折るような―――残念ながらこうした試みにおいてはこれが通例である―――騎手と競争しないことが前提であるが。  
 
第四に、知的な戦略がある。つまり、何らかの非常に苦痛を与える考えを一般に満足とかたく結びつけ、若干練習したあとで、満足したという考えがいつも直ちにそれ自身非常に苦痛を与えるものとして感じられるようにすることである(たとえばキリスト教徒が、性的享楽にあたって悪魔の接近と嘲笑を、復讐心からの殺人に対して永遠の地獄の罰を、またたとえば、金銭の窃盗犯に対して彼から最も尊敬される人間たちの眼にうかぶ軽蔑だけを考えることに馴れている場合。

あるいは多くの者がすでに百回も、自殺への激しい欲望に対して親類や友人が悲嘆し自責するという考えを対立させ、それによって浮動する人生に身を支えて来た場合。―――今やこれらの考えが彼の心の中で次々に原因と結果のように相次いで起こる)。
 
たとえばバイロン卿や、ナポレオンのように人間の誇りが激昂し、ひとつひとつの興奮が全体的な態度と理性の秩序よりも優勢になることを侮辱を感じるときもまた、これに属する。

ここからさらに、衝動を専制君主化させて、それをいわば軋らせる習慣と楽しみが生じる。(「私は何らかの食欲の奴隷になることを望まない」―――とバイロンは日記に記した。)

第五に、何らかのとくに骨の折れる仕事を自分に課すか、あるいはわざと新しい刺戟と楽しみに服従し、こうして思想や肉体の力の働きを別な軌道に導くことによって、多くの力の転位が行なわれる。

他の衝動を一時的に奨励し、それが満足する機会を多く与え、こうしてそれを、そうでないなら激しさが重荷になった衝動が意のままにするであろうあの力の濫費者にするときも、やはり結果は全く同じことになる。
  
いろいろな人はまた、彼が知っている他のすべての衝動に一時的な鼓舞と祝祭期を与え、専制君主が自分ひとり占めにしようと思う飼料を食いつくせと命じることによって、専制君主を演じたいと思うひとつひとつの衝動を抑制することもよく心得ている。  

最後に第六として、肉体と精神の組織《全体》を弱め抑制することに耐え、それを合理的と思う者は、ひとつひとつの激しい衝動を弱める目標にもとよりこれと同様にして到達する。
 
たとえば苦行者のように、その感覚を飢え疲れさせ、しかも同時にもちろんその強壮さも時折はその知性も一緒に飢え疲れさせて駄目にする人のやり口のように。  

―――したがって、機会を避けること、規則を衝動に植えこむこと、衝動に対する飽満と嫌悪を生み出すこと。苦悩を与える思想(恥辱や悪い結果や、あるいは侮辱された誇りのような)の連想を完成すること。次に力の転位。最後に全身的な衰弱と虚脱。

―――これが六つの方法である。しかし一般に衝動の激しさに打ち勝とうと《望むということ》は、われわれの力の及ぶところではない。

同様に、どんな方法を思いつくか、またこの方法で効果があがるかどうかということも、やはりわれわれの力の及ぶところではない。

むしろわれわれの知性は、この全過程において明白に、或る《別の衝動》の盲目的な道具であるにすぎない。この別の衝動は、安息への衝動であれ、恥辱や別の悪い結果への恐怖であれ、愛であれ、われわれをその激しさによって苦しませるものの《競争者》の一つなのである。

「われわれ」がそれゆえある衝動の激しさについて嘆いていると思っているのに、根柢においては、《ある別の衝動について嘆いている》衝動がある。すなわちそのような《激しさ》に対して苦しみを認めることは、同様に激しい衝動、あるいはさらに激しい別な衝動が存在することを、またわれわれの知性が味方しなければならないひとつの《戦い》がさし迫っていることを前提としている。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『曙光 道徳的な偏見に関する思想』第二書、一〇九、ニーチェ全集7 曙光、pp.123-125、[茅野良男・1994])
(索引:衝動)

ニーチェ全集〈7〉曙光 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
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2020年5月3日日曜日

4.両眼視野闘争は受動的なものだろうか? それとも、意識的に決められるか? 意識的な注意が欠如すると、二つのイメージはともに処理され、競い合わない。両眼視野闘争には、能動的で注意深い観察者が必要なのだ。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

両眼視野闘争

【両眼視野闘争は受動的なものだろうか? それとも、意識的に決められるか? 意識的な注意が欠如すると、二つのイメージはともに処理され、競い合わない。両眼視野闘争には、能動的で注意深い観察者が必要なのだ。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))】

 「両眼視野闘争は受動的なものだろうか? それともどちらのイメージが戦いに勝利するかを意識的に決められるか? 争う二つのイメージを知覚する際、とめどないイメージの交替に、私たちはまったく受動的に従っているかのような印象を受ける。しかしこの印象は誤りであり、皮質における闘争の過程では注意が重要な役割を果たす。そもそも、どちらか一方のイメージ、たとえば建物より顔に注意を集中すると、そのイメージはいくぶん長い期間見え続ける。とはいえその効果は弱い。要するに、二つのイメージ間の闘争は、私たちのコントロールが及ばない段階からすでに始まっているのだ。
 しかしより重要なことに、勝者の存在自体は、私たちがそれに注意を向けることに依存する。つまり、戦いの舞台そのものは、意識を持つ心で成り立つ。その証拠に、二つのイメージが提示される場所から注意をそらすと、イメージの闘争は停止する。
 どうしてそれがわかるのか? 気を散らせている人にその状態で今何を見ているかを、もしくは二つのイメージが依然として交互しているかどうかを訪ねても意味はない。答えるためには、その場所に注意を向けねばならないからだ。注意を喚起せずに知覚の程度を見極めようとしても、無益な循環を引き起こすだろう。それは、鏡で自分の目の動きを確かめようとしたときと似ている。疑いなく目は始終動いているが、鏡でそれを確認しようとすれば、まさにその試みによって目は静止してしまう。これまで長いあいだ、注意を喚起せずに両眼視野闘争を調査する試みは、誰もいない森のなかで倒れる木の音や、眠りに落ちたまさにその瞬間の感覚について尋ねるのと同じように、自己矛盾を孕むと見なされてきた。
 しかし、ときに科学は不可能を可能とする。ミネソタ大学のパン・チャンらは、被験者に質問せずにイメージの交替を調査できることに気づいた。二つのイメージが競い合っているか否かを示す脳の徴候を見出しさえすればよいのだ。彼らはすでに、両眼視野闘争が続くあいだ、いずれかのイメージに反応してニューロンが交互に発火することを知っていた。被験者の注意を喚起せずに、それを測定できるだろうか? チャンは、特定のリズムで明滅させることで各イメージを標識づける、「周波数標識法」と呼ばれる技術を用いた。二つの異なる周波数標識は、頭部に装着した電極を通して記録される脳波図によって拾える。両眼視野闘争が続くあいだ、二つの周波数は排除し合う。一方の振動が強ければ、他方は弱い。これは、一時には一つのイメージしか見えない事実を反映する。しかし被験者が注意を欠いているときには、これらの競合は停止し、二つの標識は独立して同時に生じる。注意の欠如は闘争を妨げるのだ。
 純粋な内省を用いた他の実験でも、この結論は確認されている。競い合うイメージから注意を一定期間そらすと、注意を戻したときに知覚されるイメージは、その期間イメージが交替し続けてきた場合に知覚されるはずのものとは異なる。かくして、両眼視野闘争は注意に依存することがわかる。意識的な注意が欠如すると、二つのイメージはともに処理され、競い合わない。両眼視野闘争には、能動的で注意深い観察者が必要なのだ。」
(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第1章 意識の実験,紀伊國屋書店(2015),pp.49-51,高橋洋(訳))
(索引:両眼視野闘争)

意識と脳――思考はいかにコード化されるか


(出典:wikipedia
スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「160億年の進化を経て発達した皮質ニューロンのネットワークが提供する情報処理の豊かさは、現在の私たちの想像の範囲を超える。ニューロンの状態は、部分的に自律的な様態で絶えず変動しており、その人独自の内的世界を作り上げている。ニューロンは、同一の感覚入力が与えられても、その時の気分、目標、記憶などによって異なったあり方で反応する。また、意識の神経コードも脳ごとに異なる。私たちは皆、色、形状、動きなどに関して、神経コードの包括的な一覧を共有するが、それを実現する組織の詳細は、人によって異なる様態で脳を彫琢する、長い発達の過程を通じて築かれる。そしてその過程では、個々シナプスが選択されたり除去されたりしながら、その人独自のパーソナリティーが形成されていく。
 遺伝的な規則、過去の記憶、偶然のできごとが交錯することで形作られる神経コードは、人によって、さらにはそれぞれの瞬間ごとに独自の様相を呈する。その状態の無限とも言える多様性は、環境に結びついていながら、それに支配はされていない内的表象の豊かな世界を生む。痛み、美、欲望、後悔などの主観的な感情は、この動的な光景のもとで、神経活動を通して得られた、一連の安定した状態のパターン(アトラクター)なのである。それは本質的に主観的だ。というのも、脳の動力学は、現在の入力を過去の記憶、未来の目標から成る布地へと織り込み、それを通して生の感覚入力に個人の経験の層を付与するからである。
 それによって出現するのは、「想起された現在」、すなわち残存する記憶と未来の予測によって厚みを増し、常時一人称的な観点を外界に投影する、今ここについてのその人独自の暗号体系(サイファー)だ。これこそが、意識的な心の世界なのである。
 この絶妙な生物機械は、あなたの脳の内部でたった今も作動している。本書を閉じて自己の存在を改めて見つめ直そうとしているこの瞬間にも、点火したニューロンの集合の活動が、文字通りあなたの心を作り上げるのだ。」
(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第7章 意識の未来,紀伊國屋書店(2015),pp.367-368,高橋洋(訳))
(索引:)

スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-)
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シナプスの情報をアストロサイトが拾い上げ、「もうひとつの脳」の中のグリア回路網を通して流れ、別のアストロサイトからの神経伝達物質放出を促すことによって、別の場所でシナプスの制御に活用している。(R・ダグラス・フィールズ(19xx-))

アストロサイト

【シナプスの情報をアストロサイトが拾い上げ、「もうひとつの脳」の中のグリア回路網を通して流れ、別のアストロサイトからの神経伝達物質放出を促すことによって、別の場所でシナプスの制御に活用している。(R・ダグラス・フィールズ(19xx-))】

 「アストロサイトは、ニューロンのような様式で、遠くまで迅速に情報を送信する必要がないので、電気的インパルスを発火しないのだと、私たちは今では理解している。そのためアストロサイトは、電気的なコミュニケーションには手を出さないが、ニューロンの持つより興味深い第二の交信方法、すなわち神経伝達物質によるコミュニケーションを存分に活用し、そこに関与している。
 アストロサイトの活動は、脳の比較的大きな領域に及ぶので、シナプスへの影響も広範囲にわたるはずである。とはいえ、あるシナプスの情報が一個のアストロサイトによって拾い上げられて、「もうひとつの脳」のなかのグリア回路網を通して流れ、別のアストロサイトからの神経伝達物質放出を促すことによって、神経回路で直接結合していない遠くのシナプスにおけるニューロンのコミュニケーションを調節している可能性については、21世紀初頭に至るまで検証されていなかった。この仮説は、2005年にフィリップ・ヘイドンのグループによって証明された。彼らの研究により、アストロサイトは海馬のシナプス活動にカルシウム上昇によって応答するが、それが次に、発火した近傍のシナプスだけでなく、同じニューロンの遠く離れた別のシナプスでも伝達強度を調節していることが確認された。脳内の遠い場所を結んで、ニューロン回路の外側からシナプス伝達を調節しているアストロサイトはまさしく、制御装置にほかならなかった。「ニューロンの脳」の情報は、「もうひとつの脳」によって傍受され、「ニューロンの脳」の別の場所でシナプスの制御に活用されていたのだ。私たちの中にある二つの心がこうして出会うことで、「ニューロンの脳」だけでは実現できないどんな働きが可能になるのだろうか?
 離れたシナプスの強度を調節するこの現象(異シナプス性抑制として知られる)は、騒々しいレストランの中で会話を続けるときに、私たちの誰もが経験することによく似ている。食事相手の話をいつも以上に注意深く聴き取ると同時に、厨房からの雑音や周りで食事をしている人たちの間で交わされる会話は耳に入れないようにする。このような精神集中は、私たちを取り巻く環境の中で、すべての騒音から重要なシグナルを選別するためには不可欠である。これと同じことが、私たちの海馬でも起こっている。あなたが学習したいと望んでいる新しい情報を運んでくる入力のなされるシナプスは、長期増強によって強化される一方、注意をそらす邪魔な情報を別のシナプスから同じニューロンに伝えている入力は抑制されているのだ。おなたはおそらく、この抑制された背景情報を記憶していないだろう。」(中略)「アストロサイトが、周囲にあるシナプスを抑制して、私たちの記憶中枢に対する特定の入力を際立たせている細胞であることを知って、多くの人が衝撃を受けた。もしアストロサイトが、シナプスの集中調節という重要な働きができなくなったら、どうなるだろうか? それは学習や注意、さらには精神状態にどう影響するのか? アストロサイトが、独自のグリアネットワークを介した交信方法を用いて、シナプス強度を調節していると判明したことも、同じように驚きだった。このネットワークは、ニューロン間を配線でつないだ接続回線に拘束されることなく、神経ネットワークの外側で作動している。この携帯電話のようなアストロサイト網については、私たちは何も知らないも同然だ。このネットワークの境界は何なのか? それらは修正可能なのか――言い換えれば、アストロサイトは精神的経験に従って変化し、学習するのか? アストロサイトが実際に、学習においてネットワークの結合強度を変更していることを示す証拠が、新たな研究で得られ始めている。」
(R・ダグラス・フィールズ(19xx-),『もうひとつの脳』,第3部 思考と記憶におけるグリア,第14章 ニューロンを超えた記憶と脳の力,講談社(2018),pp.469-472,小松佳代子(訳),小西史朗(監訳))
(索引:アストロサイト,グリア回路網,神経伝達物質)

もうひとつの脳 ニューロンを支配する陰の主役「グリア細胞」 (ブルーバックス)



(出典:R. Douglas Fields Home Page
R・ダグラス・フィールズ(19xx-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「アストロサイトは、脳の広大な領域を受け持っている。一個のオリゴデンドロサイトは、多数の軸索を被覆している。ミクログリアは、脳内の広い範囲を自由に動き回る。アストロサイトは一個で、10万個ものシナプスを包み込むことができる。」(中略)「グリアが利用する細胞間コミュニケーションの化学的シグナルは、広く拡散し、配線で接続されたニューロン結合を超えて働いている。こうした特徴は、点と点をつなぐニューロンのシナプス結合とは根本的に異なる、もっと大きなスケールで脳内の情報処理を制御する能力を、グリアに授けている。このような高いレベルの監督能力はおそらく、情報処理や認知にとって大きな意義を持っているのだろう。」(中略)「アストロサイトは、ニューロンのすべての活動を傍受する能力を備えている。そこには、イオン流動から、ニューロンの使用するあらゆる神経伝達物質、さらには神経修飾物質(モジュレーター)、ペプチド、ホルモンまで、神経系の機能を調節するさまざまな物質が網羅されている。グリア間の交信には、神経伝達物質だけでなく、ギャップ結合やグリア伝達物質、そして特筆すべきATPなど、いくつもの通信回線が使われている。」(中略)「アストロサイトは神経活動を感知して、ほかのアストロサイトと交信する。その一方で、オリゴデンドロサイトやミクログリア、さらには血管細胞や免疫細胞とも交信している。グリアは包括的なコミュニケーション・ネットワークの役割を担っており、それによって脳内のあらゆる種類(グリア、ホルモン、免疫、欠陥、そしてニューロン)の情報を、文字どおり連係させている。」
(R・ダグラス・フィールズ(19xx-),『もうひとつの脳』,第3部 思考と記憶におけるグリア,第16章 未来へ向けて――新たな脳,講談社(2018),pp.519-520,小松佳代子(訳),小西史朗(監訳))
(索引:)

R・ダグラス・フィールズ(19xx-)
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他者を自分と同じ知的精神的存在としてとらえる能力(心の理論の能力)は、事実と論理による推論的な合理的知識なのではなく、人間の社会的なつながりの基礎にある別のメカニズムに依拠しているらしい。(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-))

心の理論

【他者を自分と同じ知的精神的存在としてとらえる能力(心の理論の能力)は、事実と論理による推論的な合理的知識なのではなく、人間の社会的なつながりの基礎にある別のメカニズムに依拠しているらしい。(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-))】

 「「心の理論」という言葉は、前章でも類人猿とのからみで出てきたが、ここではもっとくわしく説明したい。「心の理論」は、哲学から霊長類学、臨床心理学にいたるまで、認知科学の分野で広く用いられている専門用語で、他者を知的精神的存在としてとらえる能力――すなわち、自分自身がもっているのと同じようなたぐいの思考、情緒、観念、動機などをもっているという前提にもとづいて他の人たちのふるまいを理解する能力――を指す。言いかえれば、あなたは自分がほかの人になったらどんな感じがするかを実際に感じることはできないが、心の理論を使って、意図や知覚や信念を他者の心に自動的に投影する。そうすることによって、人の感情や意図を推測し、行動を予測して、それに影響をおよぼすことができる。これを「理論」と呼ぶのはいささか誤解を招きやすい。理論という言葉は通常、諸説や予測からなる知的体系を指し、この場合のように生得的、本能的な心的能力に対しては用いないからだ。しかし私が属する分野では「心の理論」が用語として使われているので、ここでもそのまま使うことにする。ほとんどの人は、心の理論をもつことが、どれほど込みいった、率直に言って奇跡的なことであるかをよく理解していない。それは「見ること」と同じように、ごく自然で、即時に起きる、簡単なことに思える。しかし第2章で見たように、見るという能力は、実際には、広範囲な脳領域のネットワークが関与する非常に複雑なプロセスである。私たち人間の高度に発達した心の理論は、人間の脳がもつもっともユニークで強力な能力の一つなのである。
 私たちの心の理論の能力は、一般的知能――論理的に考えたり、推断をしたり、事実を組み合わせたりするときなどに使う合理的知能――に依拠しているのではなく、それと同等に重要な《社会的》知能のために進化した専門のメカニズムに依拠しているらしい。社会的認知のために特化した専門の回路があるのではないかという考えは、1970年代に、心理学者のニック・ハンフリーと霊長類学者のデイヴィッド・プレマックによって最初に提言され、現在では実験にもとづく支持が多数ある。したがって、自閉症の子どもが対人的相互交流に深刻な欠陥があるのは、心の理論に何らかの障害があるためではないかというフリスの直感には説得力があった。」
(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-),『物語を語る脳』,第5章 スティーヴンはどこに? 自閉症の謎,(日本語名『脳のなかの天使』),角川書店(2013),pp.199-200,山下篤子(訳))
(索引:)

脳のなかの天使



(出典:wikipedia
ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「バナナに手をのばすことならどんな類人猿にもできるが、星に手をのばすことができるのは人間だけだ。類人猿は森のなかで生き、競いあい、繁殖し、死ぬ――それで終わりだ。人間は文字を書き、研究し、創造し、探究する。遺伝子を接合し、原子を分裂させ、ロケットを打ち上げる。空を仰いでビッグバンの中心を見つめ、円周率の数字を深く掘り下げる。なかでも並はずれているのは、おそらく、その目を内側に向けて、ほかに類のない驚異的なみずからの脳のパズルをつなぎあわせ、その謎を解明しようとすることだ。まったく頭がくらくらする。いったいどうして、手のひらにのるくらいの大きさしかない、重さ3ポンドのゼリーのような物体が、天使を想像し、無限の意味を熟考し、宇宙におけるみずからの位置を問うことまでできるのだろうか? とりわけ畏怖の念を誘うのは、その脳がどれもみな(あなたの脳もふくめて)、何十億年も前にはるか遠くにあった無数の星の中心部でつくりだされた原子からできているという事実だ。何光年という距離を何十億年も漂ったそれらの粒子が、重力と偶然によっていまここに集まり、複雑な集合体――あなたの脳――を形成している。その脳は、それを誕生させた星々について思いを巡らせることができるだけでなく、みずからが考える能力について考え、不思議さに驚嘆する自らの能力に驚嘆することもできる。人間の登場とともに、宇宙はにわかに、それ自身を意識するようになったと言われている。これはまさに最大の謎である。」
(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-),『物語を語る脳』,はじめに――ただの類人猿ではない,(日本語名『脳のなかの天使』),角川書店(2013),pp.23-23,山下篤子(訳))

ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-)
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