2022年2月26日土曜日

アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集

アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集



アイザイア・バーリン
(1909-1997)











《目次》

(1)ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744)の思想


(1)自然科学と人文学
 (1.1)外部世界についての知識
 (1.2)人間が自ら創造した世界についての知識
 (1.3)数学
 (1.4)言語
 (1.5)人間が自ら創造した世界
 (1.6)過去を再構成する想像力による学問
 (1.7)人間の創造物としての歴史
 (1.8)文化の理解
 (1.9)芸術作品の解釈、評価

(2)アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870)の思想


(2.1)自然の中の無限の可能性と力
(2.2)一般的、普遍的なものは現実ではない
 (2.2.1)狂った知性による想像上の利益
(2.3)現実の真の目標
 (2.3.1)絶対的価値としての個人の自由
 (2.3.2)現在は現在のもの


(3)モンテスキューの思想の意義


(3.1)無知、蒙昧、野蛮、愚昧、真実の隠蔽、冷笑、人権の無視に対する闘い
(3.2)科学への素朴な楽観主義とその誤り
(3.3)モンテスキューの思想


(4)ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831)の思想


(4.1)理念、精神の表現としての時代
 (4.1.1)個人の人格、思想、性質の表現としての行為と経験
 (4.1.2)宇宙全体、人類、民族の特定の時代も理念、精神の表現である
 (4.1.3)文化は時代的個性全体の表現
(4.2)大集合准人格
(4.3)ヘーゲルの発展概念

(5)ルートヴィヒ・フォイエルバッハ(1804-1872)の思想

(5.1)時代の精神への疑問
(5.2)物質的条件の総和が歴史の推進力


(6)カール・マルクス(1818-1883)の思想


(6.1)人間的目的を追求する人間が歴史の推進力である
 (6.1.1)分業の正当なる結果、余暇と文化
 (6.1.2)分業の転倒した結果、階級の分裂
 (6.1.3)意図的な行為と、予期せぬ諸結果との相互作用
 (6.1.4)歴史の進行方 向を規定する中核的運動要因は何だろうか
(6.2)思想、信条への経済的関係の影響
 (6.2.1)所属階級の利害による動機
 (6.2.2)諸個人の動機、感情、信条、性格、知性、その他の自然的傾向、人間性
 (6.2.3)組織的幻想が行動に及ぼす影響

(6.3) 真に自由な行為とその成果の享受を妨げられている社会
 (6.3.1)生産手段の所有者による搾取
 (6.3.2)制度と技術は階級闘争に規定されている
 (6.3.3)労働の疎外
 (6.3.4)真に自由な行為とその成果の享受を妨げられている社会
 (6.3.5)何かの手段であるかのような生き方
 (6.3.6)イデオロギーとしての観念、価値、法律、慣習、制度


(7)価値論


(7.1)何が問題なのか
 (7.1.1)恒久の問題
(7.2)価値判断にも真偽があるとの考え
 (7.2.1)啓蒙主義、功利主義の綱領
 (7.2.2)ミルの人間観
(7.3)諸価値は本質的に相拮抗している
 (7.3.1)マキアヴェッリの所説の意義
 (7.3.2)一元主義的信念は熱狂主義、強制、迫害を正当化する
 (7.3.3)一元主義的信念は誤り
 (7.3.4)価値多元主義が現実の真実である
 (7.3.5)経験主義、寛容、妥協へ の道
(7.4)価値、目的は創造される
 (7.4.1)課題の解決は人々を変え、新たな課題を生む
 (7.4.2)将来の課題は予知できない
 (7.4.3)目的は創造されるのであって発見されるのではない
 (7.4.4)諸価値は個人によって創造される
 (7.4.5)自由な創造としての芸術
 (7.4.6)ロマン主義ヒューマニズムからの継承
 (7.4.7)客観的な価値論への批判
(7.5)選択は不可避である
(7.6)異なる価値、文化との共存
 (7.6.1)我々は多様な文化の中に生きている
 (7.6.2)異なる文化の理解可能性
 (7.6.3)文化は、思想、感情、態度、行動の特殊な形態に影響を与える
 (7.6.4)様々に異なる文化と普遍的な諸価値
 (7.6.5)人間が普遍的に持つ諸価値
  (7.6.5.1)最小限度の共通価値
 (7.6.6)異なる文化を理解するということ
  (7.6.6.1)事例

(8)政治哲学とは

(8.1)基礎概念、範例、モデル、人間観、問題・課題
 (8.1.1)政治理論と価値観
 (8.1.2)人間観を支持する価値観
(8.2)道徳理論、社会理論、政治理論
 (8.2.1)政治理論の成立条件
 (8.2.2)政治理論の特質
(8.3)例として国家とは何か
(8.4)政治理論の未来
 (8.4.1)信念や価値の問題もまた理性の対象である
 (8.4.2)目的と理由による正当化を求めること
 (8.4.3)新しい予言不可能な未来 への展開
(8.5)歴史に法則はあるのか
 (8.5.1)歴史的決定論は誤りである
 (8.5.2)歴史にはパターン、規則性はあるのか
  (8.5.2.1)実体化されると誤りに陥る
 (8.5.3)因果の法則と自由意志
 (8.5.4)個々人の決断と行為が歴史をつくる

(9)消極的自由と積極的自由

(9.1)消極的自由 
 (9.1.1)他人から故意の干渉や妨害を受けず、放任されていること。
 (9.1.2)可能でないことの諸原因と消極的自由
(9.2)自由への障害から自由意志を考える
 (9.2.1)選択における障害、自由の程度
 (9.2.2)自由な選択は先行する諸条件によって完全には決定されていない
 (9.2.3)選択肢を制限する障害は、因果的に理解可能
 (9.2.4)障害の例
 (9.2.5)障害からの解放手段
(9.3)開かれている可能性の程度
 (9.3.1)保護主義的な不自由について
 (9.3.2)自由と知識の問題
(9.4)いかに自由でも、最低限放棄しなければならない自由
(9.5)いかに不自由でも、最低限守らなければならない自由
(9.6)自由のための原理

(9.7)積極的自由
(9.7.1)自分自身が、主人公でありたいという個人の願望
(9.7.2)積極的自由の歪曲1:欲望・情念・衝動
(9.7.3)積極的自由の歪曲2:良い目標のための消極的自由の制限
(9.7.4)積極的自由の歪曲3:内なる砦への退却
(9.7.5)積極的自由の歪曲4:理性による解放

(9.8)自由意志とは何なのか

(9.8.1)外的世界、他者、自己に関する事実
(9.8.2)外的世界
(9.8.3)どこまでが私の意志なのか
 (9.8.3.1)麻薬、催眠術
 (9.8.3.2)根拠のない恐怖、幻想、夢想、無意識の記憶
 (9.8.3.3) 合理化、イデオロギー
 (9.8.3.4) 意識的な意図と動機、目的
 (9.8.3.5)自由意志と逃れ難いもの
 (9.8.3.6)私の支配の外にある要因
 (9.8.3.7)逃れ難いもの、自然法則、言語、諸命題で認識できる諸事実、諸法則
 (9.8.3.8)物質、他者、私自身に関する諸事実、諸法則
 (9.8.3.9)真の選択、偽りの選択、逃れ難いもの

(9.9)目的とは何なのか
 (9.9.1)客観的な目的があるとの主張
 (9.9.2)目的は主観的であるとの主張
 (9.9.3)目的はいかに知られるのか
 (9.9.4)自らの選択、評価、判断
  (9.9.4.1)理解すべき自己は存在するのか
  (9.9.4.2)理解するのでなく自ら選択するのではないのか
  (9.9.4.3)選択しないことも一つの選択
  (9.9.4.4)私の選択、評価、判断である

(9.10)何のための自由なのか


(1)ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744)の思想



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)













(1)自然科学と人文学


(1.1)外部世界についての知識
 人間が観察し、叙述し、分類し、考察し得て、時間的・空間的 規則性を記録し得る外部世界についての人間の知識である。
(1.2)人間が自ら創造した世界についての知識
 人間自身が創造した世界、人間自身が 自らの創造物に課した規則に従う世界についての知識である。
(1.3)数学
 例えば、数学は人間の案出したものの知識であり、これについて人間は「内部からの」観点をもっている。

(1.4)言語
 人間が形成した言語の知識もそうである。



(1.5)人間が自ら創造した世界
 人間が作者・演者・観察者を一身に兼ねているような人間の 諸活動すべての知識もまた然り。


(a)創造の媒体と創造の規則
 ある物の創造者には、特にその物を組立てている素材までも自分で創 り、更にそれを作る際の規則までも自分で案出しているとすれば、原則として不明瞭なものが あるはずはない。
(b)媒体の制限の影響を受けつつ自由に創造する場合
 作家や作曲家の場合は、すべて自分が作ったもの ではない。作家の使う単語、作曲家の用いる音は、大抵の場合、自分で作り出したものではな く、その点で、作者にとって「ままならぬ事実」である。
(c)ほとんど媒体の影響を受けないと考えられる場合
 芸術的創造が純粋な創造の要素が大きくなり、それ自体の「外的」法則に従う「ままならぬ」 素材が少なければ少ないほど我々は「原因を閲して」理解していると言えるし、本当に 知っていると言える。代数学や算術の場合は、実質上これなのだ。


(1.6) 過去を再構成する想像力による学問



(a)先験的=演繹的な学問
(b)帰納的=経験的な学問
(c)過去を再構成する想像力による学問
 (i)社会の変化成長の過程は、人びとが その過程を表現しようとする象徴活動とは並行する。
 (ii)象徴体系は、それ自体が象徴する現実の本質的部分であり、現実と共 に変化する。
 (iii)表現の手段を理解することに始まり、それら手段が前提しかつ表現する現実像を探究する。
 (iv)体系的に変化する表現様式を通じて変化する現実、人間の歴史を探究する。

目的(文化、時代)、現実
 ↓
象徴体系、表現の手段、表現様式
 ↓
芸術作品の   ⇔ 芸術作品
理解・解釈・評価


  

(1.7)人間の創造物としての歴史
 歴史は人間の行動に関するものであり、人間の努力・闘 争・目標・動機・希望・危惧・態度姿勢の物語であるがゆえに、この一段と勝った「内側か らの」形で知りうる。






歴史の理解

(1.8)文化の理解

(1.9)芸術作品の解釈、評価

(a)芸術の解釈は時代と文化に依存する
 芸術作品は、その製作者たちの時代や場所、彼らの社会の成長段階にのみ限られるような象徴記号の目的、つまりは記号の固有な用法を正確に把握することにより、理解・解釈・評価されるべきである。
目的(文化、時代)
 ↓
芸術作品の   ⇔ 芸術作品
理解・解釈・評価

(b)異なる文化の理解
 我々の時代の文化と全く異なった文化の持つさまざまな不思議な点も、その神秘を解明し得る。
(c)学術、思想、芸術、文化の歴史的研究と比較研究
 人類学、社会学、 法学、経済思想、政治哲学、言語学、宗教学、文学、あらゆる芸術、理念、あらゆる文化の、発展の歴史的な探究と、異なる人々のあいだの比較研究が、可能となる。



(2)アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870)の思想


アレクサンドル・ゲルツェン
(1812-1870)








(a)自然の中の無限の可能性と力
 自然の中には、人間の魂の中と同じように無限の可能性や力が眠っており、適当な条件さえ揃えばそれらは発達する。猛烈に発達するであろう。世界を満たすかも知れない。あるいは路傍に倒れるかもしれない。新しい方向をとるかも知れないし、立ち止まるかも知れな い。崩壊するかも知れない。自然は何が起ころうと全く無関心なのだ。
(b) 自然はあらゆる点で、達成し得ることを全て達成する
 結末だけを見て行為そのものを見ないのは基本的な誤りだ。自然は、はかないもの、今だけのものを軽蔑することもない。花が朝開いて夕べに萎れるからといって、バラやユリが石の硬さを与えられなかったといって、誰が自然を咎めるであろうか。自然はあらゆる点で、達成し得ることを全て達成する。
(c) 歴史はあらゆる偶然を利用し、一度に何千という扉を叩く
 生は空想や観念を実現する義務を負わない。生は新しいものを愛する。歴史が繰り返すことはめったにない。歴史はあらゆる偶然を利用し、一度に何千という扉を叩く。いずれの扉が開かれるかは誰にもわからないのだ。

(2.2)一般的、普遍的なものは現実ではない

(a)自然は計画に従わない。
 自然は計画に従わない。原則として個人あるいは社会の問題を解決できる鍵はひとつもないし、公式もない。
(b)一般的な解決は解決ではない。
 単純化や一般化は経験の代用品ではない。
(c)普遍的な目標は決して真の目標ではない。
 すべての時代がそれ自身の性格と自己の課題をもってい る。

(2.2.1)狂った知性による想像上の利益


(2.3)現実の真の目標


(2.3.1) 絶対的価値としての個人の自由
 特定の時間と場所での現実の個人の自由は絶対的な価値である。自由な行為のための最小限度の余地をもつことは、すべての人々にとっての道徳的必要であり、それらは永遠の救済とか歴史とか人間性とか進歩とか、ましてや、国家とか 教会とかプロレタリアートなどといった抽象語もしくは一般的な原理の名において抑圧されるべきでない。
(2.3.2)現在は現在のもの


(a) 何でも保存しておきたいという本能的な情熱
 人間には気に入ったものは何でも保存しておきたいという本能的な情熱がある。人は生まれ、それゆえ永遠に生きたいと思う。恋をすれば愛されることを、最初に告白した瞬間と同 じように永遠に愛されることを願う。

(b) 歴史の各瞬間は充実し完結している
 歴史の各瞬間は充実し、美しく、それぞれの仕方で完結している。すべての時代は新しく、新鮮で、それぞれの希望に満ち、それぞれの喜びと悲しみを内に包み込んでいる。現在は現在のものだ。それなのに人間はこれに満足せず、愚かにも未来をもまた自分のものにしようとする。

(c)人生の各瞬間もまた同じ
 我々は、子供が大人になることから、子供の目的は大人になることだと考えていま す。しかし子供の目的は遊ぶことであり、楽しむことであり、子供であることです。もし我々が行き着く先だけに目を向けるならば、生きとし生ける物の目的は死ぬことにあります。




(3)モンテスキューの思想の意義



(3.1)無知、蒙昧、野蛮、愚昧、真実の隠蔽、冷笑、人権の無視に対する闘い
 フランス啓蒙主義の指導者たち、科学を広めた偉大な人たちは、あらゆる種類の無知と蒙昧、とくに、野蛮、愚昧、 真実の隠蔽、冷笑、人権の無視にたいして公然の戦いをいどみ、人類に大きな貢献をしてき た。

(3.2)科学への素朴な楽観主義とその誤り
 どんな知識でも、技能でも、論理力で も、社会問題について最終的で普遍的な解決を自動的にもたらしうるものではないという事実 を、モンテスキューが非常にはっきりとみてとっていた。
 人間と社会に対する不十分な理論の典型的な考え方は、次のようなものだ。
 (a)人間についての科学
  事物の運動にかんする科学があるように、人間の行動にかんする 科学もありうるはずだ。
 (b)科学的方法への楽観主義
  科学の諸原理をつ かんだ者は誰でも、それを適用することにより、彼らが一致して目指していた全ての目標を 実現することができる。
 (c)統一的、一元主義的な世界観
  真理、正義、幸福、自由、知識、徳性、繁栄、 肉体的力と精神的力は、コンドルセが言ったように、互いに「ひとつの分かちがたい鎖 に」つながっている。少なくとも、互いに矛盾するものではない、そして社会生活 について新たに発見された科学的真理の絶対確実な諸原理に一致するよう社会を変えたなら、 これらすべての目標を実現することができる。
 (d)フランス革命の失敗の原因
  (i)理解不足か?
   新しい原理が正確に理解されていなかったか、その適用 が不十分であったかのいずれかだったからだ。
  (ii) 社会的、経済的原因か?
   別の原理が問 題解決の真の鍵である。例えば、ジャコバン派の純粋に政治的な解決は、問題を過度に単純化 しすぎている点が致命的であり、社会的経済的原因がもっと考慮されるべきであった。
  (iii)他の原理か?
   科学的解決を信じる人々は、何か他のもの、例えば階級闘争とか、コント的進化の原理とか、他のある種の本質的要素が無視されたのが理由であると考えた。

(3.3)モンテスキューの思想
 (a)用心深い経験主義
 「物事の結果のほとんどは、あまりにも不思議な方法で生じたり、知覚できない、遠い原因によっていたりするので、それをあらか じめ見通すことは、ほとんど無理である」。
 (b)法律を普遍的に適用することへの不信
  人々の「性向や性 癖」に最もよく適した政体が最良である。
 (c)人間の能力の限界に対する鋭い感覚
  我々にできることはただ、その目的が 何であれ、人間をできるだけ失望させないよう努力することである。
 (d)「恐るべき単純化をする人々」は知的に明晰であり道徳的に心が純潔であるからこそ、この誤りに陥ったように思われる。





(4)ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831)の思想

















(4.1)理念、精神の表現としての時代


(4.1.1)個人の人格、思想、性質の表現としての行為と経験
 個人の人格的特徴、その思想および嗜好における意図・論理・性質が、その人の生涯を通じて展開される活動と経験との総体に表現されている。かくて、ある人についてよく知れば知るほど、その人の道徳的精神的活動を、その外界への現れを通してより良く理解できる。
(4.1.2)宇宙全体、人類、民族の特定の時代も理念、精神の表現である
 ヘーゲルは、理念Ideaあるいは精神 Spiritという呼称で、その進化の諸段階を検討して類別を設け、そしてそれを特定の民 族と文化との発展、さらには知覚力をもった宇宙全体の発展の原動力をなす動態的要因であると断言したのである。  
(4.1.3) 文化は時代的個性全体の表現
 これまでのすべての思想家の誤りは、ある特定の時代のさまざまの活動領域をそれぞれ相対的に独立したものと考えるところにある。一時代の文化的諸現象やその諸現象を構成している特定の種類の諸事項 は、その時代全体の、またその時代的個性全体の表現である。
(4.2) 大集合准人格

(a) 大集合准人格としての人為的諸制度の歴史的、批判的研究
 ヘーゲルの真の重要性は、社会的歴史的な研究分野の創設に及ぼした影響力にある。創設された新しい部門とは、構成員たる 諸個人の次元からだけでは描きえない、大集合准人格 great collective quasi- personalities と見なされるべき、独自の生命と性格を有する人為的諸制度の歴史、および その制度にたいする批判である。

(b)ヘーゲル的歴史観の通俗的な影響 
 諸個人あるいは彼らの行動を、特定の時代や地域、民族に特定の諸特徴を結びつけて記述する習慣がある。また、広く見られる社会的態度についてさえ、そのような理解の仕方をする場合がある。

(c)国家、民族、時代、歴史の非合理的な神話化
 この思想上の革命は、例えば国家、人種、歴史、時代といっ たものを超人格的な影響力の行使者として扱う、非合理的で危険な神話を培うに至った。

(d)諸個人の意図の軽視
 諸事件をあれやこれやの国王ないしは政治家の性格や意図の結果として、あるいは個人的な成功や失敗の結果として説明するすべての著述家 は、幼稚で非科学的であると見られるに至った。



(4.3)ヘーゲルの発展概念

(a)対立と矛盾を契機とした不連続的変化
 化学変化、生命現象、二人の人の対話、政治的過程、科学の発展、芸術の開花、あらゆる人間の文化の展開は、対立と矛盾を契機として、新たな組織的なもの全般的なものへと、不連続的に変貌を遂げ、これは無限に続く過程である。
(b)止揚(Aufhebung)の原理
 常により高次元の統一へと向かう包摂・吸収と分解・解決、止揚(Aufhebung)の 原理は、さまざまな思想においても自然においても見られるものである。
(c)内的論理の自己展開
 内的論理を有していてそれに沿ってますます大きな規模での自己実現を目指して進むもの である。絶対精神ないし普遍理念は完全な自己 認識へと一歩近づき、人類は一段階前進する。
(d)現実の自己認識としての思想
 思想とは、自己自身を意識するに至った現実に他ならないのであり、この現実が自己を意識 する過程とは、自然が最も明瞭な形態をとって現れる過程に他ならない。




(5)ルートヴィヒ・フォイエルバッハ(1804-1872)の思想











(5.1)時代の精神への疑問

(a)変化を惹き起こすものは、諸個人の決意と行動なのではないのか。
(b)無数の個人の生活と行為 の相互交渉を通じて、全体的帰結がいかにして出現してくるのか。

(c)人々に作用する時代の精神(ヘーゲル)
 同一時期のある文化に属する人々の思想や行動は、その時期の全現象の中に具現する同一 精神がそれらの人々のなかに作用することによって決定されている。

 (d)時代の精神は要約的名辞にすぎない(フォイエルバッハ)
「時代の精神あるいは文化 の精神とは何か。それは時代ないし文化を構成する現象の総体を指す要約的名辞にすぎないの ではないか。」それゆえ、現象の総体によって決定されていると主張することと同じことにな る。これは一個の空虚な同義反復にすぎぬ。

(5.2)物質的条件の総和が歴史の推進力


(a)物質的条件の総和が歴史な推進力
 歴史の推進力は精神的なものではなく、物質的条件の総和であり、これこそが所与の時代に生きる人間をして、現に彼らがやっているように思考し行動 するよう決定しているのだ。
(b) 非物質的理想世界を発明し崇拝する
 人々はその物質的困苦 のゆえに、自分たちが発明した非物質的理想世界の中に慰めを求 め、正義、調和、秩序、善性、統一、永遠を超越的世界の超越的属性に変え、それのみを現実的なるものと呼び、崇拝 の対象へと転換する。

(6)カール・マルクス(1818-1883)の思想
















(6.1)人間的目的を追求する人間が歴史の推進力である

(6.1.1)分業の正当なる結果、余暇と文化 
 意識的であれ無意識的であれ人間の創造物の一つに、分業がある。それは原始社会において 始まり、その後、生産性に顕著な増大をもたらし、人間の直接的必要を超えた剰余の富を作りだ している。この富の蓄積が次には余暇の可能性と文化の可能性とを作りだす。  

(6.1.2)分業の転倒した結果、階級の分裂  
 同時に、この蓄積された生活物資を、他人に福利を得させない手段として使用する可能性、他人を脅し強制して富の蓄積のために働かせる手段として使用する可能 性、他人を押しつけ搾取し人間を支配者階級と被支配者階級に分割する手段として使用する可 能性、に道を拓くことにもなる。


(6.1.3)意図的な行為と、予期せぬ諸結果との相互作用
 (a)歴史とは、自主管理の確立を目指して奮闘する行為者と、彼らの行為の諸結果との間に生まれる相互作用 である。
 (b)行為の諸結果
  (i)意図通り、想定外
   意図されたものであるばあいもあれば、意図されざるものである ばあいもある。
  (ii)予測可能、予測不能
   人間およびその環境に及ぼす影響についても、予測される ものもあれば、そうでないものもありうる。
  (iii)物質、無意識、感情、思想
   物質的領域に生じることもあ れば、思想および感情の領域に発現することもあり、人間の生活の無意識的次元において起こ ることもある。
  (iv)個人、大衆、社会、制度
   個々人にのみ作用するばあいがあるかと思えば、他面、社会 制度ないし社会運動の形態をとって出現するばあいもある。

(6.1.4)歴史の進行方 向を規定する中核的運動要因は何だろうか
 (a)諸制度と絶対精神(ヘーゲル)
  中核的運動要因 は、種々の意識次元で自らが創造した抽象的あるいは具体的諸制度のうち に、自己自身を理解する鍵を探し求めている絶対精神のなかにある。
 (b)目的を追求する人間存在(マルクス)
  (i)事 実においては人間の労働の産物であるものに、人間から独立した外在的な物ないし力であるか の如き外観を与えようとするのは、誤りである。
  (ii)理解可能な人間的目的を追求する人間存在こそが、中核的 要因である。この人間的目的とは、快楽とか知識とか安全とか来世の救済とかの個別 的目標ではなく、全人間能力を、理性の原理と合致した方向に調和的に実現することである。
  (iii)人間的目的の追求は、部分的には自己を 実現できながらも、他面不可避的に部分的には不満を残さざるをえないところから、次の時代 の人々に関わる諸範疇や諸価値やらを変えることになる。
  (iv)文化は、歴史的範疇であって、永遠不変のものではないのである。人間の歴史において唯一永続的な要因は、人間自体、闘いとの関連で理解される人間自体であった。自然を支配し自己の生産力を組織だてようとする闘い、し かも対内的にも対外的にも調和を保ちつつ合理的形態においてそれを実行しようとする闘いで ある。
  (v)闘いとは、人間が自覚的に選び とったものではなく、既に人間存在の一部を成しているものである。この点は、マルクスの 形而上学的側面の表われである。

(6.2)思想、信条への経済的関係の影響

(6.2.1)所属階級の利害による動機
 人間の生活において行動力の根源をなしているものは、経済面の争いを巡る階級的配置のなかでの彼ら相互間の関係である。
 (a)支配階級に属してい るか否か。
 (b)自らの利害が支配階級の成功あるいは失敗によって左右されるか否か。
 (c)現存秩序の 維持が重要な意義を有するような位置にある否か。

(6.2.2)諸個人の動機、感情、信条、性格、知性、その他の自然的傾向、人間性
 人間の特殊な一身上の動機や感情、すなわち彼が利己主義者であるか利他主義 者であるかということ、寛大であるか貪欲であるかということ、賢明であるか間抜けであるかということ、野心的であるか控え目であるかということは、大して検討する価値のない問題と なる。

(6.2.3)組織的幻想が行動に及ぼす影響
 組織的幻想が、外的世界の一部分と化して、客観的社会状況の一 部分となり、諸個人の行動様式に変化を及ぼす。 
 (a)そもそも人間 は、その行動の理由や正当化について考えることなく、行動することがある。
 (b)この社会の過半 の人々の場合、彼ら自身ではさまざまの主観的動機に基いてさまざまに行動しているように 思っている。
 (c)理性、道徳、宗教
  自分自身に、または他者の行為は理性、道徳、あるいは宗教的信念によって導かれたものだと思い込ませようとして、彼らの行動について入念な 説明付けを図る。
 (d)道徳基準、宗教組織
  道徳基準とか宗教組織とかの 一大制度へと成長転化して、社会的圧力自体が消え去った後でも長く残存しつづけることがしば しばみられる。
 (e)気候・土壌・身体組織のような変わり難い要因が、社会制度との相互作用のなかで機能するのと同じような方式 で、作用するのである。

(6.3)真に自由な行為とその成果の享受を妨げられている社会


(6.3.1)生産手段の所有者による搾取
 その掌中にある生産手段を蓄積しており、したがってまたその生産の 果実を資本の形態で蓄積している人々は、大部分の生産者、つまり労働者から彼らの創りだし たものを強制的に奪い取ってしまい、社会を搾取者と被搾取者に分裂させることになる。

(6.3.2)制度と技術は階級闘争に規定されている
 階級闘争がその社会のあらゆる制度を規定するのである。この闘争の過程で、技術技能はさらに発展し、階級に分裂した 社会の文化は一層複雑になり、生産物はますます増大する。

(6.3.3)労働の疎外
 (a)共通の目的が失われる
  人間は本来社会的存在であり、生活と生産の 両面において結び合い共同していなければならないのに、かつての共通の目的を目指して協力 し合う状態にとって代わって今や闘争状態が基本になってしまった。
 (b)望みもしない労働の強制
  生産手段の独占によって、特定の集団は、他の集団に自己の意志を押しつけ、他の集団に望 みもしないし好みもしない仕事を強いることができることとなる。

(6.3.4)真に自由な行為とその成果の享受を妨げられている社会
 生活様式も観念と理想も、支配者の目的に適合させられ、自身の現実の苦境に照応しないものとなる。この苦境こそは、人間性の欲するところに従って生きること、換言すれば、連帯の社会を構成する一員として自らの行為の理由を理解し自らの調和のある自由 で合理的な活動の成果を享受しうること、そういうことを人為的に妨げられている人間の状態 である。

(6.3.5)何かの手段であるかのような生き方


(a)自らの意志、感情、信念、理想、生き方
 特殊に人間的なものとしての人間、つまり個々に自らの意志、 感情、信念、理想、生き方を持ったものとしての人間という感覚に根ざした人権が、「地球 大」の計算と大規模な未来予測の中で見失われてしまったという感情がある。 
(b)計算と予測による政策
 計算と予測が政府、企業、種々の互いに組み合わさったエリートが参画してい る巨大な事業の中にあって政策立案者や会社重役たちの計画の指針になっている。量的な計算では、個々人の特殊な願望や希望、不安や目標を無視せざるを得ない。

(c)自分の将来か何かのプログラムにはめ込まれていく感覚
 今日の若者の間には、自分の将来を科学的にうまく作られた何かのプログラムにはめ込まれていく過程と見るものの数が増えつつある。彼らの平均寿命、能力、利用可能性のデータが、 最大多数の最大幸福を生み出す目的に目一杯かなうように分類、計算、分析を受け、そのプロ グラムに一人一人が組み込まれていく。これが国家、知識、世界等の規模での生活組織を決定する。
(d)憂鬱、怒り、絶望
 このような見通しが、彼らを憂鬱や怒りや絶望に追いやる。彼らは何らかの 独立の存在として、何らかのことを自分ですることを願っており、たんなる受身の存在である こと、誰かに代理されることを望んでいない。





(6.3.6)イデオロギーとしての観念、価値、法律、慣習、制度
 (a)雇用主の 側では、意識的であれ無意識的であれ、自己の寄生的存在を、自然的であり望ましいものとし て正当化したいと思わずにはおれない。
 (b)正当化の過程において、諸々の観念、価値、法律、慣習、制度が生みだされてくる。
 (c)集団的自己欺瞞
  このようなイデオロギー、民族的な宗教的な経済的な等々のイデオロギーは、集団によ る自己欺瞞の形態である。
 (d)教育、一般見解
  この集団的自己欺瞞は、正常な教育の一部として、また社会の一般見解として吸収される。その結果、これを客観的なもの公正なもの必然的なものと見なして、受け入れられることになる。
 (e)人間でない何らかの究極的権威
  疎外の徴候は、究極的権威を、人間自らのなかに求めるのではなく、何らかの非人格的な力に求めるか、想像上の人格ないし勢力に求めることにある。
 (f)イデオロギーとしての経済学
  マルクスの意見では、最も 抑圧性の強い魔性を発揮するのは、ブルジョア経済学である。それは、商品や貨幣の運動を、 とりもなおさず生産、消費、分配の過程を、自然の過程と同じ非人格的な過程として、客観的 諸力の不変の運動形式として描く。



(7)価値論

(7.1)何が問題なのか

 政治的意見を分つ、価値に関する見解の一方は、一切の悪に対する最終的な一つの解決策があり、大多数の人々が有徳で幸福で自由になれるという夢を語る。他方で、人間の気質、才能、ものの見方、願望は永遠に差異を生むので、寛容と均衡によって、人々の間に最大限の共感と理解を促進していくという道を語る。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

(7.1.1)恒久の問題
 人間の永遠の特徴から発生する問題は、各世代で基本的ないし恒久の問題と呼ば れた。
「私はいかに生きるべきか」
「私は何をなすべきか」
「私は何故、そしてどの程度まで他人に服従すべきか」
「自由、義務、権威とはそれぞれ何か」
「私は幸福、知恵、善良さをそれぞれ求めるべきなのか、それはまた何故か」
「私は私自身の能力を発揮すべきな のか、それとも自分を他者の犠牲にすべきなのか」
「私は自ら統治する権利を持つのか、それともうまく統治されることを要求する権利しか持っていないのか」
「権利とは何か、法とは何か、個人、社会、あるいは全宇宙が実現を求めざるを得ない目的といったものがあるのか、そんなものはなくて、食べている食物、育ってきた環境で規定された人間の意志しかない のか」
「集団や社会や民族の意志といったものはあるのか、そこでは個人の世界は一つの断 片にすぎず、その枠組みの中で個人の意志ははじめて何らかの効果や意義を持つのか」

 

(7.2)価値判断にも真偽があるとの考え



(a)価値の問題
「人は何をなすべきか、あれこれのことが正しいのは何故か、これは善か悪 か、正か偽りか、許されているか禁止されているか」という形式の問題である。

(b)価値に関する諸説
 道徳や政治や神学の思想史は、敵対する専門家たちの敵対する主張の間に 生じた激烈な対立の歴史である。
 (i)神の聖典に記されている神の言葉
 (ii)啓示や信仰や聖なる神秘
 (iii)公認の神の解釈者、教会と聖職者の発言
 (iv)合理的形而上学
 (v)個人の良心の判断
 (vi)経験的観察、科学の実験室、経験素材への数学的方法の応用

(7.2.1)啓蒙主義、功利主義の綱領
 人間にとって必要なことは分析、分類することができ、自然と歴史の知識に照らして互 いに調整、調和させることができ、できるだけ多くの人々のできるだけ多くの必要に対して社会的、政治的措置によって最大の可能な充足を与えられるような社会が創造されるであろう。それが啓蒙思想、とりわけ功利主義の綱領であった。必要の相対性という枠組の中にあって も、人はいかに生きるべきか、何をなすべきか、正義や平等や幸福とは何かの問題は、まだ事実 の問題であると前提されていた。

(7.2.2)ミルの人間観
 ミルは、価値判断の領域にも、到達・伝達し得る客観的な真理が存在するが、それを発見 するための条件は、十分な個人の自由、とりわけ探究と討論の自由がある社会でなければ、存 在しない、と確信しているように思われる。

 人間を他の自然物と区別するのは、理性的思考でも自然に対する支配でもなくて、選択し実験する自由である。人間は、真理、幸福、新奇、自由を絶えず求める不完全で誤ちを犯す予測不能で複雑な存在である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

(a)真理、幸福、新奇、自由を絶えず求める不完全で誤ちを犯す予測不能で複雑な存在

 創造的で、自己完成がありえず、従って完全な予測がつかないものであり、誤ちも犯すし、あるものは宥和できるが、あるものは解決も調和もありえないような反対物の複雑な結合体であ り、真理、幸福、新奇、自由を絶えず求めずにはいられないが、そうしたものに達するいかなる保障もなく、自分の理性や才能の発展に好適な環境では、自分自身の行くさきを決定できるところの、自由で、不完全な存 在、こういうイメージである。

(b)選択し実験する自由な存在
 人間を他の自然物と区別するのは、理性的思考でも自然に対する支配でもなくて、選択し実験す る自由である、とミルは信じていた。


(7.3)諸価値は本質的に相拮抗している
 私の言うところは、全くそれとは異なっ ており、いくつかの価値は本質的に相拮抗しているのであるから、すべてが調和しているようなパターンが原則的に発見できるに違いないという考えは、それ自体、世界の実状についての 誤った先験的見解にもとづいている、というのである。


(7.3.1)マキアヴェッリの所説の意義

(7.3.2)一元主義的信念は熱狂主義、強制、迫害を正当化する
 一つの理想が真の目的 である限り、常にいかなる手段も困難すぎることはなく、いかなる犠牲も高すぎることはない ように思われ、人間は究極的目的の実現のために必要なあらゆることをすると考えられる。
(7.3.3)一元主義的信念は誤り
 (i)われわれの病弊に対する最終的回答があり、それに至る道があるはずだ。
 (ii)われわれの信念や習慣の形作る断片 ははめ絵の一片であり、従ってそれは原則的に解決可能である。
 (iii)全ての利益の調和が実現する回答を発見するのに成功していないのは、技 術が乏しいか、愚かであるか、不運であるためである。
(7.3.4)価値多元主義が現実の真実である
 (i)全ての価値が互い一致することなく、それぞれの価値のあるがままの姿に基づいて選択しなければならない。
 (ii)ある生活を 信ずるが故にそうした生活様式を選び、またそれを当然と考えるが故に、あるいは吟味の結果、われわれは他の形の生き方をする道徳的心構えができていないことがわかったが故にこうした生き方を選ぶとしよう。 
(7.3.5)経験主義、寛容、妥協へ の道
 同じような独断的信仰が和解できないこと、一方の他 方に対する完全な勝利が実際上あり得ない。



(7.4)価値、目的は創造される


(7.4.1)課題の解決は人々を変え、新たな課題を生む
 ある時代または文化の問題を解決しようとする努力そのものが、当の努力をしている人々および解決案が適用される人々をともに変えてしまい、それによって新しい人間、新しい諸問題が創り出されることになる。
(7.4.2)将来の課題は予知できない
 歴史的地平によって制約された人 間が、将来の人々の課題や諸問題を予知をすることはできず、まして分析や解決などはできない。
(7.4.3)目的は創造されるのであって発見されるのではない
 行為の目的は発見されるのではなく、芸術の仕事と同じように 個々人、または文化、または国民によって創造されるものなのであって、「何をなすべき か」という問いに対する答えは、発見されることはできない。(主観主義、非合理主義、ロマン主義)
 (a)解答は行動にある
  その問いがそもそも事実に関する問いではなく、解答が、命題あるいは定式、客観的な善、原理、客観的あるいは主観的な価値体系、心と心でないなにものかとの関係を発見することにはなくて、行動のうちにある。
 (b)意志、信仰、創造の行為
  発見されるのではなくて発明しかされえない何ものかのうちに、あらかじめ存在する規則や法則、事実などには従属しない意志あるいは信仰あるいは創造の行為のうちにあるからだ。
(7.4.4)諸価値は個人によって創造される

(a)目的を創造するのは諸個人
 自分の正しいと考えることをなせ、自分の美しいと思うものを作れ、自分の窮極の目的であるものに従って暮らせ、自分の生活の中の窮極の目的以外のものは全て手段であり、目的には一切のものを従属させねばならなぬ、まさしくそ れが、あなたに要求されていることなのである。
(b) 命令、要求、義務、目標に真偽はない
 課題を果せという命令、要求、義務は、 真でもなく偽りでもない。それは命題ではない。何かを述べたものではなく、事実を説明したものでもない。真か偽かを立証できるものではない。誰かが発見して、誰かがその真偽を点検 するようなものではない。それは目標なのである。
(c)その人個人の絶対性
 この理想は、孤独な個人にだけ啓示され たもので、他の全ての人には偽り、あるいは馬鹿げたものと思われるかもしれない。その個 人の属している社会の生活や世界観と対立しているかもしれない。
(7.4.5)自由な創造としての芸術

(7.4.6)ロマン主義ヒューマニズムからの継承



(a)人間は目的そのものであり価値は人間が創造する
 価値を作るのは人間そのものであり、したがって価値を作る人は、何か彼よりも価値の高 いものの名において殺されることない。カントが人間はそれ自体が目的であり、何かの目的のための手段ではないと言っ た時、彼が言わんとしたのがこのことであった。
(b) 制度は人間のために、人間によって創造される
 制度は人間によって作られるだけでなく人間のために作られており、もはや役に立たなくなった時にはその制度は捨てねばならぬ。
(c) いかに高尚な理念でも、一人の人間の価値には及ばない
 進歩や自由や人間性などいかに高尚なものであっても、それら抽象的 理念の名において、あるいは制度の名において人間を殺戮することにはならない。価値が人間 によって与えられている以上、理念や制度はそれ自体で絶対的価値を持たない。
(d) 最悪の罪は、何らかの固定された基準によって人間を評価すること
 すべての罪の中で最悪の罪は、何らかの固定された基準によって人間を貶め、人間を辱めることだという点である。この固定されたパターンは、人間の願望とは無関係に何らかの客観的権威を持つものとされ、 人々は自らの意志に反してそのパターンに押し込まれてきたのである。


(7.4.7)客観的な価値論への批判
 (a)自由への恐怖
  客観的基準などというものは幻想の一形 態ないし「虚偽意識」の一形態であるとされ、そうしたこしらえごとを信ずるのは、心理学的 には自由の恐怖、ひとり放り出され、自分だけの工夫にまかされることへの恐怖に由来する。
 (b)道徳的原理、客観的権威、形而上学的宇宙論
  この恐怖によって、道徳的あるいは知的な規則とか原理とかの、永遠の真正性を保証する客観的権威を要求する諸体系、またはまがいものの神学的ないし形而上学的宇 宙論の無批判的容認へと導かれる。


(7.5)選択は不可避である


 人間の条件として、人は選択をいつも避けていることはできない。選択の必要、ある究極的な価値を他の価値 のために犠牲にせねばならないということは、人間がおかれている境遇の永遠の特徴となる。
 (i)理性的で道徳的な選択
  多くの可能な行動の筋道や多くの生きるに値する生活形態があるから、従ってそれらのうちのどれかを選ぶことは、理性的であり道徳的判断ができるということの一証となるという思想がある。
 (ii)人は全ての価値を持ち得ない
  一方で、諸目的が互いに衝突するものであり、 人はすべてを持ち得ないという核心的な理由のために、選択を避けることができない。

(7.6)異なる価値、文化との共存

(7.6.1)我々は多様な文化の中に生きている
 異なる文化への嫌悪、非難の感情そのものが、異なる文化に対する我々の想像力と、共感によ る理解、洞察力、感情移入の能力の存在を証明する。人々がなぜ、その思想、感情を抱き、そ の目標を追求するのかを理解すること。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
(7.6.2)異なる文化の理解可能性
 我々は、時間と空間を超えた、我々とは大きく異なった文化に生きる人々を理解できる。 
 (a)異なる文化の人々の生き方が、ときには嫌な感情を喚起したり、非難したくなるよう な場合もある。
 (b)しかしこの事実は、我々には共感による理解、洞察力、感情移入の能力があり、異 なった文化に生きる人々を理解できるということを示している。
 (c)文化は、新規で予想もされないような世界観を持っており、互いに矛盾しているよう な場合もあることを理解すべきである。
(7.6.3)文化は、思想、感情、態度、行動の特殊な形態に影響を与える
 (a)文化は、世界がそれぞれの社会にとって何を意味するかという感覚に影響を与える。 
 (b)人々が、なぜその思想を考えるのかを理解すること。
 (c)人々が、なぜその感情を感じるのかを理解すること。
 (d)人々が、なぜその目標を追求し、その行動を行うことができるのかを理解すること。 


(7.6.4)様々に異なる文化と普遍的な諸価値
 様々な国民、民族、グループ、個々人は、様々に異なる諸価値を持つ。同時に、人間には普遍 的な諸価値も存在し、我々は異なる文化を理解できる。また、人間が過去犯してきた恐るべき 残虐行為等の原因も解明できる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
 様々に異なる文化と諸価値が存在する。人びとは文化から大きな影響を受けており、その文化には様々な大きな差異が存在する。 
 (a)様々な国民、民族の間に大きな差異がある。
 (b)様々なグループの間に大きな差異がある。
 (c)個々人の間に大きな差異がある。

(7.6.5)人間が普遍的に持つ諸価値
 (a)大多数の場所と状況で、大多数の人間がほとんどいつも現実に共有しているような価 値が存在する。
 (b)これは、一つの経験的な事実である。
 (c)例として、善と悪、真と偽の概念を持たない人びとは存在しない。
 (d)ただし、価値や信念は、意識的、明示的に示されるか、あるいは単に、態度、ジェス チュア、行動の中に示されているのかの違いはある。
(7.6.5.1)最小限度の共通価値

(a)理解の前提としての共通の価値観
 同時代あるいは他の時代の 人びとを理解できる可能性、いってみれば人間同士のコミュニケーションの可能性は、何らか の《価値》の共通性にもとづいているのであって、単に何らかの《事実》の共通性にのみ基づいているわけではない。

(b)人間道徳の基礎
 ノーマルな人間という観念には、それ以上縮小できない最小限の共通な価値の承認というものが含まれている。
(c) 習慣・伝統・法・マナー・流行・エチケット
 人間道徳の基礎という観念と、習慣・伝統・法・マナー・流行・エチケットというような 観念とが区別される。後者の領域では、社会的・歴史的に、また全国的・地方的に、大幅な相違や変化があっても、べつにそのことが稀有であるとも異常であるとも思われない し、極端に突飛で狂っているとも、全く望ましからぬものとも思われない。



(7.6.6)異なる文化を理解するということ
 (a)想像力を使って相手の思想と感情に入り込む。
 (b)あなた自身が、相手方の環境におかれたらどのように世界を見るだろうかと想像する。 
 (c)逆に、他の人々の環境では、あなた自身をどう見るだろうかと想像する。
 (d)たとえあなたが、相手方が嫌いであっても、盲目的な不寛容と熱狂主義は減少するだろ う。
(7.6.6.1)事例
 過去の多くの紛争、暴力行為、恐るべき残虐行為を、どのように理解するのか。
(a)誤った考え方
 それは、狂気から、非合理的な憎悪から、攻撃的性向から、精神病理的な異常から引き起こされたと考えることは、事実をとらえてはいない。
(b)考え方
 人がある文化の中で、どのように思考し、感情を持ち、行動するのかを解明する必要 がある。
 (i)例えば、途方もない虚偽が、著述家によって体系的に宣伝され、人々がそれを信じ込 むようになる。
 (ii)虚偽は理論化され、人々の感情に影響を与える。






(8)政治哲学とは

 過去の政治理論を理解するには、その理論を支えている基礎概念、範例、モデル、人間観、問題・課題を、想像的洞察力によって解明する必要がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(8.1)基礎概念、範例、モデル、人間観、問題・課題
 想像的洞察力によって、以下を理解しなければ、政治理論を理解できない。
 (a)意識的あるいは無意識的に諸種の見解を支配しているモデル、範例、概念構成を理解すること。
 (b)いかなる人間観が織り込まれているか理解すること。あるいは、特定の要素が人間観から欠如しているかを理解すること。
 (c)人間の思想や行動を理解することは、人間がどんな問題、難問題と取り組んでいる かを理解することだ。
 (i)これらの諸問題が、古くから今日まで広く認められ た問題なら、その支配的なカテゴ リーにはっきりと言及しなくとも、理解することができるだろう。
 (ii)政治理論ではよくあるように、そうでない場合には、人間観、モデルの理解が必要となる。
 (iii)今日では廃棄され、すたれてしまったモデルに支配されていた人々の精神状態にわが身を置いてみる だけの想像力と知識がなければ、それを中心にしていた思想と行動とはわれわれには不分明な ままにとどまるだろう。

(8.1.1)政治理論と価値観

(8.1.2)人間観を支持する価値観


(a)人間観、価値観、社会観

(a)政治理論は規範の正当化にかかわるため人間観、社会観、価値観を基礎とする
「どうして人は服従するのか」という問題は経験的心理学、人類学、社会学の問題である。これに対して、「どうして人は、だれか他の人に服従しなければならないのか」という問題は、権威とか主権とか自由とかの観念における規範的なるものの説明、また政治的議論におけるそ れらの観念の妥当性の正当化を求めている。

(b)基礎となる価値観が異なると諸概念も根本的に異なる
 (i)いくつかの概念 の意味について広汎な意見の一致がない。
 (ii)諸問題を決定する公認の権威はだれなのか、または何なのか、等々に関しては大きな見解の相違がある。
 (iii)価値概念の分析に関する意見の不一致は、時としてさらに根本的な差異から生じてきていることは明らかであるように思われる。
 (iv)権利とか正義とか自由とかいう観念は、有神論者と無神論者とではまるきり違ったものになる だろうし、機械論的決定論者とクリスト教信者、ヘーゲル主義者と経験論者、ロマン主義的非合理主義者とマルクス主義者、等々でも根本的に違うものになるであろう。


(8.2)道徳理論、社会理論、政治理論
 個人の問題だけに局限すれば道徳理論、集団の問題に限定すれば社会理論、あるいは政治的と分類される特別の人間配置の諸類型の問題に限定すれば政治理論である。



(8.2.1)政治理論の成立条件


(a)諸価値が対立せず一つの目標しか存在しなければ、政治哲学は不要となる
 ただ一つの目標によって支配されている社会においては、目的に到達する最上の手 段についての議論だけしかありえないはずであり、そうした手段についての議論は技術的なも の、つまり科学的・経験的な性格のものである。
(8.2.2)政治理論の特質


(8.3)例として国家とは何か
 (i)国家は我々の罪のためにのみ与えられたものだ。
 (ii)国家は我々が大人 になり自由になってそれなしで済ませるようになるために通過しなければならない学校のようなものだ。
 (iii)国家は一箇の芸術作品だ。
 (iv)功利的に考案された装置だ。
 (v)自然法の具体的現実化である。
 (vi)支配階級の委員会である。
 (vii)自己展開する人類の精神の最高の段階である。
 (viii)ひとつの犯罪的な愚行である。
 (ix)国家は神聖なものだ。

(8.4)政治理論の未来
 信念や価値の問題もまた理性の対象である。我々は何を信じているのか、信じている理由はなにか、その信念は、どのような価値と真理との規準を含んでいるか。人間と社会、政治を、動機と理由による正当化と説明を求める理性的な好奇心が存在する限 り、政治理論が展開される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(8.4.1)信念や価値の問題もまた理性の対象である
 事実において我々の信念を因果的に決定しているものが何であれ、以下のことを知ろうと欲しないのは、我々の理性能力を理由なく放棄することである。
 (a)我々は何を信じているのか。
 (b)信じている理由はなにか。
 (c)その信念が形而上学的に含意するものはなにか。
 (d)その信念は、他のタ イプの信念といかなる関連をもつか。
 (e)その信念は、どのような価値と真理との規準を含んでいるか。
 (f)その信念が、真理であり妥当性をもつと考えるのにどんな理由があるか。

(8.4.2)目的と理由による正当化を求めること
 理性的な好奇心、すなわち単に因果関係、函数的相関関係、統計的蓋然性などによるのみではなく、動機と理由による正当化と説明を求める気持ちが存在する限 り、政治理論が完全にこの地上から消え失せることはないであろう。

(8.4.3)新しい予言不可能な未来 への展開
 新マルクス主義、新トマス 主義、国家主義、歴史主義、実存主義、反エッセンシャリスト的自由主義、社会主義、また自 然権・自然法学説の経験的用語への移しかえ、経済学からのモデルおよび関連技術の政治的行 動への巧みな適用による諸発見、これらの諸観念の行動における衝突・結合・影響、等々、それらは大きな一伝統の死を指示するのではなく、いずれかといえば、新しい予言不可能な未来 への展開をこそ示唆するものであろう。

(8.5)歴史に法則はあるのか
(8.5.1)歴史的決定論は誤りである
 (a)人間は、歴史の目的や説明を求める。
 (b)もちろん、個々人や国民の生活の形成を決定していく、大きな非人格的な要因は存在す る。
 (c)しかし、歴史の法則というものには、あまりにも多くの明白な例外と、逆の事例が存在 する。


(a)例外的な諸個人か
 民衆および社会全体の生活は、例外的な諸個人によって決定的に左右され ているのか。
(b)不特定多数の諸個人か
 生起するものは特定個人の願望や意図の結果としてではな く、不特定な多数の諸個人の願望や意図の結果として生じるのか。
(c) 個人の性格、 目的、動機が深く関係する
 いずれにしても、環境、風土、物理的、生理 的、心理的過程といった自然的諸力に関する知識だけからすべてが説明されるわけではない。そこには、個人の性格、 目的、動機が関わってくる。だれが、なにを、いつ、どこで、どの ような仕方で、要求したか、またどれほど多くの人間がどれほど烈しく、この目的を避け、あ の目的を追求したか、を究明し、さらにそうした要求なり恐れなりがいかなる環境のもとでど の程度までの効果をもったか、またそれがどういう結果になったか、を追求することが、歴史 家の仕事となる。

(d)道徳的、政治的な評価も関わる
 どうして、このような状況が生じたのか。誰が、また何が、戦争、革命、経済的崩壊、芸術・文学の復興、人間生活を変える発明発見や精神的変革、等々に対して責任をとるべきものであったのか、また責任があるのか、あるいはあるだろうか、ありうるのか。



(8.5.2)歴史にはパターン、規則性はあるのか
 歴史上の諸事件の継起に大きなパターンなり規則性を見出すことができるのではないかと いう考えは、分類や相互関連の発見や、とりわけ予言といった点における自然科学の成功から 強い印象を受けたひとびとには、当然魅力的なものとなる。
(8.5.2.1)実体化されると誤りに陥る

(a)歴史の規則性やパターン
 歴史における規則性やパターンが見つかったからとて、それらに原因としての性質や、能動的な力、超越的性質、人間の犠牲を要求する渇望などを帰属せしめることが自然で当たりまえのことになっ てしまったら、それは神話によって決定的に欺かれることになる。
(b)文化のパターン
 文化にはそれぞれパターンがあり、時代には精神があるとしても、人間の行動をそ れらのパターンなり時代精神なりの「不可避的」な帰結ないし表現として説明することは、言 葉の誤用に陥ることである。

(8.5.3)因果の法則と自由意志
(a)人間の歴史も因果の法則には従う
 因果の法則は、人間の歴史に適用できる。自由な選択の範囲が、かつて人びとが考えたよりも、また恐らく現在もなお誤って考えているよりも、はるかに狭いことには、多くの経験的証拠がある。歴史における客観的なパターンは識別できるであろう。
(b)法則やパターンがあっても選択の自由は残されている
 それにもかかわらず、そのような法則やパターンでも、何らかの選択の自由を残しており、人間の行為は、先行する諸原因によってそれ自体完全に決定されているわけではない。
(c)科学的な知識は自由を増やし、無知は自由を削減する
 知識、とりわけ科学的に確立された法則の知識は、我々の活動をより効果的にし、我々の自由を拡張するのに役立つ。また、無知および無知のかもす幻想・恐怖・偏見は自由を削減する。


(d)歴史の規則性に関する注意
 パターンないし斉一性の認知ということが、過去あるいは 未来に関する特別な仮説に刺激を与えたり、それを立証したりするのに、どれほどの価値をも つにしても、それは一方では、現代のものの見方を決定するのにかなりいかがわしい役割を演 じてきたし、また現在ますます演じつつもあるのである。

(e)規則性の思想は状況認識や道徳的・政治 的評価に影響を与える
 歴史に規則性があるとする思想は、人間の活動や性格を 観察し記述する仕方に影響を及ぼしたばかりではなく、その活動や性格に対する道徳的・政治 的・宗教的な態度にも影響を与えた。



(8.5.4)個々人の決断と行為が歴史をつくる
 我々は、多様な文化の中に生き、思想、感情、態度、行動はその影響を受け、また文化は互い に矛盾する場合もある。このような文化の中に生きる諸個人の決断と行為、予測できない偶然 が歴史を作っていく。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
 様々な要因が多少とも均等にバランスしている時において、大抵は予測することができない 偶然や、個々人の決断や行為が、歴史の進路を決定するというような決定的な瞬間、転換点が 存在する。




(9)消極的自由と積極的自由



(9.1)消極的自由
 消極的自由とは、他人から故意の干渉や妨害を受けず、また制度的な制約もなく、放任されて いることである。可能でないことの諸原因、開かれている可能性の程度については、別に考察 を要する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
(9.1.1)他人から故意の干渉や妨害を受けず、放任されていること。
 (a)個人あるいは個人の集団が、自分のしたいことをしても、放任されている。
 (b)個人あるいは個人の集団が、自分のありたいものであることを、放任されている。
 (c)他人から、故意の干渉や妨害を受けない。
 (d)他人から、行動の範囲を限定されていれば、自由ではなく強制されていると言える。 

(9.1.2)可能でないことの諸原因と消極的自由
(a)他人の妨害ではない物理的制約、身体的制約、病気や障害
 可能でないことの全てが、消極的自由の制限ではない。
(b)他人の妨害ではない個人の能力の不足や貧困
 (i)一般には、消極的自由の制限とは考えられない。
 (ii)可能でないことが、特定の社会・経済理論によって、個人の能力の不足や貧困の原因が、個人以外の原因に帰属させられるとき、「自由が奪われている」と認識される。

(c)他人の故意の干渉や妨害:消極的自由の制限
(d)法律による制度的な制限:消極的自由の制限



(9.2)自由への障害から自由意志を考える



(9.2.1)選択における障害、自由の程度
 私の見るところ通常の思想と言語では、自由とは人間を人間以外の一切のものから区別する基本的な特徴であり、自由には選択行為にたいする障害がないことによって定められる程度があるということが、中心的な想定になっている。
《概念図》
 因果的変化(決定論的)
  状態1→状態2
 因果的変化(非決定論的)
  状態x→状態n (n=1,2,3,...)
  ・可能な状態nのうちの一つに変化
 選択
  状態x→状態n (n=1,2,3,...)
  ・可能な状態nのうちの一つを選択
  ・可能でない状態は障害がある状態
  ・障害は因果的法則の結果である

(9.2.2)自由な選択は先行する諸条件によって完全には決定されていない
 選択は、それ自体が先行する諸条件によって決定されていない、少なくとも全面的には決定されていないと見なされてい る。自由であるとは、強制されざる選択ができるということである。そして選択は、互いに競合 するいくつかの可能性、開かれた道を前提としている。


(9.2.3)選択肢を制限する障害は、因果的に理解可能
 非決定論的な因果的変化のどの特定部分が人間の自由意志に相当するのかを指し示すことや、またその変化が、なぜ自らの能動、自己決定と考えられるのかの解明が困難であっても、選択肢を制限する障害は、因果的に理解することができ、これは、合理性と知識に緊密に関わる。

(9.2.4)障害の例
 障害は多様であり、充分には認識できない。物理的なもの、精神的なもの、社会的要因、個人的要因。地理的条件、牢獄の壁、武装した人々、食住その他生活に必要なものが欠如するという脅威。心理的であ る場合は、恐怖感、コンプレックス、無知、錯誤、偏見、幻想、夢想、強迫観念、神経症、精神病など。

(9.2.5)障害からの解放手段
 道徳的自由、合理的な自己統制、すなわち何が問 題であるか、何が自分の行動の動機であるかを知っていること、他人や自分自身の過去の影 響、あるいは自分の集団や文化の影響から生じるまだ認識されていない力からの独立、内省し合理的に検討すれば根拠がないことが判るような希望、恐怖、願望、愛情、憎悪、理想などを 破壊すること、確かにこれら全ては障害からの解放をもたらすであろう。


(9.3)開かれている可能性の程度
 干渉や妨害から自由でも,開かれている可能性の程度は様々である.(a)可能性の種類,多様性, (b)可能性が意志と行為で変えられるか否か,(c)各個人にとっての実現の難易度,(d)価値・ 重要性,(e)社会にとっての価値・重要性。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
(a)可能性の種類、多様性
 どれほど多くの可能性が自分に開かれているか。この可能性を数える方法は印象主義的 な方法以上のものではありえないが。行動の可能性は、あますことなく枚挙することのできる リンゴのような個々の実在ではない。
(b)可能性が意志と行為で変えられるか否か
 人間の行為によってこれらの可能性がどれほど閉じられたり、開かれたりするか。
(c)各個人にとっての実現の難易度
 これらの可能性のそれぞれを現実化することがどれほど容易であるか、困難であるか。
(d)各個人にとっての価値・重要度
 性格や環境を所与のものとする私の人生設計において、これらの可能性が、相互 に比較されたとき、どれほど重要な意義をもつか。
(e)社会にとっての価値・重要度
 行為者だけでなく、かれの生活している社会の一般感情が、そのさまざまな可能性にど のような価値をおくか。



(9.3.1)保護主義的な不自由について


(a)満足なものでも「合理的なもの」でも、選択肢が少なければ不自由
「物理的」なものであれ「精神的」なものであれ、ある人の選択の領域が狭い場合、その人がその状態に満足しているにせよ、また人が合理的になれば唯一の合理的な道が彼にそれだけ明瞭になり、複数の道の間で動揺しなくなるであろうということがどれだけ真実であるにせよ (私はこの命題は誤っていると思う)、このいずれの状況によっても彼がより広い選択の幅 を持つ人よりも必ずや自由であるということにはならないであろう。

(b)困難で障害のある選択肢を閉ざす場合も不自由
 障害の横たわっている道 に入りたいという願望を除去することによって障害を除 けば、心の静安、満足、あるいは知恵までもが大きくなるかもしれない。しかし自由は大きくならない。

(c)鎖を愛する奴隷の自由


(9.3.2)自由と知識の問題
(a)精神の独立、人格の一貫性、健康と内面の調和
 精神の独立、人格の一貫性、健康と内面の調和は、きわめて望ましい条件であり、この条件はかなりの数の障害を除去する。またこれは、他のすべての自由のための必要条件である。しかし、だからといって問題の自由があるかどうかとは、別問題である。

(b)自由であることを知ること
 どのような道が前にあるか、それがどれだけ開かれているかをよりよく知れば、それだけ自分が自由であることを知るようになるであろう。知らなかったけれども扉は開いていたのだということを後になって発見した人は、無知について後悔しても、自由の欠如について後悔することはないであろう。

(c)自由の行使に必要となる知識
 知識が自由の行使にとって不可欠の条件となることもあろう。その 途上にある障害がそれ自体で自由剥奪、つまり知る自由の剥奪となることもある。無知は道を 閉ざす。知識は道を開く。





(9.4)いかに自由でも、最低限放棄しなければならない自由
 (a)いかに自由といっても、最低限守らなければならない全ての個人が持つ権利がある。
 (b)従って、その自由を奪いとることは、他のすべての個人に禁じられなければならな い。
 (c)消極的自由による社会立法の基礎付け


(a)不干渉を弁護する社会的ダーウィニズム
 社会的ダーウィニズムのように不干渉を弁護する議論は、人情家や弱きも のに対して、強気なもの野蛮なもの無鉄砲なものを、また能力のないもの不運なものに対して、 有能で情け容赦のないものを武装強化するような、政治的・社会的に破壊的な政策を支持する のに使われてきたことはいうまでもない。

(b)社会立法や福祉国家の基礎付けは消極的自由の概念でも可能
 社会立法や社会計画、福祉国家や 社会主義を擁護する立場は、消極的自由からの要求を考察することによっても、その兄弟である積極的自由からの要求の考察によるのと同じくらい妥当に、基礎づけうるのである。

(c)積極的自由による基礎付け
 歴史的 に消極的自由による福祉国家の基礎付けによることが少なかったのは、消極的自由の概念を武器として立ち向かうべき当の外敵 は、レッセ・フェールではなくて専制主義だったからである。

(d)双方の自由概念はそれぞれ重要
 統制と干渉が度を過ごすときには、消極的自由の概念が優勢となり、また逆に、野放図な市場経済がのさばるときには、積極的自由の概念が優勢となるのである。




(9.5)いかに不自由でも、最低限保護すべき自由
 (a)個人の自発性、独創性、道徳的勇気が人類の進歩の源泉であり、(b)個人が自ら目標を選 択するのが、人間の最も本質的なことだ、という理由によって、干渉や妨害からの自由、消極 的自由が基礎づけられてきた。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
(a)これを放棄すれば人間本性の本質に背くことになる自由は、放棄することができな い。
(b)では、人間本性の本質とは何か。自由の範囲を定める規準は、何か。
 自然法の原理、自然権の原理、功利の原理、定言命法、社会契約、その他の概念。
(c)個人の自由は、文明の進歩のために必要である。
 (i)文明の進歩の源泉は個人であり、個人の自発性、独創性、道徳的勇気が、真理や変 化に富んだ豊かなものを生み出す。
 (ii)これに対して、集団的凡庸、慣習の重圧、画一性への不断の傾向が存在する。ある いはまた、公的権威による侵害、組織的な宣伝による大量催眠など。
(d)自分で善しと考えた目標を選択し生きるのが、人間にとって一番大切で本質的なこと である。
 仮に、本人以外の他の人が、いかに親切な動機から、いかに立派な目標であると思えて も、その目標以外の全ての扉を本人に対して閉ざしてしまうことは、本人に対して罪を犯すこ とになる。

(9.6)自由のための原理


(a)権力に対抗する権利の絶対性
 一つの原理は、権力ではなくしてただ権利 のみが絶対的なものと見なされうる、したがって、いかなる権力が支配〔統治〕していようとも、全ての人間には非人間的な行為をすることを拒否する絶対的な権利がある、ということ である。
(b)人間の思想の自由の不可侵性
 第二の原理は、人間がその内部を決して侵されてはならない境界線は、なんら人為的 に引かれたものなのではなく、歴史上長く受けいれられてきた規則によって定められたもので あるということだ。
(b.1)介入が許される非人間性や狂気の概念は恣意的なものではない
 したがってこの境界線を守ることは、一個の正常な人間であるとはどういうことか、そ れゆえにまた、非人間的ないし狂気の行動とはどういうものかという概念そのもののうちに 入っているのであって、その諸規則が、たとえばある宮廷なり主権者なりの側での形式的な手 続きによって廃棄されうるなどということは、まったく不合理なことである、というにある。



(9.7)積極的自由
「誰がここの責任者か、誰が管理しているのか」に関わる。


(9.7.1)自分自身が、主人公でありたいという個人の願望
 (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
 (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
 (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。

(9.7.2)積極的自由の歪曲1:欲望・情念・衝動
 自分で目標を決め、方策を考え決定を下し、実現して ゆくという積極的自由は、歪曲されてきた。(a)欲望、情念は「低次」で、自律的ではないと する説、(b)「高次」の良い目標のためには、目標が強制できるとする説である。(アイ ザイア・バーリン(1909-1997))
 欲望、情念、衝動は低次で、制御できず、非合理的なので、自律的で自由とは言えないと する説。
(a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
 (i)欲望、快楽の追求は「低次」なのか?
 (ii)情念は「制御できない」のか?
 (iii)社会的な諸価値の体系は「高次」で「真実」で「理想的」なのか?
 (iv)理性による判断
 (v)二つの自我という歪曲

(a)独立した人格には不可侵の領域が必要
 他人と全面的に調和することは、自分が独立した人格であるということと相容れない。すべての点で他人に依存しようというのでない限り、他人が勝手に干渉しない、また干渉 しないと当てにできる若干の領域が必要である。
(b)高次と低次、真正と経験的、理想的と心理学的な二つ自我という歪曲
 歴史的にいえば、積極的自由の観念は、「誰が主人であるか」という問いに答える ものであって、「私はどれだけの領域で主人であるか」に答えるための消極的自由の観念 から離れている。両者の距離は、自我の観念が、一方では高次の、あるいは真正の、 あるいは理想的自我と、他方では低次の経験的な心理学的な自我ないし 本性とに、形而上学的に分裂し、前者が後者を統御するとしたり、最良の自我が劣った日常的 な自我の主人であるとしたり、コールリッジの大文字で書く《私の真存在 I AM》が、時間と空間のなかにとじこめられた超越的でない自我に君臨するとしたようなときに、この距離はま すます開いていった。
(c)制度、教会、国民、人種、国家、階級、文化、政党、一般意志、共通の福祉、天与の使命
 高次の自我は、制度、教会、国民、人種、国家、階級、文化、政党と同一視されるようになり、あるいは一般意志、共通の福祉、社会の変革勢力、最も進歩的な階級の前衛、天与の使命というような漠然としたもの と自然に同一視されてしまった。


(b)自分で目標を実現するための方策を考える。
 (i)衝動は「非合理的」なのか?
 (ii)理性による判断
(c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
 (i)衝動は「非合理的」なのか?
 (ii)理性による判断

(9.7.3)積極的自由の歪曲2:良い目標のための消極的自由の制限
 正義なり、公共の健康など良い目標のためであれば、人々に強制を加えることは可能であ り、時として正当化され得るとする説。
(a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
 (i)個人が自分で目標を決めるのではなく、「良い目標」を強制される。
 (ii)強制される人は、「啓発されたならば」自らその「良い目標」を進んで追求すると される。
 (iii)すなわち、本人よりも、強制を加えようとする人の方が、「真の」必要を知って いると考えてられている。
 (iv)欲望や情念より、社会的な諸価値の方が「高次」で「真実」の目標なのだという教説とともに、民族や教会や国家の諸価値が導入され、これが「真の自由」であるとされる。
 (v)ここに、積極的自由の歪曲がある。
  自由な意志によって目的を設定する個 人よりも高い価値は存在しない。威嚇によるにせよ褒賞の提供によるにせよ、あるいは温情的 干渉主義によるにせよ、あらゆる思想統制は、人間の価値を否定するものである。(アイ ザイア・バーリン(1909-1997))

(b)自分で目標を実現するための方策を考える。
(c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。

(9.7.4)積極的自由の歪曲3:内なる砦への退却
 自分で目標を決め、方策を考え決定を下し実現して ゆくという積極的自由のもう一つの歪曲は、内なる砦への退却である。欲望、情念、社会的な 諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする。(アイ ザイア・バーリン(1909-1997))
 欲望、情念、衝動は低次で、制御できず、非合理的なので、自律的で自由とは言えない。 また、社会的な諸価値の体系に従うことも、外部的な要因に依存しており自由とは言えない。
(a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
 (i)欲望や情念に従うことは、外部的要因に依存することである。
 (ii)社会的な諸価値の体系に従うことも、外部的な要因に依存することである。
 (iii)外部的な要因は、自分では支配できない世界である。
 (iv)理性による判断は、自律的であり、このかぎりにおいて私は自由である。この法則 は、自分自身が命ずる法則であって、この法則に服従することは、自由である。
 (v)欲望、情念、社会的な諸価値など外部 的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする内なる砦への退却は、催眠術、洗脳、識閾下の暗示等の事実によって、信憑性の乏しい仮説となった。(アイザイ ア・バーリン(1909-1997))

(b)自分で目標を実現するための方策を考える。
 (i)理性による判断
 (ii)欲望、情念、社会的な諸価値など外部 的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする内なる砦への退却は、外部の 世界が特に圧制的、残虐かつ不正なとき、誘惑が強くなり、行為の結果は度外視される。 (アイザイア・バーリン(1909-1997))
(c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
 (i)理性による判断
 (ii)内なる砦への退却は自由ではない


(9.7.5)積極的自由の歪曲4:理性による解放
 自分で目標を決め、方策を考え決定を下し、実 現してゆくという積極的自由は、歪曲されてきた。欲望、情念、偏見、神話、幻想は、その心 理学的・社会学的原因と必然性の理解によって解消し、自由になれる。(アイザイア・ バーリン(1909-1997))
 欲望、情念、偏見、神話、幻想の心理学的・社会学 的原因の理解はよい。しかし“合理的な”諸価値や事実が、それ以外ではあり得ない、必然的で あるという誤謬が信じられたとき、まさに積極的自由が歪曲される。(アイザイア・バー リン(1909-1997))

(a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
 (i)欲望、快楽の追求は、外的な法則への服従である。
 (ii)情念、偏見、恐怖、神経症等は、無知から生まれる。
 (iii)社会的な諸価値の体系も、外部の権威によって押しつけられるときは、異物として存在している。意識的で欺瞞的な空想からか、あるいは心理学的ないし社会学的な原因から 生まれた神話、幻想は、他律の一形態である。
 (iv)知識は、非理性的な恐怖や欲望を除去することによって、人を自由にする。規則 は、自分で自覚的にそれを自分に課し、それを理解して自由に受けとるのであるならば、自律 である。
 (v)社会的な諸価値も、理性によってそれ以外ではあり得ないと理解できたとき、自律 と考えられる。自分によって発案されたものであろうと他人の考案になるものであろうと、理 性的なものである限り、つまり事物の必然性に合致するものである限り、抑圧し隷従させるも のではない。
 (vi)理解を超えて、それ以外ではあり得ない、必然的であるという誤謬が信じられたと き、積極的自由が歪曲される。
 (vi)理性による解放という歪曲

(a)人間の目的は全て抑制し得ない究極的な価値である
 人 間の目的はすべてひとしく究極的で抑制しえぬ自己目的と見なされねばならないから、個人ないし集団の間に、ただそれらの諸目的の衝突を防ぐという観点からのみ境界線が引か れる。
(b)人間の目的が理性の名において区別されるとき歪曲が始まる
 合理主義者たちは、すべての目的が同等の価値のあるものとは考えない。かれらにとっては、自由の限界は「理性」の法則を適用することによってのみ決定される。理性は、万人において、また万人のための同一の一目的を創出ないし開示する能力である。
(c)各個人の想像力による特異的なもの、審美的、非理性的な目的が抑圧される
 理性的ならざるものは、理性の名において断罪されてよい。各個人の想像力や特異質によって与えられる様々な個人的目的、たとえば審美的その他の非理性的な種類の自己充足 は、少なくとも理論上は、理性の要求に道を開けるために容赦なく制圧されてよいのである。
(d)理性による真の自由という歪曲
 理性の権威および理性が人間に課する義務の権威は、理性的な目的のみが「自由」な人間 の「真実」の本性の「真」の対象たりうるという想定にもとづき、他人の自由と同一視されるわけである。
(e)しかしそれは恣意的な直感に過ぎない
 しかし「理性」とは何か。経験から得られた知識を基礎として判断するのでなく、「ア・プリオリ」に何が正しいとされる時点で、既に誤っている。

(b)自分で目標を実現するための方策を考える。
 (i)理性は、何が必然的で何が偶然的かを理解させてくれる。
 (ii)自由とは、選択し得るより多くの開かれた可能性を与えてくれるからというのでは なく、不可能な企ての挫折からわれわれを免れさせてくれるからである。
 (iii)必然的でないものが、それ以外ではあり得ない必然的であるという誤謬が信じ られたとき、積極的自由が歪曲される。
(c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。

(9.8)自由意志とは何か



(9.8.1)外的世界、他者、自己に関する事実
 重要な事実についての知識、外的世界と他人と私自身の本性についての知識は、私 の方針に対する無知と妄想に由来する障害を除去する。
 (a)基本的な想定
   (i)物と人は本性――それが知られているかどうかにかかわりなく、明確な構造を有してい る、 (ii)これら本性ないし構造は、普遍的かつ不変の法則によって支配されている、  (iii)これら構造と法則は、少なくとも原則としては、すべて知ることができる。


(9.8.2)外的世界
 人間の本性とその目的について、この本性と目的を多少とも 達成するには、外的世界をいかにまたどの程度支配することが必要か。
 (a)外的世界が必要との主張
  例えばアリストテレスは、外的条件があまりにも不利ならば、自己達成、自らの本性の適切な実現は不可能にな るであろうと考えた。
 (b)内なる砦への退避
  ストア派とエピクロス派は、人間社会と外的世界からあ る程度の距離をおきさえすれば、外的状況が何であれ、完全な合理的自己統制は人間に達成可 能であると主張した。

(9.8.3)どこまでが私の意志なのか
 事物と非合理的な生物から成る 外的世界と、主体的な行動主体とを区別する境界線はどこにあるのか。


 真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と動機にあるのかが問題である。麻薬、催眠術、根拠のない恐怖、幻想、夢想、無意識の記憶の影響はどうだろう。合理化とかイデオロギーの影響はどうだろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

(9.8.3.1)麻薬、催眠術
 自由でない人とは、いわば麻薬を呑まされたり催眠術にかけられている状態にあ る人である。行動主体がどのような説明や正当化を試 みるかにはかかわりなく、何か隠された心理的、生理的条件によって自分には統制できない力の手中に握られていれば、自由ではない。

(9.8.3.2)根拠のない恐怖、幻想、夢想、無意識の記憶
 人間の行動が方向を誤った感情、例えば、存在していないものに対する恐怖、事態の真の状態の合理的知覚によらず、幻想や夢想、無意識の記憶と忘れ去られた 傷による憎悪などを原因にしている時には、人は自己指導的でなく、したがって自由ではな い。
(9.8.3.3)合理化、イデオロギー
 合理化やイデオロギーといったものは、行動の真の根源を知らない、あるいは真の根源を無視ないし誤解している偽りの行動の説明である。この偽りの 説明は、さらに幻想と夢想を生み、非合理的で衝動的な行動様式を生むであろう。

(9.8.3.4)意識的な意図と動機、目的
 真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と 動機にあるのかが問題である。ある合理的人間が自由なのは、彼の行動が機械的でなく、自らの動機から発し、彼が意識して いる、また欲すれば意識しうる目的の達成を意図している場合である。

(9.8.3.5)自由意志と逃れ難いもの


(9.8.3.6)私の支配の外にある要因
 真にそして恒久的に私の支配の外にある要因によって決定された境界線を越えてまで、私 の自由の範囲を拡大できはしない。これらの要因は、説明したからといって無くなるわけでは ない。知識の増大は、私の合理性を増大させ、私の自由を増大させるかもしれない。しかしそ れは、無制限ではない。

(9.8.3.7)逃れ難いもの、自然法則、言語、諸命題で認識できる諸事実、諸法則
 私が合理的で正気であれば、一般的命題を信じないわけにはいか ない。あるいは、正気であれば、一般的な言葉を使わないわけにはいかない。肉体を有しなが ら、重力に引かれないわけにはいかない。

(9.8.3.8)物質、他者、私自身に関する諸事実、諸法則
 私自身の本性や他の物や人の本性、さらには私とそれ らの物や人を支配する法則について私が知っていることは、私が精力を浪費し誤用しないよう に助けてくれる

(a)自己知識と自由意志

(a) 動機、意図、選択、理由、規則
 合理的行動とは、その行為者ないし観察者によって動機、意図、選択、理由、規則などの観点から説明でき、自然の法 則すなわち因果的、統計的、有機的な法則だけでは説明できない行動で ある。

(b)因果の連鎖でもなくランダムでもない
 合理的思想とは、その内容、少なくともそ の結論が何らかの規則と原理に従っており、因果の連鎖ないし出鱈目の連鎖の中の単なる要 素とはなっていないような思想である。

(c)泥棒と病的な盗癖を持つ者
 ある人を泥棒と呼ぶことは、その限りで彼に合理性を認めることである。彼に病的な盗癖があるとい うのは、合理性を認めないことである。

(d) 自分に病的盗癖があることを知っている病的盗癖者
 人間がどこまで自由であるかが、自分の行動の根源に ついて彼がどこまで知っているかに直接にかかっているとすれば、自分に病的盗癖があることを知っている病的盗癖者は、その限りで自由である。
 (i)放置するのか抵抗するのか
  彼は盗みをやめることができず、またや めようとはしないかもしれない。しかし彼がこの事実を知っているかぎり、彼はいまやその 衝動に抵抗するか、それともそれを野放しにするかの 選択ができる立場にある。
 (ii)つねに変更できるのか
  気質や因果関係を私が自分で自覚している ということは、それを操作ないし変更させる能力があるということと同じであろうか。その自 覚が、必ずや私にそのような能力を与えるということになるであろうか。
 (iii)いくらか能力が高まる
  ある傾向があることを自分で知っている場合、私はそれに応じて生活を演ずることができる。それに対して、自分で知らない場合には、そうはできない。 つまり私はいくらか能力を高め、その限りで自由を得ている。

(e) 自己知識と自由の総額
 自己知識は、私の自由の総額を増大させもすれば、減少させもするように思われる。問題は経験的な問題であり、それに対する答えは個々の状況にかかっている。
 (i)知っていることが、 他のある点では私の能力を低めることになるかもしれない。
 (ii)ある分野での能力と自由の増大にたいする代価として、他の分野での能力と自由を失うかもしれない。
 (iii)認識したとしても、そ のような感情を必ずしも統制できなくなっているかもしれない。



(9.8.3.9)真の選択、偽りの選択、逃れ難いもの
 真の選択と偽りの選択とを区別する過程で、それがいかにして区別されるのか、私がその幻想をいかにして見抜くかにかかわりなく、私は自分には逃れ難い本性があるのに気づく。



(9.9)目的とは何なのか
 一般的な本 性ないしは客観的な目的がそもそも存在しているのか。
 (9.9.1)客観的な目的があるとの主張
  ある者は、人間の目的は客観的に存在しており、特殊な調査方法によって発見可能であ ると主張した。
 (9.9.2)目的は主観的であるとの主張
  目的は主観的であり、あるいはき わめて多様な物理的、心理的、社会的要因によって決定されている。
 (9.9.3)目的はいかに知られるのか
  この方法が何であるか、経験的であるか先験的であるか、直感的であるか推論的であるか、科学的である純粋内省的であるか、公的であるか私的であるか、特に才能のあるもの、あるいは幸運なものに限られているのか、それとも原則として万人に開かれているの か。


(9.9.4)自らの選択、評価、判断



(9.9.4.1)理解すべき自己は存在するのか
 人が自らを理解すれば、たとえそれが自由の充分条件ではないとしても、その時はじめて自由であるということは、われわれには理解すべき自己があるということを前提としている。

(9.9.4.2)理解するのでなく自ら選択するのではないのか
 (a)選択が自己を創造する
  理解すべき自己があるということ自体が、特にいく人かの実存主義哲学者 によって疑問に付された。通常、安直に考えられているよりははるかに多くのことが、人間の 選択によって決定されているというのが、彼らの主張である。
 (b)選択回避は責任回避
  選択は責任を意味しており、い く人かの人間はほとんどいつも、また大抵の人間は時々、この重い負担を回避したいと思うか ら、言い訳とアリバイを探し求めるという傾向がある。
 (c)社会的圧力は絶対的ではない
  自由に対する障害である社会的圧力などの存在と効力は、人間の意志や活動から独立のものでなく、あるいは 孤立した個々人に、利用できない手段ではない。
 (d)影響があるにしても自らの選択である
  他人の圧力、同調行動への教師や友人や両親の圧力、聖職者や同僚や批評家や社会集団ないし階級の言動による影響も、もし私がそのような影響を受けたとすれば、それは私が 影響を受けることを選んだからだ。

(9.9.4.3)選択しないことも一つの選択
 選択しないということもそれ自体が、行動的な 主体として自らを主張するのではなく、ことを成り行きにまかせるという一種の選択を表して いる。

(9.9.4.4)私の選択、評価、判断である
「事実」は決して自ら語りはしない。私、選択し評価し判断する私だけが語ることができる。私自身の甘美な意志 によって、私が自由に見て検討し、承認ないし拒否することができる原理、規則、理想、偏見、感情にしたがって、私は語る。




アイザイア・バーリン
(1909-1997)



2022年2月25日金曜日

26.民衆的な意思決定とは暴力的で混沌としていて恣意的な暴徒支配にしかなりえないものなのだ、という感覚を強化すべく、エリート層によって促進され支持された諸々の制度は、忌わしい鏡とでも呼べる暴動の制度化である。こうした制度は権威主義的諸体制にはまったく一般的なものなのではないかと思われる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

暴動の制度化、忌まわしい鏡

民衆的な意思決定とは暴力的で混沌としていて恣意的な暴徒支配にしかなりえないものなのだ、という感覚を強化すべく、エリート層によって促進され支持された諸々の制度は、忌わしい鏡とでも呼べる暴動の制度化である。こうした制度は権威主義的諸体制にはまったく一般的なものなのではないかと思われる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



(a)民主主義的アテネ
 決定的な公的行事とは広場での集会だった。アテネのアゴラが民衆の尊厳を 最大化すべく、また彼らの討議が最大限に思慮深いものとなるべく設計されていた。
(b)権威主義的ローマ 
 (i)決定的な公的行事とはサーカスだった。サーカスとは、競争や剣闘士の競技や大量処刑を目撃するための平民たちの寄り集いにほかならない。こういった競技は直接国家により資 金提供されることもあったが、より多くの場合にはエリート層の特定諸個人が出資者となった。
 (ii)剣闘士競技に関して魅惑的なのは、それが一種の民衆的意思決定を内包していたということだ。剣闘士たちの命が 奪われるか救われるかは、民衆の喝采次第だった。そこでは、民主主義に敵意を抱くのちの著作家たちによって普通「暴徒」のもの とされる性質のほとんどすべてが単に許容されていたばかりか実際に奨励されていた。気まぐれさ、あからさまな残酷さ、派閥主義、英雄崇拝、気ちがいじみた情熱。
 (iii)それはまるで、権威主義的なエリート層が、大衆が権力を手中に収めるようなことがあるなら、どのような混沌が生じてしまうのかを大衆自身に示すべく、悪夢のような映像を絶えず与えてお こうと試みていたかのようなのだ。



「暴動の制度化というこの現象が、実際にどの程度国家によって奨励されていたのかという のは、歴史的検討に値する問題だ。もちろん、ここで私が想定しているのは文字通りの暴動で はなく、「忌まわしい鏡」と呼ぶことができそうな何か――つまり、民衆的な意思決定とは暴力 的で混沌としていて恣意的な「暴徒支配」にしかなりえないものなのだ、という感覚を強化す べくエリート層によって促進され支持された、諸々の制度のことである。こうした制度は権威 主義的諸体制にはまったく一般的なものなのではないかと、私は思っている。例えば、民主主 義的アテネにおける決定的な公的行事とは広場での集会だったのに対して、権威主義的ローマ における決定的な公的行事とはサーカスだった。サーカスとは、競争や剣闘士の競技や大量処 刑を目撃するための平民たちの寄り集いにほかならない。こういった競技は直接国家により資 金提供されることもあったが、より多くの場合にはエリート層の特定諸個人が出資者となった (Veyne 1976; Kyle 1998; Lomar & Cornelle 2003)。とりわけ剣闘士競技に関して 魅惑的なのは、それが一種の民衆的意思決定を内包していたということだ。剣闘士たちの命が 奪われるか救われるかは、民衆の喝采次第だった。けれども、アテネのアゴラが民衆の尊厳を 最大化すべく、また彼らの討議が最大限に思慮深いものとなるべく設計されていた――基底をな すのは強制力の原理であり、それが時として恐ろしくも血まみれの決定を可能にしていたとい うことはあるにしても――のに対して、ローマのサーカスはほとんど正反対の機能を果たしてい た。サーカスはアゴラには似ても似つかず、むしろ正規化され国家により主催されたリンチの ようなものだったのだ。民主主義に敵意を抱くのちの著作家たちによって普通「暴徒」のもの とされる性質のほとんどすべてが――気まぐれさ、あからさまな残酷さ、派閥主義(競いあう戦 車チームを応援する人びとが路上で乱闘するのは日常茶飯事だった)、英雄崇拝、気ちがいじ みた情熱――、ローマの円形闘技場では単に許容されていたばかりか実際に奨励されていた。そ れはまるで、権威主義的なエリート層が、大衆が権力を手中に収めるようなことがあるならど のような混沌が生じてしまうのかを大衆自身に示すべく、悪夢のような映像を絶えず与えてお こうと試みていたかのようなのだ。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『民主主義の非西洋起源について』,第2章 民主主 義はアテネで発明されたのではない,pp.50-51,以文社(2020),片岡大右(訳))

【中古】民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義/デヴィッド・グレーバー、片岡大右





デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






25.人々が集団的意思決定に際して平等な発言権を持つべきだという感覚が存在し、かつ、決定事項を実行に移すことができる強制力を持った装置が存在するとき、多数派民主主義が成立する。しかし、採決は屈辱、恨み、憎しみを残す。コンセンサスによる意思決定はいかにして可能かが問題である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

多数派民主主義とコンセンサスによる意思決定

人々が集団的意思決定に際して平等な発言権を持つべきだという感覚が存在し、かつ、決定事項を実行に移すことができる強制力を持った装置が存在するとき、多数派民主主義が成立する。しかし、採決は屈辱、恨み、憎しみを残す。コンセンサスによる意思決定はいかにして可能かが問題である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


(1)多数派の決定を強制する手段が存在しない社会
 (a)コンセンサスによる意思決定が典型的に見られる社会とは、少数派に対して、多数派の決定への同意を強制する手段が見出せないような社会である。
 (b)平等志向 の社会が存在するところでは、普通は、一律に強制を課すのは良くないことだと考えられてい た。

(2)強制力を備えた機関が存在する社会
 強制力を備えた機関が存在するところでは、何であれ民衆の意志の実現に尽くそ うなどということは、そうした機関を行使する人びとの脳裏に浮かぶことさえなかった。
(3)多数派民主主義の発生条件
 人類の歴史の大部分において、以下の両条件が同時に満たされることは極めて稀であった。
 (a) 人びとが集団的意思決定に際して平等な発言権を持つべきだという感覚が存在する。
 (b)決定事項を実行に移すことができる強制力を持った装置が存在する。
(4)コンセンサスによる意思決定のために
 (a)採決は屈辱、恨み、憎しみを残す
  採決とは、公の場でなされる勝負であって、そこで は誰かが負けを見ることになる。投票やその他の方式による採決は、屈辱や恨みや憎しみを確実にするのに最適な手段であって、究極的にはコミュニティの破壊をすら、引き起こしかねな い。
 (b)コンセンサスによる意思決定
  (i)コンセンサスによる意思決定とは、誰ひとりとして同意を拒もうと思うほどには異議を 感じないような決定を生み出すためになされる、妥協と総合のプロセスである。
  (ii)重要なのは、自分の意見が完全に無視されたと感じて、立ち去ってしまう者が誰もいな いようにすること、そして自分が属する集団が間違った決定をしたと考える人びとさえもが、 受け身の黙諾を与える気になるようにと計らうことである。  


「私としては、次のような説明を提案したいと思う。対面関係から成り立っているコミュニ ティにおいては、構成員の大部分が望んでいるのは何かを突き止めることのほうが、それを望 まない少数者の心を変えるにはどうしたらいいかを考えることよりもずっと簡単なのだ。コン センサスによる意思決定が典型的に見られる社会とは、少数派に対して、多数派の決定への同意を強制する手段が見出せないような社会である。強制力を独占する国家が存在しない場合で あれ、国家が局所的になされる意思決定に無関心であるか介入傾向を持たない場合であれ。多 数派の決定を快く思わない人びとを当の決定に従うよう強制する手段が存在しないのであれ ば、採決を取るというのは最悪の選択だ。採決とは、公の場でなされる勝負であって、そこで は誰かが負けを見ることになる。投票やその他の方式による採決は、屈辱や恨みや憎しみを確 実にするのに最適な手段であって、究極的にはコミュニティの破壊をすら、引き起こしかねな い。現代的な直接行動グループをやっていくためのファシリテーション・トレーニングを受け たことのある活動家であれば誰でも心得ているはずのことだけれど、コンセンサス・プロセス は議会での討論と同じものではなく、コンセンサスを見出すのは投票による採決とはまったく 別のなにかだ。反対に、そこにあるのは、誰ひとりとして同意を拒もうと思うほどには異議を 感じないような決定を生み出すためになされる、妥協と総合のプロセスである。それはつま り、私たちが普通行っている二つの水準――意思決定とその実施――の区別が、ここではなし崩し になっているということだ。もちろん、誰もが同意しなければならない、ということではな い。コンセンサスの諸形態のほとんどにおいては、程度を異にする不合意の多様な形態が認め られる。重要なのは、自分の意見が完全に無視されたと感じて立ち去ってしまう者が誰もいな いようにすること、そして自分が属する集団が間違った決定をしたと考える人びとさえもが、 受け身の黙諾を与える気になるようにと計らうことである。  言ってみれば、多数派民主主義が発生するのは以下の二つの条件が同時に満たされた場合の みなのだ。  一、人びとが集団的意思決定に際して平等な発言権を持つべきだという感覚の存在、そして  二、決定事項を実行に移すことができる強制力を持った装置の存在。  人類の歴史の大部分において、両者が同時に満たされることは極めて稀であった。平等志向 の社会が存在するところでは、普通は、一律に強制を課すのは良くないことだと考えられてい た。反対に、強制力を備えた機関が存在するところでは、何であれ民衆の意志の実現に尽くそ うなどということは、そうした機関を行使する人びとの脳裏に浮かぶことさえなかったの だ。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『民主主義の非西洋起源について』,第2章 民主主 義はアテネで発明されたのではない,pp.45-47,以文社(2020),片岡大右(訳))

【中古】民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義/デヴィッド・グレーバー、片岡大右





デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






24.民主化運動弾圧の標準的な戦術:(a)相手が卑劣で暴力的だと宣伝、(b)中産階級の支持者を分断、(c)治安紊乱を意図的につくりあげる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

民主化運動弾圧の標準的な戦術

民主化運動弾圧の標準的な戦術:(a)相手が卑劣で暴力的だと宣伝、(b)中産階級の支持者を分断、(c)治安紊乱を意図的につくりあげる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


 (a)相手が卑劣で暴力的だと宣伝
 まず最初に、運動を事実上率いているラディカル派が卑劣で、(少なくとも 潜在的には) 暴力的であるという筋書きを立て、道徳的権威を落とす。
 (b)中産階級の支持者を分断
 次に、中産階級の支持者を引き剥がすために、計算づくの譲歩と恐ろしいストーリーをつくりあげる。
 (c)治安紊乱を意図的につくりあげる
 本当に革命的状況が起きそうな場合には治安紊乱を意図的につくりあげる。周知のとおり、これは エジプトのムバラク政権が、数百人の犯罪者たちを刑務所から釈放し、中産階級の地区から警 察を引き上げ、革命は単なる混乱に終わるだけだと住民たちを納得させようとした際に行った ことである。



「1999年、2000年そして01年のグローバル・ジャスティス運動を抑え込むためのさまざま な試みは明らかに組織的なものであり、01年9月11日以降、アメリカ政府は社会秩序への脅威 とみなすものすべてに統一的に対応するという明確な目的のもと、新たなセキュリティ官僚制 度を幾層にも構築したのだ。これらの諸機関を運用する者が、大規模かつ急速に拡大する潜在 的に革命的な全国規模の運動に何の関心も示さずただ傍観したままだとしたら、かれらは何ら 職務を遂行していないということになる。  かれらはどのように事をすすめたのか。たしかにこれもわからないし、おそらく今後もずっ とわからないだろう。60年代の公民権運動、平和運動を転覆しようとしたFBIの役割が正確に わかるまでには数十年かかった。それでもやはり、起こるべくして起こったことの大枠を掴む のは特に難しいことではない。実際には民主化運動を弾圧しようと試みる政府のほとんどが採 用している標準的な戦術があり、今回もほぼ定石通りに行われたのは明らかだ。その脚本はこ のように展開する。まず最初に、運動を事実上率いているラディカル派が卑劣で(少なくとも 潜在的には)暴力的であるという筋書きを立て、道徳的権威を落とす。次に、中産階級の支持 者を引き剥がすために、計算づくの譲歩と恐ろしいストーリーをつくりあげる、あるいは本当 に革命的状況が起きそうな場合には治安紊乱を意図的につくりあげる(周知のとおり、これは エジプトのムバラク政権が、数百人の犯罪者たちを刑務所から釈放し、中産階級の地区から警 察を引き上げ、革命は単なる混乱に終わるだけだと住民たちを納得させようとした際に行った ことである)。このように攻撃されるのだ。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第II章 なぜうま くいったのか,pp.160-161,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳)) 


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






23.2つの競合し均衡する暴力の場合、両者は互いを理解しようとする。しかし一方が圧倒的に有利であるとき、解釈労働の必要性はなくなり、暴力それ自体が 見えにくくなる。構造的暴力とは、不均衡な実力の脅威によって支えられ、不平等の構造が深く内面化された状況である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

不平等を支える構造的暴力

二つの競合し均衡する暴力の場合、両者は互いを理解しようとする。しかし一方が圧倒的に有利であるとき、解釈労働の必要性はなくなり、暴力それ自体が 見えにくくなる。構造的暴力とは、不均衡な実力の脅威によって支えられ、不平等の構造が深く内面化された状況である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))




「ここでぜひとも重要な条件をひとつ導入する必要がある。ここではすべてが諸力の均衡に かかっているということだ。二者が相対的に平等である暴力の競合に関与している場合――たと えば、対立する軍隊を率いる将軍のような――、かれらがたがいの頭の中身を調べようと努力す るのは当然である。そうする必要がもはやなくなるとしたら、それは、一方の側が物理的危害 を与える能力において圧倒的に有利であるときのみである。しかしこれは、きわめて深遠なる 効果をもたらす。というのも、それが意味しているのは、暴力のもっとも固有の効果、すなわ ち、「解釈労働」の必要を除去する力能がもっとも顕著なものになるのは、暴力それ自体が もっともみえにくいようなとき、めざましい物理的暴力行為の起きる可能性としてはもっとも 低いときであるということである。わたしが先に、実力の脅威によって究極的に支えられた体 系的不平等の状況、として規定した「構造的暴力」とは、まさにこうした事態である。このた めに、構造的暴力の状況は、例外なく、きわだって不均衡な、想像力による同一化の構造を生 み出してしまうのである。  これらの効果は、不平等の構造がきわだって深く内面化された形態をとる場合、しばしば もっとも可視となるのである。」
(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,1 想像力の死角? 構造 的愚かさについての一考察,pp.97-98,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和 樹(訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]






デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)







22.物理的危害をもって他者に脅威を与えることは、その効果は限定的とはいえ、互いの理解を省略して、予測可能な結果を得ることができる唯一の手段である。このため、暴力は頻繁に愚か者に好まれる武器となり切り札となる。それは知的対応の最も困難な愚かさであり、人間存在の悲劇の一つである。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

予測可能な結果を得る手段としての暴力

物理的危害をもって他者に脅威を与えることは、その効果は限定的とはいえ、互いの理解を省略して、予測可能な結果を得ることができる唯一の手段である。このため、暴力は頻繁に愚か者に好まれる武器となり切り札となる。それは知的対応の最も困難な愚かさであり、人間存在の悲劇の一つである。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



「なるほど、だれかに障害を加えたり、だれかを殺害したりすることによって与えることの できる効果は、きわめて限定されている。しかし、それらは十分に現実的である。そして、決 定的なことには、その効果がどのようなものであるのかが前もって正確に予測可能なのであ る。それ以外のいかなる行為の形態も、共有された意味や了解に訴えることなしには、いかな る予測可能な効果もいっさいうることはできない。さらにいえば、暴力の脅威で他者に影響を 与えようとする試みが、あるレベルの共有された了解を必要とするにしても、それはまったく 最小限のものである。ほとんどの人間の関係は――それが長期の友人のあいだであろうと敵同士 のあいだであろうと、とりわけ継続中のそれは――、とんでもなく複雑なものであり、歴史と意 味を濃密にはらんでいるものである。それを維持するには、想像力とか世界を他者の観点から みる終わりのない努力といった、恒常的でたいてい繊細な作業を必要とする。先に「解釈労 働」として述べたものはこれである。物理的危害をもって他者に脅威を与えることは、こうし たすべてを省略することを可能にする。それははるかに単純で図式的であるような関係を可能 にするのである(「この線をふみ超えたら撃つぞ」とか「もう一言でもいってみろ、刑務所に ぶちこむぞ」とか)。もちろん、このために、暴力はひんぱんに愚か者に好まれる武器となる のである。暴力は愚か者の切り札であるとすらいえるかもしれない。というのも(そしてこれ は人間存在の悲劇のひとつであることはたしかだが)、それが知的な対応のもっとも困難であ る愚かさの一形態だからである。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,1 想像力の死角? 構造 的愚かさについての一考察,pp.96-97,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和 樹(訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]



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(1961-2020)







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