2020年5月3日日曜日

シナプスの情報をアストロサイトが拾い上げ、「もうひとつの脳」の中のグリア回路網を通して流れ、別のアストロサイトからの神経伝達物質放出を促すことによって、別の場所でシナプスの制御に活用している。(R・ダグラス・フィールズ(19xx-))

アストロサイト

【シナプスの情報をアストロサイトが拾い上げ、「もうひとつの脳」の中のグリア回路網を通して流れ、別のアストロサイトからの神経伝達物質放出を促すことによって、別の場所でシナプスの制御に活用している。(R・ダグラス・フィールズ(19xx-))】

 「アストロサイトは、ニューロンのような様式で、遠くまで迅速に情報を送信する必要がないので、電気的インパルスを発火しないのだと、私たちは今では理解している。そのためアストロサイトは、電気的なコミュニケーションには手を出さないが、ニューロンの持つより興味深い第二の交信方法、すなわち神経伝達物質によるコミュニケーションを存分に活用し、そこに関与している。
 アストロサイトの活動は、脳の比較的大きな領域に及ぶので、シナプスへの影響も広範囲にわたるはずである。とはいえ、あるシナプスの情報が一個のアストロサイトによって拾い上げられて、「もうひとつの脳」のなかのグリア回路網を通して流れ、別のアストロサイトからの神経伝達物質放出を促すことによって、神経回路で直接結合していない遠くのシナプスにおけるニューロンのコミュニケーションを調節している可能性については、21世紀初頭に至るまで検証されていなかった。この仮説は、2005年にフィリップ・ヘイドンのグループによって証明された。彼らの研究により、アストロサイトは海馬のシナプス活動にカルシウム上昇によって応答するが、それが次に、発火した近傍のシナプスだけでなく、同じニューロンの遠く離れた別のシナプスでも伝達強度を調節していることが確認された。脳内の遠い場所を結んで、ニューロン回路の外側からシナプス伝達を調節しているアストロサイトはまさしく、制御装置にほかならなかった。「ニューロンの脳」の情報は、「もうひとつの脳」によって傍受され、「ニューロンの脳」の別の場所でシナプスの制御に活用されていたのだ。私たちの中にある二つの心がこうして出会うことで、「ニューロンの脳」だけでは実現できないどんな働きが可能になるのだろうか?
 離れたシナプスの強度を調節するこの現象(異シナプス性抑制として知られる)は、騒々しいレストランの中で会話を続けるときに、私たちの誰もが経験することによく似ている。食事相手の話をいつも以上に注意深く聴き取ると同時に、厨房からの雑音や周りで食事をしている人たちの間で交わされる会話は耳に入れないようにする。このような精神集中は、私たちを取り巻く環境の中で、すべての騒音から重要なシグナルを選別するためには不可欠である。これと同じことが、私たちの海馬でも起こっている。あなたが学習したいと望んでいる新しい情報を運んでくる入力のなされるシナプスは、長期増強によって強化される一方、注意をそらす邪魔な情報を別のシナプスから同じニューロンに伝えている入力は抑制されているのだ。おなたはおそらく、この抑制された背景情報を記憶していないだろう。」(中略)「アストロサイトが、周囲にあるシナプスを抑制して、私たちの記憶中枢に対する特定の入力を際立たせている細胞であることを知って、多くの人が衝撃を受けた。もしアストロサイトが、シナプスの集中調節という重要な働きができなくなったら、どうなるだろうか? それは学習や注意、さらには精神状態にどう影響するのか? アストロサイトが、独自のグリアネットワークを介した交信方法を用いて、シナプス強度を調節していると判明したことも、同じように驚きだった。このネットワークは、ニューロン間を配線でつないだ接続回線に拘束されることなく、神経ネットワークの外側で作動している。この携帯電話のようなアストロサイト網については、私たちは何も知らないも同然だ。このネットワークの境界は何なのか? それらは修正可能なのか――言い換えれば、アストロサイトは精神的経験に従って変化し、学習するのか? アストロサイトが実際に、学習においてネットワークの結合強度を変更していることを示す証拠が、新たな研究で得られ始めている。」
(R・ダグラス・フィールズ(19xx-),『もうひとつの脳』,第3部 思考と記憶におけるグリア,第14章 ニューロンを超えた記憶と脳の力,講談社(2018),pp.469-472,小松佳代子(訳),小西史朗(監訳))
(索引:アストロサイト,グリア回路網,神経伝達物質)

もうひとつの脳 ニューロンを支配する陰の主役「グリア細胞」 (ブルーバックス)



(出典:R. Douglas Fields Home Page
R・ダグラス・フィールズ(19xx-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「アストロサイトは、脳の広大な領域を受け持っている。一個のオリゴデンドロサイトは、多数の軸索を被覆している。ミクログリアは、脳内の広い範囲を自由に動き回る。アストロサイトは一個で、10万個ものシナプスを包み込むことができる。」(中略)「グリアが利用する細胞間コミュニケーションの化学的シグナルは、広く拡散し、配線で接続されたニューロン結合を超えて働いている。こうした特徴は、点と点をつなぐニューロンのシナプス結合とは根本的に異なる、もっと大きなスケールで脳内の情報処理を制御する能力を、グリアに授けている。このような高いレベルの監督能力はおそらく、情報処理や認知にとって大きな意義を持っているのだろう。」(中略)「アストロサイトは、ニューロンのすべての活動を傍受する能力を備えている。そこには、イオン流動から、ニューロンの使用するあらゆる神経伝達物質、さらには神経修飾物質(モジュレーター)、ペプチド、ホルモンまで、神経系の機能を調節するさまざまな物質が網羅されている。グリア間の交信には、神経伝達物質だけでなく、ギャップ結合やグリア伝達物質、そして特筆すべきATPなど、いくつもの通信回線が使われている。」(中略)「アストロサイトは神経活動を感知して、ほかのアストロサイトと交信する。その一方で、オリゴデンドロサイトやミクログリア、さらには血管細胞や免疫細胞とも交信している。グリアは包括的なコミュニケーション・ネットワークの役割を担っており、それによって脳内のあらゆる種類(グリア、ホルモン、免疫、欠陥、そしてニューロン)の情報を、文字どおり連係させている。」
(R・ダグラス・フィールズ(19xx-),『もうひとつの脳』,第3部 思考と記憶におけるグリア,第16章 未来へ向けて――新たな脳,講談社(2018),pp.519-520,小松佳代子(訳),小西史朗(監訳))
(索引:)

R・ダグラス・フィールズ(19xx-)
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他者を自分と同じ知的精神的存在としてとらえる能力(心の理論の能力)は、事実と論理による推論的な合理的知識なのではなく、人間の社会的なつながりの基礎にある別のメカニズムに依拠しているらしい。(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-))

心の理論

【他者を自分と同じ知的精神的存在としてとらえる能力(心の理論の能力)は、事実と論理による推論的な合理的知識なのではなく、人間の社会的なつながりの基礎にある別のメカニズムに依拠しているらしい。(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-))】

 「「心の理論」という言葉は、前章でも類人猿とのからみで出てきたが、ここではもっとくわしく説明したい。「心の理論」は、哲学から霊長類学、臨床心理学にいたるまで、認知科学の分野で広く用いられている専門用語で、他者を知的精神的存在としてとらえる能力――すなわち、自分自身がもっているのと同じようなたぐいの思考、情緒、観念、動機などをもっているという前提にもとづいて他の人たちのふるまいを理解する能力――を指す。言いかえれば、あなたは自分がほかの人になったらどんな感じがするかを実際に感じることはできないが、心の理論を使って、意図や知覚や信念を他者の心に自動的に投影する。そうすることによって、人の感情や意図を推測し、行動を予測して、それに影響をおよぼすことができる。これを「理論」と呼ぶのはいささか誤解を招きやすい。理論という言葉は通常、諸説や予測からなる知的体系を指し、この場合のように生得的、本能的な心的能力に対しては用いないからだ。しかし私が属する分野では「心の理論」が用語として使われているので、ここでもそのまま使うことにする。ほとんどの人は、心の理論をもつことが、どれほど込みいった、率直に言って奇跡的なことであるかをよく理解していない。それは「見ること」と同じように、ごく自然で、即時に起きる、簡単なことに思える。しかし第2章で見たように、見るという能力は、実際には、広範囲な脳領域のネットワークが関与する非常に複雑なプロセスである。私たち人間の高度に発達した心の理論は、人間の脳がもつもっともユニークで強力な能力の一つなのである。
 私たちの心の理論の能力は、一般的知能――論理的に考えたり、推断をしたり、事実を組み合わせたりするときなどに使う合理的知能――に依拠しているのではなく、それと同等に重要な《社会的》知能のために進化した専門のメカニズムに依拠しているらしい。社会的認知のために特化した専門の回路があるのではないかという考えは、1970年代に、心理学者のニック・ハンフリーと霊長類学者のデイヴィッド・プレマックによって最初に提言され、現在では実験にもとづく支持が多数ある。したがって、自閉症の子どもが対人的相互交流に深刻な欠陥があるのは、心の理論に何らかの障害があるためではないかというフリスの直感には説得力があった。」
(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-),『物語を語る脳』,第5章 スティーヴンはどこに? 自閉症の謎,(日本語名『脳のなかの天使』),角川書店(2013),pp.199-200,山下篤子(訳))
(索引:)

脳のなかの天使



(出典:wikipedia
ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「バナナに手をのばすことならどんな類人猿にもできるが、星に手をのばすことができるのは人間だけだ。類人猿は森のなかで生き、競いあい、繁殖し、死ぬ――それで終わりだ。人間は文字を書き、研究し、創造し、探究する。遺伝子を接合し、原子を分裂させ、ロケットを打ち上げる。空を仰いでビッグバンの中心を見つめ、円周率の数字を深く掘り下げる。なかでも並はずれているのは、おそらく、その目を内側に向けて、ほかに類のない驚異的なみずからの脳のパズルをつなぎあわせ、その謎を解明しようとすることだ。まったく頭がくらくらする。いったいどうして、手のひらにのるくらいの大きさしかない、重さ3ポンドのゼリーのような物体が、天使を想像し、無限の意味を熟考し、宇宙におけるみずからの位置を問うことまでできるのだろうか? とりわけ畏怖の念を誘うのは、その脳がどれもみな(あなたの脳もふくめて)、何十億年も前にはるか遠くにあった無数の星の中心部でつくりだされた原子からできているという事実だ。何光年という距離を何十億年も漂ったそれらの粒子が、重力と偶然によっていまここに集まり、複雑な集合体――あなたの脳――を形成している。その脳は、それを誕生させた星々について思いを巡らせることができるだけでなく、みずからが考える能力について考え、不思議さに驚嘆する自らの能力に驚嘆することもできる。人間の登場とともに、宇宙はにわかに、それ自身を意識するようになったと言われている。これはまさに最大の謎である。」
(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-),『物語を語る脳』,はじめに――ただの類人猿ではない,(日本語名『脳のなかの天使』),角川書店(2013),pp.23-23,山下篤子(訳))

ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-)
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人は感情や意図を共有し合える能力を持っているにもかかわらず、現実になぜ残虐行為が発生するのかの解明には、科学的な事実と制度、政策の関係、人間の生物学的組成と社会性、自由意志の問題が関係している。(マルコ・イアコボーニ(1960-))

感情や意図の共有能力と残虐行為

【人は感情や意図を共有し合える能力を持っているにもかかわらず、現実になぜ残虐行為が発生するのかの解明には、科学的な事実と制度、政策の関係、人間の生物学的組成と社会性、自由意志の問題が関係している。(マルコ・イアコボーニ(1960-))】

(1)問題:人は感情や意図を共有し合える能力を持っているにもかかわらず、なぜ残虐にもなれるのか。
 (1.1)感情や意図の共有
  感情や意図を共有し合えるという能力は、人と人とを意識以前の基本的なレベルで互いに深く結びつけ、人間の社会的行動の根本的な出発点でもある。
 (1.2)残虐行為が存在するという事実
(2)仮説
 (2.1)科学的な事実と制度、政策の関係、人間の生物学的組成と社会性、自由意志の問題が関係する
  共感を促進するのと同じ神経生物学的メカニズムが、特定の環境や背景のものでは共感的行動と正反対の行動を生じさせている可能性があるが、科学的な事実と制度、政策の関係の問題と、人間の生物学的組成、社会性と自由意志の問題が絡み、解決を難しくしている。
  (2.1.1)暴力的な映像による模倣暴力の事例
    暴力的な映像による模倣暴力の存在は、実験で検証されている。攻撃的な行動は、未就学児でも青年期でも、性別、生来の性格、人種によらず一貫して観察される。実際の社会においても、因果関係が実証されている。(マルコ・イアコボーニ(1960-))
  (2.1.2)科学的な事実と制度、政策の関係の問題
   (a)これを解明するためには、科学的な事実を、社会全般の幸福を促進するための政策策定に反映させる制度的な仕組みが必要だが、そのような体制にはなっていない。
   (b)規制すべきかどうかの問題。言論の自由との絡みがある。
   (c)規制すべきかどうかの問題。市場と金銭的利害との絡みがある。
  (2.1.3)人間の生物学的組成、社会性と自由意志の問題
   (a)社会性と人間の自由意志の関係
    人間の最大の成功ではないかとも思える私たちの社会性が、一方では私たちの個としての自主性を制限する要因でもあることを示唆している。これは長きにわたって信じられてきた概念に対する重大な修正である。
   (b)人間の生物学的組成と自由意志の関係
    一方、人間はその生物学的組成を乗り越えて、自らの考えを社会の掟を通じて自らを定義できるとする見方がある。

 「人は人と出会うと、感情や意図を伝えて共有する。人と人とは意識以前の基本的なレベルで互いに深く結びついている。これがわかってみると、この《事実》は社会的行動の根本的な出発点なのではないかと私には思える。しかし伝統的な分析哲学では、意識しての行動や人と人との違いを強調するあまり、こうしたことがほとんど無視されてきた。一方、私たちはまた別の事実も突きつけられている。それは文字どおり残虐な世界だ。この世では毎日いたるところで残虐行為が起こっている。私たちの神経生物学的機構は共感を生むように配線され、ミラーリングと意味の共有をするように調整されているはずなのに、なぜそんなことになってしまうのか?
 私の考えでは、これには三つのおもな要因がある。第一に、模倣暴力という現象で見たように、共感を促進するのと同じ神経生物学的メカニズムが、特定の環境や背景のものでは共感的行動と正反対の行動を生じさせる可能性がある。これはいまのところ仮説でしかないが、非常に信憑性の高い仮説だと思う。もし裏づけが取れれば、この神経科学上の事実はぜひとも政策決定に役立てるべきである。とはいえ、実際にはそうはならないだろう。理由は二つある。第一に、私たちの社会は科学的データを政策策定に使えるような態勢には少しもなっていない。とくに模倣暴力のような事例では、金銭的利害と言論の自由との複雑な関係が絡んでくるから、なお難しい。これは簡単に答えの出ない厄介な案件だが、科学全般、そしてその一部である神経科学を、象牙の塔や市場だけに閉じ込めておくのは決して得策ではないと思う。現状ではどんな発見も神経疾患の薬物治療を発達させることに適用されるだけで、社会全般の幸福を促進するために適用されることはめったにない。神経科学上の発見が政策決定に実際に役立てられること、またそうすべきであることを、せめて公開の場で討論できるようになればと思う。こうした考えはいまのところほとんど現われていないが、絶対に必要なことだと確信する。
 神経科学を政策に反映させようとする考えに抵抗が生じる第二の理由は、自由意志をいう大切な概念が脅かされるのではないかという恐れに関係している。その恐れが模倣暴力に関する議論にも結びついているのは明らかだ。ミラーニューロンについての研究は、人間の最大の成功ではないかとも思える私たちの社会性が、一方では私たちの個としての自主性を制限する要因でもあることを示唆している。これは長きにわたって信じられてきた概念に対する重大な修正である。伝統的に、個体行動の生物学的決定論の一方には、それと対比をなすものとして、人間はその生物学的組成を乗り越えて、自らの考えを社会の掟を通じて自らを定義できるとする見方がある。しかしミラーニューロンの研究は、私たちの社会の掟のほどんどが、私たちの生物学的仕組みによって決められていることを示している。この新たな知見にどう対処すればいい? 受け入れがたいとして拒否するか? それともこれを利用して政策に反映し、よりよい社会をつくっていくか? 私はもちろん後者に与する。」
(マルコ・イアコボーニ(1960-),『ミラーニューロンの発見』,第11章 実存主義神経科学と社会,早川書房(2009),pp.327-329,塩原通緒(訳))
(索引:感情,意図,残虐行為,制度,政策,社会性,自由意志)

ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 (ハヤカワ新書juice)


(出典:UCLA Brain Research Institute
マルコ・イアコボーニ(1960-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ミラーリングネットワークの好ましい効果であるべきものを抑制してしまう第三の要因は、さまざまな人間の文化を形成するにあたってのミラーリングと模倣の強力な効果が、きわめて《局地的》であることに関係している。そうしてできあがった文化は互いに連結しないため、昨今、世界中のあちこちで見られるように、最終的に衝突にいたってしまう。もともと実存主義的現象学の流派では、地域伝統の模倣が個人の強力な形成要因として強く強調されている。人は集団の伝統を引き継ぐ者になる。当然だろう? しかしながら、この地域伝統の同化を可能にしているミラーリングの強力な神経生物学的メカニズムは、別の文化の存在を明かすこともできる。ただし、そうした出会いが本当に可能であるならばの話だ。私たちをつなぎあわせる根本的な神経生物学的機構を絶えず否定する巨大な信念体系――宗教的なものであれ政治的なものであれ――の影響があるかぎり、真の異文化間の出会いは決して望めない。
 私たちは現在、神経科学からの発見が、私たちの住む社会や私たち自身についての理解にとてつもなく深い影響と変化を及ぼせる地点に来ていると思う。いまこそこの選択肢を真剣に考慮すべきである。人間の社会性の根本にある強力な神経生物学的メカニズムを理解することは、どうやって暴力行為を減らし、共感を育て、自らの文化を保持したまま別の文化に寛容となるかを決定するのに、とても貴重な助けとなる。人間は別の人間と深くつながりあうように進化してきた。この事実に気づけば、私たちはさらに密接になれるし、また、そうしなくてはならないのである。」
(マルコ・イアコボーニ(1960-),『ミラーニューロンの発見』,第11章 実存主義神経科学と社会,早川書房(2009),pp.331-332,塩原通緒(訳))
(索引:)

マルコ・イアコボーニ(1960-)
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2020年5月2日土曜日

1938_ジャコモ・リゾラッティ_命題集


《目次》

(1)視覚刺激により発生する体性感覚
 (1.1)体性感覚ニューロン
 (1.2)二重様相(バイモーダル)ニューロン(体性感覚-視覚ニューロン)
 (1.3)三重様相(トリモーダル)ニューロン(体性感覚-視覚-聴覚ニューロン)
(2)視覚刺激により発生する運動感覚の表象
 (2.1)標準(カノニカル)ニューロン
  (2.1.1)対象物の視覚刺激により発生する運動感覚の表象
 (2.2)ミラーニューロン
  (2.2.1)他者の運動行為の視覚刺激により発生する運動感覚の表象
  (2.2.2)他者の運動行為の意味、意図
  (2.2.3)サルとヒトのミラーニューロンの違い
  (2.2.4)ミラーニューロンに関するマーク・ジャンヌローの模倣説
  (2.2.5)マーク・ジャンヌローの模倣説では不十分である
(3)他者の情動表出の視覚刺激により発生する内臓運動の表象
 (3.1)内臓運動の表象
 (3.2)本物の情動が生じる場合と潜在的な場合
 (3.3)相手の情動の理解は複雑な対人関係の基盤
(4)行為の共有空間
(5)情動の共有空間

(1)視覚刺激により発生する体性感覚
  顔、首、腕、手の近くの空間に、体に向って動いて来る3次元物体の視覚刺激を受けると、顔、首、腕、手に対する触覚も同時に発生する。これは、体性感覚と視覚の両方に活性化する二重様相ニューロンが実現している。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))
 (1.1)体性感覚ニューロン
  顔、首、腕、手が、軽く触れられたり、肌を何かがかすったりするような、体の表面の触覚刺激によって活性化する。
 (1.2)二重様相(バイモーダル)ニューロン(体性感覚-視覚ニューロン)
  (a)体性感覚面では、純粋な体性感覚ニューロンと似ている。
  (b)視覚刺激、とくに三次元の物体に反応する。ほとんどは、動いている物、とりわけ、体に向って動いてくる物に反応しやすいが、静止している物に強く反応するものも、あることはある。
  (c)視覚刺激が触覚受容野の近くに現われたときだけしか反応しない。全空間のうち、顔、首、腕、手などそれぞれの体性感覚受容野の周辺に、各固有の形や大きさ、厚み(数センチメートルから40~50センチメートル)を持った、それぞれ固有の視覚受容野が存在する。言い換えると、視覚受容野が、体性感覚受容野の拡張部分を形成している。
 (1.3)三重様相(トリモーダル)ニューロン(体性感覚-視覚-聴覚ニューロン)

(2)視覚刺激により発生する運動感覚の表象
 対象物を見ると、それを操作する運動感覚の表象が伴う。これはカノニカルニューロンが実現している。また、他者の対象物への働きかけを見ると、その運動感覚の表象が伴う。これはミラーニューロンが実現している。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))

 (2.1)標準(カノニカル)ニューロン
  (2.1.1)対象物の視覚刺激により発生する運動感覚の表象
   (a)対象物の視覚刺激(対象物の形、大きさ、向き)に対応して運動特性(すなわち、つかみ方のタイプ)に呼応したニューロンの一部が発火する。
   (b)つかむ、持つ、いじるといった運動行為に対応したニューロンの大多数が発火する。
   (c)その結果、対象物の形、大きさ、向きに応じて決まる、その対象物をつかむ、持つ、いじるといった運動特性に呼応した、運動感覚の表象が現れ、視覚情報を適切な運動行為に変換するプロセスが準備される。

 (2.2)ミラーニューロン
  (2.2.1)他者の運動行為の視覚刺激により発生する運動感覚の表象
   他者が、対象物へ働きかける運動行為を見るとき、その特定のタイプの行為に呼応したニューロンの一部が発火する。例えば、つかむミラーニューロン、持つミラーニューロン、いじるミラーニューロン、置くミラーニューロン、両手で扱うミラーニューロン。運動行為の視覚情報には、次のような特徴がある。
   (a)カノニカルニューロンとは違い、食べ物や立体的な対象物を見たときには発火しない。
   (b)手や口や体の一部を使って、対象物へ働きかける行動を見たときに限られ、腕を上げるとか手を振るといったパントマイムのような行為、対象物のない自動詞的行為には反応しない。
   (c)見えた行為の方向や、実験者の手(右か左か)に影響されるように思える場合もある。
   (d)観察者と観察される行為との距離や相対的位置関係にはほとんど影響されずに発火する。
   (e)視覚刺激の大きさに影響されることもない。
   (f)2つ、あるいはめったにないが3つの運動行為のいずれかを観察すると発火するニューロンもあるようだ。
  (2.2.2)他者の運動行為の意味、意図
   その結果、他者が対象物へ働きかける運動行為を見るとき、その対象物をつかむ、持つ、いじるといった運動特性に呼応した、運動感覚の表象が現れ、他者の行為の意味が感知できる。
    他者が対象物へ働きかける運動行為を見るとき、その対象物をつかむ、持つといった運動特性に呼応した、観察者が知っている運動感覚の表象が自動的に現れる。この表象が行為の「意味」であり、他者の「意図」である。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))
   (a)他者が、対象物へ働きかける運動行為を見る。(視覚情報)
   (b)観察者の運動レパートリーに属している、その対象物をつかむ、持つ、いじるといった対象物を扱う様相によって特徴づけられる特定のタイプの行動の運動感覚の表象が現れる。これは、同一であるとか類似しているという内省や知識に基づくものではなく、自動的に現われる。
   (c)運動感覚の表象は、観察者自身を統制する運動行為の表象と同じであり、この運動感覚の表象が、観察された運動行為の「意味」であり、その行動をする他者の「意図」である。
   (d)従って、他者の運動行為が始まると、たとえその行為が完遂されなくても、その意味と意図は直ちに感知される。
   (e)他者の、あるタイプの行為を別のタイプの行為と区別することが可能となり、最適な反応をすることができる。

  (2.2.3)サルとヒトのミラーニューロンの違い
    サルとヒトのミラーニューロンの違い:ヒトは、広範囲の皮質を含む、自動詞的な運動行為にも反応する、個々の動きと行為の目的の両方を捉える、行為の真似に対しても反応する。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))
   (a)ヒトでは、サルの場合よりも広範囲の皮質を含むように見える。
   (b)ヒトのミラーニューロン系は「他動詞的」な運動行為と「自動詞的」な運動行為の両方をコードする。
   (c)ヒトは、運動行為の目的と、行為を構成する個々の動きの両方をコードすることができる。
   (d)ヒトの場合、「他動詞的」な運動行為において、対象物への実際の働きかけは絶対条件ではない。行為を真似ただけのときも、活性化できる。

  (2.2.4)ミラーニューロンに関するマーク・ジャンヌローの模倣説
    ミラーニューロンの機能は、他者の行為の模倣である。すなわち、実際の行為のときに活性化される運動感覚と著しく類似した、内的な運動表象を作り上げる。(マーク・ジャンヌロー(1935-2011))
   (a)特定の運動行為に対応したニューロンが発火するのは、カノニカルニューロンと同じである。
   (b)他者の行為を観察したとき、観察者の脳に潜在的な運動行為が生成される。それは、その行為を実際に構成・実行するときに行為者の脳内で自発的に活性化される運動行為と、著しい類似性を見せる。ただし、それは、「内的な運動表象」として潜在的な段階にとどまる。

  (2.2.5)マーク・ジャンヌローの模倣説では不十分である
    模倣による学習や、模倣による行為の再現のためには、ミラーニューロン系の存在が必要ではあるが、十分ではない。ミラーニューロン系を制御する他の皮質野の介入が必要である。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))
   (a)ミラーニューロンの機能
     他者が対象物へ働きかける運動行為を見るとき、その対象物をつかむ、持つといった運動特性に呼応した、観察者が知っている運動感覚の表象が自動的に現れる。この表象が行為の「意味」であり、他者の「意図」である。
   (b)ミラーニューロンの抑制機能
    抑制機能がないと、目にした運動行為が自動的に再現されてしまう。実際、前頭葉に広範囲の損傷がある患者は、目にした他者の行為、とくに治療してもらっている医師の行為を繰り返してしまう。また、他者の行為を反射的に模倣してしまう「反響動作症」という障害も存在する。
   (c)潜在的行為を実際の運動行為の実行へと移行させる促進機能
    模倣による学習や、運動レパートリーに属している行為を実際に再現するためには、ミラーニューロン系以外の皮質野の介入を必要とする。潜在的行為を、実際の運動行為の実行へと移行させる促進機能も必要である。

(3)他者の情動表出の視覚刺激により発生する内臓運動の表象
  他者の情動の表出を見るとき、その情動の基盤となっている内臓運動の表象が現れ、他者の情動が直ちに感知される。これは潜在的な場合もあれば実行されることもあり、複雑な対人関係の基盤の必要条件となっている。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))

 (3.1)内臓運動の表象
  他者の情動の表出を見るとき、その情動の基盤となっている内臓運動の表象が現れ、他者の情動が直ちに感知できる。
  (a)他者が、情動を感じている表情を見る。(視覚情報)
  (b)観察者の情動の基盤となっている内臓運動に関係する神経構造が、自動的に活性化される。
  (c)これにより、他者の情動が、直ちに了解される。ただし情動は、それが他者の表情や行為にどう表れているかに関係する、感覚的側面の内省的処理によって理解される場合もあるかもしれない。
 (3.2)本物の情動が生じる場合と潜在的な場合
  島の活性化によって引き起こされる内臓運動反応の周囲にある中枢は、潜在的な内臓運動活動を表象しており、それが実行されることもあれば、潜在的な状態にとどまることもある。
 (3.3)相手の情動の理解は複雑な対人関係の基盤
  このような情動の理解は、「同情」のための前提だ。しかし「同情」には他の要因も必要となる。例えば、相手が誰なのか、相手とどういう関係にあるのか、相手の立場になったところを想像できるか、相手の情動の状態や願望や期待といったものに対して責任を引き受ける気があるかなどだ。

(4)行為の共有空間
  2人以上の行為者が、相手の行為の意図を互いに、自己の潜在的運動行為として自動的に了解し合っているとき、この相互関係の状況を「行為の共有空間」と呼ぶ。これは、ミラーニューロンが実現している。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))

 (a)観察者A=行為者A
  (a1) 他者が対象物へ働きかける運動行為を見るとき、その対象物をつかむ、持つといった運動特性に呼応した、観察者が知っている運動感覚の表象が自動的に現れる。この表象が行為の「意味」であり、他者の「意図」である。
  (a2)すなわち、行為者Bの行為が、単独の行為であっても行為の連鎖であっても、観察された状況に最もふさわしい型の観察者Aの潜在行為として表象され、行為者Bが好むと好まざるとにかかわらず、観察者Aに対して意味を持つ。ここでは、意図的な「認知作業」はいっさい必要ない。
 (b)行為者B=観察者B
  同時にBは、Aの行為を見るとき、その行為はただちにBに対して意味を持つ。
 (c)このように、2人以上の行為者が、相手の行為の意図を互いに、自己の潜在的運動行為として自動的に了解し合っているとき、この相互関係の状況を「行為の共有空間」と呼ぶ。これは、ミラーニューロンが実現している。

(5)情動の共有空間
  2人以上の情動表出者が、相手の情動を互いに、自己の内臓運動の表象として自動的に了解し合っているとき、この相互関係の状況を「情動の共有空間」と呼ぶ。これは、ミラーニューロンが実現している。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))

 (a)観察者A=情動表出者A
  (a1) 他者の情動の表出を見るとき、その情動の基盤となっている内臓運動の表象が現れ、他者の情動が直ちに感知される。これは潜在的な場合もあれば実行されることもあり、複雑な対人関係の基盤の必要条件となっている。  (b)情動表出者B=観察者B
  同時にBは、Aの情動表出を見るとき、Bの情動を直ちに感知する。
 (c)このように、2人以上の情動表出者が、相手の情動を互いに、自己の内臓運動の表象として自動的に了解し合っているとき、この相互関係の状況を「情動の共有空間」と呼ぶ。これは、ミラーニューロンが実現している。


(出典:wikipedia
ジャコモ・リゾラッティ(1938-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「みなさんは、行為の理解はまさにその性質のゆえに、潜在的に共有される行為空間を生み出すことを覚えているだろう。それは、模倣や意図的なコミュニケーションといった、しだいに複雑化していく相互作用のかたちの基礎となり、その相互作用はますます統合が進んで複雑化するミラーニューロン系を拠り所としている。これと同様に、他者の表情や動作を知覚したものをそっくり真似て、ただちにそれを内臓運動の言語でコードする脳の力は、方法やレベルは異なっていても、私たちの行為や対人関係を具体化し方向づける、情動共有のための神経基盤を提供してくれる。ここでも、ミラーニューロン系が、関係する情動行動の複雑さと洗練の度合いに応じて、より複雑な構成と構造を獲得すると考えてよさそうだ。
 いずれにしても、こうしたメカニズムには、行為の理解に介在するものに似た、共通の機能的基盤がある。どの皮質野が関与するのであれ、運動中枢と内臓運動中枢のどちらがかかわるのであれ、どのようなタイプの「ミラーリング」が誘発されるのであれ、ミラーニューロンのメカニズムは神経レベルで理解の様相を具現化しており、概念と言語のどんなかたちによる介在にも先んじて、私たちの他者経験に実体を与えてくれる。」
(ジャコモ・リゾラッティ(1938-),コラド・シニガリア(1966-),『ミラーニューロン』,第8章 情動の共有,紀伊國屋書店(2009),pp.208-209,柴田裕之(訳),茂木健一郎(監修))
(索引:)

ジャコモ・リゾラッティ(1938-)
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内発的な意識過程には、発生時刻への主観的な遡及を可能にする脳活動がないのに、遅延のない連続的でなめらかな流れが意識される。これは、異なる複数の現象がオーバーラップして実現していると思われる。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

連続した意識の流れ

【内発的な意識過程には、発生時刻への主観的な遡及を可能にする脳活動がないのに、遅延のない連続的でなめらかな流れが意識される。これは、異なる複数の現象がオーバーラップして実現していると思われる。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】

(e)継続した意識の流れは、どのように生じているのか。
 (i)意識的な感覚の、時間的に逆行する主観的な遡及
   意識的な感覚は、刺激を受けた時刻より約0.5秒遅れて発生するが、意識の内容は、刺激の発生時刻を指し示す。もしこれが、初期EP反応だけで実現されていたとしても、「適切な脳機能の創発特性」として十分あり得ることだ。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))
 (ii)自発的な行為への意識を伴う意図
  自発的な行為への意識を伴う意図が、内発的に立ち現れる場合、その体験の主観的なタイミングは、自発的な行為を導き出す脳活動の始動後400ミリ秒間かそれ以上、事実上遅延することが、実験によって示されている。
 (iii)内発的な意識過程には、遅延が発生すると思われるが、実際は違う
  遡及に必要な初期EP反応がない内発的な過程においては、500ミリ秒間の神経活動によって初めて、意識事象が始まるとしたら、一連の意識事象は継続した流れとしては現れず、非連続的なものになると思われる。ところが、私たちの意識を伴う日常生活の中で、断続性は感じられない。
 (iv)仮説:非連続的である異なる精神現象がオーバーラップしている。
  私たちの一連の思考のスムーズな流れという主観的な感情は、異なる精神現象がオーバーラップしているということで、説明できると思われる。内在している事象が非連続的であるにもかかわらず、全体としてなめらかで連続性のある産物を生み出している。

 「(7) 継続した意識の流れについて人々がよく知っている概念というのは、意識的なアウェアネスのタイム-オン(持続時間)の必要条件と矛盾しています。意識の流れについての概念は、偉大な心理学者であるウィリアム・ジェームズが、彼自身が意識を伴う思念について直感的に理解したことに基づいて提唱したものです。多くの心理学者や、フィクション作家たちが、被験者または登場人物の精神活動の真の特質に、意識の流れについての考え方を取り入れてきました。しかし、《意識を伴う思考プロセスには非連続的な独立した事象》が含まれていなければならないことを、私たちの証拠は示しています。もし、必要条件である500ミリ秒間の神経活動によって引き起こされる大幅な遅延の後に初めてそれぞれの意識事象が始まるとしたら、一連の意識事象は継続した流れとしては現れません。それぞれの意識事象においてのアウェアネスは、最初の500ミリ秒付近には存在しないのです。
 一連の意識事象の非連続性には、直感に反した特徴があります。それは人々が経験しているものとは異なります。私たちの意識を伴う日常生活の中で、断続性は感じられません。感覚経験の場合、私たちの連続性の感覚は、次のように説明できます。すなわち、それぞれの経験が、感覚刺激から10~20ミリ秒以内の速さで誘発された感覚皮質の反応へと時間的には逆向きに、そして自動的かつ主観的に遡及される、ということです。主観的には、感覚事象に対するアウェアネスの中で、感知できるほどの遅延を人はまったく知覚していません。私たちの実験では、刺激に気づき始めることが可能になる時点よりも500ミリ秒も前に、人は感覚刺激に気づいていたと思っていることが示されています。この矛盾は事実に基づいて理解できるようになりました。したがってもはや、理論上の推測などではありません。この現象を私たちは「意識を伴う感覚的なアウェアネスについての、時間的に逆行する主観的な遡及」と名づけました。
 しかし、この特性は、行為への意識を伴う意図や、思考事象を含めたすべての種類の意識経験にも一般的に適用できるわけではありません。私たち(リベット他(1979年))は、感覚経験だけを考えて、主観的な遡及(時間的な前戻し)を提案しました。その場合においてさえ、感覚入力によって早いタイミングの信号である初期誘発電位反応が感覚皮質から引き出されたときにだけ、前戻しが起こります。自発的な行為への意識を伴う意図が、内発的に立ち現れる場合、その体験の主観的なタイミングは、自発的な行為を導き出す脳活動の始動後400ミリ秒間かそれ以上、事実上遅延することを私たちは実験によって示してきました(第4章)。外部から後押しする手がかりがない場合の意識を伴う行為を促す意図は、脳内で生じる(つまり、内発的である)意識経験の一例です。ここには、元来内発的ではない感覚システムの刺激への反応がないため、初期誘発電位反応は存在しません。
 私たちの一連の思考のスムーズな流れという主観的な感情は、異なる精神現象が《オーバーラップ》しているということで、おそらく説明がつくでしょう。脳は、ほとんど同時に複数の意識事象を、時間的にオーバーラップさせて起こすことができるようです。内在している事象が非連続的であるにもかかわらず、全体としてなめらかで連続性のある産物をどのように生み出しているかを理解するために、筋肉の動きの生理機能を考えてみましょう。上腕二頭筋のような骨格筋は、それぞれが多数の筋肉細胞や繊維を含む多くの運動ユニットから成り立っています。肘を屈曲させるように、二頭筋をなめらかに収縮すると、どの単独の運動ユニットの動きにおいても1秒間につきおよそ10回という比較的低い割合で「収縮活動している」ことが電気記録で見られるでしょう。個々の運動反応についての直接研究によると、1秒間につき10回の筋収縮は、なめらかに維持している収縮とは違って、小刻みに変化し、波状に動きます。このように、二頭筋の全体としてはなめらかな運動ユニットと活性化する神経細胞の発火活動に《ずれ》が生じた結果として説明がつきます。さまざまな個々の運動ユニットにおける波状の収縮は、こうして時間的にオーバーラップします。」(後略)
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第3章 無意識的/意識的な精神機能,岩波書店(2005),pp.131-134,下條信輔(訳))
(索引:)

マインド・タイム 脳と意識の時間


(出典:wikipedia
ベンジャミン・リベット(1916-2007)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
 私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)

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2020年5月1日金曜日

恐らく、私たちは共に部分的に間違っている。私たちは、真理に接近するために討論するのであって、相手を打ち負かすためではない。だから、合意できなくとも、互いによりよい理解には達し、多くを学ぶだろう。(カール・ポパー(1902-1994))

合理的討論の原則

【恐らく、私たちは共に部分的に間違っている。私たちは、真理に接近するために討論するのであって、相手を打ち負かすためではない。だから、合意できなくとも、互いによりよい理解には達し、多くを学ぶだろう。(カール・ポパー(1902-1994))】

合理的討論の原則は、認識論的な原則であると同時に、本来、倫理的な原則でもある。
(1)可謬性の原則
 私は、あなたから学ぼうとしている。私が間違っていて、恐らくあなたが正しいのであろう。しかし、私たちの両方がともに間違っているのかもしれない。
(2)合理的討論の原則
 私たちは、批判可能な特定の問題を論じているのであって、相手の人格を攻撃しようとしているのではない。問題を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲している。
(3)真理への接近の原則
 私たちは何故、討論するのか。真理に接近するためである。だから仮に、合意に達することができないときでも、互いによりよい理解には達し、多くを学ぶことができるに違いない。
 「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI,pp.316,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:可謬性の原則,合理的討論の原則,真理への接近の原則)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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学ぶ必要がある。2008年の経済危機時、問題の原因となった銀行を膨大な税金で救済、労働者は失業、銀行の責任は問われず規制も曖昧となった。その後、新自由主義は正当化・強化され、世界中で貧富の格差が拡大した。(岸本聡子(1974-))

世界経済危機時の教訓

【学ぶ必要がある。2008年の経済危機時、問題の原因となった銀行を膨大な税金で救済、労働者は失業、銀行の責任は問われず規制も曖昧となった。その後、新自由主義は正当化・強化され、世界中で貧富の格差が拡大した。(岸本聡子(1974-))】
 「2008年、問題を起こした張本人である銀行だけを「大きすぎてつぶせない」と膨大な税金を使って救済し、多くの労働者を失業に追い込んだリーマン・ショック。銀行の責任も問わず、公的管理も及ばないばかりか、その後の国際金融取引の規制にもつながらなかった。当時、左派知識人や社会運動の反応は鈍く、連帯して明確な要求を政府に圧力をかけられなかった反省は深い。さらに新自由主義が正当化・強化され、文字通り「失われた10年」の間に世界中で貧富の格差は危険なまでに拡大したのだ。その時と今は随分様相が違っているように思える。社会運動も各国もかつての世界経済危機から学んでいる。」
第9回:コロナ危機下で人々の暮らしをどう守るのか(岸本聡子)岸本聡子マガジン9
(索引:リーマン・ショック,世界経済危機,新自由主義,貧富の格差)

(出典:トランスナショナル研究所
Satoko-Kishimoto(1974-)の命題集(Propositions of great philosophers) 「私は国家の役割について考えている。ニナが福祉国家の恩恵を受けて最後まで尊厳をもって過ごせたように、国家というのは一人の尊厳を守ることのできる力をもつ。それと同時に、今回の難民危機に見るように多くの人の命を奪うことができる力ももっている。
 国家は、私たちが目指す変化をもたらす主体なのか、変化を阻む張本人なのか。国家を民主化することは可能なのか、それとも真の民主主義は草の根にしかありえないのか。自治体の潜在力のみに戦略を集中するべきか、国家の変革を優先すべきか――これらはおそらく100年以上の間、左派の間で議論されてきた終わりのないテーマだ。今日的には、ミュニシパリズム、つまり国家よりも地域に根付いた自治体での民主主義を拡大し深めていくことに集中すべきなのか、ラディカルな地方政治の実現だけで満足していいのか、という問いになる。」(中略)「格差と生活苦に対する抵抗運動が起きているチリから、若き研究者であり活動家のアレキサンダーが登壇。「国家とともに(with)、国家に対抗して(against)、国家を超える(beyond)」戦略を見つけなくてはいけないと語っていた。(中略)「自治体が国家を待たずに、市民の命と尊厳を守るための行動を起こし、それによって国家に圧力をかけていく。そんな戦略も大ありだと、私は信じている。」
第8回:コロナ騒動のなか、あえて難民危機と国家について考える(岸本聡子)岸本聡子マガジン9
(索引:)

岸本聡子(1974-)
岸本聡子マガジン9
検索(岸本聡子)

マラリアは、予防も治療もできる病気にもかかわらず、毎年2億人以上が感染し、40万人以上が亡くなっている。なぜか。この問題を掘り下げていくと、国際社会の不正義と経済格差の問題が浮かび上がってくる。(岸本聡子(1974-))

感染症の問題と国際社会の不正義

【マラリアは、予防も治療もできる病気にもかかわらず、毎年2億人以上が感染し、40万人以上が亡くなっている。なぜか。この問題を掘り下げていくと、国際社会の不正義と経済格差の問題が浮かび上がってくる。(岸本聡子(1974-))】
 「コロナが、これだけ国際的な政治課題になっているのは、先進国、とくに富裕層も含めて影響を受けているからでしょう。感染症でいえば、いまでも毎年、2億人以上がマラリアに感染して、40万人以上が亡くなっています。予防も治療もできる病気にもかかわらず、です。こうした状況を国際政治が無視し続けてきたのは、貧しい国や地域に限定された病気だからです。感染症の問題を掘り下げていくと、国際社会の不正義と経済格差の問題が浮かび上がってきます。」
番外編(上):【オンラインで聞きました】公共サービスを守り、不安定雇用をなくす:コロナ危機後に必要な変化(岸本聡子)岸本聡子マガジン9
(索引:感染症,マラリア,国際社会の不正義,経済格差)

資本の移動性が高まったことによって、ローカルな政府は、資本を呼び込むために規制緩和し、資本の選好、慣例、期待に応える。低い税金、柔軟な労働市場、そして組織的抵抗を行わない従順な国民。(ジグムント・バウマン(1925-2017))

政府対資本の構造

【資本の移動性が高まったことによって、ローカルな政府は、資本を呼び込むために規制緩和し、資本の選好、慣例、期待に応える。低い税金、柔軟な労働市場、そして組織的抵抗を行わない従順な国民。(ジグムント・バウマン(1925-2017))】

(1)資本
 (a)資本の空間的移動性
  資本は、過去に例がないほど、領土を超え、軽やかで、解放され、埋め込みから脱している。
 (b)ローカルな政府を服従させ得る水準
  ローカルな政府の「はた迷惑な権力」も、依然として資本が有する移動の自由に対する悩ましい拘束を行うことがある。しかし、空間的移動の水準は、領土に結びついた政治的機関を脅かして自らの要求に服従させるには十分なものとなった。
(2)ローカルな政府
 (a)資本を呼び込むため
  どこか別の場所へ移動するという脅しは、それに応えてきちんとした政府なら行動を起こさざるを得ないがゆえに、きわめて真剣な対応を要求することになる。そしてそのためには、「自由な企業のためによりよい環境を整備する」か、そう試みる可能性があることを伝えるしかない。
 (b)資本の自由を制限しない
  また政府が、行使できるすべての規制力を用いて、こうした規制力が資本の自由を制限するために使用されることがないことをはっきりとさせる必要もある。
 (c)資本の選好、慣例、期待に応える
  さらに政府が政治的に管理している領域が、グローバルに思考しグローバルに行動する資本がもつ、選好、慣例、期待に対して手厚くもてなすことができない、あるいはすぐ隣国で管理されている土地よりも手薄なもてなししかできないという印象を与えてはならない。
 (d)低い税金、規制緩和、柔軟な労働市場、組織的抵抗を行わない従順な国民
  現実において、それは低い税金、規制がほとんどないか全くない状態、そしてなかんずく「柔軟の労働市場」を意味している。もっと一般的にいえば、それは従順な国民、資本が下すいかなる決断に対しても組織的抵抗をおこなうことをせず、その意志もない人々のことである。

「もちろん、この独立は完全なものではないし、資本は自らが望み、努力の末に達成すべき高い可動性をまだ手に入れているわけではない。領土的――つまりローカルな要因は、たいていの予測においていまだに考慮されなければならないし、ローカルな政府の「はた迷惑な権力」も、依然として資本が有する移動の自由に対する悩ましい拘束をおこなうことがある。しかし資本は、過去に例がないほど、領土を超え、軽やかで、解放され、埋め込みから脱しているのであり、すでに成し遂げられた空間的移動の水準は、領土に結びついた政治的機関を脅かして自らの要求に服従させるには十分なものとなったのである。ローカルな絆を断ち切り、どこか別の場所へ移動するという(単なる思いつきによる、はっきりとは口に出されないものであっても)脅しは、それに応えてきちんとした政府なら行動を起こさざるをえないがゆえに、きわめて真剣な対応を要求することになる。今日の政治は、資本が移動可能な速度とローカルな権力がそれを「減速する」能力との間の綱引きになっているのだが、勝ち目のない戦いをしていると感じているのはローカルな諸機関の方なのである。地域住民の幸福のために奉仕する政府としては、資本に参入してもらい、それが実現したおりにはホテルの部屋を貸し出すだけではなく、高層ビルのオフィス群を建ててもらいたいと強要ではなく懇願して言いくるめることぐらいしかできない。そしてそのためには、「自由な企業のためによりよい環境を整備する」か、そう試みる可能性があることを伝えるしかない。すなわち、政治ゲームを「自由な企業の規則」に合わせる必要があるのだ。また政府が、行使できるすべての規制力を用いて、こうした規制力が資本の自由を制限するために使用されることがないことをはっきりとさせる必要もある。さらに政府が政治的に管理している領域が、グローバルに思考しグローバルに行動する資本がもつ、選好、慣例、期待に対して手厚くもてなすことができない、あるいはすぐ隣国で管理されている土地よりも手薄なもてなししかできないという印象を与えてはならない。現実において、それは低い税金、規制がほとんどないか全くない状態、そしてなかんずく「柔軟の労働市場」を意味している。もっと一般的にいえば、それは従順な国民、資本が下すいかなる決断に対しても組織的抵抗をおこなうことをせず、その意志もない人々のことである。逆説的ではあるが、政府は資本が自分たちの場所から、いつでも予告なしに移動し去る自由をはっきりと確約することによってだけ、自らの地域に資本を確保できると望めるのである。」
(ジグムント・バウマン(1925-2017)『個人化社会』第1章 労働の隆盛と衰退、pp.40-41、青弓社 (2008)、菅野博史(訳))
(索引:資本の移動性,規制緩和,柔軟な労働市場,従順な国民)

個人化社会 (ソシオロジー選書)


(出典:wikipedia
ジグムント・バウマン(1925-2017)の命題集(Propositions of great philosophers) 「批判的思考の課題は「過去を保存することではなく、過去の希望を救済することである」というアドルノの教えは、その今日的な問題性をいささかなりとも失ってはいない。しかしまさしくその教えが今日的な問題性を持つのが急激に変化した状況においてであるがゆえに、批判的思考は、その課題を遂行するために、絶え間ない再考を必要とするものとなる。その再考の検討課題として、二つの主題が最高位に置かれなければならない。
 第一に、自由と安定性(セキュリティ)のあいだの許容しうるバランスをうまく作り出すことへの希望と可能性である。これら二つの、両立できるかどうか自明ではないとはいえ、等しくきわめて重要な人間社会の必須の(sine qua non)条件が、再考の努力の中心に置かれる必要がある。そして第二に、至急救い出される必要がある、過去に存在した数々の希望のなかでも、カント自身の「瓶に詰められたメッセージ」として保持されてきたもの、つまりカントの『世界市民的見地における一般史の構想』は、メタ希望としての地位を正当にも主張しうるものだということである。つまりそれは、希望するという果敢な振る舞いそのものを可能にすることができる――するであろう、すべきである――ような希望である。自由と安定性のあいだにいかなる新しいバランスを作ることが探究されるとしても、それは、地球規模のスケールで構想される必要がある。」
(ジグムント・バウマン(1925-2017)『液状不安』第6章 不安に抗する思考、pp.256-257、青弓社 (2012)、澤井敦(訳))

ジグムント・バウマン(1925-2017)
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2020年4月30日木曜日

1.人類は、社会性と集団構造という選択圧により、感情能力に依存する仕組みを獲得した。(a)感情エネルギーの動員と経路づけ,(b)対面反応の調整,(c)裁可,(d)道徳的記号化,(e)資源評価と資源交換,(f)合理的意思決定(ジョナサン・H・ターナー(1942-))

進化における社会性の獲得

【人類は、社会性と集団構造という選択圧により、感情能力に依存する仕組みを獲得した。(a)感情エネルギーの動員と経路づけ,(b)対面反応の調整,(c)裁可,(d)道徳的記号化,(e)資源評価と資源交換,(f)合理的意思決定(ジョナサン・H・ターナー(1942-))】

 (1)社会性と集団が無ければ生存できなかった
  アフリカ・サヴァンナでの類人猿の生存にとっての大きな障害が、社会性と凝集的な集団構造の不足であったと仮定すれば、選択力は社会性と結合を増進するためにヒト科の脳の再組織化の方向に向ったにちがいない。
 (2)感情能力が強化されることで社会性が獲得された
  選択が進むべきもっとも直接的な方向は、社会結合を徐々に増やし、そして社会構造を維持することを彼らに可能にさせるような方法で、ヒト科の感情能力を強化させることであった。
 (3)社会性を強化する感情能力に依存する6つの仕組み
  先天的に社会性が低い動物を、より社会的で凝集的に組織される種に変えるために、必要となったものである。それらすべてが、ヒト科の感情能力の綿密な仕上げに依存している。
  (a)感情エネルギーの動員と経路づけ
  (b)対面反応の調整
  (c)裁可
  (d)道徳的記号化
  (e)資源評価と資源交換
  (f)合理的意思決定

 「アフリカ・サヴァンナでの類人猿の生存にとっての大きな障害が、社会性と凝集的な集団構造の不足であったと仮定すれば、選択力は社会性と結合を増進するためにヒト科の脳の再組織化の方向に向ったにちがいない(Maryanski and Turner 1992:pp.65-7)。

先に強調したように、選択が進むべきもっとも直接的な方向は、社会結合を徐々に増やし、そして社会構造を維持することを――人間子孫が今維持しているように――彼らに可能にさせるような方法で、ヒト科の感情能力を強化させることであった。

きわめて現実的な意味で、選択はある動物を強固に編成された構造に組織替えするという社会学的要請による制約を受けた。こうした社会学的要請が、ヒト科に働いたもっとも直接的な選択圧とみなすことができる。

それでは次に、

ヒト科の進化におけるこれら六つの経路こそが、先天的に社会性が低い動物を、より社会的で凝集的に組織される種に変えるために必要となったものである。それらすべてがヒト科の感情能力の綿密な仕上げに依存している。」 

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第2章 選択力と感情の進化、pp.61-62、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
(索引:社会性,集団構造,選択圧,感情能力)

感情の起源 ジョナサン・ターナー 感情の社会学


(出典:Evolution Institute
ジョナサン・H・ターナー(1942-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「実のところ、正面切っていう社会学者はいないが、しかしすべての社会学の理論が、人間は生来的に(すなわち生物学的という意味で)《社会的》であるとする暗黙の前提に基づいている。事実、草創期の社会学者を大いに悩ませた難問――疎外、利己主義、共同体の喪失のような病理状態をめぐる問題――は、人間が集団構造への組み込みを強く求める欲求によって動かされている、高度に社会的な被造物であるとする仮定に準拠してきた。パーソンズ後の時代における社会学者たちの、不平等、権力、強制などへの関心にもかかわらず、現代の理論も強い社会性の前提を頑なに保持している。もちろんこの社会性については、さまざまに概念化される。たとえば存在論的安全と信頼(Giddens,1984)、出会いにおける肯定的な感情エネルギー(Collins,1984,1988)、アイデンティティを維持すること(Stryker,1980)、役割への自己係留(R. Turner,1978)、コミュニケーション的行為(Habermas,1984)、たとえ幻想であれ、存在感を保持すること(Garfinkel,1967)、モノでないものの交換に付随しているもの(Homans,1961;Blau,1964)、社会結合を維持すること(Scheff,1990)、等々に対する欲求だとされている。」(中略)「しかしわれわれの分析から帰結する一つの結論は、巨大化した脳をもつヒト上科の一員であるわれわれは、われわれの遠いイトコである猿と比べた場合にとくに、生まれつき少々個体主義的であり、自由に空間移動をし、また階統制と厳格な集団構造に抵抗しがちであるということだ。集団の組織化に向けた選択圧は、ヒト科――アウストラロピテクス、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトゥス、そしてホモ・サビエンス――が広く開けた生態系に適応したとき明らかに強まったが、しかしこのとき、これらのヒト科は類人猿の生物学的特徴を携えていた。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『社会という檻』第8章 人間は社会的である、と考えすぎることの誤謬、pp.276-277、明石書店 (2009)、正岡寛司(訳))

ジョナサン・H・ターナー(1942-)
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10.実在的なるもの、真実の現在は、現前しているもの、出会い、関係が存在する限りにおいてのみ存在する。人間は、自分が経験し利用している事物にのみ満足している限りは、過去のうちに生きている。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

真実の現在

【実在的なるもの、真実の現在は、現前しているもの、出会い、関係が存在する限りにおいてのみ存在する。人間は、自分が経験し利用している事物にのみ満足している限りは、過去のうちに生きている。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

 「現在、といってもそれは、たんに思惟のうちでそのときどきに措定される《これまでに経過した》時間の末端を、つまり、見せかけのうえでだけ固定された時の経過を表示するひとつの《点》のようなものではない。

真実の、そして充実した現在は、現前しているものが、出会いが、関係が存在するかぎりにおいてのみ存在するのだ。《汝》が現前するという、そのことによってのみ現在は生ずるのである。

 根元語・《我-それ》における《我》、すなわちひとつの《汝》に対して生身の存在として向いあってはいない《我》、多様な内容(Inhalten)によって取りかこまれている《我》には過去があるだけで、現在はない。
言いかえれば、人間は自分が経験し利用している事物にのみ満足しているかぎりは、過去のうちに生きているのであって、彼の瞬間は現在なき瞬間なのだ。

彼は対象物以外の何ものをも有していない。対象物なるものはしかし、既往(Gewesensein)のうちに存在しているのだ。

 現在とは、一時的なもの、滑り去ってゆくものではなく、《現前的に待っているもの》にして《現前的に存続しているもの》である。

対象物とはしかし、持続ではなく、静止であり、停止(Innehalten)であり、中断、硬直、分立であり、関係の欠如、現在の欠如である。

 実在的なるもの(Wesenheiten)は現在のうちで生きられるが、対象的なるもの(Gegenständlichkeiten)は過去のうちで生きられるのである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)pp.19-20、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:真実の現在,現前,出会い,関係)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

マルティン・ブーバー(1878-1965)
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2020年4月29日水曜日

私が私の身体と不可分であり、それを意のままに使えるという事実と、その身体を排他的に占有し自由に処分してもよいという規範とは、全く次元の違う主張である。近代社会特有のこの規範の根拠が、いま問題である。(立岩真也(1960-))

自分の身体を所有するということ

【私が私の身体と不可分であり、それを意のままに使えるという事実と、その身体を排他的に占有し自由に処分してもよいという規範とは、全く次元の違う主張である。近代社会特有のこの規範の根拠が、いま問題である。(立岩真也(1960-))】
「「人類が、個人的にまたは集団的に、だれかの行動の自由に正当に干渉しうる唯一の目的は、自己防衛…である。すなわち、文明社会の成員に対し、彼の意志に反して、正当に権力を行使しうる唯一の目的は、他人に対する危害の防止である。彼自身の幸福は、物質的なものであれ道徳的なものであれ、十分な正当化となるものではない…自分自身にだけ関係する行為においては、彼の独立は、当然、絶対的である。彼自身に対しては、彼自身の身体と精神に対しては、個人は主権者である。」(Mill[1855=1967:224-225])

 自己決定の自由を主張してミル(John Stewart Mill 1806~1973)は右のように言う。なるほどこれは私達に受け入れられやすい主張である。言われていることを否定しようとは思わない。しかし、彼の行為はなぜ彼にだけ委ねられるのか。「他人に対する危害」を加えない範囲で自由だと言うが、ある行為、あるいはその結果が他の者に与えられな▽068 いこと自体はその者に危害を加えていないと言いうるのか。また、私の身体が私のものであることは自明のことのように思うかもしれない。だがその身体が私のもとにあること、私がその身体のもとにあること、また意のままにそれを私が使えること、これらの事実と、その身体を他者に使用させず、私の意のままに動かしてよい、処分してもよいという規則・規範とは、全く次元の異なったところにある。
 基本的なところから考えてみよう。財xを使用する、行う、消費する。結果として産出された財の配分や利用のことだけを言っているのではない。この財の中には各自の身体や行為、その他全てのものが含まれる。問題はそれを誰が行うことができるかである。世界の財を割り振るとして、それをどのように行うのか。(図2・1~2・3)
 こうした配分にかかわる規則が(少なくとも部分的には)不在の状態を考えることができないわけではない。各人が何を受け取るかについて関心がなく、利害の衝突がないといった状態である。この場合には規範を設定しておく必要は必ずしもない。しかし、このような状態を想定することができないならどうか。xが誰のものであるか決まって▽069 いないと、AとBの間に争いが起きるかもしれず、その争いには収拾がつかないかもしれない。それでは困る、あるいはそれではいけないとする。そこで、財・行為の所有・処分に対する権限の割り当ての規則を設定する。その規則は――その内容はともかく、規則自体は――かなり普遍的に、どの社会にもあると考えてよいだろう。規則は論理の上ではいくらでも考えられる。例えば、誰か一人が独占的に全てを所有するという形をとることも可能だし、一人一人に同じだけ割り振ってもよい。また現実にも、その規則の内容は様々に異なる。ここで問題にするのは、その近代的な規範、そしてそれを導き出す論理である。近代社会には近代社会特有の割り当ての規範がある。この配分の原理はどのようなものか、それがどのように根拠づけられているのかが問題である。次項でまず近代的所有権の特徴とされるものがそれに十分答えるものでないことを確認した後、その規則を与えるものが何なのかを見る。」
(立岩真也(1960-),『私的所有論 第2版』,第2章 私的所有の無根拠と根拠,1 所有という問題,[1]自己決定の手前にある問題,<Kyoto Books生存学
(索引:)
立岩真也(1960-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:立命館大学大学院・先端総合学術研究科
立岩真也(1960-)の命題集(Propositions of great philosophers)
立岩真也(1960-)
arsvi.com(生存学)
立岩真也(1960-)生存学
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所有にかかわる問題群:(a)そもそも所有とは何か、権利なのか、(b)所有の主体、対象、根拠、目的、(c)所有に内在する義務とは何か、あるべき所有とは等々。(井上達夫(1954-))

所有にかかわる問題群

【所有にかかわる問題群:(a)そもそも所有とは何か、権利なのか、(b)所有の主体、対象、根拠、目的、(c)所有に内在する義務とは何か、あるべき所有とは等々。(井上達夫(1954-))】

所有にかかわる問題群
(1)所有とはそもそも何か。
 (a)所有の概念を、所有権という権利としてのみ構成することは妥当か。
 (b)功利主義的発想と個人権理論的発想、あるいは、帰結主義的発想と義務論的発想は、所有の概念規定と正当化において、どのように関係するのか。
(2)いかなる主体が何を、何ゆえに、何のために、所有できるのか。
 (a)所有の主体になり得るものは何か。
 (b)何を所有し得るのか。
 (c)何によってそれは正当化されるのか。
 (d)何のために所有できるのか。
(3)所有することによって、誰に対して何ができ、何を拒否できるのか。
 (a)「所有は義務づける」と言うとき、この「義務付け」が単なる外在的制約ではないとすれば、それは所有の意味および正当化根拠と、どのように関係しているのか。
 (b)自由と責任を調和させる所有システムは、どのようなものか。
 (c)私的所有者の自由な交換としての市場システムが、自己の倫理的基礎の破壊を帰結しないための条件は何か。

(出典:週刊読書人ウェブ
井上達夫(1954-)の命題集(Propositions of great philosophers)
「これは、誰が何をしてよいのか、受け取ってよいのか、何をしてはならないのか、受け取ってはならないのか、ということである。こうしてこの問いは規範の総体に関わることになる。全てを問題にすることに等しい。ただ、全てをこの本の中で扱えるわけではない。中心となる論点があり、それを本章に記した。井上達夫は一九九一年度の日本法哲学会の統一テーマ「現代所有論」に関して次のように述べる。
 「所有とはそもそも何か。何によってそれは正当化されるのか。いかなる主体…が何を、何ゆえに、何のために、所有できるのか。所有することによって、誰に対して何ができ、何を拒否できるのか。/所有の概念を、所有権という権利としてのみ構成することは妥当か。「所有は義務づける(Eigentum verpflichtet)」と言うとき、この「義務付け」が単なる外在的制約ではないとすれば、それは所有の意味および正当化根拠と、どのように関係しているのか。また、功利主義的発想と個人権理論的発想、あるいは、帰結主義的発想と義務論的発想は、所有の概念規定と正当化において、どのように関係するのか。/自由と責任を調和させる所有システムは、どのようなものか。私的所有者の自由な交換としての市場システムが、自己の倫理的基礎の破壊を帰結しないための条件は何か。所有システムの再構築による社会主義の救済は可能か、また、いかにしてか。/…/問題のリストは無限に続く。提示した問題群は例示的列挙である。」(井上[1992:3-4])」
(立岩真也(1960-),『私的所有論 第2版』,第1章 私的所有という主題,◆01,<Kyoto Books生存学
(索引:)
立岩真也(1960-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:立命館大学大学院・先端総合学術研究科
立岩真也(1960-)の命題集(Propositions of great philosophers)
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倫理的問題において、第一原理の合意を差し控え、複数の原則が衝突し合う構造を解明しようとする方法は、ある程度の合意形成が可能という利点があるが、問題解決への要求を抑制し、十分な解決を与え得ない。(ディーター・ビルンバッハー(1946-))

生命倫理学における再構成的モデル

【倫理的問題において、第一原理の合意を差し控え、複数の原則が衝突し合う構造を解明しようとする方法は、ある程度の合意形成が可能という利点があるが、問題解決への要求を抑制し、十分な解決を与え得ない。(ディーター・ビルンバッハー(1946-))】

生命倫理学における再構成的モデルの利点と欠点
(1)利点
 (a)規範および規範適用における中程度のレベルでは合意形成が可能になる。
  (i)差し迫った道徳的現実問題の解決が、学術的な理論問題の解決に左右されることがない。根拠づけに関する倫理学的な議論、すなわち第一原則について合意が成立する場合は、はるかに少ない。
  (ii)かといって、純然たる手続き上の解決に委託されてしまうこともない。
 (b)複数の原則間の衝突が明確にわかる。
  (i)原則のカタログの方が、唯一の実質的または手続き上の原理を前提とするような倫理学に比べて、実際の道徳上の紛争における規範構造を、より分かりやすく示すことができる。
  (ii)最も頻繁に見られる規範の衝突は、同一状況に関連のある複数の原則に対して、さまざまに異なった重みづけをすることから生じる衝突である。
(2)欠点
 (a)問題解決への要求を抑制してしまう。
 (b)実践の場で生じるほとんどすべての道徳上の決定問題に、十分な解決を与えない。
 (c)原則の解釈と重みづけが様々に異なることから、最終的な判断を、個々人の判断力に委託してしまう。

 「生命倫理学における再構成的モデルの利点は明白である。第一に、実用的に利点がある。生命倫理学のこのモデルによれば、たとえ基本的な方向性が異なっていても、中程度のレベルでは合意形成が可能になる。中程度の合意が形成されれば、差し迫った道徳的現実問題の解決が、学術的な理論問題の解決に左右されることもなく、純然たる手続き上の解決に委託されてしまうこともない。生命倫理学で議論される問題の多くは、究極の根本問題について哲学者の意見が一致するまで待ってはくれない。「中間原則(axiomata media)」に比べれば、第一原則について合意が成立する場合の方がはるかに少ないのだから、まずは、生命倫理学における規範および規範適用に関する議論を、根拠づけに関する倫理学的な議論から切り離し、道徳的合意の根本的根拠づけに対する要求を抑制する方が望ましいのである。
 再構成的生命倫理学の第二の利点は、ビーチャムとチルドレスの例に見るような原則のカタログの方が、唯一の実質的または手続き上の原理を前提とするような倫理学に比べて、実際の道徳上の紛争における規範構造をより分かりやすく示すことができるという点にある。4つの「原則」を基準として根底に置くことからしてすでに、最も頻繁に見られる規範の衝突が、同一状況に関連のある複数の原則に対して、さまざまに異なった重みづけをすることから生じる衝突であることを示している。というのも、これらの原則が、どれ一つとして単純で妥当しえないことは、明白だからである。たとえば、無危害原則が倫理学で中心的位置を占めるとしても、場合によっては、たとえば、さらに大きな危害を避けるためには、危害を加えることも許されねばならない。また、本質的に大きな利害を可能にするためであれば、比較的に深刻度の低い危害およびリスクを加えることが許されるのも議論の余地のないところである。たとえば、命を救う可能性のある医療手段を試験するために、リスクの少ない動物実験および人体実験を行う場合、あるいは、比較的に「侵襲度が高く」、リスクが大きいものの、同時にチャンスも大きな治療法を選択する場合である。自律の原則もまた無制限に妥当するわけではない。自律尊重が、無危害原則ならびに善行の原則によって制限されることは、一般に認められており、その際には、またもや、患者の福祉を思って患者の意志に反して行われるパターナリスティックな介入がどの程度まで正当化できるかが議論の的となる。善行の原則もまた、とりわけ自律および正義の原則の側から制限が加えられる。たとえば、患者の自発的なインフォームド・コンセントによる、治療の差し控え、または治療中止の決断は、たとえその決断がほぼ確実に、患者の最善の利益に反するとしても、尊重されるべきであるという考えは、広く認められているのである。
 以上のような利点がある一方では、実践面でも理論面でも数多くの欠点が存在する。再構成的モデルの実践面での本質的な欠点は、このモデルが問題解決への要求を抑制してしまったため、実践の場で生じるほとんどすべての道徳上の決定問題に十分な解決を与えないまま、原則を拠りどころとしない個々人の判断力に委託してしまうところにある。そのために、実践の場では、再構成的なアプローチによって生まれた合意形成への期待は、中でも原則の解釈および重みづけがさまざまに異なることから、すぐに偽りの期待であることが分かってしまうのである。」
(ディーター・ビルンバッハー(1946-),アンドレアス・クールマン序文,『生命倫理学:自然と利害関心の間』,第1部 生命倫理学の根本問題,第1章 どのような倫理学が生命倫理学として役に立つのか,3 再構成的モデルの利点と欠点,pp.43-44,法政大学出版局(2018),加藤泰史(翻訳),高畑祐人(翻訳),中澤武(監訳),山蔦真之)
(索引:生命倫理学,再構成的モデル,第一原理,倫理的原則)

生命倫理学: 自然と利害関心の間 (叢書・ウニベルシタス)


(出典:dieter-birnbacher.de
ディーター・ビルンバッハー(1946-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ウィトゲンシュタインは、根拠には終わりがあり、根拠づけられた信念の根底には「根拠づけられていない信念」がある、と言っている。われわれもまた、他でもない倫理学において、すぐにウィトゲンシュタインと同じことを言わなければならない地点に到達せざるをえないのではないだろうか。
 ここで一つの重要な区別をしておく必要がある。それは、強制力のある根拠と蓋然性による根拠の区別である。強制力のある根拠の場合には、理性的に思考する者ならば選択の余地がない。」(中略)
 「そもそも、倫理学に強制力のある根拠が在りうるだろうか。私は、在ると思う。しかも、道徳という概念の意味論から導き出される条件、つまり、ある原則に付与された「道徳的」原則という標識と概念分析的に結び付いている、メタ倫理学的規範の総体から導き出される条件、たとえば、論理的普遍性という条件および普遍的妥当性の主張を考慮したうえで、〔倫理学には強制力のある根拠が〕在ると思うのである。必要な論理的普遍性を示していないか、あるいは、信頼に足る仕方で普遍的妥当性要求を申し立てないような原則を道徳的原則と認めることは全然できない、という強制力をもった議論は可能なのである。」
(ディーター・ビルンバッハー(1946-),アンドレアス・クールマン序文,『生命倫理学:自然と利害関心の間』,第1部 生命倫理学の根本問題,第1章 どのような倫理学が生命倫理学として役に立つのか,4 基礎づけモデル――原則の根拠づけおよび原則の応用,pp.50-51,法政大学出版局(2018),加藤泰史(翻訳),高畑祐人(翻訳),中澤武(監訳),山蔦真之)
(索引:)

ディーター・ビルンバッハー(1946-)
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2020年4月27日月曜日

11.公共政策をめぐる戦いの例。(a)国家による介入は悪なのか、是正や公共財への投資は正義なのか、(b)貧困は自己責任なのか、再分配は正義なのか、(c)依存や福祉は悪なのか、人間の本質なのか、など。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

公共政策をめぐる戦い

【公共政策をめぐる戦いの例。(a)国家による介入は悪なのか、是正や公共財への投資は正義なのか、(b)貧困は自己責任なのか、再分配は正義なのか、(c)依存や福祉は悪なのか、人間の本質なのか、など。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))】

参考: 公共政策では、市場や国家や市民社会の役割のような、重要で基礎的な思想をめぐって論争される。なぜなら、この大きな枠組みが個別の認識と、特別な利害関係を考慮した現実的政策に影響を与えるからである。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))


(1)市場と国家の役割
 (a1)国家による介入は悪である
  国家が、市場の働きを妨げる。国家は、市場に介入すべきではない。あらゆる価値の源泉は諸個人であり、個人が私的にお金を使うことは、政府が託されたお金を使う場合よりも絶対に良い。
 (a2)自由に儲けさせろ
  実のところ、自らの収益源であるレントシーキングが、国家によって禁止されるのは困る。国家が、自らのためにお金を使ってくれるのは、大歓迎である。
 (b)国家による是正、公共財への投資が必要
  自由な市場は、失敗する。経済機会と流動性を拡大するためには、国家による介入が必要である。国家は、インフラや技術や教育などの公共財へ投資することで、諸個人が開花するための環境を準備する。
(2)貧困の原因
 (a)貧困の自己責任論
  貧困は、自ら招いた結果であり、本人の責任である。
 (b)再分配は正義である
  貧困は、生まれ落ちた境遇、教育、偶然的な運・不運に左右されるものであり、国家による介入、再分配の実施が公平な社会をつくり出すのに必要である。
(3)福祉の性質
 (a)依存や福祉は悪である
  福祉は、他人に依存する人間を作り出す。“福祉に頼る怠け者”“福祉の女王”キャンペーン。
 (b)依存や福祉は人間の本質である
  そもそも依存性は、人間の本質の一つである。幼少期、老年期、傷病や障害を負ったとき、社会に依存して生き、開花することは人間の本質の一つである。
(4)法外な報酬の是非
 (a)法外な報酬は貢献による
  最上層の人々が法外な報酬を受けとるのは、社会に対して非常に大きな貢献をしたからである。
 (b.1)法外な報酬は単なる運
  法外な報酬は、社会的貢献や勤勉の結果ではなく、単なる幸運によるものである。
 (b.2)法外な報酬は悪行の結果
  むしろ、市場を独占して消費者を搾取したり、本来は違法とすべき活動によって貧しい無学の借り手を搾取したりする能力から生じたものである。
(5)格差の是非
 (a)トリクルダウン経済
  全ての人々が平等に貧しいよりも、大きな不平等が存在したとしても社会全体が豊かになれば、結果として全員が豊かになれる。大きな不平等は悪いものではない。
 (b)不平等が生産性を低下させ、民主主義を蝕む
  大きな不平等は、社会を不安定なものにし、生産性を低下させ、民主主義を蝕む。

 「もし底辺の人々の問題がみずから招いた結果であるのなら、そして、(1980年代や1990年代の“福祉に頼る怠け者”キャンペーンや“福祉の女王”キャンペーンが示唆していたように)生活保護を受けている人々がほんとうに他人に寄りかかって贅沢な生活をしてきたのなら、そういう人々を援助しなくても良心の呵責はほとんど感じない。

もし最上層の人々が社会に非常に大きな貢献をしたという理由で高給を受け取るのなら、そういう人々の報酬は、特にその貢献がたんなる幸運によるものではなく勤勉の成果であったとすれば、正当化されるように思われる。

ほかにも、不平等を減らすと大きなツケがまわってくるだろうとほのめかす考えかたもある。

さらに、大きな不平等はそれほど悪いものではない、なぜならそういう大きな不平等のない世界で生きるよりも全員が豊かに暮らせるのだから、とほのめかす考えかたもある(トリクルダウン経済)。

 しかし、この戦いの反対陣営は、対照的な信念を持つ。

平等の価値を心から信じ、これまでの章で示してきたように、現在のアメリカにおける大きな不平等が社会をさらに不安定なものにし、生産性を低下させ、民主主義をむしばんでいると分析する。

さらに、その不平等の大半は社会的貢献とは無関係に生じており、むしろ市場の力を使いこなす能力――市場を独占することで消費者を搾取したり、本来は違法とすべき活動によって貧しい無学の借り手を搾取したりする能力――から生じていると分析する。

 知的な戦いは、キャピタルゲインに対する税金を引き上げるべきかどうかなどの、特定の政策をめぐって繰り広げられることが多い。

しかし、そういう論争の背後で、認識をめぐって、そして市場や国家や市民社会の役割のような重要な思想をめぐって、前述のような重要な戦いが繰り広げられているのだ。

これはたんなる哲学的議論ではなく、そういうさまざまな機構の有用性についての認識を形成しようとする戦いなのだ。

 すばらしい収益源であるレントシーキングを国家に禁止されることを望まない人々や、国家が再分配を実施したり、経済機会と流動性を拡大しようとすることを望まない人々は、国家の失敗を全面に打ち出す(意外にも、自分たちが政権を担当していて、問題に気づいていたら正すことができたし、また正すべきであるような場合でも、同じことをする)。

国家が市場の働きを妨げていると力説するのだ。政府の失敗を誇張すると同時に、市場の長所を誇張する。

わたしたちから見て最も重要なのは、そういう人々がやっきになって、以下のような認識を社会全体のものの見かたに組み込もうとする点だろう。それは、個人が私的にお金を使うことは(おそらくギャンブルに使う場合でも)、政府が託されたお金を使う場合よりも絶対にいいという認識だ。

そして、市場の失敗――たとえば企業が環境をひどく汚染してしまう傾向――を政府が正そうとすることは、益よりも害をもたらすという認識だ。

 この重要な戦いは、アメリカにおける不平等の進展を理解するのに欠かせない。過去30年にわたって保守派がこの戦いで勝利を収めてきたことが、政府のありようを決めてしまった。

わたしたちは自由論者が提唱するミニマリスト国家(小さな政府)を築き上げたわけではない。わたしたちが築き上げたのは、活気あふれる経済を生み出すであろう公共財――インフラや技術や教育への投資――を提供できないほど抑制され、公平な社会をつくり出すのに必要な再分配を実施できないほど弱い国家なのだ。

しかし、それでも今の国家は、富裕層にさまざまな恩恵をたっぷり与えることができるほどには大きくて、ゆがんでいる。小さな国家を信奉する金融業界の人々は、2008年に政府が自分たちを救い出すだけの資金を持っていたことを喜んだ。そして、実は、救済措置は何世紀も前から資本主義に組み込まれていたのだ。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第6章 大衆の認識はどのように操作されるか,pp.232-235,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
(索引:)

世界の99%を貧困にする経済


(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。
 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。」(中略)「多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。
 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。」(中略)「こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。
 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。
 つまり、労働法コーポレートガバナンス金融規制貿易協定体系化された差別金融政策課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

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