2018年12月4日火曜日

(a)既に意義の明らかな構成要素から、複合的表現すなわち新たな意義を構成する「構成的定義」、(b)既に用いられている単純記号の意義を分析し、既に意義の明らかな構成要素から再構成する「分析的定義」(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

構成的定義と分析的定義

【(a)既に意義の明らかな構成要素から、複合的表現すなわち新たな意義を構成する「構成的定義」、(b)既に用いられている単純記号の意義を分析し、既に意義の明らかな構成要素から再構成する「分析的定義」(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(a)構成的定義
 (a.1)既に意義の明らかな構成要素から、複合的表現すなわち新たな意義を構成する。
 (a.2)構成された複合的表現に、全く新しい単純記号を導入する。
(b)分析的定義
 (b.1)既に用いられている単純記号Aの意義を、論理的に分析する。
 (b.2)分析された意義を、既に意義の明らかな構成要素から再構成し、これを単純記号Bとして定義する。
 (b.3)問題は、単純記号AとBの意義が同じかどうかである。

 「従ってわれわれは、全く異なる二つの場合を区別しなければならない。
一.われわれは意義をその構成要素から構成し、この意義を表現するために全く新しい単純記号を導入する場合。これを「構成的定義」と呼ぶことができる。しかしわれわれは、むしろ端的に「定義」と呼びたい。
二.もうとっくに一つの単純記号が使われてきている場合。この場合、われわれはそれの意義を論理的に分析できると思うし、そしてその意義と同じ意義を表現しているとわれわれが考える、一つの複合表現が得られると思う。複合表現の構成要素として認めるのは、それ自身是認された意義を有するものだけである。この複合表現の意義は、その構成の仕方に従って結果しなければならない。その意義がとうに慣用となっている単純記号の意義と一致するということは、任意に取り決められたことではなくて、直接な理解によってしか認識されない。ここでも確かに定義について語られている。第一の場合と区別して、これを「分析的定義」と呼ぶことができよう。しかしより良いのは、「定義」という語を全く避けることである。なぜなら、ここで定義と呼びたいところのものは、本来は公理と解されるべきものであるからである。この第二の場合においては、任意の取り決めに対するいかなる余地も残ってはいない。なぜなら単純記号はすでに意義を有しているからである。」(中略)
 「さて、論理的分析が正しいかどうかに疑問の余地があるとき、この分析の際われわれが陥る窮状について考察するということが、まだ残されている。
 Aをとうに慣用となった単純記号(表現)とし、その意義をわれわれが論理的に分析しようと試みたと仮定しよう。そして、この分析を描写するものとして一つの複合表現を構成することによって、その論理的分析を行うとしよう。分析が成功しているのかどうか確かではないのだから、われわれはその複合表現をかの単純記号Aによって代理されるものと称することは、敢えてしない。もしわれわれが本来の定義を打ち立てようと欲するのであれば、すでに意義を有している記号Aを選んではならず、むしろ全く新しい記号、例えばB、を選ばねばならない。その記号に、いま定義によって初めて、かの複合表現の意義が与えられる。さて問題は、AとBとが同じ意義を有するか、ということである。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『数学における論理[一九一四春]』227-228、フレーゲ著作集5、pp.230-231、田畑博敏)
(索引:構成的定義,分析的定義)

フレーゲ著作集〈5〉数学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年12月3日月曜日

公理系の無矛盾性とは異なる、ある「対象」の「存在」の概念が有意味と思われ、その存在は、構成的な定義により示されると思われる。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

対象の存在ということ

【公理系の無矛盾性とは異なる、ある「対象」の「存在」の概念が有意味と思われ、その存在は、構成的な定義により示されると思われる。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(1')(2.3')追加記載

(1)公理系が無矛盾なら、それは「真」であり、定義されたものは「存在」すると言い得る、(2)概念は、概念の諸関係によってのみ論理的に定義され得る。(3)公理系は、論理構造が同じ無数の体系に適用可能である。(ダフィット・ヒルベルト(1862-1943))
(1)任意に措定された公理から、いかなる矛盾も帰結しないならば、公理は「真」である。
 (1.1)公理が「真」であることから、「矛盾しない」ということが証明されるわけではない。
 (1.2)このとき、公理によって定義されたものは「存在」すると言ってよい。
(2)公理の構成全体が、完全な定義を与える。
 (2.1)概念は、他の概念に対するその関係によってのみ論理的に確定し得る。この関係を、定式化したものが公理である。このようにして、公理は概念を定義している。
 (2.2)従って、ある公理系に別の公理を追加すれば、追加前の公理を構成していた概念も変化することになる。
 (2.3)公理の構成要素の個別に、構成的に定義する必要はない。
(3)公理系は、必然的な相互関係を伴った諸概念の骨組とか図式といったものであり、特定の「基本要素」を前提とするものではない。いかなる公理系も、無限に多くの体系に対して適用できる。

(1')公理系に矛盾がないことだけから、その公理系が適用可能な「対象」が「存在」するということが、納得できない。「そして恐らくまた、仮に真だとしても役に立たない」と思われる。
(2.3')公理の諸性質を全部満たすような「対象」を、実際に構成してみることが必要と思われる。そして、構成されたものは、確かに「存在」している。

 「命題
『一.Aは叡智的存在である。
 二.Aは遍在する。
 三.Aは全能である』。
がそのすべての帰結を加えても互いに矛盾しないことを知っているとしましょう。このことから我々は、全能で、遍在する、叡智的存在が存在すると推論できるでしょうか? 私には、それは納得が行きません。その原理は大体こうなるでしょう。
 もし命題
 『Aは性質Φを持つ』
 『Aは性質Ψを持つ』
 『Aは性質Χを持つ』
が(Aが何であろうと)一般的に、すべての帰結を加えても互いに矛盾しないとすれば、これらの性質Φ、Ψ、Χを全部持つような対象が存在する。この原理は私には納得が行かず、そして恐らくまた、仮に真だとしても役に立たないでしょう。ここでは、当該の諸性質を全部持つような対象を挙げるという以外に、無矛盾性を証明する手段があるでしょうか? しかし、もしこのような対象が得られるとすれば、最初に無矛盾性[を証明する]という回り道をして、こうした対象が存在することを示す必要はなくなります。
 一般命題が矛盾を含むとすれば、それに包摂される特殊命題はどれもまた矛盾を含みます。したがって、後者の無矛盾性から一般命題の無矛盾性を推論するのは可能ですが、しかし逆は不可能です。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『フレーゲ=ヒルベルト往復書簡』書簡五 一九〇〇年一月六日 75、フレーゲ著作集6、pp.82-83、三平正明)
(索引:公理系,存在する対象,無矛盾性)

フレーゲ著作集〈6〉書簡集・付「日記」


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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(1)公理系が無矛盾なら、それは「真」であり、定義されたものは「存在」すると言い得る、(2)概念は、概念の諸関係によってのみ論理的に定義され得る。(3)公理系は、論理構造が同じ無数の体系に適用可能である。(ダフィット・ヒルベルト(1862-1943))

公理主義

【(1)公理系が無矛盾なら、それは「真」であり、定義されたものは「存在」すると言い得る、(2)概念は、概念の諸関係によってのみ論理的に定義され得る。(3)公理系は、論理構造が同じ無数の体系に適用可能である。(ダフィット・ヒルベルト(1862-1943))】

(1)任意に措定された公理から、いかなる矛盾も帰結しないならば、公理は「真」である。
 (1.1)公理が「真」であることから、「矛盾しない」ということが証明されるわけではない。
 (1.2)このとき、公理によって定義されたものは「存在」すると言ってよい。
(2)公理の構成全体が、完全な定義を与える。
 (2.1)概念は、他の概念に対するその関係によってのみ論理的に確定し得る。この関係を、定式化したものが公理である。このようにして、公理は概念を定義している。
 (2.2)従って、ある公理系に別の公理を追加すれば、追加前の公理を構成していた概念も変化することになる。
 (2.3)公理の構成要素の個別に、構成的に定義する必要はない。
(3)公理系は、必然的な相互関係を伴った諸概念の骨組とか図式といったものであり、特定の「基本要素」を前提とするものではない。いかなる公理系も、無限に多くの体系に対して適用できる。

 「あなたはこう書いておられます。「私が公理と呼ぶのは・・・命題のことです。公理が真であることから、公理は互いに矛盾しないということが帰結します。」他ならぬこの命題を御手紙で拝見するのは、私には大変興味深いことでした。と申しますのも、私はこのような事柄について考え、著述をし、講演するときには、常に正反対のことを言っているからです。つまり、私が言っているのは、もし任意に措定された公理が帰結のすべてを加えても互いに矛盾しないとすれば、こうした公理は真であり、公理によって定義されたものは存在するのだということです。それが私にとって真理と存在の規準なのです。」
(ダフィット・ヒルベルト(1862-1943)『フレーゲ=ヒルベルト往復書簡』書簡四 66、フレーゲ著作集6、p.71、三平正明)
 「3行で点の定義を与えようとするのは、私見によれば不可能なことです。なぜなら、むしろ、公理の構成全体というものが初めて完全な定義を与えるからです。どの公理もやはり定義に対して何がしかの貢献をし、それゆえ新しい公理はどれも概念を変化させます。ユークリッド、非ユークリッド、アルキメデス、非アルキメデス幾何学における「点」は、その都度何か別のものとなります。」
(ダフィット・ヒルベルト(1862-1943)『フレーゲ=ヒルベルト往復書簡』書簡四 66-67、フレーゲ著作集6、p.72、三平正明)
 「あともう一つの意義だけに触れなければなりません。あなたはこう言っておられます。例えば「点」、「間」といった私の概念は、一意的に確定されていない。例えば二〇頁では、「間」は異なった仕方で把握され、そしてそこでは点は数の対である。―――実際そうなのでして、やはり自明なことですが、いかなる理論も必然的な相互関係を伴った諸概念の骨組とか図式でしかなく、そして基本要素は任意の仕方で考えることができます。私の言う点で、何らかの物の体系、例えば愛、法則、煙突掃除夫・・・から成る体系のことを考え、そして次に私の公理全体をこうした物の間の関係として想定さえすれば、私の挙げる命題、例えばピタゴラスの定理はこうした物についても成り立ちます。換言すれば、いかなる理論も常に、基本要素から成る無限に多くの体系に対して適用できます。実際、ただ一対一変換を適用して、こう約定すればよいからです。変換された物に対する公理はそれに対応して同じものでなければならない、と。実際また、こうした事情は度々利用されています。例えば双対原理などで用いられますし、私も独立性証明で用いました。電気理論のすべての言明は、要求した公理が満たされさえすれば、磁気、電気・・・といった概念の代りに置かれる、他のいかなる物の体系についても当然成り立ちます。しかし、言及された事情は決して理論の欠陥ではありえませんし、またいずれにせよ不可避なのです。」
(ダフィット・ヒルベルト(1862-1943)『フレーゲ=ヒルベルト往復書簡』書簡四 67、フレーゲ著作集6、pp.72-73、三平正明)
 「私の見解はこういうことに他なりません。概念というものは、他の概念に対するその関係によってのみ論理的に確定しうる。私は、こうした関係を特定の言明で定式化したものを公理と呼び、こうして公理が(必要なら概念に対する命名を付け加えて)概念の定義だと考えるようになります。私は、この見方を決して退屈しのぎに考え出したわけではなく、論理的推論と理論の論理的構成とにおける厳密性の要求によって、この見方を取らざるをえないということが分かったのです。私は、数学と自然科学においては、一層微妙な事柄はこのようにしてのみ確実に取り扱えるのであり、さもなければただ循環するだけだと確信しております。」
(ダフィット・ヒルベルト(1862-1943)『フレーゲ=ヒルベルト往復書簡』書簡八(葉書) 一九〇〇年九月二二日 79、フレーゲ著作集6、p.89、三平正明)
(索引:公理系,公理主義,公理)

フレーゲ著作集〈6〉書簡集・付「日記」


(出典:wikipedia
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2018年12月2日日曜日

17.理性と論理の「真」の世界が捏造され、真に実在する世界は「仮象」の世界であると誤解された。同じように、生きることに疲れた人間の本能が、「神的世界」を捏造し、「自由の世界」を虚構した。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

「真」の世界、神的世界、自由の世界

【理性と論理の「真」の世界が捏造され、真に実在する世界は「仮象」の世界であると誤解された。同じように、生きることに疲れた人間の本能が、「神的世界」を捏造し、「自由の世界」を虚構した。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(5)追加記載。

(1)真に実在する世界
 真に現実的な世界は、転変、生成、多様、対立、矛盾、戦闘など、この世界の実在性をつくりなす諸固有性を持った、全てのものが連結され、制約し合っているような世界である。
(2)真に実在する世界を認識する諸方法がある。真の科学。
(3)理性、論理、「科学」の世界
 認識の一方法として、雑然たる多様な世界を、扱いやすい単純な図式、記号、定式へと還元する。
(4)理性、論理にかかわる3つの誤り
  (a)認識の一手段に過ぎない理性、論理、「科学」の誤解、(b)「真」の世界の取り違え、(c)「価値」の偽造。これら3つの誤りが、真に実在する世界の真の認識、真の科学、真の価値の源泉への道を遮断した。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

 (4.1)誤り1:「科学」の誤解
  理性、論理、「科学」の世界は、真に実在する世界を認識するための一方法に過ぎないにもかかわらず、この方法のみが世界を認識する手段であると誤解された。
 (4.2)誤り2:「真」の世界の誤解
  その結果、「真」の世界は、認識の手段が要請するような、自己矛盾をおかしえず、転変しえず、生成しえないようなものと考えられ、逆に、真に実在する世界は、「仮象」の世界であると誤解された。
  (4.2.1)しかし、真に現実的な世界の、何らかのものを断罪して無きものと考えれば、正しい認識には到達できない。これによって、真の認識、真の科学への道が遮断された。
  (4.2.2)真に実在する世界を知り、「真」の世界への信仰に反対する人々は、理性と論理をも疑い「科学」を忌避し、これによって、真の認識、真の科学への道が遮断された。
 (4.3)誤り3:「価値のある」ものが、「真」の世界に由来するとの誤解
  (4.3.1)真の認識、真の科学への道から遮断された偽りの世界が、「真」の世界とされる。
  (4.3.2)真に実在する世界は、「仮象の世界」「虚偽の世界」とされる。
  (4.3.3)「真」の世界から、「価値のある」ものが導き出される。
   (4.3.3.1)「科学」を促進してきた3つの錯覚。
     「科学」を促進してきた3つの錯覚:(a)宗教的な理由、(b)認識の絶対的な有用性への信仰、特に、道徳と幸福のための、(c)科学のなかに、公平無私・自己充足的・真実無垢なものを見い出せると信じたこと。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

    (a)科学を通じて、神の善意と知恵とを最もよく理解できると期待したこと。
    (b)認識の絶対的な有用性を信じること、特に、道徳と知識と幸福との深奥での結合を信じたこと。
    (c)科学のなかで何か公平無私なもの・無害なもの・自己充足的なもの・真実無垢なものを、所有したり愛したりできると思ったこと。

(5)「別の世界」の捏造
 以上のとおり、「真」の世界が捏造され、真に実在する世界は「仮象」の世界であると誤解された。捏造された世界は、他にも存在した。
 (5.1)「別の世界」
  (a)「真」の世界:哲学的先入見が捏造した世界。
  (b)「神的世界」:宗教的先入見が捏造した世界。
  (c)「自由の世界」:道徳的先入見が虚構した世界。
 (5.2)「別の世界」は、生きることに疲れた人間の本能が作り上げた世界であり、実際には存在しない。
 (5.3)「仮象」と誤解された世界が真に実在する世界であり、私たちが唯一、現実的に生きているのは、この世界である。
 (5.4)真に生きることの意味、価値の源泉は、真に実在する世界に存在する。

「「別の世界」という表象の発生地は、すなわち、
 哲学者である。哲学者は理性の世界を捏造するが、この世界では《理性》と《論理的》機能がふさわしい、―――ここから「真」の世界が由来する。

 宗教的人間である。宗教的人間は「神的世界」を捏造する、―――ここから「自然性を剥奪された、反自然的」世界が由来する。

 道徳的人間である。道徳的人間は「自由の世界」を虚構する、―――ここから「善き、完全な、正しい、神聖な」世界が由来する。

 これら三つの発生地に《共通なこと》は、《心理学的な》つかみそこない、生理学的な取りちがえである。

 実際に歴史のうちにあらわれるような「別の世界」は、どのような述語でもって印づけられているのか?  哲学的、宗教的、道徳的先入見の傷痕でもって。

 これらの事実から明らかにされるような「別の世界」は、《存在しない》、生きていない、生きようと《欲し》ないことの《同義語》にほかならない・・・

 《総体的洞察》。すなわち、「別の世界」をつくりあげたのは、《生の疲労》の本能であって、生の本能ではない。
 《結論》。すなわち、哲学、宗教、道徳は、《デカダンスの症候》である。」

(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『権力への意志』第三書 新しい価値定立の原理、Ⅰ 認識としての権力への意志、五八六、ニーチェ全集13 権力の意志(下)、pp.131-132、[原佑・1994])
(索引:理性の世界,真の世界,神的世界,自由の世界,別の世界)

ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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13.例えば、部屋の表面を方程式によって解析的に記述し、そしてその面に色の配分を指示するというように記述したならば、フレーゲの記号、意義、意味(対象)の理論は、どのように答えるだろうか。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

ある一つの「部屋」の記述

【例えば、部屋の表面を方程式によって解析的に記述し、そしてその面に色の配分を指示するというように記述したならば、フレーゲの記号、意義、意味(対象)の理論は、どのように答えるだろうか。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】

 「フレーゲとラッセルが対象について語ったとき、彼らは名詞によって言語的に表わされるものを、常に念頭においていた。それゆえ我々は対象について語るとき、それを椅子や机のように語るのである。

対象についての完全な把握は、それゆえ、命題の主語-述語形式と密接に関係しているのである。主語-述語形式の存在しない所では、人はこの意味では対象について語ることは出来ない、ということは明らかである。

さて、私は部屋を全く別様にも記述することが出来る。それは例えば、部屋の表面を方程式によって解析的に記述し、そしてその面に色の配分を指示する、という様にである。

この記述様式においては、もはや個々の「対象」については、即ち椅子、本、机、そしてそれらの空間的配置については、何も語られてはいないのである。それゆえここにおいては、関係は存在しない。そのようなものは一切存在しないのである。」

(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』一九二九年十二月二二日 日曜日(シュリック宅にて)、全集5、p.56、黒崎宏)
(索引:部屋の記述)

ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団/倫理学講話


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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思考の対象となり得るほぼ全てのものは、数え上げることができる。この事実から、実在的なものであれ理念的なものであれ、思考可能な領域と、算術を基礎とした理論の可能な領域には、何らかの関係があると思われる。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

算術の包括的応用可能性

【思考の対象となり得るほぼ全てのものは、数え上げることができる。この事実から、実在的なものであれ理念的なものであれ、思考可能な領域と、算術を基礎とした理論の可能な領域には、何らかの関係があると思われる。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

 「算術の命題はすべて専ら定義のみから純粋論理的に導出可能であり、従ってまた導出されなくてはならない、というものである。この点で算術は幾何学と対比される。どの数学者も疑わないように、幾何学は確かにそれ固有の公理を必要とする。そうした公理の反対は、―――純粋論理的に見るならば―――[元の公理と]同じく可能である、つまり矛盾に陥らないだろう。この見解を擁護するあらゆる理由の中で、私はここではただ一つのみを挙げよう。その理由とは算術理論の包括的な応用可能性に基づくものである。実際思考の対象となり得るほぼすべてのものを数えることができる。例えば実在的なものと同様に理念的なものも、事物と同様に概念も、空間的なものと同様に時間的なものも、物体と同様に出来事も、定理と同様に方法も数えることができる。数それ自体も再び数えることができる。[数え上げには]境界の一定の明確さ、ある論理的な完全さ以外何も本来的には必要とされない。このことから少なくとも次のことを引き出し得る。算術がそれに基づく原理は、次のようなより制限された領域、つまり幾何学の公理が空間的なものの固有性を表現するのと同様に、その固有性を算術が表現するかのような領域に関係してはならない。そうではなく、こうした原理は思考可能なものすべてにまで拡がっていなくてはならない。そして確かにこうした最も普遍的な命題は正当にも論理学に数え入れられるのである。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『算術の形式理論について』94-95、フレーゲ著作集2、p.94、渡辺大地)
(索引:算術の包括的応用可能性)

フレーゲ著作集〈2〉算術の基礎


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年12月1日土曜日

命題集_ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)

ライプニッツの命題集

《目次》
(1)存在論
(2)認識論
 (2.1)生得的な傾向、態勢、習慣、自然的潜在力
 (2.2)意識されない無数の表象
 (2.3)表出される事物と表出する事物
 (2.4)記号
 (2.5)ア・ポステリオリな真なる観念
 (2.6)真なる観念の3種類の定義
 (2.7)命題の種類
  (2.7.1)真なる必然的命題
  (2.7.2)不可能な命題
  (2.7.3)可能な命題
  (2.7.4)真なる偶然的命題
  (2.7.5)偽なる偶然的命題
 (2.8)普遍的学問と百科全書
  (2.8.1)何が問題なのか
  (2.8.2)普遍的学問の必要性
  (2.8.3)普遍的学問の構成
   (2.8.3.1)個々の学問の構成
   (2.8.3.2)諸学問の間の関係
   (2.8.3.3)諸学問の配列方法
(3)モナド論
 (3.1)実体(モナド)
 (3.2)実体(モナド)の身体
 (3.3)実体(モナド)の精神
 (3.4)実体(モナド)の身体と精神の調和
 (3.5)各実体(モナド)の間の調和
 (3.6)各存在者(モナド)相互の関係
(4)自由意志論
 (4.1)熟慮を経ない行為
 (4.2)熟慮に影響を与える、意識されない微小表象としての情念、慣習、傾向性
 (4.3)真なるものに対する知性の関係
 (4.4)善なるものに対する意志の関係
 (4.5)判断した後に続く行為への努力が、意志の本質である。
 (4.6)全宇宙を支配する法則と、自由意志との関係
  (4.6.1)要約
  (4.6.2)詳細
  (4.6.3)無数の可能的世界から如何にして現実世界が決定されるのか
 (4.7)全宇宙における人間の自由意志の役割



(1)存在論

 (1.1) 命題「私は現実存在する」は、直接的真理であり「公理」とも言える。これは「必然的命題」ではない。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))
  (a)「私は現実存在する」という命題は、他のいかなる命題によっても証明されえない命題、すなわち直接的真理であり、究極的な明証性を持っている。
  (b)「公理」をより一般的に、直接的真理もしくは証明できない真理と取れば、「私は現実存在する」という命題は、ひとつの公理であり、私たちの認識の自然的秩序のうちで、最初に知られる陳述のひとつである。
  (c)この命題は「必然的命題」ではない。

 (1.2) 何故、何ものも存在しないのではなく、寧ろあるものが存在するのか。何故他のものでなく、寧ろこのものが存在するのか。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))
 何故、何ものも存在しないのではなく、寧ろあるものが存在するのか、というその理由が自然のうちにはある。これは、理由もなしには何ものも生じないというあの大原理の帰結である。同様に、何故他のものでなく、寧ろこのものが存在するのかの理由もまたなければならない。

(2)認識論

 (2.1)生得的な傾向、態勢、習慣、自然的潜在力
   魂には、生得的な傾向、態勢、習慣、自然的潜在力があり、大理石の中の石理が現実的な彫像になるように、現実態となって現れる。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))
  魂についての、二つの考え方。私は(b)の立場をとる。なぜなら、数学者たちの言う「共通概念」や必然的真理など、何かしら神的で永遠なものの由来が、外的な感覚や経験のみであるとは思われないからである。
  (a)まだ何も書かれていない書字板(tabula rasa)のように、まったく空白で、魂に記される一切のものは感覚と経験のみに由来する。
  (b) 魂は、もともと多くの概念や知識の諸原理を有しており、外界の対象が機会に応じてのみ、それらを呼び起こす。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))
 魂の中の「諸原理」とは何かについての、補足説明である。
 傾向、態勢、習慣、自然的潜在力としてわれわれに生得的なのであって、現実態としてではない。喩えとして、大理石の中に石理(いしめ)を見出し、それが現われるのを妨げているものを削りとり、磨きをかけて仕上げる作業が必要である。こうして、潜在力は、それに対応する何らかの現実態となる。
 感覚に起源をもたない生得的な観念の例。存在、一性、実体、持続、変化、活動、表象、快楽、およびわれわれの知的観念の他の多くの対象。

 (2.2)意識されない無数の表象
   我々の魂の内には、意識表象も反省もされていない無数の表象と、その諸変化が絶えずある。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))
  我々の魂の内には、意識表象も反省もされていない無数の表象と、その諸変化が絶えずある。
  (a)微小、多数、単調なことにより意識されない表象
   個々の印象があまりに微小で、多数であり、あるいはあまりに単調で、個別には十分識別できないが、他のものと結びついたときには、印象の効果を発揮して感覚されることがある。
  (b)慣れによって意識されない表象
   慣れによって、その印象に新鮮な魅力がなくなって、我々の注意力や記憶力を喚起するほど十分強力ではなくなり、感覚されなくなることがある。
  (c)意識されない表象の記憶
   注意力が気づくことなく見過ごしていたある表象が、誰かが直ちにその表象について告げ知らせ、例えば今聞いたばかりの音に注意を向けさせるならば、我々はそれを思い起こし、まもなくそれについてある感覚を持っていたことに気づくことがある。

 (2.3)表出される事物と表出する事物

(a)表出される事物:A ⇒ 表出する事物:B
 ├関係1        ├関係1'
 ├関係2        ├関係2'
 │ ・         │ ・
 │ ・         │ ・
 └関係n        └関係n'
 (a.1)表出する事物Bは、表出される事物Aの内にある諸関係に対応する諸関係を、自分のうちに持つ。
 (a.2)表出する事物Bは、表出の基礎をB自らの本性のうちに持っており、音声や文字から成る表出のように、少なくとも部分的には自由裁量によって基礎づけられている。
 (a.3)表出する事物Bは、表出される事物Aと類似していることは必要ではない。
 (a.4)しかし、関係のある種の類比が維持される。
 (参照: 表出とは、表出される事物の内にある諸関係に対応する諸関係を、自分のうちに持つことである。機械の模型が機械を表出する、代数方程式が図形を表出する等。そして、すべての実体は全宇宙を表出する。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)))
(b)神     ⇒ 世界そのもの
(c)全宇宙   ⇒ 実体
 │        実体1
 ├関係1     ├関係11'
 ├関係2     ├関係12'
 │ ・      │ ・
 │ ・      │ ・
 └関係n     └関係1n'
          実体2
          ├関係21'
          ├関係22'
          │ ・
          │ ・
          └関係2n'
            ・
            ・
            ・
          実体m
          ├関係m1'
          ├関係m2'
          │ ・
          │ ・
          └関係mn'
 (c.1) すべての実体は、一つの全たき世界、神をうつす鏡、全宇宙をうつす鏡であり、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出している。また、実体は互いに表出することで、力を及ぼし合っている。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))
(d)十全な原因 ⇒ 結果の全体
(e)全宇宙   ⇒ 実体(モナド)
 │        身体    ⇒  精神
 ├関係1     ├関係1'     ├関係1"
 ├関係2     ├関係2'     ├関係2"
 │ ・      │ ・      │ ・
 │ ・      │ ・      │ ・
 └関係n     └関係n'     └関係n"
 (e.1) すべて魂の本性は、宇宙を表出するところにある。魂の状態は、「魂の状態と表裏の関係にある肉体の状態」の表出である。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))
 (e.2) 魂は自らの法則に従い、身体もまた自らの法則に従う。それでも両者が一致するのは、あらゆる実体のあいだに存する予定調和のためである。なぜなら、どの実体も同じ一つの宇宙の表現なのであるから。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))
 (e.3)「各々の行為はその人の心を表現している」。
 (参照: 表出の説明。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)))
          精神    ⇒  身体
          ├関係1"     ├関係1'
          ├関係2"     ├関係2'
          │ ・      │ ・
          │ ・      │ ・
          └関係n"     └関係n'
(f)思惟や真理     ⇒ 発言
(g)数         ⇒ 数字
(h)円、その他の図形  ⇒ 代数方程式
(i)立体        ⇒ 平面上の事物の射影図
(j)機械        ⇒ 機械の模型

 (2.4)記号
  (2.4.1)記号の必要性
    新しい記述言語が必要だ。なぜなら、(a)日常言語の曖昧さ、(b)論理の複雑さ、(c)想像力、習慣の影響、(d)詭弁と華麗な装飾。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

  (2.4.2)記号とは
    記号とは、ある事物であって、それによって他の事物の相互関係が表現され、後者よりも容易に扱われるものである。その応用としての、幾何学的記号法について。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))
例。
(a)事物         ⇔ 記号
(b)事物におけるある陳述 ⇔ 演算
(c)機械         ⇔ 設計図
(d)物体         ⇔ 平面図
 例えば、平面図における物体のある像の上で、ある幾何学的演算を行ったとするならば、その演算の結果は平面図におけるある点を与えるであろう。そして、それに対応する点を物体において発見する。
(e)幾何学における応用例。
 (e.1)代数方程式で図形を表現する方法
  計算で得られた結果を、図形に表現することが難しいことが多い。
  図形     ⇔ 代数方程式
 (e.2)幾何学的記号法
  図形の点を表わすのに文字を使用し、点と点の関係で図形の特性を文字で表現することによって、さまざまな図形を記号的に表示することができれば、幾何学を驚くほど前進させることになるだろう。
  図形の点   ⇔ 文字
  点と点の関係 ⇔ 文字と文字の関係
  図形     ⇔ 文字の組合せで、記号的に表示する
(f) 論理的な項を数で表現することにより、推論の代わりに計算によって、証明されるべき命題を発見したり、証明したりすることができる。数の有用さは絶大である。確実で扱い易い。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))


 (2.5)ア・ポステリオリな真なる観念
  事物が現実に存在することを経験によって知るとき、その現実存在するもの、現実存在したものは、確かに可能的なのだから、真なる観念と言ってよい。
  (a)それ自身で把握される項
  (b)それ自身で認識される経験的事実
  (c)経験において発見された項
  (d)経験的事実
 (2.6)真なる観念の3種類の定義
  (a)実在的定義
   当の事物が可能的であることがそこから確知される定義。
   (a.1)ある概念を分析して、可能性の既に知られている他の諸概念に分解する。
   (a.2)分解された諸概念には、非両立的なもの、すなわち矛盾が何も無いこと。
   (a.3)完備でない項
    分析により、さらに分解ができる項。
    (a.3.1)完備でない項の相似、共通な名称
     異なる対象A、Bにおいて、それを定義する項が、定義において等しいとき、AとBは、この定義において「相似」であるという。このとき、AとBは「共通な名称」を持つ。
    (a.3.2)完備でない項が可能であることの証明
     完備でないものが可能といわれるためには、二つの相似な事物の一つが現実に存在し、あるいは現実に存在したものであれば、十分である。
   (a.4)完備な項
    これ以上の分解ができない項。
    (a.4.1)完備な項の相似
      仮に、宇宙の別の場所か別の時に、この地球と全ての人々のコピーが存在したとしても、それは別の個体であり、異なる実体である。二つの完備な項は、決して相似にはならない。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))
     問い:宇宙の別の場所か別の時に、私たちが住んでいるこの地球と見た目には少しも違わない天体があり、そこに住んでいる人間の各々は、それに対応する私たちの各々と見た目には少しも違わないとしよう。この場合、その人格ないし自我については同一なのか、それとも二つなのか。
     答え:それは、別の個体である。実在的に異なる実体である。別の場所か別の時というだけで、別の実体である。一時的に似ているということは、あるかもしれない。しかし、実体として異なる以上、差異は「機が熟せば姿を現わす」はずである。
    (a.4.2)完備な項が可能であることの証明
     経験以外では認識されない。つまり、それが現実に存在すること、あるいは現実に存在したこと。
   (a.5)ア・プリオリな真なる観念
    概念の分析が、これ以上分解できない第一の可能なものへと還元できたとき、この第一の可能なものがア・プリオリな真なる観念である。
  (b)因果的定義
   事物が生産され得る仕方をわれわれが知解できるような定義。
  (c)名目的定義
   ある事物を他の諸事物から識別するためだけの徴を含む定義。この場合、定義されている事物が可能的であることを、他の所で確定しておく必要がある。
  (参照: 実在的定義と名目的定義の違いは? 因果的定義とは? ア・プリオリな真なる観念とは? ア・ポステリオリな真なる観念とは?(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)))
  (参照:完備な項、完備でない項とは? 完備でない項の相似とは?(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)))

 (2.7)命題の種類
 (参照: 必然的命題と偶然的命題の違いは? 可能な命題とは? 真なる偶然的命題、偽なる偶然的命題とは?(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)))
  (2.7.1)真なる必然的命題
   自同命題に還元される命題、あるいはその対立命題が矛盾命題に還元される命題。
  (a) 問題点:偽なることが証明され得ないものはすべて真であるか、真なることが証明され得ないものはすべて偽であるか、両方とも成立しないものについては一体何であるか?(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))
  (2.7.2)不可能な命題
   矛盾命題に還元される命題、あるいはその対立命題が自同命題に還元されるような命題。
  (2.7.3)可能な命題
   それから決して分解において矛盾が生じないであろうことが証明され得る命題。
   (a)分解を継続して、矛盾が生じれば不可能な命題である。もし仮に、分解を継続しても、矛盾が生じないことが証明されれば「可能な命題」である。
  (2.7.4)真なる偶然的命題
   無限に継続される分解を「必要とする」命題。
   (a)経験的事実を表す命題は、可能なだけで真であるとは言えない。
   (b) 経験的事実を表すどの命題も、理性によっては完全には証明され得ない。理性が把握できる経験的事実とは、真なる偶然的命題である。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))
   (c) すべての現実存在命題は、真なる偶然的命題である。現実存在命題の証明は、無限個の個体の完備概念を含み、決して完了した証明には達し得ない。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))
   (d)真なる偶然的命題は、経験によって、この命題が真であることがあり得ないと証明される可能性がつねに存在する。これが「偶然的」の意味である。
  (2.7.5)偽なる偶然的命題
  経験によって、この命題が真であることがあり得ないと証明された真なる偶然的命題。

 (2.8)普遍的学問と百科全書
  (2.8.1)何が問題なのか
   (a)全知識の膨大さに比べ、一人の人間の人生は短く、また精神的にも弱い。
   (b)情報は、無秩序に増大する。
   (c)重要な命題が埋もれ、発見者の名声も忘却される。
   (参照:命題から虚飾をはぎとり、相互依存の順序と主題の順序に従って配列する幾何学者の方法は、無秩序に増大する情報に対処し、また各命題の発見者の名声を忘却から救う。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)))

  (2.8.2)普遍的学問の必要性
   (a)普遍的学問を基礎に、あらゆる有用なものを導き出すために十分な、諸々の「真理」の秩序づけられた集成、すなわち一種の「百科全書」を作成すること。これらは、あらゆる素晴らしい発見や観察が運び込まれうるような公共の宝庫にも等しいものとなるだろう。
   (参照: 理性の諸原理と本源的な諸経験とを含む「普遍的学問」を基礎に集成された、あらゆる有用なものを導き出すための公共の宝庫である「百科全書」が、人類の幸福のために重要である。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)))
   (b)このようにして人間は、人類の幸福のために、共同体に希望を託すことができるようになる。
   (c)人間の手中にあるもの、あるいは、所与のものから、人間の知力によっていつか引き出され得るようになるものは何でも、必要なときに、確実な方法により発見できるようになる。
   (参照:「普遍的学問」とは何か。それは、手中にある所与のものから、必要なときには、人間の知力が引き出し得るものは何でも、確実な方法により発見させるようなものである。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)))
   (d)また、これによって、何世代にもわたる研究と途方もない費用とを費やして期待し得るよりも、多くの成果が、より少ない年月の間に、より小さな苦労と支出で引き出されることになる。

  (2.8.3)普遍的学問の構成
   (2.8.3.1)個々の学問の構成
    (a)理性の諸原理と、本源的な諸経験を含む。
    (b)命題から虚飾をはぎとり、明白で簡潔な方法で表現する。
    (c)命題を、相互依存と主題の順序に従って、幾何学者の方法で配列する。
   (参照:命題から虚飾をはぎとり、それらを、幾何学者が行なうように、明白で簡潔なしかたで表わす。ついで、それらを、相互依存の順序と主題の順序に従って配列する。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)))
   (参照:命題から虚飾をはぎとり、相互依存の順序と主題の順序に従って配列する幾何学者の方法は、無秩序に増大する情報に対処し、また各命題の発見者の名声を忘却から救う。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)))
   (2.8.3.2)諸学問の間の関係
     全体体系において上位の学問や普遍学ないしは発見術をもとにして、当該学問の全体を再生できるような公理や経験則を基礎づけることで、全体系が整合する。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

上位の学問の規則
(普遍学ないしは発見術)
(他の学問)
   ↓
経験上の観察事項や精神の所見からなるごくわずかの命題
・この命題を基礎にすれば、この学問全体を再生することができる命題
・この命題を基礎にすれば、教師なしでも学ぶことができるような命題
   ↓
 当該学問の全命題

   (2.8.3.3)諸学問の配列方法
     諸学問の配列:(1)総合的配列、(2)解析的配列、(3)名辞に従う目録の配列。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))
    あらゆる学問的真理は、次の三つの主要な方法で配列し、またお互いに結びつける必要がある。ただし、個別的な事実や歴史・言語のことは別にしておく。
    (a)各命題を、数学者が行うように、それが論理的に依存する命題の後に配列する。すなわち、証明の順に並べる。
    (b)各命題を、目的を実現するために役立つ手段を探しやすいように配列する。すなわち、人類の目標である善の獲得や、悪の回避のための手段を、解析して階層的に配列する。
    (c)(a)と(b)の間の記述の重複を避けるために、共通的な名辞の配列を用意して、(a)と(b)を互いに参照させる方法がある。この名辞の配列から、探そうとしている目的の(a)と(b)の命題にたどりつくことができる。その際、共通的な名辞の配列には、以下の二つの方法がある。
     (c.1)人々が共有して使用できる、ある範疇に従って、共通的な名辞を配列する。
     (c.2)アルファベット順に、共通的な名辞を配列する。
     なお、これら三つの方法が、次の三つの学問に対応しているのは興味深い。
    (a)総合的配列、理論的なもの、自然学
    (b)解析的配列、実践的なもの、道徳学
    (c)名辞に従う目録の配列、論証的なもの、論理学

(3)モナド論

 (3.1)実体(モナド)
   この宇宙は、その各々が自らの能動的原理により全宇宙を表出する無数の存在者から構成される。各存在者は、その原理を普遍的な原因から受け取っており、この故に全宇宙の秩序、調和、美がもたらされる。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))
  (3.1.1)真の完全なモナド(一般的な至高の原因)は、無数の存在者の集まりである。
  (3.1.2) すべての実体は、一つの全たき世界、神をうつす鏡、全宇宙をうつす鏡であり、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出している。また、実体は互いに表出することで、力を及ぼし合っている。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))
  (3.1.3) 不可分の実体は、人間の精神のみではない。精神以外にも数々の形相が存在し、想念によらない他の数々の表出があり、いろいろな差異、程度が見られるにちがいない。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))
 (3.2)実体(モナド)の身体
 (3.3)実体(モナド)の精神
  (3.3.1)各実体の表出は、以下の二つのものからなる。
   (a)その各々の存在者を真の「一」にさせる能動的原理、非物質的なもの、魂。
   (b)受動的で有機的身体、物質的なもの。
  (3.3.2)それら個々の魂が表出するものはすべて、ただ自己の本性から引き出されるものであり、他の個々の存在者から直接には影響されない。
  (3.3.3) 全宇宙を表出する魂は、その襞が無限に及んでおり、自分の襞を一挙にすっかり開いてみることはできない。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))
 (3.4)実体(モナド)の身体と精神の調和
  (3.4.1) 魂は自らの法則に従い、身体もまた自らの法則に従う。それでも両者が一致するのは、あらゆる実体のあいだに存する予定調和のためである。なぜなら、どの実体も同じ一つの宇宙の表現なのであるから。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))
  (3.4.2) すべて魂の本性は、宇宙を表出するところにある。魂の状態は、「魂の状態と表裏の関係にある肉体の状態」の表出である。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))
  (3.4.3) 運動における決定の根源的完全性と、魂における自由な決定の根源的完全性とが、いかに両立し、なおかつ魂における決定に、身体が依存するのか。この依存は、形而上学的依存である。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))
   (a)自然学的依存は、一方がそれの依存する他方から受けとる直接的影響に存する。たとえば魂は、非意志的活動において、よく考えてみると身体に依存している。
   (b)一方、思考の内には秩序と連結がある。また、善や悪は思考する存在者を強いずに傾かせ、意志による決定は自由である。つまり、選択を伴っている。
   (c)このとき、運動における決定は、そのままで変わらない。
   (d)運動における決定の根源的完全性と、魂における自由な決定の根源的完全性とが、いかに両立し、なおかつ魂における決定に、身体が依存するのか。これは自然学的依存とは異なる。形而上学的依存である。
  (3.4.4) 表象も表象に依存しているものも、機械的な理由によっては説明できない。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

 (3.5)各実体(モナド)の間の調和
  個々の存在者が独立しているにもかかわらず、自然のうちに認められる秩序、調和、美がもたらされるのは、各々の魂が、その本性を、一般的な至高の原因から受け取り、それに依存しているからに他ならない。これが、予定調和である。

 (3.6)各存在者(モナド)相互の関係
   存在者相互の関係には、(a)時空内での表出(b)現前(c)交渉(d)動かしあいがあるが、(e)もっと完全性の高い関係であり、新たな実体を生起させる「実体的紐帯」がある。これが真理の実在性の根拠である。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))
 それら個々の魂が表出するものは全て、ただ自己の本性から引き出されるものであり、他の個々の存在者から直接には影響されない。すなわち、「諸モナドは相互に観念的な依存関係を有している」。
  (a)他の存在者は、時間と空間の秩序のなかで表出される。
  (b)他の存在者は、直接的な現前として表出される。
  (c)他の存在者は、交渉として表出される。
  (d)「モナドが相互に動かしあうときには結び付きがある」。
  (e)以上の相互関係の他に、「もっと完全性の高い関係が考えられる。それは、複数の実体から新たな一つの実体を生起させるものである」。すなわち「実体的紐帯」である。
   (e.1) 実体的紐帯は、(a)~(d)に関係だけから成り立つものではない。
   (e.2) 実体的紐帯は、各存在者の他に「一種の新たな実体性を付け加える」。
   (e.3) 新たな実体性は、各存在者に付け加えられるようなものではない。
   (e.4) 新たな実体も一つのモナドであり、これが「真理の実在性」の根拠である。この実体が魂として、結合される各存在者が身体として措定される。身体である諸存在者は、一つの魂である紐帯的実体の支配の下にあり、「それによって一なる有機的身体すなわち一つの自然の機械が作られる」。「それは神の知性の結果であるだけではなく、神の意志の結果でもある」。

(4)自由意志論

 (4.1)熟慮を経ない行為
  熟慮を経ないで、一方の行動よりも他方へ傾くとき、それは必ずしも意識されているとは限らない微小表象の連鎖と協働の結果である。

 (4.2)熟慮に影響を与える、意識されない微小表象としての情念、慣習、傾向性
  行動の傾向性や慣習、情念は、必ずしも意識されない微小表象に由来し、それは意志決定においても「強いずに傾ける」。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))
 (a)私たちの熟慮において、多くの感応力を与える慣習や情念でさえ、必ずしも意識されているとは限らない微小な刻印の連鎖に由来している。
 (b)自由意志論における「ビュリダンのロバ」の非決定は、これら必ずしも感じとれない微小表象の刻印を忘れている結果である。しかし、これらの刻印は、「強いずに傾ける」のである。
 (c)精神の不完全性からの自由(情念への隷属からの自由)
  (c.1)強烈な情念に囚われているときには、必要とされる熟考をもって意志することができない。すなわち、情念に隷属しており、ある種の内的な強要と強制がある。
  (c.2)情念を超えて、知性による熟考と意志を働かせることができるとき、その程度に応じて情念から自由である。
 (参照:自由のいろいろな意味:(a)精神の不完全性からの自由、(b)必然に対立する精神の自由、(c)権利上の自由、(d)事実上の自由、(e)身体の自由(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)))

 (4.3)真なるものに対する知性の関係
  ある真理についての明晰判明な表象には、その真理の肯定が現実に含まれていて、そのため知性はそれを肯定すべく強いられている。
 (a)ある真理についての明晰判明な表象。

 (4.4)善なるものに対する意志の関係
  ある行為が善であるという判断と、意志の結び付きは、考えられているほど必然的ではない。我々は、何を「意志」の本質と考えるべきであろうか。
  (a)ある行為が「善」であるという表象と判断。
  (b)ある行為をなすという意志決定。
   (b.1)ここにおいて、必然に対立する精神の自由(自由意志)が存在する。
   (b.2)知性が提示する、確実で間違いない最も強い諸理由に対してさえも、意志が偶然的であるのを妨げない。すなわち、知性は絶対的で言わば形而上学的な必然性を意志の働きに与えるわけではない。
   (b.3)知性は「確実で間違いのない仕方であっても、強いずに傾ける」。そして、意志が選択する。
   (参照:自由のいろいろな意味:(a)精神の不完全性からの自由、(b)必然に対立する精神の自由、(c)権利上の自由、(d)事実上の自由、(e)身体の自由(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)))
  (c)判断をした後に続く行為への努力。この努力が頂点に達するまでには時間を要する。
   (c.1)行為への努力にかかわる「自由」
    (i)身体の自由
     身体が拘束されていたり、病気になったりしておらず、意志どおりに動かすことができるという意味での自由。
    (ii)権利上の自由
     政治制度において、為すことが許されているという意味での自由。
    (iii)事実上の自由
     権利上の自由の有無とは別に、意志する事柄を実際に為す力能があるという意味での自由。一般的に言えば、より多くの手段をもつ者が、意志する事柄をより自由に為す。
    (参照:自由のいろいろな意味:(a)精神の不完全性からの自由、(b)必然に対立する精神の自由、(c)権利上の自由、(d)事実上の自由、(e)身体の自由(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)))
  (d)新たな表象や傾向性が間に入ってきて精神の向きを逸らし、時には反対の判断までさせることになる。その結果、努力は保留状態に置かれたり、変質してしまったりする。
  (e)特に、知性により判断された「善」が、心に訴えかけない不明確な思惟のみによってなされているときは、新たな表象、傾向性、心情が、認識している真理に抵抗し、理性的精神と乖離することになる。

 (4.5)判断した後に続く行為への努力が、意志の本質である。
   意志の本質は、判断をした後に続く行為への努力に存する。この努力が頂点に達するまでの間に、新たな表象や傾向性が介入し、当初の判断を変質させ、理性的精神と心情、意志とが乖離する。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

 (4.6)全宇宙を支配する法則と、自由意志との関係
  この宇宙を支配している法則の諸秩序と、人間の自由意志がいかにして共存し得るのかが問題である。
  (4.6.1)要約
   宇宙のある一定の条件が現実化することで、人間の自由意志が発現し、意志は諸条件に傾けられはするが、強いられないような仕方で、ある選択肢を現実化する。これら全ては、全宇宙を支配する原理・法則に従っており、現実化するものは、原理・法則のもとで許されている無数の可能的な世界のうちの一つである。
  (4.6.2)詳細
   モリナ主義は、以下の(a)(b)(c)を主張する。(参照:モリナ主義とは?(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)))その困難と考えられるのは、(d)(e)である。(参照:モリナ主義への反論。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)))私は、(a')と考える。このことによって、(d)(e)の困難は、(d')(e')のように解消される。しかしなお(e'')かも知れない。

  (a)この宇宙を支配している法則に則り、可能的なものとして存在している事象。神の「単純叡智の知」、人間はその一端を理性によりうかがい知る。
  (a')可能的なものとして存在している事象は、条件的なものも含めて、無数のすべての可能的な世界が含まれている。(参照:無数の可能的世界とは?(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)))
  (b)可能的なもののうち、宇宙の展開において現実に生じる現実的事象。神の「直視の知」、人間も現実的事象として知る。
  (c)モリナ主義の「中知」
   この宇宙において、ある一定の条件が現実化すればそこから生起する条件的事象。神にとっては、直視の知と叡智の知との間の「中知」、人間は自由意志の行使により、これを知る。すなわち、ある一定の条件が現実化すると、人間はその状況では「自由」に為し、しかもその自由意志には「誤用」もあり得る。
  (d)人間の自由意志がそこで発現するという、ある一定の条件が現実化するにしても、この条件の成就自体がやはり、この宇宙の法則によって支配されているだけでなく、この条件において人間の自由意志がいかにして発現するかについても、法則に支配されているはずであり、「行為を条件から切り離そうとしても、それはできないことであろう。」
  (d')ある一定の条件が現実化して自由意志が発現するとき、その意志の決定に影響を与える一連の諸原因は、意志をある選択肢に一層強く傾けるが、意志は「決して強いられてその選択肢をとるのではない」。
  (e)モリナ主義者は、条件から切り離された純粋な自由意志、すなわち「人間の良き資質」そのものが、この宇宙の原理・法則でもあり得ると考えたが、これは全宇宙を支配する統一的な法則という点から、満足できるものではない。
  (e')ある一定の条件が現実化して自由意志が発現し、意志がある選択肢を現実化するとき、これら全ては、全宇宙を支配する原理・法則に従っており、無数の可能的な世界のうちの一つが現実化しているのである。すなわち、「神は、その偶然的未来に存在を与えようと決する前に、それを可能的なものの領域において然るべく見ている」。
  (e'')無数の可能的世界そのものは、人間の意志による決定によって変わるか変わらないには、一切関わらない。しかし、人間の意志による決定は、宇宙の展開における現実に生じる現実的事象を変えているので、もし、現実化する可能的世界が一意に決まるような場合には、意志による決定にもかかわらず、すべては決まっていたと言える。
  (f)ある人は、中知は単純叡智の知に包含されるべきだと考えた。

(a)
宇宙を支配している法則
 │││└→可能な世界1
 ││└─→可能な世界2
 │└──→可能な世界3
 │     ・       (b)
 │     ・   ……─→ 現実的世界
 │     ・
 └───→可能な世界n

(a)
宇宙を支配している法則
 │││└→可能な世界1
 ││└─→可能な世界2
 │└──→可能な世界3
 │     ・   (c)
 │     ・─→一定の条件の現実化
 │     ・   └→自由意志の発現─→現実的世界
 └───→可能な世界n

(a)
宇宙を支配している法則───┐
 │││└→可能な世界1   │(d)
 ││└─→可能な世界2   │
 │└──→可能な世界3   │
 │     ・   (c)  ↓
 │     ・─→一定の条件の現実化
 │     ・   └→自由意志の発現─→現実的世界
 └───→可能な世界n

  (4.6.3)無数の可能的世界から如何にして現実世界が決定されるのか
    無数の可能的世界から、いかにして現実的事象が決まってくるか。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))
    全宇宙とその可能的世界を表出し現実存在へ向おうとする無数の存在者を含む全宇宙の、無数の可能的系列から一意の現実的宇宙が決まってくるような、この宇宙を支配する法則が存在する。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

   (a)各存在者は、全宇宙を表出しているが、無数の可能的世界も表出している。
   (b)各存在者の表出は、ただその本性、本質から引き出されており、「本質がそれ自身で現実存在へ向か」おうとする要求、あるいは主張をもっている。
   (c)各存在者は、「同等の権利をもって、本質ないし実在性の量に応じて、あるいはそれらが含んでいる完全性の度に応じて、現実存在へ向かう」。なぜなら、「完全性とは本質の量に他ならないからである」。
   (d)全宇宙とその可能的世界を自らの本質によりそれぞれ表出している無数の存在者を、「精査し、比較し、相互に考量して、完全性もしくは不完全性の程度、強弱、善悪を見積もる」。
   (e)(d)からは現実的事象は、決まらない。さらに、(d)のように無数の存在者を含む宇宙の可能的系列を無数に作り、それぞれを比較する。
   (f)このようにして、(d)においては「個々別々に検討していた可能的なものを、無限の宇宙体系の内に分配し、それぞれを比較する」ことができる。「これらをすべて比較し反省したところからの結果が、すべての可能な体系の中で最善なるものの選択」となり、現実的事象となる。
   (g)それでも、これら全ては「可能なものを超えることがない」。すなわち、この宇宙を支配している法則に基づいている。また、「相互の秩序と本性上の先行性とがあるが、それらは常に一緒に生じているのであり、時間的な先行性はそこにはない」。

全宇宙 ⇒ 実体
 │     実体1
 ├関係1  ├関係11'
 ├関係2  ├関係12'
 │ ・   │ ・
 │ ・   │ ・
 └関係n  ├関係1n'
       ├→可能的世界11────────┐
       ├→可能的世界12───────┐│
       │   ・          ││
       │   ・          ││
       └→可能的世界1n──────┐││
       実体2            │││
       ├関係21'          │││
       ├関係22'          │││
       │ ・           │││
       │ ・           │││
       ├関係2n'          │││
       ├→可能的世界21─────┐│││
       ├→可能的世界22────┐││││
       │   ・       │││││
       │   ・       │││││
       └→可能的世界2n───┐│││││
         ・        ││││││
         ・        ││││││
         ・        ││││││
       実体m         ││││││
       ├関係m1'       ││││││
       ├関係m2'       ││││││
       │ ・        ││││││
       │ ・        ││││││
       ├関係mn'       ││││││
       ├→可能的世界m1──┐││││││
       ├→可能的世界m2─┐│││││││
       │   ・    ││││││││
       │   ・    ││││││││
       └→可能的世界mn┐││││││││
               ↓↓↓↓↓↓↓↓↓
                 現実的世界

 (4.7)全宇宙における人間の自由意志の役割
   人間の自由意志は、人間がなす驚異の原因であり、また同時に、誤りと無秩序の原因でもある。しかしこの無秩序も、この全宇宙の原理とその秩序に従っている。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))
 人間はそれ自身の固有の世界における小さき神のごときものであり、それぞれが自分なりの仕方で支配しているミクロコスモスである。
 (a)人間は、「存在と力と生命と理性」を与えられている。
 (b)人間は、その小さな管轄内でなすがままにさせておかれる。
 (c)「人間に関わるものにおいて見られる無秩序」の理由は、(b)である。
  例えば、ときどき驚異をなし、その技巧はしばしば自然を模倣し、また大きな誤りも犯す。「神はこの小さな神々と(いわば)戯れ、これらを産み出して良かったと思っている。これはちょうど、子供と遊びながら内心でこうさせたいとかこうさせたくないと思っている通りに子供が夢中に取り組んでくれているというようなものである。」
 (d)小さき世界の悪、欠陥、一見歪んでいるものは、より大きな世界から見ると、「大なる世界の美の中に再統合され、無限に完全な宇宙の原理の統一性に何ら背馳することはない。むしろ反対に、悪をより大なる善に役立たせる神の知恵に対して一層大きな賛嘆をもたらすことになる。」

(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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2018年11月27日火曜日

25.個々の場合に第1次的ルールが破られたかどうかを、権威的に決定する司法的権能を、特定の個人に与えるという第2次的ルールが、裁判のルールである。他の公機関による刑罰の適用を命じる排他的権能も含まれる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

裁判のルール

【個々の場合に第1次的ルールが破られたかどうかを、権威的に決定する司法的権能を、特定の個人に与えるという第2次的ルールが、裁判のルールである。他の公機関による刑罰の適用を命じる排他的権能も含まれる。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

 (2.3)ルールの非効率性
  (2.3.1)ルールが侵害されたかどうかの争いはいつも起こり、絶え間なく続く。法の歴史によれば、ルール違反の事実を権威的に決定する公機関の欠如は、最も重大な欠陥であり、他の欠陥より早く矯正される。
  (2.3.2)ルール違反に対する処罰が、影響を受けた関係人達や集団一般に放置されている。
  (2.3.3)違反者を捕え罰する、集団の非組織的な作用に費やされる時間が浪費される。
  (2.3.4)自力救済から起こる、くすぶりつづける復讐の連鎖が続く。
  (2.3.5)補われる第2次的ルール:裁判のルール
   個々の場合に第1次的ルールが破られたかどうかを、権威的に決定する司法的権能を、特定の個人に与えるというルールを、人々が受け入れている。また、違反の事実を確認した場合、他の公機関による刑罰の適用を命じる排他的権能も含む。
   (a)裁判官、裁判所、管轄権、判決といった概念を定めている。
   (b)裁判のルールが存在するときは、裁判所の決定は何がルールであるかについての権威的な決定であるので、承認のルールにもなっている。
   (c)社会的圧力の集中化、すなわち、私人による物理的処罰や暴力による自力救済の行為を部分的に禁じるとともに、刑罰の適用を命じる排他的権能を定める。

 「第1次的ルールの単純な体制に対する第三の補完は、個々の場合に第1次的ルールが破られたかどうかを権威的に決定する権能を個人に与える第2次的ルールからなっているのであって、それは社会的圧力が散漫なため生じるルールの《非効率性》を矯正しようとするものである。

裁判の最小限の形態はそのような決定のなかにあり、われわれはそのような決定をする権能を与える第2次的ルールを「裁判のルール」rules of adjudication と呼ぶことにする。

このようなルールは、誰が裁判できるかを確認する一方、どういう手続に従うべきかを定めるだろう。

他の第2次的ルールと同じように、このルールも第1次的ルールと異なった平面にある。

このルールは裁判官に裁判する義務を課すほかのルールによって強化されるかもしれないが、裁判のルールは義務を課すのではなく司法的権能を与えるのであり、責務の違反についての司法的宣言に特別な地位を与えるのである。

またこのルールはほかの第2次的ルールと同様に一群の重要な法的概念を定めているのであり、この場合には裁判官、裁判所、管轄権、判決といった概念を定めている。

裁判のルールはこのように他の第2次的ルールと類似しているだけでなく、さらに密接な関連をもっている。

事実、裁判のルールがある体系は、必然的にまた原初的で不完全な種類のルールにもかかわっているのである。この理由は、もし裁判所がルールが破られたという事実について権威的な決定をなす権能を与えられているならば、この決定は何がルールであるかについての権威的な決定とみなされざるをえないからである。

したがって、裁判管轄権を与えているルールは、裁判所の決定によって第1次的ルールを確認する承認のルールにもなるだろうし、こういった判決は法の「法源」となるだろう。

裁判管轄権の最小形態と一緒になったこの承認のルールの形態は、たしかに非常に不完全だろう。権威的な原典や法令集と違って、判決は一般的な用語ではあらわされないだろうし、判決をルールへの権威的な指針として用いることは個々の決定からのいくぶん不確実な推論に頼るということであり、そしてその信頼度は解釈者の技術と裁判官の一貫性とに左右されざるをえないのである。

 ほとんどの法体系では司法権能が第1次的ルールの違反の事実についての権威的決定に限られないことは言うまでもない。

たいていの体系は、しばらくして社会的圧力の集中化を進めることが有利であると知り、そこで私人による物理的処罰や暴力による自力救済の行為を部分的に禁じたのである。

その代わりに、それらの体系は違反に対する刑罰を指定するか少なくとも限定しているより進んだ第2次的ルールで責務の第1次的ルールを補っており、そして裁判官が違反の事実を確認した場合、他の公機関による刑罰の適用を命じる排他的権能を裁判官に与えたのである。これらの第2次的ルールが体系の集中化された公的「制裁」sanctions を提供するのである。」

(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第5章 第1次的ルールと第2次的ルールの結合としての法,第3節 法の諸要素,pp.106-107,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),石井幸三(訳))
(索引:裁判のルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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8.9.世界は、人間にとって、人間の二重の態度に応じて二重である。我-汝。あるいは、我-それ、我-彼、我-彼女。人間は、自然、人間、精神的実在と我-汝の関係を成立させることで、真の存在に触れ、向き合い、応答する。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

我と汝、我とそれ、彼、彼女

【世界は、人間にとって、人間の二重の態度に応じて二重である。我-汝。あるいは、我-それ、我-彼、我-彼女。人間は、自然、人間、精神的実在と我-汝の関係を成立させることで、真の存在に触れ、向き合い、応答する。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

(1)世界は、人間にとって、人間の二重の態度に応じて二重である。
 (1.1)我-汝
 (1.2)我-それ、我-彼、我-彼女
(2)それに応じて、人間の我もまた二重である。
  2種類の《我》:(1)相手と自己を《それ》と捉える個我は、自己幻像を拠り所とし、真の存在から遠ざかる。(2)相手に《汝》として出会う人格は、自己がいかなる存在であるかを直視し、共存する存在の真実を知る。(マルティン・ブーバー(1878-1965))
(3)関係の世界がそのなかでうち立てられる領域は、三つある。
 (3.1)自然との交わりにおける生。
  もろもろの被造物は、われわれに向いあって活動している。
  (3.1.1) 一本の樹木が、生身の存在として私と向き合い、相互的で直接的な関係が成立しているような瞬間が存在し得る。これは、私の全てがその樹に捉えられているような状態であり、単なる印象、想像、情緒によるものではない。(マルティン・ブーバー(1878-1965))
  (3.1.2) 猫の眼を見つめているとき、猫との「関係」が実現していると思われる瞬間が存在する。その時、猫の眼は、精神の一触を受けて、生成の不安のなかに閉じこめられている存在の秘密を語っているかのように感じられる。(マルティン・ブーバー(1878-1965))
 (3.2)人間との交わりにおける生。
  ここでは関係は開かれていて、言語という形体を取っている。われわれは汝を与え、また受けとることができる。
 (3.3)精神的実在との交わりにおける生。
  われわれは、汝という呼びかけを聴きとることはないのに、しかもそう呼びかけられているのを感じ、そして、形成し、思考し、行為することによって応答する。
  (3.3.1) 人間は、自らと向かいあうことで、あの《汝》と出会い、生きた言葉の語りかけを聞く。そして、その語りかけに対して、みずからが作品となり、生命をもって答える。これが、恣意によることのない行為である。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

 「世界は人間にとっては、人間の二重の態度に応じて二重である。

 人間の態度は、人間が語り得る根元語(Grundwort)が二つであることに応じて二重である。

 この根元語とは、単一語ではなくて対偶語(Wortpaar)である。

 根元語のうちのひとつは対偶語・《我-汝》(Ich-Du)である。

 もうひとつの根元語は対偶語・《我-それ》(Ich-Es)であり、この場合には、《それ》を《彼》(Er)あるいは《彼女》(Sie)のいずれかで置きかえても、その意味するところには変りない。

 このような根元語が二つあるからには、人間の《我》もまた二重である。
 なぜなら、根元語・《我-汝》における《我》は、根元語・《我-それ》における《我》とはことなっているからである。」


(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)p.5、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))

 「関係の世界がそのなかでうち立てられる領域は、三つある。

 第一は、自然との交わりにおける生。ここでは関係はまだ暗闇のなかに揺れ動いていて、言語の地平以下のところにある。もろもろの被造物はわれわれに向いあって活動しているが、われわれのところに達することはできない。そしてわれわれがかれらに《汝》を言っても、それは言語の敷居のところで止まってしまう。

 第二は、人間との交わりにおける生。ここでは関係は開かれていて、言語という形体を取っている。われわれは《汝》をあたえ、また受けとることができる。

 第三は精神的実在(geistige Wesenheiten)との交わりにおける生。ここでは関係は雲のなかにつつまれていながら、しかし自己を開示しつつあり、無言でありながら、しかし言語を生み出しつつある。われわれはここでは《汝》という呼びかけを聴きとることはないのに、しかもそう呼びかけられているのを感じ、そして、応答するのだ、――形成し、思考し、行為することによって。

すなわち、われわれは口でもって《汝》を言うことはできぬが、われわれの存在そのものでもってあの根元語を語るのである。

 だが、いかにしてわれわれは、言語の外にあるものを根元語の世界のなかへみちびきいれることができるのであろうか?

 これらのいかなる領域にあっても、われわれのまえに現在となって生じてくるあらゆるものをとおして、われわれは永遠の《汝》の辺縁を望み見るのだ。

あらゆるものからわれわれは永遠の《汝》のそよぎを聴きとり、われわれの言うあらゆる《汝》のなかからわれわれは永遠の《汝》に呼びかけるのだ、――いかなる領域にあっても、そのそれぞれにふさわしい仕方でもって。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)pp.10-11、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:我と汝,我とそれ,我と彼,我と彼女)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

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