2019年8月31日土曜日

法や道徳、社会の理論の構築のためには、(a)生存するという目的を仮定する必要がある。この目的は、(b)社会により異なる恣意的、慣習的な諸目的や、(c)人によって異なる特定の諸目的とは、本質的に異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

生存するという目的

【法や道徳、社会の理論の構築のためには、(a)生存するという目的を仮定する必要がある。この目的は、(b)社会により異なる恣意的、慣習的な諸目的や、(c)人によって異なる特定の諸目的とは、本質的に異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(9)追記

 自然を支配している諸法則を考えると、そこには善いものと悪いものを基礎づける何らかの根拠があるようには思えない。このことから、どうあるべきかという言明(価値の言明)は、何が起こっているのかという言明(事実の言明)からは基礎づけられ得ないと考えられた。
 考察するための事例。
 (1)全ての出来事は、自然を支配している諸法則に従っている。
 (2)地球が、自然を支配している諸法則に従って、自転している。
 (3)地球が、自然を支配している諸法則に従って、温暖化している。
 (4)時計が、自然を支配している諸法則に従って、止まっている。
 (5)時計が、自然を支配している諸法則に従って、正確に動いている。
  (a)目的と機能
   時計の目的に従って、時計の諸構造の機能を説明することができる。
  (b)目的は人間が導入した
 (6)どんぐりが、自然を支配している諸法則に従って、腐ってしまう。
 (7)どんぐりが、自然を支配している諸法則に従って、樫の木になる。
   人間は、自然の中に目的を導入し、自然、生命、自らの身体と精神や社会を、目的と機能の言葉で説明する。この目的は、人間が創造できるにもかかわらず、また同時に、何らかの自然の諸法則に基礎を持つ。(ハーバート・ハート(1907-1992))

  (a)目的と機能
   成長して樫の木になることが「目的」だとしたら、この目的のために中間段階が「良い」とか「悪い」と記述することもできるし、どんぐりの諸構造とその変化を、目的のための「機能」として説明することもできる。
  (b)目的は人間が導入した
  (c)目的自体は何らかの自然の諸法則を基礎に持つ
   人間が、説明のために目的を導入したとしても、どんぐりは自ら、自然を支配している諸法則に従って、樫の木になる。目的自体も何らかの自然の諸法則を基礎に持つ。この意味において、目的は、どんぐり自身のなかに含まれていたとも言い得る。
 (8)人間が、自然を支配している諸法則に従って、滅亡する。
 (9)人間が、自然を支配している諸法則に従って、目的を創造し、それを実現する。
  (a)目的と機能
   人間は、自分自身の目的を創造し、それを実現しようとする。健康と病気の区別と、身体の機能および精神の諸機能。善と悪の区別と、社会の機能。
  (b)目的自体は何らかの自然の諸法則を基礎に持つ
   人間は、自ら意識的に目的を創造できるため、なお、目的自体が何らかの自然の諸法則に基礎を持っていることが信じられなかった。すなわち、何が良いか悪いかを決めるのは人間であり、自然を支配している諸法則からは独立しているのだと考えた。しかし、これは誤りである。
  (c)目的
   (c.1)生存すること
    (c.1.1)事実
     たいていの人間は、通常生き続けることを望むという事実がある。しかし、これは単なる偶然的な事実であると反論することができる。
    (c.1.2)仮定としての目的
     人間の法や道徳、すなわち人間が共同していかに生きるべきかを解明するためには、生存することを目的として仮定して理論を構築する。なぜなら、「ここでの問題は生き続けるための社会的取り決めであって、自殺クラブの取り決めではないからである」。
   (c.2)生存以外の諸目的
    生存すること以外の目的、人間にとっての善、人間にとっての特定の良き生き方といったものには、様々な意見があり、意見の深い不一致も存在する。
    (c.2.1)人間が作った、単なる慣習である規則や目的。
     個々の社会に特有のものや、恣意的もしくは単なる選択の問題にすぎないようなものがたくさん見られる。
    (c.2.2)人によって異なる特定の目的。
  (d)目的を実現する手段
   (d.1)危険と安全、危害と利益、病気と治療
    生存という目的を阻害するか、促進するか。生存することが、他の諸目的とは異なる特別な地位にあることは、生存することが、世界や人間相互のことを記述するのに用いる、思考や言語の構造全体に反映されていることから実証できる。
   (d.2)良い、悪い
    生存以外の目的に対しても、目的に役立つかどうかで良い、悪いと語ることができる。
   (d.3)必要と機能
    生存という目的のために「必要」なもの。例えば、食物や休息。目的を実現するための「機能」による説明が可能である。例えば、血液を循環させるのが心臓の機能である。これは、単なる因果的説明とは異なる。

 「さらに、この目的論的な見方の多くは、人間に関するわれわれの考え方ないしは話し方のいくつかに残っている。それは、われわれがある事柄を人間に《必要なもの》と認めて、それを満たすのが《良い》と判断し、また、人間《によって》加えられたり人間がこうむるある事柄を《害悪》であるとか《危害》であると認めるさいに潜在している。たとえば、死にたいという理由から食べたり休息したりするのを拒む人は、たしかにいるかもしれないが、われわれは、食事や休息を、人々が規則的にしたり、あるいは単にたまたま望んだりするよりも、もっとそれ以上のものであると考える。食物や休息は、必要なときにそれを拒む者がいるとしても、やはり人間に必要なものである。こうして、食べて眠ることは、すべての人間にとって自然であると言われるばかりでなく、すべての人間はときどき食べかつ休息すべきであるとか、そうすることは自然にかなった良いことであるとも言われるのである。「自然にかなった」という言葉は、このような人間の行動に関する判断に用いられるのであるが、それは、これらの判断と以下の二つの判断との違いを明示しうる力をもっている。すなわち、思考や反省によって発見されえない内容をもった単なる慣習もしくは人間のつくった規則(「あなたは帽子を脱ぐべきである」)をあらわすにすぎない判断、また、あるときある人が抱き、別の人なら抱かない何か特定の目的を達成するために必要とされるものを単に示すにすぎない判断との違いを明示しうるのである。同じような見方は、身体の器官の《機能》という観念のなかに、また、それと単なる因果的性質とを区別するさいにみられる。われわれは、血液を循環させるのが心臓の機能であるとは言うが、死をひき起こすのがガン腫の機能であるとは言わない。
 これらの粗雑な例は、人間行動に関する普通の考えのなかに、今もなお生きている目的論的な要素を明らかにするために挙げられたのであるが、それは、人間が他の動物と共有する生物学的事実という低い分野から引かれたものである。何がこの種の考え方や表わし方を意味あらしめるかは、まったく自明と言ってよいであろう。すなわちそれは、人間の活動の固有の目的は生き残ることであるという暗黙の前提である。そして、この前提がまた、たいていの人間は通常生き続けることを望むというきわめて偶然的な事実にもとづいている。そうするのが自然になかってよいといわれる行動は、生き残るために必要とされる行動である。人間に必要なもの、害悪、身体の器官あるいは変化の《機能》という観念も同様な単純な事実にもとづいている。もしここで止まるならば、われわれはたしかに、自然法についての非常に薄められた説明しかもたないことになろう。というのは、この見方の古典的な主張者達は、生き残ること(《自己存在の堅持》perseverare in esse suo)を、人間の目的とか人間にとっての善という、それよりずいぶん複雑でまた議論の余地ある概念の中で、もっとも低い次元のものにすぎないと考えたからである。アリストテレスはその概念に、人間知性の公平な要請を含めたし、アクィナスは神に関する知識を含めたが、そのどちらもが将来争われるかもしれないし、またこれまでにも争われてきたような価値を表明している。しかし他の思想家達、なかでもホッブズやヒュームは、すすんでその照準を一段低いところへすえた。つまり彼らは、生存というつつましい目的のなかに、自然法という用語に経験上妥当な意味を与えるところの明白な中心的要素を認めたのである。「人間本性は、個人の結合がなければ決して存在しえない。そしてその結合は、衡平と正義の法に考慮が払われなければ、決して見られなかったであろう。」
 この単純な思想は実際、法と道徳双方の特徴におおいに関係があるのである。しかもこの単純な思想をとり出し、一般的な目的論的見解のより議論の余地ある部分、つまり人間にとっての目的とか善が、ある特定の生き方としてあらわれ、それについて人々の間で事実上深い意見の不一致を招くような部分から、それを分離することが可能なのである。さらに、生存ということに関連して、それは、前もって決められたものであって、人間固有の目標であり目的であるから、人は必ずそれを欲するものであるという考えは、今日の考え方からみると形而上学的にすぎるとして放棄することができる。その代わり、一般に人間が生きたいと思うことは単なる偶然の事実であって、ひょっとするとそうでないかもしれないと考えることができるし、しかも、生存が人間の目標あるいは目的であるという意味は、人間が生存を単に望んでいるという以上に出ないのである。しかし、たとえこのように常識的に考えても、生存ということは、人間行為との関係においても人間行為に関するわれわれの思考においてもやはり特別の地位を占めるのであり、その地位は正当的な自然法理論において生存が重要でしかも必要であるとされていることと相応するのである。というのは、単に大多数の人間がどんな悲惨な目にあっても生きていたいと思うだけでなく、このことが世界や人間相互のことをのべるのに用いる思考や言語の構造全体に反映されているからである。生きたいという一般の人の願望を除外しては、危険と安全、危害と利益、必要と機能、病気と治療というような概念は意味をなさなくなるであろう。というのは、これらの概念は、目的として受けいれられている生存に役立つかどうかによって、ある事柄を同時に記述し、評価する手段であるからである。
 しかし、人間の法と道徳をめぐる議論にもっと直結したという意味では、生存を目的として受けいれることが必要であるという考えにくらべると、はるかに単純で、はるかに哲学的でない考え方が存在する。われわれは、この議論を進めていくさいに、生存を仮定されたものとして取り扱うことにしよう。というのは、ここでの問題は生き続けるための社会的取り決めであって、自殺クラブの取り決めではないからである。われわれは、これらの社会的取り決めのなかに、理性によって発見できる自然法であると位置づけられるようなものがあるかどうか、またそれは、人間の法や道徳とどのような関係をもつのかを知りたいと思う。人間が共同して《いかに》生きるべきかについて、このような、もしくは何かほかの問題を立てるためには、一般的にいって人間の目的は生きることであると仮定しなければならない。この点から出発すれば議論は簡単である。人間本性および人間の住む世界に関するいくつかの非常に明白な一般原則――まさに自明の真理――を熟慮してみると、それらが妥当するかぎり、いかなる社会組織でも、それが存続しようとする以上もたなければならない一定の行為のルールのあることがわかる。このようなルールは、法と慣習的道徳が社会的統制の個別の形態として区別される時点まで進んだあらゆる社会の法と慣習的道徳に、しかも実際には両者に共通の要素となるのである。そのほかに、法と道徳の双方に、個々の社会に特有のものや、恣意的もしくは単なる選択の問題にすぎないようなものがたくさん見られるのである。人間、その自然的環境、目的に関する基本的な真理に基礎をおくこのような普遍的に認められた行為の原則は、自然法の名の下にしばしば提出された、より大げさでより疑わしい理論と比べてみると、自然法の《最小限の内容》と考えられるであろう。次の節において、われわれは、この謙虚だが重要な最小限の内容が拠って立つ人間本性の目立った特徴を、5つの自明の真理といった形で考察しよう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第1節 自然法と法実証主義,pp.208-210,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:生存するという目的)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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政治的な主張においては、具体的な法的・制度的な保障を要求しない、単なる抵抗、蜂起、反乱、革命を求める主張の欺瞞に、注意すること。それは始まらず、始まっても成功せず、成功しても救済策ではない。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

欺瞞的な主張

【政治的な主張においては、具体的な法的・制度的な保障を要求しない、単なる抵抗、蜂起、反乱、革命を求める主張の欺瞞に、注意すること。それは始まらず、始まっても成功せず、成功しても救済策ではない。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(b)追加。

欺瞞的な主張
(a) 政治的な主張においては、結果を伴わない修辞的で一般的な主張の欺瞞に、注意すること。実際に何を得ることができるのか。法的、制度的に何を変更して、何が保障されることになるのかを問うこと。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

(b)政治的な主張においては、具体的な法的・制度的な保障を要求しない、単なる抵抗、蜂起、反乱、革命を求める主張の欺瞞に、注意すること。それは始まらず、始まっても成功せず、成功しても救済策ではない。

 「抵抗が必要であると想定するのは、悪政の存在を想定することであるが、抵抗の保障ということは、人民に抵抗をその弊害に対する救済策だと思わせて、悪政に満足させようともくろまれているに過ぎない。実は、抵抗は決して救済策ではない。その理由には、二つある。第一の理由は、すべての人々は自分の身体と財産を内乱の危険にさらすことを嫌うために、抵抗する以前に非常な悪政に進んで服従することである。しかし、その上、革命は、それが起こった時でさえ、それ自体として何らの利益を生み出しはしない。革命は、善政に対する永久的な保障を樹立するのに貢献する限りにおいてのみ有益なのである。このような効果がないならば、革命のすべての犠牲は、全くの害悪である。それなのに、善政に対する保証に常に懸命に抗議してきた『エディンバラ・レヴュー』は、抵抗の原理を抑圧に対するわれわれの唯一の保障として支持している。それは、なぜであろうか。それは、抵抗の原理が、原理のように思われるその他のすべてのものと同様に、本当は保障にはならないのに、人民の目先のきかない人々の好意を得るようにもくろまれており、しかも貴族階級の臆病な人々以外は驚かせないからである。貴族階級の中で恐怖の余り全く理性を失った人は別として、他の人々はすべて、彼らが恐れる理由のある唯一の抵抗である蜂起の成功が普通の政府の下ではめったに起こらないこと、また、彼らの側にごく普通の慎重さがあるならば大抵の場合起こるのを防ぐことができると知り抜いている。従って、彼らは、人民が効果的ではない救済策に注目を集中して、効果的な救済策から目をそらすことに満足しているのである。
 『エディンバラ・レヴュー』の筆者の政治に関するすべての言辞は、彼らが人民が悪政に対抗する保障を求めることを阻止しようと願っていることを立証している。彼らが或る法律または制度を称賛するのは、それが善政に貢献するからではなく、自由にとって有利だからである。彼らが政府の政策を非難するのは、それが圧政への扉を開くからではなく、それが非立憲的だからである。このような言辞は、すぐあとで明らかにするように、善政の問題をあいまいにしようと欲する人々にとって、極めて便利なのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『「エディンバラ・レビュー」批判』(集録本『ミル初期著作集』第1巻),1 若きベンサム主義者として(1821~26),4 「エディンバラ・レビュー」批判(1824),pp.144-146, 御茶の水書房(1979),杉原四郎(編集),山下重一(編集),山下重一(訳))
(索引:欺瞞的な主張)

J・S・ミル初期著作集〈第1巻〉1809~1829年 (1979年)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年8月30日金曜日

人間は、社会関係の中に組み込まれ他者に依存した状態から、共通善を理解し、めざすべき未来を他者と共有し、社会関係の形成や維持に寄与する自立した実践的推論者へと成長する。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

自立した実践的推論者

【人間は、社会関係の中に組み込まれ他者に依存した状態から、共通善を理解し、めざすべき未来を他者と共有し、社会関係の形成や維持に寄与する自立した実践的推論者へと成長する。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(1)子ども
 (a)ごく幼い子どもは、誕生する前から、自らが作り上げたわけではない一群の社会関係の中に、組み込まれている。
 (b)子どもは、大人に依存している。
(2)子どもが、自立した実践的推論者になるための諸条件
 (a)言語の獲得と、言語を幅広く多様なしかたで用いる能力を獲得する。
 (b)自らの行動の諸理由を比較衡量する能力を獲得する。
 (c)自分が現在抱いている諸々の要求から距離を置く能力を獲得する。
 (d)ただ現在だけを意識している状態から、想像上の未来をも見通している意識状態へと変化する。
(3)自立した実践的推論者
 (a)自らが参加する社会関係の形成や維持に寄与する。
 (b)自立した実践的推論者たちによる共通善を理解する。
 (c)現在および未来の可能な諸相に関して、ある程度共通の理解が存在する。
 (d)共通善の達成を可能にするような、他者との協力関係を形成・維持する技術を学ぶ。

 「ごく幼い子どもは、その誕生の瞬間から、いやそれどころか誕生する前から、みずからが作り上げたわけではない一群の社会関係の中に組み込まれているし、そうした諸関係によって自己のありようを規定されている。そのような子どもがいずれ到達しなければならない状態とは、一人の自立した実践的推論者たるその人間が、他の自立した実践的推論者たちとの間に、また、〔いまはその子どもが彼らに依存しているのだが〕やがては彼らのほうがその人間に依存するようになる人々との間に、諸々の社会関係をとり結んでいる状態である。自立した実践的推論者は、幼児とは異なり、彼らがそこに参加する社会関係の形成や維持に寄与する。そして、自立した実践的推論者になる術を学ぶということは、自立した実践的推論者たちによる共通善の達成を可能にするような、そうした関係を他者と協力して形成・維持する術を学ぶことである。しかるに、そのような他者と協力しあっておこなう活動は、〔その活動にたずさわる人々の間に〕現在および未来の可能な諸相に関して、ある程度共通の理解が存することを前提としている。
 ただ現在だけを意識している状態から想像上の未来をも見通している意識状態へと変化することが、幼児の状態から自立した実践的推論者の状態への移行に見出される第三の側面である。この能力も、みずからの行動の諸理由を比較衡量する能力や、自分が現在抱いている諸々の要求から距離を置く能力と同様に、言語の獲得と言語を幅広く多様なしかたで用いる力の双方をその要件とする能力である。言語を用いない知的な種のメンバーは、この能力をもちえない。ウィトゲンシュタインはこう述べている。「動物(Tier)が怒っていたり、おびえていたり、悲しんでいたり、喜んでいたり、びっくりしている状態というのは想像できる。だが、希望に満ちた状態というのはどうだろう。そして、そのような状態が想像できないのはなぜだろう」。そして、彼は続けてこう指摘している。イヌは自分の主人がいま玄関にいることは信じることはあっても、自分の主人があさって帰ってくると信じることはないだろう、と。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第7章 傷つきやすさ、開花、諸々の善、そして「善」,pp.100-101,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:自立した実践的推論者,社会関係,共通善)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

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依存的な理性的動物叢書・ウニベルシタス法政大学出版局

人間は、自然の中に目的を導入し、自然、生命、自らの身体と精神や社会を、目的と機能の言葉で説明する。この目的は、人間が創造できるにもかかわらず、また同時に、何らかの自然の諸法則に基礎を持つ。 (ハーバート・ハート(1907-1992))

目的論的な自然観

【人間は、自然の中に目的を導入し、自然、生命、自らの身体と精神や社会を、目的と機能の言葉で説明する。この目的は、人間が創造できるにもかかわらず、また同時に、何らかの自然の諸法則に基礎を持つ。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

 自然を支配している諸法則を考えると、そこには善いものと悪いものを基礎づける何らかの根拠があるようには思えない。このことから、どうあるべきかという言明(価値の言明)は、何が起こっているのかという言明(事実の言明)からは基礎づけられ得ないと考えられた。
 考察するための事例。
 (1)全ての出来事は、自然を支配している諸法則に従っている。
 (2)地球が、自然を支配している諸法則に従って、自転している。
 (3)地球が、自然を支配している諸法則に従って、温暖化している。
 (4)時計が、自然を支配している諸法則に従って、止まっている。
 (5)時計が、自然を支配している諸法則に従って、正確に動いている。
  (a)目的と機能
   時計の目的に従って、時計の諸構造の機能を説明することができる。
  (b)目的は人間が導入した
 (6)どんぐりが、自然を支配している諸法則に従って、腐ってしまう。
 (7)どんぐりが、自然を支配している諸法則に従って、樫の木になる。
  (a)目的と機能
   成長して樫の木になることが「目的」だとしたら、この目的のために中間段階が「良い」とか「悪い」と記述することもできるし、どんぐりの諸構造とその変化を、目的のための「機能」として説明することもできる。
  (b)目的は人間が導入した
  (c)目的自体は何らかの自然の諸法則を基礎に持つ
   人間が、説明のために目的を導入したとしても、どんぐりは自ら、自然を支配している諸法則に従って、樫の木になる。目的自体も何らかの自然の諸法則を基礎に持つ。この意味において、目的は、どんぐり自身のなかに含まれていたとも言い得る。
 (8)人間が、自然を支配している諸法則に従って、滅亡する。
 (9)人間が、自然を支配している諸法則に従って、目的を創造し、それを実現する。
  (a)目的と機能
   人間は、自分自身の目的を創造し、それを実現しようとする。健康と病気の区別と、身体の機能および精神の諸機能。善と悪の区別と、社会の機能。
  (b)目的自体は何らかの自然の諸法則を基礎に持つ
   人間は、自ら意識的に目的を創造できるため、なお、目的自体が何らかの自然の諸法則に基礎を持っていることが信じられなかった。すなわち、何が良いか悪いかを決めるのは人間であり、自然を支配している諸法則からは独立しているのだと考えた。しかし、これは誤りである。

 「これが、事物はそれ自身のなかに実現すべき高いレベルを含んでいるという、目的論的な自然観である。いかなる種類の事物でも、それに特定ないしは固有の目的に向かって前進するときの諸段階は、規則的なものであり、したがって、その事物の変化、行動、あるいは発展の特徴的な態様を記述するものとして一般的に定式化されよう。そのかぎりで、目的論的な自然観は、近代的な思想と重なりあう。相違点は、目的論的な観点では、事物に対して規則的に起こる出来事が、《単に》規則的に起こると考えられず、また、出来事が《現に》規則的に《起こる》のかどいうかという問題と、起こる《べき》かどうか、つまり起こるのが《よい》のかどうかという問題とが、別々の問題であるとみなされないところにある。これに反して(「偶然」に帰しうるいくらかのまったく稀な場合を除いて)、一般的に起こるものは、その事物の固有の目的あるいは目標に向かう一歩であることを示すことによって、善あるいは起こるべきものと説明されるとともに評価されうるのである。したがってある事物の発展法則は、その事物がどのように規則的に行動あるいは変化すべきか、また現にするかの双方を示さなければならないということになる。
 自然に関するこの思考様式は、抽象的にのべると奇妙におもわれる。もし少なくとも生物に対していまでもわれわれが言及する仕方のいくつかを想い起こすならば、この思考様式は、それほど風変わりなものではないようにおもわれる。というのは、生物の成長を記述する普通の仕方には、今もなお、目的論的な見方がみられるからである。たとえばどんぐりの場合、成長して樫の木になることは、どんぐりによって単に規則的に達成されることであるだけではなく、どんぐりの腐る場合(これもまた規則的である)と違って、成熟という最適状態であるとも認められる。そしてこの最適状態に照らして、中間段階が良いとか悪いとか説明されるとともに、構造的な変化を伴うどんぐりのさまざまな部分の「働き」も確認されるのである。木の葉について言えば、もし「十分な」あるいは「適切な」発育に必要な水分が得られれば、それは正常に成長すべきものである。そしてこの水分を供給するのが木の葉の「働き」なのである。だからわれわれは、この成長を「当然起こるべき」ことであると考え、またそう言うのである。無生物の作用や運動の場合には、それが人間によってある目的のために作られた加工物である場合を除いて、そのような言い回しはどうみてももっともらしくない。石が地面に落ちるさいに、何か適切な「目的」を実現しているとか、馬屋へ駆けて帰る馬のように、その「しかるべき場所」へ帰っていると考えることは、いまでは少しこっけいである。
 実際、目的論的な自然観を理解する困難の一つは、それが、規則的に起こることの陳述と起こるべきことの陳述との相異を軽視したのとまったく同様に、近代的な思想にとって非常に重要な相異、すなわち、自分自身の目的を《もち》それを実現しようと意識的に努力する人間と他の生物もしくは無生物との相異を軽視することである。というのは、目的論的な世界観においては、人間は他の生物と同様、彼に設定された特有の最適状態あるいは目的へと向かう傾向があると考えられており、人間が他の物とは違って、これを意識的に実現するかもしれないという事実は、人間とその他の自然のものとの根本的な相異ではないと考えられているからである。この人間に特有の目的あるいは善は、部分的には他の生物のそれと同様、生物学的成熟および発達した物理的な力の状態である。しかしそれはまた、人間に特有な要素として思考や行動に表わされる知力や性格の発達と卓越さをも含むのである。他の事物と異なり、人間は、このすぐれた知力と性格を身につけることによってもたらされるものを、推論と反省によって発見できるし、また望むこともできる。しかしそれでも、この目的論的な見方によれば、この最適状態は、人間がそれを望んだから人間の善あるいは目的となるのではない。むしろそれがすでに人間の自然の目的であるから、人間はそれを望むのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第1節 自然法と法実証主義,pp.206-208,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:目的論的な自然観)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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政治的な主張においては、結果を伴わない修辞的で一般的な主張の欺瞞に、注意すること。実際に何を得ることができるのか。法的、制度的に何を変更して、何が保障されることになるのかを問うこと。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

欺瞞的な主張

【政治的な主張においては、結果を伴わない修辞的で一般的な主張の欺瞞に、注意すること。実際に何を得ることができるのか。法的、制度的に何を変更して、何が保障されることになるのかを問うこと。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

 「「すべての権力は、人民に由来する。」「政府は、人民の一般的同意および暗黙の同意に基づく。」等々。国民がこのような人民主権の言葉の上だけの承認によって全く利益を受けないことは明らかである。それは、人民を善政の獲得にいささかでも近付けない。人民は、善政に対する真実で効果的な《保障》をもつことによってのみ善政を獲得する。しかし、このようなあいまいな言辞は、人民には全く役に立たないとはいえ、ウイッグ党の目的には見事に適合している。その目的とは、貴族階級を驚かさないことと両立する限りにおいて、人民のご機嫌とりをすることである。人民の優位を主張する言い廻しのうまい修辞的な文章は、多くの人民の耳に有難く聞こえるように期待されている。多くの人民は、善政の効果的な保障がどのようなものであるかをよく知らないので、単なる雄弁が全く保障にならないことが分からないのである。貴族階級の方はどうかといえば、結果を伴わない一般的な金言を敵方に与えても全く危険を冒すことはない。彼らの権力と収入は、全くもとのままである。貴族階級が恐れる理由のある唯一のこと――悪政に対する効果的な保障の確立――に対しては、『エディンバラ・レヴュー』は、最初から断固として反対である。もしも人民が人民主権に関する甘い言葉にだまされるとすれば、『エディンバラ・レヴュー』には、いくらでも甘い言葉がある。しかし、もしも人民が何か本物のことを要求するならば――人民が誇りとしている主権によって、《何を得ることができるか》と問うならば――『エディンバラ・レヴュー』は、彼らを財産権の廃止と社会秩序の破壊を望む急進主義者、民主主義者と呼ぶのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『「エディンバラ・レヴュー」批判』(集録本『ミル初期著作集』第1巻),1 若きベンサム主義者として(1821~26),4 「エディンバラ・レヴュー」批判(1824),pp.137-138, 御茶の水書房(1979),杉原四郎(編集),山下重一(編集),山下重一(訳))
(索引:欺瞞的な主張)

J・S・ミル初期著作集〈第1巻〉1809~1829年 (1979年)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月27日火曜日

経済的に恵まれている階級に属する人々の信条と伝統的な意見、それに対立する信条、意見の違いを乗り越えた変革を実現させるのは、信条を組織だて合理的に説明しようとする願望と、人間の知性の力である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

啓蒙による変革

【経済的に恵まれている階級に属する人々の信条と伝統的な意見、それに対立する信条、意見の違いを乗り越えた変革を実現させるのは、信条を組織だて合理的に説明しようとする願望と、人間の知性の力である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(4)追加。

(1)伝統的な意見
  単なる信念である伝統的な意見も、人間の自然な要求や必要に関する諸事実を明らかにする。しかし信念は、人間の利己的な利害、諸感情、知性の錯綜物であり、それが真理であるかどうかは別問題である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.1)現在は、単に信じられているだけかもしれないが、最初の創始者たちにとっては、人間が持つある自然な要求や必要に由来する、現実的な何かしらの真理を表現したもののはずである。
 (1.2)信念は、人間の知性と感情との錯綜物であり、ある信念が長く存続したという事実は、少なくともその信念が、人間の精神の何らかの部分に対してある適合性を持っていた証拠である。
(2)伝統的な意見と対立する意見
 (2.1)伝統的な意見は、単なる伝統に従って信じられてきただけであり、真理であるとは限らない。
 (2.2)伝統的な意見は、社会の支配的な階級に属する人たちの、利己的な利害に由来する。
(3)真理は、伝統的な意見とそれに対立する意見の双方にある
   人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、真理の一部をその全体と誤解することである。論争的な問題においては、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.1)それぞれの観点にあまりにも厳格に固執するならば、相手方の真理に目をふさぐことになる。
 (3.2)真理の一部を全体と誤解する誤謬
  人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、虚偽を真理と誤認することであるというよりは、むしろ真理の一部をその全体と誤解することである。
 (3.3)論争における弊害
  社会哲学における論争においては、双方の意見を乗り越えて真理に迫ろうとするよりも、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれる。その結果、ほとんどそのすべての場合において、双方が彼らの否定する点においては誤っているが、彼らの肯定する点においては正当であるというような事態になる。
 (3.4)例として、人類は文明によって、どれほどの利益を得たかという問題
  (3.4.1)経済システムの恩恵と弊害、制約
   (a)物理的な安楽が増大したこと。
   (b.1)人類のきわめて多くの部分が、人為的な必要品の奴隷となり果てていること。
   (b.2)文明国の人民の大多数が、必要物の供給の点で無数の足かせに縛られて悩んでいること。
  (3.4.2)知識の進歩
   (a.1)知識が進歩し普及したこと。
   (a.2)迷信がすたれたこと。
  (3.4.3)文化一般と人間の個性
   (a)礼儀作法が優雅になったこと。
   (b)彼らの性格が、情熱に欠け面白味の無いものとなり、何らの鮮明な個性を持たないものになっていること。
  (3.4.4)交流と独立心
   (a)相互交流が容易になったこと。
   (b)誇り高くして自らを頼む独立心が失われたこと。
  (3.4.5)分業の効果と人間の諸能力
   (a)大衆の協力によって、地球上の至るところに諸々の偉大な事業が成就されたこと。
   (b.1)即座に目的に即応する手段を取りうるか否かによって、己の生存と安全とが刻々に決定されていく原始林の住民の持つ多様な能力に比較して、決まりきった規則に則って、決まりきった仕事を果たすことに生涯を費やすことによって産み出される狭く機械的な理解力。
   (b.2)彼らの生活が、退屈で刺激のない単調なものとなり変わったこと。
  (3.4.6)戦争、個人的闘争と人間の性格
   (a)戦争と個人的闘争とが減少したこと。
   (b.1)個人の精力と勇気とが減退したこと。
   (b.2)彼らが女々しくも苦痛の影をすら避けようとしていること。
  (3.4.7)直接的な圧制から富と社会的地位による支配へ
   (a)強者が弱者の上に及ぼす圧制が、漸次制限されてゆくこと。
   (b)富と社会的地位との甚だしい不平等が、道義的な退廃を醸し出していること。

(4)問題:伝統的な意見と、それに対立する意見の双方を乗り越えて、変革を実現するためには、どうすればよいのだろうか。
 (4.1)経済的に恵まれている階級に属する人々の意見
  大財産の所有者および大財産の所有者と親密な関係にあるすべての階級の大部分は、今の自分の状態を維持するために、伝統的な意見を支持しているものである。
 (4.2)経済的に恵まれている階級の強大な力
  大財産の所有者および大財産の所有者と親密な関係にあるすべての階級の人々は、強大な勢力を持っている。この事実を無視し、彼らを考慮することなく諸問題の解決を図ろうとすることは、愚の骨頂である。
 (4.3)論争や闘争の弊害
  伝統的な意見を否定し、それに対立する意見を、経済的に恵まれている階級の人々に対して主張し、彼らの意見を変えさせることが可能だろうか。
  参照:人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、真理の一部をその全体と誤解することである。論争的な問題においては、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (4.4)啓蒙による変革
  経済的に恵まれている階級に属する人々が、自らの信念である伝統的な意見の一部が誤りであることに気づき、それに対立する意見のうちにある真理の一部を、伝統的な意見の一部として、自ら採用するように導かれるようにする。これ以外の方法に見込みがあるとは思われない。「この進歩を達成するための第一歩は、彼ら自身の現実の信条を組織だて、かつ、それを合理的に説明しようとする願望を、彼らの心に吹き入れることである」。

 「「主よ、われらの敵を啓蒙したまえ」、というのがあらゆる真の〈改革論者〉の祈りでなければならない。彼らの知力を鋭くし、彼らの知覚を鋭敏にし、彼らの推理力に連続性と明晰さとを与えたたまえ。彼らの弱さこそわれわれを不安の念で満たしているのであり、彼らの強さがそうさせているのではない。
 われわれ自身としては、われわれが特殊な意見を持っているからといって、次の事実に気づかないほど盲目となってはいない。すなわち、わが国および他のあらゆるヨーロッパ諸国において、大財産の所有者および大財産の所有者と親密な関係にあるすべての階級の大部分は、主として〈保守的〉であり、また当然そうであることが予期されなくてはならない、という事実がそれである。このように強力な団体が存在しながら、なおもそれが国内において強大な勢力を振るわずにいられるということを想定すること、あるいは、霊的な変革にせよ世俗的なそれにせよ、彼らを問題の外に置いて重要な変革を企てることは、愚の骨頂であるだろう。そのような変革を望む人は、すべからく次のことを自問すべきである。すなわち、われわれは、これらの階級がひとり残らず団結して、自分たちに反対し、かつまたいつまでもそうし続けることに甘んじていられるだろうか、と。また、一つの準備過程がほかならぬこれらの階級の人びとの心中に進行しない限りは、そしてその準備過程も、彼らを〈保守主義者〉から〈自由主義者〉に転向させるという実行不可能な方法によって促されるのではなく、彼らが〈保守主義〉自体の一部として次々と自由主義的な意見を採用するように導かれるという方法によるものでない限りは、われわれはいかなる進歩の実をあげる見込みがあるであろうか、またいかなる方法によって進歩をもたらしえようか、と。この進歩を達成するための第一歩は、彼ら自身の現実の信条を組織だてかつそれを合理的に説明しようとする願望を彼らの心に吹き入れることである。したがって、この第一歩を踏み出そうとする最も微力な試みでさえ、本質的な価値を持つのである。そうだとすれば、コウルリッジの哲学のように、道徳的善と真の洞察との二つながらをきわめて多く包含している試みが、なおさら貴重な価値を持つものであることは、改めて言うまでもないことである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『コウルリッジ』(集録本『ベンサムとコウルリッジ』),pp.216-217,みすず書房(1990),松本啓(訳))
(索引:啓蒙による変革,伝統的な意見,論争や闘争の弊害)

OD>ベンサムとコウルリッジ


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月26日月曜日

人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、真理の一部をその全体と誤解することである。論争的な問題においては、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

真理の一部をその全体と誤解すること

【人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、真理の一部をその全体と誤解することである。論争的な問題においては、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3)追記。

(1)伝統的な意見
  単なる信念である伝統的な意見も、人間の自然な要求や必要に関する諸事実を明らかにする。しかし信念は、人間の利己的な利害、諸感情、知性の錯綜物であり、それが真理であるかどうかは別問題である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.1)現在は、単に信じられているだけかもしれないが、最初の創始者たちにとっては、人間が持つある自然な要求や必要に由来する、現実的な何かしらの真理を表現したもののはずである。
 (1.2)信念は、人間の知性と感情との錯綜物であり、ある信念が長く存続したという事実は、少なくともその信念が、人間の精神の何らかの部分に対してある適合性を持っていた証拠である。
(2)伝統的な意見と対立する意見
 (2.1)伝統的な意見は、単なる伝統に従って信じられてきただけであり、真理であるとは限らない。
 (2.2)伝統的な意見は、社会の支配的な階級に属する人たちの、利己的な利害に由来する。
(3)真理は、伝統的な意見とそれに対立する意見の双方にある
 (3.1)それぞれの観点にあまりにも厳格に固執するならば、相手方の真理に目をふさぐことになる。
 (3.2)真理の一部を全体と誤解する誤謬
  人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、虚偽を真理と誤認することであるというよりは、むしろ真理の一部をその全体と誤解することである。
 (3.3)論争における弊害
  社会哲学における論争においては、双方の意見を乗り越えて真理に迫ろうとするよりも、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれる。その結果、ほとんどそのすべての場合において、双方が彼らの否定する点においては誤っているが、彼らの肯定する点においては正当であるというような事態になる。
 (3.4)例として、人類は文明によって、どれほどの利益を得たかという問題
  (3.4.1)経済システムの恩恵と弊害、制約
   (a)物理的な安楽が増大したこと。
   (b.1)人類のきわめて多くの部分が、人為的な必要品の奴隷となり果てていること。
   (b.2)文明国の人民の大多数が、必要物の供給の点で無数の足かせに縛られて悩んでいること。
  (3.4.2)知識の進歩
   (a.1)知識が進歩し普及したこと。
   (a.2)迷信がすたれたこと。
  (3.4.3)文化一般と人間の個性
   (a)礼儀作法が優雅になったこと。
   (b)彼らの性格が、情熱に欠け面白味の無いものとなり、何らの鮮明な個性を持たないものになっていること。
  (3.4.4)交流と独立心
   (a)相互交流が容易になったこと。
   (b)誇り高くして自らを頼む独立心が失われたこと。
  (3.4.5)分業の効果と人間の諸能力
   (a)大衆の協力によって、地球上の至るところに諸々の偉大な事業が成就されたこと。
   (b.1)即座に目的に即応する手段を取りうるか否かによって、己の生存と安全とが刻々に決定されていく原始林の住民の持つ多様な能力に比較して、決まりきった規則に則って、決まりきった仕事を果たすことに生涯を費やすことによって産み出される狭く機械的な理解力。
   (b.2)彼らの生活が、退屈で刺激のない単調なものとなり変わったこと。
  (3.4.6)戦争、個人的闘争と人間の性格
   (a)戦争と個人的闘争とが減少したこと。
   (b.1)個人の精力と勇気とが減退したこと。
   (b.2)彼らが女々しくも苦痛の影をすら避けようとしていること。
  (3.4.7)直接的な圧制から富と社会的地位による支配へ
   (a)強者が弱者の上に及ぼす圧制が、漸次制限されてゆくこと。
   (b)富と社会的地位との甚だしい不平等が、道義的な退廃を醸し出していること。

 「人間と社会との研究家で、しかもそのように困難な研究にとっての第一要件、すなわちその研究にともなうもろもろの困難についてのしかるべき認識、を備えている人は皆、絶えずつきまとう危険は、虚偽を真理と誤認することであるというよりはむしろ真理の一部をその全体と誤解することである、ということを知っているはずである。社会哲学における、過去または現在の、主な論争は、ほとんどそのすべての場合において、双方が彼らの否定する点においては誤っているが、彼らの肯定する点においては正当であるということ、また、いずれの側にせよ、そもそも己の見解の上に相手の見解を加味することができたならば、その教説を完全なものにするためには、それ以上にほとんど何ものをも要しなかったであろうということ、以上のことは、まず間違いなく主張しうるところであると言ってよいだろう。人類は文明によってどれほどの利益を得たかという問題を例にとってみるがよい。ある観察者は、物理的な安楽が増大したこと、知識が進歩し普及したこと、迷信がすたれたこと、相互交流が容易になったこと、礼儀作法が優雅になったこと、戦争と個人的闘争とが減少したこと、強者が弱者の上に及ぼす圧制が漸次制限されてゆくこと、大衆の協力によって地球上のいたるところにもろもろの偉大な事業が成就されたこと、以上のことによって強烈な印象をうける。こうして彼は、あのきわめてありふれた人物、すなわち「わが開明の時代」の礼賛者となるのである。しかるに、他の観察者は、これらの利益の持っている価値にではなしに、これらの利益を得るために支払われた高価な代償に、もっぱらその注意を向ける。すなわち、個人の精力と勇気とが減退したこと、誇り高くして自らをたのむ独立心が失われたこと、人類のきわめて多くの部分が人為的な必要品の奴隷となり果てていること、彼らが女々しくも苦痛の影をすら避けようとしていること、彼らの生活が退屈で刺激のない単調なものとなり変わったこと、彼らの性格が情熱に欠け面白味のないものとなり、何らの鮮明な個性を持たないものになっていること、決まりきった規則にのっとって決まりきった仕事を果たすことに生涯を費やすことによって産み出される狭く機械的な理解力と、即座に目的に即応する手段を取りうるか否かによって己の生存と安全とが刻々に決定されていく原始林の住民の持つ多様な能力と、この両者の間にいちじるしい対照が感じられること、富と社会的地位とのはなはだしい不平等が道義的な退廃をかもし出していること、文明国の人民の大多数が、必要物の供給の点では野蛮人の場合とほとんど変わらないにもかかわらず、野蛮人が必要物の供給のうえの不便さの代償として持っている自由と刺激との代わりに、無数の足かせに縛られて悩んでいること、などがそれである。こうしたことに、しかももっぱらこうしたことのみに、注目する人は、野蛮生活は文明生活よりも望ましいものであり、文明の作用は、できる限り、抑制されるべきものであると推論しがちになるのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『コウルリッジ』(集録本『ベンサムとコウルリッジ』),pp.138-139,みすず書房(1990),松本啓(訳))
(索引:真理の一部をその全体と誤解すること)

OD>ベンサムとコウルリッジ


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年8月25日日曜日

5.放射性廃棄物が壊変して毒性のない元素になるには、数百万年の時間が必要となる。これは、人間に管理できる時間スケールだろうか?(高木仁三郎(1938-2000))

放射性廃棄物の壊変時間

【放射性廃棄物が壊変して毒性のない元素になるには、数百万年の時間が必要となる。これは、人間に管理できる時間スケールだろうか?(高木仁三郎(1938-2000))】

 「毒性の減衰はゆっくりとしており、セシウムやストロンチウムが壊変しきる一〇〇〇年後以降は、長寿命のプルトニウムやネプツニウムの毒性が残存するため、数百万年後まで目立った変化がない。

 それだけの時間の「絶対的隔離」が放射性廃棄物の処分に必要な条件であるが、人間の行う技術に課せられた条件としてはこれはきわめて厳しい。

主として考えられている処分の方法は、地下の深層への埋設処分だが、埋設された放射能が一〇〇万年以上もの間生物環境に漏れ出てこないことを保障することはできそうにない。

 放射性廃棄物を閉じこめる容器(いわゆる人工バリア)と地下の岩盤(天然バリア)によって隔離を達成しようとするわけだが、容器は数十年以上の耐腐食性が保障されそうにないし、地下の地層も何万年を超えるような安全性を確保できそうにない。

最も大きな問題は、何百万年といわず、仮に何千年という期間を考えても、私たちの現在もっている科学的能力では、その期間に何が起こるか、とても予測ができないことだ。」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第二巻 脱原発へ歩みだすⅡ』共著書の論文 核エネルギーの解放と制禦、p.528)
(索引:放射性廃棄物の壊変時間)

脱原発へ歩みだす〈2〉 (高木仁三郎著作集)

(出典:高木仁三郎の部屋
友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ
 「「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
 未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
 まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
 反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々とともにあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向って進めてくれました。幸いにして私は、ライト・ライブリフッド賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うものとしての受賞でした。
 残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期的症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
 後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
 私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。
 泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
 今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向っての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
 いつまでも皆さんとともに
 高木 仁三郎
 世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』未公刊資料 友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ、pp.672-674)

高木仁三郎(1938-2000、物理学、核化学)
原子力資料情報室(CNIC)
Citizens' Nuclear Information Center
認定NPO法人 高木仁三郎市民科学基金|THE TAKAGI FUND for CITIZEN SCIENCE
高木仁三郎の部屋
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高木仁三郎 略歴・業績Who's Whoarsvi.com立命館大学生存学研究センター
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原子力市民委員会
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裁判官は、制定法の立法趣旨、および判例法の基礎に存在するコモン・ローの原理、すなわち政治的権利を根拠に難解な事案を解決し、法的権利を確定する。法的権利は、政治的権利のある種の函数と言えよう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政治的権利と法的権利

【裁判官は、制定法の立法趣旨、および判例法の基礎に存在するコモン・ローの原理、すなわち政治的権利を根拠に難解な事案を解決し、法的権利を確定する。法的権利は、政治的権利のある種の函数と言えよう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(3)追加。

(1)法準則と先例
 (1.1)法準則
  法準則は、権限を有する特定の機関が制定したことにより妥当性を有する。
 (1.2)先例
  裁判官は、特定の事案を裁定すべくこれらを定式化し、将来の事案に対する先例として確立する。
(2)法準則と先例を支持する諸原理
  そもそも、特定の法準則が「拘束力を有する」こと自体が、諸原理の存在を示している。(a)特定の法準則を肯定的に支持する諸原理、(b)立法権の優位の理論、(c)先例の理論。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
 そもそも、特定の法準則が「拘束力を有する」こと自体が、諸原理の存在を示している。そして、これらの諸原理は、法準則と同等の意味で法として捉えられており、社会で法適用の任務に当たる者を拘束し、法的権利義務に関する彼らの裁定を規制する規準と考えられている。
 (2.1)当該特定の法準則を肯定的に支持する諸原理
  これらの諸原理は、当該法準則の変更を支持するかもしれない他の諸原理よりも、重要であることを意味している。
 (2.2)既に確立された法理論からの離反に対抗する、幾つかの重要な諸原理
  (2.2.1)立法権の優位の理論
   裁判所は、立法府の行為に対しそれ相応の敬意を払うべきであると主張する諸原理
  (2.2.2)先例の理論
   判決の一貫性が、衡平に適い、実効性のあることを主張する諸原理

(3)立法趣旨とコモン・ローの原理
 (3.1)立法趣旨
  ある特定の制定法ないしは制定法上の条項の「意図」ないし「趣旨」
  (a)権利は、制定法により創出される。
  (b)特定の制定法により、如何なる権利が創造されたかが問題となる難解な事案が発生する。
 (3.2)コモン・ローの原理
  判例法上の実定的法準則の「基礎に存し」、あるいはそれへと「埋め込まれた」原理
  (a)「同様の事例は、同様に判決されるべし」とする原理。
  (b)一般的法理が具体的に如何なる判決を要請するかが不明確な難解な事案が発生する。
 (3.3)難解な事案において、立法趣旨、コモン・ローの原理が果たしている機能
  (a)制定法は、法的権利を創出し消滅させる一般的な権能を有する。
  (b)裁判官は、判例法上の実定的法準則に従う義務が一般的に存在する。
  (c)政治的権利は、立法趣旨、コモン・ローの原理として表現される。
  (d)如何なる法的権利が存在するか、如何なる判決が要請されるかが不明確な、難解な事案が発生する。
  (e)裁判官は、立法趣旨およびコモン・ローの原理を拠り所として、自らに認められている自律性を受容し、難解な事案を解決する。
  (f)したがって法的権利は、政治的権利のある種の函数として定義されることになる。

 立法趣旨  コモン・ローの原理……政治的権利
  ↓      ↓          │
 制定法   判例法上の        │
  │    実定的法準則       │
  ↓      ↓          ↓
 個別の権利 個別の判決………………法的権利

(4)諸原理
 (4.1)諸原理は、ハートが言うように「提示されたあるルールが有する特徴で、それが真の法準則であることを確定的かつ肯定的に示すと考えられる一定の特徴ないし諸特徴」を明示できるような、承認のルールを持っているわけではない。また、重要性の等級づけについても、単純な定式化が存在するわけではない。
 (4.2)諸原理は、相互に支えあって連結しており、これら諸原理の内在的意味により、当該原理を擁護しなければならない。
   原理を擁護する諸慣行:(a)原理が関与する法準則、先例、制定法の序文、立法関連文書、(b)制度的責任、法令解釈の技術、各種判例の特定理論等の慣行、(c)(b)が依拠する一般的諸原理、(d)一般市民の道徳的慣行。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
  (4.2.1)原理の制度的な支え
   (a)当該原理を具体的に表現していると思われる制定法
   (b)当該原理が援用されたり論証中に登場しているような過去の事案
   (c)当該原理を引用している制定法の序文
   (d)当該原理を引用している委員会報告、その他の立法関係書類など
  (4.2.2)推移し、発展し、相互に作用しある様々な規準の総体
   (a)制度的責任
   (b)法令解釈の一定の技術
   (c)各種判例の特定の理論と、その説得力
   (d)これらの慣行を支えている、何らかの一般的諸原理
   (e)これらすべての問題と、現在の道徳的慣行との関連性
  (4.2.3)一般市民が適正と感じ、公正と思うような、何らかの役割を演じている道徳的慣行



 「難解な事例における法的論証は、その意味内容に関し複数の解釈が可能な諸概念をめぐって展開されるが、この概念の性質及び機能はゲームの性格を示す概念にきわめて類似している。これらの概念には契約や財産といった法的陳述の構成要素となる幾つかの実体的概念が含まれるが、これには更に我々の当面の論証にとってはるかに関連性をもつ二つの概念が含まれている。第一の概念は、ある特定の制定法ないしは制定法上の条項の「意図」ないし「趣旨」という概念であり、この概念の機能は、権利は制定法により創出されるという一般的見解の政治的正当化と、特定の制定法により如何なる権利が創造されたかが問題となる難解な事案とを架橋する点にある。第二の概念は、判例法上の実定的法準則の「基礎に存し」、あるいはそれへと「埋め込まれた」原理という概念であり、この概念の機能は同様の事例は同様に判決されるべしとする法理の政治的正当化と、この一般的法理が具体的に如何なる判決を要請するかが不明確な難解な事案とを架橋する点にある。これら二つの概念が結合されることにより、法的権利は政治的権利のある種の函数――きわめて特殊な函数ではあるが――として定義されることになる。ある裁判官が法体系において既に確立された慣行を受容すれば――たとえば法体系の明確な構成的及び規制的法準則が彼に認めている自律性を彼が受容すれば――彼は、政治的責任の原則の要請に従い、この種の慣行を正当化する一定の一般的政治理論を受容しなければならない。立法趣旨及びコモン・ロー上の諸原理という概念は、法的権利につき争いのある争点に対し、このような一般的政治理論を適用するための装置なのである。
 さて、ここである哲人裁判官を想定し、然るべき事案において、立法趣旨及びコモン・ローの原理が具体的に何を要請するかにつき彼がいかなる諸理論を展開するかを検討してみるのがよいだろう。このとき、我々は哲人審判員がゲームの性格を理論構成するのと同じやり方で、彼がこれらの理論を展開することに気づくだろう。この目的のために私は超人的な技能、学識、忍耐、洞察力をもつ法律家を想定し、彼をハーキュリーズと呼ぶことにする。更にこのハーキュリーズはアメリカの代表的なある法域(jurisdiction)に属する裁判官であり、彼の法域で明白に効力を有する主要な構成的及び規制的法準則を受容しているとしよう。すなわち彼は、制定法が法的権利を創出し消滅させる一般的な権能を有することを認め、当該裁判所や上位裁判所の先例――法律家が先例の判決理由を呼ぶものが当該事案を拘束するのであるが――に裁判官が従う義務が一般的に存在することを認めているとしよう。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,A 立法,木鐸社(2003),pp.130-131,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:立法趣旨,コモン・ローの原理,政治的権利,法的権利)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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ルールが持つ諸属性:(a)重要性、(b)意図的な変更を受けるか否か、(c)ルールの自明性、自由意志と犯罪要件、(d)社会的圧力の形態、(e)ルールが適用される集団の範囲。(ハーバート・ハート(1907-1992))

ルールの属性

【ルールが持つ諸属性:(a)重要性、(b)意図的な変更を受けるか否か、(c)ルールの自明性、自由意志と犯罪要件、(d)社会的圧力の形態、(e)ルールが適用される集団の範囲。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)一般の行動規則:個人の行動に関する一定のルールや原則
 ルールには、下記のような諸属性がある。
 (a)重要性
  (a.1)要求される個人的利益の犠牲の程度
  (a.2)社会的圧力の大きさの程度
   (i)例えば、違反に対して当然なすべき「正しい」ことを主張し、それを思い出させる。
   (ii)例えば、違反に対して厳しい非難や侮辱、関連団体からの除名を伴う。
  (a.3)基準が遵守されない場合の影響力の程度
 (b)意図的な変更を受けるか否か
  (i)例えば、合意や意図的な選択に由来するものではなく、意図的には変更できない。
  (ii)例えば、合意によって拘束力が生じ、自主的な脱退を許す。
  (iii)法的ルールは、承認、裁判、変更のルールを含む。
 (c)ルールの自明性、自由意志と犯罪要件
  (c.1)自明なルールか、理解を要するルールか
   (i)例えば、判断する能力があれば、誰でも「正しい」行為が分かると見なされるような、社会において広範に容認されている慣習的なルール。
   (ii)例えば、理解していなければ遵守できないような、多くの人々に共有されているわけではない、理想的なルール。
  (c.2)故意または不注意が犯罪とされるか、結果責任か
   (i)自己をコントロールして正しい行為をすることが可能だったにもかかわらず、違反したことによって犯罪とされるようなルール。
   (ii)自己をコントロール可能だったか否かにかかわらず、違反した行為の結果から犯罪だとされるようなルール。
 (d)社会的圧力の形態
  (i)例えば、ルールに対する尊敬、罪の意識、自責の念によって維持されるルール。
  (ii)例えば、刑罰の威嚇によって主として維持されるルール。
 (e)ルールが適用される集団の範囲
  (i)例えば、社会集団一般に適用されるルール。
  (ii)例えば、社会階層のような一定の特質によって区分される、特別な下位集団に適用されるルール。
  (iii)例えば、特定の目的のため結成された集団に適用されるルール。

 「われわれはまず、ある社会で「行なわれている道徳」'the morality'として、あるいは実際の社会集団の「容認された」もしくは「慣習的な」道徳 the 'accepted' or 'conventional' morality としてしばしば言及されている社会現象を考察する。これらの語句が言及しているのは、個々の社会で広範に共有されている行為の基準であって、それらは個人の生活を支配しているがともに住んでいる多くの人々に共有されているわけではない道徳的原則や道徳的理想 the moral principles or moral ideals と対比されるものである。社会集団に共有され容認された道徳の基本的要素は、責務の一般的観念の解明にかかわっていた第5章ですでにのべられた種類の、そしてそこで責務の第1次的ルールと呼ばれた種類のルールから成りたっている。これらのルールが他のルールと区別されるのは、それらを支えている重大な社会的圧力と、それらに従うさいにおこる個人の利益や好みのかなりの犠牲の両者によってである。同じ章で、われわれはまたそのようなルールが社会的コントロールの唯一の手段であるような段階にある社会を描写した。その段階においては、もっと発展した社会でなされるような法的ルールと道徳的ルールの間の明白な区別に対応するものは何もない、ということにわれわれは注目した。このような区別の萌芽的な形態があらわれるのは、たぶん、一方において不服従に対しては刑罰の威嚇によって主として維持されるルールが、他方においてルールに対するもっともらしい尊敬、罪の意識、自責の念へ訴えることによって維持されているルールがある場合であろう。この初期の段階がすぎ去り、法以前の世界から法的世界への歩みがなされたとき、したがって社会的コントロールの手段が、承認、裁判、変更のルールを含むルールの体系をもつようになったとき、法的ルールと他のルールとのこのような対比は固定し、確定したものになる。公的な体系によって確認された責務の第1次的ルールは、このように公的に承認されたルールとともに存在しつづける他のルールとは、今や区別される。実際、われわれ自身の社会、およびこの段階に達したすべての社会において、法体系の外にある多くのタイプの社会的ルールや基準が存在する。そして、ある法理論家達は「道徳」という語を法的ルール以外のすべてのルールを指し示すように用いたこともあるが、これらのうちのいくつかだけが、通常、道徳として考えられ、語られている。
 このような法的ルール以外のルールは、さまざまな方法で区別され分類されるだろう。あるものは、ただ特定の範囲の行動(たとえば服装)とか、意図的につくられるが、ときたましか行なわれない行動(たとえば儀式やゲーム)に関する非常に限られた範囲のルールである。あるルールは社会集団一般に適用されると考えられ、他のルールはそのなかの特別な下位集団に適用されると考えられる。その場合その下位集団は、明白な社会階層のような一定の特質によって、あるいは特定の目的のために会合したり結合したりすることをみずから選ぶことによって区分される。あるルールは合意によって拘束力をもつと考えられ、自主的な脱退を許すだろうが、他のルールは合意や他の形態の意図的な選択に由来するものではないと考えられるだろう。あるルール(たとえばエチケットや正しい話し方のルール)は、違反されたとき、当然なすべき「正しい」ことを主張し、それを思い出させるだけであろうし、他のルールは厳しい非難や侮辱あるいは関連団体からの多少とも長びいた除名を伴うだろう。いかなる正確な尺度をもつくりえないが、これらのさまざまなタイプのルールがもつ相対的な重要性の概念は、それが要求する私的な利益の犠牲の量、および一致への社会的圧力の重さの両方に反映されている。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第8章 正義と道徳,第2節 道徳的および法的責務,pp.185-186,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),川島慶雄(訳))
(索引:ルールの属性,ルールの重要性,ルールの意図的な可変性,ルールの自明性,犯罪要件,社会的圧力の形態,ルールの適用範囲)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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単なる信念である伝統的な意見も、人間の自然な要求や必要に関する諸事実を明らかにする。しかし信念は、人間の利己的な利害、諸感情、知性の錯綜物であり、それが真理であるかどうかは別問題である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

伝統的な意見と、それに対立する意見

【単なる信念である伝統的な意見も、人間の自然な要求や必要に関する諸事実を明らかにする。しかし信念は、人間の利己的な利害、諸感情、知性の錯綜物であり、それが真理であるかどうかは別問題である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)伝統的な意見
 (1.1)現在は、単に信じられているだけかもしれないが、最初の創始者たちにとっては、人間が持つある自然な要求や必要に由来する、現実的な何かしらの真理を表現したもののはずである。
 (1.2)信念は、人間の知性と感情との錯綜物であり、ある信念が長く存続したという事実は、少なくともその信念が、人間の精神の何らかの部分に対してある適合性を持っていた証拠である。
(2)伝統的な意見と対立する意見
 (2.1)伝統的な意見は、単なる伝統に従って信じられてきただけであり、真理であるとは限らない。
 (2.2)伝統的な意見は、社会の支配的な階級に属する人たちの、利己的な利害に由来する。
(3)真理は、伝統的な意見とそれに対立する意見の双方にある
 (3.1)それぞれの観点にあまりにも厳格に固執するならば、相手方の真理に目をふさぐことになる。

 「コウルリッジの場合には、いかなる教説にせよ、それが思慮ある人びとによって信じられてきて、あらゆる国民またはいく世代もの人類によって受け入れられてきたという事実そのものが、解決されるべき問題の一部であり、また説明を要する現象の一つなのであった。そして、万事を貴族、聖職者、法律家、その他何らかの詐欺師たちの利己的な利害のせいにする、ベンサムの短絡的で安易な方法は、人間の知性と感情との錯綜物をはるかに深く見抜いていたひとりの人物を満足されることはできなかったので――彼コウルリッジは、いかなる意見にせよ、それが長くまたは広く流布されていたという事実をもって、それがまんざら謬見とは限らないという推定の一つの根拠とみなしたのである。また、のちに至って単なる伝統に従ってその教説を受け入れている人びとの多数にとってはおそらくそうではないにしても、少なくとも最初の創始者たちにとっては、その教説は、彼らにとってある現実性の感じられるものを、言葉に表現しようとする努力の結果である、と彼は考えたのである。また彼は、こう考えた。すなわち、一つの信念が長く存続したということは、少なくともその信念が人間の精神の何らかの部分に対してある適合性を持っていた根拠である、と。また、かりに、その信念の根元まで掘りさげていった際に、たいていの場合そうであるように、ある真理を見出しえないとしても、なおもわれわれは、当の教説がそれを満足させるに適した人間性の、ある自然な要求または必要を発見しうるのである、と。そしてまた、これらの要求の中には利己と軽信との本能が一つの場所を占めてはいるが、決してそれ以外のものを締め出しているわけではない、と彼は考えたのである。二人の哲学者の観点にはこのような相違があったことから、そしておのおのがあまりにも厳格に自らの観点を固執したことから、ベンサムは伝統的な意見のうちに存する真理を絶えず見落とすであろうし、コウルリッジは伝統的な意見の外にあってこれら伝統的意見と対立している真理を絶えず見落とすであろうということは、当然予期しえた事柄である。しかしまた、おのおのは、相手の見落とした真理の多くを見出すか、またはそれらを見出すための途を示すだろうことも、大いにありうることであった。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『コウルリッジ』(集録本『ベンサムとコウルリッジ』),pp.132-133,みすず書房(1990),松本啓(訳))
(索引:伝統的な意見,信念,真理,伝統的な意見に対立する意見)

OD>ベンサムとコウルリッジ


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月24日土曜日

選ばれた優れた人たちは、普通の人たちの判断や意志の単なる代理人であってはならない。なぜなら、真理は常識に反して見えることもあり、多くの研究と思索を経なければ、理解できないような真理もあるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

選ばれた優れた人たちの判断

【選ばれた優れた人たちは、普通の人たちの判断や意志の単なる代理人であってはならない。なぜなら、真理は常識に反して見えることもあり、多くの研究と思索を経なければ、理解できないような真理もあるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3.1)追記。

(1)普通の人たち(人民、公衆)
 (1.1)特定の任務のための特別な教育を受けていない、圧倒的多数の普通の人たちである。
 (1.2)普通の人たちの判断は、きわめて不完全である。
 (1.3)普通の人たちは、問題それ自体を自ら判断するというよりも、彼らのために問題を解決すべき専門家の性格や才能に基づいて、判断してしまいがちである。
(2)選ばれた優れた人たち
 (2.1)特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちである。
(3)良い統治とは何か。
  良い統治のための必要条件は、特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちの判断を、圧倒的多数の普通の人たちの究極的な支配権の制御の下で、政治的問題の解決に活かすことである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.1)選ばれた優れた人たちによる判断
  (3.1.1)有閑階級の集団であっても、下層の人々の集団であっても、普通の人たちの判断や意志による統治は、良い統治とは言えない。
   (a)例として、普通の人たちが統治に干渉し、予め決められている自分たちの判断を、立法者たちに押しつけ、立法者を普通の人たちの単なる代理人にしてしまう。
  (3.1.2)選ばれた優れた人たちによる、普通の人たちの集団から独立して慎重に形成された判断が、政治的問題の解決のために、必要である。
   (a)政治学における真理のなかには、政治学の全体を一通り研究を終えなければ理解できないような命題も存在する。完全に理解するためには、多くの思索と、人間本性に関する経験を理解していることが必要である。
   (b)真理のなかには、見かけ上は常識に反しているように思われるものがあり、逆に一番もっともらしく見える見解が間違っているということも多い。
  (3.1.3)選ばれた優れた人たちに、普通の人たちに対する責任を負わせて、目的の公正さを最大限に保証できるような統治の仕組みを作ることが、政治学における重大な難問である。
 (3.2)普通の人たちの究極的な支配権
   選ばれた優れた人たちによる統治は、圧倒的多数の普通の人たちの究極的な支配権の下でのみ、公正に機能し得る。なぜなら、いかなる人も、個人的または階級的な利益や感情、価値観の影響下にあるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (3.2.1)選ばれた優れた人たちの行為が、公共の福祉と対立するような利益や感情の影響を受けていることを示す兆候が明らかなときは、彼らを解任する仕組が存在すること。
  (3.2.2)このような究極的な支配権を保持する以外の方法で、選ばれた優れた人たちを制御することはできない。この支配権を放棄したら、選ばれた優れた人たちによる専制を招くことになるだろう。
  (3.2.3)なぜなら、いかなる人も個人的な利益や好み、自分の属している階級の利益や好みを持っており、何が善いことなのか、何が正しいことなのか、何が優れたことなのかに関する考え方にも、偏りが存在するからである。
 (3.3)普通の人たちに求められること
  以上に記載した民主主義の考え方が理解され、その精神に従って仕組みが運用されるかどうかは、普通の人たちの見識と行動にかかっている。仕組そのものに保障があるわけではない。
  (3.3.1)自ら完全に賢明であることは不可能であるし、その必要もない。
  (3.3.2)優れた見識の価値を評価でき、優れた人を選ぶことができる。
   (a)普通の人たちが、科学の問題に関して、科学者が一致して持っている見解に信頼を寄せているように、政治や経済、道徳に関する問題に関しても、優れた見識の価値を評価し、優れた人を選ぶことができるようになるならば、真偽の判断をすることができるであろう。
  (3.3.3)選ばれた優れた人たちの行為を理解し、不明な場合には説明を求めるだけの見識を持つ。
  (3.3.4)選ばれた優れた人たちの行為が、公共の福祉と対立する目的や意図に導かれているときは、彼らを解任する権限を行使できるだけの見識を持つ。


 「他のすべてのことにおけるのと同じように統治においても危険なのは、望むことを何であってもできるような人々が彼らの究極的利益のためになること以上のことをしたいと望むことがあるということである。人民にとって利益となるのは、見つけ出すことのできるうちでもっとも有識で有能な人を自分たちの支配者として選び、そうした後は、彼らが目的としているものが人民の善で《あって》何らかの私的な善でないかぎり、自由な議論とまったく制限のない批判による監視のもとで、人民の善のために彼らが知識と能力を行使するのを認めることである。このようにして運営される民主主義は、これまでのあらゆる統治制度がもっていた良い資質をすべて合わせもつことになるだろう。その目的が善いものであるだけでなく、その手段も時代の英知が認めるような善いものが選ばれるだろう。そして、多数者の全能は代理人を通じて、そして最終的に多数者に対して責任を負っている見識ある少数者の判断にしたがって行使されることになるだろう。
 しかし、民主主義がそれについての間違った考え方に従うのではなく、このような精神によって理解され運営されるための十分な保障を民主主義の仕組みそれ自体が与えるということはありえない。このことは人民自身の良識にかかっている。人民があることを理由として自分たちの支配者を解任することができるならば、別のことを理由としてもそうすることができる。それなしには人民が良い統治への保障をもちえないような究極的な支配権は、人民が望むならば、彼ら自身が統治に干渉し、立法者をあらかじめ決められている多数者の判断を執行する単なる代理人にするための手段とされてしまうかもしれない。人民がこのようなことをするとしたら、彼らは自分たちの利益について思い違いをしていることになる。そして、そのような統治はほとんどの貴族政治よりもよいものだろうが、賢明な人が望むような民主政治ではない。
 民主主義についての正しい理念をこのように歪曲することについて私たちのように深刻には考えない人々もおり、これは開明的な統治を望んでいることが疑いようのない人の中にもみられる。彼らが言うには、多数者がすべての政治的問題を自分たちの法廷に引き出し、自分たち自身の判断にしたがって決定を下すことがよいことであるのは、そうすることで哲学者たちは大衆を啓蒙し、大衆が自分たちのより深遠な見解を理解できるようにしなければならなくなるだろうからである。このようなことを実現することができると考えるかぎりにおいて、人民の統治のこのような帰結に対して私たち以上に重要な価値を認める人は他にいない。そして、人民を教育するために必要なのはそれを望むことだけだとしたら、また、政治的真理を発見することだけが学問や知恵を必要とし、その根拠が見出されたときには、共同体のすべての個人が受けることができ、受けるべきであるような教育を受けた常識をもっているすべての人がその根拠を理解できるとしたら、この議論は抵抗することのできないものになるだろう。しかし、現実はそうではない。政治学における真理の多くは(たとえば経済学におけるように)、複数の命題が結びついたことの結果であり、一通り研究を終えた人でなければその最初の段階でさえ認識することのできないようなものである。完全に理解するためには多くの思索と人間本性に関する経験が必要となるような命題が他にも存在している。哲学者たちはどのようにしてこれらの命題を大衆に納得させるのだろうか。彼らは、常識によって科学を判断させ、無経験によって経験を判断させることができるのだろうか。政治哲学の入り口をくぐったことがあるすべての人が知っているように、その問題の多くに関して、間違った見解が一番もっともらしくみえ、その真理の大部分は、それについて特別に研究した人以外のすべての人にとっては矛盾したものであり、地球が太陽の周りを廻っているという命題と同じように見かけは常識に反しているものであるし、つねにそうであり続けるに違いない。大衆は、自分たちが天文学の問題に関して天文学者が一致してもっている見解に対して無制限の信頼を寄せているが、それと同じような信頼を寄せているような権威者から示されないかぎり、これらの真理をけっして信じようとはしない。現時点で大衆がそのような信頼感を寄せていないということは、哲学者にとって不名誉なことではないし、そのような資格がある人がどこにいるだろうか。しかし、有識階級のなかで意見の全般的一致のようなものを生み出すくらいまで知識の進歩が十分になされればすぐに、そのような信頼は与えられるだろうと強く確信している。現在でさえ、有識階級のなかで意見が一致している論点については、教育のない人々は一般的に彼らの見解を受けいれている。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『論説論考集』,附論,集録本:『功利主義論集』,pp.366-368,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:選ばれた優れた人,人民,公衆,普通の人たち,代理人,真理,常識)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年8月23日金曜日

特定の個人や、特定の社会集団が、特定の状況下において、諸々の善のうち何を選択することが「善」なのか、なぜそうなのかの問題は、諸々の善がなぜ「善」なのかという問題とは、別の問題である。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

善とは何か

【特定の個人や、特定の社会集団が、特定の状況下において、諸々の善のうち何を選択することが「善」なのか、なぜそうなのかの問題は、諸々の善がなぜ「善」なのかという問題とは、別の問題である。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(1)何かが「善」であるとは、どのようなことなのか。
 (1.1)価値ある目的の手段としての善
  (a)目的:何か別の善を為すこと、何か別の善を得ることである。
  (b)目的を達成する手段は「善」である。
  (c)例として、ある種の技能を持つこと、ある種の機会を与えられること、ある時ある場所に身を置くこと。
 (1.2)価値ある社会的役割に内在する善
  (a)社会的役割:社会的に確立された特定の実践があり、その活動に諸々の善が内在しており、それらの善は、もし追求されるとすれば、それら自体が目的として追求されるにふさわしい価値を持つと考えられている。
  (b)ある人が社会的役割を果たしている場合、その活動は「善」である。
  (c)例として、ある漁船の乗組員の一員としての善、ある家族の母親としての善、チェスの選手やサッカー選手としての善。
(2)特定の個人や、特定の社会集団が、特定の状況下において、諸々の善のうちどれを選択し、実践的に顧慮して追求することが「善」なのか。また、なぜそれが「善」なのか。
 (2.1)ある目的のために、ある種の資質や能力を高めることが善である。しかし、そもそも何のために、何をなすことが善なのか。
 (2.2)ある社会的役割を担いつつある活動に従事することは善である。しかし、そもそも何のために、人としていかなる存在であることが善なのか。

 「以上の考察は、何かに善を帰するのに、少なくとも三種類のやりかたがあることを示唆している。
 まず第一に、私たちが何かを一つの手段として《のみ》評価することによって、それに善を帰する場合がある。ある種の技能をもつことや、ある種の機会を与えられることや、ある時ある場所に身を置くことは、それらが、人が何か別の善い者になることを、あるいは何か別の善をなすことを、あるいは何か別の善を得ることを可能にするかぎりにおいて、善である。つまり、こうしたことがらはたんに、それ自体として善であるような何か別のことがらの手段《として》善いことなのである。では次に、第二のタイプの善について考えよう。誰かをある一定の役割を担う者として、あるいは、ある社会的に確立された実践の枠内である一定の役目を果たす者として善いと判断することは、その活動に諸々の善が内在しており、それらの善は、もし追求されるとすれば、それら自体が目的として追求されるにふさわしい価値をもつものとして評価される正真正銘の善であるという場合にかぎり、その行為者を善いと判断する、ということである。そうした〔ある活動に内在する〕善が〔ある特定の行為者の特定の行為によって〕そこに生じているのか否か、また、そうした善はそもそもどのようなものなのかということは、そうした問題に特徴的なこととして一般に、その特定の活動について手ほどきを受けることによってしか学ばれえない。ある特定の実践に内在する諸々の善を達成することに秀でているということは、たとえば、ある漁船の乗組員の一員《として》、ある家族の母親《として》、あるいはチェスの選手やサッカー選手《として》、善いということだ。それは、それ自体として価値ある諸々の善を適切に評価することができ、それらを生みだすことができるということである。しかるに、一人ひとりの個人にとっては次のことが問題となる。すなわちそれは、ある特定の実践に含まれる諸々の善〔を追求すること〕がその人の人生の中である特定の場を占めることは、その人にとって善いことであるのか否か、という問題である。また、個々の社会にとっても次のことが問題となる。すなわちそれは、ある特定の実践に含まれる諸々の善が、その社会における共同の生の営みの中である一定の場を占めることが、その社会にとって善いことであるのか否か、という問題である。それゆえ〔これらの問題に答えるためには〕私たちは〔何かに善を帰することにかかわる〕第三のタイプの判断を行う必要がある。
 ある一組の善、すなわち、〔それ自体として追求されるに値する〕正真正銘の善〔の追求〕が私個人の人生の中である従属的な場を占めることが、私自身と他者たちにとって最善のことである場合もあれば、それらが私個人の人生の中でいかなる場も占めないことがそうである場合もあるだろう。かつてゴーギャンは、絵を描くことの善が《彼の》人生においていかなる場を占めるべきかという問題に直面した。画家《としての》ゴーギャンにとっては、タヒチに行くという選択は最善の選択であったかもしれない。だが、かりにそうであったとしても、その選択がヒト《としての》ゴーギャンにとって、あるいは父親《としての》ゴーギャンにとって最善の選択であったということにはならない。それゆえ私たちは次の二つの問いを区別する必要がある。すなわち、なぜある種の善は善であるのかという問い、つまりそれらがそれら自体として価値あるものとみなされるべき善であるのはなぜかという問いと、特定の状況下にある特定の個人ないしは特定の社会にとって、それらの善をその個人ないしはその社会のメンバーたちによって実践的に顧慮され追求されるべき対象とみなすことが善いことであるのはなぜかという問いを区別する必要がある。そして、ある個人にとって、ないしはあるコミュニティにとって、その生の営みの中でさまざまな善をどのように秩序づけるのが最善かについての私たちの判断こそが、この〔何かに善を帰する〕第三のタイプの判断の実例である。そうした判断において私たちは、一人の個人や個々の集団が、ある役割を担いつつある形態の活動に従事している行為者や行為者集団《として》のみならず、ヒト《として》も、いかなる存在であることが、また、何をなすことが、また、いかなる資質や能力を備えていることが最善であるのかについて、無条件的な判断をくだしている。そして、このような判断こそがヒトの開花についての判断なのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第7章 傷つきやすさ、開花、諸々の善、そして「善」,pp.87-90,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:善,価値ある目的の手段としての善,価値ある社会的役割に内在する善)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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