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2020年6月28日日曜日
マルコ・イアコボーニ(1960-)の命題集
マルコ・イアコボーニ(1960-)の命題集
《目次》
(1)模倣する人に注意を向け、好意を抱き、模倣する傾向
(1.1)自分を模倣する人に注意を向ける傾向、模倣する傾向
(1.2)模倣する人に好意を抱く傾向
(1.3)セラピーにおける模倣の効果
(1.4)言語の進化における模倣の役割
(2)視覚刺激により発生する運動感覚の表象(ミラーニューロン)
(2.1)痛みの共感
(2.2)ミラーニューロンの形成過程(仮説)
(2.2.1)視覚情報に運動感覚が関連づけられる
(2.2.2)視覚情報から運動感覚表象が発生する
(2.2.3)運動感覚から視覚表象が発生する
(2.3)鏡像認識能力(自己認識能力)と模倣傾向の関係
(3)他者の情動表出の視覚刺激により発生する内臓運動の表象
(3.1)感情の共感
(4)問題:生得的な傾向性は、人間をどこに導くのか
(4.1)感情や意図の共有
(4.2)残虐行為が存在するという事実
(5)仮説:潜在的、反射的、意識以前のレベルの理解が、問題解決の鍵である
(5.1)科学的な事実と、制度・政策との関係の問題、人間の生物学的組成、社会性と自由意志の問題
(5.1.1)暴力的な映像による模倣暴力の事例
(5.1.2)科学的な事実と、制度・政策との関係の問題
(5.1.3)人間の生物学的組成、社会性と自由意志の問題
(5.2)顕在的、計画的、意識的レベルと潜在的、反射的、意識以前のレベルの問題
(5.2.1)顕在的、計画的、意識的レベル
(5.2.2)潜在的、反射的、意識以前のレベル
(5.3)局地的に作用する共感が、同時に他文化を理解する基盤でもある
(5.3.1)共感の局地性
(5.3.2)普遍的な共感性の可能性
(1)模倣する人に注意を向け、好意を抱く傾向、模倣する傾向
(1.1)自分を模倣する人に注意を向ける傾向、模倣する傾向
赤ん坊は、模倣ごっこが大好きだ。自分を模倣する人に注意を向ける。幼児も、模倣ごっこが大好きだ。あらゆるものが二つずつ用意してある遊び場を設定すると、自発的な模倣ごっこが始まり、果てしなく続く。(マルコ・イアコボーニ(1960-))
(1.2)模倣する人に好意を抱く傾向
カメレオン効果:(a)私たちは、自分の自然発生的な姿勢や動き、癖などを模倣する人に対して、好意を抱く傾向がある。(b)私たちは、他人の模倣をする傾向が強いほど、他人に対する共感傾向も強い。(マルコ・イアコボーニ(1960-))
次の仮説を検証する実験が存在する。
(a)被験者が他の人たちと作業しているとき、被験者は、被験者の自然発生的な姿勢や動きや癖を模倣する人に対して、より好意を抱く傾向が強い。また、作業の円滑さについても、高い評価をする傾向が強い。
(b)被験者が、他人の模倣をする傾向が強いほど、他人の感情を気にかけ、共感を覚えやすい傾向が強い。
(1.3)セラピーにおける模倣の効果
模倣は、個人と個人を感情的に通じあわせるものであり、それはミラーニューロンが実現していると思われる。また模倣は、自閉症児に社会的問題を克服させる非常に有効な方法かもしれない。(マルコ・イアコボーニ(1960-))
次の事実が存在する。
(a)セラピーにおける模倣の効果
セラピストが、自閉症患者とコミュニケーションがとれなくて困っているときに、患者の反復的で定型的な動きの真似をする。「するとほとんど即座に私を見るので、そこでようやく私たちのあいだに相互作用が生まれ、私は患者の治療が始められる」。
(b)模倣による相互作用
自閉症の少年を、彼をよく知っている少女が訪れる。そして、二人は部屋にあったおもちゃで、模倣ごっこで遊び始める。少年の「常同的な衒奇的運動」は、急速に消えていく。少女が部屋を出ていくと、少年はほとんど即座に引きこもり、例の手をばたばたさせる動きを再開する。少女が戻ってくると、その身ぶりは消滅する。
(1.4)言語の進化における模倣の役割
すべての会話は、共通の目標をもった協調活動であり、模倣と刷新の相乗効果で、新しい言語の進化の場でもある。聴覚障害児によって創出された自然発生的な「ニカラグア手話」は、その実例である。(マルコ・イアコボーニ(1960-))
(2)視覚刺激により発生する運動感覚の表象(ミラーニューロン)
(2.1)痛みの共感
他人が物理的な痛みを受けているところを見ると、その視覚情報が、痛みを与える対象(例えば針)から退避しようとする筋肉運動または潜在的な運動を引き起こし、これが他人の痛みを身体的に了解させる。(マルコ・イアコボーニ(1960-))
(2.2)ミラーニューロンの形成過程(仮説)
(仮説)ミラーニューロンは、幼児における自己と他者との相互作用によって形成される。また、ミラーニューロンは、自己意識の発生に、ある役割を果たしている。(マルコ・イアコボーニ(1960-))
(2.2.1)視覚情報に運動感覚が関連づけられる
親の模倣行動により、笑顔という視覚情報に、運動感覚が関連づけられる。
(a)赤ん坊がにっこり笑う。(運動感覚)
(b)それに応えて親も笑う。(笑う運動感覚に、自分の見た笑顔が関連づけられる。)
(c)赤ん坊がまた笑う。
(d)親もまた笑う。
(2.2.2)視覚情報から運動感覚表象が発生する
(a)赤ん坊が誰かの笑顔を見る。
(b)笑うのに必要な運動計画と関連づけられた神経活動が、赤ん坊の脳内で作動して、笑顔をシミュレートするようになる。
(c)赤ん坊も笑う。
(d)成長した私たちは、この脳細胞を使って他人の心理状態を理解するようになる。
(e)以上のようにして、笑顔を映し出すミラーニューロンが誕生する。
(2.2.3)運動感覚から視覚表象が発生する
(a)赤ん坊がにっこり笑う。(運動感覚)
(b)笑う運動感覚によって、笑顔の表象が現れる。これは、かつて他人の中に見ていたものである。
(c)以上のようにして、ミラーニューロンにより、自分が笑っているという意識が生まれる。(自己意識)
(2.3)鏡像認識能力(自己認識能力)と模倣傾向の関係
鏡像認識能力を持った子供のペアは、そうでない子供のペアよりも、自然発生的に多くの模倣行動が生じる。自己認識と模倣の能力とに、ミラーニューロンという共通の基礎があるのではないだろうか。(マルコ・イアコボーニ(1960-))
二人一組の子供のあいだで自然発生的に生じる模倣についての、次のような調査結果が存在する。
(a)鏡の前で自己を認識する能力を備えた子供のペア
(b)まだ鏡像認識能力をもたない子供のペア
(実験結果)(b)に比べ(a)は、はるかに多く互いを模倣した。
(3)他者の情動表出の視覚刺激により発生する内臓運動の表象
(3.1)感情の共感
共感のミラーニューロン仮説:他人が感情を表しているところを見ると、その視覚情報が、同じ身体感覚の表象を引き起こし、この表象が同じ表情、同じ感情を誘発する。(マルコ・イアコボーニ(1960-))
(a)被験者は、他人が感情を表しているところを見る。
(b)被験者が顔を見ている間、まるで自分自身がその表情をしているかのような、身体感覚の表象が現れる。また、実際に被験者の顔の表情が変化する。これは、ミラーニューロンが実現する。
(c)ミラーニューロン領域の活性化は、島、大脳辺縁系の感情をつかさどる部分、とくに扁桃核(顔に強く反応する辺縁構造)に伝播し、活性化させる。これで、感情はいわば本物となる。
(d)結果的に、他人の感情が共有されることになる。
「僕はある人がどれほど賢いか、どれほど愚かか、どれほど善人か、どれほど悪人か、あるいはその人がいまなにを考えているかを知りたいとき、自分の表情をできるだけその人の表情とそっくりに作るんだ。そうすると、やがてその表情と釣り合うような、一致するような考えやら感情やらが、頭だか心だかに浮んでくるから、それが見えるのを待っているのさ」。(エドガー・アラン・ポーの短篇小説「盗まれた手紙」の主人公・探偵オーギュスト・デュパンの台詞)
(4)問題:生得的な傾向性は、人間をどこに導くのか
人は感情や意図を共有し合える能力を持っているにもかかわらず、なぜ残虐にもなれるのか。
人は感情や意図を共有し合える能力を持っているにもかかわらず、現実に発生する残虐行為を解決するには、科学的な事実と制度・政策との関係、人間の生物学的組成と社会性、自由意志の問題の解明が必要である。(マルコ・イアコボーニ(1960-))
(4.1)感情や意図の共有
感情や意図を共有し合えるという能力は、人と人とを意識以前の基本的なレベルで互いに深く結びつけ、人間の社会的行動の根本的な出発点でもある。
(4.2)残虐行為が存在するという事実
(5)仮説:潜在的、反射的、意識以前のレベルの理解が、問題解決の鍵である
(5.1)科学的な事実と、制度・政策との関係の問題、人間の生物学的組成、社会性と自由意志の問題
共感を促進するのと同じ神経生物学的メカニズムが、特定の環境や背景のものでは共感的行動と正反対の行動を生じさせている可能性があるが、科学的な事実と制度・政策との関係の問題と、人間の生物学的組成、社会性と自由意志の問題が絡み、解決を難しくしている。
(5.1.1)暴力的な映像による模倣暴力の事例
暴力的な映像による模倣暴力の存在は、実験で検証されている。攻撃的な行動は、未就学児でも青年期でも、性別、生来の性格、人種によらず一貫して観察される。実際の社会においても、因果関係が実証されている。(マルコ・イアコボーニ(1960-))
(5.1.2)科学的な事実と、制度・政策との関係の問題
(a)これを解明するためには、科学的な事実を、社会全般の幸福を促進するための政策策定に反映させる制度的な仕組みが必要だが、そのような体制にはなっていない。
(b)規制すべきかどうかの問題。言論の自由との絡みがある。
(c)規制すべきかどうかの問題。市場と金銭的利害との絡みがある。
(5.1.3)人間の生物学的組成、社会性と自由意志の問題
(a)社会性と人間の自由意志の関係
人間の最大の成功ではないかとも思える私たちの社会性が、一方では私たちの個としての自主性を制限する要因でもあることを示唆している。これは長きにわたって信じられてきた概念に対する重大な修正である。
(b)人間の生物学的組成と自由意志の関係
一方、人間はその生物学的組成を乗り越えて、自らの考えを社会の掟を通じて自らを定義できるとする見方がある。
(5.2)顕在的、計画的、意識的レベルと潜在的、反射的、意識以前のレベルの問題
感情や意図の共感能力と、現実に発生する残虐行為との矛盾の解決には、意識的、顕在的な問題を意識以前の潜在的な観点から理解し、局地的に作用しがちな共感が、他文化理解の基盤でもあることを解明する必要がある。(マルコ・イアコボーニ(1960-))
(5.2.1)顕在的、計画的、意識的レベル
社会は明らかに、顕在的で、計画的で、意識的な対話の上に築かれる。これを、潜在的レベルの共感で基礎づけて理解することが、問題解決の鍵である。
(5.2.2)潜在的、反射的、意識以前のレベル
(a)ミラーニューロンは前運動ニューロンであり、したがって私たちが意識して行う行動とはほとんど関係がない、潜在的で、反射的な、意識以前の現象である。
(b)道徳の基盤は、人から「動かされる」こと、すなわち共感である。
(5.3)局地的に作用する共感が、同時に他文化を理解する基盤でもある
(5.3.1)共感の局地性
(a)ミラーリングと模倣の強力な効果は、きわめて局地的である。
(b)そうしてできあがった文化は互いに連結しないため、昨今、世界中のあちこちで見られるように、最終的に衝突にいたってしまう。
(c)地域伝統の模倣が、個人の強力な形成要因として強く強調されている。そして、人々は集団の伝統を引き継ぐ者になる。
(5.3.2)普遍的な共感性の可能性
(a)私たちをつなぎあわせる神経生物学的機構が存在する。
(b)神経生物学的メカニズムは、別の文化の存在を明かすこともできる。
(c)ただし、宗教的または政治的な信念体系は、大きな影響力を持ち、真の異文化間の出会いを難しくしている。
(出典:UCLA Brain Research Institute)
「ミラーリングネットワークの好ましい効果であるべきものを抑制してしまう第三の要因は、さまざまな人間の文化を形成するにあたってのミラーリングと模倣の強力な効果が、きわめて《局地的》であることに関係している。そうしてできあがった文化は互いに連結しないため、昨今、世界中のあちこちで見られるように、最終的に衝突にいたってしまう。もともと実存主義的現象学の流派では、地域伝統の模倣が個人の強力な形成要因として強く強調されている。人は集団の伝統を引き継ぐ者になる。当然だろう? しかしながら、この地域伝統の同化を可能にしているミラーリングの強力な神経生物学的メカニズムは、別の文化の存在を明かすこともできる。ただし、そうした出会いが本当に可能であるならばの話だ。私たちをつなぎあわせる根本的な神経生物学的機構を絶えず否定する巨大な信念体系――宗教的なものであれ政治的なものであれ――の影響があるかぎり、真の異文化間の出会いは決して望めない。
私たちは現在、神経科学からの発見が、私たちの住む社会や私たち自身についての理解にとてつもなく深い影響と変化を及ぼせる地点に来ていると思う。いまこそこの選択肢を真剣に考慮すべきである。人間の社会性の根本にある強力な神経生物学的メカニズムを理解することは、どうやって暴力行為を減らし、共感を育て、自らの文化を保持したまま別の文化に寛容となるかを決定するのに、とても貴重な助けとなる。人間は別の人間と深くつながりあうように進化してきた。この事実に気づけば、私たちはさらに密接になれるし、また、そうしなくてはならないのである。」
(マルコ・イアコボーニ(1960-),『ミラーニューロンの発見』,第11章 実存主義神経科学と社会,早川書房(2009),pp.331-332,塩原通緒(訳))
(索引:)
マルコ・イアコボーニ(1960-)
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(仮説)他者の行動の意図や感情を感知する能力が、自己認識の基礎にある。従って、この能力に問題があると、自己と他者の同定が困難となり、対人的相互交流の不全、人称表現の不全、自他の状態概念の理解不能などが生じる。(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-))
自閉症についてのミラーニューロン機能不全仮説
【(仮説)他者の行動の意図や感情を感知する能力が、自己認識の基礎にある。従って、この能力に問題があると、自己と他者の同定が困難となり、対人的相互交流の不全、人称表現の不全、自他の状態概念の理解不能などが生じる。(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-))】(1)自己認識の誕生の仮説
(1.1)他者の行動の意図や感情を知る能力(心の理論)
(a)他者の行動の意図や感情の内部モデルをつくるための能力が、最初に獲得される。
(b)神経的な基盤が、ミラーニューロン・システムである。
(1.2)自己認識の誕生
次に、進化して内面に向い、自分自身の心を自分の心に再表象するようになったのかもしれない。それはおそらく、私たち人間が、ほんの何十万年か前に経験した心の相転移の時期に起き、それが本格的な自己認識のはじまりとなったのだろう。
(2)自閉症についてのミラーニューロン機能不全仮説
(2.1)仮説
(a)十分に成熟した心の自己表象が欠けている。
(b)確固とした自己同定ができない。
(c)自他の区別を理解するのがむずかしい。
(2.2)予測される症状
(a)会話のなかで一人称「私」や二人称「あなた」を正しく使えない自閉症児が多数いる。
(b)対人的相互交流を苦手とする。
(c)予測:自分の状態なのか、他者の状態なのかを概念的に区別するのに、困難が伴う。例として、「自己評価」、「憐憫」、「情け」、「寛容」、「きまり悪さ」。
「ミラーニューロン・システムはそもそも、他者の行動や意図の内部モデルをつくるために進化したのであるが、人間においては、そこからさらに進化して内面に向い、自分自身の心を自分の心に表象(もしくは再表象)するようになったのかもしれない。心の理論は、友人やあかの他人や敵対者の心のなかを直感でとらえるのに有用であるが、それだけでなく、ホモ・サピエンスにかぎっては、心の理論によって、自分自身の心の動きをとらえる洞察力も飛躍的に向上したのではないだろうか。それはおそらく、私たち人間がほんの何十万年か前に経験した心の相転移の時期に起き、それが本格的な自己認識のはじまりとなったのだろう。もしミラーニューロン・システムが心の理論の基盤であり、正常な人間の心の理論が、内面の自己に向けて応用されるというかたちでパワーアップされているのだとしたら、自閉症の人たちが対人的相互交流や確固とした自己同定をひどく苦手とする理由は、会話のなかで一人称(「私」)や二人称(「あなた」)を正しく使えない自閉症児が多数いる理由の説明がつきそうである。人称代名詞を正しく使えない子どもたちは、十分に成熟した心の自己表象が欠けているために、自他の区別を理解するのがむずかしいのかもしれない。 この仮説からは、普通に話すことができる高機能の自閉症者(言語能力の高い自閉症者は、自閉症スペクトラムのサブタイプの一つであるアスペルガー症候群とみなされる)でも、「自己評価」、「憐憫」、「情け」、「寛容」、「きまり悪さ」といった言葉の概念的な区別には困難がともなうであろう――本格的な自己感がないと意味をなさない「自己憐憫」についてはなおさらであろう――という予測が導かれる。このような予測はまだ系統的に検証されていないが、私の学生のローラ・ケイスが現在それをおこなって。いる自己表象と自己認識にかかわる問題や障害については、最終章でまたとりあげる。」
(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-),『物語を語る脳』,第5章 スティーヴンはどこに? 自閉症の謎,(日本語名『脳のなかの天使』),角川書店(2013),pp.207-208,山下篤子(訳))
(索引:自閉症,ミラーニューロン機能不全仮説,ミラーニューロン)
(出典:wikipedia)
「バナナに手をのばすことならどんな類人猿にもできるが、星に手をのばすことができるのは人間だけだ。類人猿は森のなかで生き、競いあい、繁殖し、死ぬ――それで終わりだ。人間は文字を書き、研究し、創造し、探究する。遺伝子を接合し、原子を分裂させ、ロケットを打ち上げる。空を仰いでビッグバンの中心を見つめ、円周率の数字を深く掘り下げる。なかでも並はずれているのは、おそらく、その目を内側に向けて、ほかに類のない驚異的なみずからの脳のパズルをつなぎあわせ、その謎を解明しようとすることだ。まったく頭がくらくらする。いったいどうして、手のひらにのるくらいの大きさしかない、重さ3ポンドのゼリーのような物体が、天使を想像し、無限の意味を熟考し、宇宙におけるみずからの位置を問うことまでできるのだろうか? とりわけ畏怖の念を誘うのは、その脳がどれもみな(あなたの脳もふくめて)、何十億年も前にはるか遠くにあった無数の星の中心部でつくりだされた原子からできているという事実だ。何光年という距離を何十億年も漂ったそれらの粒子が、重力と偶然によっていまここに集まり、複雑な集合体――あなたの脳――を形成している。その脳は、それを誕生させた星々について思いを巡らせることができるだけでなく、みずからが考える能力について考え、不思議さに驚嘆する自らの能力に驚嘆することもできる。人間の登場とともに、宇宙はにわかに、それ自身を意識するようになったと言われている。これはまさに最大の謎である。」
(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-),『物語を語る脳』,はじめに――ただの類人猿ではない,(日本語名『脳のなかの天使』),角川書店(2013),pp.23-23,山下篤子(訳))
ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-)
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2020年6月21日日曜日
36.a)外界と身体の変化(b)対象,驚き,既知感(c)関心,注意(d)視点(e)表象の所有感(f)発動力(g)原初的感情.これら全てが,その担い手である中核自己の存在を感知させ,全ての表象がその内部での現象であると感知させる.これが意識である.(アントニオ・ダマシオ(1944-))
意識ある心
【(a)外界と身体の変化(b)対象,驚き,既知感(c)関心,注意(d)視点(e)表象の所有感(f)発動力(g)原初的感情.これら全てが,その担い手である中核自己の存在を感知させ,全ての表象がその内部での現象であると感知させる.これが意識である.(アントニオ・ダマシオ(1944-))】全体へ追記。
(3.3)情動誘発部位と原自己の2次マッピング
情動誘発部位における神経活動のパターンと原自己の変化が、二次の構造にマッピングされる。かくして、情動対象と原自己の関係性についての説明が二次の構造においてなされる。
(3.3.1)対象のイメージ群
イメージの一群は、意識の中の物体を表す。
(a)対象という感覚、知っているという感覚
原初的感情が変化し、「その対象を知っているという感情」が発生する。(2次マップ)
(b)関心、注意を向ける重要性の感覚
知っているという感情が、対象に対する「重要性」を生み出し、原自己を変化させた対象へ関心/注意を向けるため、処理リソースを注ぎ込むようになる。(1次マップへのフィードバック)
(3.3.2)中核自己のイメージ群
別のイメージ群は自分を表す。
(a)ある視点の存在の感覚
全てが無差別に存在している混沌の中に、対象が浮かび上がる。対象は見られ、触られ、聞かれ、変化するが、いつもある不動の視点から見られ、触られ、聞かれている。
(b)対象が対象そのものではなく、影響を受けている何者かの所有物であるという感覚
(i)浮かび上がった対象は、対象そのものではないようだ。対象に向き合い、対象から影響を受けている何者かが存在する。浮かび上がった対象は、この何者かが所有しているものであるという感覚が存在する。
(ii)絶対に安全であるという感情
ウィトゲンシュタインは、この感覚に別の表現を与えている。「私は安全であり、何が起ろうとも何ものも私を傷つけることはできない」というような感情。
参考:二つの表明し得ぬもの:(a)何かが存在する、この世界が存在するとは、いかに異常なことであるかという驚き、(b)私は安全であり、何が起ころうとも何ものも私を傷つけることはできない、という感覚。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))
(c)発動力
浮かび上がった対象に関心と注意を向ける何者かが存在する。原自己に属する身体は、この何者かが確かに、自ら命じて動かすことができる。
(d)原初的感情
対象がどのように変化しようが、比較的変化しないで持続する何者かが存在する。
(3.3.3)中核自己
(i)全てが無差別に存在している混沌の中に、対象が浮かび上がる。何かが変化し、知っているという感情が生まれた。それは注意をひきつける。対象は、いつもある不動の視点から、見られ、触れられ、聞かれている。対象は、対象そのものではなく、影響を受けている何者かの所有物であるという感覚がある。浮かび上がった対象に注意を向ける何者かが存在する。原自己に属する身体は、この何者かが自ら命じて動かすことができる。これらを担い所有する主人公が浮かび上がってくる。これが「中核自己」である。
(ii)存在することへの驚き
ウィトゲンシュタインは、それが驚きの感情を伴うことを指摘する。「何かが存在するとはどんなに異常なことであるか」、「この世界が存在するとはどんなに異常なことであるか」という存在することへの驚き。
参考:二つの表明し得ぬもの:(a)何かが存在する、この世界が存在するとは、いかに異常なことであるかという驚き、(b)私は安全であり、何が起ころうとも何ものも私を傷つけることはできない、という感覚。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))
(3.3.4)意識のハードプロブレムについて
たとえ外界と身体の全ての表象が存在しても、無差別に存在する混沌の中には、意識は存在しない。(a)外界と身体の変化の感知、(b)驚きまたは既知感、(c)関心と注意、(d)視点の感知、(e)表象の所有感、(f)発動力の感知、(g)継続的な原初的感情が、(h)中核自己の存在を感知させ、これら全てが中核自己の内部で現象していると感知される。これが意識である。「自己集積体のイメージが非自己物体のイメージとあわせて折りたたまれると、その結果が意識ある心となる」。
《説明図》
対象→原自己→変調された原初的感情
↑ の変化 変調されたマスター生命体
│ │ ↓
│ │ 視点の獲得
│ ↓
│ 知っているという感情
│ ↓ │
└─────対象の重要性 ↓
所有の感覚
発動力
「要するに、意識ある心の深みに沈降する中で、私はそれが各種イメージの複合物だということを発見したのだ。そうしたイメージの一群は、意識の中の《物体》をあらわす。別のイメージ群は自分をあらわし、その自分に含まれるのは以下の通りだ。
(1) 物体がマッピングされるときの《視点》(私の心が見たり触ったり聞いたりなどする際の立ち位置を持っているという事実と、その立ち位置というのが自分の身体だという事実)
(2) その物体が表象されているのは、自分に所属する心の中でのものであって、その心は他の誰にも属さないという感情《所有感》
(3) その物体に対して自分が《発動力》(agency)を持っており、自分の身体が実施する行動は心に命じられたものだという感情
(4) 物体がどう関わってくるかとはまったく関係なしに、自分の生きた身体の存在をあらわす《原初的感情》
(1)から(4)までの要素の集合が、単純版の自己を構成する。自己集積体のイメージが非自己物体のイメージとあわせて折りたたまれると、その結果が意識ある心となる。
こうした知識はすべて、そこにあるものだ。それは理性的な推論や解釈で得られる知識ではない。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『自己が心にやってくる』第3部 意識を持つ、第8章 意識ある心を作る、p.223、早川書房 (2013)、山形浩生(訳))
(索引:)
(出典:wikipedia)
「もし社会的情動とその後の感情が存在しなかったら、たとえ他の知的能力は影響されないという非現実的な仮定を立てても、倫理的行動、宗教的信条、法、正義、政治組織といった文化的構築物は出現していなかったか、まったく別の種類の知的構築物になっていたかのいずれかだろう。が、少し付言しておきたい。私は情動と感情だけがそうした文化的構築物を出現させているなどと言おうとしているのではない。第一に、そうした文化的構築物の出現を可能にしていると思われる神経生物学的傾性には、情動と感情だけでなく、人間が複雑な自伝を構築するのを可能にしている大容量の個人的記憶、そして、感情と自己と外的事象の密接な相互関係を可能にしている延長意識のプロセスがある。第二に、倫理、宗教、法律、正義の誕生に対する単純な神経生物学的解釈にはほとんど望みがもてない。あえて言うなら、将来の解釈においては神経生物学が重要な役割を果たすだろう。しかし、こうした文化的現象を十分に理解するには、人間学、社会学、精神分析学、進化心理学などからの概念と、倫理、法律、宗教という分野における研究で得られた知見を考慮に入れる必要がある。実際、興味深い解釈を生み出す可能性がもっとも高いのは、これらすべての学問分野と神経生物学の〈双方〉から得られた統合的知識にもとづいて仮説を検証しようとする新しい種類の研究だ。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、pp.209-210、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))
アントニオ・ダマシオ(1944-)
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2020年6月18日木曜日
35.身体と身体状態の表象が,中核自己を生む.身体状態が記憶,想起され,自己の身体状態のシミュレーションが可能となる.やがて,他者の身体状態のシミュレーションによって,他者の意図や情動が理解可能となる.(アントニオ・ダマシオ(1944-))
身体状態のシミュレーション
【身体と身体状態の表象が,中核自己を生む.身体状態が記憶,想起され,自己の身体状態のシミュレーションが可能となる.やがて,他者の身体状態のシミュレーションによって,他者の意図や情動が理解可能となる.(アントニオ・ダマシオ(1944-))】(1)中核自己の誕生
(a)自分の身体と身体状態が、脳内に表象されるようになる。
(b)中核自己の意識が生まれる。
(c)自分の身体と身体状態が記憶され、想起できるようになることで、自分自身の身体状態シミュレーションへの準備が整ってゆく。
(2)あたかも身体ループシステムの獲得
(a)過去の知識や認知によって、実際の状況に遭遇したときと同じ内部感覚の表象が出現する。
(b)これは、自分自身の身体状態シミュレーションである。
(3)他人の身体状態のシミュレーション
(3.1)他者の行動の意味の理解
(a)他人の行動を目撃する。
(b)同じ行動の体感的な表象が出現する。
(c)このことで、他人の行動の意味が理解できる。
(d)これは、他人の身体状態シミュレーションである。
参考:対象物を見ると、それを操作する運動感覚の表象が伴う。これはカノニカルニューロンが実現している。また、他者の対象物への働きかけを見ると、その運動感覚の表象が伴う。これはミラーニューロンが実現している。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))
(3.2)他者の情動の理解
(a)他人の情動表出を目撃する。
(b)同じ内部感覚の表象が出現する。
(c)このことで、他人の情動が理解できる。
(d)これは、他人の身体状態シミュレーションである。
参考: 他者の情動の表出を見るとき、その情動の基盤となっている内臓運動の表象が現れ、他者の情動が直ちに感知される。これは潜在的な場合もあれば実行されることもあり、複雑な対人関係の基盤の必要条件となっている。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))
「ミラーニューロンの存在理由についての説明は、そうしたニューロンがあると自分自身を相手と似た身体状態におけるので、相手の行動を理解しやすくなるのだという点を強調してきた。他人の行動を目撃すると、身体を感知する脳は、自分自身がその相手のように動いていた場合の身体状態を採用する。そしてそれをやるときには、ほぼまちがいなく、受動的な感覚パターンではなく、運動構造の事前起動を使う――行動の準備はできているがまだ行動しない――はずだし、ときには実際に運動を活性化させたりすることもあるだろう。
こんな複雑な生理システムがどのように進化したのだろうか? おそらくは、このシステムはもっと初期の「あたかも身体ループシステム」から発達したものだと私はにらんでいる。その初期のシステムは、複雑な脳が昔から《自分自身の》身体状態シミュレーションのために使ってきたものだ。これは明らかに即座の利点を持っていただろう。関係した過去の知識や認知戦略と関連したある身体状態のマップを、すばやくエネルギーを使わずに起動できるのだから、やがて「あたかもシステム」は他のものにも適用されるようになり、他人の身体状態――これはその相手の心的状態の表現だ――を知ることで得られる明らかな社会的利点のおかげで広まった。要するに、それぞれの生命体における「あたかも身体ループ」というのは、ミラーニューロンの働きを先取りするものだと私は考えているのだ。
第Ⅲ部で見るように、自己の創造には自分の身体が脳内で表象されることが不可欠だ。だが脳による身体の表象は、もう一つ大きな意味合いを持っている。自分の身体状態を描けるので、それに相当する他人の身体状態もシミュレーションしやすくなるということだ。結果として、自分自身の身体とそれが自分にとって獲得した重要性とのつながりは、他人の身体状態シミュレーションにも移転できる。そうなると、そのシミュレーションにも同じくらいの重要性を付与できるようになる。「共感」という言葉であらわされる幅広い現象が、この仕組みに多くを負っている。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『自己が心にやってくる』第2部 脳の中にあって心になれるのはどんなもの?、第4章 心の中の身体、pp.128-129、早川書房 (2013)、山形浩生(訳))
(索引:)
(出典:wikipedia)
「もし社会的情動とその後の感情が存在しなかったら、たとえ他の知的能力は影響されないという非現実的な仮定を立てても、倫理的行動、宗教的信条、法、正義、政治組織といった文化的構築物は出現していなかったか、まったく別の種類の知的構築物になっていたかのいずれかだろう。が、少し付言しておきたい。私は情動と感情だけがそうした文化的構築物を出現させているなどと言おうとしているのではない。第一に、そうした文化的構築物の出現を可能にしていると思われる神経生物学的傾性には、情動と感情だけでなく、人間が複雑な自伝を構築するのを可能にしている大容量の個人的記憶、そして、感情と自己と外的事象の密接な相互関係を可能にしている延長意識のプロセスがある。第二に、倫理、宗教、法律、正義の誕生に対する単純な神経生物学的解釈にはほとんど望みがもてない。あえて言うなら、将来の解釈においては神経生物学が重要な役割を果たすだろう。しかし、こうした文化的現象を十分に理解するには、人間学、社会学、精神分析学、進化心理学などからの概念と、倫理、法律、宗教という分野における研究で得られた知見を考慮に入れる必要がある。実際、興味深い解釈を生み出す可能性がもっとも高いのは、これらすべての学問分野と神経生物学の〈双方〉から得られた統合的知識にもとづいて仮説を検証しようとする新しい種類の研究だ。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、pp.209-210、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))
アントニオ・ダマシオ(1944-)
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2020年6月17日水曜日
34.背景的情動は,内的状態の指標であり,中核意識と密接に結びついている. 疲労,やる気,興奮,好調,不調,緊張,リラックス,高ぶり,気の重さ,安定,不安定,バランス,アンバランス,調和,不調和などがある。(アントニオ・ダマシオ(1944-))
背景的情動
【背景的情動は,内的状態の指標であり,中核意識と密接に結びついている. 疲労,やる気,興奮,好調,不調,緊張,リラックス,高ぶり,気の重さ,安定,不安定,バランス,アンバランス,調和,不調和などがある。(アントニオ・ダマシオ(1944-))】全般的に追記。
(2.4.1)背景的情動
(2.4.1.1)背景的情動の例
疲労、やる気、興奮、好調、不調、緊張、リラックス、高ぶり、気の重さ、安定、不安定、バランス、アンバランス、調和、不調和などがある。
(2.4.1.2)内的状態の指標
(a)血液などの器官の平滑筋系や、心臓や肺の横紋筋の時間的、空間的状態。
(b)それらの筋肉繊維に近接する環境の化学特性。
(c)生体組織の健全性に対する脅威か、最適ホメオスタシスの状態か、そのいずれかを意味する化学特性のあり、なし。
(2.4.1.3)背景的情動の表出
狭義の情動の一つに「背景的情動」がある。エネルギーや熱意、わずかな不快、興奮、いらいら、落ち着き。四肢や体全体の動きの状態、顔の表情、声の中にある調べ、韻律によって知られる。(アントニオ・ダマシオ(1944-))
(2.4.1.4)背景的情動と欲求や動機との関係
欲求は、背景的情動の中に直接現れ、最終的に背景的情動により、われわれはその存在を意識するようになる。
(2.4.1.5)背景的情動とムードとの関係
ムードは、調整された持続的な背景的情動と、一次の情動との調整された持続的な感情とからなっている。たとえば、落ち込んでいる背景的情動と悲しみとの調整された持続的感情。
(2.4.1.6)背景的情動と意識の関係
背景的情動と中核意識は極めて密接に結びついているので、それらを容易には分離できない。
「顕著な背景的感情には、たとえば、疲労、やる気、興奮、好調、不調、緊張、リラックス、高ぶり、気の重さ、安定、不安定、バランス、アンバランス、調和、不調和などがある。背景的感情と欲求や動機との関係は密接だ。欲求は背景的情動の中に直接現れ、最終的に背景的感情によりわれわれはその存在を意識するようになる。背景的感情とムードとの関係も密接だ。ムードは、調整された持続的な背景的感情と、一次の情動――たとえば、落ち込んでいる場合は悲しみ――の、やはり調整された持続的な感情とからなっている。さらに、背景的感情と意識の関係も密接だ。背景的感情と中核意識はひじょうに密接に結びついているので、それらを容易には分離できない。
たぶん背景的感情は、有機体のその瞬間の内的状態に対する忠実な指標と言っていいだろう。そして以下がその指標の中核的要素だ。
(1) 血液などの器官の平滑筋系や、心臓や肺の横紋筋の時間的、空間的状態。
(2) それらの筋肉繊維に近接する環境の化学特性。
(3) 生体組織の健全性に対する脅威か、最適ホメオスタシスの状態か、そのいずれかを意味する化学特性のあり、なし。
このように、背景的感情のような単純な現象でさえ、さまざまなレベルの表象に依存している。たとえば、内的環境ならびに内臓と関係がある背景的感情の中には、脊髄の各分節の膠様質と中間質や、三叉神経核の下核のような、早期の信号に依存しているものもある。また、心臓機能における横紋筋の周期的作用や、孤束核や結合腕傍核のような特定の脳幹核における表象を必要としている平滑筋の収縮と拡張のパターンと関係する背景的感情もある。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『起こっていることの感覚』(日本語名『無意識の脳 自己意識の脳』)第4部 身体という劇場、第9章 情動と感情の基盤は何か、pp.342-343、講談社(2003)、田中三彦(訳))
(索引:)
(出典:wikipedia)
「もし社会的情動とその後の感情が存在しなかったら、たとえ他の知的能力は影響されないという非現実的な仮定を立てても、倫理的行動、宗教的信条、法、正義、政治組織といった文化的構築物は出現していなかったか、まったく別の種類の知的構築物になっていたかのいずれかだろう。が、少し付言しておきたい。私は情動と感情だけがそうした文化的構築物を出現させているなどと言おうとしているのではない。第一に、そうした文化的構築物の出現を可能にしていると思われる神経生物学的傾性には、情動と感情だけでなく、人間が複雑な自伝を構築するのを可能にしている大容量の個人的記憶、そして、感情と自己と外的事象の密接な相互関係を可能にしている延長意識のプロセスがある。第二に、倫理、宗教、法律、正義の誕生に対する単純な神経生物学的解釈にはほとんど望みがもてない。あえて言うなら、将来の解釈においては神経生物学が重要な役割を果たすだろう。しかし、こうした文化的現象を十分に理解するには、人間学、社会学、精神分析学、進化心理学などからの概念と、倫理、法律、宗教という分野における研究で得られた知見を考慮に入れる必要がある。実際、興味深い解釈を生み出す可能性がもっとも高いのは、これらすべての学問分野と神経生物学の〈双方〉から得られた統合的知識にもとづいて仮説を検証しようとする新しい種類の研究だ。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、pp.209-210、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))
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33.必ずしも意識化されない情動誘発因が情動誘発部位を活性化し、身体と脳の多数の部位へ波及することで原自己が変化する。これら対象と原自己の変化が2次構造にマッピングされ、中核自己を構成する諸感情が発現する。(アントニオ・ダマシオ(1944-))
情動と中核自己の発現
【必ずしも意識化されない情動誘発因が情動誘発部位を活性化し、身体と脳の多数の部位へ波及することで原自己が変化する。これら対象と原自己の変化が2次構造にマッピングされ、中核自己を構成する諸感情が発現する。(アントニオ・ダマシオ(1944-))】(3)中核自己の発現の要約的記述
参照: 「中核自己」の発現(アントニオ・ダマシオ(1944-))
(3.1)対象の感覚的処理(1次マップ)
(a)生命体が、ある対象に遭遇する。
(i)情動誘発因
対象に対する意識も、対象の認知も、このサイクルの継続に必ずしも必要ではない。
(b)ある対象が、感覚的に処理される。
(i)情動誘発部位
対象のイメージの処理に伴う信号が、その対象が属している特定の種類の誘発因に反応するようプリセットされている神経部位(情動誘発部位)を活性化する。
(3.2)原自己の変化(1次マップ)
(a)対象からの関与が、原自己を変化させる。
(b)身体と脳の多数の部位の反応
情動誘発部位は、身体と他の脳の部位に向けての多数の反応を始動させ、情動を構成する身体と脳の反応を全面的に解き放つ。
(c)身体と脳の状態変化の表象
皮質下ならびに皮質部における一次のニューラル・マップは、それが「身体ループ」によるものか、「あたかも身体ループ」によるものか、あるいは両者の組合せによるものかには無関係に、身体状態の変化を表象する。こうして感情が浮上する。
(3.3)情動誘発部位と原自己の2次マッピング
情動誘発部位における神経活動のパターンと原自己の変化が、二次の構造にマッピングされる。かくして、情動対象と原自己の関係性についての説明が二次の構造においてなされる。
(a)原初的感情が変化し、「その対象を知っているという感情」が発生する。(2次マップ)
(b)知っているという感情が、対象に対する「重要性」を生み出し、原自己を変化させた対象へ関心/注意を向けるため、処理リソースを注ぎ込むようになる。(1次マップへのフィードバック)
(c)「ある対象が、ある特定の視点から見られ、触られ、聞かれた。それは、身体に変化を引き起こし、その対象の存在が感じられた。その対象が重要とされた。」こうしたことが、起こり続けるとき、対象によって変化させられたもの、視点を持っているもの、対象を知っているもの、対象を重要だとし関心と注意を向けているもの、これらを担い所有する主人公が浮かび上がってくる。これが「中核自己」である。
《説明図》
対象→原自己→変調された原初的感情
↑ の変化 変調されたマスター生命体
│ │ ↓
│ │ 視点の獲得
│ ↓
│ 知っているという感情
│ ↓ │
└─────対象の重要性 ↓
所有の感覚
発動力
「情動の反応には少しもあいまいなもの、表現しがたいもの、不明確なものはない。また情動の感情になりうる表象にも、あいまいなもの、表現しがたいもの、不明確なものはない。情動の感情に対する基盤は、特定の構造のマップの中の、きわめて具体的な一連のニューラル・パターンである。
要約すると、情動、感情、そして感情の感情まで、事象の推移はつぎの五段階に分けることができよう。ちなみに、最初の三つについては、情動に関する章でその概略を述べている。
(1) 情動誘発因と関わる有機体。誘発因とは、たとえば視覚的に処理され、視覚的表象をもたらす特定の対象。その際、その対象が意識化されることもあるし、されないこともある。認知されることもあるし、されないこともある。対象に対する意識も、対象の認知も、このサイクルの継続に必要ではないからだ。
(2) 対象のイメージの処理に伴う信号が、その対象が属している特定の種類の誘発因に反応するようプリセットされている神経部位(情動誘発部位)を活性化する。
(3) 情動誘発部位は、身体と他の脳の部位に向けての多数の反応を始動させ、情動を構成する身体と脳の反応を全面的に解き放つ。
(4) 皮質下ならびに皮質部における一次のニューラル・マップは、それが「身体ループ」によるものか、「あたかも身体ループ」によるものか、あるいは両者の組合せによるものかには無関係に、身体状態の変化を表象する。こうして感情が浮上する。
(5) 情動誘発部位における神経活動のパターンが、二次の神経構造にマッピングされる。これらの事象のために原自己が変化する。そして原自己の変化もまた、二次の構造にマッピングされる。かくして、「情動対象」(情動誘発部位における活動)と原自己の関係性についての説明が二次の構造においてなされる。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『起こっていることの感覚』(日本語名『無意識の脳 自己意識の脳』)第4部 身体という劇場、第9章 情動と感情の基盤は何か、pp.338-339、講談社(2003)、田中三彦(訳))
(索引:情動誘発因,原自己,中核自己,情動,感情)
(出典:wikipedia)
「もし社会的情動とその後の感情が存在しなかったら、たとえ他の知的能力は影響されないという非現実的な仮定を立てても、倫理的行動、宗教的信条、法、正義、政治組織といった文化的構築物は出現していなかったか、まったく別の種類の知的構築物になっていたかのいずれかだろう。が、少し付言しておきたい。私は情動と感情だけがそうした文化的構築物を出現させているなどと言おうとしているのではない。第一に、そうした文化的構築物の出現を可能にしていると思われる神経生物学的傾性には、情動と感情だけでなく、人間が複雑な自伝を構築するのを可能にしている大容量の個人的記憶、そして、感情と自己と外的事象の密接な相互関係を可能にしている延長意識のプロセスがある。第二に、倫理、宗教、法律、正義の誕生に対する単純な神経生物学的解釈にはほとんど望みがもてない。あえて言うなら、将来の解釈においては神経生物学が重要な役割を果たすだろう。しかし、こうした文化的現象を十分に理解するには、人間学、社会学、精神分析学、進化心理学などからの概念と、倫理、法律、宗教という分野における研究で得られた知見を考慮に入れる必要がある。実際、興味深い解釈を生み出す可能性がもっとも高いのは、これらすべての学問分野と神経生物学の〈双方〉から得られた統合的知識にもとづいて仮説を検証しようとする新しい種類の研究だ。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、pp.209-210、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))
アントニオ・ダマシオ(1944-)
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2020年6月16日火曜日
無意識の信号検出、精神機能、ニューロン活動が存在し、持続時間が500ms以上で意識化されるとする仮説は、知覚や認知の変容現象を解明する可能性を与える。変容には、その人独自の経験、歴史、情動が反映される。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))
意識内容の変容
【無意識の信号検出、精神機能、ニューロン活動が存在し、持続時間が500ms以上で意識化されるとする仮説は、知覚や認知の変容現象を解明する可能性を与える。変容には、その人独自の経験、歴史、情動が反映される。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】「(12) 意識経験内容の変容は重要なプロセスであると、心理学と精神医学の立場から認められています。提示された実際の視覚イメージと《異なる》経験を被験者が報告した場合に、これは最も直接的に立証可能です。女性のヌードで感情的に動揺する人は、実際に提示されたヌード写真とは異なるものを見たと報告するでしょう。(ある有名なスウェーデンの神経学者は、この特定の例を被験者に試したことがあるかと質問されました。彼は、「スウェーデンでは、ヌード写真は心理的に動揺を与えるものにはならない」と答えました。)経験内容の変更は、意識的な歪曲といったものではないようです。被験者は、自分がイメージを歪めていることに気づいていないし、そのプロセスも無意識のものであるようです。
言うまでもなくフロイトも、人の意識経験と言葉での表現の間にある情動の葛藤に、無意識が与える効果について、この変容現象を彼の考えに活用しています(シェヴリン(1973年)参照)。タイム-オン理論によって、ある経験内容についての無意識の変容が起こりうる、生理学的な余地が生じます。提示されたイメージの主観的な内容の変化に影響を与えるには、刺激の後に一定の時間が必要になります。感覚イメージをただちに意識できるとすると、意識的なイメージを無意識に変容できる機会はなくなります。意識を伴う感覚アウェアネスが現れるまでの時間感覚の間に、脳のパターンがイメージを検出し、意識経験が現れる前に内容を修正する活動が生じることによって、反応することができるのです。
感覚事象のアウェアネスを引き出すには、相当な長さの時間のニューロン活動(500ミリ秒間のタイム-オン=持続時間)が事実上必要であることを、私たちの証拠は示しています。その遅延によって、シンプルかつ十分な生理学上の余地が生じ、経験内容のアウェアネスが現れる前に無意識の脳のパターンを変更することができるのです! 確かに、感覚的なアウェアネスについての、時間的に逆行する主観的な遡及という実験現象において、主観的な経験のある種の変容、歪曲についての比較的直接的な証拠が示されました。遅延した経験は、あたかも遅延などまったくないかのように主観的に時間づけられます。また、私たちの実験でさらに明らかになった発見によると、皮膚刺激の後に約500ミリ秒間ほど遅れて《遅延皮質刺激》が続く場合、皮膚刺激の主観的な経験は、実際よりも明らかに《強い》ものとして報告されることがあることが示されました(第2章参照)これが、感覚経験が最終的にアウェアネスに再現する時間の長さ(500ミリ秒間)が、アウェアネスに到達する前に経験内容を変更するのに使われることの直接的な証拠です。
進展中の経験に対するどのような変容や修正であっても、そのことに関わっている人物に特有のものです。それは、その人物のこれまでの歴史や経験、そして彼を形成している情動や品性を反映したものでしょう。しかし、変容は無意識に行なわれるのです! したがって、ある人物の独特の性質というのは、その無意識プロセスにおいておのずから現れるものである、と言うこともできます。このことは、ジグムント・フロイトや、多くの臨床精神医学あ心理学からの提案と一致しています。
したがて、比較的シンプルな、アウェアネスを生み出すためのニューロンの時間的必要条件(タイム-オン要因)についての発見が、さまざまな無意識的および意識的精神機能が作用する仕組みについての私たちの考えに対して、どれほど奥深い影響力を持ち得るかが、このことからもわかります。これらのニューロンレベルの時間要因は、脳のプロセスについての予備知識に基づく思弁的な仮説ではなく、脳がどのように意識経験を処理するかについての直接的な実験によってしか発見し得なかったことを心に留めることが、最も大切です。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第3章 無意識的/意識的な精神機能,岩波書店(2005),pp.140-142,下條信輔(訳))
(索引:意識内容の変容)
(出典:wikipedia)
「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)
ベンジャミン・リベット(1916-2007)
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無意識の精神機能が、持続時間500ms以上で意識化されるとする仮説は、意識と無意識が脳の同一領域で生ずることを示唆する。ただし、機能が複数の段階、複数の脳の領域と関係する場合は、事情はもっと複雑である。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))
意識と無意識
【無意識の精神機能が、持続時間500ms以上で意識化されるとする仮説は、意識と無意識が脳の同一領域で生ずることを示唆する。ただし、機能が複数の段階、複数の脳の領域と関係する場合は、事情はもっと複雑である。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】「(11) それでは、無意識と意識機能は、脳のどの部分において発生するのでしょうか? これら二つの異なる側面を持つ精神機能に、それぞれ個別の場所があるのでしょうか? タイム-オン理論は、無意識および意識機能はどちらも《同じ脳の領域》の同じニューロン群によって、媒介されていることを示唆しています。もし、二つの機能間の移行が単に、アウェアネスを生み出す類似した神経細胞活動の長い持続時間によって生じるのであるならば、それぞれについて異なるニューロンの存在を仮定する必要はなくなります。当然、脳活動は一つ以上の段階または領域が意識的な精神プロセスの媒介に関与しているため、こうした領域のうちあるものは、無意識機能の場合には異なる可能性があります。このような場合には、タイム-オン(持続時間)制御のある単独の領域が、無意識と意識機能の識別を示す唯一のものにはならないでしょう。しかしそれでもなお、タイム-オン(持続時間)の特性は依然として、脳のなかのどの領域にあろうと作動し、識別するための制御因子となり得るのです。
盲視現象(ワイスクランツ(1986年)参照)によって、意識と無意識機能にはそれぞれ独立した経路と脳構造がある可能性が提示されました。大脳皮質の一次活性領域に損傷のある人間の患者は盲目です。つまり破壊された領域には、通常なら存在する、意識を伴う外部視野がないのです。それでもなお、このような患者は、ただ強制選択すればよいと言われた場合には、正しく視覚野にある物体を指し示すことができるのです。この場合、被験者はその物体を見た自覚がないと報告します。
無意識の盲視行為は、意識を伴う視覚の脳内のネットワーク領域(一次視覚野はその必要不可欠な一部ですが)とは違う場所で起こります。しかし、別の説では、一次視覚皮質の外部にある構造のどこか、たとえば二次視覚野のどこかに、意識・無意識両方の視覚機能が「宿っている」とします。すると、一次視覚野の機能というのは、この二次視覚野への入力を反復的に発火して与えるということになり、その結果その領域(二次視覚野)での発火の持続時間が増加し、視覚反応にアウェアネスが加わるということになります。その場合、一次視覚野が機能していなければ、その効果は発揮されません。
では、一次視覚野(V1)がなくても人は自覚のある知覚を持てるのでしょうか? バーバー他(1993年)は彼の非常に興味深い研究の中で、これが可能であることを主張しました。彼らは、交通事故による損傷によって、V1領域を完全に失った患者を研究しました。この患者は、破壊されたV1領域に対応する半視野が、典型的な失明を示していました。それにもかかわらず、「彼は視覚刺激の動きの方向を弁別することができました。また彼は、視覚刺激の性質と動きの検出両方について自覚があったことも、口頭での報告によって示しました。」
いずれによ、「V1がなくても意識を伴った視覚の知覚は可能である」というバーバーらによる結論は、私たちのタイム-オン理論を排除しません。視覚刺激に反応すると活動の増加を示すV5の領域は、十分に長い活動の持続時間の恩恵をこうむると、視覚の《アウェアネス》を生み出すことができるのかもしれません。実際、バーバーら(1993年)は、なかり長い時間の間、視覚刺激を反復的に加えていました。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第3章 無意識的/意識的な精神機能,岩波書店(2005),pp.138-140,下條信輔(訳))
(索引:)
(出典:wikipedia)
「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)
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無意識の精神機能が、持続時間500ms以上で意識化されるとする仮説は、意識されない刺激、知覚でも、意識的な知覚、選択、行為に影響を与え得ることを示唆する。(サブリミナル効果、プライミング)(ベンジャミン・リベット(1916-2007))
サブリミナル効果
【無意識の精神機能が、持続時間500ms以上で意識化されるとする仮説は、意識されない刺激、知覚でも、意識的な知覚、選択、行為に影響を与え得ることを示唆する。(サブリミナル効果、プライミング)(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】サブリミナル知覚
(1)意識的でない知覚
サブリミナル(閾下)の刺激に対して意識的な自覚が本人にない場合でも、そのサブリミナル刺激を無意識に知覚できる可能性がある。
(2)普通の自然な感覚における意識できな知覚
サブリミナルとアウェアネスを生み出す閾値上の感覚刺激の強さ、持続時間などの違いが通常小さいので、普通な自然の感覚刺激が使われる場合、立証するのはより難しくなる。
(3)実験で確認されたもの
意識を伴うアウェアネスにまでは到達しないような刺激が提示された後で、テスト時に加えられたさまざまな操作において、サブリミナル刺激の影響が現れる。
(a)事例
図や言葉を視覚的に提示した時間が1~2msのため、被験者はその内容にまったく気づかないにもかかわらず、言語連想法のテストにおける被験者の反応の選択に影響を与えた。
(b)プライミング
閾値より下であっても上であっても、すなわち見えたという自覚がなくてもあっても、図や言葉が先に提示されていると、その刺激または関連刺激への活性化が高まり、処理されやすくなる、あるいは選ばれやすくなる効果がある。
「(10) サブリミナル知覚、つまりサブリミナル(閾下)の刺激に対して意識的な自覚が本人にない場合でも、そのサブリミナル刺激を無意識に知覚できる可能性が明らかにあります。このことについての直接的な証拠が、私たちのタイム-オン理論の実験的検証(この章の冒頭での議論を参照)に現われていました。サブリミナル知覚は、普通な自然の感覚刺激が使われる場合、立証するのがより難しくなります。これは、サブリミナルと(アウェアネスを生み出す)閾値上の感覚刺激の(強さ、持続時間などの)違いが通常小さいことからきています。しかし、かなり多くの間接的な証拠が、サブリミナル知覚の存在をサポートしています。これらの証拠は主に、意識を伴うアウェアネスにまでは到達しないような刺激が提示された後で、テスト時に加えられたさまざまな操作から得られたものです。こうした刺激提示後のテストでの被験者の反応には、単独ではアウェアネスを生み出さない、以前のサブリミナル刺激の影響が現れているのです。ハワード・シェヴリン(1973年)が行った初期の研究では、図や言葉を視覚的に提示した時間が非常に短かった(1~2ミリ秒間)ため、被験者はその内容にまったく気づきませんでした。しかし、その後の検査によって、これらの識閾外の内容は言語連想法のテストにおける被験者の反応の選択に影響を与えていたことがわかりましたが、被験者はこれらの影響い気づかないままでした。テストを受けた被験者ののちの反応が、識閾外の言葉の刺激によって「プライムされる」(すなわち促進される)のです。[訳注=閾値より下であっても上であっても、すなわち見えたという自覚がなくてもあっても、図や言葉が先に提示されていると、その刺激または関連刺激への活性化が高まり、処理されやすくなる、あるいは選ばれやすくなる効果を指して「プライミング」という。これは視覚に限らず、聴覚などでも生じることが知られている。]」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第3章 無意識的/意識的な精神機能,岩波書店(2005),pp.137-138,下條信輔(訳))
(索引:サブリミナル効果,プライミング)
(出典:wikipedia)
「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)
ベンジャミン・リベット(1916-2007)
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2020年6月15日月曜日
合理性の前提にある「状況」には少なくとも3つの意味がある。真に客観的な状況に応ずる仮想的な合理性、行為者が現実に認識している状況に応ずる現実的な合理性、行為者が認識すべき状況に応ずる規範的な合理性である。(カール・ポパー(1902-1994))
状況の3つの意味
【合理性の前提にある「状況」には少なくとも3つの意味がある。真に客観的な状況に応ずる仮想的な合理性、行為者が現実に認識している状況に応ずる現実的な合理性、行為者が認識すべき状況に応ずる規範的な合理性である。(カール・ポパー(1902-1994))】合理性原理の3つの意味
(1)客観的状況
(a)現実にそうであったものとしての状況、歴史家が再構成しようとする客観的状況である。
(b)客観的状況とは、そもそも何かを考えると、(3)が(1)を構成しているともいえる。
(c)各行為者が、現実をどのように認識していたのかという状況も含まれる。すなわち、以下の(2)も状況として(1)に含まれている。
(2)行為者が認識する状況
行為者が現実に見たものとしての状況である。
(3)行為者が認識すべき状況
行為者が、客観的状況のなかでそう見ることができたはずの、そしてたぶんそう見るべきだったはずの状況である。
(4)仮想的な合理性原理
行為者は、自らの客観的状況(1)に対して適切に行動する。
(5)現実的な合理性原理
行為者は、認識した自らの状況(2)に対して適切に行動する。
(6)規範的な合理性原理
(a)行為者は、認識すべきと考えられる自らの状況(3)に対して適切に行動するべきである。
(b)歴史家が、「失敗」を説明しようと試みるさいには、合理性原理についての(2)と(3)の違いを論ずることになろう。
(c)もし(2)と(3)のあいだに衝突があれば、行為者は合理的に行為しなかったといってもよい。
(d)なお状況は、過去、現在、予測としての未来、規範としての未来を含むだろう。すなわち、行為者は過去、現在をこのように認識すべき、状況がこのような結果を招くだろうと予測すべき、状況からこのようにすべきと認識すべきという様相が区別できよう。
(7)現実的な人間行動
われわれはしばしば(1)、(2)、(3)のどの意味でも状況に対して適切ではないような仕方で行為する、言葉をかえれば、合理性原理はわれわれが行為する仕方の記述としては、普遍的には真ではないとつけ加えてもいいだろう。
「公演の前の方で、わたくしは、人は自らの(その知識と技術も含めた)客観的状況に対して適切に行動するという見解として考えられた合理性原理に関心があった。つづく部分では、人は自分が見たものとしての状況に適切な仕方で行動するという見解に関心をはらっている。いまや「合理性」には(それゆえ「合理性原理」にも)少なくも三つの意味があるように思われる。どれも客観的であるが、行為者が行為している状況の客観性にかんしては違いがある。
(1)《現実にそうであったものとしての状況》――歴史家が再構成しようとする客観的状況。
この客観的状況の一部は、
(2)《行為者が現実に見たものとしての状況》。
しかし、(1)と(2)のあいだには第三の意味がある。
(3)《行為者が、(客観的状況のなかで)そう見ることができたはずの、そしてたぶんそう見るべきだったはずの状況》。
これら三つの「状況」の意味に対応して「合理性原理」にも三つの意味があることは明らかである。さらに行為を理解するうえで、とりわけ歴史家が《失敗》を説明しようと試みるさいには、合理性原理についての(1)の意味とほかのふたつの意味の違いが一定の役割を演じるだろうことは明らかであり、(2)と(3)の違いも似たような役割を演じるだろう。強調されなければならないことだが、(2)と(3)は今度は、客観的状況(1)(の多かれ少なかれ洗練された分析)の一部を形成しているのである。しかも、もし(2)と(3)のあいだに衝突があれば、行為者は合理的に行為しなかったといってもよい。(そのような衝突は、精神分析学者によって、おそらく現実原則〔現実生活に適応するために、快楽などの原始的な本能的欲求を一時的、または永久に断念する自我の働き〕の失敗として記述されるだろうと思う。)(3)は、あるがままの状況のある側面を見るさいの難しさに対する評価を含んでいるかもしれない。
この論文にかんしては、これらの定式化を使って、(1)と(3)については早い方の節で、そして(2)については終りの方の節で論じたと言われるかもしれない。わたくしの見解では、われわれはしばしば(1)、(2)、(3)のどの意味でも状況に対して適切ではないような仕方で行為する――ことばをかえれば、合理性原理はわれわれが行為する仕方の記述としては普遍的には真ではないとつけ加えてもいいだろう。」
(カール・ポパー(1902-1994),『フレームワークの神話』,第8章 モデル、道具、真理,第13節「不合理な」行為,注19,pp.308-310,未来社(1998),ポパー哲学研究会,蔭山泰之(訳))
(索引:状況)
(出典:wikipedia)
「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる。
9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
カール・ポパー(1902-1994)
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2020年6月14日日曜日
仮説的推測的知識の客観性の本質は,推論を反駁し,テストで反証しようとする他者の存在である.また,科学と擬似科学を区別するのは理論の反証可能性である.自由な批判とテストによって誤りが除去されていく.(カール・ポパー(1902-1994))
仮説的知識の客観性の本質
【仮説的推測的知識の客観性の本質は,推論を反駁し,テストで反証しようとする他者の存在である.また,科学と擬似科学を区別するのは理論の反証可能性である.自由な批判とテストによって誤りが除去されていく.(カール・ポパー(1902-1994))】(1)科学的知識の性質
あらゆる科学的知識は仮説的ないし推測的なものである。
(1.1)科学的客観性を保証するもの
科学的客観性は、その理論を反駁しようとする批判によって保証される。
(1.2)科学者の友好的かつ敵対的協働
客観性は、個々の科学者の客観性ないし公平無私によって保証されるのではなく、「科学者の友好的かつ敵対的協働」とでも呼べる科学者の集団によってもたらされる。
(1.3)科学における権威主義と批判的アプローチの対比
科学における権威主義は、科学上の理論を確立しようとする観念、すなわち理論を証明したり、実証したりしようとする観念と結びついていた。批判的アプローチは、科学上の推測をテストしようとする観念、すなわち推測を反駁したり、反証したりしようとする観念と結びついている。
(2)大胆な理論の提起
知識の成長、とくに科学的知識の成長は、われわれの誤りから学ぶことにある。まず、あえて誤りを犯すというリスクを冒すこと、すなわち、新しい理論を大胆に提起する。
(2.1)科学と擬似科学を区別する反証可能性
理論とか仮説とか推測が科学において果たす根本的な役割は、テスト可能(あるいは反証可能)な理論と、テスト可能ではない(あるいは反証可能ではない)理論とのあいだの区別を重要なものにする。
(2.2)ある出来事が生じないことを予言する理論
ある特定の出来事が生じないであろうと予言する理論が、反証可能な理論である。あらゆる手段を講じて、その出来事を生じさせようと努めることが、テストになる。
(2.3)テスト可能性の度合
より多くのことを主張し、したがってより多くのリスクを冒している理論の方が、主張をあまりしていない理論よりテスト可能性の度合が高い。
(2.4)テストの厳しさの度合
定性的なテストは、一般的にいえば、定量的なテストよりきびしさの度合が低い。また、より正確な定量的予測のテストの方が、正確さの劣る予測のテストよりもいっそう厳しいテストである。
(3)誤りを除去する批判的方法
われわれが犯した誤りを系統的に探すこと、すなわち、われわれの理論を批判的に議論したり、批判的に検討したりする。
(3.1)批判に対する辛抱強い反論の必要性
科学の方法は批判的議論の方法なので、批判の対象となっている理論が、辛抱強く擁護されるべきだということもおおいに重要なことである。というのは、そのような仕方でのみ、理論のもつ真の力を知ることができるからだ。
(3.2)実験的テスト
この批判的議論で用いられるもっとも重要な議論のなかには、実験的テストによる議論がある。
(3.3)実験は理論に導かれている
実験は、つねに理論によって導かれている。
「わたくしがこれまで述べてきたなかで、論争をひき起こしそうなことがらすべてを、いくつかのテーゼに言い換えて、わたくしの講演の前半部分のまとめとすることにしましょう。しかもそうしたテーゼをできるかぎり挑戦的な仕方で述べるつもりです。
1 あらゆる科学的知識は仮説的ないし推測的なものです。
2 知識の成長、とくに科学的知識の成長は、われわれの誤りから学ぶことにあります。まず、あえて誤りを犯すというリスクを冒すこと――すなわち、新しい理論を大胆に提起することです。次に、われわれが犯した誤りを系統的に探すこと――すなわち、われわれの理論を批判的に議論したり、批判的に検討したりすることです。
4 この批判的議論で用いられるもっとも重要な議論のなかには、実験的テストによる議論があります。
5 実験は、つねに理論によって導かれます。実験家が意識していないことはしばしばですが、理論的直感によって導かれます。実験上の誤りの可能な源泉についての仮説や、どのような実験が実り豊かだろうかということについての希望や推測によって導かれているのです。(《理論的》直感によってわたくしが意味するのは、ある種の実験は理論的に実り豊かだろうという推測のことです)。
6 科学的客観性と呼ばれるものは、もっぱら批判的アプローチにあります。もしあなたが自分のお気に入りの理論によって偏向しているならば、あなたの友人や同僚の誰か(あるいはそうでなければ、次の世代の研究者の誰か)があなたの仕事を批判しようとするだろう――もし可能ならばあなたのお気に入りの理論を反駁しようとするだろう――という事実にあります。
7 とすれば、自分自身で自分の理論を反駁するように努めるべきだということになります。すなわち、この事実はあなたになんらかの規律を課すでしょう。
8 これにもかかわらず、科学者が他のひとびとよりも「客観的」であると考えることは間違っているでしょう。客観性をかたちづくるのは、個々の科学者の客観性ないし公平無私ではなく、科学そのもの(「科学者の友好的かつ敵対的協働」とでも呼べるかもしれないもの、すなわち相互批判の用意が科学者同士にあること)です。
9 個々の科学者がドグマティックになったり、偏向したりすることを方法論的に正当化するようなものすら存在します。科学の方法は批判的議論の方法なので、批判の対象となっている理論が辛抱強く擁護されるべきだということもおおいに重要なことです。というのは、そのような仕方でのみ、理論のもつ真の力を知ることができるからです。そして批判が抵抗に対処するかぎりにおいてのみ、批判的議論のもつ十分な効力を学ぶことができるのです。
10 理論とか仮説とか推測が科学において果たす根本的な役割は、テスト可能(あるいは反証可能)な理論と、テスト可能ではない(あるいは反証可能ではない)理論とのあいだの区別を重要なものにすることです。
11 ある特定の考えうる出来事は実際には生じないであろうと主張したり、含意したりする理論のみがテスト可能です。テストというものは、その理論がわれわれに生じえないと告げているまさにそうした出来事を、われわれが召集しうるあらゆる手段を講じて生じさせようと努めることからなっています。
12 したがって、あらゆるテスト可能な理論は、ある一定の出来事の生起を禁止していると言えるかもしれません。経験的実在に制限を加えるかぎりにおいてのみ、理論は経験的実在について語っているのです。
13 あらゆるテスト可能な理論は、したがって、「しかじかのことは生じえない」というかたちで述べることができます。たとえば、熱力学の第二法則は、第二種の永久機関は存在しえないというように言い表わせます。
14 どんな理論も、原理的に経験的世界と衝突しえないかぎり、経験的世界について何も語ることはできません。そしてまさにこのことが、理論は反駁可能でなければならないということの意味です。
15 テスト可能性には度合があります。より多くのことを主張し、したがってより多くのリスクを冒している理論の方が、主張をあまりしていない理論よりテスト可能性の度合が高いことになります。
16 同様に、テストにもきびしさの度合をつけることができます。たとえば、定性的なテストは、一般的にいえば、定量的なテストよりきびしさの度合が低いといえます。また、より正確な定量的予測のテストの方が、正確さの劣る予測のテストよりもいっそうきびしいテストになります。
17 科学における権威主義は、科学上の理論を確立しようとする観念、すなわち理論を証明したり、実証したりしようとする観念と結びついていました。批判的アプローチは、科学上の推測をテストしようとする観念、すなわち推測を反駁したり、反証したりしようとする観念と結びついています。」
(カール・ポパー(1902-1994),『フレームワークの神話』,第4章 科学――問題、目的、責任,pp.169-172,未来社(1998),ポパー哲学研究会,立花希一(訳))
(索引:仮説的知識,科学,仮説的知識の客観性)
(出典:wikipedia)
「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる。
9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
カール・ポパー(1902-1994)
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帰結による合理的討論によっても,各自の原理の外へは出れないという反論に対する再反論.相手の原理を無視し自己強化するのでなく,自他の原理を超えた,より包括的な真理の探究という原理によって乗り越え可能である.(カール・ポパー(1902-1994))
より包括的な真理の探究
【帰結による合理的討論によっても,各自の原理の外へは出れないという反論に対する再反論.相手の原理を無視し自己強化するのでなく,自他の原理を超えた,より包括的な真理の探究という原理によって乗り越え可能である.(カール・ポパー(1902-1994))】(2.3)(2.4)追記。
(1)フレームワークの神話
合理的討論の前提には無条件的な原理があり(独断論),原理自体は討論の対象外で(共約不可能性),全て同等の資格を持つ(相対主義).これは誤りである.原理は常に誤謬の可能性があり,その論理的帰結によって合理的討論ができる.(カール・ポパー(1902-1994))
(1.1)独断論
あらゆる合理的討論は何らかの原理、もしくはしばしば公理と呼ばれるものから出発せねばならず、また無限背進を避けようと望むならば、こういった原理や公理を独断的に受け入れねばならない。
(1.2)共約不可能性
前提にした原理や公理自体は、合理的討論は不可能であり、したがって合理的選択もありえない。
(1.3)相対主義
全てのフレームワークは、優劣において同等の資格を持つ。
(2)フレームワークの神話の誤り
(2.1)フレームワークの神話の暗黙の前提
フレームワークの神話には、暗黙の仮定が存在する。それは、合理的討論は正当化や証明、論証、あるいは是認された前提からの論理的導出といった特徴を持たねばならないという仮定である。
《概念図》
原理1 ←互いに対立→ 原理2
↓ 討論不可 ↓
結論1 結論2
(2.2)原理や公理は科学における合理的討論の対象
科学における合理的討論は、原理や公理の論理的帰結が、すべて受け入れることのできるものかどうかを、あるいは望ましからぬ帰結が生じないかどうかを調べることによって、テストしようとするものなのである。
《概念図》
原理1 原理2 ……つねに誤りの可能性がある
↓ ↓
結論1 結論2 ……結論が受け入れられるか?
(2.3)反論
「われわれに好ましく思える帰結」自体が、フレームワークの一部なのだから、フレームワークの外側に出ることはできない。
(2.4)反論への回答
原理1、結論1が自らの主張であるとして、結論1も結論2も満足できない場合、われわれは以下の二つの方法を選択することができる。
(2.4.1)方法1:自らの原理を強化する
自らの原理1を強化して、相手の原理、結論は課題に設定しない。
(2.4.2)方法2:人間、社会、自然、宇宙の真の姿の理解
人間、社会、自然、宇宙の真の姿を理解すること。これは、確かに、一つのフレームワークの選択であるかもしれない。しかし、自らの原理、結論とともに、相手が提示した原理、結論をも理解して、乗り越えようとする原理である。
《概念図》
原理1 原理2
↓ ↓
結論1 結論2
不満足 不満足
方法1
原理1’修正 原理2
↓ ↓
結論1’ 結論2
満足 考慮外
方法2
より包括的な真理の探究
という原理 │
↓ ↓
原理1” 原理2”
↓ ↓
結論1” 結論2”
満足 満足
「もちろん、フレームワークの神話の支持者はこの考え方を批判するであろう。たとえば、わたくしが批判の正しい方法と呼ぶものによっても、われわれは決してみずからのフレームワークの外に出ることはできない――なぜなら、「われわれに好ましく思える帰結」自体がわれわれのフレームワークの《一部》なのだからと主張するだろう。つまり、ここでわれわれが手にしているのは、フレームワークの批判的超越ではなく、単なる自己正当化のモデルにすぎない、という批判である。
しかしわたくしはこの批判は誤りだと考える。われわれの見解をこのように解釈することは《できる》が、このように解釈《しなければならない》わけではない。われわれは目的や目標――たとえばわれわれが住み、われわれ自身がその一部でもある宇宙をよりよく理解するといった目的――を追求することを選択できる。この目的は、その達成のために産み出される個々の理論やフレームワークから自立したものである。そしてわれわれは、目標を達成するのに役立ち、どの理論やフレームワークも満たすのが容易では《ない》ような説明の基準や方法論的規則の設定を選択できる。もちろんわれわれは、このようなことをしないという選択もできる。われわれの見解を自己強化することを決定することもできるのである。つまり、われわれの現在の見解が達成できるとわかっている課題以外は設定しないようにすることもできるのである。このような選択が可能であることは確かである。しかし、このような選択をすれば、われわれはみずからが誤っていることを学ぶ機会に背を向けるのみならず、われわれをこんにちのようなわれわれにし、知による自己解放という希望を提供する(古代ギリシャに由来し、また文化衝突から生じた)批判的思考の伝統にも背を向けることになるであろう。」
(カール・ポパー(1902-1994),『フレームワークの神話』,第2章 フレームワークの神話,pp.117-118,未来社(1998),ポパー哲学研究会,小林傳司(訳))
(索引:より包括的な真理の探究)
(出典:wikipedia)
「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる。
9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
カール・ポパー(1902-1994)
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2020年6月11日木曜日
合理的討論の前提には無条件的な原理があり(独断論),原理自体は討論の対象外で(共約不可能性),全て同等の資格を持つ(相対主義).これは誤りである.原理は常に誤謬の可能性があり,その論理的帰結によって合理的討論ができる.(カール・ポパー(1902-1994))
フレームワークの神話
【合理的討論の前提には無条件的な原理があり(独断論),原理自体は討論の対象外で(共約不可能性),全て同等の資格を持つ(相対主義).これは誤りである.原理は常に誤謬の可能性があり,その論理的帰結によって合理的討論ができる.(カール・ポパー(1902-1994))】(1)フレームワークの神話
(1.1)独断論
あらゆる合理的討論は何らかの原理、もしくはしばしば公理と呼ばれるものから出発せねばならず、また無限背進を避けようと望むならば、こういった原理や公理を独断的に受け入れねばならない。
(1.2)共約不可能性
前提にした原理や公理自体は、合理的討論は不可能であり、したがって合理的選択もありえない。
(1.3)相対主義
全てのフレームワークは、優劣において同等の資格を持つ。
(2)フレームワークの神話の誤り
(2.1)フレームワークの神話の暗黙の前提
フレームワークの神話には、暗黙の仮定が存在する。それは、合理的討論は正当化や証明、論証、あるいは是認された前提からの論理的導出といった特徴を持たねばならないという仮定である。
《概念図》
原理1 ←互いに対立→ 原理2
↓ 討論不可 ↓
結論1 結論2
(2.2)原理や公理は科学における合理的討論の対象
科学における合理的討論は、原理や公理の論理的帰結が、すべて受け入れることのできるものかどうかを、あるいは望ましからぬ帰結が生じないかどうかを調べることによって、テストしようとするものなのである。
《概念図》
原理1 原理2 ……つねに誤りの可能性がある
↓ ↓
結論1 結論2 ……結論が受け入れられるか?
併せて考察せよ:事実の叙述は、絶対的価値の判断ではあり得ない。しばしば価値表明は、特定の目的が暗黙で前提されており、その目的(価値)に対する手段としての相対的価値の判断である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))
「フレームワークの神話は、《根本的な》ことがらについての合理的な討論はできない、あるいは《原理》についての合理的な討論は不可能だという教義と明らかに同じものである。
この教義は論理的には、次のような誤った見解から生じている。すなわち、あらゆる合理的討論はなんらかの《原理》、もしくはしばしば《公理》と呼ばれるものから出発せねばならず、また無限背進――原理や公理の妥当性を合理的に討論するさい、われわれは再び原理や公理に訴えねばならないという主張にみられるような背進――を避けようと望むならば、こういった原理や公理を独断的に受け入れねばならない、という見解である。
通常、こういった状況を経験したことがある人は、原理または公理からなるフレームワークの真理性を独断的に主張するか、相対主義者になる。つまり、異なるフレームワークが存在し、それらの間の合理的討論は不可能であり、したがって合理的選択もありえないと言うのである。
しかしこれは誤りである。というのはこの見解の背後には、合理的討論は正当化や証明、論証、あるいは是認された前提からの論理的導出といった特徴をもたねばならないという暗黙の仮定が存在するからである。しかし自然科学においておこなわれている種類の討論は、われわれ哲学者に別の種類の合理的討論が存在することを教えてくれたと言えるかもしれない。それは批判的討論であり、そこでは、とりわけなんらかの高次の前提から導出することによって、ある理論を証明したり正当化したり確立したりしようとすることはなく、論議の対象である理論を、その《論理的帰結》がすべて受け入れることのできるものかどうかを、あるいは望ましからぬ帰結が生じないかどうかを調べることによって、テストしようとするものなのである。
それゆえわれわれは、《批判の誤った方法と正しい方法》とを論理的に区別することができる。《誤った方法》は、われわれがどうすればテーゼや理論を確立あるいは正当化できるかという問いから始める。これによって、独断論か無現背進、あるいは合理的には共約不可能なフレームワークという相対主義的教義のいずれかに導かれるのである。これと対照的に、批判的討論の《正しい》方法は、テーゼや理論の《帰結》は何か、そしてその帰結は受け入れることができるものかどうかという問いから始めるのである。
したがってこの方法は、異なった理論(あるいはお望みなら、異なったフレームワーク)の帰結を比較することにかかっている。この方法は、相争っている理論、もしくはフレームワークのどちらがわれわれに選択可能な帰結を生むかを調べようと試みるのである。それゆえ、この方法はわれわれのあらゆる理論をより良いものに取り替えようと試みるが、われわれの方法すべてがもつ可謬性を自覚している。明らかにこれは困難な課題であるが、決して不可能なことではないのである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『フレームワークの神話』,第2章 フレームワークの神話,pp.116-117,未来社(1998),ポパー哲学研究会,小林傳司(訳))
(索引:フレームワークの神話)
(出典:wikipedia)
「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる。
9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
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