2022年1月25日火曜日

学問には、(a)先験的=演繹的な学問、(b)帰納的=経験的な学問、(c)過去を再構成する想像力による学問がある。象徴体系、表現の手段、表現様式を理解し、その前提である変化する現実、人間の歴史を再構成する。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

過去を再構成する想像力による学問

学問には、(a)先験的=演繹的な学問、(b)帰納的=経験的な学問、(c)過去を再構成する想像力による学問がある。象徴体系、表現の手段、表現様式を理解し、その前提である変化する現実、人間の歴史を再構成する。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)













(a)先験的=演繹的な学問
(b)帰納的=経験的な学問
(c)過去を再構成する想像力による学問
 (i)社会の変化成長の過程は、人びとが その過程を表現しようとする象徴活動とは、並行する。
 (ii)象徴体系は、それ自体が象徴する現実の本質的部分であり、現実と共 に変化する。
 (iii)表現の手段を理解することに始まり、それら手段が前提しかつ表現する現実像を探究する。
 (iv)体系的に変化する表現様式を通じて変化する現実、人間の歴史を探究する。

目的(文化、時代)、現実
 ↓
象徴体系、表現の手段、表現様式
 ↓
芸術作品の   ⇔ 芸術作品
理解・解釈・評価



「(7)それゆえに、伝統的な知識の二つのカテゴリー――先験的=演繹的と帰納的=経験的、五 感の感知によるものと、啓示によって賜ったものと――に加えて、過去を再構成する想像力とい う新種を追加しなければならない。この種の知識は、他の文化の精神生活に、さまざまな物の 見方や生き方に、「参入する」ことによって生まれる。それは想像力 fantasia の始動に よってのみ可能なのである。ヴィーコの云う想像力とは、社会の変化成長の過程と、人びとが その過程を表現しようとする象徴活動の中にも並行しておこる変化発展と、この両者を相関さ せて、むしろ前者は後者によって伝えられると考えることにより、変化過程を看取する方法な のである。というのは、象徴体系は、それ自体が象徴する現実の本質的部分であり、現実と共 に変化するものなのだから。表現の手段を理解することに始まり、それら手段が前提しかつ表現する現実像に達せんことを求めるという発見法は、歴史的真実についての一種の超越的演繹 法(カント流の意味で)である。これは従前の如き、変化する外観を通じて不変の現実に到達 する方法ではない。体系的に変化する表現様式を通じて変化する現実――人間の歴史――に至らん とする方法である。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,pp.17-18,みすず書 房(1981),小池銈(訳))


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




芸術作品は、その製作者たちの時代や場所、彼らの社会の成長段階にのみ限られるような象徴記号の目的、つまりは記号の固有な用法を正確に把握することにより、理解・解釈・評価されるべきである。あらゆる学術、思想、芸術、文化の歴史的研究と比較研究も同様である。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

芸術作品の解釈・評価

芸術作品は、その製作者たちの時代や場所、彼らの社会の成長段階にのみ限られるような象徴記号の目的、つまりは記号の固有な用法を正確に把握することにより、理解・解釈・評価されるべきである。あらゆる学術、思想、芸術、文化の歴史的研究と比較研究も同様である。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)












(a)芸術の解釈は時代と文化に依存する
 芸術作品は、その製作者たちの時代や場所、彼らの社会の成長段階にのみ限られるような象徴記号の目的、つまりは記号の固有な用法を正確に把握することにより、理解・解釈・評価されるべきである。
目的(文化、時代)
 ↓
芸術作品の   ⇔ 芸術作品
理解・解釈・評価

(b)異なる文化の理解
 我々の時代の文化と全く異なった文化の持つさまざまな不思議な点も、その神秘を解明し得る。
(c)学術、思想、芸術、文化の歴史的研究と比較研究
 人類学、社会学、 法学、経済思想、政治哲学、言語学、宗教学、文学、あらゆる芸術、理念、あらゆる文化の、発展の歴史的な探究と、異なる人々のあいだの比較研究が、可能となる。



「(6)右の趣旨から次のこと(事実上、一つの新しい美学)が生まれる。即ち、芸術作品 は、あらゆる場所のすべての人に有効な久遠の原理ないし基準を尺度にしてではなく、その製 作者たちの時代や場所、彼らの社会の成長段階にのみ限られるような象徴記号(特に言語)の 目的、つまりは記号の固有な用法を正確に把握することにより、理解・解釈・評価されるべきである。われわれの時代の文化と全く異なっているために、あるいは野蛮な混乱として、ある いはあまりにかけ離れた異国的なものゆえ真面目に注目するに値しないと、それまで退けられ てきた文化の持つさまざまな不思議な点も、右のような尺度によれば始めてその神秘を解明し 得る。これは比較文化史の端緒であり、一群の新しい歴史の学問――比較人類学、比較社会学、 比較法学・言語学・人種学・宗教学、比較文学、芸術史学、理念史、法制史、文明史――即ち、 歴史的、つまり発生的に考えられた、最広義の社会科学と後に呼ばれるようになった知識の全 分野の緒を開くものである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,p.17,みすず書房 (1981),小池銈(訳))


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年1月24日月曜日

人間の創造したもの、法律・制度・宗教・祭儀・芸術作品・言語・歌謡・礼儀作法な どを理解するには、彼らの精神に入ってゆき、彼らの目指したものを見つけ、彼らの表現方法の規則と意義とを知ることが必要である。それは自然なものであって、人びとを操り支配するために故意に作り上げられたようなものではない。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

文化の理解

人間の創造したもの、法律・制度・宗教・祭儀・芸術作品・言語・歌謡・礼儀作法な どを理解するには、彼らの精神に入ってゆき、彼らの目指したものを見つけ、彼らの表現方法の規則と意義とを知ることが必要である。それは自然なものであって、人びとを操り支配するために故意に作り上げられたようなものではない。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)














「(5)人間の創造したもの――法律・制度・宗教・祭儀・芸術作品・言語・歌謡・礼儀作法な ど――は、人を喜ばせたり、昂揚したり、智慧を教えるための人工的産物でもなければ、人びと を操り支配し、社会の安寧を促すために故意に作り上げた武器でもなくて、自己表現、他の人びとと、あるいは神と、意志を通ずるための自然な形式である。古代人の神話や寓話、儀式や 記念碑は、ヴィーコの時代に横行していた見解によれば、手のつけようのない原始人の荒唐な 幻想ないしは大衆を瞞着して彼らを狡猾苛烈な支配者に服従させるための意図からデッチ上げ たもの、ということであった。この解釈を彼は全くの虚妄と見なす。すべてを人間になぞらえ る原始言語の比喩と同じく、神話・寓話・祭儀も、ヴィーコにとっては、それぞれ原始の人び とが世界を見、それを解釈した、それなりに一貫した見方を伝えるための自然な方策である。 このように考えると、太古の人びとや彼らの世界を理解する道は、彼らの精神に入ってゆくこ と、彼らの目指したものを見つけ、彼らの表現方法――その神話・歌謡・舞踏・言語形式や慣用 句・結婚や葬礼の祭儀――の規則と意義とを知ること、これに頼るほかないということになる。 彼らの歴史を理解するには、彼らが生きる《よすが》としたものを理解することが必要であ る。ひとり彼らの言語・芸術・祭儀の真意を明かす鍵を持つ者のみが、よくそれを発見し得る であろう――ヴィーコの『新しき学』が提供しようとしたのは、まさにこの鍵であった。」 
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,pp.16-17,みすず書 房(1981),小池銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





人間の歴史を正しく理解するには、ある社会なり民 族なりの変転する文化の諸相に一つの連続があることを認識しなければならない。要求・欲望・野心を持つ人間が、特定のパターンの文化の中でつくっていく歴史にはある順序があり、時代錯誤という考えも、有効な意味を持っている。(ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

歴史の理解

人間の歴史を正しく理解するには、ある社会なり民 族なりの変転する文化の諸相に一つの連続があることを認識しなければならない。要求・欲望・野心を持つ人間が、特定のパターンの文化の中でつくっていく歴史にはある順序があり、時代錯誤という考えも、有効な意味を持っている。(ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)














「(4)ある所与の社会での活動には、そのすべてを特徴づける普遍的なパターンが存在す る。一つの社会全体の思想・芸術・制度・言語・生き方・動き方には、一つの共通した様式の 反映が見られる。この考えは文化という概念と等しい。必ずしも単一の文化とは限らない、多 数の文化が存在するのだ。その系として、人間の歴史を正しく理解するには、ある社会なり民 族なりの変転する文化の諸相に一つの連続があることを認識しなければならぬということにな る。この系は更に延びて、この連続は、単に因果によるものではなく、人間の理解し得るもの であることを含む。というのは、ある文化の相と次の相との関係、あるいは歴史的発展は、機 械的な原因結果の関係ではなく、人間の活動は目的をもつものゆえに、その時点での要求・欲 望・野心を満足させるべく意図された関係であり(その意図が実現されれば更に新しい要素や 目標を生む)、それゆえ十分な自意識を具えた人なら誰でも理解し得るはずである。またこの 連続の起こる順序も、出鱈目なものでも機械的に決定されたものでもなく、生活の要素、生活 の形式から、人間の目標志向的活動の白土に照らしてのみ説明可能な具合に、流れ出てくるも のであるからなのである。この社会的過程およびその順序は他の人びと、後世の社会の成員た ちにも理解できるはずである。というのはこの人びとも同様の企てに参加しているのであり、そのことが段階の違いこそあれ精神的・物質的発展の他段階における先人たちの生活を解釈す る手段を与えてくれるのだから。時代錯誤という考え自体が、この種の史的理解や順序立ての 可能であることを意味している。つまり時代錯誤と云うからには、文明や生き方のある特定の 発展段階に属しうるものと属し得ないものとを識別する能力を前提としているわけだ。そして それはまた、これらの社会における物の見方や信ずるところ(露わになったものも裡に潜んで いるものも)に、想像力を働かせて入ってゆく能力に依存している――このような探究は人間外 の世界にあてはめては全く意味をなさないであろう。一つの社会・文化・時代が、その因子や 要素においてはあるいは他の文明や他の時代と共通のものを持つとしても、それを組立てるパ ターンはおのおのの特定の他と識別しうる型を持っているがゆえに、それぞれ独自な性格を具 えるという考え、更にその系として、時代錯誤とは、右のような諸文明が従う理解可能で必然 的な連続の順序についての意識の欠如であえるという考え、わたくしはヴィーコ以前に、この ような意味での文化や歴史的変化について明確な概念を持っていた人がいたかどうかを疑 う。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,pp.14-16,みすず書 房(1981),小池銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





2022年1月23日日曜日

外部世界についての自然科学と、人間が自ら創造した世界についての知識である人文学は、その目標・方法・可知度が異なる。数学、言語、人間の歴史も「内部から」理解できる。人間が作者・演者・観察者を一身に兼ねているような人間の 諸活動すべての知識もまた然りである。(ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

自然科学と人文学

外部世界についての自然科学と、人間が自ら創造した世界についての知識である人文学は、その目標・方法・可知度が異なる。数学、言語、人間の歴史も「内部から」理解できる。人間が作者・演者・観察者を一身に兼ねているような人間の 諸活動すべての知識もまた然りである。(ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)















(1)外部世界についての知識
 人間が観察し、叙述し、分類し、考察し得て、時間的・空間的 規則性を記録し得る外部世界についての人間の知識である。
(2)人間が自ら創造した世界についての知識
 人間自身が創造した世界、人間自身が 自らの創造物に課した規則に従う世界についての知識である。
 (a)例えば、数学は人間の案出したものの知識であり、これについて人間は「内部か らの」観点をもっている。
 (b)人間が形成した言語の知識もそうである。
 (c)人間が作者・演者・観察者を一身に兼ねているような人間の 諸活動すべての知識もまた然り。
 (d)歴史は人間の行動に関するものであり、人間の努力・闘 争・目標・動機・希望・危惧・態度姿勢の物語であるがゆえに、この一段と勝った「内側か らの」形で知りうる。


「(3)それゆえに、われわれ人間が観察し、叙述し、分類し、考察し得て、時間的・空間的 規則性を記録し得る外部世界についての人間の知識は、人間自身が創造した世界、人間自身が 自らの創造物に課した規則に従う世界、この世界についての知識とは、原理的に異なる。後者 の知識は、例えば、数学――人間の案出したもの――の知識であり、これについて人間は「内部か らの」観点をもっている。また、言語、自然の諸力が作ったのではなく、人間が形成した言語 の知識もそうである。ひいては、人間が作者・演者・観察者を一身に兼ねているような人間の 諸活動すべての知識もまた然り。さて歴史は人間の行動に関するものであり、人間の努力・闘 争・目標・動機・希望・危惧・態度姿勢の物語であるがゆえに、この一段と勝った――「内側か らの」――形で知りうる。これについては外部世界の知識はおそらく範例となり得ないであろう ――それゆえ、この点については、自然に関する知識をモデルとしているデカルト一派は必然的 に誤っていることになる。これを土台としてヴィーコは、自然科学と人文学との間に、自己理 解と外的世界の観察との間に、またそれぞれの目標・方法・可知度について、明確な一線を画したのである。この二元論は爾来、絶えず熾烈な議論の主題となっている。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,p.14,みすず書房 (1981),小池銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





2022年1月22日土曜日

《もの》を作りまた創造する人は、単なる《もの》の観察者にはできぬような具合 に、その《もの》を理解し得る。人間はある意味で人間自身の歴史を作るのだから、人間は自分たち の歴史は理解できる。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

自ら創造したもの

《もの》を作りまた創造する人は、単なる《もの》の観察者にはできぬような具合 に、その《もの》を理解し得る。人間はある意味で人間自身の歴史を作るのだから、人間は自分たち の歴史は理解できる。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)














「(2)《もの》を作りまた創造する人は、単なる《もの》の観察者にはできぬような具合 に、その《もの》を理解し得る。人間はある意味で人間自身の歴史を作る(ただし、この種の 作りかたがどのようなものかは完全には明らかにされていないが)のだから、人間は自分たち の歴史は理解できるが、外部の自然の世界は、人間が作ったものではなく、単に観察し解釈し ているにすぎぬものである以上、人間自身の経験や活動を解し得るようには、人間には理解し得ぬものである。ただ神のみが、自然を作られたがゆえに、自然の世界を完全に、一から十ま で、理解し得るのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,p.13,みすず書房 (1981),小池銈(訳))


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




人間の本性は、静止的、不可変なものではない。様々な変化を通じても同一不変たり続けるような中心の核や精髄を含んでいるとさえ言えない。人間自身の努力は、不断に人間の 世界と、人間自身とを変化させてゆく。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

人間本性の可変性

人間の本性は、静止的、不可変なものではない。様々な変化を通じても同一不変たり続けるような中心の核や精髄を含んでいるとさえ言えない。人間自身の努力は、不断に人間の 世界と、人間自身とを変化させてゆく。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)





















 「では、その時間の浸蝕を退けた考えとは何か、と問われるであろう。ヴィーコの場合につ いては、わたくしの眼に最も刮目すべきところと思われるものを、7つの命題の形で要約させ て頂こう。  (1)人間の本性は、永らくそう思われてきたように、静止的、不可変なものではない、いや 外力によって変えられたことがなかったとさえいえない。さまざまな変化を通じても同一不変 たり続けるような中心の核や精髄を含んでいるとさえ云えない。自分をとりまく世界を理解 し、それを自らの物理的・精神的要求に適合させようとする人間自身の努力は、不断に人間の 世界と人間自身とを変化させてゆく。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,p.13,みすず書房 (1981),小池銈(訳))


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




課題の解決は人々を変え、新たな課題を生む。将来の課題は予知できない。人間の目的は創造されるのであって発見されるのではない。人は、自由への恐れから、客観的な道徳的原理や客観的権威を求めるが、それは幻想であるとする思想がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

客観的な価値は存在するのか

課題の解決は人々を変え、新たな課題を生む。将来の課題は予知できない。人間の目的は創造されるのであって発見されるのではない。人は、自由への恐れから、客観的な道徳的原理や客観的権威を求めるが、それは幻想である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)課題の解決は人々を変え、新たな課題を生む
 ある時代または文化の問題を解決しようとする努力そのものが、当の努力をしている人々および解決案が適用される人々をともに変えてしまい、それによって新しい人間、新しい諸問題が創り出されることになる。
(2)将来の課題は予知できない
 歴史的地平によって制約された人 間が、将来の人々の課題や諸問題を予知をすることはできず、まして分析や解決などはできない。
(3)目的は創造されるのであって発見されるのではない
 行為の目的は発見されるのではなく、芸術の仕事と同じように 個々人、または文化、または国民によって創造されるものなのであって、「何をなすべき か」という問いに対する答えは、発見されることはできない。(主観主義、非合理主義、ロマン主義)
 (a)解答は行動にある
  その問いがそもそも事実に関する問いではなく、解答が、命題あるいは定式、客観的な善、原理、客観的あるいは主観的な価値体系、心と心でないなにものかとの関係を発見することにはなくて、行動のうちにある。
 (b)意志、信仰、創造の行為
  発見されるのではなくて発明しかされえない何ものかのうちに、あらかじめ存在する規則や法則、事実などには従属しない意志あるいは信仰あるいは創造の行為のうちにあるからだ。

(4)客観的な価値論への批判
 (a)自由への恐怖
  客観的基準などというものは幻想の一形 態ないし「虚偽意識」の一形態であるとされ、そうしたこしらえごとを信ずるのは、心理学的 には自由の恐怖、ひとり放り出され、自分だけの工夫にまかされることへの恐怖に由来する。
 (b)道徳的原理、客観的権威、形而上学的宇宙論
  この恐怖によって、道徳的あるいは知的な規則とか原理とかの、永遠の真正性を保証する客観的権威を要求する諸体系、またはまがいものの神学的ないし形而上学的宇 宙論の無批判的容認へと導かれる。


「もう一方の側には、なんらかのかたちの原罪とか、人間の完成の不可能性を信じるひとた ち、それゆえ、いちばん根本的な人間の諸問題に対する最終的な解決の経験的達成の可能性に は懐疑的な傾向のひとたちがいる。そのなかには、懐疑論者、相対主義者がおり、また、ある 時代または文化の問題を解決しようとする努力そのものが、当の努力をしているひとびとおよ び解決案が適用されるひとびとをともに変えてしまい、それによって新しい人間、新しい諸問 題が創り出されることになるのだから、その性格をかれらの歴史的地平によって制約された人 間が今日予知することはできず、まして分析や解決などはできないと信ずるひとたちも入る。 さらにまたこれには、多くの党派の主観主義者や非合理主義者も、とりわけロマン主義的な思 想家たちが属する。かれらは、行為の目的は発見されるのではなく、芸術の仕事と同じように 個々人、または文化、または国民によって創造されるものなのであって、「なにをなすべき か」という問いに対する答えは発見されることはできない。それは、答えを発見することがわ れわれの能力を超えているからではなく、その問いがそもそも事実に関する問いではなく、発 見されるかどうかはともかく、解答が、現にあるなにものか――命題あるいは定式、客観的な 善、原理、客観的あるいは主観的な価値体系、心と心でないなにものかとの関係――を発見する ことにはなくて、行動のうちにある。つまり、発見されるのではなくて発明しかされえないな にものかのうちに、あらかじめ存在する規則や法則、事実などには従属しない意志あるいは信 仰あるいは創造の行為のうちにあるからだ、と考える。さらにここは、ロマン主義の20世紀に おける継承者である実存主義者たちも加わる。かれらは、行動に対する個人の自由な関与、あ るいは自由に選択する発動者によって決定される生活様式というものを信じ、そうした選択は 客観的基準を考慮に入れないと考える。というのは、客観的基準などというものは幻想の一形 態ないし「虚偽意識」の一形態であるとされ、そうしたこしらえごとを信ずるのは、心理学的 には自由の恐怖――ひとり放り出され、自分だけの工夫にまかされることへの恐怖――に由来する とされるからである。この恐怖によって、道徳的あるいは知的な規則とか原理とかの永遠の真 正性を保証する客観的権威を要求する諸体系、またはまがいものの神学的ないし形而上学的宇 宙論の無批判的容認へと導かれるのだというのである。それからまた、運命論者や神秘主義 者、ならびに偶然が歴史を支配すると信ずるひとびとや他の非合理主義者なども、これに近い ところにいるばかりでなく、非決定論者とか、不変的法則にしたがう固定的な人間本性を発見 することができるかどうかに疑問を抱く困惑せる合理主義者なども、これに近いわけである。とくに、人間の将来の必要なりその充足なりは予示しうるという命題は、新しい行動の道をた えずきり拓いてゆくという前提――これはわれわれが人間というときに意味されているものの定 義そのもののなかに入っている前提である――によって必然的に意志とか、選択とか、努力と か、目的とかの概念を含んでくるところの人間本性観には適合しないと考えるひとびとは、そ うである。これは、現代のマルクス主義者がとっている立場であるが、かれらはその学説のよ り粗野な通俗版に対して、自分たち自身の前提や原理の内包するものを理解するにいたったの である。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,III,pp.475-477,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




信念や価値の問題もまた理性の対象である。我々は何を信じているのか、信じている理由はなにか、その信念は、どのような価値と真理との規準を含んでいるか。人間と社会、政治を、動機と理由による正当化と説明を求める理性的な好奇心が存在する限 り、政治理論が展開される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

信念と価値の問題

信念や価値の問題もまた理性の対象である。我々は何を信じているのか、信じている理由はなにか、その信念は、どのような価値と真理との規準を含んでいるか。人間と社会、政治を、動機と理由による正当化と説明を求める理性的な好奇心が存在する限 り、政治理論が展開される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(1)信念や価値の問題もまた理性の対象である
 事実において我々の信念を因果的に決定しているものが何であれ、以下のことを知ろうと欲しないのは、我々の理性能力を理由なく放棄することである。
 (a)我々は何を信じているのか。
 (b)信じている理由はなにか。
 (c)その信念が形而上学的に含意するものはなにか。
 (d)その信念は、他のタ イプの信念といかなる関連をもつか。
 (e)その信念は、どのような価値と真理との規準を含んでいるか。
 (f)その信念が、真理であり妥当性をもつと考えるのにどんな理由があるか。

(2)目的と理由による正当化を求めること
 理性的な好奇心、すなわち単に因果関係、函数的相関関係、統計的蓋然性などによるのみではなく、動機と理由による正当化と説明を求める気持ちが存在する限 り、政治理論が完全にこの地上から消え失せることはないであろう。

(3)新しい予言不可能な未来 への展開
 新マルクス主義、新トマス 主義、国家主義、歴史主義、実存主義、反エッセンシャリスト的自由主義、社会主義、また自 然権・自然法学説の経験的用語への移しかえ、経済学からのモデルおよび関連技術の政治的行 動への巧みな適用による諸発見、これらの諸観念の行動における衝突・結合・影響、等々、それらは大きな一伝統の死を指示するのではなく、いずれかといえば、新しい予言不可能な未来 への展開をこそ示唆するものであろう。



「われわれは、たいていは制御できない、そしておそらくはわれわれの知識をも超えた環境 によって、非理性的に信じているものを信ずるように条件づけられているのであろう。しか し、事実においてわれわれの信念を因果的に決定しているものがなんであれ、われわれがなに を信ずるか、その理由はなにか、そうした信念が形而上学的に含意するものはなにか、他のタ イプの信念といかなる関連をもつか、それはどのような価値と真理との規準を含んでいるか、 またそれを真理であり妥当性をもつと考えるのにどんな理由があるか、といったことを知ろう と欲しないのは、われわれの論究する理性能力を理由なく放棄する――自然科学と哲学的研究の 混同に基づいて――ことであろう。理性的であるとは、ひとが考えることができ、また理解しう る理由によって行動することができる、しかもその理由はたんに、「イデオロギー」を生み出 す隠れた諸原因の産物として理解されるのではなく、その犠牲によってはどうあっても変えられない、という信念に基づく。理性的な好奇心――たんに因果関係、函数的相関関係、統計的蓋 然性などによるのみではなく、動機と理由による正当化と説明を求める気持ち――が存在する限 り、政治理論が完全にこの地上から消え失せることはないであろう、たとえ社会学、哲学的分 析、社会心理学、政治科学、経済学、法律学、意味論、等々の多くの競争相手がその空想的領 域を放逐し去ったと主張するにしても。  歴史上はじめて文字通り全人類が、まさにそれこそこの政治理論という研究部門の唯一の存 在理由であり、またつねにそうであったところの論点によって、烈しく対立させられている時 代に、政治理論がかくも日陰的生存を強いられているかに見えることは、まことに奇妙なパラ ドックスである。しかし、これで万事が終わるとは信じられない。新マルクス主義、新トマス 主義、国家主義、歴史主義、実存主義、反エッセンシャリスト的自由主義、社会主義、また自 然権・自然法学説の経験的用語への移しかえ、経済学からのモデルおよび関連技術の政治的行 動への巧みな適用による諸発見、これらの諸観念の行動における衝突・結合・影響、等々、そ れらは大きな一伝統の死を指示するのではなく、いずれかといえば、新しい予言不可能な未来 への展開をこそ示唆するものであろう。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由論』,IX,pp.511-512,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




過去の政治学説は、社会状況が課す問題、目標、価値観に基づく人間と社会の理論であり、人間や環境が根本的に変わらず現に今日ある通りのものである間は、現実の諸条件が人間のどの側面を際立たせるかに応じて、優勢になったり劣勢 になったりするであろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治理論の特質

過去の政治学説は、社会状況が課す問題、目標、価値観に基づく人間と社会の理論であり、人間や環境が根本的に変わらず現に今日ある通りのものである間は、現実の諸条件が人間のどの側面を際立たせるかに応じて、優勢になったり劣勢 になったりするであろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))




「その二、三の実例としては、カール・ポッパー教授のプラトンの政治理論に対する攻撃、 アーヴィング・バビットのルソーに対する痛烈な論難、シモーヌ・ヴェーユの旧約聖書の道徳 に対する烈しい嫌悪、今日しばしば行われている18世紀の実証主義ないし政治理論にける「科 学主義」に対する非難・攻撃、などを挙げることができよう。古典的な構成体のあるものは相 互に衝突し合うものであるけれども、それぞれが恒久的な人間の諸属性に関する生き生きとし たヴィジョンに基づき、各世代のある探究者たちの心を満たしうるものであるかぎり、いかに時間的・空間的環境が異なろうとも、プラトンやアリストテレスのつくったモデル、またユダ ヤ教、キリスト教、カント的自由主義、ロマン主義、歴史主義、等のモデルは、みな生きなが らえて、今日もさまざまな形で相争うているのである。  人間や環境が根本的な変化をとげるとか、われわれの人間観に革命的変化をもたらすような 新しい経験的知識が獲得されるとかしたならば、そのときにはきっと、これらのモデルのある ものは関連性を失い、エジプト人やインカ人の倫理や形而上学のように忘れ去れることであろ う。だが、人間が現に今日ある通りのものである間は、論争は、これらのヴィジョンなりそれ と同様の他のヴィジョンなりによって設定された用語でつづけられてゆくであろう。そしてそ のそれぞれは、現実の諸条件が人間のどの側面を際だたせるかに応じて、優勢になったり劣勢 になったりするであろう。ただひとつ確実なことは、哲学的問題とはなんであり、それは経験 的あるいは形式的問題とどのようにちがうか(もっともこの相違は必ずしも明確なものでなく てもよいので、重なり合ったり、あるいは境界線上にある問題は多々ある)を理解している、 また少なくとも感知しているひとびとにとってのほかは、その解答――いまここでの場合には西 洋の主要な政治学説――は、知的幻想、超然たる哲学的思弁、現実の行為ないし事件にたいして 関わりのない知的構成物と思われることであろう。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,VIII,pp.507-508,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




人間を定義するときに用いる基礎的カテゴリー、社会、自由、時間および変化の感覚、苦悩、幸福、生産性、善悪、正邪、選択、努力、真理、幻想、等々の観念は、記述的な概念だと考えられているが誤りである。人間観は、普遍的な諸価値を前提としている。そもそも、言語の意味はある意図(目的)を前提としているのである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

人間観を支持する諸価値

人間を定義するときに用いる基礎的カテゴリー、社会、自由、時間および変化の感覚、苦悩、幸福、生産性、善悪、正邪、選択、努力、真理、幻想、等々の観念は、記述的な概念だと考えられているが誤りである。人間観は、普遍的な諸価値を前提としている。そもそも、言語の意味はある意図(目的)を前提としているのである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



参考:意図と解釈


「われわれが人間を定義するときに用いる基礎的カテゴリー(およびそれに対応する概念) ――社会、自由、時間および変化の感覚、苦悩、幸福、生産性、善悪、正邪、選択、努力、真 理、幻想、等々(以上はまったくアット・ランダムに挙げただけだが)の観念――は、帰納の問 題でも、仮説の問題でもない。あるひとを人間として考えること、そのこと自体によって、こ れらすべての観念が働かされることになる。したがって、あるひとが人間であると言っておき ながら、そのひとに選択とか真理の観念とかがなんの意味ももたないというのは、奇妙であろ う。それは、たんに言葉の上だけの定義(それならば意のままに変えられる)としてではな く、われわれがものを考える仕方、また(ありのままの事実として)われわれが考えざるをえ ないその仕方に本質的なものとして、「人間」というときに意味しているものと衝突すること になろう。  これにはまた、それによって人間が定義される価値(とりわけ政治的価値)も保持されてい るであろう。だから、もしわたくしがあるひとについて、かれは親切だとか、残酷だとか、か れは真理を愛するとか、真理には無関心だとか言うならば、そのひとはいずれの場合にもやは り人間的ではあるのである。ところが、もしわたくしが、そのひとにとっては石をけとばすこ とも家族を殺すことも、いずれも倦怠ないし無為への反対であるがゆえに、文字通りなんの差 別もないようなひとを見出したとしたら、わたくしは首尾一貫した相対主義者のように、たん にわたくし自身ないし大多数のひとびとのそれとはちがった道徳がかれにあるからだと考えた り、われわれは肝心な点で意見がくいちがっていると言ったりしないで、かれは精神異常であ り、非人間的であると言おうとするであろう。自分はナポレオンだと考えるひとが気違いであると同様に、かれは気違いであると見なしたいと思う。つまり、それは、わたくしがそのよう な存在を完全に人間であるとは考えないということである。この種の事例によって、普遍的な ――ないしはほとんど普遍的な――諸価値を認知する能力が、「人間」、「合理的」、「正気 の」、「自然的」等々の基本的概念の分析には入りこんでくることが明らかにされるように思 われる。それらの概念はふつう価値評価にかかわるものでなく、記述的な概念だと考えられて おり、古いア・プリオリな自然法学説における真理の核心を今日経験的用語に翻訳する試みの 根底におかれているものである。記述的陳述と価値の陳述との間のまったく論理的な差別に対 する忠実な経験論者たちの確信をゆるがせ、ヒュームに由来するこの有名な区別に疑問を投じ たのは、新アリストテレス主義者やウィットゲンシュタインの後期学説の信奉者たちによるこ のような考察なのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,VIII,pp.500-501,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




政治哲学は、諸目的がたがいに衝突しあうような世界においてのみ、それは原理的に可能である。なぜなら、諸価値が対立せず一つの目標しか存在しなければ、手段についての議論は、技術的なもの、つまり科学的・経験的な性格のものとなるからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治哲学の成立条件

政治哲学は、諸目的がたがいに衝突しあうような世界においてのみ、それは原理的に可能である。なぜなら、諸価値が対立せず一つの目標しか存在しなければ、手段についての議論は、技術的なもの、つまり科学的・経験的な性格のものとなるからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)諸価値が対立せず一つの目標しか存在しなければ、政治哲学は不要となる
 ただ一つの目標によって支配されている社会においては、目的に到達する最上の手 段についての議論だけしかありえないはずであり、そうした手段についての議論は技術的なも の、つまり科学的・経験的な性格のものである。


「ところで、このことは、少なくともひとつ重要な問題が含まれている。もしも「いかなる 世界において政治哲学――それを存立せしめるような議論や論議――は原理的に可能であるか」と いうカント的な問題が提起されるならば、「諸目的がたがいに衝突しあうような世界において のみ、それは原理的に可能である」というのがそれに対する答えでなければならない。ただひ とつの目標によって支配されている社会においては、原理的にはこの目的に到達する最上の手 段についての議論だけしかありえないはずであり、そうした手段についての議論は技術的なも の、つまり科学的・経験的な性格のものである。それは経験と観察とによって確定され、その 他の方法を用いても原因や相関関係を発見することができる。それは、少なくとも原理的に は、実証科学に還元されうるものである。そのような社会にあっては、政治的目的とか価値と かについての深刻な問題は生じえないので、ただ目標に達するためのもっとも効果的な道はな にかという経験的な問題しかないわけである。」(中略)「以上のようなわけで、伝統的な意 味における政治哲学、すなわち、たんに諸概念の明瞭化ということだけではなく、前提とか暗 黙裡の想定とかの批判的検討、先後の順序や究極目的などの究明にたずさわる研究が可能であ るような唯一の社会は、あるひとつの目的が全体には受けいれられていない社会であるという ことになる。ただひとつの目的が全体に受けいれられないことの理由はさまざまありうるであ ろう。単一の目的がじゅうぶんなだけ多数のひとびとによって受けいれられなかったとか、他 の諸価値がいつかひとびとの理性なり感情なりを引きつけないという保証は、原理的には、あ りえないゆえに、あるひとつの目的を究極的と見なすわけにはゆかないからとか、いかなる終 局的な単独目的も発見しえない――ひとが多くのちがった目的を追求しうるものである限り、そ のうちのひとつ、あるいは一部が、そのひとたちお互いにとって終局的な単独目的の意味をも つことはないからとか、その他。これらの目的のうちのあるものは公共的ないし政治的な目的 であるかもしれない。それらのすべてが、原理的にも、相互に矛盾なく両立するものでなけれ ばならぬと考えるべき理由はない。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,II,pp.467-469,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




伝統的な政治理論の核心をなす諸問題のなかには、たとえば、平等の性質に関する問題、 権利、法、権威、規則などに関する問題がある。これらは、規範の正当化にかかわるため人間観、社会観、価値観を基礎とし、様々な見解が主張される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治理論と価値観の問題

伝統的な政治理論の核心をなす諸問題のなかには、たとえば、平等の性質に関する問題、 権利、法、権威、規則などに関する問題がある。これらは、規範の正当化にかかわるため人間観、社会観、価値観を基礎とし、様々な見解が主張される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)政治理論は規範の正当化にかかわるため人間観、社会観、価値観を基礎とする
「どうして人は服従するのか」という問題は経験的心理学、人類学、社会学の問題である。これに対して、「どうして人は、だれか他の人に服従しなければならないのか」という問題は、権威とか主権とか自由とかの観念における規範的なるものの説明、また政治的議論におけるそ れらの観念の妥当性の正当化を求めている。

(b)基礎となる価値観が異なると諸概念も根本的に異なる
 (i)いくつかの概念 の意味について広汎な意見の一致がない。
 (ii)諸問題を決定する公認の権威はだれなのか、または何なのか、等々に関しては大きな見解の相違がある。
 (iii)価値概念の分析に関する意見の不一致は、時としてさらに根本的な差異から生じてきていることは明らかであるように思われる。
 (iv)権利とか正義とか自由とかいう観念は、有神論者と無神論者とではまるきりちがったものになる だろうし、機械論的決定論者とクリスト教信者、ヘーゲル主義者と経験論者、ロマン主義的非合理主義者とマルクス主義者、等々でも根本的にちがうものになるであろう。



「伝統的な政治理論の核心をなす諸問題のなかには、たとえば、平等の性質に関する問題、 権利、法、権威、規則などに関する問題がある。われわれはこれらの概念を分析する必要があ り、またこれらの表現がわれわれの言語においてどのように機能するか、あるいはそれらがい かなるかたちの行為を命令し、禁止するか、またそれはどうしてか、あるいはそれらはどのよ うな価値体系ないし世界観に適合するか、またそれはどのようにしてか、といったことを追求 してゆく。おそらくあらゆる政治的問題のうちでもっとも基本的な問題は、「どうしてひと は、だれか他のひとに服従しなければならないのか」という問題であるが、この問いをわれわ れが発するとき、われわれが問うているのは「どうしてひとは服従するのか」という問題――こ れは経験的心理学、人類学、社会学が答えることができよう――ではないし、また「だれがだれ に服従するのか、いつまたどこで、それはいかなる原因によって決定されるか」という問題―― これもまたほぼ右の諸学の分野から引き出される証拠によっておそらく答えられるだろう――で もないのである。どうしてひとが服従しなければならないのかと問うときには、われわれは、 権威とか主権とか自由とかの観念における規範的なるものの説明、また政治的議論におけるそ れらの観念の妥当性の正当化を求めているわけなのだ。その名において命令が発せられ、ひと が強制され、戦争が行われ、新しい社会がつくられ、古い社会が破壊される、そういう言葉が ある。その言語表現は、今日のわれわれの生活において他のいかなるものにも劣らぬ大きな役 割を演じている。こうした問題が一見哲学的であるのは、そこに含まれているいくつかの概念 の意味について広汎な意見の一致がないという事実によるのである。それらの分野における行 動の真の理由はなんであるのか、どうしたら適切な諸命題が確立されうる、さらにはもっとも らしいものにされうるのか、それらの諸問題を決定する公認の権威はだれなのか、またはなん なのか、等々に関しては大きな見解の相違があり、したがって、真の公共的批判と転覆との境 界線、あるいは自由と抑圧との区別、等々についてもなんら意見の一致は見られない。こうい う問題に対して相容れることのない解答がさまざまな学派なり思想家なりによって提出されつ づけている限り、この分野における一科学――経験的にせよ形式的にせよ――の確立の見通しは、 前途ほど遠しの感がある。実際、価値概念の分析に関する意見の不一致は、時としてさらに根 本的な差異から生じてきていることは明らかであるように思われる。というのは、たとえば権 利とか正義とか自由とかいう観念は、有神論者と無神論者とではまるきりちがったものになる だろうし、機械論的決定論者とクリスト教信者、ヘーゲル主義者と経験論者、ロマン主義的非 合理主義者とマルクス主義者、等々でも根本的にちがうものになるであろうからである。さら にまた、これらの差異が、少なくも一見したところでは、論理的であるか経験的であるかとい うのではなく、ふつうは、いかんともしがたく哲学的なものとして類別される――そしてそれが 正当である――ようなものであったということも、同じく明らかなことのように思われる。」 

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,II,pp.466-467,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




31.過去の政治理論を理解するには、その理論を支えている基礎概念、範例、モデル、人間観、問題・課題を、想像的洞察力によって解明する必要がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治理論の理解

過去の政治理論を理解するには、その理論を支えている基礎概念、範例、モデル、人間観、問題・課題を、想像的洞察力によって解明する必要がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(1)基礎概念、範例、モデル、人間観、問題・課題
 想像的洞察力によって、以下を理解しなければ、政治理論を理解できない。
 (a)意識的あるいは無意識的に諸種の見解を支配しているモデル、範例、概念構成を理解すること。
 (b)いかなる人間観が織り込まれているか理解すること。あるいは、特定の要素が人間観から欠如しているかを理解すること。
 (c)人間の思想や行動を理解することは、人間がどんな問題、難問題と取り組んでいる かを理解することだ。
 (i)これらの諸問題が、古くから今日まで広く認められ た問題なら、その支配的なカテゴ リーにはっきりと言及しなくとも、理解することができるだろう。
 (ii)政治理論ではよくあるように、そうでない場合には、人間観、モデルの理解が必要となる。
 (iii)今日では廃棄され、すたれてしまったモデルに支配されていたひとびとの精神状態にわが身を置いてみる だけの想像力と知識がなければ、それを中心にしていた思想と行動とはわれわれには不分明な ままにとどまるだろう。

(2)道徳理論、社会理論、政治理論
 個人の問題だけに局限すれば道徳理論、集団の問題に限定すれば社会理論、あるいは政治的と分類される特別の人間配置の諸類型の問題に限定すれば政治理論である。

(3)例として国家とは何か
 (i)国家は我々の罪のためにのみ与えられたものだ。
 (ii)国家は我々が大人 になり自由になってそれなしで済ませるようになるために通過しなければならない学校のようなものだ。
 (iii)国家は一箇の芸術作品だ。
 (iv)功利的に考案された装置だ。
 (v)自然法の具体的現実化である。
 (vi)支配階級の委員会である。
 (vii)自己展開する人類の精神の最高の段階である。
 (viii)ひとつの犯罪的な愚行である。
 (ix)国家は神聖なものだ。

「意識的あるいは無意識的にそれら諸種の見解を支配しているモデル、範例、概念構成を検 討し、そこに含まれているさまざまな概念やカテゴリーを、たとえばその内的首尾一貫性とか 説明能力といった点について比較するならば、そこでやっていることは心理学でも、社会学で も、論理学でも、認識論でもなく、われわれが個人の問題だけに局限するか、あるいは集団の 問題に限定するか、あるいは政治的と分類される特別の人間配置の諸類型の問題に限定する か、またはそれら全部を同時に取り扱うかによって、道徳理論、あるいは社会理論、あるいは 政治理論、または同時にその全部であるわけである。いかに多くの綿密な経験的観察や大胆で 実り豊かな仮説を以てしても、国家を神聖な制度だとするひとびとがなにを見ているのか、か れらの言葉がなにを意味し、現実とどのように関係するのかを説明してはくれないだろう。ま た、国家はわれわれの罪のためにのみ与えられたのだというひとたち、国家はわれわれが大人 になり自由になって、それなしですませるようになるために通過しなければならない学校のよ うなものだというひとたち、あるいは国家は一箇の芸術作品だといい、いやそれは功利的に考 案された装置だといい、また自然法の具体的現実化であるといい、さらに支配階級の委員会で ある、自己展開する人類の精神の最高の段階である、ひとつの犯罪的な愚行である、等々というひとたちが、いったいそれでなにを考えているのかを説明してはくれないであろう。もしわ れわれが、これらの政治的見解のうちにいかなる人間観(あるいはその欠如)が織り込まれて いるか、またそれぞれにおいて支配的なモデルはなんであるかということを理解する(ふつう 小説家たちが論理学者たちよりも高度にもっているような想像的洞察力によって)のでなけれ ば、われわれは自分たちの社会、いやおよそいかなる人間社会をも理解することはないであろ う。またストア派やトマス主義者たちを支配していた、あるいは今日のヨーロッパのキリスト 教的民主主義者たちを支配している理性観や自然観、またアジア・アフリカにおける国家的・ マルクス主義的運動を前進させつつある、あるいはやがて前進せしめるであろうところの神聖 なる戦いの核心にあるまるきりちがったイメージ、また西洋の自由主義的・民主主義的妥協に 生命を吹きこんでいるこれまたちがったイメージ、そのいずれをも理解することはないであろ う。  人間の思想や行動を理解することは、大部分、人間がどんな問題、難問題と取り組んでいる かを理解することだとは、今日ではもう言うまでもないような陳腐な言である。経験的であれ 形式的であれ、これらの諸問題が、今日まで用いられているほどに、古くから、広く認められ た、安定した現実のモデルによって考えられているならば、われわれはその支配的なカテゴ リーにはっきりと言及しなくとも、その問題、難点、解決の試みを理解することができる。と いうのは、これらのカテゴリーはわれわれおよび過去の諸文化に共通のものであって、表面に 出しゃばってこず、いわば見えないところにひそんでいるからである。そうでない場合(そし てこれが政治についてとくに当てはまるのだが)、モデルはおとなしく引っ込んでいない。そ れを構成するいくつかの概念はもはやなじみのものではないからである。しかし、今日では廃 棄され、すたれてしまったモデルに支配されていたひとびとの精神状態にわが身を置いてみる だけの想像力と知識がなければ、それを中心にしていた思想と行動とはわれわれには不分明な ままにとどまるだろう。この困難な操作を行わないことが、多くの思想史の特色となってお り、思想史を表面的な文献的訓練か、あるいは奇妙な、時としてはほとんど理解しがたい誤謬 や混乱の死せるカタログか、のいずれかにしてしまっているのである。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,VIII,pp.503-505,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)







2022年1月20日木曜日

30.人間を他の自然物と区別するのは、理性的思考でも自然に対する支配でもなくて、選択し実験する自由である。人間は、真理、幸福、新奇、自由を絶えず求める不完全で誤ちを犯す予測不能で複雑な存在である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

ミルの人間観

人間を他の自然物と区別するのは、理性的思考でも自然に対する支配でもなくて、選択し実験する自由である。人間は、真理、幸福、新奇、自由を絶えず求める不完全で誤ちを犯す予測不能で複雑な存在である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)真理、幸福、新奇、自由を絶えず求める不完全で誤ちを犯す予測不能で複雑な存在
 創造的で、自己完成がありえず、従って完全な予測がつかないものであり、誤ちも犯すし、あるものは宥和できるが、あるものは解決も調和もありえないような反対物の複雑な結合体であ り、真理、幸福、新奇、自由を絶えず求めずにはいられないが、そうしたものに達するいかなる保障もなく、自分の理性や才能の発展に好適な環境では、自分自身の行くさきを決定できるところの、自由で、不完全な存 在、こういうイメージであります。

(b)選択し実験する自由な存在
 人間を他の自然物と区別するのは、理性的思考でも自然に対する支配でもなくて、選択し実験す る自由である、とミルは信じておりました。


「彼は、人間性が決定され限定されたものであるという古典世界や理性の時代から受けつい だ疑似科学的モデルとたもとを分かちました。それによりますと、人間性は、すべての時と所 において同一で不変の欲求・感情・動機をもち、反応が相違するのは環境や刺激が異なってい るにすぎず、進化はすべてある不変の型によっていることになるのです。こうしたモデルに対 し、(完全に意識的であるとはいえないが)彼はつぎのような人間のイメージを代えました。 創造的で、自己完成がありえず、従って完全な予測がつかないものであり、誤ちも犯すし、あ るものは宥和できるが、あるものは解決も調和もありえないような反対物の複雑な結合体であ り、真理、幸福、新奇、自由を絶えず求めずにはいられないが、そうしたものに達する――神学 的であろうと、論理的であろうと、科学的であろうと――いかなる保障もなく、自分の理性や才 能の発展に好適な環境では、自分自身の行くさきを決定できるところの、自由で、不完全な存 在、こういうイメージであります。彼は自由意志の問題に苦しみました。ときとしてそれを解 決したと思ったことはありましたが、他の誰よりもよき解答を彼が見出したとは言えません。 人間を他の自然物と区別するのは理性的思考でも自然に対する支配でもなくて、選択し実験す る自由である、と彼は信じておりました。彼の思想のうちで最も永続的な名誉を彼にさずけて いるものは、まさにこの見方であります。彼が意味した自由とは、自分の尊重の対象及び尊重 の仕方、この双方を選択するときに他の人びとからは妨げられないという状態であります。彼 にとっては、こうした条件が実現された社会のみが、十分に人間的な社会と言いうるものであ りました。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,ジョン・スチュアート・ミルと生の目 的,V,pp.449-450,みすず書房(2000),小川晃一(訳),小池銈(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




29.社会が興起し、繁栄し、 衰退し、死滅する。これらを無意味な比喩と考えることはできない。歴史の規則性やパターンは、認識可能である。しかし、それらに原因としての性質や、能動的な力、超越的性質を付与するとき、誤りに陥る。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

歴史の規則性やパターン

社会が興起し、繁栄し、 衰退し、死滅する。これらを無意味な比喩と考えることはできない。歴史の規則性やパターンは、認識可能である。しかし、それらに原因としての性質や、能動的な力、超越的性質を付与するとき、誤りに陥る。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a)歴史の規則性やパターン
 歴史における規則性やパターンが見つかったからとて、それらに原因としての性質や、能動的な力、超越的性質、人間の犠牲を要求する渇望などを帰属せしめることが自然で当たりまえのことになっ てしまったら、それは神話によって決定的に欺かれることになる。
(b)文化のパターン
 文化にはそれぞれパターンがあり、時代には精神があるとしても、人間の行動をそ れらのパターンなり時代精神なりの「不可避的」な帰結ないし表現として説明することは、言 葉の誤用に陥ることである。


「もちろんわたくしは、そういう比喩なり形容なりが日常用語において、さらには科学にお いても、なしですませられるなどと言うつもりはない。ただ不法な「実体化」――言葉を事物 と、比喩を現実ととりちがえること――の危険が、この領域ではふつうに考えられているよりも はるかに大きいのだということを言っておきたいのである。いうまでもなく、もっとも有名な 事例は国家ないし国民の場合であり、まさしくその擬人化のために1世紀以上にもわたって哲 学者、さらには一般のひとびとが不安に、あるいは憤慨させられてきたのである。しかしなが ら、他の多くの言葉や語法にも同じような危険が伴う。歴史的運動は実在する。われわれはそ う言うことを許してもらわなければならない。集団的行動が起こり、社会が興起し、繁栄し、 衰退し、死滅する。パターンとか、「雰囲気」とか、人間ないし諸文化の複雑な相互関係とか はあるがままのもので、その原子的構成部分まで分析しつくすわけにはゆかない。けれども、 そうした表現をまったく文字通りにとって、それらに原因としての性質や、能動的な力、超越 的性質、人間の犠牲を要求する渇望などを帰属せしめることが自然で当たりまえのことになっ てしまったら、それは神話によって決定的に欺かれることになる。歴史に「リズム」が生ずる としても、それをなんとしても「動かしがたい」リズムであるということは、有害・不吉な兆 候である。文化にはそれぞれパターンがあり、時代には精神があるとしても、人間の行動をそ れらのパターンなり時代精神なりの「不可避的」な帰結ないし表現として説明することは、言 葉の誤用におちいることである。世界を想像上の権力や支配にまかせてしまう危険、一方すべ てのものを正確にそれと指示できる時・処における検証可能な男女の行為に還元してしまう危 険、このいずれの危険をもうまく逃れられることを保証する定式はひとつとしてない。われわ れのなしうることはせいぜい、この両方の危険のあることを指摘するということだけで、われ われはできるだけうまくこのスキュルラとカリブデスの間をきり抜けてゆかねばならないので ある。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,歴史の必然性,II,註 *,pp.191-192, みすず書房(2000),生松敬三(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




28.選択の必要、ある究極的な価値を他の価値 のために犠牲にせねばならないということは、人間がおかれている境遇の永遠の特徴である。なぜなら、価値判断にも真偽があるかどうかにかかわらず、諸価値は本質的に相拮抗しており、人は全ての価値を持ち得ないからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

選択の不可避性

選択の必要、ある究極的な価値を他の価値 のために犠牲にせねばならないということは、人間がおかれている境遇の永遠の特徴である。なぜなら、価値判断にも真偽があるかどうかにかかわらず、諸価値は本質的に相拮抗しており、人は全ての価値を持ち得ないからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)価値判断にも真偽があるとの考え
 ミルは、価値判断の領域にも、到達・伝達し得る客観的な真理が存在するが、それを発見 するための条件は、十分な個人の自由、とりわけ探究と討論の自由がある社会でなければ、存 在しない、と確信しているように思われる。

(b)諸価値は本質的に相拮抗している
 私の言うところは、全くそれとは異なっ ており、いくつかの価値は本質的に相拮抗しているのであるから、すべてが調和しているようなパターンが原則的に発見できるに違いないという考えは、それ自体、世界の実状についての 誤った先験的見解にもとづいている、というのである。

(c)選択は不可避である
 人間の条件として、人は選択をいつも避けていることはできない。選択の必要、ある究極的な価値を他の価値 のために犠牲にせねばならないということは、人間がおかれている境遇の永遠の特徴となる。
 (i)理性的で道徳的な選択
  多くの可能な行動の筋道や多くの生きるに値する生活形態があるから、従ってそれらのうちのどれかを選ぶことは、理性的であり道徳的判断ができるということの一証となる。
 (ii)人は全ての価値を持ち得ない
  諸目的が互いに衝突するものであり、 人はすべてを持ち得ないという核心的な理由のために、選択を避けることができない。


「ミルは、価値判断の領域にも、到達・伝達し得る客観的な真理が存在するが、それを発見 するための条件は、十分な個人の自由、とりわけ探究と討論の自由がある社会でなければ、存 在しない、と確信しているように思われる。彼の考えは、まさに、古くからある客観主義的命 題を経験論の形で表現したものであり、この最終目標に達するためには個人の自由が必要な条 件として欠かしえないという追加条項が添えてある。私の言うところは、全くそれとは異なっ ており、いくつかの価値は本質的に相拮抗しているのであるから、すべてが調和しているよう なパターンが原則的に発見できるに違いないという考えは、それ自体、世界の実状についての 誤った先験的見解にもとづいている、というのである。もしこの点で私が正しく、人間の条件 として人は選択をいつも避けていることはできない、のであるならば、その理由は、哲学者な らまず見逃さない明白な理由、即ち、多くの可能な行動の筋道や多くの生きるに値する生活形 態があるから、従ってそれらのうちのどれかを選ぶことは、理性的であり道徳的判断ができる ということの一証となる、というためばかりではなく、諸目的が互いに衝突するものであり、 人はすべてをもちえないという核心的な理由(それは普通の意味で概念的なものであって、経 験的なものではない)のために、選択を避けることができないということによるものである。 ここから次のような帰結が生じてくる。即ち、どのような価値も失ったり犠牲にしたりせずに すむような生活、すべての合理的な(あるいは有徳な、さもなければ正当性のある)欲求を真 に満足させうるような生活、こうした理想的な生活の概念、古典的理想像、これこそユートピ ア的であるのみならず、辻褄のあわぬものである。選択の必要、ある究極的な価値を他の価値 のために犠牲にせねばならないということは、人間がおかれている境遇の永遠の特徴となる。 もしそうとすれば、自由な選択の価値は、自由な選択なくしては完全な生活に到達しえないと いう事実からくるとしても、一たびそれが到達されるや二者択一の必要がなくなってしまう、 という含みをもつすべての理論はくつがえされてしまう。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,序論,II 積極的自由対消極的自 由,pp.77-78,みすず書房(2000),小川晃一(訳),小池銈(訳)

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年1月19日水曜日

27.法的自由は、搾取、蛮行、不正の極とも両立する。不干渉を弁護する社会的ダーウィニズムは、その極端な思想である。社会立法や福祉国家の基礎付けは、歴史的には積極的自由の概念を基礎としたが、消極的自由の概念でも基礎付けることができる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

消極的自由と積極的自由

法的自由は、搾取、蛮行、不正の極とも両立する。不干渉を弁護する社会的ダーウィニズムは、その極端な思想である。社会立法や福祉国家の基礎付けは、歴史的には積極的自由の概念を基礎としたが、消極的自由の概念でも基礎付けることができる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)不干渉を弁護する社会的ダーウィニズム
 社会的ダーウィニズムのように不干渉を弁護する議論は、人情家や弱きも のに対して、強気なもの野蛮なもの無鉄砲なものを、また能力のないもの不運なものに対して、 有能で情け容赦のないものを武装強化するような、政治的・社会的に破壊的な政策を支持する のに使われてきたことはいうまでもない。

(b)社会立法や福祉国家の基礎付けは消極的自由の概念でも可能
 社会立法や社会計画、福祉国家や 社会主義を擁護する立場は、消極的自由からの要求を考察することによっても、その兄弟である積極的自由からの要求の考察によるのと同じくらい妥当に、基礎づけうるのである。

(c)積極的自由による基礎付け
 歴史的 に消極的自由による福祉国家の基礎付けによることが少なかったのは、消極的自由の概念を武器として立ち向かうべき当の外敵 は、レッセ・フェールではなくて専制主義だったからである。

(d)双方の自由概念はそれぞれ重要
 統制と干渉が度を過ごすときには、消極的自由の概念が優勢となり、また逆に、野放図な市場経済がのさばるときには、積極的自由の概念が優勢となるのである。






「消極的自由の信条は、重大かつ持続的な害悪を生ぜしめることとも両立するし、また(観 念が行動に影響を与える限りでは)現にそうした害悪を生ぜしめるのに一役かってきたこと は、勿論忘れない方がよい。しかし、私が言いたいのは、消極的自由の信条は、最も陰険な形 をした《積極的》自由のチャンピョンたちが自分の信条を弁護するのによく使うような見せか けの議論や詐術によって、弁護されたり偽装されたりすることがはるかに少なかったというこ とである。(《社会的ダーウィニズム》のように)不干渉を弁護する議論は、人情家や弱きも のに対して、強気なもの野蛮なもの無鉄砲なものを、また能力のないもの不運なものに対して、 有能で情け容赦のないものを武装強化するような、政治的・社会的に破壊的な政策を支持する のにつかわれてきたことはいうまでもない。狼にとっての自由は、羊にとってしばしば死を意 味した。経済的個人主義や止まるところのない資本主義的競争についての血なまぐさい物語 は、今日ことさら強調する必要もないと思いたいところだ。にもかかわらず、私を批判する人 たちが私に着せた、おどろくべき濡れ衣を眺めてみると、私の議論のある部分をとくに気をま わして力説しておくべきであったようだ。無制限の《レッセ・フェール》の害悪、それを許す ばかりか更にそれを奨める社会・法体系の害悪は、《消極的》自由や基本的人権(これは抑圧 者に対する壁としてつねに《消極的な》観念である)、表現や結社の自由を含めた基本的人権 の、野蛮な侵害になってしまうのだということを、更に一層明らかにさえしておくべきであっ た。この基本的人権がなくても、正義、同胞愛、それにある種の幸福さえ、存在し得るかもし れないが、デモクラシーは在りえないのである。更にまた、私は、(言う必要もないほど明ら かであると思っていたのだが)つぎのようなことをおそらく強調しておくべきだったであろ う。即ち、個人や集団が、意義ある程度の《消極的》自由を行使できるための必要最小限の条 件、理論的には自由をもっている人にも、それなくしては自由がほとんど何の価値もなくなっ てしまうようなミニマムの条件、こうした条件を、この社会・法体系は提供しそこなっている ということを。というのは、権利を持っていたところで、それを実行に移すだけの力がなけれ ば何になるか。この問題に関心をもつ近代のまじめな著作家たちのほとんどすべてが、無制限 の経済的個人主義の体制下において、個人の自由がどんな運命を辿ったかについては十分に述 べている、と私は思っていた。とりわけ都市において、いたましい多くの人びとの境遇、子供 たちは鉱山や工場で損なわれ、両親たちは貧困、病い、無知のうちに過ごす、こうした境遇で は、貧乏なものも弱気ものも、好きなように金を使い欲するような教育を選べる法的権利があ るということなどは(コブデンやハーバート・スペンサー及び彼らの弟子たちが、全く大真面 目に説いてきかせたことだが)、おぞましい茶番となってしまったのである。こうしたことは すべて、まことに遺憾ながら事実であって、法的自由は、搾取、蛮行、不正の極とも両立する のである。国家やその他の実行機関が、積極的自由、および少なくとも最小限の消極的な自由 を個々人に保障するために介入することは、圧倒的に支持されている。トクヴィルやミル、そ れに(近代のいかなる著述家よりも強く消極的自由を支持した)パンジャマン・コンスタンの ような自由主義者さえ、このことを知らないではなかった。社会立法や社会計画、福祉国家や 社会主義を擁護する立場は、消極的自由からの要求を考察することによっても、その兄弟であ る積極的自由からの要求の考察によるのと同じくらい妥当に、基礎づけうるのである。歴史的 に前者によることが少なかったのは、消極的自由の概念を武器として立ち向かうべき当の外敵 は、レッセ・フェールではなくて専制主義だったからである。二つの概念の消長は、大抵、あ るグループや社会を一定の時点でもっともおびやかしている特定の危険に原因を求めうる。統 制と干渉が度をすごすときには、消極的自由の概念が優勢となり、また逆に、野放図な《市 場》経済がのさばるときには、積極的自由の概念が優勢となるのである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,序論,II 積極的自由対消極的自 由,pp.68-70,みすず書房(2000),小川晃一(訳),小池銈(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




26.人間の歴史も因果の法則には従っているに違いなく、歴史の規則性やパターンも認識できるだろう。しかし、それがあっても人間には、選択の自由がつねに残されている。また、科学的な知識は自由を増やし、無知は自由を削減する。 (アイザイア・バーリン(1909-1997))

因果の法則と自由意志

人間の歴史も因果の法則には従っているに違いなく、歴史の規則性やパターンも認識できるだろう。しかし、それがあっても人間には、選択の自由がつねに残されている。また、科学的な知識は自由を増やし、無知は自由を削減する。 (アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)人間の歴史も因果の法則には従う
 因果の法則は、人間の歴史に適用できる。自由な選択の範囲が、かつて人びとが考えたよりも、また恐らく現在もなお誤って考えているよりも、はるかに狭いことには、多くの経験的証拠がある。歴史における客観的なパターンは識別できるであろう。
(b)法則やパターンがあっても選択の自由は残されている
 それにもかかわらず、そのような法則やパターンでも、何らかの選択の自由を残しており、人間の行為は、先行する諸原因によってそれ自体完全に決定されているわけではない。
(c)科学的な知識は自由を増やし、無知は自由を削減する
 知識、とりわけ科学的に確立された法則の知識は、我々の活動をより効果的にし、我々の自由を拡張するのに役立つ。また、無知および無知のかもす幻想・恐怖・偏見は自由を削減する。


「ごく平凡ではあるが、私が一度も離れたことのない見方を、いくつかここで繰り返してお きたい。因果の法則は人間の歴史に適用できる(カー氏には失礼ながら、この命題を否定する のは狂気の沙汰と私は考えている)。歴史は、主として個人の意志間の《劇的な葛藤》ではな い。知識、とりわけ科学的に確立された法則の知識は、われわれの活動をより効果的にし、わ れわれの自由を拡張するのに役立つ。この自由は無知および無知のかもす幻想・恐怖・偏見に よって削減されやすい。自由な選択の範囲が、かつて人びとが考えたよりも、またおそらく現 在もなおあやまって考えているよりも、はるかに狭いことは、多くの経験的証拠がある。私の 知る限りでも、歴史における客観的なパターンは識別できるであろう。そして更に、私はただ つぎのことを主張しているだけだということを繰り返して言わねばならぬ。即ち、そうした法 則やパターンでも、何らかの選択の自由を残していると考えられるのでなければ――そして、行 動の自由が、先行する諸原因によってそれ自体完全に決定されている選択により、決定されて いるにすぎないような自由に止まらぬと考えるのでなければ――、われわれは現実についての見 方を、いままでとは違った方向で再建しなければならないだろう、そしてこの仕事は、決定論 者が考えているよりも、遥かに大変なものである、と。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,序論,I,pp.50-51,みすず書房(2000), 小川晃一(訳),小池銈(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)





25.人間の相互理解には、最小限度の価値観の共有が必要である。それは、人間道徳の基礎であり、正常な人間という概念に含まれ、多様な習慣・伝統・法・マナー・流行・エチケットとは、明確に区別される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

最小限度の共通価値

人間の相互理解には、最小限度の価値観の共有が必要である。それは、人間道徳の基礎であり、正常な人間という概念に含まれ、多様な習慣・伝統・法・マナー・流行・エチケットとは、明確に区別される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a)理解の前提としての共通の価値観
 同時代あるいは他の時代の 人びとを理解できる可能性、いってみれば人間同士のコミュニケーションの可能性は、何らか の《価値》の共通性にもとづいているのであって、単に何らかの《事実》の共通性にのみ基づいているわけではない。

(b)人間道徳の基礎
 ノーマルな人間という観念には、それ以上縮小できない最小限の共通な価値の承認というものが含まれている。
(c) 習慣・伝統・法・マナー・流行・エチケット
 人間道徳の基礎という観念と、習慣・伝統・法・マナー・流行・エチケットというような 観念とが区別される。後者の領域では、社会的・歴史的に、また全国的・地方的に、大幅な相違や変化があっても、べつにそのことが稀有であるとも異常であるとも思われない し、極端に突飛で狂っているとも、全く望ましからぬものとも思われない。




「確かに、この世の中には客観的な道徳的乃至社会的価値が存在し、それは恒久的かつ普遍 的で、歴史の変化の影響を受けず、いやしくも理性ある人が心を傾けて注目しさえすれば手に 入れうる、という見解にはさまざまな疑問の余地がある。しかし、同時代あるいは他の時代の 人びとを理解できる可能性、いってみれば人間同士のコミュニケーションの可能性は、何らか の《価値》の共通性にもとづいているのであって、単に何らかの《事実》の共通性にのみもと づいているわけではない。共通する《事実》の世界があるということは、人間の交際の必要条 件ではあるが十分条件ではない。外部の世界との接触が切れている人びとはアブノーマルとい われるし、極端な場合は気違いと言われるが、公共的な価値の世界をあまりにも逸脱している 人もやはりそうである(ここが問題なのだ)。正邪の区別をかつては知っていたが今は忘れて しまったなどと公言しても、まず誰にも信じてもらえないだろうが、もし信じられたら、御本 人は当然狂っているとされてしまう。だが、例えば、青い目の人間なら誰かれといわず何の理 由も示さずに殺してもよい、というようなルールを、認めたり共有したりあるいは大目に見た りするだけならとにかく、そうしたルールには誰だって何がしかの反対論をまず持っていると いうことが全くわからない人びと、こうした人びともやはり狂っているのである。そういう人 たちは、六までしか数えられない者や、自分がユリウス・カエサルかもしれないと考えている 者と、同じぐらいの正常さしかない人間の例、と見なされるだろう。狂気か否かを計るこうし た規範上の(非記述的)テストの拠って立つ基礎は、まさに、自然法の諸原理、特にそれらを 先験的に自明なものと規定していない形での自然法の諸原理に、現在もつような説得力を与え ているものにほかならない。ノーマルな人間という観念には、ある共通な価値(ともかくもそ れ以上縮小できない最小限の価値)の承認というものが含まれている。これが《めど》になっ て、人間道徳の基礎という観念と、習慣・伝統・法・マナー・流行・エチケットというような 観念とが区別されるのである。後者の領域では、社会的・歴史的に、また全国的・地方的に、 大幅な相違や変化があっても、べつにそのことが稀有であるとも異常であるとも思われない し、極端に突飛で狂っているとも、全く望ましからぬものとも思われない。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,序論,I,pp.45-46,みすず書房(2000), 小川晃一(訳),小池銈(訳))

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(1909-1997)




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