2018年11月10日土曜日

協力戦略を支える情動的傾向:(1)共感、他者の情動、苦痛、意図の感知、(2)好意、感謝、憤慨、怒り、誇り、恥、(3)自他の社会的位置の感知、表示、所属集団のひいき、外部集団の敵視。(ジョシュア・グリーン(19xx-))

協力戦略を支える情動的傾向

【協力戦略を支える情動的傾向:(1)共感、他者の情動、苦痛、意図の感知、(2)好意、感謝、憤慨、怒り、誇り、恥、(3)自他の社会的位置の感知、表示、所属集団のひいき、外部集団の敵視。(ジョシュア・グリーン(19xx-))】
 協力戦略に対して、私たちの道徳脳には、戦略を実行するための情動的傾向が備わっている。
(a)共感、他者の情動、苦痛、意図の感知
《機能》他者への思いやり、気づかい。他者の情動、意図、感情を理解する。直接的・意図的な加害の躊躇し、他者への加害を黙視することを躊躇する。
 参照: 他者が対象物へ働きかける運動行為を見るとき、その対象物をつかむ、持つといった運動特性に呼応した、観察者が知っている運動感覚の表象が自動的に現れる。この表象が行為の「意味」であり、他者の「意図」である。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))
 参照: 2人以上の行為者が、相手の行為の意図を互いに、自己の潜在的運動行為として自動的に了解し合っているとき、この相互関係の状況を「行為の共有空間」と呼ぶ。これは、ミラーニューロンが実現している。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))
 参照: 他者の情動の表出を見るとき、その情動の基盤となっている内臓運動の表象が現れ、他者の情動が直ちに感知される。これは潜在的な場合もあれば実行されることもあり、複雑な対人関係の基盤の必要条件となっている。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))
 参照: 2人以上の情動表出者が、相手の情動を互いに、自己の内臓運動の表象として自動的に了解し合っているとき、この相互関係の状況を「情動の共有空間」と呼ぶ。これは、ミラーニューロンが実現している。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))
 参照: 他人が物理的な痛みを受けているところを見ると、その視覚情報が、痛みを与える対象(例えば針)から退避しようとする筋肉運動または潜在的な運動を引き起こし、これが他人の痛みを身体的に了解させる。(マルコ・イアコボーニ(1960-))

(b)怒り、嫌悪、許し、感謝
《機能》非協力的な個人を罰し、避けようとし、協力すれば許す。協力の動機を強める。(直接互恵性)
 参照: 「囚人のジレンマ」ゲームの多様な戦略を実装したコンピュータプログラムの総当たり戦で、最も成績が良かったのは、協力する相手に対しては協力し、裏切られたら裏切るという「しっぺ返し」戦略であった。(ロバート・アクセルロッド(1943-))

(c)復讐心、羞恥心、罪悪感、忠誠心、謙遜、畏怖
《機能》たとえ代価が利益を上回っても非協力的な行為を罰しようとする。非協力的な行動をする自分自身を罰しようとする。(確実な脅しや約束)

(d)好意、感謝、憤慨、怒り、誇り、恥
《機能》他者の行為の善悪の感知する。評判を仲間と共有する。他者の監視の目によって自己評価する。(評判)
 参照: 生後半年と生後10か月の赤ちゃんであっても、「親切な」おもちゃと「意地悪な」おもちゃの識別を行い、親切な徴候を示すおもちゃに手を伸ばして取ろうとすることを示す実験の事例がある。(ポール・ブルーム(1963-))
 参照: 抽象的な目のデザイン、または目の写真があるだけで、社会的規制の効果があることを示す実験の事例がある。監視の目と、善悪の関する噂話や評判が、社会的規制に大きな影響力を持っている。(ジョシュア・グリーン(19xx-))
 (d.1)他の人たちによってなされた行為による〈善〉と〈悪〉の感受:〈好意〉〈感謝〉〈憤慨〉〈怒り〉
  参照: 〈好意〉、〈感謝〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
  参照: 〈憤慨〉、〈怒り〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 (d.2)私たち自身によって過去なされた行為や、現在の私たちに関する、他の人たちの意見による〈善〉と〈悪〉の感受:〈誇り〉〈恥〉
  参照: 〈誇り〉、〈恥〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
  参照: 誇りは希望によって徳へ促し、恥は不安によって徳へ促す。また仮に、真の善・悪でなくとも、世間の人たちの非難、賞賛は十分に考慮すること。(ルネ・デカルト(1596-1650))

(e)自他の社会的位置の感知、表示、所属集団のひいき、外部集団の敵視(部族主義的情動)
《機能》協力的な集団に所属して、集団内の協力を強化する。(分類)
 参照: 人間には、偏狭な利他主義、部族主義の傾向がある。それは、自他の社会的位置を識別し、表示し、行動を調整する人間の能力を基礎とし、所属集団の利益を守るため、集団内部の協力を促し、外部に対抗する傾向である。(ポール・ブルーム(1963-))
 参照: 人間には、集団の成員であることを示す恣意的な目印を基に、簡単に人を社会的に分類し、社会的選好を形成する傾向が存在する。仮に、何の根拠もない無作為のグループにも、内集団の成員をひいきにする傾向がある。(ヘンリー・タジフェル(1919-1982))

(f)怒り、義憤
《機能》自分には何の得にならなくても、非協力的な者を罰する(向社会的処罰者)。(間接互恵性)
 参照: 「互いの協力によって成立している集団における「ただ乗り者」に対して、人は怒りの感情を持ち、代価を支払っても処罰しようとする。このような、人間が持つ向社会的処罰の傾向は、集団内の互いの協力を高める。(エルンスト・フェール(1956-))

 「それぞれの協力戦略に対して、私たちの道徳脳には、戦略を実行するための情動的傾向が備わっている。それらをひとつずつ見ていこう。
 他者への思いやり……自分の取り分だけでなく、他者の取り分も同じように大切にするのなら、二人の囚人はマジックコーナーを見つけられる。この戦略に対応して、人間には《共感》が備わっている。さらに一般化すると、私たちには、他者、とくに家族、友人、恋人の身に起きることを《気づかう》情動が備わっている。私たちの情動はまた、他者に直接、かつ意図的に危害を加えることを躊躇させる。そして(それほどではないものの)他者が危害を加えられるのを見過ごすことも躊躇させる。私はこれを《最低限の良識》と呼ぶ。
 直接互恵性……いま協力しなければ、将来協力して得られる利益が消えてしまうとわかっていれば、二人の囚人はマジックコーナーを見つけられる。この戦略に対応して、人間には《怒り》や《嫌悪》などのネガティブな情動が備わっている。これらの存在は実際よく知られていて、私たちに、非協力的な個人を罰しようとか、避けようとする動機を与える。同時に、こうしたネガティブな情動への傾向は、間違いがつきものである世界への適応戦略である《許し》の性向によって和らげられる。私たちは《感謝》を通じて協力へのポジティブな動機を互いに与えあう。
 確実な脅しや約束……互いの非協力的行動を罰すると固く誓っているなら、二人の囚人はマジックコーナーを見つけられる。この戦略に対応して、人はしばしば《復讐心》を抱く。多くの人に備わっている(これもよく知られている)のが、たとえ代価が利益を上回っても非協力的な行為を罰しようとする情動的傾向だ。同様に、非協力的行動をとった《自分自身を》罰することを確約しているのならば、二人の囚人はマジックコーナーを見つけられる。この戦略に対応して、人にときに《高潔》になるし、《羞恥心》や《罪悪感》といった自罰的情動の傾向も知られている。人は、これに関係した《忠誠心》という美徳も示す。愛とセットの忠誠心もそれに含まれる。より高位の権威への忠誠心には、《謙遜》という美徳や《畏怖》を感じる能力も備わっている。
 評判……ここで非協力的なふるまいをすれば、事情をよく知る《他人》にこれから協力してもらえなくなるとわかっていれば、二人の囚人はマジックコーナーを見つけられる。この戦略に対応して、私たち人間は、乳児でさえ、《手厳しい》。私たちは、人が他人にどう接するかに注目し、それに応じて相手へのふるまいを調節する。さらに、《ゴシップ》を発信し消費するという抑えがたい性向によって、自分たちの判断の影響を増幅させる。そのため、私たちは、他者の監視の目に非常に敏感になる。他者の目があるために私たちは《自分を意識する》。自意識がうまく働かずに一線を超えたところを見つかると、見た目にはっきりと《恥入り》、もうしませんという信号を発する。
 分類……協力的な集団に所属することによって、二人の囚人はマジックコーナーを見つけられる。ただしこの集団の成員が互いを確実に特定できればの話だ。この戦略に対応して、人間は《部族主義的》である。集団の成員が発する信号を敏感にキャッチし、外集団より内集団の成員(見ず知らずの人であっても)を直感的に好む傾向がある。
 間接互恵性……協力的でない者を罰する(あるいは、協力した者には報酬を与える)他者の存在があるのなら、二人の囚人はマジックコーナーを見つけられる。この戦略に対応して、人間は《向社会的処罰者》である。《義憤》に駆られ、自分には何の得にならなくても、非協力的な者を罰する。他者にも、裏切り者に対して正当な憤りを感じることを期待する。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第1部 道徳の問題,第2章 道徳マシン,岩波書店(2015),(上),pp.79-82,竹田円(訳))
(索引:他者への思いやり,直接互恵性,確実な脅しや約束,評判,分類,間接互恵性)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)


(出典:Joshua Greene
ジョシュア・グリーン(19xx-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あなたが宇宙を任されていて、知性と感覚を備えたあらたな種を創造しようと決意したとする。この種はこれから、地球のように資源が乏しい世界で暮らす。そこは、資源を「持てる者」に分配するのではなく「持たざる者」へ分配することによって、より多くの苦しみが取り除かれ、より多くの幸福が生み出される世界だ。あなたはあらたな生物の心の設計にとりかかる。そして、その生物が互いをどう扱うかを選択する。あなたはあらたな種の選択肢を次の三つに絞った。
 種1 ホモ・セルフィッシュス
 この生物は互いをまったく思いやらない。自分ができるだけ幸福になるためには何でもするが、他者の幸福には関心がない。ホモ・セルフィッシュスの世界はかなり悲惨で、誰も他者を信用しないし、みんなが乏しい資源をめぐってつねに争っている。
 種2 ホモ・ジャストライクアス
 この種の成員はかなり利己的ではあるが、比較的少数の特定の個体を深く気づかい、そこまでではないものの、特定の集団に属する個体も思いやる。他の条件がすべて等しければ、他者が不幸であるよりは幸福であることを好む。しかし、彼らはほとんどの場合、見ず知らずの他者のために、とくに他集団に属する他者のためには、ほとんど何もしようとはしない。愛情深い種ではあるが、彼らの愛情はとても限定的だ。多くの成員は非常に幸福だが、種全体としては、本来可能であるよりはるかに幸福ではない。それというのも、ホモ・ジャストライクアスは、資源を、自分自身と、身近な仲間のためにできるだけ溜め込む傾向があるからだ。そのためい、ホモ・ジャストライクアスの多くの成員(半数を少し下回るくらい)が、幸福になるために必要な資源を手に入れられないでいる。
 種3 ホモ・ユーティリトゥス
 この種の成員は、すべての成員の幸福を等しく尊重する。この種はこれ以上ありえないほど幸福だ。それは互いを最大限に思いやっているからだ。この種は、普遍的な愛の精神に満たされている。すなわち、ホモ・ユーティリトゥスの成員たちは、ホモ・ジャストライクアスの成員たちが自分たちの家族や親しい友人を大切にするときと同じ愛情をもって、互いを大切にしている。その結果、彼らはこの上なく幸福である。
 私が宇宙を任されたならば、普遍的な愛に満たされている幸福度の高い種、ホモ・ユーティリトゥスを選ぶだろう。」(中略)「私が言いたいのはこういうことだ。生身の人間に対して、より大きな善のために、その人が大切にしているものをほぼすべて脇に置くことを期待するのは合理的ではない。私自身、遠くでお腹をすかせている子供たちのために使った方がよいお金を、自分の子供たちのために使っている。そして、改めるつもりもない。だって、私はただの人間なのだから! しかし、私は、自分が偽善者だと自覚している人間でありたい、そして偽善者の度合いを減らそうとする人間でありたい。自分の種に固有の道徳的限界を理想的な価値観だと勘違いしている人であるよりも。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第4部 道徳の断罪,第10章 正義と公正,岩波書店(2015),(下),pp.357-358,竹田円(訳))
(索引:)

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裁判官は、自らに課された義務に従いつつも、合理的な幾つか異なった判断の可能性に導かれる場合の裁量、裁定が最終的なものであるという意味での裁量をもつが、事実上いかなる義務も課されていない裁量はもたない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

「裁量」の3つの意味

【裁判官は、自らに課された義務に従いつつも、合理的な幾つか異なった判断の可能性に導かれる場合の裁量、裁定が最終的なものであるという意味での裁量をもつが、事実上いかなる義務も課されていない裁量はもたない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(1)「裁量」の3つの意味
 (a)ある人の特定の判断、裁定を規律している義務を規定している規準が、合理的に解釈しても幾つか異なった判断、裁定の可能性を導く場合、彼は裁量をもつ。
 (b)ある人の特定の判断、裁定が最終的であり、上位の権威がそれを再検討したり無効にすることができない場合、彼は裁量をもつ。
 (c)ある人の特定の判断、裁定を規律している義務を規定している規準が、特定の判断に関して事実上いかなる義務をも課していない場合、彼は裁量をもつ。
(2)裁判官は、(a)と(b)の意味での裁量を有し得るにもかかわらず、(c)の意味での裁量は持ちえない。すなわち彼は、当該事案に関連すると思われる様々な問題を考慮に入れ、自らに対し要求されていることを反省し、裁判官としての義務の何たるかが問題とされるようなものとして、自らの判決を受けとめる。

 「私は前章でこの主張が実は裁量概念の一種の多義性に基づいていることを明らかにしようとした。我々は義務に関する議論においてこの概念を三つの異なった意味で使用する。第一に、ある人間の義務が、合理的に解釈しても幾つか異なった解釈の可能な規準により規定されている場合、その人間には裁量が認められると我々は考える。最も経験豊かな五人の人間を巡視に選ぶよう命じられた軍曹の例がこれにあたる。第二に、ある人間の裁定が最終的であり上位の権威がそれを再検討したり無効にすることができない場合、彼は裁量をもつと我々は考える。たとえば選手がオフサイドを犯したか否かの判定が線審の裁量に委されている場合がそうである。第三に、ある人間に義務を課する一連の規準がその趣旨からして特定の判断に関しては事実上いかなる義務をも課していない場合、その人間は裁量を有すると言われる。たとえば借家契約の条項が借家人に対し裁量により契約を更新する選択権を認めている場合がそうである。
 特定の判決を一義的な仕方で要求するいかなる社会的ルールも存在せず、いかなる判決が事実上要求されているかにつき裁判実務が分裂していることが明らかな場合、裁判官には上記の第一の意味での裁量が認められることになる。というのもこの場合、裁判官は既存のルールの適用を超えてイニシャティヴを行使し判断を下さねばならないからである。またこれらの裁判官が最終審の裁判所の成員であるとき、彼らに第二の意味の裁量が認められることも明らかである。しかし我々が最も強い形態の社会的ルール理論を採用し、義務や責任は社会的ルールのみから生成すると考えないかぎり、これらの裁判官が第三の意味での裁量をもつと結論することはできない。これらの裁判官が第一と第二の意味での裁量をともに有していながら、それにもかかわらず、裁判官としての彼の義務の何たるかが問題とされるようなものとして、まさに自らの判決を受けとめるであろう。裁判官にとり判決とは、当該事案に関連すると思われる様々な問題を考慮に入れ、何が彼に対し要求されているかを反省することにより判断すべき問題と考えられているのである。もしそうであれば、裁判官は第三の意味での裁量はもたないことになる。しかし司法的義務が専らある単一の窮極的な社会的ルールや一群の社会的ルールにより規定されていることを実証主義者が論証しようとするならば、この第三の意味での裁量を裁判官が現実に有していることを実証主義者は立証しなければならない。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,4 裁判官は裁量を行使する必要があるか,木鐸社(2003),pp.80-81,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:裁量)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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03.(A1)慣習存在せず・誤発動・不発、(A2)誤適用・誤発動・不発、(B1)欠陥手続き・誤執行・不発、(B2)障害あり・誤執行・不発、(Γ1)不誠実・濫用、(Γ2)行為不適合・濫用。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

行為遂行的発言の不適切性の理論

【(A1)慣習存在せず・誤発動・不発、(A2)誤適用・誤発動・不発、(B1)欠陥手続き・誤執行・不発、(B2)障害あり・誤執行・不発、(Γ1)不誠実・濫用、(Γ2)行為不適合・濫用。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
 行為は企図されたが、慣習的な手続きが存在せず、行為は許されず無効である。
(慣習存在せず・誤発動・不発)
(A・2)発言者、状況の手続的適合性
 行為は企図されたが、発言者、状況が不適合のため、行為は許されず無効である。
(誤適用・誤発動・不発)
(B・1)手続きの適正な実行
 行為は企図されたが、手続きが適正に実行されず、行為は実効を失い無効である。
(欠陥手続き・誤執行・不発)
(B・2)完全な実行
 行為は企図されたが、手続きが完全に実行されず、行為は実効を失い無効である。
(障害あり・誤執行・不発)
(Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
 発言者の考え、感情、参与者の意図に適合性がなく、言葉だけで実質がない。
(不誠実・濫用)
(Γ・2)参与者の行為の適合性
 参与者の行為に適合性がなく、実質がない。
(行為不適合・濫用)

(再掲) (A・1)ある一定の慣習的な(conventional)効果をもつ、一般に受け入れられた慣習的な手続きが存在しなければならない。そして、その手続きはある一定の状況のもとにおける、ある一定の人々による、ある一定の言葉の発言を含んでいなければならない。
(A・2)発動(invoke)された特定の手続きに関して、ある与えられた場合における人物および状況がその発動に対して適当(appropriate)でなくてはならない。
(B・1)その手続きは、すべての参与者によって正しく実行されなくてはならない。かつまた、
(B・2)完全に実行されなくてはならない。
(Γ・1)その手続きが、しばしば見受けられるように、ある一定の考え、あるいは感情をもつ人物によって使用されるように構成されている場合、あるいは、参与者のいずれかに対して一連の行為を惹き起こすように構成されている場合には、その手続きに参与し、その手続きをそのように発動する人物は、事実、これらの考え、あるいは感情をもっていなければならない。また、それらの参与者は自らそのように行動することを意図していなければならない。そしてさらに、
(Γ・2)これら参与者は、その後も引き続き、実際に(actually)そのように行動しなければならない。

AとB違反
不発(Misfires)
行為は企図されが無効である。
(Act purported and void)
 ├A違反
 │ 誤発動(Misinvocations)
 │ 行為は許されていない。
 │ (Act disallowed)
 │  ├A・1違反
 │  │ ?
 │  └A・2違反
 │    誤適用(Misapplication)
 └B違反
   誤執行(Misexecutions)
   行為は実効を失う。
   (Act vitiated)
    ├B・1違反
    │ 欠陥(Flaws)
    └B・2違反
      障害(Hitches)
Γ違反
濫用(Abuses)
行為は言葉だけで実質がない。
(Act professed but hollow)
 ├Γ・1違反
 │ 不誠実(Insincerities)
 └Γ・2違反
   ?

(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第2講 不適切性の理論Ⅰ,p.32,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:行為遂行的発言の不適切性の理論)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。(a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、(b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして(c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

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18.半影的問題における決定の本質の理解には次の点が重要である。(a)法の不完全性、(b)法の中核の存在、(c)不確実性と認識の不完全性、(d)選択肢の非一意性、(e)決定は強制されず、一つの選択である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

半影的問題における決定の本質

【半影的問題における決定の本質の理解には次の点が重要である。(a)法の不完全性、(b)法の中核の存在、(c)不確実性と認識の不完全性、(d)選択肢の非一意性、(e)決定は強制されず、一つの選択である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1.2)追記、(4)追記。

 (1.2)この批判の基準は、道徳的なものとは限らない。
  (1.2.1)このケースでの「べき」は、道徳とはまったく関係のないものである。
  (1.2.2)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。

(4)問題解決のために、重要だと思われること。
 (1)(2)(3)の要請を、すべて充たすことができるだろうか。この問題の解決のためには、以下の諸事実を考慮することが重要である。
 (4.1)法は、どうしようもなく、不完全なものだということ。
 (4.2)法は、ある最も重要な意味において、確定した意味という中核部分を持つということ。不完全で曖昧であるにしても、まず線がなければならない。
 (4.3)私たちは、不確実性の中に生きており、不完全な法の下での決定の際、在る法の自然で合理的な精密化の結果として、唯一の正しい決定の認識へと導かれ得るのだろうか。それは、むしろ例外的であり、多くの選択肢が同じ魅力を持って競い合っているのではないだろうか。
 (4.4)すなわち、存在している法は、私たちの選択に制限を加えるだけで、選択それ自体を強制するものではないのではないか。
 (4.5)従って、私たちは、不確実な可能性の中から選択しなければならないのではないか。

半影的問題における合理的決定の解明には、(a)何らかの「べき」観点の必要性、(b)にもかかわらず、在る法と在るべき法の区別、(c)法の不完全性と中核部分の正しい理解、が必要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(1)何らかの「べき」観点の必要性
 半影的問題における司法的決定が合理的であるためには、何らかの観点による「在るべきもの」が、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられるかもしれない。
 (1.1)「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映している。この基準は、何だろうか。
 (1.2)この批判の基準は、道徳的なものとは限らない。
 (1.3)目標、社会的な政策や目的が含まれるかもしれない。
 (1.4)しかし、在るものと、さまざまな観点からの在るべきものとの間に、区別がなければならない。
(2)在る法と在るべき法との功利主義的な区別は、必要である。
 参照: 在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))
 参照: 在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

(3)半影的問題の決定も、在る法の自然な精密化、明確化であると思える場合がある。
 ルールの適用のはっきりしているケースと、半影的決定との間には本質的な連続性が存在する。すなわち、裁判官は、見付けられるべくそこに存在しており、正しく理解しさえすればその中に「隠れている」のがわかるルールを「引き出している」。
  難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))

 (3.1)難解な事案、すなわち半影的問題において、次のような事実がある。
  (3.1.1)ルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すなわち、ある意味ではルール自体に帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。それは、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化するようなものである。
  (3.1.2)このような場合について、在るルールと在るべきルールを区別し、裁判官の決定を、在るルールを超えた意識的な選択や「命令」「法創造」「司法立法」とみなすことは、少なくとも「べき」の持つある意味においては、誤解を招くであろう。
 (3.2)日常言語においても、次のような事実がある。
  (3.2.1)私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言うのかということについても、人間に共通の目的を仮定的に考慮して、解釈している。
  (3.2.2)例としてしばしば、聞き手の解釈を聞いて、話し手が「そうだ、それが私の言いたかったことだ。」というようなケースがある。
  (3.2.3)議論や相談によって、より明確に認識された内容も、そこで勝手に決めたのだと表現するならば、この体験を歪めることになろう。これを誠実に記述しようとするならば、何を「本当に」望んでいるのか、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであろう。

(4)問題解決のために、重要だと思われること。
 (1)(2)(3)の要請を、すべて充たすことができるだろうか。この問題の解決のためには、以下の2つのことが重要だと思われる。
 (4.1)法は、どうしようもなく、不完全なものだということ。
 (4.2)法は、ある最も重要な意味において、確定した意味という中核部分を持つということ。不完全で曖昧であるにしても、まず線がなければならない。

 「そのルールは新しいケースを包含すべきだと私たちは考え、熟考した後、たしかに包含していると理解するに至る。

しかし、存在と当為の融合の例として思いあたるふしのある経験をこのように提示することが認められるとしても、次の二つのことに注意が向けられなければならない。

第一に、このケースでの「べき」は、Ⅲですでに説明した理由からして、道徳とはまったく関係のないものだということである。

新しいケースがルールの目的を補完して明瞭化するというのとまったく同じ意味が、ゲームのルールを解釈する際にも、また、非常に不道徳的な抑圧の法律であり、その不道徳性はそれを解釈することを求められている人も正しく理解しているような法律を解釈する際にもみられるであろう。

ゲームをしている人もまた、自分たちのしているゲームの「精神」が予想されていなかったケースにおいて何を要求するのかを考えることができる。

さらに重要なのは、このような議論を正当化すると思われる現象が法の領域においてどれほど稀な現象であるかということ、すなわち、あるルールの自然で合理的な精密化の結果、唯一の判決の仕方が私たちに強制されているという感覚がどれほど例外的なものであるかということを、検討の総括として心に銘記しておく必要がある。

解釈がなされるほとんどのケースにおいて、選択肢の中での選択、「司法立法」、さらには「命令」(恣意的な命令ではないけれども)といった表現の方が、現実の状況をうまく伝えるのは紛れもない事実である。

 私たちが意識的な選択をしていることを自覚せず、認識されるのを待っているものを認識するという意識でいるならば、比較的確定した法の枠組の中でも、あまりに多くの選択肢があまりに同じく平等の魅力を持って競い合っているので、裁判官や法律家は、不確実なままに、自分自身の、また他人の行為の原則や意図や望みを解釈しようとする際に体験する経験に適切な表現を与える道を探らなければならない。

法の解釈を記述するのに、在る法と在るべき法との融合、分離不可能性という上述の表現を使用することは(裁判官は法を発見するのであって、決して法をつくるのではないという前の時代の物語のように)、私たちが不確実性の中に生きており、私たちは不確実な可能性の中から選択しなければならないという事実、また、存在している法は私たちの選択に制限を加えるだけで選択それ自体を強制するものではないという事実を覆い隠してしまうことにしかならない。」

(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・
哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.95-96,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:半影的問題)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2018年11月9日金曜日

法の総体を正当化すべく要請された法理論は、規範的政治理論や道徳理論を内包し、制度的な支えを持つ諸原理や、制度的に確立した慣行を支える諸原理を超える、ほぼ全ての社会的、政治的倫理的原理から構成される。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法の総体を正当化すべく要請された法理論

【法の総体を正当化すべく要請された法理論は、規範的政治理論や道徳理論を内包し、制度的な支えを持つ諸原理や、制度的に確立した慣行を支える諸原理を超える、ほぼ全ての社会的、政治的倫理的原理から構成される。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

 ある法理論を、他の法理論より優先して選択すべき、いかなる基礎が存在するかが問題である。
(1)法の総体を正当化すべく要請された法理論は、規範的政治理論や道徳理論へと深く入り込まざるを得ないであろう。
(2)ある法律家の法理論においては、社会で一般的に通用し彼も個人的に受容する社会的ないし政治的倫理的原理は、ほぼ全て何らかの意義と役割を持つであろう。
(3)ただし、憲法上の配慮により排除される原理は別とする。
(4)制度的な支えを持つ諸原理や、制度的に確立した慣行を支える諸原理だけでは、政治理論や道徳理論の構成には不十分である。
 参照: 原理を擁護する諸慣行:(a)原理が関与する法準則、先例、制定法の序文、立法関連文書、(b)制度的責任、法令解釈の技術、各種判例の特定理論等の慣行、(c)(b)が依拠する一般的諸原理、(d)一般市民の道徳的慣行。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

 「私は他の法理論に優先してある理論を選択すべきいかなる基礎も見出されない、と主張しているのではない。逆に次節で検討される裁量論を私が拒否することからもわかるように、ある理論を他より勝れたものとして区別する説得力ある論証を示し《うる》と私は考えている。しかしこれらの論証は、たとえば社会における平等義務の本質は何か、といった規範的政治理論の諸問題の論証を含み、この種の論証は、法とは何かを決定する際に考慮さるべき問題には一定の限界がある、という実証主義的な観念では捉えることのできない論証である。制度的支えというテストは、ある法理論を最良の理論として特定化する機械的ないし歴史的基礎や倫理的に中立的な基礎を我々に与えてはくれない。それどころかこのテストは、ある一人の法律家が一連の法的原理を他のより広範な倫理的ないし政治的原理から区別することさえ可能にしないのである。通常、法律家の法理論には彼が受容するほぼすべての政治的倫理的原理の総体が含まれるだろう。確かに、憲法上の配慮により排除される原理を別とすれば、社会で一般的に通用し彼も個人的に受容する社会的ないし政治的倫理的原理でありながら、法の総体を正当化すべく要請された詳細な正当化図式の内部には属さず、この図式において何の意義ももたないような原理を一つでも考えだすことは困難である。それ故実証主義者が制度的に確立した慣行を法の窮極的テストの役割を演ずるべきものとして採用しても、これはただ彼の台本の残りの部分をその犠牲として放棄することによってのみ可能なのである。
 しかしもしそうであれば、法理論にとり由々しい結果が生ずることになる。法理論は「法とは何か」という問いを立て、大半の法哲学者は法的権利義務の立証過程において適切な仕方で登場する「規準」を特定化することにより、この問いに答えようとしてきた。しかし、このような規準の網羅的なリストが作成されえないとすれば、法的権利義務を他のタイプの権利義務から区別する別の方法が発見されねばならない。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,3「制度的支え」は承認のルールを構成するか,木鐸社(2003),pp.79-80,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:法理論,政治理論,道徳理論,原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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02.(A1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在、(A2)発言者、状況の手続的適合性、(B1)手続きの適正な実行、(B2)完全な実行、(Γ1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性、(Γ2)参与者の行為の適合性。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

行為遂行的発言の不適切性の理論

【(A1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在、(A2)発言者、状況の手続的適合性、(B1)手続きの適正な実行、(B2)完全な実行、(Γ1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性、(Γ2)参与者の行為の適合性。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】
行為遂行的発言の不適切性の理論
(A・1)ある一定の慣習的な効果を持つ、一般に受け入れられた慣習的な手続きが存在しなければならない。そして、その手続きはある一定の状況のもとにおける、ある一定の人々による、ある一定の言葉の発言を含んでいなければならない。
(A・2)発動された特定の手続きに関して、ある与えられた場合における人物および状況がその発動に対して適当でなくてはならない。
(B・1)その手続きは、すべての参与者によって正しく実行されなくてはならない。かつまた、
(B・2)完全に実行されなくてはならない。
(Γ・1)その手続きが、しばしば見受けられるように、ある一定の考え、あるいは感情を持つ人物によって使用されるように構成されている場合、あるいは、参与者のいずれかに対して一連の行為を惹き起こすように構成されている場合には、その手続きに参与し、その手続きをそのように発動する人物は、事実、これらの考え、あるいは感情を持っていなければならない。また、それらの参与者は自らそのように行動することを意図していなければならない。そしてさらに、
(Γ・2)これら参与者は、その後も引き続き、実際にそのように行動しなければならない。

 「要するに、行為を適切に遂行した(have happily brought off our action)と言い得るためには、いわゆる遂行的な言葉を発すること以外に、一般的な通則としてなお数多くの事が正しく(right)なくてはならないし、また、数多くの事が正しく行なわれなくてはならないのである。そこでいったいいかなる事が正しくなくてはならないかということは、何かが《うまく行っていない》(go wrong)が故に、その結果として結婚、賭け、贈与、命名その他の行為が少なくともある程度において失敗に終わるような事例の型を観察、分類することによって明らかにすることができるであろう。そしてこれらの失敗に終わるような事例においてなされた発言については、それを偽であるというべきではなく、むしろ一般に《不適切》(unhappy)であるというべきであろう。そこでこの理由により、遂行的発言がなされた際に《何かがうまくない、または、何かがうまくはこんでいないといわれ得るようなその何か》に関する理論を《不適切性》の理論(the doctrine of the Infelicities)と名付けよう。
 以下さしあたり次のような順序で議論を進めて行くことにしたい。まず最初に、行為遂行的発言(あるいは、少なくともこの講義でこれまでとりあげてきた例にみられるような、高度に発達した顕在的な行為遂行的発言(explicit performative)を円滑、かつ適切に機能させるために必要とされる事柄のいくつかを、図式的に述べてみる。ただし、私はここで述べる図式がいかなる意味においても究極的に正しいものであると主張するつもりはない。そして、次に、不適切性とそれがもたらす結果についていくつかの例を挙げることを試みる。ここで私が危惧すると同時にまたもちろん希望することは、以下に述べる種類の満たされるべき必要条件なるものがあまりにも明白であることに諸兄が驚愕されることである。
(A・1)ある一定の慣習的な(conventional)効果をもつ、一般に受け入れられた慣習的な手続きが存在しなければならない。そして、その手続きはある一定の状況のもとにおける、ある一定の人々による、ある一定の言葉の発言を含んでいなければならない。
(A・2)発動(invoke)された特定の手続きに関して、ある与えられた場合における人物および状況がその発動に対して適当(appropriate)でなくてはならない。
(B・1)その手続きは、すべての参与者によって正しく実行されなくてはならない。かつまた、
(B・2)完全に実行されなくてはならない。
(Γ・1)その手続きが、しばしば見受けられるように、ある一定の考え、あるいは感情をもつ人物によって使用されるように構成されている場合、あるいは、参与者のいずれかに対して一連の行為を惹き起こすように構成されている場合には、その手続きに参与し、その手続きをそのように発動する人物は、事実、これらの考え、あるいは感情をもっていなければならない。また、それらの参与者は自らそのように行動することを意図していなければならない。そしてさらに、
(Γ・2)これら参与者は、その後も引き続き、実際に(actually)そのように行動しなければならない。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第2講 不適切性の理論Ⅰ,pp.25-27,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:行為遂行的発言の不適切性の理論)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。(a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、(b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして(c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
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17.難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))

難解な事案と在る法、在るべき法

【難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))】

(1)難解な事案、すなわち半影的問題において、次のような事実がある。
 (1.1)ルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すなわち、ある意味ではルール自体に帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。それは、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化するようなものである。
 (1.2)このような場合について、在るルールと在るべきルールを区別し、裁判官の決定を、在るルールを超えた意識的な選択や「命令」「法創造」「司法立法」とみなすことは、少なくとも「べき」の持つある意味においては、誤解を招くであろう。
(2)日常言語においても、次のような事実がある。
 (2.1)私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言うのかということについても、人間に共通の目的を仮定的に考慮して、解釈している。
 (2.2)例としてしばしば、聞き手の解釈を聞いて、話し手が「そうだ、それが私の言いたかったことだ。」というようなケースがある。
 (2.3)議論や相談によって、より明確に認識された内容も、そこで勝手に決めたのだと表現するならば、この体験を歪めることになろう。これを誠実に記述しようとするならば、何を「本当に」望んでいるのか、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであろう。

(出典:alchetron
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)
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 「もし倫理学における「非認知主義的」理論やその他類似の理論を反証することが、在る法と在るべき法との区別に関係するもので、この区別をある点で破棄したり、何か弱めたりすると主張するためには、一層突っ込んだそして厳密な議論をしなければならない。

ハーバード・ロー・スクールのフラー教授(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))がそのさまざまな著作の中で展開している以上に、この方向での議論をはっきりと展開している人物はいない。そこで、その主要な論点だと思われるところを批判することで、この論文を終えたい。

その論点は、意味が明確で議論を呼ぶことのない法的ルールないし法的ルールの意味の明確な部分ではなく、当初から問題があることが感じられており、具体的ケースにおいてルールの意味について議論がなされる場面でのルールの解釈を考察するときに再び私たちの前に現われてくるものである。

どのような法体系においても、法的ルールの適用される範囲が、立法者が現実に考えたこと、あるいは、考えたと思われる具体的な事例の範囲に限られることはない。

これが実際のところ、法的ルールと命令との重要な違いの一つである。

ところが、立法者が考えた事例、もしくは、考えたであろう事例を超える事例にルールを適用していると考えられる場合に、このような新しいケースへのルールの拡張は、しばしば、ルールを解釈する者の意識的な選択や命令のようには見えない。

それは、そのルールに新しい、拡張的な意味を与える決定とも見えないし、また、立法者が、たとえば18世紀に死んだのだがもし20世紀まで生きていたならば、言うであろうことの推測とも見えない。

そうではなく、そのルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すなわち、ある特定の現存、物故の人物にというよりもルール自体に(ある意味で)帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。

功利主義者は、このような古いルールの新しいケースへの解釈的な拡張を、司法立法と記述するのだが、これはこの現象を正しく扱っていない。

これでは、新しいケースを過去のケースと同様に扱うという意識的な承認や決定と、ルールの下に新しいケースを包摂することが、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化することになるという認識(この認識には意識的なところはほとんどないし、また、任意的なところすらほとんどない)との違いについての手掛かりが与えられない。


 おそらく、多くの法律家や裁判官は、補完し明確化するという言いまわしの中に、彼らの経験にぴったり合致するものを感じるであろう。

そうでない者は、これは、功利主義者の表現では司法「立法」、現代のアメリカの用語で言えば「創造的選択」という言葉でうまく語られている事実を、ロマンティックに解釈したものだと考えるかもしれない。

 この問題点を明確にするために、フラー教授は、法とは無関係な例を哲学者のウィトゲンシュタインから借りてきているが、啓発的な例であると思われる。
 『ある人が私に向かって「その子供たちにゲームを教えてやりなさい」と言う。そこで私はダイスを使うゲームを教える。すると、相手は「私はその種のゲームを考えていなかった」と言う。彼が私に命令した時に、ダイスを使うゲームを排除することが彼の念頭になければならないのだろうか。』

 この例はたいへん重要なことに触れているように私には思われる。おそらく次のような(区別可能な)論点がある。

第一に、私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言うのかということについても、仮定的な人間に共通の目的を考慮して解釈しているので、反対のことが明示的に指示されるまでは、幼い子供にゲームを教えろという指図を、他の文脈では「ゲーム」という言葉が自然にギャンブルの意味に解釈されることもあろうが、ギャンブルを教えてやれという命令とは解釈しない。

第二に、たいへんしばしばあることだが、話し手がその言葉のそのような解釈を聞いて、「そうだ、それが私の言いたかったことだ。〔ないし「それが私がずっと考えていたことだ。」〕あなたがこの具体的なケースを私に示してくれるまでは思い至っていなかったがね」ということがある。

第三に、前もってはっきりと心に描かれていなかった個別具体的なケースが曖昧に表現された指図の範囲の中に入ると、たいてい他人と議論したり相談したりした後でのことだが、認識したとしよう。この認識のあり方を記述するのに勝手にそのケースをそのように扱うように決めたのだと表現するならば、この体験を歪めることになろう。

これを誠実に記述しようとするならば、何を「本当に」望んでいるのかを、ないし、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであろう。――これらの言い回しはフラー教授が同じ論文の後の部分で使用している。

 フラー教授が例に挙げた種類のケースに注意を向けることで、道徳的議論の性格についての哲学的議論は、多くの実りを得るものと私は信じている。

このようなケースに注目することは、「目的」と「手段」との間は鋭く分離しており、「目的」について議論するときには互いに非合理的に働きかけることができるだけで、合理的議論は「手段」についての議論のためのものであるという見解を矯正するものを提供する助けになろう。

しかし、この論点が、在る法と在るべき法との区別の主張が正しいものかどうかとか賢明なものかどうかという問題にどれほど関係しているかといえば、私は実際にはほとんど関係していないと考える。

よく考えてみると、法的ルールを解釈する際に、ある解釈がルールのたいへん自然な精密化や明瞭化なので、それを「立法」だとか「法創造」だとか「命令」だとか考えたり呼んだりすることがうまくそぐわないもののように思える場合があるというのがこの議論の趣旨である。

そして、そのような場合について、在るルールと在るべきルールを区別することは――少なくとも「べき」の持つある意味においては――誤解を招くであろう、という議論である。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.92-94,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:難解な事案,在る法,在るべき法,半影的問題)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年11月4日日曜日

16.仮に、ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、また逆に、在るべき法が客観的なものとして知られたとしても、現に在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、また区別すべきである。(ハーバート・ハート(1907-1992))

在るべき法

【仮に、ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、また逆に、在るべき法が客観的なものとして知られたとしても、現に在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、また区別すべきである。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(3.3)、(4)追記。

(3)規範的な言語で表現される価値言明は、ある集団において特定の社会的ルールが存在するか否かという事実問題である。この事実の存在は、人々の外的視点、内的視点の両面から判断される。
 (3.1)注意すべきは、感情や態度などの主観的選好そのものが価値を基礎付けるわけではなく、事実としての社会的ルールの存在が、そのような感情や態度をしばしば生じさせるということである。
 (3.2)また、社会的ルールの存在という事実にとって、ルールの常習的違反者が少数存在することは何ら矛盾したことではない。
 参照: 特定の行動からの逸脱への批判や、基準への一致の要求を、理由のある正当なものとして受け容れる人々の習慣が存在するとき、この行動の基準が社会的ルールである。それは、規範的な言語で表現される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 参照: 「外的視点」によって観察可能な行動の規則性、ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が記録、理論化しても、「内的視点」を解明しない限り「法」の現象は真に理解できない。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 (3.3)存在と当為、事実と価値、手段と目的、認知的と非認知的の区別が、議論と検討と反省が無駄だという根拠として使われるとき、この区別は有害なものとなる。個別具体的なものについての争いに関し、当事者が議論し詳細に検討し反省してみることによって、当初は曖昧なまま感知されていた諸原則が、当事者双方が合理的に受け容れられるような明確なものとして、理解できるようになる。
(4)しかし、それでもなお、在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、区別すべきである。
 (4.1)ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、その法が法でないことを示したことにはならない。法は様々な程度において邪悪であったり馬鹿げていたりしながら、なお法であり続ける。
 (4.2)逆に、法であるべき全ての道徳的資格を備えていながら、しかしなお法ではないルールが存在する。

 「このような見解(もちろん、このような大雑把な検討で伝えられるよりもはるかに精密な議論である)に反対して、これらすべての存在と当為、事実と価値、手段と目的、認知的と非認知的の厳密な区別は間違いであると主張する者もいる。

究極的な目的ないし道徳的価値を認めるときに、私たちは、何が起こっているのかということについての事実判断の真理性と同様、選択や態度や感覚や感情の問題ではなく、しかも、私たちが生きている世界の性格によって受け入れざるを得ないものを認識している。

典型的に道徳的な議論というのは、議論している当事者が互いに、感覚や感情を表現したり抑制したり、勧告や命令を発する議論ではなく、議論することで当事者が、詳細に検討し反省してみると最初に争っていたケースが曖昧なまま感知していた原則(それ自体、他のどのような分類の原則に比べても、少しも「主観的」でも「意志の命令」でもない原則)の範囲に入ると認め、そして、それが個別具体的なものについて最初に争われた他のどのような分類よりも「認知的」「合理的」と呼ばれるに値すると認めるに至る議論であるとされる。

 以上のような道徳に関する「非認知的」理論への批判や、在るものと在るべきものについての言明の徹底的な区別の否定を認めて、道徳的な判断は他のタイプの判断と同じく合理的に擁護できるものであるとしよう。

そう考えたとして、在る法と在るべき法との連関の本質に関して何か導かれるものがあるだろうか。これだけからでは何も導かれはしないと断定できる。法は、いかに道徳的に邪悪であっても、なお(この点に関する限り)法である。道徳的判断の本質についてのこの見解を受け入れることで生じる唯一の違いは、そのような法の道徳的邪悪さが証明できるものとなるというだけのことであろう。

あるルールが道徳的に悪であり法たるべきでないということ、また逆に、道徳的に望ましく法たるべきであるということが、そのルールが要求していることについての言明だけからたしかに導き出されるだろう。 

しかし、これを証明したとしても、そのルールが法でない(または、法である)ことを示したことにはならない。

私たちが法を評価したり非難したりする際に用いる原則が合理的に発見可能なものであり、たんなる「意志の命令」ではないことが保障されても、法は、さまざまな程度において邪悪であったり馬鹿げていたりしながら、なお法であり続けることがあるという事実には変わりはない。また逆に、法であるべきすべての道徳的資格を備えていながら、しかしなお法ではないルールが存在する。」


(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.91-92,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:在るべき法)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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