2020年5月6日水曜日

科学における仮説的推理に類似している司法過程の解明のため区別すべき3観点:(a)思考過程とか習慣についての心理学的な事実、(b)司法的技術の諸原理、諸基準、使われるべき思考過程、(c)評価、正当化の諸基準(ハーバート・ハート(1907-1992))

心理学的な事実と諸原理、評価基準

【科学における仮説的推理に類似している司法過程の解明のため区別すべき3観点:(a)思考過程とか習慣についての心理学的な事実、(b)司法的技術の諸原理、諸基準、使われるべき思考過程、(c)評価、正当化の諸基準(ハーバート・ハート(1907-1992))】

 参考:正義に反する定式化を回避しながら、広範囲の様々な判例に矛盾しない一般的ルールを精密化していく裁判所の方法は、帰納的方法というよりむしろ、科学理論における仮説的推理、仮説-演繹法推理と類似している。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 参考:司法過程は、科学における仮説的推理に類似しているとはいえ、その方法の客観的な記述(記述的理論)とは別に、その方法がいかにあるべきかを指図する理論(指図的理論)も存在しており、別の評価が必要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 「発見の方法と評価の基準 司法的推論に関する記述的理論と指図的理論の両方を考察する場合に、次のものを区別することが重要である。つまり、
(1)裁判官が実際にその決定に到達する際の、通常の思考過程とか思考習慣についてなされる主張、
(2)従われるべき思考過程についての提言、
(3)司法的決定が評価されるべき基準、
である。これらのなかで、(1)は記述心理学の問題に関わっている。そしてこの分野の主張は、そられが検討されている事例の記述を超え出ている限りにおいて、心理学の経験的一般命題ないし法則なのである。(2)は司法判断の技法ないし技巧に関わっており、この分野の一般命題は司法的技術の諸原理である。(3)は決定の評価ないし正当化に関係している。
 これらの区別は重要である。なぜなら、裁判官はしばしば、法的ルールないし先例の関与するいかなる熟考ないし推理の過程も経ることなく決定に到達しているから、決定において法的ルールからの演繹が何らかの役割を果たしているとする主張は誤りである、と時折論じられてきたからである。この議論は混乱している。というのは、一般的にいって、そこで争われているのは、裁判官が実際にその決定に到達している仕方、あるいは到達すべき仕方に関わる問題ではないからである。それはむしろ、裁判官が決定――それがどのようにして到達されようとも――を正当化する際に考慮する諸基準に関わっているのである。決定が熟慮によって到達されようと、直感的なひらめきによって到達されようと、その決定の評価において論理が用いられているかどうかということこそが真の問題であろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,3 法哲学の諸問題,p.121,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳),古川彩二(訳))
(索引:仮説的推理,司法過程,思考過程,心理学的事実,原理,基準,評価)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2020年5月5日火曜日

直接影響を与えるのが本人のみであっても、社会が保護すべきという考えは間違っているのか? また、明らかに社会にとって不都合と思われることは、可能な範囲で最小限、禁止してもよいのではないか?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

本人を通じて間接的に受ける影響

【直接影響を与えるのが本人のみであっても、社会が保護すべきという考えは間違っているのか? また、明らかに社会にとって不都合と思われることは、可能な範囲で最小限、禁止してもよいのではないか?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(e)(f)追加。

  (2.3.3)本人を通じて間接的に受ける影響について
   直接影響を与えるのが本人のみであっても、一般的に、本人に影響があることは、間接的には本人を通じて他人に影響を与え得る。
   直接影響を与えるのが本人のみであっても、家族への被害は? 頼っている人への被害は? また、社会全体としてみると害悪があるのでは? 他の人が真似をしてしまうような悪影響は?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   (a)家族への被害は?
    誰でも、自分に深刻な害か、取り返しのつかない害のあることをすれば、少なくとも家族には被害が及ぶだろう。
   (b)頼っている人への被害は?
    自分の財産を減らせば、その財産に直接にか間接にか頼って生活している人が打撃を受けるだろう。
   (c)社会全体にとっての害悪は?
    自分の身体か頭の能力が低下すれば、幸せのある部分でその人に頼っている人たちに被害を与えるうえ、社会全体の役に立つ仕事をすべきなのにそれができなくなり、おそらくは逆に社会の愛情と慈悲に頼るようにすらなるだろう。
   (d)他の人が真似をしてしまうような悪影響は?
    悪徳や愚行によって他人に直接に被害を与えないとしても、悪い実例を示して社会に害悪を流すことになるので、その人の行動を見聞きした人が堕落か誤解をしないように、自制を強制されるのが当然である。
   (e)本人を社会が保護すべきではないのか?
    子供や成年に達していない若者は明らかに、本人の意思を無視しても社会が保護すべきだというのであれば、大人になって自分を律することができない人も、社会が保護すべきではないのだろうか。
   (f)明らかに社会にとって不都合と思われること
    賭博や飲み過ぎ、淫乱、怠惰、不潔が、法律で禁止されている行為の多くと変わらないほど不幸をもたらし、進歩を妨げるのであれば、実行が可能な範囲で、そして社会にとって不都合にならない範囲で、法律でこれらを抑制してはならないという理由があるのだろうか。
  (2.3.4)周囲の人たちのために自分自身に配慮すべきなのに、そうしなかったことで周囲の人たちへの義務を果たせなかったときには、道徳の問題になり非難の対象となる。

 「さらに、こうも主張されるだろう。間違った行動で打撃を受けるのが身持ちが悪いか愚かな本人だけだとしても、自分を律する力が明らかにない人に、自由にふるまわせておくべきなのだろうか。子供や成年に達していない若者は明らかに、本人の意思を無視しても社会が保護すべきだというのであれば、大人になって自分を律することができない人も、社会が保護すべきではないのだろうか。賭博や飲み過ぎ、淫乱、怠惰、不潔が、法律で禁止されている行為の多くと変わらないほど不幸をもたらし、進歩を妨げるのであれば、実行が可能な範囲で、そして社会にとって不都合にならない範囲で、法律でこれらを抑制してはならないという理由があるのだろうか。そして、法律にかならずある不完全さを補うために、少なくとも世論の力でこれらの害悪を抑制する仕組みを作り、これらの悪徳から抜け出せない人に社会が厳しい制裁をくわえるべきではないだろうか。そうしても、個性を抑圧することにはならないし、生活について独創的で新しい実験を行うのを妨げることにもならない。これで妨げようとしているのは、世界がはじまって以来、現在にいたるまで、繰り返し試され、非難されてきた点であり、誰にとっても有益でも適切でもないことが事実によって示されてきた点である。ある年数にわたって、ある量の事実が積み重なってこなければ、道徳上の真理や処世上の真理が確立したとは考えられないはずである。そこで当面は、過去のどの世代にとっても致命的であった失敗を、新しい世代がつぎつぎに繰り返すのを防ごうというだけだと。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第4章 個人に対する社会の権威の限界,pp.176-178,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:本人を通じて間接的に受ける影響)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

直接影響を与えるのが本人のみであっても、家族への被害は? 頼っている人への被害は? また、社会全体としてみると害悪があるのでは? 他の人が真似をしてしまうような悪影響は?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

本人を通じて間接的に受ける影響

【直接影響を与えるのが本人のみであっても、家族への被害は? 頼っている人への被害は? また、社会全体としてみると害悪があるのでは? 他の人が真似をしてしまうような悪影響は?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2.3.3)追記。

  (2.3.3)本人を通じて間接的に受ける影響について
   直接影響を与えるのが本人のみであっても、一般的に、本人に影響があることは、間接的には本人を通じて他人に影響を与え得る。
   (a)家族への被害は?
    誰でも、自分に深刻な害か、取り返しのつかない害のあることをすれば、少なくとも家族には被害が及ぶだろう。
   (b)頼っている人への被害は?
    自分の財産を減らせば、その財産に直接にか間接にか頼って生活している人が打撃を受けるだろう。
   (c)社会全体にとっての害悪は?
    自分の身体か頭の能力が低下すれば、幸せのある部分でその人に頼っている人たちに被害を与えるうえ、社会全体の役に立つ仕事をすべきなのにそれができなくなり、おそらくは逆に社会の愛情と慈悲に頼るようにすらなるだろう。
   (d)他の人が真似をしてしまうような悪影響は?
    悪徳や愚行によって他人に直接に被害を与えないとしても、悪い実例を示して社会に害悪を流すことになるので、その人の行動を見聞きした人が堕落か誤解をしないように、自制を強制されるのが当然である。
  (2.3.4)周囲の人たちのために自分自身に配慮すべきなのに、そうしなかったことで周囲の人たちへの義務を果たせなかったときには、道徳の問題になり非難の対象となる。

 「以上では、個人の生活のうち、本人のみに関係する部分と他人に関係する部分とを区別してきたが、この区別を認めない人が多い。そうした人は以下のように主張する。社会の一員の行動のうちどのような部分であっても、他の人たちにとって無関心ではいられないものがあるだろうか。まったく孤立して生きている人はいない。誰でも、自分に深刻な害か、取り返しのつかない害のあることをすれば、少なくとも家族には被害が及ぶし、さらに広く被害が及ぶこともある。自分の財産を減らせば、その財産に直接にか間接にか頼って生活している人が打撃を受けるし、社会全体の資源が多かれ少なかれ減少する。自分の身体か頭の能力が低下すれば、幸せのある部分でその人に頼っている人たちに被害を与えるうえ、社会全体の役に立つ仕事をすべきなのにそれができなくなり、おそらくは逆に社会の愛情と慈悲に頼るようにすらなるだろう。このような行動が多ければ、どのような犯罪にも劣らないほど、社会全体の幸福の量を減らすことになろう。最後に、悪徳や愚行によって他人に直接に被害を与えないとしても、悪い実例を示して社会に害悪を流すことになるので、その人の行動を見聞きした人が堕落か誤解をしないように、自制を強制されるのが当然ではないかと。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第4章 個人に対する社会の権威の限界,pp.175-176,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:本人を通じて間接的に受ける影響)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

国家は、諸個人の権利保護のための必要悪である。民主主義の本質は、流血なしの政府交代であり、害悪が最小の制度ではあるが、悪用もできる。制度は、善き伝統と市民に支えられ、改善されていく。(カール・ポパー(1902-1994))

自由主義の諸原則

【国家は、諸個人の権利保護のための必要悪である。民主主義の本質は、流血なしの政府交代であり、害悪が最小の制度ではあるが、悪用もできる。制度は、善き伝統と市民に支えられ、改善されていく。(カール・ポパー(1902-1994))】
自由主義の諸原則
(1)必要悪としての国家
 (a)人は人に対して狼であるか? 故に国家が必要であるか?
 (b)人は人に対して天使であるとしても、国家は必要である。
  依然として弱者と強者とが存在する。弱者が、強者の善良さに恩義をこうむりながら生きる。これを認めない場合は、国家の必要性が承認される。
 (c)国家は絶えざる脅威であり、たとえ必要悪であるとはいえ、悪であることに変わりはない。
  国家が自らの課題を果すためには、権力を持たねばならないが、その権力の濫用から生じる危険を完全に取り除くことはできない。また、権利の保護に対する代価が高すぎる場合もあろう。
(2)民主主義の本質は流血なしに政府を交換できること
 民主主義においては、政府は流血なしに倒されうる。専制政治においてはそうではない。
(3)何事かをなし得るのは市民
 民主主義は枠組みであり、何事かをなし得るのは市民である。
(4)民主主義は、最も害が少ない
 (a)多数派はいつでも正しいとは限らない。
 (b)民主主義の諸制度が、民主主義の伝統に根ざしている場合には、われわれの知る限りでもっとも害が少ない。
 (4.1)開かれた社会の必要性
  闘う勇気を支える真理を探究し、誤謬から解放されるためには、自身の理念を闘う理念と同様に、批判的に考察できることが必要だ。これは、自他の多くの誤りが寛容される開かれた社会においてのみ可能である。(カール・ポパー(1902-1994))

(5)制度は善用も悪用もできる
 (a)制度は、いつでも両価的である。善用もできれば、悪用もできる。
 (b)制度を支える良い伝統が必要である。伝統は、制度と個人の意図や価値観を結びつける一種の連結環を作り出すために必要である。
(6)制度を支える伝統の力
 (a)法はただ一般的な原理を書き記しているのみであり、その解釈や司法過程は、伝統的な正義や原則によって支えられ、発展させられる。これは、自由主義のもっとも抽象的で一般的な原則についても当てはまる。
 (b)個人の自由に加えられる制約は、それが社会的な共同生活によって不可避である場合、可能なかぎり等しく課せられ、そして可能なかぎり少なくされる。
(7)自由主義の諸原則は、改善のための原則
 (a)自由主義の諸原則は、現行の諸制度を評価し、必要とあれば、制限を加えたり改変できるようにするための補助的な原則である。自由主義の諸原則が、現行の諸制度にとって代わることはできません。
 (b)言葉を換えるならば、自由主義とは、専制政治への対抗という点を除けば、革命的であるというよりは、むしろ進化を目ざす信条である。
(8)伝統としての道徳的枠組み
 伝統のうちでも、もっとも重要なものは、制度化された法的枠組みに呼応する道徳的枠組みを形成している伝統である。この伝統により、道徳的感情が育成されている。


 「2 自由主義の諸原則、一群のテーゼ
1 《国家は必要悪です》。国家の権力は必要な範囲をこえて拡大されるべきではありません。この原則は「自由主義のカミソリ」と呼べるでしょう。(こう呼ぶのは、形而上学的実体は必要以上に増やされてはならないという有名な原則を述べているオッカム〔中世の哲学者〕のカミソリにならってのことです。)
 この悪――国家――の必要性を示すためには、《人は人に対して狼である》(Homo homini lupus)というホッブズの見解に訴える必要はありません。それどころか、《人は人に対して猫である》(Homo homini felis)、あるいは実に《人は人に対して天使である》(Homo homini angelus)――換言すれば、まったくの柔和さ、あるいはおそらく、天使のようなまったき善良さがあれば、どんな人であれ他人を害することはないという見解を受けいれたときでも、この国家の必然性を示すことはできるのです。つまり、そのような世界においても、依然として弱者と強者とが存在するでしょう。そして弱者は、強者によって許容してもらう《権利をもたない》のです。弱者は、ですから、彼ら自身を許容してくれる強者の善良さに恩義をこうむることになります。さて、こうした状態を不満足なものと考え、何ぴとも生きる《権利》をもつべきであり、そして強者の力から保護されるべきであると《要求》する者は、(強者であれ、弱者であれ)、万人の権利を保護する国家の必要性を承認することになります。
 しかしながら、国家が絶えざる脅威であり、そしてそのかぎりで、たとえ必要悪であるとはいえ、悪にかわりないことを示すことは困難ではありません。なぜなら、国家はその課題を果たすべきであるならば、個々のどんな市民よりも、あるいはどんな市民団体よりも、より多くの権力をもたねばならないからです。そうした権力の濫用から生じる危険を決して完全に取り除くことはできません。それどころか、われわれはいつでも国家によって権利を保護してもらうことに対して代価を払わねばならない、しかも税金というかたちにおいてばかりでなく、われわれが耐えねばならない品位の低下というかたちにおいても(「当局の高慢さ」)、と思われるのです。しかし、これらすべては程度問題です。要は、権利の保護に対してあまりにも高い代価を払う必要はないということです。
2 民主主義と専制政治(Despotie)との差は、《民主主義においては政府は流血なしに倒されうるが、専制政治においてはそうではない》という点にあります。
3 《民主主義は、市民にいかなる恩恵を示すこともできませんし(またそうすべきでもありません)》。事実として、「民主主義」そのものは、まったくもって何もできないのでして、何ごとかをなしうるのは、民主主義的国家(もちろん政府を含めて)の市民のみです。民主主義は、その内部で国民が行為しうるような枠組み以外の何ものでもありません。
4 《われわれが民主主義者であるのは、多数がいつでも正しいからではなく、民主主義の諸制度が、民主主義の伝統に根ざしている場合には、われわれの知るかぎりでもっとも害が少ないからです》。多数(「世論」)が専制政治を決定したときでも、民主主義者は、そのことをもって、自らの確信を放棄する必要はありません。もっとも、自国における民主主義の伝統が十分強固でなかったことを知らされることにはなりますが。
5 《伝統のなかに根づいていないならば、制度だけでは十分ではないのです》。制度というものは――強い伝統の助けがないならば――意図されていた目的とはしばしばまったく対立するような目的のために機能しうるという意味で、いつでも「両価的」です。たとえば、議会内の野党は――大雑把に言って――多数派が納税者のお金を盗むのを妨げるべきです。しかし、わたくしは、この制度の両価性を説明する、ヨーロッパ東南部の国での小さなスキャンダルを思い出します。それは、多額の賄賂がまさに多数党と野党とのあいだで分配された事例でした。
 《伝統は、〔一方における〕制度と〔他方における〕個人の意図や価値観を結びつける一種の連結環を作り出すために必要です》。
6 自由な「ユートピア」――つまり、伝統なき博士(tabula rasa)の上に合理的な仕方で設計された国家――などというものは、まったく不可能です。なぜなら、自由主義の原則は、《個人の自由に加えられる制約は、それが社会的な共同生活によって不可避である場合、可能なかぎり等しく課せられ》(カント)、そして可能なかぎり少なくされることを要求するからです。しかしながら、われわれはこうしたアプリオリな原則を実際にはどう適用できるのでしょうか。われわれはピアニストの練習を妨げるべきでしょうか。それともその隣人が静かな午後を楽しむことを妨げるべきでしょうか。こうした問題の一切は、すでにある伝統や習慣を引き合いに出して――伝統的な正義の感情、つまりイギリスでは慣習法と呼ばれているものを引き合いに出すことによって――そして、公正な裁判官が正しいと認めるところにしたがって、解決されることになるでしょう。《というのも、あらゆる法はただ一般的な原理を書き記しているのみであって、適用されるためには解釈されなければならないからです。しかしながら、解釈はふたたび日常的実践から得られるようなある種の原則を必要とするのであって、そうした原則は生きている伝統によってのみ発展させられます。これは、自由主義のもっとも抽象的で一般的な原則について、とくにあてはまることです》。
7 《自由主義の諸原則は、現行の諸制度を評価し、必要とあれば、制限を加えたり改変できるようにするための補助的な原則であると述べることができるでしょう。自由主義の諸原則が、現行の諸制度にとって代わることはできません。言葉を換えるならば、自由主義とは(専制政治への対抗という点を除けば)革命的である(revolutionär)というよりは、むしろ進化を目ざす(evolutionär)信条です》。
8 《伝統のうちでも、もっとも重要なものとして数え上げられねばならないのは、社会の(制度化された「法的枠組み」に呼応する)道徳的枠組みを形成している伝統、つまり、正しさや礼儀正しさについての伝統的感覚を体現している伝統、また、そうした伝統によって達成された道徳的感情の度合です》。こうした道徳的枠組みは、必要とあれば、衝突する利害を、正義にかなった仕方で、そして公正に調停するための土台です。こうした道徳的枠組みは、もちろん変わらないわけではありませんが、比較的ゆっくりと変わるものです。《こうした枠組み、こうした伝統の破壊ほど危険なことはありません》。(ナチズムは、そうした破壊を意図的に目ざしていたのです。)そうした破壊がなされるならば、結局のところ、冷笑的なニヒリズム――あらゆる人間的な価値に対する蔑視とそれらの解体――がひき起こされるにちがいありません。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第11章 自由主義の原則に照らしてみた世論,2 自由主義の諸原則、一群のテーゼ,pp.242-246,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:自由主義,民主主義,権利,伝統)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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16.ある一般名詞が指し示す対象の集合があっても、対象に共通な特徴や性質、共通のイメージが存在するとは限らない。哲学は純粋に記述的なものであり、数学や科学の方法を不用意に用いることは誤りである。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

一般的なるものへの渇望

【ある一般名詞が指し示す対象の集合があっても、対象に共通な特徴や性質、共通のイメージが存在するとは限らない。哲学は純粋に記述的なものであり、数学や科学の方法を不用意に用いることは誤りである。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】

一般的なるものへの渇望
(1)共通的な特徴や性質があるとは限らない
 (a)ある一般名詞があり、この言葉が指し示す対象の集合があるとする。
 (b)全ての対象は似てはいるかもしれないが、共通な特徴や性質があるとは限らない。
 (c)共通的な特徴や性質が必ず存在し、それが言葉の意味だと考えがちであるが、これは誤りである。
(2)視覚的なイメージがあるとは限らない
 (a)様々な個々の「葉」が存在する。
 (b)様々な「葉」に共通な、ある特徴や性質がある。
 (c)共通な特徴や性質だけを含んだ、視覚的イメージのようなものは、存在するとは限らない。
 (d)この共通的なイメージが存在し、それが「葉」の意味だと考えがちであるが、これは誤りである。
 (e)言葉の意味が、何らかの心的機構の状態ではあるとしても、それが視覚的イメージのような心的状態だと考えるのは、誤りである。
(3)哲学は、純粋に記述的なもの
 (a)科学においては、自然現象の説明を、できる限り少数の基礎的自然法則に帰着させる。
 (b)数学においては、異なる主題群を一つの一般化で統一する。
 (c)哲学の方法を、科学や数学の方法と同じであると考えることが、形而上学の真の源であり、哲学者を全たき闇へと導くのである。
 (d)何かを何かに帰着させる、またそれを説明するというのは、哲学の仕事ではない。哲学は事実として純粋に記述的なものである。

 「この一般的なるものの渇望は、それぞれ或る哲学的混乱と結びついている思考傾向が幾つか合わさったものである。

その思考傾向には次のようなものがある―――
 (a)普通、或る一般名詞に包摂される対象のすべてに共通した何かを探す傾向。―――例えば、すべてのゲームに共通なものがなければならない、この共通な性質こそ一般名詞「ゲーム」をさまざまなゲームに適用する根拠である、と我々は考えやすい。

しかしそうではなく、さまざまなゲームは一つの《家族》を形成しているのであり、その家族のメンバー達に家族的類似性( family likeness )があるのである。

家族の何人かは同じ鼻を、他の何人かは同じ眉を、また他の何人かは同じ歩き方をしている。

そしてこれらの類似性はダブっている。一般概念とはその個々の事例すべてに共通な性質だという考えは、言語構造についての他の素朴で単純すぎる考えとつながっている。

この考えは[例えば]《性質》はその性質を持っている物の《成分》だという考えと同じ類のものである。その考えでは、例えば美は、アルコールがビールやワインの成分であるように、美しい物の成分であり、したがって、何であれ美しい物で混ぜものにされさえしなければ、我々は純粋無垢の美をもちえたことになる。

 (b)また、我々の普通の表現形式に根ざした或る傾向がある。一般名詞、例えば「葉」という名詞を学び知った人なら、それにともなって[必ず]個々の葉の像とは別な、何か葉の一般像なるものを獲得している、と考える傾向である。

その人は「葉」という語の意味を学ぶときいろいろな葉を見せられるが、個々の葉を見せるのは単に、「彼の中に」或る種の一般的イメージと思われる観念を産みだすための一法だった、と。

我々は、[今や]彼はこれら個々の葉すべてに共通なものを見てとっている、と言うのだ。もしそれが、彼は尋ねられればそれらの葉に共通な或る特徴や性質をあげる、という意味なのならば誤りではない。

しかし、我々は、葉の一般観念とは何か視覚的イメージのようなもの、だがただすべての葉に共通なものだけを含んでいるもの、と考えがちなのである。(ゴールトンの重ね写真。)  

この考えは再び、語の意味とはイメージあるいは語に対応する事物であるという考えとつながっている。(簡単にいえば、語をすべて固有名のように考え、ついでその名の担い手を名の意味に取り違えることである。

 (c)また再び、「葉」「植物」等々の一般観念を把握するときに何がおきているのかについての我々の考えは、仮説的な[生理学的]心的機構の状態の意味での心的状態と、意識の状態(歯痛等)の意味での心的状態との混同に結びついている。

 (d)一般的なるものへの我々の渇望には今一つ大きな源がある。我々が科学の方法に呪縛されていること。自然現象の説明を、できる限り少数の基礎的自然法則に帰着させるという方法、また数学での、異なる主題群を一つの一般化で統一する方法のことである。

哲学者の目の前にはいつも科学の方法がぶらさがっていて、問題を科学と同じやり方で問い且つ答えようとする誘惑に抗し難いのである。この傾向こそ形而上学の真の源であり、哲学者を全たき闇へと導くのである。ここで私は言いたい。

それが何であれ、何かを何かに帰着させる、またそれを説明するというのは断じて我々の仕事ではない、と。哲学は事実として[もともと]「純粋に記述的」《である》のだ。

(「感覚与件( sense data )は存在するか」といった問を考えて見給え。そして、その問に決着をつける方法は何であるか、と問うて見給え。内観?)」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、pp.46-47、大森荘蔵)
(索引:一般的なるものへの渇望,哲学,数学,科学)

ウィトゲンシュタイン全集 6 青色本・茶色本


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)
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11.生存と認識にとって最重要なものが、身体との関係事象として最初に現われる。次に対象が出現するが、道具や玩具の事物に向き合うのは全体としての身体である。最後に、関係事象から我が客体化され分離する。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

我の意識の起源

【生存と認識にとって最重要なものが、身体との関係事象として最初に現われる。次に対象が出現するが、道具や玩具の事物に向き合うのは全体としての身体である。最後に、関係事象から我が客体化され分離する。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

我の意識の起源
(1)関係事象、作用しかけてくるもの
  向かいあう存在がありありと体感され、ただ全身で受けとめられる関係事象が、最初に存在する。次に、関係における作用の担い手が対象化される。神秘的威力を持った、月、太陽、野獣、酋長、シャーマン、死者たち。(マルティン・ブーバー(1878-1965))
 (a)生存本能にとってもっとも重要なもの、認識本能にとってもっとも顕著なものである、作用しかけてくるものが、最も強く前面に現われ、独立する。
 (b)生殖によって自己を保存しようとするのは、我ではなくて、我というものをまだ知らぬ身体である。
(2)対象の出現
 (a)重要ではないものは、後方に退き、徐々に対象化され、そして少しずつ相い集まってきわめて徐々に群や類をなしてゆく。
 (b)道具や玩具などの事物をつくろうとし、その創始者であろうとするのも、我ではなくて、まだ分たれぬ全体としての身体である。
(3)互いに作用しつつある我と汝の関係事象から我が客体化され分離する
 我は原初的体感の分裂によって浮びあがり、また、我に作用しつつある汝、汝に作用しつつある我という生命にみちた始原語の分裂によって、つまり、この作用しつつあるという分詞が名詞化され、客体化されてから、はじめて単独な要素として浮びあがってくるのである。

 「記憶は訓練されることによって、さまざまな重大な関係事件や根元的な震撼などを分類しはじめるが、そのときもっとも強度に前面にあらわれ、きわだち、ひとり立ちするのは、生存本能にとってもっとも重要なものや、認識本能にとってもっとも顕著なもの、ほかでもなくあの《作用しかけてくるもの》である。

一方、さまざまな体験のうちでも、たいして重要ではないもの、共通の事件ではなかったもの、次々と交代する《汝》は、後方にしりぞき、記憶のなかに離ればなれに残り、徐々に対象化し、そしてすこしずつ相い集まってきわめて徐々に群や類をなしてゆく。

そして第三のものとして、分離された場合には怖るべきものとなり、死者や月よりも時としては妖怪めいて、しかし次第にまがうことなく明らかに現れてくるのだ、もうひとつのものが、《つねに同一である》伴侶が、――《我》が。

 《自己》保存本能や、その他の諸本能の原初的な活動には、《我の意識》は付随していない。

本能がまだ自然のままに活動している段階では、生殖によって自己を保存しようとするのは《我》ではなくて、《我》というものをまだ知らぬ身体である。

そこでは道具や玩具などの事物をつくろうとし、その《創始者》(Urheber)であろうとするのも《我》ではなくて、まだ分たれぬ全体としての身体なのである。

また原始的な認識機能のなかには《われ識る、ゆえにわれあり》(Cognosco ergo sum)はいかに素朴なかたちにおいても見出されない。

およそ経験主体に関する擬人化はいかに子供っぽいかたちでもここには見出されない。

《我》は原初的体感の分裂によって浮びあがり、また、《我に作用しつつある汝》(Ich-wirkend-Du)、《汝に作用しつつある我》(Du-wirkend-Ich)という生命にみちた始原語の分裂によって、つまり、この《作用しつつある》という分詞が名詞化され、客体化されてから、はじめて単独な要素として浮びあがってくるのである。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)pp.30-31、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

マルティン・ブーバー(1878-1965)
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2020年5月4日月曜日

22.衝動の制御:(a)機会を避け、衝動を弱める,(b)厳しい規則を衝動に植えこむ,(c)衝動に身を任せ飽満と嫌悪を獲得する,(d)全身的な衰弱と虚脱で衝動を弱める,(e)苦痛を与える連想を衝動に結びつける,(f)力を他の衝動に転移する(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

衝動を制御する方法

【衝動の制御:(a)機会を避け、衝動を弱める,(b)厳しい規則を衝動に植えこむ,(c)衝動に身を任せ飽満と嫌悪を獲得する,(d)全身的な衰弱と虚脱で衝動を弱める,(e)苦痛を与える連想を衝動に結びつける,(f)力を他の衝動に転移する(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

衝動
(1)別の衝動の存在
 衝動の激しさに対して苦しみを認めるということは、さらに激しい別な衝動が存在することを示している。それは、安息への衝動、恥辱や別の悪い結果への恐怖、愛などである。
(2)知性の発動
  あるいは、また、われわれの知性が味方しなければならない、ひとつの戦いがさし迫っていることを示している。
(3)衝動の激しさを押さえるための、本質的に異なった6つの方法
 (a)機会を避け、衝動を弱める
  衝動を満足させる機会を避け、衝動を弱め、乾涸びるようにする。
 (b)厳しい規則を衝動に植えこむ
  衝動を満足させるときの厳しい規則的な秩序を法則にする。
 (c)衝動に身を任せ飽満と嫌悪を獲得する
  わざと衝動の荒々しい奔放な満足に身を委ね、それで嫌悪を収穫し、この嫌悪によって衝動に打ち勝つ力を手に入れる。
 (d)全身的な衰弱と虚脱で衝動を弱める
  肉体と精神の組織全体を、弱め抑制することに耐え、激しい衝動を弱める。
 (e)苦痛を与える連想を衝動に結びつける
  知的な戦略がある。何らかの非常に苦痛を与える考え、たとえば恥辱や悪い結果などを、満足とかたく結びつける練習をし、連想を完成させる。たとえば、個々の興奮が全体的な態度と理性の秩序よりも優勢になることを、侮辱を感じるようにさせる。
 (f)力を他の衝動に転移する
  何らかのとくに骨の折れる仕事を自分に課すか、あるいはわざと新しい刺戟と楽しみに服従し、思想や肉体の力の働きを別な軌道に導く。すなわち、力の転位。知っている他のすべての衝動に、一時的な鼓舞と祝祭期を与える方法もある。

 「《自制と節制とその究極の動機》。―――衝動の激しさを押さえるのに、本質的に異なった六つの方法より以上は見つからない。 

第一に、衝動を満足させる機会を避け、不満足が長く、だんだん長く続くことによって、衝動を弱め、乾涸びるようにすることができる。

第二に、衝動を満足させるときの厳しい規則的な秩序を法則にすることができる。こういう風にして、衝動そのものの中に規則を持ち込み、衝動の干満を確実な時間的限界の中に閉じこめることによって、もはや衝動からわずらわされることのない中間時が獲得される。―――そしてそこからおそらく第一の方法に移ってゆくことができるであろう。

第三に、わざと衝動の荒々しい奔放な満足に身を委ね、それで嫌悪を収穫し、この嫌悪によって衝動に打ち勝つ力を手に入れることができる。馬を追いつめて殺し、そのとき自分も首の骨を折るような―――残念ながらこうした試みにおいてはこれが通例である―――騎手と競争しないことが前提であるが。  
 
第四に、知的な戦略がある。つまり、何らかの非常に苦痛を与える考えを一般に満足とかたく結びつけ、若干練習したあとで、満足したという考えがいつも直ちにそれ自身非常に苦痛を与えるものとして感じられるようにすることである(たとえばキリスト教徒が、性的享楽にあたって悪魔の接近と嘲笑を、復讐心からの殺人に対して永遠の地獄の罰を、またたとえば、金銭の窃盗犯に対して彼から最も尊敬される人間たちの眼にうかぶ軽蔑だけを考えることに馴れている場合。

あるいは多くの者がすでに百回も、自殺への激しい欲望に対して親類や友人が悲嘆し自責するという考えを対立させ、それによって浮動する人生に身を支えて来た場合。―――今やこれらの考えが彼の心の中で次々に原因と結果のように相次いで起こる)。
 
たとえばバイロン卿や、ナポレオンのように人間の誇りが激昂し、ひとつひとつの興奮が全体的な態度と理性の秩序よりも優勢になることを侮辱を感じるときもまた、これに属する。

ここからさらに、衝動を専制君主化させて、それをいわば軋らせる習慣と楽しみが生じる。(「私は何らかの食欲の奴隷になることを望まない」―――とバイロンは日記に記した。)

第五に、何らかのとくに骨の折れる仕事を自分に課すか、あるいはわざと新しい刺戟と楽しみに服従し、こうして思想や肉体の力の働きを別な軌道に導くことによって、多くの力の転位が行なわれる。

他の衝動を一時的に奨励し、それが満足する機会を多く与え、こうしてそれを、そうでないなら激しさが重荷になった衝動が意のままにするであろうあの力の濫費者にするときも、やはり結果は全く同じことになる。
  
いろいろな人はまた、彼が知っている他のすべての衝動に一時的な鼓舞と祝祭期を与え、専制君主が自分ひとり占めにしようと思う飼料を食いつくせと命じることによって、専制君主を演じたいと思うひとつひとつの衝動を抑制することもよく心得ている。  

最後に第六として、肉体と精神の組織《全体》を弱め抑制することに耐え、それを合理的と思う者は、ひとつひとつの激しい衝動を弱める目標にもとよりこれと同様にして到達する。
 
たとえば苦行者のように、その感覚を飢え疲れさせ、しかも同時にもちろんその強壮さも時折はその知性も一緒に飢え疲れさせて駄目にする人のやり口のように。  

―――したがって、機会を避けること、規則を衝動に植えこむこと、衝動に対する飽満と嫌悪を生み出すこと。苦悩を与える思想(恥辱や悪い結果や、あるいは侮辱された誇りのような)の連想を完成すること。次に力の転位。最後に全身的な衰弱と虚脱。

―――これが六つの方法である。しかし一般に衝動の激しさに打ち勝とうと《望むということ》は、われわれの力の及ぶところではない。

同様に、どんな方法を思いつくか、またこの方法で効果があがるかどうかということも、やはりわれわれの力の及ぶところではない。

むしろわれわれの知性は、この全過程において明白に、或る《別の衝動》の盲目的な道具であるにすぎない。この別の衝動は、安息への衝動であれ、恥辱や別の悪い結果への恐怖であれ、愛であれ、われわれをその激しさによって苦しませるものの《競争者》の一つなのである。

「われわれ」がそれゆえある衝動の激しさについて嘆いていると思っているのに、根柢においては、《ある別の衝動について嘆いている》衝動がある。すなわちそのような《激しさ》に対して苦しみを認めることは、同様に激しい衝動、あるいはさらに激しい別な衝動が存在することを、またわれわれの知性が味方しなければならないひとつの《戦い》がさし迫っていることを前提としている。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『曙光 道徳的な偏見に関する思想』第二書、一〇九、ニーチェ全集7 曙光、pp.123-125、[茅野良男・1994])
(索引:衝動)

ニーチェ全集〈7〉曙光 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
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2020年5月3日日曜日

4.両眼視野闘争は受動的なものだろうか? それとも、意識的に決められるか? 意識的な注意が欠如すると、二つのイメージはともに処理され、競い合わない。両眼視野闘争には、能動的で注意深い観察者が必要なのだ。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

両眼視野闘争

【両眼視野闘争は受動的なものだろうか? それとも、意識的に決められるか? 意識的な注意が欠如すると、二つのイメージはともに処理され、競い合わない。両眼視野闘争には、能動的で注意深い観察者が必要なのだ。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))】

 「両眼視野闘争は受動的なものだろうか? それともどちらのイメージが戦いに勝利するかを意識的に決められるか? 争う二つのイメージを知覚する際、とめどないイメージの交替に、私たちはまったく受動的に従っているかのような印象を受ける。しかしこの印象は誤りであり、皮質における闘争の過程では注意が重要な役割を果たす。そもそも、どちらか一方のイメージ、たとえば建物より顔に注意を集中すると、そのイメージはいくぶん長い期間見え続ける。とはいえその効果は弱い。要するに、二つのイメージ間の闘争は、私たちのコントロールが及ばない段階からすでに始まっているのだ。
 しかしより重要なことに、勝者の存在自体は、私たちがそれに注意を向けることに依存する。つまり、戦いの舞台そのものは、意識を持つ心で成り立つ。その証拠に、二つのイメージが提示される場所から注意をそらすと、イメージの闘争は停止する。
 どうしてそれがわかるのか? 気を散らせている人にその状態で今何を見ているかを、もしくは二つのイメージが依然として交互しているかどうかを訪ねても意味はない。答えるためには、その場所に注意を向けねばならないからだ。注意を喚起せずに知覚の程度を見極めようとしても、無益な循環を引き起こすだろう。それは、鏡で自分の目の動きを確かめようとしたときと似ている。疑いなく目は始終動いているが、鏡でそれを確認しようとすれば、まさにその試みによって目は静止してしまう。これまで長いあいだ、注意を喚起せずに両眼視野闘争を調査する試みは、誰もいない森のなかで倒れる木の音や、眠りに落ちたまさにその瞬間の感覚について尋ねるのと同じように、自己矛盾を孕むと見なされてきた。
 しかし、ときに科学は不可能を可能とする。ミネソタ大学のパン・チャンらは、被験者に質問せずにイメージの交替を調査できることに気づいた。二つのイメージが競い合っているか否かを示す脳の徴候を見出しさえすればよいのだ。彼らはすでに、両眼視野闘争が続くあいだ、いずれかのイメージに反応してニューロンが交互に発火することを知っていた。被験者の注意を喚起せずに、それを測定できるだろうか? チャンは、特定のリズムで明滅させることで各イメージを標識づける、「周波数標識法」と呼ばれる技術を用いた。二つの異なる周波数標識は、頭部に装着した電極を通して記録される脳波図によって拾える。両眼視野闘争が続くあいだ、二つの周波数は排除し合う。一方の振動が強ければ、他方は弱い。これは、一時には一つのイメージしか見えない事実を反映する。しかし被験者が注意を欠いているときには、これらの競合は停止し、二つの標識は独立して同時に生じる。注意の欠如は闘争を妨げるのだ。
 純粋な内省を用いた他の実験でも、この結論は確認されている。競い合うイメージから注意を一定期間そらすと、注意を戻したときに知覚されるイメージは、その期間イメージが交替し続けてきた場合に知覚されるはずのものとは異なる。かくして、両眼視野闘争は注意に依存することがわかる。意識的な注意が欠如すると、二つのイメージはともに処理され、競い合わない。両眼視野闘争には、能動的で注意深い観察者が必要なのだ。」
(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第1章 意識の実験,紀伊國屋書店(2015),pp.49-51,高橋洋(訳))
(索引:両眼視野闘争)

意識と脳――思考はいかにコード化されるか


(出典:wikipedia
スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「160億年の進化を経て発達した皮質ニューロンのネットワークが提供する情報処理の豊かさは、現在の私たちの想像の範囲を超える。ニューロンの状態は、部分的に自律的な様態で絶えず変動しており、その人独自の内的世界を作り上げている。ニューロンは、同一の感覚入力が与えられても、その時の気分、目標、記憶などによって異なったあり方で反応する。また、意識の神経コードも脳ごとに異なる。私たちは皆、色、形状、動きなどに関して、神経コードの包括的な一覧を共有するが、それを実現する組織の詳細は、人によって異なる様態で脳を彫琢する、長い発達の過程を通じて築かれる。そしてその過程では、個々シナプスが選択されたり除去されたりしながら、その人独自のパーソナリティーが形成されていく。
 遺伝的な規則、過去の記憶、偶然のできごとが交錯することで形作られる神経コードは、人によって、さらにはそれぞれの瞬間ごとに独自の様相を呈する。その状態の無限とも言える多様性は、環境に結びついていながら、それに支配はされていない内的表象の豊かな世界を生む。痛み、美、欲望、後悔などの主観的な感情は、この動的な光景のもとで、神経活動を通して得られた、一連の安定した状態のパターン(アトラクター)なのである。それは本質的に主観的だ。というのも、脳の動力学は、現在の入力を過去の記憶、未来の目標から成る布地へと織り込み、それを通して生の感覚入力に個人の経験の層を付与するからである。
 それによって出現するのは、「想起された現在」、すなわち残存する記憶と未来の予測によって厚みを増し、常時一人称的な観点を外界に投影する、今ここについてのその人独自の暗号体系(サイファー)だ。これこそが、意識的な心の世界なのである。
 この絶妙な生物機械は、あなたの脳の内部でたった今も作動している。本書を閉じて自己の存在を改めて見つめ直そうとしているこの瞬間にも、点火したニューロンの集合の活動が、文字通りあなたの心を作り上げるのだ。」
(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第7章 意識の未来,紀伊國屋書店(2015),pp.367-368,高橋洋(訳))
(索引:)

スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-)
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シナプスの情報をアストロサイトが拾い上げ、「もうひとつの脳」の中のグリア回路網を通して流れ、別のアストロサイトからの神経伝達物質放出を促すことによって、別の場所でシナプスの制御に活用している。(R・ダグラス・フィールズ(19xx-))

アストロサイト

【シナプスの情報をアストロサイトが拾い上げ、「もうひとつの脳」の中のグリア回路網を通して流れ、別のアストロサイトからの神経伝達物質放出を促すことによって、別の場所でシナプスの制御に活用している。(R・ダグラス・フィールズ(19xx-))】

 「アストロサイトは、ニューロンのような様式で、遠くまで迅速に情報を送信する必要がないので、電気的インパルスを発火しないのだと、私たちは今では理解している。そのためアストロサイトは、電気的なコミュニケーションには手を出さないが、ニューロンの持つより興味深い第二の交信方法、すなわち神経伝達物質によるコミュニケーションを存分に活用し、そこに関与している。
 アストロサイトの活動は、脳の比較的大きな領域に及ぶので、シナプスへの影響も広範囲にわたるはずである。とはいえ、あるシナプスの情報が一個のアストロサイトによって拾い上げられて、「もうひとつの脳」のなかのグリア回路網を通して流れ、別のアストロサイトからの神経伝達物質放出を促すことによって、神経回路で直接結合していない遠くのシナプスにおけるニューロンのコミュニケーションを調節している可能性については、21世紀初頭に至るまで検証されていなかった。この仮説は、2005年にフィリップ・ヘイドンのグループによって証明された。彼らの研究により、アストロサイトは海馬のシナプス活動にカルシウム上昇によって応答するが、それが次に、発火した近傍のシナプスだけでなく、同じニューロンの遠く離れた別のシナプスでも伝達強度を調節していることが確認された。脳内の遠い場所を結んで、ニューロン回路の外側からシナプス伝達を調節しているアストロサイトはまさしく、制御装置にほかならなかった。「ニューロンの脳」の情報は、「もうひとつの脳」によって傍受され、「ニューロンの脳」の別の場所でシナプスの制御に活用されていたのだ。私たちの中にある二つの心がこうして出会うことで、「ニューロンの脳」だけでは実現できないどんな働きが可能になるのだろうか?
 離れたシナプスの強度を調節するこの現象(異シナプス性抑制として知られる)は、騒々しいレストランの中で会話を続けるときに、私たちの誰もが経験することによく似ている。食事相手の話をいつも以上に注意深く聴き取ると同時に、厨房からの雑音や周りで食事をしている人たちの間で交わされる会話は耳に入れないようにする。このような精神集中は、私たちを取り巻く環境の中で、すべての騒音から重要なシグナルを選別するためには不可欠である。これと同じことが、私たちの海馬でも起こっている。あなたが学習したいと望んでいる新しい情報を運んでくる入力のなされるシナプスは、長期増強によって強化される一方、注意をそらす邪魔な情報を別のシナプスから同じニューロンに伝えている入力は抑制されているのだ。おなたはおそらく、この抑制された背景情報を記憶していないだろう。」(中略)「アストロサイトが、周囲にあるシナプスを抑制して、私たちの記憶中枢に対する特定の入力を際立たせている細胞であることを知って、多くの人が衝撃を受けた。もしアストロサイトが、シナプスの集中調節という重要な働きができなくなったら、どうなるだろうか? それは学習や注意、さらには精神状態にどう影響するのか? アストロサイトが、独自のグリアネットワークを介した交信方法を用いて、シナプス強度を調節していると判明したことも、同じように驚きだった。このネットワークは、ニューロン間を配線でつないだ接続回線に拘束されることなく、神経ネットワークの外側で作動している。この携帯電話のようなアストロサイト網については、私たちは何も知らないも同然だ。このネットワークの境界は何なのか? それらは修正可能なのか――言い換えれば、アストロサイトは精神的経験に従って変化し、学習するのか? アストロサイトが実際に、学習においてネットワークの結合強度を変更していることを示す証拠が、新たな研究で得られ始めている。」
(R・ダグラス・フィールズ(19xx-),『もうひとつの脳』,第3部 思考と記憶におけるグリア,第14章 ニューロンを超えた記憶と脳の力,講談社(2018),pp.469-472,小松佳代子(訳),小西史朗(監訳))
(索引:アストロサイト,グリア回路網,神経伝達物質)

もうひとつの脳 ニューロンを支配する陰の主役「グリア細胞」 (ブルーバックス)



(出典:R. Douglas Fields Home Page
R・ダグラス・フィールズ(19xx-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「アストロサイトは、脳の広大な領域を受け持っている。一個のオリゴデンドロサイトは、多数の軸索を被覆している。ミクログリアは、脳内の広い範囲を自由に動き回る。アストロサイトは一個で、10万個ものシナプスを包み込むことができる。」(中略)「グリアが利用する細胞間コミュニケーションの化学的シグナルは、広く拡散し、配線で接続されたニューロン結合を超えて働いている。こうした特徴は、点と点をつなぐニューロンのシナプス結合とは根本的に異なる、もっと大きなスケールで脳内の情報処理を制御する能力を、グリアに授けている。このような高いレベルの監督能力はおそらく、情報処理や認知にとって大きな意義を持っているのだろう。」(中略)「アストロサイトは、ニューロンのすべての活動を傍受する能力を備えている。そこには、イオン流動から、ニューロンの使用するあらゆる神経伝達物質、さらには神経修飾物質(モジュレーター)、ペプチド、ホルモンまで、神経系の機能を調節するさまざまな物質が網羅されている。グリア間の交信には、神経伝達物質だけでなく、ギャップ結合やグリア伝達物質、そして特筆すべきATPなど、いくつもの通信回線が使われている。」(中略)「アストロサイトは神経活動を感知して、ほかのアストロサイトと交信する。その一方で、オリゴデンドロサイトやミクログリア、さらには血管細胞や免疫細胞とも交信している。グリアは包括的なコミュニケーション・ネットワークの役割を担っており、それによって脳内のあらゆる種類(グリア、ホルモン、免疫、欠陥、そしてニューロン)の情報を、文字どおり連係させている。」
(R・ダグラス・フィールズ(19xx-),『もうひとつの脳』,第3部 思考と記憶におけるグリア,第16章 未来へ向けて――新たな脳,講談社(2018),pp.519-520,小松佳代子(訳),小西史朗(監訳))
(索引:)

R・ダグラス・フィールズ(19xx-)
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他者を自分と同じ知的精神的存在としてとらえる能力(心の理論の能力)は、事実と論理による推論的な合理的知識なのではなく、人間の社会的なつながりの基礎にある別のメカニズムに依拠しているらしい。(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-))

心の理論

【他者を自分と同じ知的精神的存在としてとらえる能力(心の理論の能力)は、事実と論理による推論的な合理的知識なのではなく、人間の社会的なつながりの基礎にある別のメカニズムに依拠しているらしい。(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-))】

 「「心の理論」という言葉は、前章でも類人猿とのからみで出てきたが、ここではもっとくわしく説明したい。「心の理論」は、哲学から霊長類学、臨床心理学にいたるまで、認知科学の分野で広く用いられている専門用語で、他者を知的精神的存在としてとらえる能力――すなわち、自分自身がもっているのと同じようなたぐいの思考、情緒、観念、動機などをもっているという前提にもとづいて他の人たちのふるまいを理解する能力――を指す。言いかえれば、あなたは自分がほかの人になったらどんな感じがするかを実際に感じることはできないが、心の理論を使って、意図や知覚や信念を他者の心に自動的に投影する。そうすることによって、人の感情や意図を推測し、行動を予測して、それに影響をおよぼすことができる。これを「理論」と呼ぶのはいささか誤解を招きやすい。理論という言葉は通常、諸説や予測からなる知的体系を指し、この場合のように生得的、本能的な心的能力に対しては用いないからだ。しかし私が属する分野では「心の理論」が用語として使われているので、ここでもそのまま使うことにする。ほとんどの人は、心の理論をもつことが、どれほど込みいった、率直に言って奇跡的なことであるかをよく理解していない。それは「見ること」と同じように、ごく自然で、即時に起きる、簡単なことに思える。しかし第2章で見たように、見るという能力は、実際には、広範囲な脳領域のネットワークが関与する非常に複雑なプロセスである。私たち人間の高度に発達した心の理論は、人間の脳がもつもっともユニークで強力な能力の一つなのである。
 私たちの心の理論の能力は、一般的知能――論理的に考えたり、推断をしたり、事実を組み合わせたりするときなどに使う合理的知能――に依拠しているのではなく、それと同等に重要な《社会的》知能のために進化した専門のメカニズムに依拠しているらしい。社会的認知のために特化した専門の回路があるのではないかという考えは、1970年代に、心理学者のニック・ハンフリーと霊長類学者のデイヴィッド・プレマックによって最初に提言され、現在では実験にもとづく支持が多数ある。したがって、自閉症の子どもが対人的相互交流に深刻な欠陥があるのは、心の理論に何らかの障害があるためではないかというフリスの直感には説得力があった。」
(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-),『物語を語る脳』,第5章 スティーヴンはどこに? 自閉症の謎,(日本語名『脳のなかの天使』),角川書店(2013),pp.199-200,山下篤子(訳))
(索引:)

脳のなかの天使



(出典:wikipedia
ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「バナナに手をのばすことならどんな類人猿にもできるが、星に手をのばすことができるのは人間だけだ。類人猿は森のなかで生き、競いあい、繁殖し、死ぬ――それで終わりだ。人間は文字を書き、研究し、創造し、探究する。遺伝子を接合し、原子を分裂させ、ロケットを打ち上げる。空を仰いでビッグバンの中心を見つめ、円周率の数字を深く掘り下げる。なかでも並はずれているのは、おそらく、その目を内側に向けて、ほかに類のない驚異的なみずからの脳のパズルをつなぎあわせ、その謎を解明しようとすることだ。まったく頭がくらくらする。いったいどうして、手のひらにのるくらいの大きさしかない、重さ3ポンドのゼリーのような物体が、天使を想像し、無限の意味を熟考し、宇宙におけるみずからの位置を問うことまでできるのだろうか? とりわけ畏怖の念を誘うのは、その脳がどれもみな(あなたの脳もふくめて)、何十億年も前にはるか遠くにあった無数の星の中心部でつくりだされた原子からできているという事実だ。何光年という距離を何十億年も漂ったそれらの粒子が、重力と偶然によっていまここに集まり、複雑な集合体――あなたの脳――を形成している。その脳は、それを誕生させた星々について思いを巡らせることができるだけでなく、みずからが考える能力について考え、不思議さに驚嘆する自らの能力に驚嘆することもできる。人間の登場とともに、宇宙はにわかに、それ自身を意識するようになったと言われている。これはまさに最大の謎である。」
(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-),『物語を語る脳』,はじめに――ただの類人猿ではない,(日本語名『脳のなかの天使』),角川書店(2013),pp.23-23,山下篤子(訳))

ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-)
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人は感情や意図を共有し合える能力を持っているにもかかわらず、現実になぜ残虐行為が発生するのかの解明には、科学的な事実と制度、政策の関係、人間の生物学的組成と社会性、自由意志の問題が関係している。(マルコ・イアコボーニ(1960-))

感情や意図の共有能力と残虐行為

【人は感情や意図を共有し合える能力を持っているにもかかわらず、現実になぜ残虐行為が発生するのかの解明には、科学的な事実と制度、政策の関係、人間の生物学的組成と社会性、自由意志の問題が関係している。(マルコ・イアコボーニ(1960-))】

(1)問題:人は感情や意図を共有し合える能力を持っているにもかかわらず、なぜ残虐にもなれるのか。
 (1.1)感情や意図の共有
  感情や意図を共有し合えるという能力は、人と人とを意識以前の基本的なレベルで互いに深く結びつけ、人間の社会的行動の根本的な出発点でもある。
 (1.2)残虐行為が存在するという事実
(2)仮説
 (2.1)科学的な事実と制度、政策の関係、人間の生物学的組成と社会性、自由意志の問題が関係する
  共感を促進するのと同じ神経生物学的メカニズムが、特定の環境や背景のものでは共感的行動と正反対の行動を生じさせている可能性があるが、科学的な事実と制度、政策の関係の問題と、人間の生物学的組成、社会性と自由意志の問題が絡み、解決を難しくしている。
  (2.1.1)暴力的な映像による模倣暴力の事例
    暴力的な映像による模倣暴力の存在は、実験で検証されている。攻撃的な行動は、未就学児でも青年期でも、性別、生来の性格、人種によらず一貫して観察される。実際の社会においても、因果関係が実証されている。(マルコ・イアコボーニ(1960-))
  (2.1.2)科学的な事実と制度、政策の関係の問題
   (a)これを解明するためには、科学的な事実を、社会全般の幸福を促進するための政策策定に反映させる制度的な仕組みが必要だが、そのような体制にはなっていない。
   (b)規制すべきかどうかの問題。言論の自由との絡みがある。
   (c)規制すべきかどうかの問題。市場と金銭的利害との絡みがある。
  (2.1.3)人間の生物学的組成、社会性と自由意志の問題
   (a)社会性と人間の自由意志の関係
    人間の最大の成功ではないかとも思える私たちの社会性が、一方では私たちの個としての自主性を制限する要因でもあることを示唆している。これは長きにわたって信じられてきた概念に対する重大な修正である。
   (b)人間の生物学的組成と自由意志の関係
    一方、人間はその生物学的組成を乗り越えて、自らの考えを社会の掟を通じて自らを定義できるとする見方がある。

 「人は人と出会うと、感情や意図を伝えて共有する。人と人とは意識以前の基本的なレベルで互いに深く結びついている。これがわかってみると、この《事実》は社会的行動の根本的な出発点なのではないかと私には思える。しかし伝統的な分析哲学では、意識しての行動や人と人との違いを強調するあまり、こうしたことがほとんど無視されてきた。一方、私たちはまた別の事実も突きつけられている。それは文字どおり残虐な世界だ。この世では毎日いたるところで残虐行為が起こっている。私たちの神経生物学的機構は共感を生むように配線され、ミラーリングと意味の共有をするように調整されているはずなのに、なぜそんなことになってしまうのか?
 私の考えでは、これには三つのおもな要因がある。第一に、模倣暴力という現象で見たように、共感を促進するのと同じ神経生物学的メカニズムが、特定の環境や背景のものでは共感的行動と正反対の行動を生じさせる可能性がある。これはいまのところ仮説でしかないが、非常に信憑性の高い仮説だと思う。もし裏づけが取れれば、この神経科学上の事実はぜひとも政策決定に役立てるべきである。とはいえ、実際にはそうはならないだろう。理由は二つある。第一に、私たちの社会は科学的データを政策策定に使えるような態勢には少しもなっていない。とくに模倣暴力のような事例では、金銭的利害と言論の自由との複雑な関係が絡んでくるから、なお難しい。これは簡単に答えの出ない厄介な案件だが、科学全般、そしてその一部である神経科学を、象牙の塔や市場だけに閉じ込めておくのは決して得策ではないと思う。現状ではどんな発見も神経疾患の薬物治療を発達させることに適用されるだけで、社会全般の幸福を促進するために適用されることはめったにない。神経科学上の発見が政策決定に実際に役立てられること、またそうすべきであることを、せめて公開の場で討論できるようになればと思う。こうした考えはいまのところほとんど現われていないが、絶対に必要なことだと確信する。
 神経科学を政策に反映させようとする考えに抵抗が生じる第二の理由は、自由意志をいう大切な概念が脅かされるのではないかという恐れに関係している。その恐れが模倣暴力に関する議論にも結びついているのは明らかだ。ミラーニューロンについての研究は、人間の最大の成功ではないかとも思える私たちの社会性が、一方では私たちの個としての自主性を制限する要因でもあることを示唆している。これは長きにわたって信じられてきた概念に対する重大な修正である。伝統的に、個体行動の生物学的決定論の一方には、それと対比をなすものとして、人間はその生物学的組成を乗り越えて、自らの考えを社会の掟を通じて自らを定義できるとする見方がある。しかしミラーニューロンの研究は、私たちの社会の掟のほどんどが、私たちの生物学的仕組みによって決められていることを示している。この新たな知見にどう対処すればいい? 受け入れがたいとして拒否するか? それともこれを利用して政策に反映し、よりよい社会をつくっていくか? 私はもちろん後者に与する。」
(マルコ・イアコボーニ(1960-),『ミラーニューロンの発見』,第11章 実存主義神経科学と社会,早川書房(2009),pp.327-329,塩原通緒(訳))
(索引:感情,意図,残虐行為,制度,政策,社会性,自由意志)

ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 (ハヤカワ新書juice)


(出典:UCLA Brain Research Institute
マルコ・イアコボーニ(1960-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ミラーリングネットワークの好ましい効果であるべきものを抑制してしまう第三の要因は、さまざまな人間の文化を形成するにあたってのミラーリングと模倣の強力な効果が、きわめて《局地的》であることに関係している。そうしてできあがった文化は互いに連結しないため、昨今、世界中のあちこちで見られるように、最終的に衝突にいたってしまう。もともと実存主義的現象学の流派では、地域伝統の模倣が個人の強力な形成要因として強く強調されている。人は集団の伝統を引き継ぐ者になる。当然だろう? しかしながら、この地域伝統の同化を可能にしているミラーリングの強力な神経生物学的メカニズムは、別の文化の存在を明かすこともできる。ただし、そうした出会いが本当に可能であるならばの話だ。私たちをつなぎあわせる根本的な神経生物学的機構を絶えず否定する巨大な信念体系――宗教的なものであれ政治的なものであれ――の影響があるかぎり、真の異文化間の出会いは決して望めない。
 私たちは現在、神経科学からの発見が、私たちの住む社会や私たち自身についての理解にとてつもなく深い影響と変化を及ぼせる地点に来ていると思う。いまこそこの選択肢を真剣に考慮すべきである。人間の社会性の根本にある強力な神経生物学的メカニズムを理解することは、どうやって暴力行為を減らし、共感を育て、自らの文化を保持したまま別の文化に寛容となるかを決定するのに、とても貴重な助けとなる。人間は別の人間と深くつながりあうように進化してきた。この事実に気づけば、私たちはさらに密接になれるし、また、そうしなくてはならないのである。」
(マルコ・イアコボーニ(1960-),『ミラーニューロンの発見』,第11章 実存主義神経科学と社会,早川書房(2009),pp.331-332,塩原通緒(訳))
(索引:)

マルコ・イアコボーニ(1960-)
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2020年5月2日土曜日

1938_ジャコモ・リゾラッティ_命題集


《目次》

(1)視覚刺激により発生する体性感覚
 (1.1)体性感覚ニューロン
 (1.2)二重様相(バイモーダル)ニューロン(体性感覚-視覚ニューロン)
 (1.3)三重様相(トリモーダル)ニューロン(体性感覚-視覚-聴覚ニューロン)
(2)視覚刺激により発生する運動感覚の表象
 (2.1)標準(カノニカル)ニューロン
  (2.1.1)対象物の視覚刺激により発生する運動感覚の表象
 (2.2)ミラーニューロン
  (2.2.1)他者の運動行為の視覚刺激により発生する運動感覚の表象
  (2.2.2)他者の運動行為の意味、意図
  (2.2.3)サルとヒトのミラーニューロンの違い
  (2.2.4)ミラーニューロンに関するマーク・ジャンヌローの模倣説
  (2.2.5)マーク・ジャンヌローの模倣説では不十分である
(3)他者の情動表出の視覚刺激により発生する内臓運動の表象
 (3.1)内臓運動の表象
 (3.2)本物の情動が生じる場合と潜在的な場合
 (3.3)相手の情動の理解は複雑な対人関係の基盤
(4)行為の共有空間
(5)情動の共有空間

(1)視覚刺激により発生する体性感覚
  顔、首、腕、手の近くの空間に、体に向って動いて来る3次元物体の視覚刺激を受けると、顔、首、腕、手に対する触覚も同時に発生する。これは、体性感覚と視覚の両方に活性化する二重様相ニューロンが実現している。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))
 (1.1)体性感覚ニューロン
  顔、首、腕、手が、軽く触れられたり、肌を何かがかすったりするような、体の表面の触覚刺激によって活性化する。
 (1.2)二重様相(バイモーダル)ニューロン(体性感覚-視覚ニューロン)
  (a)体性感覚面では、純粋な体性感覚ニューロンと似ている。
  (b)視覚刺激、とくに三次元の物体に反応する。ほとんどは、動いている物、とりわけ、体に向って動いてくる物に反応しやすいが、静止している物に強く反応するものも、あることはある。
  (c)視覚刺激が触覚受容野の近くに現われたときだけしか反応しない。全空間のうち、顔、首、腕、手などそれぞれの体性感覚受容野の周辺に、各固有の形や大きさ、厚み(数センチメートルから40~50センチメートル)を持った、それぞれ固有の視覚受容野が存在する。言い換えると、視覚受容野が、体性感覚受容野の拡張部分を形成している。
 (1.3)三重様相(トリモーダル)ニューロン(体性感覚-視覚-聴覚ニューロン)

(2)視覚刺激により発生する運動感覚の表象
 対象物を見ると、それを操作する運動感覚の表象が伴う。これはカノニカルニューロンが実現している。また、他者の対象物への働きかけを見ると、その運動感覚の表象が伴う。これはミラーニューロンが実現している。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))

 (2.1)標準(カノニカル)ニューロン
  (2.1.1)対象物の視覚刺激により発生する運動感覚の表象
   (a)対象物の視覚刺激(対象物の形、大きさ、向き)に対応して運動特性(すなわち、つかみ方のタイプ)に呼応したニューロンの一部が発火する。
   (b)つかむ、持つ、いじるといった運動行為に対応したニューロンの大多数が発火する。
   (c)その結果、対象物の形、大きさ、向きに応じて決まる、その対象物をつかむ、持つ、いじるといった運動特性に呼応した、運動感覚の表象が現れ、視覚情報を適切な運動行為に変換するプロセスが準備される。

 (2.2)ミラーニューロン
  (2.2.1)他者の運動行為の視覚刺激により発生する運動感覚の表象
   他者が、対象物へ働きかける運動行為を見るとき、その特定のタイプの行為に呼応したニューロンの一部が発火する。例えば、つかむミラーニューロン、持つミラーニューロン、いじるミラーニューロン、置くミラーニューロン、両手で扱うミラーニューロン。運動行為の視覚情報には、次のような特徴がある。
   (a)カノニカルニューロンとは違い、食べ物や立体的な対象物を見たときには発火しない。
   (b)手や口や体の一部を使って、対象物へ働きかける行動を見たときに限られ、腕を上げるとか手を振るといったパントマイムのような行為、対象物のない自動詞的行為には反応しない。
   (c)見えた行為の方向や、実験者の手(右か左か)に影響されるように思える場合もある。
   (d)観察者と観察される行為との距離や相対的位置関係にはほとんど影響されずに発火する。
   (e)視覚刺激の大きさに影響されることもない。
   (f)2つ、あるいはめったにないが3つの運動行為のいずれかを観察すると発火するニューロンもあるようだ。
  (2.2.2)他者の運動行為の意味、意図
   その結果、他者が対象物へ働きかける運動行為を見るとき、その対象物をつかむ、持つ、いじるといった運動特性に呼応した、運動感覚の表象が現れ、他者の行為の意味が感知できる。
    他者が対象物へ働きかける運動行為を見るとき、その対象物をつかむ、持つといった運動特性に呼応した、観察者が知っている運動感覚の表象が自動的に現れる。この表象が行為の「意味」であり、他者の「意図」である。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))
   (a)他者が、対象物へ働きかける運動行為を見る。(視覚情報)
   (b)観察者の運動レパートリーに属している、その対象物をつかむ、持つ、いじるといった対象物を扱う様相によって特徴づけられる特定のタイプの行動の運動感覚の表象が現れる。これは、同一であるとか類似しているという内省や知識に基づくものではなく、自動的に現われる。
   (c)運動感覚の表象は、観察者自身を統制する運動行為の表象と同じであり、この運動感覚の表象が、観察された運動行為の「意味」であり、その行動をする他者の「意図」である。
   (d)従って、他者の運動行為が始まると、たとえその行為が完遂されなくても、その意味と意図は直ちに感知される。
   (e)他者の、あるタイプの行為を別のタイプの行為と区別することが可能となり、最適な反応をすることができる。

  (2.2.3)サルとヒトのミラーニューロンの違い
    サルとヒトのミラーニューロンの違い:ヒトは、広範囲の皮質を含む、自動詞的な運動行為にも反応する、個々の動きと行為の目的の両方を捉える、行為の真似に対しても反応する。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))
   (a)ヒトでは、サルの場合よりも広範囲の皮質を含むように見える。
   (b)ヒトのミラーニューロン系は「他動詞的」な運動行為と「自動詞的」な運動行為の両方をコードする。
   (c)ヒトは、運動行為の目的と、行為を構成する個々の動きの両方をコードすることができる。
   (d)ヒトの場合、「他動詞的」な運動行為において、対象物への実際の働きかけは絶対条件ではない。行為を真似ただけのときも、活性化できる。

  (2.2.4)ミラーニューロンに関するマーク・ジャンヌローの模倣説
    ミラーニューロンの機能は、他者の行為の模倣である。すなわち、実際の行為のときに活性化される運動感覚と著しく類似した、内的な運動表象を作り上げる。(マーク・ジャンヌロー(1935-2011))
   (a)特定の運動行為に対応したニューロンが発火するのは、カノニカルニューロンと同じである。
   (b)他者の行為を観察したとき、観察者の脳に潜在的な運動行為が生成される。それは、その行為を実際に構成・実行するときに行為者の脳内で自発的に活性化される運動行為と、著しい類似性を見せる。ただし、それは、「内的な運動表象」として潜在的な段階にとどまる。

  (2.2.5)マーク・ジャンヌローの模倣説では不十分である
    模倣による学習や、模倣による行為の再現のためには、ミラーニューロン系の存在が必要ではあるが、十分ではない。ミラーニューロン系を制御する他の皮質野の介入が必要である。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))
   (a)ミラーニューロンの機能
     他者が対象物へ働きかける運動行為を見るとき、その対象物をつかむ、持つといった運動特性に呼応した、観察者が知っている運動感覚の表象が自動的に現れる。この表象が行為の「意味」であり、他者の「意図」である。
   (b)ミラーニューロンの抑制機能
    抑制機能がないと、目にした運動行為が自動的に再現されてしまう。実際、前頭葉に広範囲の損傷がある患者は、目にした他者の行為、とくに治療してもらっている医師の行為を繰り返してしまう。また、他者の行為を反射的に模倣してしまう「反響動作症」という障害も存在する。
   (c)潜在的行為を実際の運動行為の実行へと移行させる促進機能
    模倣による学習や、運動レパートリーに属している行為を実際に再現するためには、ミラーニューロン系以外の皮質野の介入を必要とする。潜在的行為を、実際の運動行為の実行へと移行させる促進機能も必要である。

(3)他者の情動表出の視覚刺激により発生する内臓運動の表象
  他者の情動の表出を見るとき、その情動の基盤となっている内臓運動の表象が現れ、他者の情動が直ちに感知される。これは潜在的な場合もあれば実行されることもあり、複雑な対人関係の基盤の必要条件となっている。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))

 (3.1)内臓運動の表象
  他者の情動の表出を見るとき、その情動の基盤となっている内臓運動の表象が現れ、他者の情動が直ちに感知できる。
  (a)他者が、情動を感じている表情を見る。(視覚情報)
  (b)観察者の情動の基盤となっている内臓運動に関係する神経構造が、自動的に活性化される。
  (c)これにより、他者の情動が、直ちに了解される。ただし情動は、それが他者の表情や行為にどう表れているかに関係する、感覚的側面の内省的処理によって理解される場合もあるかもしれない。
 (3.2)本物の情動が生じる場合と潜在的な場合
  島の活性化によって引き起こされる内臓運動反応の周囲にある中枢は、潜在的な内臓運動活動を表象しており、それが実行されることもあれば、潜在的な状態にとどまることもある。
 (3.3)相手の情動の理解は複雑な対人関係の基盤
  このような情動の理解は、「同情」のための前提だ。しかし「同情」には他の要因も必要となる。例えば、相手が誰なのか、相手とどういう関係にあるのか、相手の立場になったところを想像できるか、相手の情動の状態や願望や期待といったものに対して責任を引き受ける気があるかなどだ。

(4)行為の共有空間
  2人以上の行為者が、相手の行為の意図を互いに、自己の潜在的運動行為として自動的に了解し合っているとき、この相互関係の状況を「行為の共有空間」と呼ぶ。これは、ミラーニューロンが実現している。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))

 (a)観察者A=行為者A
  (a1) 他者が対象物へ働きかける運動行為を見るとき、その対象物をつかむ、持つといった運動特性に呼応した、観察者が知っている運動感覚の表象が自動的に現れる。この表象が行為の「意味」であり、他者の「意図」である。
  (a2)すなわち、行為者Bの行為が、単独の行為であっても行為の連鎖であっても、観察された状況に最もふさわしい型の観察者Aの潜在行為として表象され、行為者Bが好むと好まざるとにかかわらず、観察者Aに対して意味を持つ。ここでは、意図的な「認知作業」はいっさい必要ない。
 (b)行為者B=観察者B
  同時にBは、Aの行為を見るとき、その行為はただちにBに対して意味を持つ。
 (c)このように、2人以上の行為者が、相手の行為の意図を互いに、自己の潜在的運動行為として自動的に了解し合っているとき、この相互関係の状況を「行為の共有空間」と呼ぶ。これは、ミラーニューロンが実現している。

(5)情動の共有空間
  2人以上の情動表出者が、相手の情動を互いに、自己の内臓運動の表象として自動的に了解し合っているとき、この相互関係の状況を「情動の共有空間」と呼ぶ。これは、ミラーニューロンが実現している。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))

 (a)観察者A=情動表出者A
  (a1) 他者の情動の表出を見るとき、その情動の基盤となっている内臓運動の表象が現れ、他者の情動が直ちに感知される。これは潜在的な場合もあれば実行されることもあり、複雑な対人関係の基盤の必要条件となっている。  (b)情動表出者B=観察者B
  同時にBは、Aの情動表出を見るとき、Bの情動を直ちに感知する。
 (c)このように、2人以上の情動表出者が、相手の情動を互いに、自己の内臓運動の表象として自動的に了解し合っているとき、この相互関係の状況を「情動の共有空間」と呼ぶ。これは、ミラーニューロンが実現している。


(出典:wikipedia
ジャコモ・リゾラッティ(1938-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「みなさんは、行為の理解はまさにその性質のゆえに、潜在的に共有される行為空間を生み出すことを覚えているだろう。それは、模倣や意図的なコミュニケーションといった、しだいに複雑化していく相互作用のかたちの基礎となり、その相互作用はますます統合が進んで複雑化するミラーニューロン系を拠り所としている。これと同様に、他者の表情や動作を知覚したものをそっくり真似て、ただちにそれを内臓運動の言語でコードする脳の力は、方法やレベルは異なっていても、私たちの行為や対人関係を具体化し方向づける、情動共有のための神経基盤を提供してくれる。ここでも、ミラーニューロン系が、関係する情動行動の複雑さと洗練の度合いに応じて、より複雑な構成と構造を獲得すると考えてよさそうだ。
 いずれにしても、こうしたメカニズムには、行為の理解に介在するものに似た、共通の機能的基盤がある。どの皮質野が関与するのであれ、運動中枢と内臓運動中枢のどちらがかかわるのであれ、どのようなタイプの「ミラーリング」が誘発されるのであれ、ミラーニューロンのメカニズムは神経レベルで理解の様相を具現化しており、概念と言語のどんなかたちによる介在にも先んじて、私たちの他者経験に実体を与えてくれる。」
(ジャコモ・リゾラッティ(1938-),コラド・シニガリア(1966-),『ミラーニューロン』,第8章 情動の共有,紀伊國屋書店(2009),pp.208-209,柴田裕之(訳),茂木健一郎(監修))
(索引:)

ジャコモ・リゾラッティ(1938-)
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内発的な意識過程には、発生時刻への主観的な遡及を可能にする脳活動がないのに、遅延のない連続的でなめらかな流れが意識される。これは、異なる複数の現象がオーバーラップして実現していると思われる。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

連続した意識の流れ

【内発的な意識過程には、発生時刻への主観的な遡及を可能にする脳活動がないのに、遅延のない連続的でなめらかな流れが意識される。これは、異なる複数の現象がオーバーラップして実現していると思われる。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】

(e)継続した意識の流れは、どのように生じているのか。
 (i)意識的な感覚の、時間的に逆行する主観的な遡及
   意識的な感覚は、刺激を受けた時刻より約0.5秒遅れて発生するが、意識の内容は、刺激の発生時刻を指し示す。もしこれが、初期EP反応だけで実現されていたとしても、「適切な脳機能の創発特性」として十分あり得ることだ。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))
 (ii)自発的な行為への意識を伴う意図
  自発的な行為への意識を伴う意図が、内発的に立ち現れる場合、その体験の主観的なタイミングは、自発的な行為を導き出す脳活動の始動後400ミリ秒間かそれ以上、事実上遅延することが、実験によって示されている。
 (iii)内発的な意識過程には、遅延が発生すると思われるが、実際は違う
  遡及に必要な初期EP反応がない内発的な過程においては、500ミリ秒間の神経活動によって初めて、意識事象が始まるとしたら、一連の意識事象は継続した流れとしては現れず、非連続的なものになると思われる。ところが、私たちの意識を伴う日常生活の中で、断続性は感じられない。
 (iv)仮説:非連続的である異なる精神現象がオーバーラップしている。
  私たちの一連の思考のスムーズな流れという主観的な感情は、異なる精神現象がオーバーラップしているということで、説明できると思われる。内在している事象が非連続的であるにもかかわらず、全体としてなめらかで連続性のある産物を生み出している。

 「(7) 継続した意識の流れについて人々がよく知っている概念というのは、意識的なアウェアネスのタイム-オン(持続時間)の必要条件と矛盾しています。意識の流れについての概念は、偉大な心理学者であるウィリアム・ジェームズが、彼自身が意識を伴う思念について直感的に理解したことに基づいて提唱したものです。多くの心理学者や、フィクション作家たちが、被験者または登場人物の精神活動の真の特質に、意識の流れについての考え方を取り入れてきました。しかし、《意識を伴う思考プロセスには非連続的な独立した事象》が含まれていなければならないことを、私たちの証拠は示しています。もし、必要条件である500ミリ秒間の神経活動によって引き起こされる大幅な遅延の後に初めてそれぞれの意識事象が始まるとしたら、一連の意識事象は継続した流れとしては現れません。それぞれの意識事象においてのアウェアネスは、最初の500ミリ秒付近には存在しないのです。
 一連の意識事象の非連続性には、直感に反した特徴があります。それは人々が経験しているものとは異なります。私たちの意識を伴う日常生活の中で、断続性は感じられません。感覚経験の場合、私たちの連続性の感覚は、次のように説明できます。すなわち、それぞれの経験が、感覚刺激から10~20ミリ秒以内の速さで誘発された感覚皮質の反応へと時間的には逆向きに、そして自動的かつ主観的に遡及される、ということです。主観的には、感覚事象に対するアウェアネスの中で、感知できるほどの遅延を人はまったく知覚していません。私たちの実験では、刺激に気づき始めることが可能になる時点よりも500ミリ秒も前に、人は感覚刺激に気づいていたと思っていることが示されています。この矛盾は事実に基づいて理解できるようになりました。したがってもはや、理論上の推測などではありません。この現象を私たちは「意識を伴う感覚的なアウェアネスについての、時間的に逆行する主観的な遡及」と名づけました。
 しかし、この特性は、行為への意識を伴う意図や、思考事象を含めたすべての種類の意識経験にも一般的に適用できるわけではありません。私たち(リベット他(1979年))は、感覚経験だけを考えて、主観的な遡及(時間的な前戻し)を提案しました。その場合においてさえ、感覚入力によって早いタイミングの信号である初期誘発電位反応が感覚皮質から引き出されたときにだけ、前戻しが起こります。自発的な行為への意識を伴う意図が、内発的に立ち現れる場合、その体験の主観的なタイミングは、自発的な行為を導き出す脳活動の始動後400ミリ秒間かそれ以上、事実上遅延することを私たちは実験によって示してきました(第4章)。外部から後押しする手がかりがない場合の意識を伴う行為を促す意図は、脳内で生じる(つまり、内発的である)意識経験の一例です。ここには、元来内発的ではない感覚システムの刺激への反応がないため、初期誘発電位反応は存在しません。
 私たちの一連の思考のスムーズな流れという主観的な感情は、異なる精神現象が《オーバーラップ》しているということで、おそらく説明がつくでしょう。脳は、ほとんど同時に複数の意識事象を、時間的にオーバーラップさせて起こすことができるようです。内在している事象が非連続的であるにもかかわらず、全体としてなめらかで連続性のある産物をどのように生み出しているかを理解するために、筋肉の動きの生理機能を考えてみましょう。上腕二頭筋のような骨格筋は、それぞれが多数の筋肉細胞や繊維を含む多くの運動ユニットから成り立っています。肘を屈曲させるように、二頭筋をなめらかに収縮すると、どの単独の運動ユニットの動きにおいても1秒間につきおよそ10回という比較的低い割合で「収縮活動している」ことが電気記録で見られるでしょう。個々の運動反応についての直接研究によると、1秒間につき10回の筋収縮は、なめらかに維持している収縮とは違って、小刻みに変化し、波状に動きます。このように、二頭筋の全体としてはなめらかな運動ユニットと活性化する神経細胞の発火活動に《ずれ》が生じた結果として説明がつきます。さまざまな個々の運動ユニットにおける波状の収縮は、こうして時間的にオーバーラップします。」(後略)
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第3章 無意識的/意識的な精神機能,岩波書店(2005),pp.131-134,下條信輔(訳))
(索引:)

マインド・タイム 脳と意識の時間


(出典:wikipedia
ベンジャミン・リベット(1916-2007)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
 私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)

ベンジャミン・リベット(1916-2007)
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